炎が天を焦がし、雷が地を割る。それは、まるで神話の光景。
一条の雷光に、密集して建っていたビルの上半分が、数本纏めて消し飛んだ。
一振りの火炎に、街の一区画が尽く焼き払われた。
たった二人の、だが尋常ならざる二人の化物の戦いは、最早災害の域に達していた。
鎌と剣がぶつかり、その余波が衝撃となって拡がる。周囲の建造物が全て倒壊し、一瞬で更地が出来上がる。
そんな、並の魔導師なら居るだけで致命打になりかねない戦場。そこから少し離れた所で、クロノは呆然と二人を見上げた。
「こんなにも……」
こんなにも、管理局の力とは小さな物だったのか。それを実感して。
管理局の力とは、即ち組織、数の力だ。優秀な魔導師に、優秀なサポート。それらを次元世界中から募り、大量に揃える。そうやって格世界の治安を維持するだけの力を、管理局は得た。
だが、その“力”を以ってしても、この化け物どもをどうにか出来る想像を、クロノは出来なかった。
例え数万の魔導師を引き連れても、そんな物はなんの役にも立たない。そう思わせてしまうほどに、今の二人は人の域を外れ過ぎていた。
再び雷と炎が激突して、結界が軋んだ。
『大将! ちいと不味いぞ!』
結界班の一つの取り纏めを任せていた隊員からの念話に、クロノはハッと自失から目覚める。自分は現場の責任者だ。当初の目的を果たすことが難しくなった今、部隊の損失を抑える事を第一に考えなければならない。
『……ジャック、問題か?』
『ああ問題だ。お嬢さん方が大暴れしてるせいで、結界、そろそろ限界だぞ』
『境界面に直撃が無いお蔭でもっていますが、流れ弾一つでアウトですね』
他の班長からも同様の報告が上がり、クロノの顔が青褪める。これだけの破壊力が結界無しに放出されれば、街にどれだけの被害が出るか想像もしたくない。ましてやここはビジネス街で、時間はまだ八時前、人も大勢残っている。
『確かに不味いな……ユーノ、なのはを連れて結界の端へ。結界の強化を頼む』
『あ……分かった!』
耳をつんざく轟音は、最早声では音が届かないほどに激しい。念話でユーノに用件を告げると、クロノは装備の調子を確認して、戦場の中心部を睨み付けた。
『ちょっとクロノ君? 何するつもり?』
エイミィの念話を聞きながら、クロノは暴風に向かって足を踏み出す。一歩進むごとに死の確率が上がっていくような錯覚に、冷や汗が止まらない。
『クロノ君!?』
『……仮面の男を確保する。状況が変わりそうなら教えてくれ』
フェイトとシグナム、二人の化物が激突する場所から、然程離れていないビルの足元。単独で行動していた仮面の男は、まだそこに気絶したまま置き去りにされている。
あの男、守護騎士に味方するどころか、リンカーコアの取り出しまで行ったのだ。闇の書に深い関わりの有る人間なのは間違いない。都合よく守護騎士の危機に現れるタイミングといい、もしかしたら今回の主の情報を知っている可能性すらある。危険を冒してでも、確保する価値はある。
破壊が巻き起こす暴風の中、ジリジリと前進しながら、クロノはリンディに直接その旨を伝える。
仮面の男に、そしてクロノにも、何時流れ弾が当たるとも限らない。何時までも悠長に通信をしている訳にもいかない。伝えるべき事は、ここで済ませておく。
『……分かりました』
『艦長!?』
『ただし、私が引けと言ったら、必ず引くこと』
『了解しました』
クロノもリンディも、二人とも分かっていた。シグナムのあの力が一過性のもので無いなら、どれだけの数を揃えようと、魔導師の部隊では太刀打ち出来ないであろう事を。
そしてあの騎士を止めるには、艦砲などの大威力の、非殺傷が利かない武器で仕留めるしかない事を。
しかも仮に倒せても、プログラム生命体であるシグナムは主が居る限り何度でも蘇ってしまう。守護騎士以外から主の情報を得られるなら、それが最もリスクが低い方法と言えるだろう。
だから、クロノは覚悟を決めた。
魔力で強化した足で、全力で地を蹴る。仮面の男が倒れている場所まで、およそ二百メートル。普段なら、数秒で到達する距離。だが、到達が果てしなく困難な道のりでもあった。
衝撃波が襲う。足場が崩れる。瓦礫が落ちてくる。
雷球が、足元に着弾した。
「ぐぁ!?」
十分に注意はしていた。直撃では無いからと油断などせずに、シールドまで張った。
だがそれでも、クロノの体は宙を舞っていた。爆散効果も無い、ただ雷属性が付加されただけの魔力弾一つが掠っただけで、シールドは砕け散ってしまったのだ。
『クロノ君!?』
『大丈夫だ!』
無理矢理空中で制動を掛け、そのまま低空飛行で目標まで加速する。クロノのちょうど真上の空で、フェイトとシグナムが激突しているのだ。高度を高く取る愚は冒せない。
「確保!」
すれ違い様に、寝転がっている仮面の男をバインドで縛って手繰り寄せる。後は結界の外に出て回収してもらうだけだ。
『でかいの来るぞ!』
相手を指定すらしていない、作戦区域全域にばら蒔かれた念話。送信者の焦りを表すようなそれに、クロノも空を見上げた。
結界内に満ちる魔力は既に飽和して、“それ”がどれだけデタラメな物か、感覚が麻痺して感じ取ることは出来ない。
だが感じることは出来なくとも、クロノには目にしただけで分かる。フェイトとシグナム、二人が練り上げている魔法が激突した時、この強装結界が確実に崩壊するということは。
『ユーノ――!?』
魔力が、爆発した。
爆音、暴風、悲鳴、結界の砕ける音。全てがない交ぜになって、地をバウンドしながら吹き飛ばされるクロノの耳朶を打つ。
「ぐ、かっ」
ようやく衝撃波が収まり、クロノの横転も止まる。
回転を強制されたせいで平衡感覚を失って、それでもバインドを手放していないのを確認して、クロノはほっと息を吐く。
そして、重大な事を思い出した。
「被害は!?」
頭を振りながら、辺りを見回す。――一面、瓦礫の街並みを。
「そんな――」
始めは、父の背中を追って。そんな想いから始まった、強く固めた信念に、皹が入った気がした。
何千、何万人の人が、犠牲になったのだろう。こんな事が、こんな悲劇を起こさない為に、歩んできた道。それを嘲笑うかのような、己の無力さを思い知らせるような、そんな光景。
――僕の、選んだ道は……。
何故か脳裏に浮ぶのは、相容れることの出来ない、一人の少女の姿。蒼い光に包まれて、力強い瞳でクロノに立ち向かった、理不尽な力の持ち主の映像。
――彼女なら、もっと上手く――。
『結界展開、間に合いました! ユーノ君ナイス!』
「え……?」
落ちる思考を遮るように、念話が届く。
天を見上げると、そこには結界空間特有の、境界面の揺らいだ空が。
「間に、合った……?」
『うんっ、実際の被害、ほぼゼロ! 強装結界が壊れてからの広域結界の張り替えタイミングとか、もう神業だったよー!』
呆然としているクロノに気付いてないのか、やたらハイテンションに捲くし立てるエイミィ。
その勢いに、クロノの顔にもやがて理解の色が灯り始める。
「そうか……ははっ。ユーノが、やってくれたか!」
一度は諦め掛けていた多くの命が無事だった事に、クロノの口元に知らず笑みが浮ぶ。
ドン!
「あ――?」
そんな隙を、“そいつ”は狙っていた。
己を背後から貫き、リンカーコアを掴むその腕。それを見て、クロノは大きく目を見開いた。
この手の持ち主は、今もクロノによって拘束されている筈なのだ。
目だけで足元を見ると、そこにはやはり気絶したままの仮面の男が。虚脱感を堪えて、首を動かして肩越しに見えたのも、また同じ仮面の男。
「二人、だと……!」
『クロノ君!?』
――闇の書、同じ姿、管理局の裏を掻いた行動、高い格闘技能、強力な魔法防御。そして、リンディは蒐集されなかった。
バラバラだったピースが、一つに繋がっていく。
だがそれが確かな形になる前に、クロノは内部から来る激痛に、意識を手放してしまう。
見え掛けた答えに、絶望を覚えながら。
――有り得ない。
雷と炎、全く互角のぶつかり合い。どれだけぶつかっても、優劣がつかない。フェイトの渾身の一撃すら、相殺された。
今も、デバイス同士の鍔迫り合いにもつれ込んでいるが、その力は拮抗している。
その事実に、フェイトは奥歯を噛み締めた。
体の底から湧き上がる、この無限とも思える力。きっとこれは、フェイトの大切な人が力を貸してくれている証拠。
この悪魔共を滅ぼせと、そう言ってくれている証拠だ。
だからこんな奴相手に互角など、そんなこと――。
「有るっ、ものかああああああ!!」
限界。そんな言葉を知らないかの如く、底無しに魔力が高まっていく。
立ち昇る電流に、自分の肌までもが焼ける。それにも構わず、フェイトは更なる魔力を汲み上げる。
「くっ」
余りの高密度の魔力に、今まで電流を防いでいたシグナムの炎が、遂に貫かれた。
この戦いで、お互い初めての有効打。これにはさすがに堪らず、シグナムも後退して距離を取る。
「ふ、うふふふふ!」
限界の、更に限界を超えたような魔力の放出に傷付いて、それでもフェイトは喜色満面に笑ってみせた。
「ははっ、ははははは!! そう、そうだよ! 私には沙夜が力を貸してくれてるんだ! お前みたいな紛い物の力に、負ける筈が無い!!」
高笑いするフェイトを、シグナムは痺れた腕を擦りながら、冷めた目で見ている。
「紛い物、か。確かにな……」
そう言って目を閉じ、胸に手を当てるシグナム。
そして、フェイトにはよく分からないことを言った。
「だが、それはお互い様だろう」
「――訳の分からないことを!」
こんな奴の言う事など、聞く必要は無い。そんな思いと共に、フェイトは魔力放出で光の塊のようになって、シグナムに突撃する。
駆け引きも何も無い、真正面からの突進。だがそれすらも、今のフェイトが行えば必殺の破壊力を伴う。
シグナムもそれを真っ向から迎え撃とうと、火炎を噴き上げる剣を正眼に構える。
今までで、最大級の破壊の激突。それが実現する、その瞬間。
「アイゼンゲホイル!」
「「!?」」
二人の意識の外、予想しなかった方向からの閃光と音響に、その身が一瞬硬直する。
その隙を突いて、盾の守護獣がシグナムをひっ攫う。そしてそのまま、戦場から遠ざかるように飛び出した。
「おい!」
明らかに撤退行動を取り始めた仲間達に、シグナムが抗議の声を上げる。強敵との戦いを邪魔されるのは、我慢ならない。
「ここは相手が用意した戦場だ。それに主を心配させられんっ。何時までも戦っている訳にもいかんだろう!」
速度を維持したままのザフィーラの正論に、シグナムがうっと息を詰める。シグナム的に、主の名を出されると弱い。目を閉じてしばし考え込むと、騎士は諦めたように息を吐いた。
「分かった……」
「つーか、何だよさっきのギガすっげえ炎は。あんなの初めて見たぞ!」
「あれは――」
「お喋りは後! 今は撤退優先!」
シャマルに促され、全員が改めて逃走に力を入れる。
「逃がすか!」
だが、そんな事をこの少女が許す筈が無い。スタン状態から立ち直ったフェイトが、猛然と守護騎士達を追走する。
「だあっ、しつけえ!」
傷だらけのヴィータが、シャマルに抱えられたまま追跡を撒く為の鉄球を打ち出す。
しかしそれを物ともせずに、フェイトは腕の一振りで鉄球を消し炭に変えてしまう。
そんな攻防を何度か繰り返している内に、彼女達はどんどん戦場から遠ざかって行く。
「フェイト!? 待ってぇ!」
その様子を遠巻きに見ていたアルフが、悲痛な声でフェイトを呼び止める。
だが一度も振り向かず、一片の躊躇いも無く、少女は標的だけを追い続けた。
やがて、五つの光の軌跡を残し、彼女達は夜空の果てに消えてしまう。
それは他の全てを振り捨てるような、狂気に取り付かれた、どこまでも孤独に向かう少女の姿だった。
逃げる守護騎士に、追う少女。それを見ていたのは、結界内の人間だけではなかった。
余程急いで来たのか、激しく息を切らしている女。
魂が抜けたように守護騎士達を、いや、シグナムだけを凝視する、一人の女。
「どうして、シグナムが……くっ!?」
――殺せ。殺せコロセ殺せ殺せ殺せ殺せコロセ殺せ殺せ。
途端に脳裏を埋め尽くす、呪詛の声。それに逆らう理由など、サラ・カグヤには無い。
だけど――。
「フェイト、ちゃん……っ」
まるで『カグヤ』の人間のような、憎悪以外の色が見えない目をした少女の気配が、段々遠ざかっていく。
行ってしまう。佐々木沙良のもう一人の娘が、大切な家族が、もう二度と戻れない場所に、飛び立ってしまう。
――殺せ。殺せコロセ殺せ殺せ殺せ殺せコロセ殺せ殺せ。
「うぅ……あぁぁあ!!」
――殺さなきゃ。
――止めないと。
体はシグナムを殺す事を望み、心はフェイトを止めたいと願っている。
相反する命令が体の中で綱を引き、一歩も行動を起こせない。
結局、フェイト達が探知範囲から消えるまで、沙良は身動き一つ出来なかった。
「どうして……!」
大切な娘の為に何も出来なかった後悔に、沙良が膝を落とす。
子を守るのが親の役目なのに、自分は何時も大事な時に間に合わない、守れない。
助けたいと、守りたいと、何時だって思っているのに。その為の力だって、自分は持っている筈なのに。
――今だって、この呪縛が無ければ……。
「そうだ……」
カグヤの使命なんてものが有るから、大切な物を見失ってしまう。それさえ無くなれば、自分はちゃんと“お母さん”になれる。
だから、この身の呪縛を断ち切る為に、シグナムを殺そう。
何で生きているのかは分からないが、今度は完全に滅びるまで、何度でも。何度でも、何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも――!
女は、初めてサラ・カグヤとしてでなく、佐々木沙良として、カグヤの使命を果たすことを決断した。
それだけが、あの子達に相応しい親になる唯一の手段だと、そう思って。――思い込んで。
『カグヤ』の人間に相応しい、無機質で色の無い瞳で。
目が覚めると、まず薬品の匂いが鼻についた。
「んあ……」
体を起こして、寝惚け眼を擦る。ぼんやりした頭のまま辺りを見渡すが、有るのは見慣れない光景ばかり。
唯一見覚えが有るのは、自分の手を握ったままベッドに突っ伏して寝ている、お友達の姿だけだった。
「チンクちゃん……?」
くーすか寝ているチンクの頭をぽふぽふ撫でながら、アリシアはどうして自分がこんな場所に居るのか、覚醒しきらない頭で思い出そうとする。
「んー……?」
――確か、闇の書に潜り込もうと、防壁を頑張って乗り越えて――。
「ああー!? サヤ!?」
「うわ!?」
大声でチンクが跳ね起きてしまったが、それには気付かず、アリシアは枕をポカポカ叩きながらご立腹だ。
沙夜が蒐集されて閉じ込められてから、“アリシア”はほぼ全ての時間を闇の書への侵入に費やしていたのに、ああもあっさり返り討ちに遭ったのだ。体は幼いアリシアに任せていたが、これでは全くの無駄骨だ。多少の八つ当たりもしたくなる。
「……ふう、すっきりしたっ」
「ア、アリシア?」
「あ、チンクちゃん。おはよー」
「え、ウン、お早う」
そう言えば、チンクの前に“こっち”の自分が出るのは初めてか。そう思いながらも、アリシアは戸惑うチンクに構わず、ベッドから飛び降りて適当に置いてあった服に着替えだす。今は時間が惜しい。
「ここは何処? 後、アルフとカグヤちゃんは?」
「あ、ああ。ここは第九十七管理外世界で――」
「九十七……地球!?」
予想を斜め上に上回る答えに、思わずアリシアの手が止まる。
地球といえば、アースラ部隊の臨時指揮所が有る、あの地球だろうか。魔力ラインから、沙夜も近くに居ることは確認している。そんな危険な場所に彼女を連れて来るとは、沙良も何を考えているのか。
「海鳴の診療所と言えば分かると、沙良は言っていたが」
「おじいちゃん先生の?」
お髭が立派な老医の姿を思い出して、アリシアは得心がいったように頷いた。そう言われれば、この病室も見覚えが有る、ような気がする。
それから、管理局に家の場所を発見されたので、こちらに居を移した旨をチンクから伝えられる。
まあ、幾ら一騎当千の猛者と、周囲はトラップ満載の要塞の如き防備を備えたテスタロッサ家とはいえ、本気の管理局相手に持ち堪えられる筈も無い。その判断にはアリシアも納得した。
「それにしたって海鳴は……」
アースラ部隊の本拠、敵陣真っ只中といっていい場所ではないか。信頼出来る人間が老医しか居なかったのかもしれないが、アリシアにはもう少しましな選択肢が有るように思えた。
「それは私も言ったんだがな……。沙良は、闇の書の主に心当たりが出来たらしい。それを確かめる為にも、海鳴に居るのが都合がいいと言っていたな」
「――そっか、見つけちゃったんだ……」
吉報の筈のそれに、しかしアリシアは重い溜息を吐いた。
確かに現状を考えれば、いや、それ抜きでも沙夜には一刻も早く目を覚まして欲しい。だがその先に待つ物を考えれば、沙夜が自力で目覚めるのに期待したいとも思う。
闇の書からリンカーコアを取り出す作業を行えば、十中八九防衛機能が発動して、書は主を巻き込んで転生する。アリシア自身は主がどうなろうと構わないが、その所為で沙夜が、要らない良心の呵責を憶えてしまわないかだけが心配だ。
沙夜も別に聖人君子でもないので、敵がぶっ飛ばされる程度なら気にしないだろうが、自分を助ける為に人死にが出たと知れば、少なからず傷付いてしまうかもしれない。
――まあ、それも仕方ないか……。
管制人格が能動的に動いていた以上、書の完成はそう遠くない。今は何より、沙夜の命を守ることが最優先だ。
「それじゃあ、カグヤちゃんは主の確認に?」
「ああ。それとアルフは……」
言いよどむチンクに、アリシアもその内容を察する。
幼いアリシアが、今も閉じこもってしまっている原因。半ば幽体離脱をしていた“アリシア”にすら届いた、底無しの憎悪。
自身の半身と言ってもいい存在、アリシアすら否定した、フェイトの嘆きの声。
今もこの胸に伝わってくる、ぐちゃぐちゃで、どろどろとした、形容し難い感情の渦。これが妹の心の様相だと思うと、今すぐフェイトの元に飛んで行きたい。
「……フェイト、戻って来てないんだね」
「分かるのか?」
「わたし、これでもフェイトのお姉ちゃんだから」
何時もの自信満々さは鳴りを潜め、どこか自嘲気味にアリシアは答える。
大事な時に傍に居れなかったのに、姉貴面するなんてする資格も無いと、自分でも思う。
でも、繰り返す訳にはいかないのだ。アリシアの為に、どこまでも孤独になってしまった、母の悲劇を。
母は最後こそ一人の少女のお蔭で救われたが、その生き様を全て見ていた“アリシア”にとって、それは絶対にフェイトには味わわせたくない悲しみだ。
「アルフは、フェイトを捜しに行ったまま?」
「ああ、もう三日は戻ってない」
逃げる守護騎士を追って、そのまま消えてしまったフェイト。そして、そのフェイトを捜しに追ったアルフ。
アルフの気持ちは、アリシアにも痛いほど良く分かる。現につい先程まで、アリシアもフェイトを捜す為に飛び出そうと思っていた。
だが、それは恐らく徒労に終わる。今のままではアリシアも、アルフも、誰もフェイトを止められないだろう。その言葉すら届かないかもしれない。
だってプレシアがそうだった。どれだけの言葉を重ねても、どれだけの想いをぶつけても、一度想いを固めてしまった彼女達には、一切が届かない。
もし、届くとしたら、それは――。
それを考えるのは、余りに詮無い事だとアリシアは首を振る。そもそも彼女が居ないからこそ、こんな事態になっているのだ。
「どうして、わたしには力が無いんだろうね……」
フェイトや沙良のような戦う力も、沙夜のように治す力も持っていない自分は、こんな時、本当に役立たずだ。それが今、途轍もなく悔しい。
「アリシア……」
悄然とベッドに座り込むアリシアをみて、チンクは唇を噛んだ。
チンクは、こんなアリシア達を見たかったのではない。笑って、怒って、何時だって騒がしい。だけど見ていて笑みが零れてくる、そんな彼女達一家が、チンクは大好きだった。
だから、まだ形も決まっていないこの胸の想いを、拙い言葉でも、伝えなければと思う。
「確かに今は力が必要な時だ。……だが力だけが必要では、ないだろう?」
「チンクちゃん……」
救う為に、ただ力だけを求めるなら、今のフェイトと変わらない。それでは、きっと何も取り戻せない。
「優しい想いや、好きっていう気持ちは、“力”になる。お前達が教えてくれた事だ」
感情も、絆も、全てが機能上昇の為の手段に過ぎない自分達と一見良く似た、しかし決定的に違う、どこか温かい彼女達の在り方。
それをこの小さな少女に、そして少女の妹にも、チンクは思い出して欲しかった。
「きっと大丈夫だ。私も、沙夜とフェイトの為に祈るから。アリシアも、幸せな未来を信じて欲しい」
「チンクちゃん……うん、そうだよね……っ」
目尻に浮んだ涙を拭って、ようやくアリシアも笑顔を取り戻す。
それを見て、チンクも微笑みながらその頭を撫でた。
――私も、覚悟を決めなければならないか。
一つの選択を、その胸に秘めながら。
灼熱の太陽が照りつける、一面が砂に覆われた地帯。
大型の魔獣を苦も無くねじ伏せて蒐集を終えたシグナムは、頃合かと、視線を手に持った黒い本に向けた。
「あれは、どう言うつもりだ」
切るような、鋭すぎる口調。だがそれに対して答えは返ってこない。
シグナムの目が、一層細まる。他の騎士に知られる訳にはいかない真実。この質問をする為に、わざわざ書を預かる役を引き受けて、単独で蒐集に出たのだ。ここで引く気は無い。
だんまりを決め込む気か、それとも質問の意味が分からないのか、反応を示さない闇の書に対して、シグナムは一気に急所を突く事にした。
「何故、佐々木沙夜を解放しない」
『…………』
返答はやはり無い。だが、反応は有った。
「お蔭で全て思い出した。カグヤの事も……今までの主の、末路も」
『そうか……』
その言葉に、これ以上隠し切る事に意味が無いと悟ったのか、管制人格は諦めたように返答をした。
『さー――佐々木沙夜を閉じ込めておくのは、それが主の為となるからだ』
「あの力か……」
シグナムを滅びの淵から蘇らせ、あまつさえ全盛期の力と記憶の全てまで復元した、規格外の力。確かにあれならば、どう転んでも破滅以外の未来が無いはやてを、救う手立てになるかもしれない。
そう、今のままならどう転んでも、はやては助けられない。こんな事、とてもではないが仲間達には教えられない。
そしてそれを覆す方法が有るのなら、それは喜ばしい事の筈なのだ。
「……他に、手は無いのか?」
だが、それをただ是とするには、シグナムは佐々木沙夜の心に触れ過ぎていた。
たった一瞬だったが、直接リンカーコアにまで染み渡った、優しい光。己の恩人ということも併せて、あんな心の持ち主を利用するのは、どうにも気が進まない。
『無いな。この方法とて絶対の運命から絶対が抜けるだけで、成功率の予測も出来ない、あやふやな物なのだからな』
佐々木沙夜の力を、完成した闇の書の力で制御して、書のプログラムそのものを書き換える。それを練習も無しに、ぶっつけ本番で成功させなければいけない。
しかも全てが成功しても、それではやてにどんな影響が出るかは分からない。完全な博打だ。
逆に言えば、主を守るべき管制人格が博打に出なければならないほど、はやてを救う事が困難な証拠とも言えるが。
――そう、これが最善の方法だからだ。沙夜を閉じ込めておくのに、他の理由など無い。無い、筈だ……。
シグナムに悟られないよう胸中で、管制人格は己が内のノイズを打ち消すように、そう判断する。
「そうか……」
管制人格の案を聞いて、シグナムがやり切れないと言った風に呟いた。
どんなにその身を案じて、どんなに好感を抱いても、シグナムが何より優先するのは主であるはやてだ。それを救う手が一つしかないのなら、シグナムの選択もまた、一つしかない。
「……地獄に落ちるな、私達は」
『……今更だ』
迷う事の無い選択。それを選んだ筈の二人の声はしかし、紛れも無い苦渋に満ちていた。
「こんな……」
海鳴の作戦会議室、その大き目のモニターに映し出された映像を見て、なのはは震える声を絞り出した。
最早怪物と言う他無いフェイトと、魔人と言う呼び名が相応しいシグナムの、魔導師という枠を超えた戦い。それが今、会議中の面々の前で流されていた。
あれから数日。蒐集のダメージからようやく起き上がれるようになったなのはとクロノが参加する、初めての作戦会議。
途中で気絶してしまった為、ここで初めて先日の戦いの詳しい様子を知ったなのはは、みるみるその顔を青くした。
「何度見ても、怪獣大激突だよねえ」
「だなあ。あれと戦うとか、マジ勘弁なんだが」
「心配しなくても、俺達の出番は別だろう。ハラオウン執務官レベルの力が無ければ、弾除けにもならないからな」
エイミィと、顔見知りの武装隊員の会話も、なのはの耳を通り過ぎる。周りの喧騒を遮断して、なのはは食い入るようにフェイトの映像だけを見詰め続けた。
その強さではなく、その瞳の色を。
「さて、改めて敵戦力の確認を行った訳だけど……」
リンディの声を合図に、エイミィが映像を閉じる。そこでようやく、なのはも意識を引き戻す。
そして、突きつけられた現実に、椅子から崩れ落ちそうになってしまった。
ようやく、笑ってくれるようになったのに。これから、もっともっと仲良くなれると思ったのに。
なのに、フェイトの目は、そんな想いを否定するように、暗く黒く濁っていた。
今にも倒れてしまいそうな顔色のなのはに、隣に座っているユーノが、心配そうに小声で話し掛ける。
「なのは、調子が悪いなら……」
「ううん、大丈夫。……大丈夫だから」
どう見ても大丈夫には見えないが、ユーノはそれ以上追求する事はしなかった。こういう時のなのはの頑固さは身に染みていたし、何よりその目はまだ死んでいない。
そう、時間が経てば心配した自分が馬鹿らしくなるくらい完璧に、そして更に力強く復活してくるのは目に見えているのだ。この頑強な精神の少女は。
むしろユーノが心配なのは、なのはよりクロノの方だ。
目が覚めてからのクロノは、始終何か考え込むような顔をしていて、今まで以上に張り詰めた空気を纏うようになった。
それがどうにも危うく見えて、一応彼の友人であるユーノとしては、心配せざるを得ない。一見明るく振舞っているエイミィ達も、恐らく同じ意見だろう。
当の本人はそんな周りの気持ちに気付いているのかいないのか、会議が始まってからずっと腕組みをしたまま目を瞑り、一言も話さず無言を貫いている。
「――以上の点から、現有戦力で守護騎士との交戦は危険と判断。範囲を絞った捜索で、直接主の確保を――」
「艦長」
だから、リンディの説明を遮るその声に、全員が“ぎょっ”とその発生源を見遣った。
「何かしら?」
余裕な表情の母と、それを鋭い視線で睨みつける息子。突然の対峙に、殆どの人間が呆然と二人を見る。
「……仮面の男とフェイト・テスタロッサ。双方がこちらの作戦を知っていたかのようなタイミングで、介入してきました。……幾らなんでも不自然だ」
「ええ、不思議よねえ」
「――――」
「――――」
片やニコニコ、片やムッツリと、無言の応酬に、見えない火花が散る。
「え? え? いきなり修羅場?」
「うわ、艦長こえー。坊主、仲裁よろ」
「ええ!? エ、エディさんお願いしますっ」
「君子危うきに近寄らず、だ。ユーノ君」
外野が騒がしくなってきた所で、リンディが折れる事を示すように肩を竦めた。
リンディ本人が関与しているフェイト達はともかく、仮面の男の方は確かに対策を練らなければならない。クロノをからかうのも、これくらいにしておこう。
「分かったわ。そっちの方は、私が何とかしておくから」
「……“何とか”、して頂けるんですね?」
「ええ、“何とか”するわ」
他の面々には分からない、クロノとリンディの間でだけ伝わる符丁。
信じたくないことから目を逸らさずに、お互い成すべき事をなそうという、決意を固めた瞬間。
「なら、僕は捜索部隊の指揮を取ります」
母が過去と対峙してくれるなら、未来を切り開くのが子である自分の役目だ。そう思い、様々な要因から落ち込み気味だった精神を持ち上げるクロノ。
しかし、そんな彼の提案に、横槍を入れる人物が居た。
「あん? 大将、ケガ人だろ? ぶっちゃけ足手まといなんすけど」
「ジャック、もう少しオブラートに包め。せめて『今のあなたが居ては、部隊は能力を発揮出来ません』程度にしておけ」
「いや、それも大概酷い言い様だと思うよ?」
好き勝手な事をほざく駐留部隊の纏め役二人と、執務官補佐。言い方は最悪だが、どうやらクロノの心配をしているらしい。
だが、相手はクロノだ。生半可な気遣いは彼には通用しない。
「戦闘は極力避ける方針の任務だし、捜索の指揮を執るだけなら問題は無いさ」
「あー、まあそうなんすけど……」
それ以前に、今の状態のクロノを現場に行かせたくないのだが、そこら辺の周囲の意図はやはり汲んでくれないようだ。
どうした物かとリンディに助け舟を求めるが、苦笑いで首を横に振られた。好きにさせろ、と言う事らしい。
「……はあ。マジで無茶しないでくださいよ」
「分かっているさ」
こうして、アースラ部隊による、地球での捜索任務が開始した。
捜索範囲の決め手はリンディの勘という、当てになるんだかならないんだか分からない物だったが、他に当ても無いので文句は出なかった。
そしてその結果、彼等は地球で思ってもみないものを発見する事になる。
管理局が追い求める、もう一つのロストロギアと、その所有者を。
木枯らしが舞う、海鳴大学病院の中庭で、はやてはぼんやりと冬の曇り空を眺めていた。
検査の為に数日前から入院をしているはやてだが、それが名目に過ぎない事は、彼女自身気付いている。
恐らく、自分が春まで持たないであろう事も。
夢の中の少女が、それこそ夢のように消えてしまったあの日。まるではやてを護っていた“何か”も一緒に消えてしまったかのように、その病状は急激に悪化の模様を見せた。
そして今、こうして残り少ない時間を病院で過ごしている。
「さーちゃん……」
今も胸の奥の、深い場所を苛む痛み。だがそんな物より、はやてにとってはあの少女の行方の方が、ずっと気掛かりだった。
突然消えてしまった、大切な少女。彼女は一体どこに行ってしまったのだろうか。
少女の本来の居場所に戻っているのなら、それでいい。少し寂しいが、きっとそれがあの子にとって、一番幸せな事だと思うから。
だから、彼女を思うと胸の痛みが増したような気がするのも、多分気のせいなのだ。はやてはそう思う事にした。
「……あー、あかんな。年を取ると涙もろうなって」
視界が滲む理由に気付かないふりをして、はやてはごしごし目を擦る。そして、気分を入れ替える為に、勢いよく自分の頬を叩いた。
「あいたあ!?」
少し強く叩き過ぎたのか、自爆して悶絶するお馬鹿少女。若干、名前にさの付く友達の影響が出てるっぽい。
はやてが痛む頬を擦っていると、不意に、背後から押し殺すような笑い声が聞こえた。
「はれ?」
何時の間にか、はやてから僅か数メートルの所に、綺麗な女の人が立っている。
シグナム達ほど人間離れはしていないが、そういう気配には割りと敏感だと思っていたはやては、思わず気の抜けた声を出してしまった。
それを見て、女の人は一層楽しそうにくすくす笑い出す。
その様が余りに上品で、逆に今までの自分の失態を見られていたかと思うと、はやての顔がさっと朱に染まる。
「あ、いや、これはですね」
「うふふ。ごめんなさい、笑ってしまって」
警戒する間も無くするりと近付かれ、優しく頭を撫でられる。
「あ……」
すべすべの手に、ふわふわな笑顔。なんだか、凄くお母さんっぽい人で、はやては抵抗する気力が失せてしまった。
そんなはやてに、女の人はどこからともなくお茶を取り出して、手渡す。
「待ち時間は退屈なんです。少し、話し相手になってくれませんか?」
「へ? はあ、構いませんけど……」
偶々病院で出会っただけの人間をお茶に誘うなど、随分奇特な人だと思ったが、それを受ける自分もまた、奇特な人間かもと思う。
何故かは分からないが、この人の笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまう。それで、何となく断る気がしなかった。
それから、ベンチで色々なお話に華を咲かせた。最初は子供に対しても一貫して敬語で話す女の人にはやても若干緊張気味だったが、打ち解けてくるとじきに笑顔も見せ始めた。
「そうなんですか。お子さんが……」
「ええ……」
お互いの事情などを軽く教えあったりした時に、この女性が寝たきりになってしまった子供の見舞いに来ているのだと聞いて、何だかはやてまで暗くなってしまう。
「あっ、でも大丈夫ですよ。治す方法も、やっと見付かりましたから」
「ああ、そうなんですか。良かったですねえ」
「ええ、本当に」
「あ……」
――笑った時の顔が、どこか居なくなった少女に似ている気がした。
「? どうしました?」
「あ、いえいえ。なんでもありません」
そう、何でも無い筈だ。この人が少しさーちゃんに似ているからといって、それがどうだと言うのだ。きっとあの子が居なくなったせいで、少し神経が過敏になっているだけだ。
そんな事を考えていたから、はやては気付かなかった。
黒い髪の、どこかあの子に似たこの女の人が、冷え切った目で自分を見ているのに。
そして、舞台は十二月二十三日へ。
少女は、鉛のように重たい体を、引きずるように前に進ませる。
あれから、どれだけ時間が経ったのだろう。
休息も、食事すら取らずにずっと行動出来るのは、きっとあの子が力を貸してくれているお蔭だ。だが見失ってしまった敵を追い続けて、どことも分からない場所を彷徨い続けているせいで、少女の時間間隔はとっくに狂っていた。
でも分かる。確実に、その距離が縮まっている事が。
目に見える訳でも、魔力を感じた訳でもない。それでも、まるで運命に導かれるように、自分が戦うべき相手に近付いているのを、少女は確信していた。
――皆、心配してるかな……。
不意に、温かい思い出が、少女の胸を打った。
今まで心の奥に閉じ込めていた筈の、大切な人達の姿。己の使い魔の、姉の、母の、そしてお友達の顔が、次々と浮んでくる。
「っ、駄目……!」
それはどこまでも優しくて、でもだからこそ、今の少女には毒にしかならない思い出。それを、必死に追い出す。
大切なものは、一つ有ればいい。それ以外を求める余裕など、無いのだから。
やがて、あの子の思い出以外の全てを追い出すと、少女は安堵の息を吐いた。
こうすると、まるで生まれ変わったみたいに頭も心もすっきりと冴えてくる。
「……今なら、母さんの気持ち、分かるかも……」
きっと、母は怖かったのだ。他の事に気を掛けて、そのせいで取り戻したい物が帰って来ないのが。
だから、それ以外を考えようともしない。考えると、それが遠くに行ってしまうようにすら感じてしまうから。
少女も、あの子のことだけを想う。そうすれば、こんなにも沙夜が近くに感じられる。
胸の奥から溢れる魔力に、少女は嬉しそうに笑う。この力は、自分と沙夜を繋ぐ証だと言わんばかりに。
そして、この力が導く先に、少女が望むものが有る。
だってほら、すぐそこに、少女が倒すべき騎士の一人が居るのだから。
「――ミツケタ」
遥か遠方、人間の目では見えないほど遠くの空に、赤い騎士が飛んでいる。
ようやく捉えた標的の姿に、『フェイト・テスタロッサ』は、それはそれは嬉しそうに笑ってみせた。
まるで『ヒト』ではなく、『怪物』のように、禍々しくではあったが――。
深い、静かなまどろみの中、『少女』は懸命に“それ”に意識を伸ばしていた。
今はまだ届かない。それを分かっていてなお、『少女』はその努力を止めようとしない。
――だって、ここにある。
『少女』が最も尊敬する、不屈の少女の強い想いも。
迷いながら、それでも惜しみない愛情を注いでくれた、母の想いも。
『素敵なお友達』になりたかった、二人の少女のひたむきな想いも。
姉のような人と、妹のような子の、『少女』を信じる想いも。
まだぎこちない、何かを想うことに戸惑うような、無垢な想いも。
――そして、何時の間にか傍に居る事が当たり前のようになっていた、綺麗な瞳の女の子。彼女の、胸が張り裂けそうなほどに悲痛な想いさえも。
全部、全部届いて、ここに、この胸にある。
そんな、誰かの想いが届く度に、『少女』は思う。
皆の想いは、無駄ではないと。
想いは、『少女』の力そのものなのだ。
強い想いは、強い力となって、『少女』の心の奥底に閉じ込められた記憶を目覚めさせる鍵になる。
そして、目覚めは後少しのところまで来ていた。
――なのに……っ。
その少し、後ほんの少しが、届かない。本当に、切っ掛けさえあれば届きそうなその距離に、『少女』が歯噛みする。
ゆっくりと、意識が閉じていく。また、眠りの時が来た。
――後、少しなのに……。
それでも、穏やかでさえあるその眠りに逆らう事は出来ずに、『少女』の意識は、再び闇に溶けていった。