この広い空の下には、幾千、幾万の人たちがいて。
いろんな人が、願いや想いを抱いて暮らしていて。
その想いは、時に触れ合って、ぶつかり合って。
だけど、その中のいくつかは、きっと繋がっていける。伝え合っていける。
これから始まるのは、そんな、出会いと触れ合いのお話。
ジュエル☆マスター、リリカル沙夜。
始まります。
春、日本においてそれは、一年の中で最も過ごしやすい季節。気温も暖かく、日差しもどこか柔らかい。新たに芽吹いてくる緑の葉を、優しく風が揺らす音も、なんとも心地良い。
つまり、どういうことかというと―――。
「眠い……」
この時期、朝の日差しの温もりは凶悪で、このまま延々と眠り続けたい気分にさせられる。
とはいえ、この家の現状を考えると、そうも言っていられない。
「むへぇ……」
気の抜けた声とともに起き上がると、セットしておいた目覚ましのスイッチを切る。
最初はお世話になるどころか、鐘の音を聞いても眠り続けてまるで役に立たず、今では逆に決めた時間の五分前には目が覚めてしまうので、一度も本来の役目を果たしたことが無い、少しかわいそうな目覚ましだ。
寝ぼけ眼で辺りを見回す。
蹴っ飛ばされた毛布、肌蹴たパジャマ、ボサボサの髪を見てため息を吐く。
相変わらずの寝相の悪さ、いい加減どうにかならないものか。
朝から憂鬱な気分になりかけたが首を振って持ち直し、んむぅ、と伸びをして軽く気合いを入れる。
よし。今日も元気に、朝食を作ろう。
トントントン、と台所に包丁の音が響く。
隣では味噌汁がコトコト温められているし、炊飯器はシュウシュウとお米の炊き上がりが間近なことを報せている。ついでにグリルの中でジュワッと焼かれたお魚。
どこからどう見ても、古式ゆかしい純和風な朝食メニューだ。
背丈が足りないために使っている台から降りて、エプロンで手を拭う。
そろそろお母さんが仕事部屋から出てくる時間なので、食卓を拭いて、食器を並べて、いつでも食事ができるようにしなければならない。
「ふう、おはよう沙夜ちゃん。今日もいい匂い」
「おはよう、お母さん。昨日も遅くまでお仕事してたみたいだけど、大丈夫? 眠そうだよ?」
欠伸を手で押さえながらお母さんが居間に入ってくる。
明らかに寝不足とわかる顔色に乱れた髪、仕事着代わりジャージ姿という色気の無い格好のはずなのに、その美貌にはまるで陰りが無い。むしろ「これはこれで」と同性でも思ってしまうほどの美しさだ。
寝起きの自分の姿を思い起こし、比べてみる。……だめだ、まるで勝負にならない。
この手の話題を挙げるたびにお母さんは、「大丈夫っ。沙夜ちゃんも後十年もすれば、バインバインのものっすごい美人さんになるわっ!」と言ってくれるのだが、佐々木沙夜の思う美人さんとはまさしくお母さんなわけで。仮に将来的にお母さんの言うとおりバイ……こほん。豊満な体に成長したとしても、とてもお母さんのようになれるとは思えない。
なにせ目の前の母ときたら髪はやたらツヤツヤフワフワ、手足はスラッとしててそのくせ出るべき所は出てる。お肌の張りもバッチリ、顔の造形なんて言うまでも無い。
対してその娘。髪、長いね。身体、ペタン。顔、フツー。……正直とても親子に見えない。
一度口を滑らしてお母さんに大泣きされて以来、心の中で思うに止めている感想だ。
「うん、大丈夫。沙夜ちゃんの愛情たっぷりのご飯を食べたら、元気一杯になるから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、わたしのアレはそんな良い物じゃないよ」
「あら、美味しいのに」
母が心底毎日のご飯を美味しいと感じてくれているのは確かだろう。それを見通せる程には親子仲は良好だし、そもそも母は嘘を吐ける人間では無い。
その証拠につい先日も親のことをもっと知りたいという純粋な娘心が爆発して、お母さんとお父さんの馴れ初めなどを、顔を真っ赤にしてきゃーきゃー言ってる人物からいともあっさり聞き出すことに成功している。
なんでもお母さんは昔荒れている時期があったらしく、当時は相当ぶいぶい言わせてたと、珍しく歯切れが悪そうに洩らしていた。
と言うか荒れてるお母さんとかまるで想像が付かない。スケバン? 風の格好をさせた姿を思い浮かべるが、とてつもなく似合わない。違和感しかない。佐々木沙夜の同級生であるところの金髪美少女さんが、同じく同級生でその親友のロングヘアー美少女さんの物真似をするくらい似合わない。絶望的だ。
嫌な過去のことを母に問うことも憚られ、これは話を聞いた当時から現在に至るまで解決されていない。
「闇夜に宙に浮かび上がる不気味な仮面」、「いくら使ってもインクが切れない母の仕事用ペン」、「真夜中に突如響き渡る爆音と悲鳴」、「餌も無い庭先に何故か大量に訪れる鳥達。しかも糞等で一切汚さない」、「まるで老けない佐々木家最年長」、「どれだけ食べても一向に太らない佐々木家大黒柱」に続く、「佐々木家七不思議」の出来上がりだ。
話を戻す。とにかく、ふんわりおっとりが標準装備なのに悪者ぶっていた母は、父と劇的な出会いを果たし、運命に導かれるように恋に落ち、育まれた愛の結晶が、佐々木家一人娘の沙夜ちゃんということらしい。
ちなみにこの説明、お母さんの言葉通りに表現すると広辞苑が一冊出来上がってしまう厚さになるので、少しばかり省略させてもらったことを理解してほしい。
思考している間にも慣れた作業に体は勝手に動き、いつの間にか食卓には料理が並べられ、後はお米をよそうのみとなっている。お母さんも食卓の向かいに正座し、今か今かと朝食の開始を待っている。
慌てて空の茶碗の中身を二つ補充し、一つを手渡し、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
元気一杯な声とは裏腹に、箸使いは優雅そのもの。こんな何気ない日常の動作にさえ、佐々木母はそのハイスペックぶりを如何なく発揮している。
まあ、いいかげん思考の脱線から戻ってこないと、何事かと思われるだろう。
つまるにお母さんは美味しくご飯を食べてくれている。これはいい。愛情だってそりゃあもう溢れんばかりに込めている。バッチリだ。ではなにが駄目なのかと言うと。
「ぐむぅ……」
「わ、沙夜ちゃんすごい顔」
「やっぱり、今日も駄目だった」
「そう? 美味しいわよ?」
焼き魚に箸を付けて呻くこちらとは正反対に、お母さんはパクパクと次々に料理を平らげていく。
別に不味いわけではない。むしろ自分でも不味いと思う物をお母さんに出すなど言語道断だ。
不味いわけではない、でも美味しくも無い。味噌汁なら味噌汁の味はちゃんとしている。でも美味しくない。
どんな料理に挑戦しても、得手不得手も無くそういう味になる。それが佐々木沙夜の料理の特徴だ。
美味しくない美味しくない連呼してると更にへこんでしまいそうだが気を取り直して味噌汁を手に取る。
この味噌汁なんて毎朝のように作っているのだから通算700回は調理しているはず。にも拘らず一向に味が向上しないのはどういう了見だろう。
なにも食べたら、「美味いぞー!」と絶叫してほしかったり、口からビームを出したり、巨大化して大阪城を破壊したりするほどの料理が作りたいのではない。普通に美味しい物が出来ればいい。
だがこの味噌汁は彼の有名な美食家の先生に食べさせたりしたら、「女将を呼べぇっ!」と怒鳴られること受けあいだし、その息子にも淡々と、それでいてきっぱりと駄目出しを食らうだろう出来だ。やはり料理の腕に関してはお母さんの血を継いでいる、ということか。
前述を見れば分かると思うが、我が家のお母さんは「え? 何この美人。もしかして喧嘩売ってる?」と世界中の女性から妬まれそうなパーフェクト超人ぶりだが、たった一つだけ、文字通り致命的な欠点が有る。
料理。
その威力ときたら佐々木家長女、沙夜ちゃん(当時6歳)が一昼夜生死の堺をさ迷った後、「これからはわたしがまいにちごはんつくるからっ! だいじょうぶですからっ!?」との誓いを立て、今日に至るまで破られていないことから察してほしい。
その母の血が半分でも入っているならこの上達曲線の低空飛行っぷりにも正直納得しそうだが、ここで納得したら全てが終わってしまうので疑惑に蓋を閉める。
またもや脱線。最近陽気のせいか、思考も散漫だ。
こうして教わる人間も居ないまま大量の料理本と実戦経験のみでやりくりしてきた訳だが、独学ではいいかげんここらで頭打ちだろう。
近日中にお料理教室にでも通おうかという密かな計画を立ててはいたが、この朝食の出来で更に決意を固める。
まだお母さんにも話していないが、良さそうな場所が見つかれば具体的な考えを伝えようと思っている。
多分断られることは無いだろうし、断らせるつもりも無い。この件に関しては断固たる態度で臨むつもりだ。
佐々木家食卓に明るい未来を掴むため!
そしてなによりお母さんに真に美味しい料理を作ってあげるため!
「沙夜ちゃん? どうしたの?」
見ているだけで幸せな気持ちになれる、ほわっとした笑顔をいつものように向けてくれるお母さん。
それだけで意味不明に盛り上がっていた内心が落ち着いていく。
この笑顔さえあれば、自作の微妙な朝食も七割増し美味しく感じてしまう、今日も絶好調に母親大好きな佐々木沙夜だったとさ。まる。
「うららかなはるのひざし」、なんて言葉がぴったり当てはまりそうな四月の藤見町を駆けていく。
別段何も無い所で転んだりするほど壊滅的ではないが、体育の授業でヒーローになるには程遠い運動神経しか持たない身では大した速度は出せないが、のんびりと歩いていくには少々危険な時間帯だ。
ただでさえ「走る」という行為に向かない聖祥の制服に加え、背負った鞄の中には肩紐がくい込む程の重量物が搭載されている。
そもそもスカートというのが駄目だ。これは動きにくいは似合わないは男子にスカートめくりをされるはでろくな事が無い。
制服としてスカートの着用を始めて三年目、さすがに慣れてはきたがそれでも私服のスカート、ズボンの比率は1対9を維持している。その1だってお母さんがどうしてもと言うので仕方なくはいているにすぎない。
ブツブツ文句を垂れながらも休み無く足を動かしたのが功を奏したのか、なんとかホームルーム開始五分前に教室に到着。代償は慣れない運動からの呼吸困難だ。
「ふうっ、ふうっ、おはっ、ごふごふっ、よっ、ふぐっ、げはぁっ!?」
「だ、大丈夫!? おはようございます!?」
「わ、わ、沙夜ちゃんが、沙夜ちゃんが!? おはにょっ!?」
「べ、別にあんたのためじゃないんだからね!? おはよう!?」
朝からエキセントリックな挨拶をカマしたせいか、三人だけでなく教室中がすっかり混乱の坩堝だ。「衛生兵! 衛生兵を早く!?」やら、「ホイミをかければ! いや、この場合はケアル?」とか、「ツンデレアリサタン、ハァハァ」、「まだあわてるような時間じゃない」等等。
いやあ、事態を巻き起こした本人が言うのも何だけど、きみたちはほんとうにバカだなあ。
「いや、その理屈はおかしい!」
「山田君!?」
普段から滅多に喋らず、男子からは「沈黙提督」のニックネームで親しまれている私立聖祥大学付属小学校きってのダンディー小学生の突然の発言に、むせるのも忘れて振り返るが、そこには微動一つせずに黒板を見つめるいつもの山田君の姿があるだけだ。
……聞き間違い? というか今口に出してた?
真相を是非とも突き止めてみたかったが、すぐさま咳がコホコホとぶり返してきたので断念する。
実は挨拶をした時からずっと背中を擦ってくれていた心のオアシス、月村さんに何とか礼を言って、同じときに舌を噛んで蹲っている高町さんを遺憾ながらスルーして、何故か顔を赤くしながらそっぽ向いてこちらのスカートをめくり上げようとするバニングスさんの手を必死に押さえる。
バニングスさんがそうしたいのであれば見せるのもやぶさかではないが、ここには男子がいる。せめて四時限目の体育の着替えまで待ってもらえないだろうか。
事に熱中している内に担任である香奈子先生がビックリした顔で駆け込んできたが、誰も気が付かない。みんな混沌とした教室の中で好き好きに騒いでいる。「イアイアハスター!」「こっくりさんこっくりさん……」「こいっ、こいっ、こいよっ、俺は――ここにいるっ!」……何を召喚する気だ。
クラスの混乱はきっかり五分後にブチ切れた先生が坂本君をパワーボムで沈めることで収まり、香奈子先生の狂乱はのんびり駆けつけた理事長先生がボーナス全面カットを告げることで収まった。理事長先生、毎度毎度お疲れ様です。
昼休み。食事を早々に終わらせ歓談しているバニングスさん率いる仲良し三人組の輪にお邪魔させてもらっている。
毎日、では無いが、学年が上がってからはそれなりの頻度でお昼をご一緒させてもらっているのだ。
「まったく、とんだ醜態を晒したわ……」
「うう、まだ舌がヒリヒリする……」
朝の件、バニングスさんは理事長先生が「これにて一件落着。ほっほっほっ!」とまるで黄門様の如く去ってからようやく正気に返った。
その直後、熟したトマトでもこうは為るまいというほど顔を真っ赤にし、机に突っ伏して四時限目までそのまま起き上がらなかった。
高町さんもダメージが予想以上に大きかったのか、未だに口をもごもごさせている。
「うふふ」
「すずか笑わない! 沙夜もなに自分は関係ないって顔してんのよ! 元凶はあんたでしょうが!!」
「ああ、うん。ごめんね?」
正直バニングスさん自身の芸人体質にも原因は大いに有ると思うが、目の前で怒りのオーラを迸らせている相手に口にする勇気は無い。
ここは別の話題を振ることで怒りの矛先を逸らすべきだ。幸いそのための小道具も所持している。
「あ、そうだ。頼まれてた本、借りてきたよ」
「ガルルル――え、ほんとに!? ……うわ、本物だわ」
「すごく厚い本……えっと、何語?」
「ドイツ語ですね……『新釈多元宇宙理論』?」
なにやら感動に打ち震えているらしいバニングスさんは「天才」の一言で片付くからいいとして、月村さんまで読めるとは。
もしかして最近の小学生はドイツ語の読み書きが必須技能なのだろうか。
「にゃはは、なに書いてるのか全然わかんないや」
「わたしも。あれがドイツ語だってことも知らなかった」
「私も読めるといっても基本の部分だけだから。この本は専門用語が多くてちょっと……」
ドイツ語が小学三年生には有るべき技能ではないと確認して安堵している間にも、バニングスさんは黙々と恐ろしく分厚い本のページを進めている。
「どんな本なのかな?」
「『新釈多元宇宙理論』なんていうくらいだから、宇宙に関する本かな?」
「その通りよ」
横であれこれ話していると、バニングスさんがいきなり返事を返す。表情は晴れやかで、先ほどまでの怒りはすっかり忘れてしまったらしい。
「よかった」
「なにが?」
「なんでも」
「ねえ沙夜。これ、あなたのママのものでしょ。こんな物持ってるなんて、学者かなにか?」
「ううん、小説家。主に恋愛物の」
「小説家!? すごいすごい!」
「もしかしてあの佐々木沙良さん!?」
バニングスさんが言うにはこの『新釈多元宇宙理論』を読み解くにはかなり高度な専門知識が必要で、物語を書くのならもっと適した本が他にもたくさん有るらしい。そもそも恋愛小説の資料に向かないのは題名で判る。
内容は、簡単に説明するとこの世界の外にも別の世界がいくつも有って、それぞれが全く別の文明を築いているという説だ。
これだけなら今までいくつも提唱された並行世界理論と変わらない。この本の最大の特徴は、『隣り合う世界とこの世界を隔てる次元の壁を通り抜ける方法』が具体的に記されている点だ。
どのような経緯から筆者がこの理論を完成させたかまでは載っていないが、見たところ理論に穴は無い。
現在の科学力ではさすがに実現不可能だが、五十年後の技術ならもしかしたらもしかするかも知れない。らしい。
とりあえず自分なりに噛み砕いてはみたが、恐らくバニングスさんの説明の半分も理解出来てないだろう。全然簡単じゃない。
全世界の科学者に激震をもたらした『新釈多元宇宙理論』には、更に不思議な謎がある。二年前に著者、ジェイル・スカリエッティにより自費出版されたこの本は、発行部数も少なく、100冊しか世に出回らなかった。
当然内容も含めて貴重な本をぞんざいに扱う学者がいるはずも無く、皆大切に保管していた。
ところがとある学者の持つ1冊が突如消え失せたのを皮切りに、次々と世界中の『新釈多元宇宙理論』が行方知れずになっていく。中には金庫に隠した者もいたが、結局いつの間にか中身だけが無くなっていた。
今でもどうやって消えたのかは解明されておらず、「泥棒が盗んだ」、「呪いの本だった」、「実は本そのものが理論の証拠で、別の世界に移動した」等、学術だけでなく、オカルト的な意味合いでも有名な本で、現在では10冊程しか残っていないらしい。
「……とにかく曰く付きの代物でね。所有者の特定もろくに出来なくてもう諦めかけてたんだけど……まさかこんな近くに居たとはね」
「あの、よければ沙夜ちゃんのお母さんのサイン、貰えませんか?」
「あ、私も私も。『とらいあんぐる』シリーズのファンなの!」
「うん。いつもお買い上げ、ありがとうございます。サイン、ちゃんともらってくるね」
「ちょっとあんたたち! 人がせっかく説明してあげてるんだから、ちゃんと聞きなさいよね!」
「あ、わたしはちゃんと聞いてたよ」
「わ、私も……」
「えっと……」
「だったらなのはとすずか! あたしがなんて説明してたか言ってみなさい!」
「の、呪いの本なんだよね?」
「か、怪盗のお話?」
「やっぱり聞いてなかったんじゃないのー!!」
「「ご、ごめんなさーい!」」
むきーバリバリガッシャーンきゃーヒュードカーンさやちゃんたすけてー
「がんばってー」
怒れるわんこを静めることを諦めて、黒板前でパントマイムショーを開催している木村君に視線を移す。
「雉も鳴かずば撃たれまい」と、昔の人も言っている。あ、坂本君が撥ね飛ばされた。
結局、予鈴と共に高町さんと月村さんの愛と友情のツープラトン、「悪魔と吸血鬼のワルツ」が炸裂。正気に戻ったバニングスさんに二人がたっぷり絞られることで事態は収拾した。
そんな、いつもの私立聖祥大学付属小学校の一日。
ちなみに山田君は、下校まで一言も喋らなかった。
バニングスさん達とまた明日と挨拶をして、帰路に着く。
夕食の材料が冷蔵庫に残っていることを頭の片隅で確認しながら、油断するとどうにも緩んでしまう口元を押さえる。
今日もまた、少しだけ、仲良くなることができた。と思う。
バニングスさん、高町さん、月村さんの三人ともっともっと仲良くなる。それが学校生活における佐々木沙夜の最大の目標なのだ。
友達かどうかと言われれば、優しい人たちだからそうだと言ってくれるだろう。でも、それ以上の、あの三人のような『素敵なお友達』になりたいと、強く強く思う。
一年生の時、偶然見かけてしまった、彼女たちの始まり。ぶつかり合って、傷ついて、そこから繋がった絆。
あの日からずっと変わらずこの胸にある、大切な想い。ほんの少しの勇気が有れば言える言葉を、今もまだ言えずにいる。
「わたしと、お友達になってください」
きっと、唱えれば全てが解決する魔法の言葉。相手を名前で呼ぶことすら出来ない意気地無しの魔法使いには、荷が勝ちすぎる呪文だが。
サァッと、薄紅色の花びらが舞い踊る。似合わないメルヘンな気持ちでいたせいか、帰り道途中の桜並木で立ち止まっていたらしい。
ふと、つい先週、お母さんと二人でお花見をしたのを思い出す。お母さんは春のお花見が大好きな人で、佐々木家毎年の恒例行事の一つだ。
お弁当の準備から場所取り、絡んでくる酔っぱらいの対処など、いろいろ大変な行事ではあるが、お母さんはお気に入りの桜を見れて終始ご機嫌なので文句は無い。「来年もまた」という意見にも、即座に頷いた。
もう一度、今度は先程よりも更に強い風が木々を揺らす。目も開けられないほどの花びらが一面を覆う。
――思い返せば、この風が全ての始まり。絶望と希望、奇跡と現実、過去と未来、生と死。何もかもが詰まった、忌まわしき器の物語の――。
「あいたっ?」
何かが花びらに紛れてコツンと頭の上に落ちてきた。さほど痛くも無かったが、思わず声を上げてしまう。
頭を擦りながら落下物を拾い上げる。
小石ほどの大きさのそれは、一瞬宝石かとも思ったが、それにしてはくすみが酷く、薄汚れたガラス程度の透明度しかない。明らかに人の手が加えられていることから見ても、お守りか何かの一種だろうと当たりを付ける。
「交番、だよね」
持ち主が今も捜している可能性を考えれば、すぐに届けに行くべきだろう。だがこうしている間にも、夕食の時間は刻々と迫っている。
見知らぬ誰かと、お母さんの夕食の遅れ。
即座に今日中に交番に行くことを諦め、青い石をしまう。
朝一で届けるので、それで許してください。
誰に言うでもなく呟き、帰りの足を速めた。
いつもと変わらぬ微妙な味の夕食を終わらせ、宿題を片付けた後、居間で何気なく帰り道で拾った青い石を眺める。隣ではお母さんが連載中の小説の原稿を進めている。
学校での高町さんと月村さんの反応を見ればわかると思うが、お母さんはかなりの売れっ子小説家だ。中でも現在連載中の『とらいあんぐる』シリーズの人気は絶大で、通帳に入ってくる印税の量もすごい事になっている。
当然忙しさも比例するのだが、それでもこうやって出来るだけ傍に居てくれようとしてくれるのが嬉しい。
「? どうしたの?」
「や、なんでもなんでも」
じっと見つめているのがばれて、なんだか急に恥ずかしくなって意味も無く手の中の石を弄り回す。
よく見ると、石の内部に時計に使われるような数字が浮かんでいる。加工されているのは外側だけかと思ったが。
これは、思った以上に高級品かも知れない。
そんな感想を浮かべたその瞬間、とんでもない事を思い出した。
「お味噌がもう無い!!」
「きゃっ」
佐々木家の朝は白米と味噌汁で始まる。
日本の朝の一食。疲れとストレスが飛び交う現代社会を乗り切る必須メニューだ。日本人なら解ってくれるだろう。叫ぶ必要は無かったが。
よくぞ思い出したと、自分を褒めてやりたい。もしこのまま朝を迎えていたら、食卓は悲惨な物になっていただろう。
摘んでいた石をズボンのポケットにしまい、反対側には財布を入れる。現在九時手前、近くのスーパーもギリギリ開いているだろう。
「お母さん。お味噌が無いから、ちょっと買ってくるね」
「こんな時間に? だったら私が……」
「ダメ、締め切り近いんだから。すぐ近くのスーパーだし、心配いらないよ」
「うん……。本当に気を付けてね?」
「わかってる。じゃあ、ちょっと行ってくるね」
ずいぶん心配そうなお母さんに見送られながら、急ぎ足で夜の街に飛び出し、全力疾走。グズグズしていて閉店などされたら、シャレにならない。
「アリガトウ、ゴザイヤシター!」
奇妙な発音の挨拶を背に、ふうと息を吐く。到着は閉店三十秒前。お味噌は売り場に残り一つ。正に限界バトルを叩きつけられた気分だ。
とにかく目的のブツは手に入れた。お母さんがえらく心配そうだったし、早めに帰ることにしよう。ただし、今度は歩いて。
「う……」
お味噌を手に入れることしか考えずに突っ走ってきた行きとは違い、帰りは辺りを見回す余裕がある。そして余裕があるとどういうことになるのかというと。
「怖いぃ……」
この時間帯、当然すでに日の光は無く、真っ暗だ。
街灯のおかげで周囲数メートルは明るいが、具合が悪いことに電球が切れかかっているのか、不規則に点滅してより一層恐怖を誘う。
不気味に明滅する光源の範囲外も、見通すことができない暗闇の中から今にも『ナニカ』が現れそうで、背筋がブルリと震えた。
だが、これ以上ここに留まってもより長く恐怖を味わうだけだ。意を決して目を半分以上瞑ったまま、ぎこちなく足を進める。
電柱にぶつかったり転んだりしながら本来の倍以上の時間をかけて家までの中間地点に到着する。
色々被害は大きいが、お味噌だけは意地で死守している。
「こわくない、こわくないぃ……」
泣きだしそうになるのをグッと堪えて、もう少し進めばお母さんに会えると自分を勇気付け、前を向くと――。
「――え?」
――道路の真ん中に、『ナニカ』がいた。
ビー玉をはめ込んだように、真っ赤に光る目。大きく裂けて、生臭い息を吐く口。そして一つに定まらずに流動的に蠢く体。
断言してもいい。あれは地球上のいかなる生物とも、根本からして違う『ナニカ』だ。そもそも生物かどうかすら怪しい。
「あ、あああああっ」
歯が噛みあわず、口から勝手に声が漏れる。足が震える。恐怖で気が狂いそう。なのに、視線は『ナニカ』から決して離れてくれない。
ガフゥー。
『ナニカ』は一声上げると、ニタリとこちらを見つめた。
瞬間、その姿が掻き消える。慌てて左右を見回す。いない。
肌があわ立つ程の悪寒に誘われ、空を見上げる。
「うああああああああああ!?」
その巨体からは信じられない程の跳躍を果たした『ナニカ』は、真っ直ぐ頭上に墜落してくる。
「かっ!?」
避けた、なんて格好の良いものではなく、後ろに転んだのがたまたま功を奏した。
壁を砕き、電柱と街灯をなぎ倒し、地面に半ばめり込んだ『ナニカ』は、そのまま土とアスファルトを咀嚼している。
「はあっ、はあっ、は――」
必死に息を抑え、『ナニカ』に気づかれないように慎重に起き上がる。
ゆっくり、ゆっくりと距離を取る。一歩進む度に心臓が張り裂けそうだ。
曲がり角で『ナニカ』が視界から消えると同時に脇目も触れずに走り出す。
メチャクチャな呼吸に、もつれる足。遅い。もっと、もっと遠くにいかないと――。
グガアアアアアアア!!
「ひいっ!?」
咆哮が、だんだん近づいてくる。追いつかれればそれでおしまい。きっと、食い殺される。
目的地も決めずに走り続けて、辿りついたのは、いつもの桜並木。
その中の一本の影に滑り込み、息を止める。
もう、走れない。
獣のような息づかいと、何かを噛み砕く音が響く。近い。
震える体を押し止め、口を押さえる。
心臓の音が、やけにうるさい。
不意に、静寂が場を支配した。
衝撃。破砕音。そして、激痛。
「――あ、かっ――あれ?」
突然視界がグルグル回りだしたと思ったら、地面に叩きつけられた。
背中が、やけに熱い。いつのまにか、生暖かい液体に浸っている。力も、入らない。
目の前には嬉しそうな黒い『ナニカ』。手の平には赤い液体と、青い石。
いつのまに、つかんだんだろ……。
ぐちゃぐちゃの思考は、一向に纏まってくれない。
明日の朝ごはん。算数は嫌い。体育もちょっと苦手。たくさんの犬さんと猫さん、見せてもらう約束。それと、それと――。
「あ…………」
定まらない霞む視線の先、見つけた。見つけてしまった。
『ナニカ』が食い荒らしたであろう、無残な姿の桜の木々を。
あれは――。
『やっぱり、お散歩はここが一番♪』
あの桜ハ――。
『この桜並木はね、夜彦さんとの……お父さんとの思い出の場所なの』
お母さんガ大好キナ――。
『沙夜ちゃんとの思いでもたくさん有る、これからも作っていける、とても大切な場所……』
トテモトテモ大切ナ――。
『また来年も、お花見しましょうね。沙夜ちゃん』
――コロシテヤル!!
――ドクン。
――何かが、心臓に、打ち込まれた。
青い、青い光が手の中から溢れ出る。混濁した思考も、体中に走る激痛も、もう感じない。
跳ね起きる。勢いが付きすぎて、血溜りに滑りそうになったが、何とか踏みとどまる。
手の平を見ると、以前のくすみはどこにもなく、本当の姿を現し燦然と輝く青い宝石。
『ナニカ』を睨みつける。自分でも信じられない程の殺意は、宝石に吸い込まれるように消え、微塵も残っていない。
とはいえ、こいつがお母さんの大切な場所を壊したのは変わりない。その他諸々併せて、怒りのゲージはMAXを超えて人生最大の数値を叩き出している。
それに呼応するように青い光が更に輝きを増す。
「グ、グウウウウ?」
怯えるように後ずさりする『ナニカ』に構わず、ズンズン歩を進め、宝石を握った右手を振りかぶり、思いっきり殴りつける。
「これは新品のお味噌の分!」
「ギョオオオオオ!?」
とても子供の細腕から引き出されたとは思えない破壊力で、ゴムマリのように飛ばされる真っ黒クロ助。
だが、まだ足りない。
「これはメチャクチャ痛かった、体当たりの分!!」
「グルゥアアアアア!?」
ボディーブローがめり込み、文字通り体がくの字に曲がる。
悶絶する黒マリモの前から少し下がり、短い助走からの大跳躍。
「そしてこれが! 大事なものを壊された、お母さんの分!!!」
ミサイルの如き変態的な加速の加わったドロップキックが、黒いのの上半分を粉々に打ち砕く。
「グ、グ、グゥゥゥ……」
これだけやってもまだ『物理的に存在できる』とは、大したものだ。
「最後は! 最後はっ!!」
恥辱と共に湧き上がる、無限の怒り。青い宝石からギュインギュイン不思議パワーを引き出す。
心なしか目の前の産業廃棄物だけでなく、手の中の宝石まで震えているような気もするが、キニシナイ。
「アンタにびびらされてちょっぴり漏らした、わたしの分だあああぁぁぁっっ!!!!!」
迸る光の洪水。地を揺らし、大気を切り裂く無限の青光。
放たれた青い閃光は目標を完膚なきまでに粉砕し、天に昇り、雲を裂き、あわや成層圏突破という所でようやく拡散した。
「ふうっ、ふうっ、ふうぅぅぅ」
徐々に収まる青い光り。同時に、溢れるほどの力の渦も引いていく。
勢いにまかせての行動だったが、今の絶叫、誰かに聞かれれば切腹モノだ。
慌てて辺りを見回すが、幸運なことにどうやら他に人はいない。安堵に息を漏らす。
あれだけのエネルギーの放出に見舞われながら、不思議なことに周囲の被害はほぼゼロ。アレに食い散らかされたはずの桜の木も、引き裂かれた服も、溢れ出た血液も、何もかもが元通りの姿に巻き戻っていた。
「これなら……」
お母さんが悲しむことはない。そのことが、何より嬉しい。
不思議なこともあるものだと、自分の身に起こった事象を棚上げにして感心していると、またもや謎の現象を目撃した。
「浮いてる……?」
不思議ビームの着弾点。黒いのの立っていた地点の上空一メートル程の空中に、今も手に握っている青い宝石と全く同じ物が浮かんでいる。
いや、中央に浮かび上がる数字が違う。こちらの物は1。あちらは、多分19。
「うあ!?」
再び光を放つ宝石に思わずビクリとし、お手玉を繰り返してしまう。
慌てるこちらを尻目に、もう一つの宝石も発光しながら滑るように自然な動きで近づいてきて、二つの宝石が接触する。
ほんの一瞬、目も眩むような閃光の後、ゆっくり目を開く。
「きえ、た? ううん。一つになった……?」
何故か、それが正しい答えだと理解できる。
超常の世界は過ぎ去り、周囲に『ソレ』が起こった痕跡は一切残っていない。
ただ、握り締めた青い宝石と、微妙に濡れた下着の感触だけが、『ソレ』が現実の出来事だと教えてくれた。
それは、佐々木沙夜が不思議な世界に遭遇した、五日後の出来事。
「封印すべきは忌まわしき器。ジュエルシード!」
「ジュエルシードを、封印!」
高まる魔力。変形する魔法の杖。
「リリカルマジカル。ジュエルシード、シリアル21、封印!」
桜色の砲撃が黒い怪物を消し去り、青い宝石を浄化する。
「すごい。この短時間で、これだけの魔法を……!」
「これで……終わったの?」
高町なのは。
後の、時空管理局史上最高の砲撃魔導師誕生の瞬間であり――。
佐々木沙夜にとって、最悪の敵が生まれた瞬間だった。