第三十四話 梅雨の少女とさざなみ寮
夢を見ている。身体を動かすことはできない。まるで映画を見るようにある光景を第三者視点で眺めている。
遠い昔の夢、体感的には二十五年くらい前になるのだろうか? 浅野陽一になる前、もう名前も忘れてしまった。顔を見てもそういえばこんな顔してたなくらいしか思わない。
……ただ髪だけは気になる。側面部は黒髪軍が健在、頂上部は側面からの援軍によりどうにか戦線を保っていた。おでこの辺りは全軍撤退しそうな勢いだ。以前の俺と良い勝負である。
俺は会社にいる。日はとっくに落ちて夜になり、蛍光灯の明かりがまぶしいくらい。広いフロアにたくさんの机が並びスーツを着た人たちが書類を書いたり電話をしたりパソコンに向かいそれぞれ仕事をしているが、ぼつぼつ席を立ち始め帰り支度をしている。どうやら仕事の終わりが近づいているらしい。俺はその中をゆっくりと歩き、机で書類とにらめっこしている女性に話しかける。
「すいません。明日休みます。弟の四十九日なので、頼まれてた書類ここに置いときますね」
ああそうか! 記憶が繋がる。木曜くらいだったと思う。俺は義理の母がちょうど弟の四十九日だから帰ってこいと迫られ、しぶしぶながらも了承し周囲に詫びながら急遽有給を取った。そして、あの人と最後に会話したときのことだ。
「ありがと。ああ、そうだった。土曜はあの子の誕生日だから遅れないでね。に~に~がいないと始まらないんだから」
あの人の顔と声は今でも鮮明に思い出すことができる。本当に意味で人を好きになったのはこれが最初だと思う。それまでは年上でまさか既婚子持ちを好きなるとは思いもしなかった。夢の中の俺は楽しげに返事をする。
「わかってます、もうプレゼントは買ってあるんですよ。それにしてもあのババア平日なのに呼びつけやがって、まあいいか。気落ちした奴の顔を楽しむことにしますよ」
あの誕生日プレゼントせっかく用意したのに渡すことできなかったな。もしかしたら気の利いた誰かが渡してくれたかもしれないし、俺の死後にあの人が入って見つけてくれたかもしれない。そう信じよう。
待てよ?
そうなると俺のDVDコレクションが目に入るかもしれない。人妻、上司、オフィスレディモノはそれなりに揃えたから、ちょっと見られるのはやだな~
くだらない考えながらも夢は自動的に進行する。あの人は人の不幸を喜ぶ嫌な奴になってる俺を言葉を聞いて、少し怒ったような表情になる。
「ダメよ。そんなふうに言ったら、大事な子供が死んだ悲しみはなによりも深いものよ。きっと想像を絶するものがあると思うの。迂闊な言葉がなにかの拍子に恨みや怒りに変わるかもしれないわ。そうなったら何をするかわからないわよ 」
「あっ、そういえばあのババア、葬儀の席で笑ってた俺のこと睨らんでやがったんですよ。イツキが死んだのは俺のせいじゃねえーつうの。 ……どうかしたんですか?」
あの人は急に真剣な表情になる。さっきまでは出来の悪い弟を叱るような雰囲気が仕事で重大なミスをしたときのようなピリピリしたものに変わった。
「本当に大丈夫? 」
「えっ!? 多分。だって睨んでたのはそのときだけで、後は気持ち悪いくらいすり寄ってきましたよ。今までごめんさないとか私がバカだった。これからは親子仲良くしましょうとか、正直吐き気がしましたよ。きっとこれから一人だし老後の面倒とか見させたいんでしょうね」
「それならいいけど……」
あの人はまだ難しい顔をしている。まだ何かいいたそうな感じだったが、上手く言葉にできないようだ。思えばあのときから不穏な兆候を感じ取っていたのかもしれない。
「じゃあ帰ります。土曜日に」
そう言って夢の中の俺は立ち去る。準備を急がなければならなかったし、このなんとも言えない空気から逃れたかったんだと思う。
「あっ! ちょっと待って! 」
あの人は俺の追いかけて、耳元で何かを囁く。残念ながら聞き取る前に夢は途切れた。これがあの人の言葉を聞いた最後だったからなんとか思いだそうとするが、どうも上手くいかない。
最後なんて言ったのかな?
場面は変わり、俺は暗い部屋で寝ている。なぜか手足は動けないように縛ってあるのにぐっすり眠っていて起きる気配はない。女が近づいて来た。表情は暗い。のろりのろりと近づいてくる。手には包丁を持っている。
ああ、まずいな。
嫌な予感しかしない。よりにもよってこの夢か。せっかく懐かしくて良い夢見てたのに最悪の悪夢が待っていた。このあと俺は体を縛られたままあの包丁で一晩かけて三枚に下ろされる。夜が明ける頃には丸焼きだ。
勘弁してほしいよ。
まあ、とりあえずポップコーンとコーラないけど見学するか。
この夢は何度も見たことがある。子供の頃はわりとはっきりしないあいまい夢だったけれど、浅野陽一が20歳とき母親から包丁で刺されから鮮明に見るようになった。最初の頃は凹んで数ヶ月単位で鬱気味だったこともあったが、あまりにも何度も見るので、だんだん刺激も薄れ自分主演のスプラッタ映画を何十回を見せられているようで、飽きてきた。そうして数年を経てようやく立ち直ることができたといえる。
女は包丁を逆手に構え、最初の一撃を左の小指に突き刺す。
すると見ている俺にも小指を刺されたような痛みが走る。
「あだだだだだだだだだ 」
痛いじゃねーか。今日の夢はなんだかリアリティがあるなぁ。痛みがわりきつい。それに場所が自宅じゃなくてどこか別の場所らしい。まあ夢ってその辺が適当だよな。これまでの夢は場所がはっきりしてなかったから新鮮ではある。う~ん、臨場感のある映画ですな~ どうせならエロいのがいいんだけど、まあいいか。見たい夢ってなかなかみれないもんだし、
こうしている間にも拷問は続く。包丁だけでよくやるよほんと。痛い痛いそこはだめぇ。
一番恐ろしかったのは憎悪に歪み、愉悦にひたる奴の顔だ。延々と繰り返される呪詛。俺は恐怖に震えるだけで、何もできなかった。
簡単には殺さないとじわじわと肉体的を苦痛を味わうことになる。ご丁寧に失血死しないように手当までしてくれるからありがたい話だ。できたのはせめてこの早く苦痛が終わるように、早く殺してくれと哀願することだけだった。そういうたびに奴の顔は本当にうれしそうに笑うのだ。
嫌な顔だ。どうしてそんなことする? 俺が何をした? やめろやめろって、ホント痛いんだって、好きじゃなかったかもしれないけど、二十年近く一緒に暮らしてきた親子だろう? 少しは情くらいあってもいいだろ。
そんな俺におかまいなしに血で染まった包丁は俺の身体を刻んでいくあのときの痛みと恐怖が再び脳髄を焼き付く。包丁が振り下ろされるたびに同じような痛みが走る。肉体的ものというよりは心を引き裂かれるような痛みだ。
「ぐっっ! うう、う~ 」
不快感が強くなってきた。くだらないことを考えて思考を逸らそうとしているがだんだん余裕が無くなってきた。
奴の血に染まり愉悦に浸る表情がアップされる。あれは人間の顔じゃない。鬼だ。奴は補食者で俺は食べられる側立場は絶対的だった。
……ちょっといいかげんにしてくんないかな? ホラー映画で臨場感を出すためにドキメンタリータッチにすることはよくあるけど、演出過剰じゃね?
これは過去のこと。夢だ。そんなことは承知しているが心に感じている痛みは信じられないほど現実感があった。シンクロ率なら400パーセント越えてます。今までと見た夢と違ってあのとき感じた痛みと苦しみのフィードバックがきつい。過去に遡ってもう一度体験させられているような本当に夢かこれは?
(ひどいことするわね。憎いでしょ)
「誰だ? ああ、確かに憎い。でも、あれだけ派手に家で火事までやれば今頃警察に捕まっているさ」
(本当に? )
義母の声はこちらをあざ笑うかのように聞いてきた。
(本当に? )
今度は見てる俺に視線を合わせてのぞき込むようにいやらしく笑うと、もう一度確認するように聞いてきた。
「……うるさいな。黙れよ」
自分でも驚くくらい嫌悪感丸だしの唸るような低い声が出た。いきなり映画の前の人物に話しかけられてような嫌な感じだ。俺は恐れていた。次の一言で俺の中の決定的な何かが変わってしまう予感があった。
(死んだのにどうしてわかるの? あなたが殺されたのは実家ではないでしょ? これはただの夢ではないわ。あなたとの記憶を辿っているの。ふふふっ 警察はちゃんと捜査したのかしら? そもそもあなたの死体って見つかったの? )
くぷッとした音が聞こえた。
何か刃物のようなものが胸に突き刺さる。それは俺の精神の心臓を捉え、ずっと蓋をしてた黒くて不快なものが溢れださせる。
「うるさい! うるさい!」
俺はわめくように叫ぶと目をつぶって耳を塞ぐ。聞きたくない。もう終わったことだ。いまさらどうしようもない。まだ何か言っているがもう聞こえない。聞こえないったら聞こえない。
この言葉に耳を傾けては駄目だ。考えたら駄目だ。心を寄せては駄目だ。俺が変わってしまう。何か良くないものに飲み込まれてしまう。
(ジークフリードなんとかしろ! )
俺は藁にもすがる勢いで、最も頼りたくない相手呼ぶ。すると悲しげな奴の返事が返ってきた。
(無駄だ。もうおまえは認識してしまった。ずっと蓋をしてきたもの、誤魔化し続けていたことに、殺されて発見されないまま行方不明になっている可能性に気づいた。その可能性が一番高く決して果たすことのできない復讐に苦しむことになると)
(ああ、憎いよ。憎いよ。アイツを同じ目に合わせてやらないと気がすまない。でもここにはアイツはいない。それが、それが…)
後は言葉にならない。俺のこのどうしようのない感情をぶつける相手はこの世に存在しないのだ。苦しい。苦しい。
(そう居ない。だから自分自身でその苦しみに折り合いをつけるしかないのだ。俺とおまえは一心同体。おまえが心から望まない限り私には何もできない。今の状況はおまえが招いていることなのだ。一度は乗り越えただろうそのやり方を思い出せ! )
悔しいが冷静な分だけ奴に理がある。
どうする?
どうすればいい?
昔を思い出し必死に考える。その結果ひとつの方法にたどり着く。
俺は目を閉じて深呼吸して、気持ちを落ち着け、右手に全意識を傾ける。右手にすべての力を集中すると燃えるように熱くたぎり封印の刻印が刻まれる
……ような気がする。
「静まれ。俺の中の復讐の獣よ。今は目覚めるときではない。俺の右手で永久に眠るよい。そして、俺が死ぬるとき共に逝こうぞ」
(ふふふっ、それでいいのだ。やればできるじゃないか)
SAN値はものすごい勢いで下がってるけどな。
俺がやったのはもてあます感情を獣に見立て、右手に封印するという中二的な発想を盛り込むことで形を与え感情を昇華する方法だ。ほど良く恥ずかしさもブレンドされている。元々はアトランティスの最終戦士物語で無残な死を少しでもカッコ良くして、過去を乗り越えるために編み出した心の整理方法のひとつだ。
だからここでの俺の考え方はこうだ。右手に復讐の獣が封印されている俺カッコ良いである。もてあます感情も右手に封じられた復讐の獣が暴れているからでそれを必死でこらえる孤高の戦士俺カッコ良い。暗い過去も物語を引き立てるスパイスで、愛する人とも二度と会えない報われない想いに浸る俺カッコ良い。カッコ良いったら、カッコ良い。カッコ良いだよっ!!
一種の自己暗示、発想の転換である。欠点は気をつけてないと現実でもやってしまうので一般人相手ではドン引きされてしまい友達無くすから要注意だ。
虚勢でひどく脆いことは理解しているが、俺は人格者でも聖人君主でもない、こうでもしないと現実とは向き合えなかった。
ふう。ようやく右手の封印が収まった。しかし、しばらくは実生活で右手の封印を意識しなければならないだろう。まあそこはいいか。希ちゃんだったら可愛いものだよな。
どのくらい時間が経ったのだろう。様子を見る。目の前の悪夢はまだ続いてはいたが先ほどよりはたいぶ落ち着いて見れるようになった。
よし、大丈夫。
(ちっ、持ち直したみたいね。まあいい)
義母の悔しそうな声が聞こえて少しだけ胸がすっとした。場面は変わり、奴は包丁を投げ捨て馬乗りになり、俺の首を絞める。
あれ?
こんな場面あったかな。この後は丸焼きコースだったはず、それに夢なのに首の圧迫感にリアリティがある。
(邪魔が入ったようね。せっかく憎悪の種が芽吹いたのに、ここに侵入してくるなんて何者? )
こっちはそれどころじゃない。
ぐっ!
本当に息が苦しくなってきた。夢といえ洒落にならん。さっきよりよほどリアリティがある。俺は全力で暴れるが金縛りにかかったように動けない。よく見ると奴の姿が幼い少女の姿に変わっている。さらに室内のはずなのに天井からは雨が布団の下から水が湧きだし濡れた不快感を強くしていく。
(私と同類ね。いいわ。すごくいい)
女の子は年は十歳にいかないくらい。おかっぱくらいの髪短い子で、表情は霧がかかったようにぼやけて歪んでよくわからない。上着に目立つ色の合羽を着て、ずぶ濡れでだった。中の服はかつて白かったであろう服は茶色くくすんでボロボロだ。
「ママを返せ」
強烈な怨念の感情を向けられ、たじろぐ。首の圧力はますます強くなり骨が軋むような音を立てる。ひゅーひゅーと奇妙な声が出てしまう。
最後に骨が砕けるような音を聞きながら、
ばっと目が覚ます。
ゲホゲホとせきこむ。
視線を動かすといつもの私の部屋だ。外はまだ暗く。どしゃぶりの雨音が聞こえてくる。今の時期は梅雨始まりだったな。フェイトちゃんを見送ってから数日しか経っていない。
わかってたけど夢か。いやなもの見た。気分悪い。
最初のなつかしい夢はともかく稀にみる悪夢だった。転生を含めた人生の最悪の場面に、雨の中幼女に首を絞められるわけがわからない夢。脳みそ使いすぎてしんどい。
それにしても俺は幼女に恨まれる覚えなんかない。
聞こえてきた謎の声。どこかで聞いた覚えがある。
首を絞められた感触は今までそうされていたかのように生々しく残っていた。
まだ暑くなる前の梅雨時というのに全身は汗びっしょりである。水の腐ったような不快な匂いも漂っている。布団には今でも濡れた……
!?
まさか! 私はおそるおそる布団に手を入れて、下腹部に触れる。手にはしっとりとした感覚あった。
のおおおおおおおおおおおおおお。
この年でお漏らしとは、恥ずかしすぎる。幸いカナコと希ちゃんは寝ている。急がなければ、
(二時か。起こしてしまうけど仕方ない)
私は立ち上がると恥を忍んでおかーさんのところに向かう。すると部屋の電気はついていて、おかーさんを起こす必要がなくてほっとした。しかし、最近は朝も早いのにまだ起きていて大丈夫かな? 粗相をしたこと伝えることを思いだし、恥ずかしさをこらえてたどたどしく言葉する。
「怖い夢見ちゃって、その…… お布団が」
突然の訪問に驚いていたおかーさんだったが、話を聞くうちおかーさんは表情は柔らかいものになり。
「みーちゃん、布団はおかーさんがやっておくから、シャワー浴びなさい。汗もすごいわよ」
と優しく声をかけてくれた。包まれるような母性に幸福を感じるとともに申し訳なさと恥ずかしさでくらくらしてきた。
おかーさん。その優しさが今は痛いです。
「うん。ごめんなさい」
「いいのよ。私もみーちゃんくらいのときにした覚えがあるから、あら!? 首どうしたの? 痣になっているわ」
??
服を脱いで浴室に入る。鏡を見ると首もとが赤くなっていたよく見ると小さな手型のような痣が残っていた。
こんな傷いつのまにできたんだろ?
ふと夢のことがよぎるが首を振る。考えすぎだ。
熱めのシャワーで気分を落ち着かせる。今のところ希ちゃんが外に出ることはほとんどない。日常のあらゆることは今のところ俺の役割である。早いとこ復帰してもらわないとな。希ちゃんから生まれただけあって俺自身は違和感はそんなに感じないのだが、前より強くなった男としての記憶が少しばかり落ち着かない気持ちにさせる。前に一緒に温泉に入ったときとは話が違う。
希ちゃんくらいの子ならまだ問題ないけど、エイミィさんやリンディさんクラスになるとさすがにやばい。俺の股間のバルムンクが大変なことになる。この間の件で実感したことだ。男の魂はいろいろ欲求不満を抱えている。発散するにしても体の構造が違うし、ほかの手段もないから困ったものだ。
少々よけいなことを考えながら体を洗っていく。髪は一度洗ったし、時間かかるからやめておこう。
(……てやる)
何か声が聞こえる。シャワーの音でよくわからなかった。カナコが起きたのかもしれない。
(カナコ起きたのか? )
……
返事がない。気のせいか?
(コ……ヤル)
間違いない。今度は頭の中じゃない。鼓膜に直接響いた。
後
ろ
に
ナ
ニ
カ
が
い
る
私は浴槽を背中にして目の前には浴室に備え付けの鏡がある。曇っていてよく見えないが、方向的には浴槽が写っているはずだ。
鏡の中の黒い影がゆらりと動いた。それを感じた瞬間全身に氷水でもかけられたような寒気が走る。それは未知のモノに対する本能的な反応だ。
おいおいまだ夢の中か?
こんなとき振り返るのは御法度だけど、そうせざるえないよなぁ。
私は覚悟を決めて浴槽の方を振り向く。
……
私の目の前には
なんてことはない水を張った浴槽があるだけだった。残り湯のせいか薄く黒ずみ濁っている。
なんだよ! 脅かしやがって、きっとさっきの夢と痣のせいで神経質になっていたようだ。
柳の下にはなんとやらってことだろう。
私はほっとひと安心すると浴室を出ようとするが、ふとあることに気づく。
なんで水が張ったままなんだ? それにやけに濁っていたようにも、再び浴槽に目を向けると浴槽の水は先ほどよりドス黒く濁っていた。
なんだかわからないが、まずいと思った瞬間
(コロしてやるううううううう)
叫ぶような声と共に浴室の電気が消えて、水の跳ねる音が響き、何か強い力で浴槽に引きずり込まれた。
ゴボゴボと音を立てながら、体をバタバタさせてもがく。
ちょ、ちょっとこれはやばい! 視界を奪われ不意を突かれて、頭が混乱する。鼻と口に濁った水が流れ込んでくる。その不快感としびれる痛みで体を暴れさせるが頭を何か万力のようなもので押さえつけられてびくともしない。
誰かが頭掴んで押さえつけてる。
(きゃああああああああああああああああ)
(待って希! 封印が)
(ふふふっ こんなにうまく行くなんて)
これは希ちゃんの声か? カナコも起きたようだ。誰か別の女の声がする。 あっちも気になるがこれはマジで死ぬ。
冷静にならないと、私は両手を合わせて魔力を展開するとカミノチカラを発動させる。
すなわち「飲み干せ」
浴槽の水は量は見た目だけの喫茶店氷たっぷりぼったくりジュースをストローで飲みきるようにあっという間に吸い取ってしまった。
ふう助かった。
なんだったんだ一体。浴槽の明かりは消えたままで、周囲の様子は暗くてわからない。しかし、明らかに何者かによって浴槽に引きずり込まれ、押さえつけられたのは間違いない。
(陽一。何があったの? )
(わかんね)
(今こっちは水の封印が解かれたわ。一体なにしでかしたのよ! )
(封印って、こんなところで話してて大丈夫なのかよ)
(バーチャプレシアが戦ってる。夢からできたものなのに強いわね。あっ! 倒した。いや逃げた? どういうつもりかしら? 希に寄生している以上離れると消えるしかないのに)
(強えなぁ。おい)
(しかも素手よ。流れるような体の動き、安定した軸と腰。地面を大槌で打つような足の踏み込み。鋭い打撃技。たった数日でこのレベル、何者よ彼女。確かにフェイトを説得するために記憶の本を組み込んで会話機能を強化したけど、こんな設計はしていないわ。プレシアというよりは私のプログラムに近いはずなのに)
謎の強さを見せるバーチャプレシア。できたときはただの人形に過ぎなかったのにどこまで強くなるんだろう。
「カナコもわからないなんてどういう存在なんだ。母は強しなのかね? 」
(くだらないこと言ってないで、動きなさい)
現実へ目を向ける。こっちは浴室は電気は落ちたまま、私は濁って冷たい水に浸かって気色悪い。この水粘っこくてかすかに腐敗臭がする。我慢しないで、その場で嘔吐する。胃に刺すような痛みを感じるがこんな水を体にいれておくよりよほどいい。ついでに髪の毛に飲み込ませた水を排水しておく。
とっさとはいえ、よくできたなこんな真似。うまく活用すれば四次元ポケットみたいに使えるかもしれない。
(吐いたの? こっちは片づいたわ)
(ああ、汚い水を結構飲んだし、後で話すよ)
う~きもぢ悪い。
いつまでもこうしてはいられない。体は冷えているが電気も消えてよく見えない。このままいるのは危険な気がした。私は風呂出て着替える。髪の毛は超振動させて乾かす。これ帯電するし、耳障りな音が出るからからあまり使いたくないけど、ここからさっさと離れたい。
これ以上心配させたくないのでおかーさんには風呂で吐いたことは黙っていることにした。
部屋に戻ろうとするとおかーさんが廊下で待っていて、部屋には入らないでと言われた。水浸しだそうだ。幸い床とベットだけで教科書とかは無事ですでに運んだくれたみたいだ。おかーさんによると天井から雨漏りがしていたらしい。
雨漏りってそういうものなのか? 普通は水滴がポツポツ落ちてきて気づくものじゃないの。バケツで応急処置とかするもんだよな。それがなんでいきなり床一面が水浸しなんだ。こんなの絶対おかしいよ。
なんか疲れた。話は明日にしよう。カナコに告げると私はおかーさんの部屋に一緒に向かう。もちろん一緒に寝るためだ。言い出したときはさっきと同じくらい恥ずかしい気持ちになったけれど、いくらなんでもこれだけ怖い体験をしていて一人で寝るなんて無理だ。カナコにマザコンとからかわれたが、背に腹は代えられない。
「おかーさん、夢の中で女の子のお化けがいじめるから助けて」
おかーさんはにっこり笑っておいでと言ってくれた。
いつまにか雨はもうやんでいた。おかーさんは暖かくて良い匂いがした。心地よくて安心できる。ゆっくり眠れそうだ。
悪い夢は見なかった。
その日からあの少女が現れるようになった。彼女は決まって私がひとりでいる時を狙って、水を操り私を殺そうとするのだ。家の中では風呂とかトイレは特に危険だ。外でも雨の強い日は襲ってくる。一度川に引きずり込まれそうになったときは危なかった。不思議なことに他の生徒がたくさんいる学校は割と安全で、授業時間が一番安心できた。
無論こちらには魔法という攻撃手段があるので試してみた。しかし、やっかいなことにあの子には手で触れることはできないうえに、一度魔法を打ち込んでも突き抜けて全く効果がない。影みたいな存在だ。そのくせあっちは魔法的な防御など全く無視して攻撃してくる。
そんな日が一週間も続いている。私の気分に同調したかのように今年の梅雨は絶好調で今日も雨がやむ気配はない。
少女はみんなには見えないらしい。アリサちゃんだけは不思議そうに首をかしげていたけど、もしかしてみえているのか? 他にも他人のいるときには襲って来ないようだ。最近はひとりにならないように風呂とトイレもおかーさんと一緒に入り寝るようになり、おかーさんは少し元気なかったみたいだけど最近よく笑うようになった。
問題がないわけではない。体は女の子だけど、心は男。まして人妻属まである。裸を見て、欲情してしまう。
死ねばいいのに俺。
もう死んでるけど罪悪感でマジでいたたまれない。自分の性癖をこのときばかりは呪った。
こんなときは自分は女と言い聞かせ、欲望はこんな体では吐き出すこともできないので、内に押さえ込むようにしてようやく平常心で入浴することができる。最近ため込みすぎてムラムラしているが、あの少女は隙あらば容赦なく襲ってくるので他に方法がなかった。
最近は全身からピンク色のオーラを放つようになっている。
こんな私にカナコは
(マザコンがとどまることを知らないわね)
と言ってくる。
(やかましい。こっちは命がかかっているんだ。おまえだって見ただろ? )
(確かにね。魔法や物理攻撃が効かないんじゃ、正直手の施しようがないわ。私のちからでも場所の特定できないのよ。微弱な魔力を感じることはできる。あらゆるところにいるというか集まってくるというか。強いて言うなら水の少ない場所だと気配が弱いみたい。おそらく魔力と魂を水に溶かして操作している。しかも支配力が並じゃない。ざっとみて100メートルくらいは拡大してる。それからクロイオンナの分身が手を貸してるわね。きっとあの水の子の強い感情に惹かれたんだわ)
今は梅雨だ水なんてそこらじゅうにある。地の利では完全に不利だった。カナコもいろいろと考えて実践しているようだが、効果は出ていない。一度は儀式魔法でエリアごと吹き飛ばそうとしたけど、クロイオンナの入れ知恵で逃げられてしまった。なのはちゃんはお化け苦手みたいだから頼るのは気が引ける。打つ手がなくなった。
仕方ない。この世界いるかどうかわからないけど、こういう事態に対処できそうな人たちに心当たりがある。
ネットを開いて、特定のキーワードを検索し、海鳴市のある施設を探す。場所は海鳴最大の人外魔境さざなみ寮、退魔師になっているかもしれない槙原耕一さんと巫女さんにして退魔士の見習い神咲那美さんと妖狐久遠、今いるかわからない神咲薫さんに霊剣十六夜さんがいる場所へ向かうことになった。平日なので時間が限られている。急がねば。
万が一のときのため持たされているタクシー券を見つめる。今日は出かける前にオムレツをリクエストしたときのおかーさん笑顔を思い出すとこんなことに使っていいものかと一瞬考えてしまったが、命がかかっているから許してくれると勝手に解釈して使うことにした。
道すがらカナコと話す。
(退魔師とか超能力者とか容易には信じられないわね)
(魔法使いに宇宙人もいるんだから、そう珍しくないだろ。)
(異世界の転生者までいるものね)
それは俺のことですね。
(退魔師って、わりと知られた職業らしいぞ。祓い師とか法力僧とか違いはいまいちわからないけど、警察とも協力関係にあるみたいだし、事情通の話だとネットに乗っていたり、テレビに出るような奴はほとんど偽物で、本物は表には出てこないそうだぞ。九割くらいは偽物だから多すぎてどれが本物かわからないって言ってた。でも視ることができる人間はそれなりにいるって話だから、そういう奴が退魔師を自称してるケースがほとんどみたいだな)
(それじゃなんであなたは本物がわかるのよ? )
(それは知っているからな。この世界の視点はリリカルなのはだけじゃないってことさ。まあ実際会うまでは確信できないけど、会うことができたらこの人たち以上の適任者はいないよ)
それなりの根拠はある。フィアッセ・クリステラ、椎名ゆうひ、マンガ家草薙まゆこ、神咲一刀流、大阪親日生命プロバスケット岡本みなみなどのキーワードは見事に検索に引っかかったのだ。
さすがにHGSや劉機関といった機密性の高い情報やあまり有名でない個人名は検索にかからなかったが、これだけ揃えば確認するだけの価値はあるだろう。
(気配はないわ。今なら一人でも大丈夫)
(う~ん。できれば憑いていた方が話は早かったかも)
女子寮か。なんか興奮するな。男が入ることを許されない秘密の花園みたいで、ここは割とオープンみたいだけど。
少々みなぎって参りました。
いかんいかん最近ため込みすぎて、思考がエロい方面に向かう傾向にある。しかも、解消されることがないので、溜まっていくばかりで、ピンク色のオーラは出てるし、股間のタンクが決壊しそうだった。
股間が疼く。
いかん。封印が解けかけている。
だめだ。一度破れたら俺は自分の中の獣を押さえきれない。ナニをしなければ近い将来奴に心を飲み込まれ本能のままに暴れ回るケダモノとなってしまうだろう。それを鎮めることができるのは封印の巫女のみ。しかし、私の周りの巫女たちでは年若くお役目を果たせない。数年経てば立派に勤めてくれるだろうが、時間がない。
タクシーは止まり目的地についたようだ。
さざなみ寮はあそこか?
(カナコなんかわかるか?)
(ええ、魔力とはちょっと違うけど、それらしき気配が5つある。一カ所に集まっているみたいね。建物じゃない。外だわ)
どうしたのかな?
外の門をくぐる。すると庭先に背の高い青い髪の女性が一人、少し小柄な巫女服を着た茶髪の女性、大柄な男性、そして、ふわふわ浮いて白い着物を着た金髪の女性と同じように黒い着物着た男の娘が見える。
おお。もしかしてオールスター勢ぞろいではないのかな? 御架月までいるじゃないか。これで勝つる。おもわず嬉しくなってしまう。これだけの戦力があれば余裕で勝てそうだ。
「こんにちわあ? 」
えっ? なんで俺に刀向けてるの。日本屈指の退魔師と日本に数本しかない霊剣のみなさん
「なんて、なんて邪な気配」
那美さんは厳しい表情でこちらを見ている。
待ってください那美さん。あなた霊と対話して、納得して帰ってもらう鎮魂術の使い手じゃないの? なんでそんな殺る気まんまんなんですか。心優しくて踏み込めないあなたが助走つけて奥義ぶちかます勢いですよ。
「俺の股間を鎮魂して昇天させてもらおうか。ぎゃあああ。思わず本音が出てしまったあ」
(セクハラしてどうするのよ? )
女性陣が顔しかめる。俺は混乱してついセクハラ発言をしてしまった。
「やっぱり悪霊? 生前男性的な欲望が満たされないまま死んだ色情霊? 」
「そうだね」とみなさん声を揃える。
「ち、ちょっと待ってください。さっきのは冗談です。話を聞いてください!! 」
しょぱなから色情霊と間違われて祓われそうになったものの、なんとか話し合いの場を作る。みなさん話のわかる方々でおおむね同意は得られたが、霊剣御架月には最後まで疑われ、女性のたくさんいるなか俺の性癖について告白することになり、羞恥プレイを強要された。
ちくしょう。御架月、この辱めは忘れんぞ。途中からちょっと気持ちよくなってきたのは事実だけど、元はシスコン怨霊刀のくせに今度仕返ししてやるからな。
それはさておき、こちらの事情について話す前に俺たちの存在に興味を持たれた。
「残留思念を吸収して、魂を再生し、内に宿らせるちからですか。とても希少な能力ですが、大変危険ですね」
「そうだね。薫ちゃん。今の希ちゃんは生命エネルギーがすごく小さいから悪霊に負けてしまうかもしれない」
「希ちゃんはご飯ちゃんと食べてるか? そんなにやせていると心配だ」
「でも、カナコ様や陽一様のような強力な霊と術によって守られているみたいです」
「コイツは悪霊じゃないのか? 」
みなさん希ちゃんを心配してくれているが、御架月だけ余計なことを言ってる。
ところで目当てはあの少女の霊をなんとかしてもらうことだったが、退魔師や霊刀の視点から俺たちのことについて意見をもらうのもいいかもしれない。神咲薫さんや十六夜さんいる機会はめったになさそうだし。
「あの~ 私たちも自分たちの状況についてはっきりわかっていないところがあるので、よろしければ事情を話します。あなたがたの意見をいただけないでしょうか」
こうして高名な退魔師による雨宮希と夢の世界についての討論が行われた。
それによると退魔師的な見解では希ちゃんは超霊媒体質で霊を取り込みやすい体質らしい。カナコの注釈を加えると以前の希ちゃんの夢の世界の人形の棚は無差別に取り込んだ人形であふれかえっていたという。さらにその中でも最も凶暴な希ちゃんのおかーさんを再生させたことでクロイオンナは強化され事態は悪い方向に流れた。結局カナコがすべて破壊したが残骸は消えることなく残り五行封印することになった。
解決策として、俺たちがやっている精神面のサポートはもとより悪い霊つけ込まれないように生命力を高め容姿を変える必要があると言われた。具体的にはご飯を食べて体力をつけることで、たいがい霊は生命力の輝きに恐れをなして逃げていくそうだ。あの女の子が人のたくさんいる前に現れないのはその辺が理由らしい。しかし、心と体が弱っていると生命の輝きが弱くなり霊障や悪霊にいいようにされてしまう。これには納得で元々ヴォルケンリッターと戦うために体力作りも考えていたので、新しいメリットがわかるのは良いことだった。
それから、長い髪の毛は霊媒になりやすいので切った方が良いと言われたが、これには断固として反対した。美しい髪を切るなんてとんでもない。あまりみせるつもりはなかったが説得するためにカミノチカラを見せると薫さんや那美さんは難しい表情をする。
「今のちからは魔力? 」
「うん、使う人は初めてみたけど」
「霊力と魔力って違うの? 」
説明によれば、発する器官や作用しやすい事象など細かい違いはあるものの非常によく似た力で区別はしにくいらしい。また、魔力を持っている人間は霊力や気功を使う人数より少なく、その数少ない魔力の持ち主は霊力を扱う退魔師や祓い師、法力僧と同じような仕事をしているそうだ。日本では霊力とひとくくりにされていて組織化されておらず、中国を中心とした海外の国のほうが盛んだという話だ。昔はある地方の巨人と月を奉るふたつ一族が魔力を使うものをたちを束ねていたそうだが、戦後はとある理由で解体されてしまったらしい。そのため詳しいことを知るものはいないという話だ。
俺については魔力で再生された魂なわけだが、退魔師からみると少女に取り憑いた霊という扱いらしい。那美さんから真剣な顔で、
「成仏できるのでしたら、早めにすることをオススメします。陽一さんは肉体を持たない非常に不安定で揺らぎやすい存在です。少なからず未練や憎悪を抱えているようなのでそれらに傾いて悪霊となって心が囚われてしまったら戻れません。祟り落としは私たちでもほとんど成功したことがないんです。あなたの大事な人たちも傷つけてしまうかもしれません」
俺の中の醜いものを見透かされたようで心臓が飛び上がる。何か反論しようと考えたがそれより早く動いた奴がいた。
「冗談じゃない。部外者が勝手なこと言わないで、私たちには陽一が必要なの。成仏なんてさせない。もちろん悪霊にだってね」
カナコは強い口調で言い返す。
ありがとうカナコおまえが熱くなってくれたことでこっちは冷静になれたよ。おまえの気持ちには同感だが、向こうも悪気があるわけじゃないだろう。ただこの間の夢のことも考えるならばそういう可能性もあると俺は感じていた。もちろん成仏するなんて選択肢はない。
「カナコ落ちつけよ。別に今すぐどうこうって話じゃないだろ。俺だって離れるつもりはないぞ。すいません那美さん、コイツどうも頭に血が上りやすくて、それから、忠告はありがたいのですが、成仏する気はありません」
「そうですか」
残念そうに下を向く。悪いことしたな。事情は話せないけど半年後に大きな試練があるのだ俺だけドロップアウトするわけにはいかない。あれ!? そういえば那美さん俺だけに成仏勧めていたのは何でだ? カナコだって同じような存在なのでは?
「ねえ、那美さん、さっき俺に成仏するように勧めてたけど、カナコは違うのかい? 」
「え!? ああ、カナコちゃんは希ちゃんと一体化した存在自体が強力な守護霊みたいですから、いなくなってしまったら大変なんです」
「カナコ様はわたくしに近いのかもしれません」
守護霊か。なるほど新しい概念だな。十六夜さんに近いということはどんな意味があるのだろうか?
「カナコは希ちゃんの体を動かせる代わりに十六夜さんみたいに外に出られないけど、どうしてかな? 」
「希様にはカナコ様の魂がなんらかの方法で転写されているのでしょう。私もかつて死の間際に霊剣に魂を込められてここにいます。外に出られないのは希様と肉体に完全に同調して、内に眠る悪しき意志を封印するためでしょう。その意志は負の感情を糧にどこまでも成長し相手を呪い殺す念がこめられた存在です。カナコ様によって封印はされていますが、希様は悪しき感情に飲まれずよくぞここまで持つことができましたね」
「そうだね。悪霊を体内に完全に封印して、取り憑かれた人の体内で浄化させるなんて難しい。普通は悪しき感情に囚われてしまうことが多いから、そのふたつの封印の術式はどこのかな? ひとつは悪しき感情を吸収して浄化して、もうひとつは悪霊を封印するために陰陽五行になぞらえているけど、組み方が独特だからどこのか特定できるかもしれない」
「すいません。思い出したらでいいいので、どこのか教えてください」
こうして聞くとカナコのやり方は正しかったということができる。俺については自分の中で生まれた悪しきものは結局のところ自分でなんとかするしかないということなのだろう。五行封印も何かのヒントになるかもしれない。もうひとつの封印はアースラで見たあの針と鎖だろう。カナコも知らないってことは他の誰かが施した可能性が高い。ただ負の感情吸収するにしても、希ちゃんとクロイオンナの戦いを見る限り十分に機能してないのではないかと考えてしまう。どういう思想でこの封印を作ったのだろうか?
気がつくと夕方が近い。そろそろ帰らなければおかーさんが心配する時間だ。全然本命の話に入れなかった。まあいいか予想外の収穫はあったし、今日は雨もあがったみたいだし、明日また来よう。
「すいません。おかーさんが心配するのでそろそろ帰ります。また近いうちに日を改めて来てもいいですか? 」
「いつでもどうぞ。今度は他のみんなも紹介するよ」
耕一さんは包むような笑顔で言ってくれた。さすが既婚者でくせの多いさざなみ寮を束ねる男、貫禄が違う。
タクシーを呼んで家に帰ることにした。目的は果たせなかったが、ほんの三日の辛抱だ。悪霊除けの対策も聞いている。ファ○リースで匂いと除菌と悪霊もこれ一本でばっちりだ。ステマとかではなく、実際に効くらしい。確かにあの腐敗臭が悪霊を呼びやすい環境にあると言われれば納得である。
カナコは今は疲れて寝ている。新しい情報でいろいろ考えてたらしい。
今日は初めてさざなみ寮に行っていろいろ疲れた。玄関のドアを開けていつものように声を出す。
「ただいま~ 」
あれっ!? いつもある返事がない。前にもこんなことはあった。でも今日はちゃんと送り出してもらったし、夕食にオムレツをリクエストしたからおかーさんは張り切っていた。不審に思いながらもキッチンへ向かう。廊下から食欲をそそる油の匂いと何か炒める音がする。
なんだいるじゃん! おかーさんたまに耳に入らないことがあるからな~ キッチンの扉を開ける。
「ただいま~ ……………………おかーさん?」
思いもよらない光景に目の前が真っ白になる。理解が追いつかない。食材は散乱し、その中に百合子さんは倒れていた。白いエプロンと床は真っ赤に染まっている。赤い包丁が床に刺さり鈍い光を放っていた。
ドクンッと俺の中の何かが鼓動を打つ。それは遠く忘却の彼方へ追いやった忌まわしい記憶を呼び覚ますものだった。
周囲の景色がぐにゃりと歪み、耳ざわりな高周波のような音が頭に響 く。足もとがふらふらしてどう立っているのかわからない。
俺の意識はぷつんと途切れた。
目を覚ますと同じ世界に居た。目の前には赤く染まったモノが動く。もぞもぞと気持ち悪い。なんだアレは?
「いたたた。頭いたいわ。私、どうしたのかしら? ケチャップこぼしちゃった。ちょっと慌てすぎたかしら、あらっ!? みーちゃん、おかえりなさい」
おまえは何を言っているんだ? 化け物がおかーさんような声を出すなよ。その笑顔はやめるよ怖気がする。化け物は床に刺さったままの血に染まった包丁を手に取る。包丁は鈍く光り、俺の中の警報が鳴る。
「やめろ! 来るなあああ 」
今、わかった。その赤く染まったにやけた顔、義母が生まれ変わった俺を妬んでここまで追いかけてきたんだ! 一度殺しただけでは飽き足らなかったらしい。どこまで俺が憎いんだよ。
「ミーチャン、ドウシタノ」
しゃがれた声でよりにもよってその名前で呼ぶ。その呼び方で呼ぶんじゃねえ、私をそう呼んでいいのはおかーさんだけなんだよ。おまえみたいな化け物が言うなっ!
「来るなっ!! ババア、俺を殺しに来たんだな。わかってるぞ」
化け物は図星だったようで、びくりと動くと今度は包丁を置いて、ゆっくり近づいてくる。騙されないぞ。目の前の凶器は捨てたが、懐にまだ隠し持っているのを俺は知っている。
逃げなければ!
しかし、足がもつれて尻餅をつくとうまく立ち上がれない。腰が抜けてしまったようだ。絶望的な気持ちになる。なんとか足をバタつかせ後ずさるがうまく行かない。赤い化け物はゆっくりと近づいてくる。
駄目だ! 捕まる。俺はとっさに床に転がっていた皿を化け物の顔めがけて投げつける。皿は化け物の額に当たると大きく後ろにのけぞらせたてうめき声を上げる。
やった。当たった。
「ははっ、ざまあ見ろ。……えっ!? 」
「希ちゃん!! 」
俺はおかーさんの声で一瞬あっけに取られて固まる。のけぞった化け物は信じられないスピードで俺の前に来ると両手で抱えて自由を奪う。
「やめろ! 離せよババア」
化け物の締めつけるちからはますます強くなる。このまま抱きつぶすつもりらしい。ぬめりとした嫌悪感が全身を駆け巡る。俺は全力で暴れる。開いた手で顔面を何度も何度も殴るが化け物は一向にひるまない。
殺される。殺される。どうしてどうして顔を何度も殴っているのに!
(陽一どうしたの? )
カナコが目を覚ましたようで声をかけてくる。
(カナコ大変だ。俺たちは殺される)
(もう! 何が何だが、繋がるわよ。少しは落ち着きなさい)
そう言うと何か暖かいものが流れ込んでくる。カナコの感情だろうか? 切羽詰って混乱していた気持ちが落ち着いてくる。歪んだ景色が形をなし、世界は音とバランスの秩序を取り戻していく。
再び意識が途切れて、すぐに目を覚ます。
(あれっ!? カナコ、俺はどうしたんだ? )
確か家に帰ってきて、キッチンへのドアを開けたら赤いものが目に入り何が歪んだところまでは覚えている。そこから先は黒く塗りつぶしたかのように覚えてない。ただひどく寒く怖い思いをした感覚がある。
(正気に戻った? 繋がったからちゃんと把握してるわ。希と一緒ね。PTSDによるフラッシュバックよ。こっちはあなたの感情とも同調したから気分は最悪。いったい何があればここまで心が乱れるのか聞いてみたいわ)
(すまん。助かった)
周囲の状況を正しく認識する。感覚が正しく脳に伝わり世界を捉えていく。暖かい感触、息づかい、私を優しく呼ぶ声、そしてケチャップの香りだった。
私はケチャップまみれのおかーさんに抱きしめられている。どういう状況だろう? まだ足場が不安定なようで、ぐらぐらと揺れる。いいようのない恐怖で身体がガタガタ震える。その震えを感じ取るように腕の力が少しだけ強くなる。
「お、おかーさん」
おかーさんは慈しむような優しい目で囁く。
「大丈夫。ここにはあなたを傷付ける怖い人はいないわ。それでも怖かったら希ちゃんの大好きな人たちの顔を思い出して…… 」
どうしたんだろう? なんだかとても穏やかだ。こころなしか柔らかい風と後光が射しているように見える。正体不明の震えは不安や徐々に治まっていった。
(なあ、カナコ。百合子さんがなんだか違う人に見える。元々母性的なものが強かったけど、今はなんというか観音さまとか菩薩様のような雰囲気があるというか)
(気のせいでしょ。気に入らないわ。この間まで死にそうな顔してたのに、陰が取れている)
そんな見とれる俺にカナコは冷たく返す。
(今の百合子さんだったら、神々しすぎて一緒に風呂入っても欲情しないような気がするなぁ)
黙って見ている俺を優しく見つめる百合子さんはふいに近づきちょうど両耳の上のところに手を添えるとそのまま持ち上げた。
いだだだだだだだだだ
まさかこれは「菩薩掌」
痛いです。おかーさん。
おかーさんは少し怒ったような顔で私の顔をのぞき込む。
「コラッ どこ行ってたの! ちゃんと行き先くらいは連絡しなさい。心配するでしょ」
「ごめんなさい」
百合子さんは頭を撫でながら優しい目でゆっくりと話す。
「さあご飯、ご飯、今日はみーちゃんの好きなわかめずくしとオムレツよ」
おかーさんの顔をよく見ると額に赤いあざがあり少し出血していた。
「おかーさん、頭どうしたの? 」
私はおかーさんの額を指差して尋ねる。痛そうだな。
「あらっ!? 転んだときに打ったみたいね。ふふふっ、どうしましょ? しばらくは外を歩けないわね」
今気づいたような感じておどけるおかーさんに不思議と笑みがこぼれる。
(気に入らないわっッ!! )
頭にカナコの大声が響く。耳がキーンとした。何をそんなに怒っているんだよおまえは?
三日後、那美さんにみてもらったが、わずかな残滓があるだけで特に問題はなく、あれほど危険な目にあったにも関わらずあっさりと解決した。それから、例の五行封印については竹取物語を読めばわかると教えてくれた。
なぜ? かぐや姫?
その後あの少女は現れなかった。家の様子もどこか寒くて暗く腐臭のする雰囲気は消え去り、暖かさを取り戻していた。百合子さんも最近まで少し疲れていたようだったが、よく眠れているようでこの間は朝寝坊をしていた。以前のように優しく元気なおかーさんに戻ってうれしい限りだ。もっと食べられるようにしてほしいと言ったら、すごく張り切っていた。
体にまとわりつくような湿気に悩まされた梅雨は終わり、カラカラした暑い夏を迎えようとしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
雨宮希ちゃんと守護霊らしいカナコちゃん、不安定な霊の浅野陽一さんは家に帰った。最初は悪霊と勘違いしてしまったけれど、よくよく話してみたら害のない幽霊と大差なかった。しかし、決して間違いではないと思う。その心の中心には負の感情が渦巻いている。特定の誰かに対する深い憎しみと怒り、今は理性を保っているけれど、何かの拍子に囚われてしまえば誰かまわず害を及ぼす悪霊になってしまうじゃないかと心配してる。
カナコちゃんに封印された悪霊も弱くはなっているけれど、その底のない悪意と暗い感情は震えがくるほど恐ろしいものだった。この悪霊は ……違うあれは特定の誰かを狙うものだから怨霊だ。ただ希ちゃんだけを標的にあの子が苦しむことを喜びに心を殺すことを目的に動いている呪いのようなものだ。どうしてあんな子供に途方もない悪意を向けることができるのか想像することもできない。もしカナコちゃんがいなければ希ちゃんもきっと私たちが祓ってきた霊障や悪霊たちのようになり、まして希ちゃんは強い魔力の持ち主である。最悪の場合は呪いを振りまく悲しい存在が生まれたかもしれない。
たまたま薫ちゃんや十六夜がいてくれて本当に良かったと思う。私だけではわからないこともあったから心強かった。そういえば薫ちゃん忙しいはずなのに十六夜とここまで来るなんて珍しい。
「薫ちゃん、さざなみ寮に何か用事があったの? 」
「うん、耕一さんと那美に聞きたいことと頼みたいことがあって」
「どんなこと? 」
薫ちゃんはまっすぐこちらを向くと真剣な顔で聞いてきた。
「最近、高額の報酬で霊力のある人間を集めている団体がいる。霊障と悪霊もやってるらしい。那美や耕一さんのところに勧誘に来てない? 」
「えっ!? 来てないよ。でも薫ちゃん、霊障や悪霊祓いは霊力があっても簡単にはできないんじゃないの? 」
「そう、数を揃えても技能がないと難しいし、霊能者になるには長い時間がかかる。ただ見えるだけの人は多いけど祓う手段がないからいるだけで意味がない。噂だと破損して機能を失ったまま神社に奉られた霊剣を修復して、複製に成功したみたいだ」
「そんなことが可能なの? 」
薫ちゃんから昔聞いた話だと十六夜のような霊剣の作る技術や剣に人の魂宿すため呪法は失われたもので、十六夜に起動している霊剣は御架月のような例外はあるけどほとんどない。
「大人数でやる封式のように運用してるかもしれないけど詳しいことはわからん。問題は集めた霊力のある人間に違法まがいの投薬をして一時的に霊力を高めて使い捨てにしてることと評判のために私たちでも手に負えないところに手を出そうとしているみたいなんだ」
「それはそうだね。私たちの仕事はできる人の数はそんなに多くないし、同業者が増えること自体は悪いことじゃないだけど」
霊障も悪霊もその人の勘違いであることが非常に多い。だから、お金を払っておまじないや霊的グッズで心の安定を得ることは悪いことでないと思う。しかし、むやみに人が入るべきでないところに土足で上がりこむのはとても危険なことだ。
「戦時中に使われていた旧日本軍の研究所跡とか汚染がひどくて立ち入り禁止にしたはずなんだけど、土地の持ち主に依頼されて強引に浄化して、数年前に病院とか建てたみたいだし、こっちが言っても聞く持たない。あそこは祖母の頃に石上神宮の天羽々斬剣まで持ち出して、ようやく封印することができたところだから」
「ミズチだっけ? 退治されたのは」
「うん。ただの蛇だったものを人為的に人の怨念や悲しみを吸収させて強引に太らせて、本来は五百年くらいかけて育つものを強引に作り出した戦時中の負の遺産。人造竜、人に害をなす悪竜の一種、犠牲者も霊的事件では多いほうだよ」
話は変わり薫ちゃんの話だと、最近この近辺に例の団体が手を伸ばしてるそうだ。ここら辺を騒がせていた異常事象に注目したらしい。神咲の名前を出せば手出しされることはないけど、注意して欲しいということだった。
なぞの建物崩壊や空を飛ぶ少女の目撃情報。目玉を抜き取る幽霊少女の噂もある。結局その事件は私たちでも実態を掴むことはできなかった。一時は久遠のことも疑われたけれど、私と久遠には覚えがなく、幸いすぐに疑いは晴れた。ただ事件が始まる前の日に久遠が誰かに呼ばれていると落ちつかなかったり、何か大きな力のぶつかりを感じて怖がるということもあった。
ここで話は終わる。
私は三日後、雨宮希ちゃんの家を訪ねた。その家は確か以前悪霊がいた気配があった。しかし、綺麗に浄化されている。何があったのかはわからないけれど、もしかしたら同業者の誰かがやってくたのかもしれない。ただこれで終わりではない希ちゃんのことはみんな気にしてる。これからも見守っていこうと思う。
作者コメント
幽霊少女がどうなったかは外伝にて補完予定。