「や、たつのぉ……」
「ごめん、痛かった?」
「だいじょ、ぶ」
なのはは扉の前で足を止めた。いや、動かなくなった。
漏れ聞こえてきたのは龍野とフェイトの声だ。
聞き間違えるわけなどない。
「何、してるのかな……?」
後藤 龍野、夏休み中。
もしかしたら最大級の地雷を踏んだのかもしれません。
余生におけるある世界との付き合い方 ~真夏の大決戦!…なの?~ 後編
「ん、あ」
―温かい……。
龍野の手が触れて、不思議な感覚に包まれる。
右手だけを龍野の膝に乗せている状態は初めてだった。
フェイトの手へとゆっくり、やんわり力が込められる。
凄く丁寧に扱われているのが分かってフェイトは嬉しくなる。
「大丈夫?」
心配そうにこちらを見る龍野にフェイトは小さく頷く。
痛くなどない。心地よさに声が出たのだ
なのはは声を漏らしていたがそこまで大きい刺激ではなかった。
初めてだから加減がされていることは容易に想像がつく。
「うん、平気だよ」
「そっか」
嬉しそうな横顔だなとフェイトは思った。
龍野といる時間は増えたが余り見ない表情である。
フェイトには龍野の表情が分かるが同級生には無表情に見える人もいるらしい。
不思議であるが、それを言うとアリサには呆れた顔で見られた事が記憶に新しい。
同じくらいの力で確かめるように触れられた後龍野に顔を上げて言われる。
「もう少し、強くする」
「わかった」
右手だけなのに龍野の手は凄く細かく動いた。
フェイトは真剣な顔をずっと見ていた。
溢れてくる感情は何を示しているのか分からない。
ここ数ヶ月で一気に仲良くなった人物は一緒にいるとただ心地よくて、事故のことなど忘れてしまいそうになる。
そしてだからこそ動かない左手を思い出す度悲しくなる。
「たつの、いつもなのはにマッサージしてるんだ?」
ふとした疑問を口に出す。龍野は“フェイトも”と言った。
なのはにもこれを施しているはずで、しかも口調から一回ではないはずだ。
フェイトとなのはの間に知らないことは多くない。
だが龍野と何をしているかなど、以前のフェイトには興味がなかったため仕方ない事である。
「時々」
フェイトの疑問に龍野は素直に頷いた。
視線は変わらない。ひたすらにフェイトの手である。
マッサージに一生懸命なのは理解できるが少し寂しく感じた。
「そっか」
「なのはは、昔から疲れを溜める癖がある」
静かな部屋にフェイトと龍野の声だけが響く。
何時訪ねてもこの家は基本的に無音に近い
時折、強く鳴いた蝉の声や通り過ぎる車の音が聞こえるのみだ。
静謐な空間は二人で過ごす分には気にならない。
ただ一人で過ごすとなると寂しくないのだろうかとフェイトは思う。
実際さっきまでの一人の時間は-その前の状況もあるが-フェイトに寂寥感をもたらしていた。
「……無理しがちではあるね」
龍野の言葉に苦笑する。
なのはは自分の目から見ても働きすぎな所がある。
その目的も欲求も分かる為、止める事はできない。
手伝える事は手伝いたいが親友の性格からしてそれも少ない。
「だから練習代わりにしてた」
龍野の言葉に首を傾げる。
練習というのは目的があってするものだ。
なのはの疲労を取る以外の目的があったのだろうか。
―実際この時のフェイトの感想は当たっている。
龍野の目的はなのはの疲労を取る事であったし、フェイトに練習と言ったのは気を遣わせないためだ。
仲の良い親友からなのはに漏れたのでは今まで隠した意味がない。
「練習?マッサージ好きなんだ?」
「必要だった」
淡々と答える姿は見慣れたものだ。
龍野は必要なことしかしないが、それらに関しては手を抜かない。
掃除も洗濯も気づいたときには終わらせられていて手伝わせてもくれない。
動かない左腕で家事をこなすことは大変だろうにフェイトにはそれが僅かばかり不満である。
「そっか…っ…」
「痛い?」
ピリッと少し違う感覚が走る。
痛み、ではない。こそばゆいような感覚だった。
手を止めている龍野に笑顔をつくる。
「ううん、大丈夫」
フェイトの言葉に龍野は押し黙ってしまった。
何か気に障ることをしただろうかと心配になる。
たつの、と声を掛けようとした所で顔が上がる。
見えたのは僅かに眉を顰めた顔だった。
―怒ってる?
そうだとしたらとても悲しくなる。
フェイトにはその原因が少しも分からなくて困惑するばかりだ。
「なのはもだけど、フェイトも結構酷い」
龍野は呆れる。
なのはの身体を長年診て来た。ありえないと思っていた。
あの若さで溜まるべきでない量の疲労が蓄積されていた。
魔法に関わりたくなかった龍野が定期的に回復しなければならないと決心してしまうほどの酷さ。
なのは以外で見る事のないと思っていた出来事が目の前に再び現れたのだ。
自然と機嫌も悪くなる。
「そんな事ないけど」
フェイトは龍野の言葉に首を傾げた。
疲れが溜まっていると言われてもフェイトに心当たりはない。
なのは程働いているわけでもないしはやて程あちこち飛び回っている訳でもない。
執務官という職務は思いの外、融通が利くものだった。
龍野のことで休みを取るようになってから気づいた事実である。
「気づいてないだけ」
龍野はゆっくり気を巡らせる。
急激な変化は何事も体に負荷をかけることになるからだ。
凝り固まっている疲労を一つ一つ徐々に解き解す。
繋がっている腕から体の中心、そして末端へと伝えるイメージだ。
「や、たつのぉ……」
多めに気を回した事で変化に気付いたのだろうかフェイトの声が上がる。
龍野の耳に馴染んだ、心地良さそうな声である。
いつもはなのはから漏れるそれはフェイトでも同じようだ。
少しの恥ずかしさと安心感が溢れる。
この声を聞くのは未だ恥ずかしいが気持ちいい事も同時に証明されているのだ。
「ごめん、痛かった?」
「だいじょ、ぶ」
段々とフェイトの体から力が抜ける。
初めてのことに緊張していた体が馴れ始めたのだろう。
確かめるように垣間見た表情は緩んできていた。
「これくらいが丁度良い?」
「うん、気持ちいいよ」
分かってはいたが一応尋ねる。
身体を解すというよりも気を回すことに意識を集中する。
魔法では直せないような蓄積された疲労を回復することが目的である。
特に成長が止まるまでは肉体を弄りすぎるのは良くない。
そういう面から考えても管理局の就業年齢の低さは問題だろう。
子供の内から働く事が身体へ影響するのは地球でも確認されている。
科学の面も進んでいるミッドチルダがその事を知らないはずがない。
「んぅ、ごめん…なんか、眠く」
「いいよ」
眠くなるのは当然である。
溜まっていた疲れを気で解きほぐしているのだ。
押し留めていたものが普通より多い分、解き放たれれば強い眠気として襲う。
なのはがいつも眠ってしまうのと何も変わらない。
そして同時にフェイトの体にあった疲労が多い事を表している。
「おやすみ、フェイト」
「ん」
密やかに息が静まっていく。
穏やかに一定のリズムを刻むそれは龍野の気持ちも落ち着かせる。
安らかな表情を壊すものがないのを祈るばかりだ。
―言えた立場じゃないか。
その顔を崩し、幸せな日常に重石を投げ込んだのは龍野である。
ただでさえ脆い足場の上に立つ少女に罪悪感なんて錘を科したのだ。
龍野は自嘲するように優しい寝顔に微笑んだ。
フェイトを起こさないようにそっと手を離す。
夏とはいえ薄掛けくらい持ってこなければ風邪を引いてしまうだろう。
足音を出さないように意識をして居間を出る。
昔ながらの木の扉が軋まないように注意を払う。
****
「龍野ちゃん」
「あ、なのは」
布団は龍野の部屋においてある。
この家で使うのはほぼ龍野だけである為問題はない。
一枚ずつではあるが様々な種類のものが置いてあった。
そうすることで収納庫に取りに行く手間を省いているのだ。
龍野が部屋に戻るとなのはは既に起きていた。
ベッドに腰をかけている様子は何処か先ほどまでのフェイトと被った。
俯けた顔に暗さを見て首を傾げる。
「どうかした?」
「フェイトちゃんにも、してたの?」
ぼそりと呟かれた言葉は静かな部屋に充分に響いた。
フェイトに“も”していた。その言葉に当てはまるものを龍野は一つしか知らない。
とりあえず薄掛けの仕舞われているクローゼットを開き、目的のものを手に取る。
夏も盛りの時期であるので薄掛けは多めに入れてあった。
なのははその背中をじっと見つめる。
龍野は人の感情を読むのが得意だ。
文章においても日常においてもそれは変わらないと思う。
的確になのはに色々な事を教えてくれる。
「マッサージの事?」
「うん」
かちゃりと軽い音とともにクローゼットが閉まる。
龍野がなのはに振り返る。その手には涼しげな藍色のタオルケットがある。
普通の色より少し深いそれは龍野に似合うとなのはは感じた。
「してた」
「……そっか」
淡々と答える龍野の声に「やっぱり」となのはは小さく呟いた。
扉の前で聞こえた声はやはり聞き間違いではなかった。
万が一にも間違えるとは思っていなかったが、なのははその可能性を信じたい気持ちだったのだ。
なのはの心情は微妙である。
フェイトの疲れが取れる。それはとても喜ばしい事だ。
この頃は減ってきているとはいえ執務官という職務はなのはより責任が伴う。
判断しなければならないことも多いだろうし、きっと疲労の蓄積も早い。
―フェイトちゃんの方がしてもらった方がいいの。
なのはの理性は確かにそう告げている。
龍野から二ヶ月に一回も無いくらいではあるがマッサージを受けているなのははその効果を実感している。
まず体は軽くなる。魔力の運用もいつもより上手く行っている気さえする。
レイジングハートに聞くと効率よく回せているのは間違いないようだ。
だが、もやもやする何かがなのはの胸には存在していた。
「フェイトもなのはと同じくらい酷い」
僅かに険しい顔で龍野はなのはに告げた。
持っていたタオルケットを左肩にかけた姿は良く見る。
左腕が使えないから布一枚だとこうやって運ぶ事があるのだ。
右手で持ちながら移動も出来なくはないが面倒くさいらしい。
なのはは藍色の薄掛けから視線を下げる。
左手首に収まっているのはフェイトが退院祝いにプレゼントしたリストバンドだ。
律儀な性格の龍野はきちんと毎日それをつけていた。
何故か、それを見ていられなくてなのはは視線を逸らす。
「フェイトちゃんも忙しいから」
なのはは苦笑した。
魔法を知らない龍野に任務とは言えない。
習い事ということになっているが余り重なりすぎれば変に思うだろう。
幸いな事に龍野から疑問を呈された事はないが適当な事は口に出来ない。
「なのはも、フェイトも頑張りすぎる」
「そんなことないの」
龍野がなのはの側に寄る。ベッドに座ったなのはの頭は低い位置にある。
頑張っている事の褒美のように柔らかい手が髪を撫でた。
なのはの表情が少し緩む。
するすると指の間を通る感覚は心地よい。
ある程度の長さを持つ髪だからこそ感じる事のできるものだ。
「このままだったらフェイトもなのはと同じようにしないといけなくなる」
「そう、だね」
龍野の言葉になのはは再び顔を強張らせた。
――分かっていた。
優しい龍野がフェイトの身体を診たらどう思うかなど容易に想像できる。
そしてそうして貰った方がフェイトにとっても良いに決まっている。
どういう能力、または勘なのかは知らないが龍野は疲労というものに関して敏感だ。
分かっていた。分かっているのに何かが同意するのを引き止める。
その意識が表面に出てしまう。なのははいつの間にか龍野の服の裾を握っていた。
「なのは?」
自分を引き止める感覚に龍野は首を傾げる。
視線を下げるといつかのフェイトのように服の裾が確りとなのはの手に収まっていた。
―どうしたんだろ。
心当たりがない。これまた先ほどのフェイトと同じ状況だ。
眠るまではいつもと何も違わなかったし、怖い夢でも見たのだろうか。
頭を働かせるも答えは出ない。
「え、あっ…その、ごめんね」
「別に構わない」
今気付いたようになのはが驚いた顔で手を離す。
龍野はその姿に再び首を傾げたくなるが堪えた。
なのはの様子が本格的におかしいと思ったからである。
じっと見つめると慌てた様子でなのはが言葉を紡ぐ。
「あの、フェイトちゃんそんなに酷いの?」
なのはが苦し紛れに聞いた言葉に龍野は納得する。
親友に疲労が蓄積しているなどと言われて心配しない幼馴染ではない。
言い方を間違ったと自責する。
酷いと言っても命に関わるわけではないし、なのはよりは良い。
恐らく任務数の差と休みを取る頻度の問題ではないかと龍野は推理した。
なのはは変わっていないがフェイトが仕事を減らしているのは目に見えて分かる。
フェイトが今の生活を続けるならもう一度気を巡らせたらする必要はなくなるだろう。
だがそんな事は龍野しか分からない上、先ほどの言い方では誤解するのも無理がない。
「酷い状況だっただけで、今の生活ならたぶん大丈夫」
「そうなんだ」
「うん。フェイトはなのはと違って休んでくれてるから」
龍野の言葉になのはは苦笑しか出来ない。
フェイトが休みを取るようになったのは間違いなく龍野のお蔭だ。
最初は左腕が使えなくなった龍野の世話をするために休みを取っていた。
それはどちらかと言うと義務染みたものであったが、直ぐに自主的なものに変わる。
元々休まない人物だったので有給は溜まっていたのだ。
なのはとてそうしたかった気持ちはある。フェイトに負けず劣らず休みは溜まっている。
だがなのはの中にはフェイトの分まで任務を続けなければならないという感情もあった。
―苦しんでいる人や困っている人を助けたい。
その感情は二人に共通するものだ。
フェイトが休むのは仕方ない事である。また龍野の側にいてくれている事で安心できる。
だから親友の分までなのはは働かなければならないと思っていた。
「もう一回くらいで大丈夫」
「良かった」
なのはは笑顔になる。
フェイトの体調の事もだが一回で済むということに対しても、ほっとしていた。
龍野のマッサージは今までなのはしか知らなかった。
施されるのが龍野を訪ねた時だからである。それが今回初めて知られてしまった。
しかもこれからも続ける必要があるかもしれないというのである。
今まで独占してきたものが奪われる。それは対象が何であれ喜ばしいものではない。
――独占欲。
なのはの胸に渦巻いていたのはそれに違いなかったのだが、この家にいる人間でそれを知る者はいない。
フェイトはなのはにはトコトン甘い上、寝ている。
なのはは感情、特にそういう方面には疎い性質だ。
そして一番鋭い龍野はなのはの胸にそんなものが生まれている等、露にも思っていなかった。
~真夏の大決戦!…なの?~ 後編 end
前後編なので連日投稿にしてみた。
色々種を蒔いておこうと思う。勿論百合の。
さてそろそろ話を進めたい。
自己満足の百合分はこの前後編で大分補給した。
こんなに溜め込むなのはじゃ、いつか刃傷沙汰を起こす気がするが気にしない。
きっと便利で免罪符な非殺傷設定だ、きっと。
……爆発しない事を祈る。
感想・誤字報告・指摘、感謝する。
勢い話だが気に入ってくれたようで嬉しい。
百合の良さとフェイトの可愛さが伝わってくれれば僥倖だ。
魔法のばらし方については悩み中だ。
恋人になれば教えてくれるよな、とか血迷った事も考えたがティアナのためにそれはできん。
頭の中で試行錯誤してみる。
では。