朝になった。
新生活2日目の始まりである。
バールの元のマスターから貰った建物は山に囲まれるようにして建っており、その様子はまるで何かから隠れているように思えたことから、俺はこの建物を秘密基地と名付けた。
この秘密基地の玄関を出てそのまままっすぐ森を抜ければ、そこには緑の草原と風車の回る丘がある。
その丘の上からは視界いっぱいに広がる透き通った青空と、そしてどこまでも伸びてゆく美しい水平線を見ることができる。
白い雲と青い海の織り成すコントラストは、足元に広がる緑の草原と相まって何とも言えない荘厳な雰囲気を醸し出している。
また後ろを振り返れば広大な向日葵畑があるのだが、こちらは誰も手入れをしていないせいかかなり見苦しいことになっている。
俺は向日葵が好きなのでこれに関してはいつか何とかしたい。
まあそれは置いておくにしても、こういった大自然の絶景を前にすると人は『いかに自分はちっぽけな存在か』という実感が強く湧いてくるものらしい。
そしてそれは俺にも当てはまるようで、俺はこの圧倒的な大パノラマを前にして訳もなく涙が溢れだしてくるほどの強い衝撃を受けた。
うん、この素晴らしい感覚を味わえただけでも転生して良かったな。
さて、そんな世界遺産的な風景もいいけれど、人は物を食べなければ餓えて死んでしまう。
これは動物であるなら例外は存在しないことの一つである。
「なあバール。 前のマスターから食事はどうすればいいとかって聞いてない? どっか街で買って食えとかさ」
朝の散歩兼辺りの散策から秘密基地へと帰る道中、お腹が減った俺はバールにそう問いかけた。
「現金は金庫の中にあるのだが、それを使える街は結界から外へ出ないと存在しない」
「でも結界の端ってめちゃめちゃ遠くなかったか?」
確か昨日の話だと、日の出から歩いて日没までにその境界にたどり着けるかどうか、って距離だったはず。
そんな距離を空腹のまま踏破することはとてもじゃないが不可能だ。
「そうだな。 だから移動魔法を覚えるまでは山にあるものを採ってきて食べることになるだろう。 飲み水は湧水が家の近くにあるからまずはそこで水を汲んできたらどうだ?」
「それはいいな。 あー喉乾いた」
実はこの秘密基地、蛇口をひねっても水が出てこない。
さすがの魔法世界でも水道がひかれてないと水は得られないようだ。
というかそもそも水道局と契約をしてないって理由が一番ありそうである。
さて、バールの言によれば、秘密基地の裏手には山に入っていく獣道があるとのこと。
そして湧泉はその道の先にあり、そこから湧水を手に入れることが出来るらしい。
それを聞いた俺はリュックに水筒をいくつか詰め、湧水を汲みに行くため家の裏手に回った。
しかしそこで俺が確認できたのは草が生い茂り過ぎていて道どころかその痕跡すら残っていない、入ると明らかに遭難しそうな森だけだった。
「おい、どうすんだこの状況」
「すまない、私がシャットダウンしている間に予想以上の時間が経過していたみたいだ。 だが方向は覚えている。 かき分けながら進もう」
「簡単に言ってくれるな。 お前は怪我しねーからいいけどこの草普通に固くて刺さるんだぞ? ほら見ろ、血が出てきたじゃねーか」
俺は草を掻き分けようとして切れた手の平をバールに向けて見せ付けた。
「なに、涌き水の湧いている場所までは歩いて5分もかからない。 それに水がなければ死んでしまう。 その程度の出血なんてそれに比べれば些細な事だとは思わないか?」
「まあ確かにそうなんだけどな。 でもそれをお前に言われることは納得がいかねえ」
「だからって私を石で削る必要はどこにもないぞ」
それから2時間後。
初めにバールに案内された湧泉は土砂で完全に埋まっており、水の痕跡などこれっぽっちも見当たらなかった。
仕方がないので別の湧水を必死に探し歩き、つい先ほどようやくきれいな湧水を見つけることができた。
「つかここ遠くね? めっちゃ家から遠くね? これから毎日ここまで通うのとか超しんどいんですけど」
だがその場所は秘密基地から直線距離で約3kmの位置にある鍾乳洞の入口。
俺は家を出てからいろいろと感じた感情をバールにぶつけた。
「マスターの文句はわかったから私を岩に叩きつけるのはやめろ」
「だったら嘘つくんじゃねえっての」
「まさか湧泉が土砂によって埋まっているとは……。 多少の雨でどうこうなるとは思えなかったのだがな」
「言い訳はいいから何かいい方法がないかお前も考えろよ」
ここまでの道のりは崖みたいな急斜面を登ったり降りたりと、もう冒険そのものといっても過言じゃないレベルだった。
うん、俺は自分で自分をよく死ななかったと褒めてあげたい。
「なあ、水分けてくれるご近所さんとかいないの?」
「居ないな。 一番近いご近所さんでもここから百km近くは離れている」
「アホか。 それはもうご近所さんとは言わねえんだよ」
「そもそも結界の中に家はあの一軒しかないのだ。 そこらへんは諦めてくれ」
しかし、なんでまたそんなところに家を建てる必要があったんだ?
もしかしてあの標本コレクションを守るためだろうか。
まあコイツの前のマスターは変人だったらしいからな。
仙人にでもなりたかったという疑いも捨てきれない。
「そしたらあれだ、これはとっとと移動魔法とかいうやつを覚えないと駄目だってことだ?」
「そうだな。 ここへ来る道はかなり危険な上、帰りはさらに荷物が重くなる。 雨の日は足を滑らせて死ぬこともあるだろう」
「そうだよなぁ。 これに水入れるんだもんなぁ。 はあ……」
俺はすっかり忘れていたことを思い出し、暗欝な気分になった。
なので腹いせに鞄から取り出した水筒を泉に投げ捨てた。
あーもう面倒臭えなぁ。
神様とかが出てきて助けてくれたりはしないんだろうか?
いや、泉から出てくるのはヤバイな。
金の水筒とか銀の水筒なんて渡されたら重量過多で確実に滑落死してしまう。
いっそこのまま手ぶらで帰るか?
それからさらに数時間後。
結局俺は水筒に水を汲み、さらに途中で食べられる山菜やキノコをバールに聞いて採集しながらなんとか秘密基地まで戻ってきた。
採ってきたそれらは野外で適当に調理し、塩で適当に味をつけて食べた。
空腹は最高の調味料だとはよく言ったもので、その味は適当に作ったもののはずなのだが、確かに今まで食べた物の中で一番美味かったと言えるかもしれない。
なおその調理に使った塩は背に腹は代えられないためあの鉱物コレクションから岩塩を砕いて使った。
こうして俺が異世界初の食事を終えたとき、太陽はもう西の空を赤く染め始めていた。
でもやっぱり山菜やキノコだけじゃあまり食べた気がしない。
そうだ、せっかくここは山なんだし川に魚でもとりに行けばいいじゃないか。
「よしバール、魚とか食いたいから一番近い川まで案内してくれ……って、そうだよ、今気付いたけど川の水なら飲めるんじゃないのか?」
「それができるなら湧泉が枯れていた時点でその案を提案している。 川は確かにこの近くにあったのだが一度地形ごと消滅した」
「は? 消滅?」
何を言っているのかさっぱりわからない。
「以前マスターが川魚を生で食べて寄生虫にやられたとき、その報復に川を蒸発させたのだ。 今はもう川自体は復活しているだろうが、その蒸発させた方法に問題があってな。 川の水を飲む事はあまりお勧めしない」
「一体どんな方法で蒸発させたんだ?」
キチガイじみた圧縮魔法の件からしてもまともな方法ではなさそうだが――
「転移魔法の応用で太陽表層の超高熱領域をこの辺りに召喚したのだ。 その100万度を超える高温や荷電粒子、そして高エネルギー放射線のせいであたり一面は焼け野原になった」
おおおおお、おま、おま!
「またその時結界は張ってあったものの、国防上重要な電子機器のいくつかが焼けついたせいでこの星では大パニックが起こった。 慌てた彼は証拠隠滅に放射能に汚染された大気や生物を転移魔法でほとんど破棄したが、土地の一部は未だ放射能に汚染されたままだろう。 ちなみに報道では最終的には彗星が落ちた影響とされ、『ツングースカの惨劇再び』などの見出しで紙面のトップを飾ったぞ」
「そんなこと自慢げに言うな!」
水素爆弾の中心温度がその400倍程はあるから世界最高温度ってわけではないだろうけど、だとしてもそれを普通に個人で怒りにまかせて行っちゃう時点でもう創造神クラスじゃねーかその糞野郎。
そしてそっからこんだけ緑が回復しただけでも地球すげーよ。 大変お疲れ様でした。
でも今の話を聞いて思ったんだが、この秘密基地は俺へのプレゼントじゃなくて単に住めなくなったから棄てただけなんじゃないか?
というかそうとしか考えられないだろ。
きっと家の中も放射能で汚染されてるんだろうなぁ。
昨日はビビって蓋を閉じたけど、あれは無駄な努力だったのかもしれん。
「なんなら見に行くか? おそらくまだ破壊の爪跡は残ってると思うぞ。 ガイガーカウンターと放射線防護服はX線トポグラフィー解析室に置いてある」
「いや、なんだかすごく疲れたからもういいや。 そもそもそんなものが必要になる場所には行きたくないだろう。 常識的に考えて」
というかトポ像用の実験室もあんのかよ。
ますます秘密基地じみてきたな。
「一応肉類に関してはこの山にも野生動物が住んでいる。 それを捌いて食べてもいいんじゃないか?」
「魚を捌くのならできなくもないが、普通の陸生生物の捌き方はわからん。 お前は知ってんの?」
「残念ながら私も知らないな」
「なら仕方ない。 しばらく食事は山菜や果物で済ますとして、とりあえず移動魔法を何とかするとしよう。 水がなきゃ話になんねえしな。 あとこの山で採れる食べられる物についてもっと詳しく教えてくれ」
これを知っておかないと生まれて直ぐにまた死にかねない。
まあ被曝によって二週間程度で死ぬかもしれないけどな! サノバビッチ!
「それは任せてくれ」
「おお、頼もしいな」
「私も昔は世界中を旅したものだが、その際食べたら危ないものは前のマスターが身をもって教えてくれたからな」
ジェムおじさんの死因の1つには『拾ったものをそのまま食べたから』ってのが絶対入ってるんだろうなぁ。
「それと先に忠告しておくが、このあたりは冬になると食べられるものがほとんどなくなるぞ」
「なら冬になる前には魔法を使えるようになってないとまずいな。 後は畑を作ることでも考えておくか」
場所はあの丘にある向日葵畑の近くを使えば何とかなるとして、野菜類の種はどうしよう?
まあ結構離れているとは言っても転移魔法で街に行けるようになればなんの問題もないか。
俺は改めてこの世界で生きていくためには魔法が重要であることを認識した。
さて、なんだかんだで栄養や魔法の問題は抜きにして食事は何とかなった。
服のほうは1か月は洗濯が必要ない程度には用意されていたので、それまでに移動魔法を覚えて街にあるはずのコインランドリーに行けば何とかなる。
住居に関しては屋根付きで、電気は太陽光発電と丘にある風車による発電があるので特に問題はない。
風呂は天然の温泉が近くにある。
衣食住がそろっていれば健康で文化的な最低限度の生活が送れると誰かが言っていた。
実際その通りで、俺もさっきまではそう思っていたし、今後この生活が向上することには微塵の疑いも抱いていなかった。
多少食べ物に不自由しようとも気が付けば意識を失っているデスマーチや、胃に穴が空きそうになる研究発表での教授陣からのフルボッコとおさらばできたことを考えれば、この生活のほうが億倍マシだろう。
そう思っていたのだ。
だが現実は非情である。
物を食べる動物には必ずと言っていいほど備わっている機能が、今俺に牙を剥く――――
「なあバール、こいつを見てくれ。 ……こいつをどう思う?」
「ああ、マスターは本当に頭が可哀そうなんだなと思った」
「今回ばかりはマジで否定できないわ。 泣きてえよ畜生」
俺は秘密基地内のとある狭い個室の中で自分が生み出した黄土色の物体を見て途方にくれた。
その物体は現在、からっからに渇いた便器に鎮座ましましている。
普通に水が流れない事を失念していた為だ。
あーやっちゃったなー
「ふむ……いっそのこと移動魔法の練習にでも使えばいいのではないか? ここから遠く離れた所にでも飛ばせばそれでいいだろう」
「なるほど、それは良いアイデアだ。 そうと決まったら後は何処へ飛ばすかだな」
「結界から出て少ししたところに人が寄りつかなさそうなところがある。 以前はそこに研究施設があったのだが、前のマスターが起こした事件のせいでその研究施設は使われなくなったため今は誰もいないはずだ。 その辺はどうだ?」
「人がいるところにぶちまけるとか最悪だからな。 そこなら問題はないだろう」
放射能撒き散らすとか本当に迷惑な話だよな。
俺が代わりに謝っとこう。
ごめんなさい、見知らぬ人達。
彼はただ馬鹿だっただけで悪気はなかったんです。
「それじゃ、いっちょやってみますか」
「ならまずはこの汚物の周りを薄い膜で包むようなイメージを強く持て」
「OK、これでいいか?」
言いながら自分の出した排泄物をサランラップで包むようなイメージを想像した。
俺は始めての魔法にかなり興奮していたものの、この普通に気持ち悪いイメージによって思考は一気にクールダウンしてしまった。
まあ冷静になるのはいいことだと考えよう。
「……まあそれでいい。 では今からそのイメージに沿うように魔力素でできた膜を私が作るから見ていろ」
それから瞬き1つしない間に俺の排泄物は光の膜に包まれた。
「おお、すげえ! 光るウ○コだ! というかもうウ〇コには見えねえ! 金塊みたいじゃん! いや糞塊か!」
「うるさい。 黙って見ていろ糞マスター」
「糞マスターとか言うなよ。 まるで俺がスカの専門家みたいじゃねーか」
「次は転移の魔法式を私が読み込むから糞野郎はその転移先の座標を計算する補助をしてくれ」
なんてマスターに優しくないデバイスなんだ。
しかしここで文句を言っても汚物は決して無くならない。
俺はいつの日か必ずこいつに復讐してやることを胸に誓い、とりあえず今はその言葉に粛々と従うことにした。
「どうすればいいんだ?」
「今イメージを座標に変換するプログラムを走らせている。 だからマスターはただ北北西方向140キロ程をイメージしてくれればいい」
「具体的な数値じゃ逆にイメージがわかねえよ。 それとせめて北北西の方向ぐらい教えてくれ」
「北北西は今マスターが見ている方向から向かって20度程左だ。 140キロは朝に行ったあの丘から水平線を見た時の距離が約70キロだからその倍をイメージすればいい」
えーっと、水平線までが70キロ程ってことはあの丘の標高は大体……400mぐらいか。
「っつってもなぁ。 流石に無理が――」
「想像できる距離の限界は己の器の大きさと等しいそうだ」
「ハッ、余裕だな」
俺は必死になって言われた通りの距離のイメージを想像した。
丘で見た景色を思い出したらまた見たくなってきた。
そうだ、あそこまで行くことを毎朝の日課にしよう。
「そうだ、その距離が140キロだ。 覚えておくといい。 さて、今マスターの脳内には何かスイッチのようなものが感じられないか?」
「あ、なんかボタンみたいのがぼんやりと浮かんできた」
頭の中にうっすらと浮かんできたそのボタンは何故か無性に20連打したくなるようなデザインだった。
1~99を英語にした時その英単語には『a』が含まれないという事実は一体何『ヘぇ』ぐらいになるんだろうか?
「それが魔法の発動スイッチだ。 そのボタンを先ほどの転送先をイメージしている状態のままで押せば、現在魔力膜で包まれているその汚物はマスターの想像しているところへと転移する」
「ふーん。 でも意外と魔法って簡単なんだな」
そして俺は自分の生み出した産業廃棄物を見ながら脳内のスイッチを連打した。
っていうか草しか食ってねえのにやっぱ大便って茶色いんだな。
そういやこれって胆汁の色なんだっけ?
「あ、そのイメージだと――」
「ふぉおうっ!? 何かが、何かが俺の中に入ってきたっ!? って、まさかっ! あああああっ!!」
それから5分後。
俺は家の外で泣きながら排泄行為を行い、鳴きながら2度目の転移魔法を発動させた。
1度目の失敗のおかげで今度はちゃんと成功したものの、俺の心には一生消えない深いトラウマが残った。
この経験から俺は魔法を全てデバイスに任せるのは危険だと判断し、今後魔法を使う際はその原理や危険性をちゃんと理解してからにすることを心に決めた。 ファック。