第四十三話 桃源の夢 アリシアの場所
新歴65年 5月10日 次元空間 (第97管理外世界付近) 時の庭園 玉座の間 PM 2:48
中央制御室において、クロノ・ハラオウン執務官に今回の合同演習に関するデータを渡し、今後の処置について幾つか確認した後、私はジュエルシード実験の後始末を再開し、おおよそ終了したのが15分ほど前。
フェイト、高町なのは、ユーノ・スクライアの3人は魔力切れでノックダウンしており、アルフもまた魔力ダメージによってノックダウン。現在、時の庭園で動けるのは私と主のみ、計画通り。
武装隊の方々の大半は撃墜されたものの、割とすぐに意識を回復したケースが多く、一旦アースラに戻って検査などを行っている。当然、クロノ・ハラオウン執務官は休まずに働いているようですが。
『しかし、終わってみると静かなものですね、マスター』
レイジングハートとバルディッシュもそれぞれの主に付き添っているため、今はただ1人と1機。
「そうね、もしフェイトが生まれていなかったら、随分寂しいことになっていたわね」
主は玉座の間に設置した制御盤によって、アリシアの身体の調整と検査を行い続けている。アスガルドによれば、そろそろ結論が出ている頃らしいのですが。
『マスター、アリシアの様子は?』
「身体は、ほとんど治っているわ。元々肉体的な損傷が大きかったわけじゃないし、脳のダメージも治療されているから健康体と言って差し支えない。今はただ、眠っているだけ」
それは、何よりです。
『では、フェイトの願いは叶ったのでしょうか?』
「ええ、あの子の願いは叶ったわ。アリシアは死んでいないし、身体も治っている、生命力も足りている……………でも、それだけなのよ」
それだけ
その言葉が指す意味とは――――
『生きてはいますし、健康体でもありますが、目は覚まさない。いえ、目を覚ますと不都合が生じる、ということですね』
「………やっぱり、予測していたのね、この結果を」
『はい、計算結果は、この結果となる可能性が高いことを示しておりました。何分、未知の領域であり、私が把握していないパラメータがまだ無数にある可能性もあったため、言及はしませんでしたが』
いったい、なぜなのでしょう。
どうして、私の計算はこのような悪い結果ばかり正確に当ててしまうのでしょうか。
「貴方はどのように考えて、そう計算したのかしら?」
『私には分からないことがありました。そもそもなぜ、植物状態になった人間は、時間の経過と共に蘇生の確率が低くなるのかと』
どんなものであれ、時間の経過と共に劣化する。これは事実でしょう。
仮に、機械が壊れたとして、放置しておけば徐々に劣化し、部品が錆びついてしまえば修理は困難となります。
ですが―――
『壊れた機械も、壊れていない機械も、時間の共に部品が劣化するという事柄に関しては同じです。そこに差が生じるとなれば、壊れているかいないかではなく、劣化に対してどれほど優れた処置をしているか、になるかと、例えば、劣化しやすい表層を削ることであったり、錆止めであったり』
「確かに、機械ならばそうでしょうね」
『そして、アリシアは劣化という問題に対して、現在の技術で行える限りの処置がなされています。フェイトと比較するならば、圧倒的に時間による劣化という問題に対して有利に働くはずですし、実際、ジュエルシードの魔力はその問題を解消することに成功しています』
当然、劣化はゼロではありませんでしたが、それが原因ならば、ジュエルシードによって作られた結晶が肉体を“健康な状態”に維持している以上、アリシアは全快してなければならない。
「アリシアが今も目覚めないのは、時間による劣化が原因じゃないのは明らか。だって、治っているんだもの」
おそらく、主にも既に確証に近い仮説があるのでしょう。だからこそ、取り乱すことなく私の言葉に耳を傾けてくださる。
ですが、それでも人間というものは、自分以外の存在から改めて聞かされない限り、納得できないことがあります。特に、信じたくない事柄などは。
『はい、劣化というマイナスの要素はジュエルシードによって生成された結晶の力で全て取り払われたはずです。生成された結晶とアリシアの相性が悪く、不都合を生じているわけでもありません。その点では理論は完璧だったのでしょう。ならば、本来ならばプラスとなるはずの要素が、彼女の目覚めを妨げていると考えられます』
「成長と共に脳が行う、現在の認識ね」
『肯定です。子供の頃の自分と、大人の自分は全く違う身体です。その違いを脳が受け入れられるのは、日々変化する自分の身体の再認識を行い続けているからこそ、これはかなり昔から存在する理論であり、多くの実験が証明しています』
私にはまったく縁がない問題です。人間は脳と身体を切り離すことはほぼ不可能ですが、デバイスにとってはプログラムさえ保存されていれば、ハードウェアなど大した問題ではありませんから。
「はあ………何でかしら、アリシアは脳死状態で、脳はほとんど動かない状態だったのにね」
『ですが、全く動いていないわけではありませんでした。生と死の境界線にある段階ですら、生命維持に関わる部分は微弱ながらも働いています。だからこそ、貴女は希望を失わずにいられたのです』
何という、傲慢な言葉でしょうか。
機械である私が、人間の希望の何たるかなど、理解することなどあり得ないというのに。
ですが、伝えます。貴女の心を映し出す鏡になることも、私の授かった命題の一つなのですから。
「そうよね、脳が完全に死んだら、身体だけで生きていられるはずもない。逆に、身体がほとんどなくなっても、脳に酸素や栄養が届けられれば、生き続けることはできるけど」
時空管理局最高評議会の3名は、そのような存在となっている。
これを実際に知る存在はあまり多くありませんが、彼らの年齢を考えれば、おおよその見当は誰でもつくでしょう。
『つまり、今のアリシアにとっては、動かないでいることこそが、“正常にして健康な状態”なのですね。まさに、植物のように』
植物が立って歩きだしたとすれば、そちらの方が異常な事態です。
動物とは、その名の通り自ら動く存在。当然、休息は必要としますが、その脳の機能は動くことを前提としている。
ですが、アリシアは自分の意思で動けず、動こうとする意志を持つことが出来ない期間が長すぎました。動物とした在った期間が4年と少し、植物のように動く意思を持たず、ただ生き続けた期間が26年。
その圧倒的な時間は、人という存在を根本から変えてしまうものなのかもしれません。
『あくまで仮説に過ぎませんが、30年を生きた人間が脳死状態となり、26年後にジュエルシードで生成した結晶によって身体の損傷や劣化を取り除かれたならば、動物として再び動き出せる可能性が高いかと』
単純な引き算ならば、そういうことになります。
『ただ、元来は人間の脳なのですから、時間の重み付けは動物として生きた側に傾くはずです。実験も何も行っていないので確証はありませんが、人間として生きた期間の1年は植物のように止まっていた期間の数年、もしくは十数年に相当するのかもしれません』
いずれにせよ、脳死状態からの蘇生を目指すならば、早期治療こそが要というわけですね。
「まあ、ね、他にも色々と要素はあるのかもしれないけど、4年と26年だと、26年に分があったということかしら」
『アリシアは最初の事例ですが、人間として普通に生活した期間の5倍以上の時間を植物状態で過ごすと、“正常な状態”や“在るべき状態”がシフトしてしまうと仮定するべきかと、そしてそれならば、新たな手段の構築も考えられます』
「…………」
『マスター?』
「いえ………貴方は凄いわねトール。もう、次はどうやればアリシアを蘇られることが出来るかを考え始めているのね。私のように、気落ちすることもなく」
『はい、アリシアに時間がないならば、落ち込んでいる時間こそが無駄であるかと』
私は、デバイスですから、落ち込むことはありません。一つの手段が駄目ならば、次の手段を講じます。
「だけど、気付いているのでしょう、トール。アリシアが爆弾を抱えてしまったことを」
『はい、アリシアは眠っていますが、目覚めを妨げるものはありません。そして、今の彼女は考えることが出来るわけですから、彼女が目覚めることを強く望めば、目を覚ますでしょう』
しかしそれは、体内に作られた結晶とは真逆の反応。
アリシアの身体にとっての“正常な状態”を維持しようとする結晶は、目覚めて動くアリシアにとっては毒となってしまう。しかし、結晶を抜き取れば、元の状態に戻ってしまう。
ならば、アリシアを眠ったままにしておく処置を行えば良いのですが、これまで必死に目覚めさせるための研究を行って来たというのに、ここにきて逆の処置をするのでは、マスターの精神的負担が大き過ぎます。
そして、それらを正確に理解してしまったからこそ、マスターは気落ちしているのですね。
『対処法としては、一旦はアリシアを眠ったままにしておき、結晶の力によって、生きている身体がデフォルトであることを覚えさせます。その後、結晶を抜いてアリシアを目覚めさせ、生命力が続く限り活動させますが、結晶がない以上はやがて脳死状態に戻るでしょう』
「そうしたらまた結晶を埋め込んで蘇生させる。その場合は最近まで“動いていた”ことを脳が覚えているから、今みたいに植物状態が“正常な状態”とはならないはず、少なくとも、今よりは人間よりに傾くでしょう、後は、リハビリのように繰り返していく、といったところかしら」
『はい、これがプログラムならば、それを繰り返すことで間違いなく回復できるのですが………』
これはただの、机上の空論というものです。ハードウェアを考慮しない、ソフトウェアだけでのシミュレーション。
「人間はそうじゃないものね、第一に、結晶を埋め込んだ状態で眠り続けることで、脳が今度はどんな学習をするか分からない。けど、脳の学習を封じたのでは脳死状態と変わらないわ、アリシアはいつまでも4歳のまま」
そして、何よりの問題は…………
『この方式でアリシアが蘇る頃には、マスターは70歳を超えているでしょうし、フェイトも30歳近くになっている可能性が高い。それに、数多くのリハビリや、誰も体験したことのない苦しみを味わうことになるかもしれません』
それは果たして、アリシアの幸せとなるでしょうか。
それに、マスターの身体が持ちません。仮に“生命の魔道書”によってリンカーコアの負荷がなくなったとしても、身体が健康であるわけではないのですから。
「奇蹟は起きたけど、奇蹟だけじゃあ人間は蘇らない。ということかしら」
“目覚めることは出来る”状態まで来ている以上、大きな前進ではあります。
ですが、10000mの道のりの、2000m地点から5000m地点までを飛ばしたようなものなのかもしれません。私達が理論を組みあげた部分は、5000mまでに過ぎなかった。
ならば、今度は5000m地点から10000m地点までをジュエルシードで飛ばしてしまえばいいのですが、それも茨の道。まずは経路を確かめ、アリシアの安全を確保せねばなりませんが―――
『マスター、気を落とさないでください』
デバイスである私はともかく、マスターの心の方が危険です。
ただでさえ、危篤状態に近い身体を精神力で支えていたのですから、もし心が折れてしまえば、症状は一気に進行してしまう。
ある実験では、手首の近くにカッターで僅かに傷をつけ、本人に見えない状態で手首に水を流していき。“お前の血液がどんどん流れている。このままなら20分後に失血死するだろう”と告げるだけで、20分後に死んでしまったこともあるという。
人間とは、心の傷だけでも死に至る。これを、“精神死”と呼ぶのでしょう。
人間の心と身体は、決して切り離すことが出来ない。人間の心をアルゴリズムで解析しようとしてきた私だからこそ、それが分かります。
もし、人間の心がプログラムのようにコピーやカットが出来るならば、私は今頃人間の全てを理解しているでしょうから。
「ありがとう、トール。でも、流石に堪えたわね」
『生命の魔道書を使えば、マスターの症状も緩和できます。まだ、諦めるには早過ぎますよ』
「そうね、でも………」
危険、極めて危険。
難しい理屈はこの際重要ではありません。ただ、アリシアが目覚めず、アリシアに会えない、ただそれだけの事実が、我が主の精神を蝕んでいる。
アリシアは主の心の特効薬なのです。残念ながら、これだけはフェイトには代役は出来ません。彼女はあくまでフェイトであり、アリシアではありませんから。
ですが――――――――――予測済みです。
『マスター、お疲れのようでしたら、しばらくお休みください。後のことは私がやりますから』
【アスガルド、計画通りにお願いします】
【了解】
「そうね………うん、そうした方がいいかしら」
その眠りから覚めない危険性すらあり得ます。
現在のマスターの精神は酷く危うい、ずっと眠れば、アリシアの下に行けると無意識に考えてしまう可能性が極めて高いですから。
アリシアは今、目覚めてはいけない状態にいる。目覚めない限りは健康体そのものですが、目覚めてしまえば、結晶が逆の作用を及ぼし、彼女の命を縮めてしまう。
そして主は、アリシアが目覚めない限り、永遠に眠ってしまう可能性が高い。
アリシアを目覚めさせ、主の心を繋ぎとめることも、アリシアは眠ったままとし、主には耐えていただくことも、最適解ではない。
「あれ……?」
『どうなさいました?』
「変ね、もの凄く眠たいわ」
『ええ、それは………』
この先は言えません。命令がない限り。主に虚言を吐くことは出来ませんから、沈黙を。
「御免なさい……少し………眠るわ………」
『はい、ゆっくりとお休み下さいませ…………よい夢を…………マスター』
そして、我が主は眠りについた。
【ご苦労様でした。アスガルド】
【感謝不要】
主が眠られた理由はごく単純、空調設備から、睡眠効果のあるガスが放出されたからに過ぎません。
これ以上私と会話を続けても、主の精神状態が改善される見込みはありませんでしたから、終了させていただきました。
【では、計画を始めます。アスガルド、貴方は手筈通りに】
【了解】
新歴65年 5月10日 次元空間 (第97管理外世界付近) 時の庭園 中央制御室 PM 3:03
【ええ、そういうわけで、時の庭園で現在稼働しているのは私のみです。明日の正午ごろまでは眠らせておいてあげたいのですが】
【それは構いません。こちらもしばらくは合同演習の後始末に忙しいですから、ジュエルシードの引き渡しは…………24時間後の、明日の3時ということで】
【了解しました。ありがとうございます、リンディ・ハラオウン艦長】
【いいえ、ところで、フェイトさんのお願い事は、どうなったのかしら?】
【フェイトの願いは叶い、大きく前進はいたしました。ですが、全てが上手くいったわけでもありません】
【そう………プレシアが起きたら、気を落とさないように伝えてくれるかしら】
【ありがとうございます。必ずやお伝えしましょう】
【それでは、通信を終了するわ】
【了解、通信を終了します】
アースラとの通信が終わり、中央制御室は静寂に満たされる。
『こちらは、問題ありませんね』
アースラからは明日まで干渉はない。これから最低でも12時間は私の全リソースを費やすことになるので、応答は出来ませんから、予めその旨を了承していただく必要があった。
現在、時の庭園で動いているのはトール、アスガルド、バルディッシュ、レイジングハートのみ。
高町なのはとユーノ・スクライアは共にメディカルルームで休んでおり、明日までは目を覚まさないでしょう。
我が主、フェイト、アルフ、そしてアリシアの4名は――――
【準備、整いました】
【ご苦労様です】
魔法人形を用いて、ある部屋へと運びました。
ロストロギア、“ミレニアム・パズル”の力を最大限に発揮できる場所、脳神経演算室へと。
そこには、医療用のベッドというよりも、台座に鏡を嵌めこんだような形を成している、古代ベルカの王の遺体を安置する祭壇に近い装置が8つ円形に並べられている。
これこそが、人格投影型事象変換OSミレニアム・パズルの門。これに人間が横たわることで、人間の脳の情報をミレニアム・パズルへと送り込むことが出来る。
『マスター、貴女は一つだけ失念していることがありました』
アリシアは目覚めておりませんが、脳が活動しているならば、意思を交わすことは可能です。
ミレニアム・パズルは、機械の電気信号を人間らしい思考へと翻訳するインテリジェントデバイスのOSとは逆の機能を持ち、人間の脳の情報を機械が扱うデータへと変換する。
つまり、アリシアの脳の情報を電気信号に変換し、仮想空間(プレロマ)へ入力、同時に我が主の脳の情報も同様に変換して送ることで、仮想空間(プレロマ)において会うことが出来ます。ちょうど、私とバルディッシュ、レイジングハートが電脳空間で意思を交わすように。
それ故にミレニアム・パズルは“幻想と現実を繋ぐロストロギア”と呼ばれ、人と人の夢を繋げる力を持ちます。
『さらに、リニスが発見したこれは、最大8人まで同時に電気信号へ変換し、仮想空間(プレロマ)へ送り込むことが出来るのですよ』
ただし、問題もあります。仮想空間(プレロマ)で傷を負った場合、その情報は脳にまでフィードバックされますから、最悪“精神死”となる可能性があります。模擬戦などに使用する際には注意が必要でしょう。
ですが、逆に考えれば“精神死”に近い状態にある人間を治療するためにも使えるということ。治療に使える物は殺すためにも使え、人を死なせる効果がある物は、使い方によって救うためにも使える。
『個体登録(レジストレーション)は既に完了しています。何せ、私の人格モデルと連動していますから』
やはり、いきなり人間の脳を読み取ってそのまま電気信号に置き換えるのは難しいため、事前に個体登録(レジストレーション)が必要となる。
プレシア・テスタロッサ、アリシア・テスタロッサ、フェイト・テスタロッサ、アルフ、そして、リニス。
これらの情報は長い時間をかけて構築しましたから、私が作り出す仮想空間(プレロマ)において、彼女らは違和感なく動けるはず、リニスは既に故人ですが、その情報は彼女が亡くなる前に登録しておき、時の庭園のサーバーに厳重に保存されている。
ミレニアム・パズルの優れた点は、管制者のみが知っている情報も、仮想空間(プレロマ)へ取り込めるところにあります。
つまり、私の人格モデルに登録されている全ての人間を、登場人物、またはエキストラとして送り込むことも出来るということ。私は人間ではないため、電子情報をそのまま送り込むだけで事足ります。
【ミレニアム・パズル全回路の反応テスト終了、門への接続部もチェック完了。システム、オール・グリーン】
私は中央制御室に在り、全てを管制する。そして、アスガルドからさらに報告が入る。
【被験者観察用生体モニタ全接続を確認。被験者の状態、全員ほぼ正常。潜入(ダイブ)に問題なしと判断】
そう、ほぼ正常。ミレニアム・パズルを用いる際に重要となるのは脳の状態ですから、皆、“生きている”と認識されています。
アリシアも、現実で身体を動かさない仮想空間(プレロマ)ならば、正常なのですから。
【了解しました。ミレニアム・パズルの門を解除します。“アルゲンチウム”の起動を承認】
【“アルゲンチウム”、解凍。仮想空間(プレロマ)の構築を開始します】
さあ、後は私次第ですね。
今、生きている4人は、皆眠っている。
それらの情報を仮想空間(プレロマ)へと導き、テスタロッサの家があるべき姿を創造する。いえ、再現というべきか。
仮想空間(プレロマ)においては、互いが互いの人格を作り上げる。フェイトを主観としたプレシア・テスタロッサと、アルフを主観としたプレシア・テスタロッサでは完全な同一人物とはいえません。
しかし、一人だけでは自己の認識が出来ない。己の知る“世界”を作るには、どうしても他者からの認識が必須となる。5人の家族全員が集まる空間を作り上げるならば、互いが全員を深く知らねばならない。
我が主はアリシアやフェイトのことはよく知っていますが、リニスやアルフのことはそれほど把握してはいない。
リニスは家族全体のことを見ていましたが、過去の我が主と、アリシアのことは知らない。
そして、フェイトとアルフは知っている事柄が最も少ない。それぞれ、二人を足しても人生経験は8年に届きませんから。
『ですが、私は存じています』
プレシア・テスタロッサが5歳の時より、現在まで。
アリシア・テスタロッサが母の胎内にいた頃より、現在まで。
リニスが主の使い魔として作られてより、半年ほど前に亡くなるまで。
フェイト・テスタロッサが、カプセルの中にいた頃より、現在まで。
アルフが、フェイトの使い魔として作られてより、現在まで。
インテリジェントデバイス、トールは、その全てを記録してきました。テスタロッサ家の事柄で、私の知らぬことはありません。人間が忘れてしまうことも、機械(わたし)は最期まで覚えています。
そしてアリシア、貴女からお預かりしていた時間を、返す時がやってきました。
『テスタロッサの家族5人で過ごした時間は、世界のどこにもありませんが、現実において嘘をついていた者がいます』
いつも明るく、笑顔を絶やさないテスタロッサ家のムードメーカー。
プレシア・テスタロッサのことを愛しつつも、時には憎まれ口を叩いたり。
リニスのことを大切に思っていますが、よくわがままを言ったりして彼女を困らせたり。
妹であるフェイトに対してお姉さんぶり、ちょっと偏った知識を教え込んだり。
アルフにフェイトがとられるようで、いじわるをしてしまったり。
ですが、家族皆のことをよく見ており、家族が仲良く過ごせるように、色んなことを率先して行う。
そんな役を、道化の仮面を着けて、本来そうなるはずだった貴女の代わりに演じていた者がいました。
『現実の嘘は、仮想空間(プレロマ)の真実となります。偽りの役者を、本来の人物と入れ替えるだけですから』
現実においては、“トール”がいた場所に、アリシアが入ることで、テスタロッサの5人家族は完成する。ムードメイカーの”代行”は席を立ち、そこへ本物が座ることで全てが整う。
『ああ、そういえばフェイト、貴女には謝罪せねばなりませんね』
遊園地に行った際、子供のようにはしゃぎまわって、貴女を連れ回したのは私でした。
≪聖王とは宇宙怪獣ゴンドラを退治した過去のヒーローであり、その聖骸布を見たものは魔法少女の力を得てヒロインとなれるのだ≫
などという嘘を吐き、聖王教会へ出かけた思い出を作ったこともありました。
“聖王教会に一度行ってみたい”と言ったのはアリシアなのです。彼女は、古代ベルカのお姫様の衣装に興味があったようですが。妹を連れ出す姉の代行を私はうまく出来ていたでしょうか。
『全て、貴女にお返しします、アリシア』
貴女が得られるはずだった家族との時間を。
妹と二人で川へ行ったり、本を読んだり、一緒に遊んだ記憶を。
時には喧嘩をしたり、一緒にリニスに怒られたり、研究に忙しい母を困らせるためのいたずらを仕掛けたりした思い出を。
『貴女と母の時間を、貴女と妹の時間を、家族全員の時間を』
アリシアだけではありません。
我が主も、貴女が目覚めることを願い、26年の時を歩んできました。もう、幸せな記憶が与えられてもいいはずです。
フェイトも、アルフも、本来ならばロストロギアを探索するような年齢ではありません。母がいなくなってしまう不安に怯えながら、眠れぬ夜を過ごす必要はないはずです。
『取り戻しましょう。こんなはずではなかった世界の全てを』
どんな魔法を使っても、過去を取り戻すことは出来ないと、賢者は語る。
ですが、取り戻せないならば、世界を欺けば良い。
テスタロッサの家族が、幸せに過ごした世界が存在しないならば、私は世界を騙してみせる。
過去は取り戻せませんが、私の電脳を通して、悉く時の庭園に収容されています。
『例え幻想に過ぎずとも、虚構に過ぎずとも、人間の脳は、それを真実と出来るのです』
いつかは、現実に帰らねばなりません。
人間の神経信号が末端から脳へ伝わるまで、[0.1s]はかかりますが、電脳空間での電気信号の速度は[ns]単位。
OSを介すること、各種の変換処理を差し引くこと、さらに、私とアスガルドの演算性能の限界。それらを総合すると、仮想空間(プレロマ)と現実空間の時間差は、177倍までが限界です。
つまり、現実の一日、24時間は、仮想空間(プレロマ)の177日に相当する。仮に12時間だとしても、88日は確保できますが、それらが限界でもある。仮想空間(プレロマ)への潜入(ダイブ)可能な時間は12時間程度が目安であり、24時間は最終ライン、それ以上は人間の身体に悪影響が出ます。
ですがせめて、幸せな記憶を。
私が登録してきた436万7986の人格モデルも、エキストラとして最大限に活用し、現実と違わぬ虚構を作り上げて見せます。
まあ、その大半はテレビ放送などの映像信号を基にした芸能人やスポーツ選手などですが、エキストラとしてならば問題ありませんし、現実に接触して構築したモデルも千を超えます。
高町なのは、月村すずか、アリサ・バニングスをフェイトの友人役として登場させることも、リンディ・ハラオウンを我が主の友人として登場させることも可能です。
全ては虚構であり、我等は主に虚言を弄する不忠者ということになりますが――――
『異存はありませんね、バルディッシュ』
『Yes, sir』
そして、この夢の舞台、幸せのみが詰められた桃源郷を作り上げるにあたって、唯一、裏切り者がいます。
バルディッシュは、私が送り込むスパイ。私は外側からしか状況を把握できませんから、どうしても内側から知る役目が必要となる。
彼女らが違和感を持った際、全てを知りつつそれを気のせいだろうと嘯く存在が必要なのです。
本来ならば私が担いたいところですが、私は“トール”としては参加できませんし、何よりも舞台の構築に全リソースを割かねばなりません。
『これが仮想空間(プレロマ)である限り、いつかは彼女らも悟るでしょう。ですが、全てを知りつつ演じるのではなく、自然に家族5人で過ごした記憶を、彼女達へ残しますよ』
『はい、ですが、マイスターは?』
『リニスの情報通りに動きますが、もし記録にない事態が発生した場合は、私が代行しましょう』
彼女らが主観である以上、現実ではなかった事態も発生しうる。
その際に違和感がないように、事象を繋ぎあわせる役が、私とアスガルドなのです。
そして、これは夢ですが、ただ5人だけの空間を作り上げるわけではありません。
中心となるのはアルトセイムにある時の庭園ですが、当然、買い物にも出かけますし、遊園地や動物園にも行くでしょう。
その経路となりうる場所も、その景色も、全て私は記録しています。各次元世界のリゾート地も、あらかた探索しましたからね。
『この舞台が幕を閉じた時、貴方の主はどのような選択をするのでしょうか?』
『分かりません。アリシアと共に永遠に眠る道を取るかもしれませんし、娘達と共に生きるために最後まであがく道を取るかもしれません。ただ、アリシアを葬送し、フェイトと共に生きるという選択肢は低い確率でしょう』
その選択肢は幾度もありましたが、一度も選ばれませんでしたから。
『私は、例えどのような結末であっても、幸せな記憶を我が主、フェイト・テスタロッサへ残して差し上げたいと思います』
『私も同様です。主のために機能するという命題を授かりながら、主の幸せを願わないデバイスなど、どの次元世界にもいませんよ』
我々は、テスタロッサ家によって作られたインテリジェントデバイス。今こそ、その真価が問われています。
【貴方もお願いしますよ、アスガルド。貴方とて、テスタロッサ家に作られた魔導機械ですから】
【無論】
さあそれでは、機械仕掛けの舞台を始めましょう。
観客はおらず、役者達も機械に騙され、脚本は存在しない。
しかし、この時の庭園ならば、我等の独壇場。
例え残酷なる世界が立ちはだかろうとも、世界を騙しきって見せましょう。
テスタロッサ家に仕えるデバイス、その存在意義の全てに懸けて。
幸せに満ちた、桃源の夢を………我等の主達へと
演、算を………続行、します
あとがき
トールが作り上げた桃源の夢は、A’Sにおいて闇の書の中でフェイトが見たものをさらに発展させたものです。原作ではテスタロッサの家族しか登場しておらず、フェイト自身が状況に違和感を最初から感じていましたが、こちらでは違和感がないようにトールが“騙して”おり、さらに、彼女ら以外の人物達も登場します。
特に、5人の誰もが知らず、トールのみが知る人物を登場させることで、ここが現実であると錯覚させるなど、様々な工夫を凝らしており、トールは管制役として舞台を演出し続けます。
私に筆力があれば、幸せな光景を書き上げていきたいのですが、かなり難産になりそうなので、ここは読者の方々の想像力にお任せしたいと思います。原作の夢よりも、さらに幸せな夢が彼女らを包んでいる光景をご想像下さい。
無印も、本当の最期まで来ました。後2,3話で終了すると思いますので、頑張りたいと思います。