小学生というのは、単純そうに見えて実に複雑な生き物だ。
しかも、大人ならば誰しもが通ってきた過程にもかかわらず、多くの大人は子供を完全に理解できない。〝一度体験している〟のに、理解できないのだ。考えてみれば、実に不思議なことだ。
精神構造が違うから?
ならば俺はどうだ。同じ小学生の身で、頭の中身だけが大人だから、理解できないのか?
いや、違うな。
確かに、完全とは程遠いけれども、俺には少なくともクラスメイトの考えていることや、これからやろうと思っていること、その時その時における感情の移ろいくらいは予想がつく。そして、その予想は大方外れない。
そもそも別の生き物だから?
生物学的に考えれば、それはNOだ。子供だろうが大人だろうが、どちらも生態学的分類の上ではなんちゃらホモサピエンスに変わりはない。せいぜい、そこにあるのは遺伝子上の些細な発現形質の違いだけ。例外があるとすれば、この世界に〝も〟あの連中がいればだが――――〝そいつら〟だろう。やつらは人間とまるで同じ姿をしていながら、その中身はまるで別次元の存在だ。やつらを引き合いに出すのであれば、この仮説にも納得できる。
まぁ、〝いない〟と過程している今、考えるだけ無駄なのだけれども。
では、成長にするにつれて、何かを忘れるからか?
……俺としては、それが一番しっくりくる結論だ。
こんな話がある。ある日、営業帰りのリーマンオッサン二人の前を、小学生の集団が歩いていた。
そして突然、その内の一人の男の子が立ち止まって叫んだ。「俺、学校に忘れ物してきた!」
それを聞いていた大人の片方が、ふと呟いた。
「あぁ、俺小学校の教室に忘れ物しっぱなしだなぁ」
「何を忘れたんだよ?」
「〝夢〟さ」
親父からこの話を聞かされた時、俺はあまりにも共感できてしまうそのリーマン達のために、軽く涙を流した。突然泣き出した俺を見て親父が母上に殴り飛ばされる光景には、泣きながら腹を抱えて笑ったものだが。
ともあれ、そんな話を踏まえなくとも、みんながよく聞くように大人はこう口にする。
――――「若さって何だと思う?」「振り返らないことさ」
クールだ。実にクールでかっこいい名言だと思う。
振り返らない人間を見て、大人達は「無謀だ」「まだまだ子供だな」「現実を見ろ」と指摘する。それはつまり、大人の中にあっても、大人ではない人間が居ることを指しているのではないだろうか?
であるならば、きっと俺は、どちらにも属することができない中途半端な存在だ。
子供達の「振り返らない無謀さ」も理解できるし、大人達の「現実を見る冷淡さ」も理解できる俺は、言うまでもなく異端。そして、異端だからこそ、この大人達にとっては不可解な状況が理解できてしまう。
……なんて小難しいことを考えてしまうのは、やはり現状が理解できつつも、納得できないからなんだろうな。
「おいバニングマ、ちょっとこい。それと月村さん、高町。悪いけど、こいつを連れて先に屋上に行っててくれ。俺はとりあえず、飲み物買っていくから」
「でも、本田君……」
「いいから」
ショックを隠しきれないバニングマ――――この世界に〝転生〟してきたアリサと、高町、そしてすずかちゃんを促すように俺は顎をしゃくると、彼女達が出て行くのも待たずに、教室の中心に向き直った。
ガラガラと、後ろの方で開かれる扉の音を聞きながら、俺は腕を組んで睨みを利かせる。
なんでか?
1から説明するとなると、これがかなり骨なんだが……まぁ、ようはアレだ。つまらないお芝居は、子供たちにとって一日以上も続くとただの毒でしかない、ということ。
「てめーら……どういうつもりだ」
冷たく静まり返った教室に、俺のドスの利いた低い声が響き渡る。
誰もその表情の奥に戸惑いと恐れが半々にミックスされた、美味しくもクソもない感情をにじませて俺を見つめ返してくる。
反応は、限りなく静かで、冷ややかなものだった。
誰もが口を開くことを憚り、さりとてこのまま俺が退出するとも思っていないのがわかりきっているために、迂闊なことを口にすることもできない。
そんな重苦しい沈黙が教室を締め上げ、その悲鳴が耳の痛くなるような静寂となってこの場にいるモノの心を押し潰す。
アリサ・バニングスが変貌した翌日。クラスメイト達は〝アリサ〟を――――村八分にしていた。
俺はすずかちゃんが好きだ!
朝はまだ平気だった。それは断言――――いや、できないな。正直にいえば、昨日の放課後になる直前あたりからこの空気は感じ始めていたのだから。
確かに、午前中は物腰柔らかくなったアイツ見たさに色々な学年から人間が集まってきたが、それがすぎればただの怪奇現象だ。
そして、小学生と言う〝子供〟は、そういう未知な存在に大きな恐怖と排他的な感情を覚えることが多い。
わかりやすい例を挙げよう。
ある日、小学生達の教室に外国人が転入してきた。
最初こそ友好的な態度を取っていたクラスのみんなだったが、昼休みには、その子の運命が二通りに決まる。
一つ。問題なくクラスメイト達と溶け込んで、順風満帆サティスファクションなスクールライフが確定する。
一つ。最初は仲良くしてもらったものの、奇異な目でみられることが多く、結果的に誰も近寄らなくなる典型的でファッキンシットなぼっちスクールライフが確定する。
今回の件が後者の場合に当てはまるのは、言うまでもないだろう。
話が通じようが通じまいが、転入生は必ず上記の2パターンのうち、どちらかに当てはまる。それは、転入生が昨日までクラスメイトだった相手に置き換わったとしても変わりはしない。残念ながら、今回は運悪く〝アリサ〟のやつは後者に巡り合ってしまったみたいだ。
「はぁ……薄々感じてはいたけど、まさかうちのクラスがねぇ……」
多少の安心と期待があったが故に、さすがにこの事実は俺にも堪える。何より、信じていたクラスメイト達に裏切られた、という感情が強い。
それはすずかちゃん達も同じだろう。いや、俺以上に心を痛めているに違いない。
なんだかんだで、彼女達は純粋な小学生。一方で俺は二週目だ。ある種の覚悟と知識があってこのダメージなのだから、なんの予備知識もない彼女達からすれば、甚大極まりないダメージに違いないだろう。
「気が重い。こんなんじゃ冗談の一つも言えやしねぇじゃねぇか」
せめて米国式のブラックユーモアが俺にあればまだ良かったかも知れないが、ないものねだりをしても仕方がない。
とりあえず、人数分の缶ジュース及びお茶のペットボトルを抱えた俺は、器用に肘と足を使って屋上へとつながる扉を開けて、待ち合わせの場所へと向かった。
「本田君、お疲れ様」
「ありがとう、ほんだくん。あ、お金今渡すね」
「いーよ。今日は俺の奢りだ。ほれ、そこのバニングマも受け取れ」
「……ありがとう、ございます」
いつもの場所を陣取り、ピクニックシートを広げて座り込んでいるみんなに飲み物を手渡す。
最後に、今回の件の中心人物であるバニングマに、好物のオレンジジュースを渡すも、反応は芳しくもない。
いつもおしるこやらマンゴー&ドリアシェイク、はたまたメロンとアボガドのミックスジュースなるイロモノをプレゼントしている俺からしてみれば出血大サービスもいいところだと言うのに、ヤツの反応は芳しくない。心なしか、いつもは輝かんばかりに輝いている金髪が、今日はかなりくすんでしまっているようにも見える。
……それだけショックだったんだろうな。
あ、ちなみにイロモノドリンクは最終的に俺の分であるまともなジュースと無理やり交換させられて、毎回自分で飲む羽目になっているのは秘密だ。
「気にすんなよ。どーせその内収まる」
「でも、私……何もしてません!」
「知ってるっつーの。言っても無駄だからいわね―けど、別にお前のせーじゃねぇ。仕方ないんだ、こればっかりは。日曜にクリスチャン達が教会でお祈りするのと同じくらい、どうしようもないことなんですよ。おわかり?」
「――――っ!」
唇をかみしめて、もらった缶ジュースを手が白くなるほど握りしめる〝アリサ〟。
その姿に、すずかちゃんも高町も心配からその名を呟くが、それ以上を口にすることはない。当然だ、それ以上言ったところで今は意味がないことを理解しているのだから。
そのまま、俺達四人の間に重苦しい沈黙が流れる。
無理もないな……昨日までは普通のクラスメイトだったのに、今日にきていきなり村八分だ。裏切られたショックは俺の想像の範囲外だろう。
おまけに、アリサは昨日、曲がりなりにもクラスメイト達に最初は受け入れられていた。それが今日にきて突然手のひらを返されたのだから、困惑しない方がおかしい。事情を知っているだけに、俺にはその気持ちが痛いほど理解できてしまう。
だが、いくら悩んだところで意味がないことだ。
やつらがアリサを村八分にした以上、よっぽどのテンプレご都合主義でも起きない限り、状況は変わらない。
しかもそれだけじゃなく、このまま事が進めば、アリサと仲が良いすずかちゃんや高町も村八分にされかねない。小学生とは単純に見えて、実に狡猾で残酷な生き物なのだから。
はぁ、とジュースを飲み乾した喉から思わずため息が漏れる。
すずかちゃんが意を決したように言葉を発したのは、そんな時だった。
「……ねぇ、アリサちゃん。何があったか、教えてくれない?」
「え?」
〝何が〟というのが〝アリサに何があったのか〟ということであるくらい、その場にいた俺達にはすぐに分かった。
何故か高町があたわたと大げさに慌てていたが、それよりも、そのことを尋ねられたアリサ本人が大きく驚いていることの方に意識を大きくもっていかれる。
まぁ、昨日詳しい話を聞いている俺は高町程ではないが、しかし、ここにきてすずかちゃんが訪ねてくることに驚いているのは事実だ。
昨日は気にしていなかったのに、何故今日にきて?
すずかちゃんの真意がわからないまま、俺は静かに耳を傾けた。
「す、すずかちゃん、そんな無理に聞いても!」
「駄目だよ、なのはちゃん。みんながあんなことになっている以上、理由をきちんと聞いておかないといけないと思う。それに、なのはちゃんだって気になるでしょ?」
「それは……でも、アリサちゃんにも事情はあるだろうし……」
「その事情でアリサちゃんが困っているなら、それを何とかしてあげるのが親友の私達がするべきことなんじゃないかな?」
「……うぅ」
酷く筋道だった正論だった。さすがの高町もぐぅの音しか出ないらしい。実際はうぅというニアミスなのが残念すぎる。これが〝うぐぅ〟だったら鯛焼きでほっぺたぺしぺししてやったんだが。
そんなくだらないことはともかくとして。
麗しいという言葉がこれほど似合う小学生はいないだろう。
普段とは正反対の凛とした雰囲気で、真剣な眼差しを曲げることなく友情を語るすずかちゃんの姿に、俺は頭がくらくらするほどときめいてしまう。ていうか顔が熱くなってきた。慌てて顔をそらしてジュースを一気飲み。雰囲気ぶち壊し? 知らんがな。
ていうか疲れた。何がって、このおもっ苦しい雰囲気が。
確かに、このすずかちゃんの凛々しい姿はずっと眺めていたい。眺めていたいが、それはこんな重苦しい雰囲気の中で見るべきものじゃないと思うんだ、本田さんは。
希望としては、そう――――桜吹雪の舞い散る某伝説の木の下で互いに見つめあいながら、すずかちゃんは異を決したように口を開く。
――――私、ずっと前から本田君のことが!
凛とした佇まいに、どこか今にも消えてしまいそうな儚さを湛えて、俺を射抜くように見つめるすずかちゃん。
あぁ、そのシンプルでありながら何物にも勝る耽美な姿を想像するだけで、俺の鼓動はアクセルマキシマムドライブ並みにドックンバックンですよっ!
そして徐々に近づく二人の距離。互いの吐息が触れ合い、そのくすぐったさですずかちゃんは眉を軽くひそめる。そしてそのまま目を瞑ると――――!
「うだぁああああ!!」
「うひゃあ!?」
「な、なになに、なんなのほんだくん!?」
自分の妄想の恥ずかしさに、さすがに耐えきれなくなって、俺は奇声を上げながら悶え転げ回った。
それまでドシリアスだった雰囲気をぶち壊し、あっちへこっちへずったんばったん転がる俺を、すずかちゃんと高町が怯えたように見つめる。
しかし、それでもバニングマの奴は顔を俯かせたまま黙りっぱなしだ。
……やはり気持ち悪い。
いつもなら「何キモイ動きしてんのよこのゴミハチ!」とか怒鳴って踏みつけてくるもんだが、やはり何のリアクションもない。
ふふ……知ってるかい?
突っ込まれないギャグほど寒いものはない、って。今の俺は、まさに渾身のギャグをかましたのになんのリアクションも返してもらえないお笑い芸人の気分さ。
ったく、いつまでたってもうじうじうじうじと。せめてこの世界での自分の役割くらいきっちりこなしてくれないと困るだろうが!
アレか? 反抗期ですか? こんな自分の世界じゃない別の世界なんかで私なにもしたくないとかいうゆとり教育ですか?
……よろしい。ならば反逆だ。
「――――ぃよぉおおおし決めたっ! 学校サボる!」
「……へ?」
「……あの、本田君?」
「おいこらバニングマ、お前今日金あるか?」
「はい? と、突然なんですか、いきなり?」
「いいから。そうだな……小学生一人頭大体千五百円だったから、四人で六千円だ」
脳裏に、これから向かうつもりの目的地の利用料金を思い浮かべながら、他の諸費用を俺が持つとして、入場料くらいは払ってもらうべくさっさと合計金額をはじき出す。
訳も分からずに財布を確認し始めるバニングマをしり目に、俺はさっさと食い終わった弁当類を片づけた。
「余裕は、全然ありますけれど……あの、時彦君? なにをするつもりで――――」
「ちょっと待ってろ。月村さん、一緒に来て。帰り仕度するよ」
「あ、あの本田君!? ちょっと待って、どうするつもりなの?」
さすがになんの説明も無しに帰ろうとか言いだしたのがまずかったのか、すずかちゃんが心配そうにこちらを覗き込んできた。
ですが残念。もはやバルーンリザードが破裂したかのごとくぷっつんオラァしてしまった本田君は今、その程度の破壊力ではびくともしないのです。
「ボイコットする。こんなつまんねぇ状態で学校にいても意味がないだろ。俺たちゃまだ小学生だぜ?」
「……ほんだくんが不良になったの」
「違うな、間違っているぞ高町」
わかっていたけどね、みたいな半眼になってそんなことを言う高町。
しかし、こいつはなにもわかっちゃいない。まるっきり部外者のようなことを言っているが、今この場に貴様が居る時点で、既にその認識は間違っているのだ。
俺は屋上の扉へと向かう体を振り向かせ、静かに三人を見渡した。
高町はさっき言ったように呆れてる様子だが、すずかちゃんもバニングマも、事態についていけないとでも言いたげな困惑した表情を浮かべている。
それが今から驚愕に変わることを考えると、俺はこぼれそうになる笑みを我慢できなかった。
「俺だけじゃない――――お前らもだよ」
「「「え……ぇええええ!?」」」
☆
というわけで。
それから説得にかなり苦労したけれど、とりあえず三人を連れて、海鳴カリビアンベイにやってきた。
無論、すずかちゃんと高町による猛反対にあったんだけれど、バニングマがまるで塩を振りかけられたナメクジのようになっていることを指摘し続けたら、最後には「今日だけだからね!」と折れてくれた。
そしてやってきたのは、海鳴の駅から電車に乗って30分。山間部より手前に建設された一つの行楽施設――――〝海鳴カリビアンベイ〟だ。
名前からわかるように、ここは遊園地型温水プールとでも言うべき行楽施設で、一昨年開園したことで話題になっている。
全体の3分の2が屋内温水プールで、季節問わず遊べる今までにない新しいタイプの行楽施設と言うこともあり、今も地元では結構話題になっていたりもする。
当然、市民プールなんかよりもはるかに値段が高く、とてもじゃないが小学生が気楽に来れるような場所ではない。
そのために、さっき学校でバニングマにお金の余裕があるか聞いたんだ。だって俺手持ちねーもん。
厚かましいとか女の子におごってもらうなとか小学生になんてことさせるんだとかいう文句はこの際聞かない。
ていうか、そもそも小学生がクレカ持ち歩いている時点でどうなんだよ。しかも金銭感覚色々狂ってるしさ、すずかちゃんとバニングマは。
去年、そんなカルチャーショックをまざまざと味合わされたからには、その借りを返す意味でも有効活用させてやろうじゃないの。
しかし、さすがに小学生四人組が真昼間から来るのは怪しかったのかもしれない。もちろん、そのあたりも抜かりなく対策済みだ。
受付のお姉さんに怪訝な顔をされたが、物わかりのいいお方で助かった。特に何も聞くこともせずに通してくれたのだからありがたい。
ただ気になったのは、入場直前で受付のお姉さんが、何故か俺に向かって「がんばれよ少年」とか言ってきたんだが、何をがんばれというのだろう。
まさかすずかちゃんへの淡い恋心を読み取ったとか?
……ないない。さすがに初対面で理解されたら、それこそサイコメトリーとか超能力になっちまう。残念ながら、この町に一年中枯れない桜の木とか、暴走族の知り合いが居るイケメンの兄ちゃんとかいませんので、そんなファンタジーには期待できない。
「てわけでやってまいりました、海鳴カリビアンベイ」
「うわぁ、すごいねぇ。私初めて来たけど、こんなに大きいんだ……」
「本当……前々から興味はありましたけれど、中々来る機会がありませんでしたから」
「うー、よ、よかったのかなぁ……?」
既に四人そろってばっちり水着に着替えてスタンバっていると言うのに、高町の奴はいまだにもじもじと困惑顔を納めない。
まったく、すずかちゃんとバニングマは目をキラキラさせてあちこち見ているというのに、こいつはまだ悩んでいるのか。
「高町ぃ~、ここまで来てその発言は、まさにKYとしか言いようがないぜ? ちなみにKYは〝空気が読めない〟と〝漢字が読めない〟の二つ意味があるんだ☆」
「うにゃっ!? な、なのははKYじゃありませんっ! ていうか、二つ目の意味が今とすごくかんけいないよ!」
「あーはいはいそうですねナノハムさん。ていうか月村さんとバニングマ見習えよ。二人とも、遊ぶ気満々だぜ?」
「……なんであんなに切り替え早いんだろう。わたしがおかしいのかなぁ」
「お、ようやく理解したか。そうだ貴様は馬鹿だ。KYでNW(ノリがワルい)のアホの子だ。わはははー!」
「むかぁっ!」
ほっぺたをリスのように膨らませた高町に、借りてきたビート版で結構容赦なくべこべこ殴られる。
「もう、もーう! ほんだくんはいつもそうやってわたしのこと馬鹿にしてー!」
「いだっ、いだいだっ! 角はダメっ、角はらめなのぉおお!」
「な、なのはちゃん、もうそれくらいにしてあげた方が……」
「いえ、すずか。これは時彦君の自業自得ですから、放置してあげるのが彼のためです」
「要救助者を見捨てたレスキュー隊員!?」
「……でも、本当によかったのでしょうか……さすがに学校を抜け出してこんなところに来るのはいけないと思うのですけれど……」
「そうだよねぇ……四人そろって早退なんて、絶対に怪しまれると思うんだけれど……」
「スルーですかそうですか」
高町の弱気に汚染されたのか、さっきまでは結構乗り気だったバニングマが不安そうに口にする。
とはいっても、既に借りた水着に着替えている時点で色々手遅れだ。
なにより。
「バニングマ。今さらだ、諦めろ。ていうか俺が絶対に逃がさない」
せっかくのすずかちゃんの水着姿だぞ!?
しかも、極普通のスクールタイプではあるものの、その色こそや伝説のホワイトっ!
そもそも水着の生地において、ホワイトは水に濡れると中が透けやすいと言われ、多くの女性達が忌み嫌う色であった。
近年の技術革新によってその欠点が克服された新型素材を用いた白水着が出回るようになったとはいえ、この九年間で白い水着を着ている女性を見た回数なんて片手で足りるほどしかない。それほど希少な色なのだ、ホワイトとはっ!
なによりも、いくら技術の進歩によって透けにくくなったとはいえ、〝もしかしたら……っ!〟というそのステキ/ロマン仕様には、嫌が応にも男心をくすぐらずにはいられない。え、〝お前小学生だろ〟って? 知りません。好きな子の水着姿をガン見して何が悪いっ!
あぁ素晴らしきは、神が与え給うた〝白〟の神秘。俺のホワイトアルバムに、その神秘がまた一つ刻まれる――――っ!
「……あぁ、そういうことですか。まったく、わかりやすいお方」
「ぎくっ!? な、なんのことかなぁ~♪」
「視線が泳いでますよ? まったく、あっちもこっちも、性格は同じなのが残念ですね……」
「だから、何を言ってるのかわかんねぇよ」
「あら、とぼけても無駄ですよ?」
にやっ、ととても見覚えのあるやらしい笑みを浮かべたバニングマの奴が、そーっと俺の耳元に顔を近づけてこっそりつぶやく。
「……すずかの水着」
「ぎくぅっ!?」
「ほーら当たりじゃないですか。ふふ、わかりやすい人」
「お、おまぇなぁ~!? つーか、なんでそんな考えがわかるんだよこの耳年増!」
「まっ、レディに向かってなんていう暴言! 時彦君、常々言っていますけれど、そういう発言は自分の品位を貶めますからご自愛なさいとあれほど言っているでしょう!」
「やかましいっ! レディなんて言葉は、貴様にゃまだ10年早いわ!」
「もう二人とも! こんなところまで来て喧嘩は禁止!」
「そうなの! 学校抜け出しちゃった以上、しっかりたのしまないともったいないおもうの!」
「……ナノハムに説教された。しかもついさっきまでブルブル震えていた小心者のナノハムに!」
「むむ、なんだかまたばかにされた気が」
脳内で高町アラートが鳴り響いた。
同時に即座に転身し、話題をすり替えるべく俺はバニングマの背中をぐいぐいと押して進み始める。
「さぁーて月村さん、バニングマ! あとついでにナノハム! まずはあっちのコースターに行くぞ!」
「え、あれ、ほんだくん? 私の名前、いつの間にかナノハムになってない!? ねぇ、なんで!? なんで私までそんな変なアダ名ついてるの!?」
「やっぱ最初はでっかいスライダーからだよな! おーっし、今日は空いてるし、はっちゃけるでー!」
「ほんだくん質問にこたえてよー!」
とにかく、だ。
既に〝悪いこと〟をしてしまっている以上、全責任は俺が被るという覚悟はできている。ならば、変な遠慮や躊躇はせずに、ガキらしくおもいっきりはしゃごうじゃないの。
……ふと、これが原因で、すずかちゃん家のご両親から〝お付き合い禁止令〟が出されたらどうしよう、と背筋が寒くなったが、もはや今さらである。
そうなったらそうなったで仕方ない。そもそも、初恋とは散るためにあるものだ、とは誰が言ったか。
……そんな悲愴な覚悟でもしなけりゃ、現状楽しめそうにないとは口が裂けても言えません。
しかももしそんなことになったら―――――。
「母上、先立つ親不幸な愚息をお許しください」
「なに? どうかしたの、本田君?」
「あ、いや。なんでもないよ、俺の個人的な問題」
「そう? 何かあったら、相談してくれていいからね?」
「……あぁやばい。俺、この瞬間があっただけでも、学校サボって良かったと思う」
にっこりと、ひまわりとは違う、蓮華や白百合のようにしっとりとした微笑みを投げかけてくれるすずかちゃんの言葉に、俺は胸がいっぱいになった。
じぃいいん!と感動に打ち震えている俺を不思議そうに見つめるすずかちゃん。
きょとん、と小首をかしげるその姿は、白いスクールタイプの水着も相まって、普段よりも可愛らしさがン十倍増しで決壊寸前だ。
あどけない表情と、それでいてその顔に浮かぶ心配気な雰囲気という、ある意味危険極まりない要素を併せ持った今の彼女は――――堪らなく、イイっ!
「……はぁ。すずか、行きましょう。時彦君は、遠い世界に旅立ってしまったようです」
「え? あの、アリサちゃん、ちょっと怒ってる?」
「いいえー? 怒ってませんわよ。あーんなニブチンに、なんで私が怒らなければいけないんですか?」
「う、うん……?」
「ねぇねぇ、二人ともなんのおはなしー?」
「なんでもありませんよ、なのは。どこかの朴念仁のことなんて話してませんから」
「??」
なんだかバニングマが酷く悪しざまに誰かをけなしている。可哀そうな奴だな、そいつ。
ま、そんなことより、今は遊ぼう。俺の大事な栄養素であるスズカミンはいまや充電率120%だ。これであと一週間は戦える。
そんな元気一杯になった俺を放置して、三人が何やら話していたみたいだが、俺は舞い上がった気分故にその内容になど気にも留めない。若さとは振り返らないことだ。
「よーっし、まずは一人ずつ滑るアレだ! 俺、チューブ借りてくる!」
「あ、わたしもいくー!」
そして何よりも、せっかく子供特権でやってこれたこのめったにない機会を全力で楽しむべきという、今や当初とは別のモノにすり替わった目的が、頭の中にちらついているのだ。
本当は、落ち込んでいたバニングマを励ますつもりでやってきたんだが、まぁあここまで回復してりゃ大丈夫だろ。
……根本的な問題は何も解決していないが、今考えたところでどうにかなるものでもない。
最悪、明日またみんなで休むか、今日みたいに俺が直接先生に話に行くしかないかな?
先生は、俺に対して元々から〝変な子〟という認識があるから、どこまで本気で取ってもらえるかわからんし、話したところでどうにかなるとは思えないが……何もしないよりかはマシだろ。
できるのであれば、なんとか原因を突き止めて、バニングマを元に戻してやりたいけどさ。
「……ま、なるようになれ、だな」
「なのはは、かくごをきめましたっ! お母さんやお父さん、先生に怒られても負けません!」
「おい、ナノハム。その時はちゃんと俺の名前出せよ? まぁ、今日の帰りにちゃんとゴメンナサイしに行くけどさ」
「ええっ!? ほ、ほんだくんがしゅしょーなこと言ってる! もしや、今朝へんなもの食べちゃったりしたの?」
「……よーしいい度胸だコノヤロウ。まずは貴様からスライダーの面白さを叩きこんでやる」
「うにゃぁ!? なんだかよくわからないけれど、私変な地雷を踏んじゃったり!?」
「はーっはっはっは! 喜べナノハム! 貴様は俺達四人組の中で初の犠牲者となるのだー!」
「いやぁあああ! あ、アリサちゃん、すずかちゃん助けてーー!」
苦笑するすずかちゃんとバニングマが見送る中、本気で涙目になって逃げようとする高町をふん捕まえる。
そして、借りてきた二人乗り用のチューブの前の席に無理やり座らせると、俺はやめてとめておろしてー!と泣き叫ぶ高町の言葉に耳を貸すことなくその後席に座り、勢いよくスライダーを蹴りだしたのだった。
☆
「ふぅ、子供用の癖に、中々やるじゃねぇか……っ」
「ふにゃぁ……めが、めがまわるぅぅうう……」
「楽しかったー♪」
「すごかったねぇ~。私、初めてバイキングに乗っちゃった」
高町の悲鳴から始まった、我らがサボタージュもとい心の慰安旅行は、実に順調に消化されつつあった。
とはいっても、小学生三年生が遊べるものと言えば、そんなにあるわけじゃない。
それでも、チューブスライダーのほとんどが遊べるし、バイキングや水上遊覧型アトラクションだって遊べるのは多い。あ、ちなみに今乗ってきたのがそのバイキングなんだけど、子供専用のちょっと小さいバージョンだった。しかし、トリプルアクセルもかくやと言うべき横回転や、緩急をつけた縦回転の巧みさは、そんじょそこらの遊園地のソレを上回る。しかも、プール型遊楽施設と言う特性を生かし、乗っている最中にあちこちから水がかかることで、まるで本当に船の上で嵐にでもあっているかのような疑似体験ができるのだ。どういう仕組みになっているかは知らんがな。恐るべきは海鳴カリビアンベイの脅威のメカニズムか。
まぁ、すずかちゃん達の反応を見る限り、結構楽しかったみたいなのでよかよか。
俺もすずかちゃんの笑顔を見れて幸せです。あぁ、もはやバニングマの村八分事件なんてどうでもよいとすら思えてきてしまう。
……あくまで、この楽しい空気故に、という意味でだけどな。帰るときには、明日どうするかしっかり話しあわねぇと。
ともあれ、ここに到着したのが一四時ちょっと手前で、今時計を見ると既に一六時近い。
休みなしで二時間もぶっ通しで遊び続けたら、さすがに疲れが出始めた。体を動かすたびにやや気だるさを感じる。いくらガキの体とはいえ、こんだけ水の中ではしゃぎまわれば当然か。
しかし、まだまだ余裕があるあたりはさすがヤングボデー。これが歳をとるごとに衰えるのだとわかっている分、この一秒一秒がとてもありがたく思えてしまう。
ともあれ、今は施設内のあちこちに設置されたパラソル付きのデッキチェアに座って休憩中だ。俺はまだいけるんだが、さすがにバニングマとナノハムが疲れたと申告してきたため、とりあえず休憩しようということになったのだ。
ちなみに、すずかちゃんは全然そんな素振りが見られない。ていうか俺より疲れてなさそうだ。
授業とかでも普通に男子とタイマン張れるくらい運動が得意なすずかちゃんだが、まさか体力も男子並みとは。しかも勉強も出来て超美少女。なにこのパーフェクツ・ガール。麗し過ぎて鼻血でそう。
「さてっと、どうする? そろそろあがるか? それとも、もうちょいしてから帰る?」
「そうだねぇ。せっかく来たのに、すぐ帰るのはなんだか勿体ないかも」
「でも、あまり遅いと、お姉ちゃん達が心配するし……」
それもそうだ。というか、小学生がこんなところに遊びにきてる時点で、普通の親御ならば心臓が止まりかねない事態なんだけどさ。
いまさら夜帰りがどうのとかのレベルじゃないんだが、まぁそれはそれ。一応優等生集団であるすずかちゃんとナノハムにしてみれば、門限は気になるところだろう。バニングマ? ヤツは優等生と言う名の羊の皮をかぶったグレムリンだ。
「あぁ、その点はご心配なく。鮫島が待機していますので、帰りはお送りいたしますよ?」
「さすがアリサちゃん! 細かい気配りは本当にしっかりしてるね~♪」
「いえ、そんな大層なものではありません。私達だけでは危ないですし、一応鮫島には保護者役をしてもらっている意味もあります」
「あ、そうだったんだ。受け付けで何か話してたのは、そのこと?」
「あぁ、俺が頼んどいた。さすがにガキだけでこんなところに来るのは不味いしね」
「むむむ、ほんだくんがなんだかすごく大人っぽいこと言ってるの」
「どーいう意味だコノヤロウ」
どうやら、バニングマの奴も昨日の調子が出てきたようだ。
衝撃的過ぎて忘れられない、〝元の世界〟のアリサとは正反対の御淑やかさと上品さを乗せて、さらりとすずかちゃんと高町の懸念を吹き飛ばして見せる。
なんていうか、こっちのバニングマより全然大人っぽいような……?
知識や、根本的な性格にあまり違いはないみたいだけど、代わりになんだか精神年齢が異常に高い気がする。へたすりゃ中高生並みだ。
まぁ元のバニングマもそのぐらいあったのかもしれないが、いつもいつも、飽きもせずに俺とド突き合っていたが故に、周囲からはちょっとオマセな小学生程度にしか認識されていなかったのもあるのかもしれないが。
そのあたりの温度差も、今回の村八分に関係してるのかも知んないなー……。
「ま、月村さんとナノハムは家に連絡いれときゃいんじゃね? 俺なんかは放任主義だから別に平気だし」
「うにゃ、じゃぁなのははお家に連絡してきます。携帯電話更衣室だから、ちょっと行ってくるね」
「あ、なのは。私もご一緒します。なんだか一人にしておくと迷いそうですし」
「さすが幼馴染。ナノハムを良く知っておる」
「アリサちゃんひどいっ! ていうか、ほんだくんもさりげにひどいこと言ってるの!」
「まぁまぁ。アレでも心配してるのですよ。ほら、行きましょう」
「うー、ほんとかなぁ……?」
半眼で俺を睨みつけながら、ナノハムはバニングマに手を引かれて更衣室へと向かって行った。
つーか、昨日今日と、バニングマの俺に対する読心レヴェルがヤバい領域にきてるんだが。思わず図星を突かれて固まってしまった。
実はテレパシーとか使えるんじゃなかろうか?
俺とは違って、生きてる時に途中で〝トリップ〟なんてしてるんだ。そのぐらい出来ても不思議じゃない。
日常生活で支障がないのはそのおかげか?
腐っても〝トリップ〟なんだし、あっちとこっちじゃ環境が違うだろうに、見たところそれほど齟齬なく暮らせているのだから、絶対にありえないとは言い切れないのが怖すぎる。
……ま、どうでもいっか。あいつがテレパスだろーがサイコメトラーだろーが、とにかくアイツを元に戻さなきゃならないのは変わらないんだし。もしあったとしても、それを有効活用して変な問題から回避してくれるっていうんなら、逆にありがたいってもんだ。
さっき、売店で買ってきたコーラをちびちびすすりながらそんなことを考える。
少しでも暇になると益体もない思考をしてしまうのは昔からの癖だ。どうやらこれは死んでも治らないらしい。ぎゃふん。
周囲を見渡してみれば、平日であるにも関わらず、そこそこ人入りがいいようだった。あちこちから老若男女のはしゃぐ声が絶えず聞こえ、売店を見回してみてもそれなりの人がたむろしている。まぁ、休日とは比べるべくもないんだけどさ。
しっかし、ホント平和だなぁ……。これですずかちゃんも一緒っていうんだから、不平不満なんてある……はず…………が……「ぁぁああっ!?」
「ど、どうしたの、本田君? 何か忘れ物?」
「い、いいぃ、いやべつにっ! そ、そそ、そーだ! 月村さん、何か飲まなくていいの!?」
「え? ううん、そんなに喉乾いてないから、今はだいじょうぶだけど……」
「そ、そっか、うん、そうだよね。いやぁ、はは――――――すんませんちょっとお待ちを」
「ほ、本田君?」
ゴロン、とひっくり返って頭を抱える。
そう、そうだよそうだよバカヤロウっ!?
ナノハム→更衣室にお電話。
バニングマ→ナノハムの付き添い。
そしてここに残っているのは俺とすずかちゃんの二人。二人――――二人っきり!?
いやいや、まて落ち着くんだ本田時彦推定精神年齢三十ウン歳。この程度でうろたえてしまうとは情けないことしきりだぞ。
素数を――――いや、むしろ円周率だ。円周率は限りがみつからない無限(仮)の数。その無限は未知の象徴。未知は畏怖と勇気を分け与えてくれる――――かぁあああ!!
くれねぇよ! むしろ不安と不安と不安をいつもよりBIGチャンス並みに割増しで与えてくれるよ! 有難迷惑だよ!
あぁあ、やばい、やばいよやばいよ、なんて話しかける? ていうかどうすりゃいいんだこういう時?
思い出せ。前世でマイラバーをどうやって口説き落としたか、ヤツとこういった甘酸っぱい雰囲気(?)になった時何をしていた――――ねぇよ! あの豪快一升瓶娘とこんな甘酸っぱい雰囲気になんてなったこと一片たりともねぇよ!?
駄目だ、前世の俺駄目すぎる……っ!
まさかことここにいたって なんの対処法も思いつかない精神年齢三十ン歳なんて聞いたことねぇぞ!
――――本田時彦、九歳児相手にパニック状態。
もはや情けないなどと罵倒されるだけでは生易しいまでのヘタレっぷりをさらけ出しているが、そんなこと気にしてなどいられない。
半年経っても、すずかちゃんと二人っきりになるとテンパるという〝ウブっぷり〟が治らない駄目人間なのは、この際置いておこう。いっそのこと、小学校三年生を相手にここまでうろたえるのは、俺自身がその年にまでランクダウンしているからに違いないと思わなければ正気を保っていられない。
――――はっ! これがまさか、あの有名な恋!?
……いやいや、そんなのはわかりきってる。すずかちゃんにベタボレしちまったのは、既に半年も前のことだ。今さらすぎて検討する余地もねぇ。
問題は、なんで彼女と二人っきりになると、いっそ弾け飛んでしまうのではないかと言うくらいに心臓が激しく脈打つのか、ということだ。これが解消できない限り、俺は一生すずかちゃんと二人っ気になれない。だって死んでまうもん!
「本田君、本当に大丈夫? お顔、真っ赤だよ?」
「きにしないでベリーオーケー! ハッピーすぎてもう気分はバラライカだから!」
「えと……大丈夫なら、いいんだけど……?」
いかん、ハッスルしすぎた。
ちょっと自重する意味も兼ねて、別の話題を振るとしよう。
「あぁあっと――――そうだ! そういえば、月村さんは家に連絡しなくてもいいの?」
「うん、平気。ここに来る前に電話したし、アリサちゃんが送ってくれるのはいつものことだから」
「そっか……」
そういえば、すずかちゃんの家は、大学生の姉とメイド二人の四人暮らしだと聞いたことがある。
ご両親がどうしているのかについては聞いていない。下手に藪をつついて蛇を出すのもいやだし、わざわざ尋ねるのもアレだからな。
メイドが二人もいるのと、彼女の住んでいる家を見て分かるように、すずかちゃんが物凄いお金持ちなのかもしれないとは常々思っていたが、しかし姉がこんなにも放任主義でいいのだろうか。
仮にもまだ小学校三年生の女の子なのに、まるで心配している素振りを感じられない。まぁ、単に俺がわかっていないだけで、実は物凄いシスコンなのかもしれないけどさ。
話だけを聞くと、すごく面倒見が良くて機械いじりが好きなねーちゃんという感じがするんだが、はたしてこの予測はどれほど当たっていることやら。
――――いや、待てよ?
ひょっとしてこれはチャンスだったりするのだろうか?
すずかちゃん帰るの遅い→夜道は危ない→一緒に帰ってあげる→あら、気のきく男の子ね→好感度アップ!?
……これだ。これしかないっ。
あわよくばすずかちゃんの姉に好印象を持ってもらうという〝外堀を埋める〟という一石二鳥な展開もありえるっ!
二人っきりが耐えられないとか、心臓破裂で珍死とかもはやどうでもいい。そして何よりも、すずかちゃんを危険なことから守るためにもこの考えは賛同されてしかるべきだろう。そう言い聞かせる。
覚悟を決めろ本田時彦。ここが男としての正念場だぞ。
「あ、あのさ、月村さん」
「うん? なぁに?」
「その、一応バニングマが送ってくれるとは言ってくれてるけど、その……やっぱ女の子だけで帰らせるのはアレだし、あー……アレだ。付き添ってあげても、いいよ?」
「え?」
……あぁ、死にたい。
つい数秒前の自分の首を絞めて鼻に指突っ込んでガクガク揺さぶりながら絞め殺してやりたい。
なんだってそんな偉そうなのちょっと前の僕様ー!?
そこはむしろ許可を求めるべきだろ!? どんだけ俺様思考なの貴様! 刺ね! 死ねじゃなくて刺ね!
せめてもの救いは、十中八九「何言ってんのこのナルシスト?」的な視線を投げかけているであろうすずかちゃんを直視せずに済んでいることであろうか。
顔を逸らしているために、お互いに向き合うということはなく、しかしすずかちゃんからビシバシと痛い視線が注がれているのが感じられる。あぁ今日はきっと眠れないな。この生涯始まって最悪の汚点を思い返す苦行的な意味で。
「いいの?」
「あはは、そうだよな。車で送ってもらうのにわざわざ俺がついていく理由なんてない―――――ぅへ?」
「えと、送ってくれるんだよね? 本田君がいいなら、お願いしたいな、って思うんだけど……」
「は……え?」
ちょっと、脳味噌さんが今耳から拾ってきた電気信号とその伝達をサボってしまっていたらしい。ついでにその機能する数秒単位で止めると言う、人生始まって以来の長時間のストライキを決行してくれやがった。
そのために、今この瞬間すずかちゃんが言った言葉の意味に理解が追いつかず、遅れてあまりにも間抜け極まりない、ただ黙って空気でも吐き出してた方がましだったんじゃないかというくらい間抜けな声が零れてしまう。
はっはっは、すずかちゃんも冗談がうまいなぁ~☆
…………………マジ?
「え、いや、だって――――」
「それに、本田君に相談したいこともあるの。あ、もちろん帰りはちゃんと車で送るよ?」
「…………俺が? 月村さん家に? 相談…………っ!?」
立て続けに起きる予想外の事態に、俺の頭が大決壊。まるで陸に打ち上げられたチョウチンアンコウの如く、だらしなく口をぱくぱくさせて驚くぐらいしか能の無い本田君人形。定価五九八〇円。誰も買わねーよっ!
……などという一人突っ込みを始めてしまうほど、俺の頭は大混乱をきたしていた。
だって、だってお家にご招待だぞ!?
いくら小学生できゃっきゃうふふな展開が0%でも、好きな子の家にお呼ばれするんだぞ!?
これで興奮しないで小学生にいつ興奮しろってのさ! 恋愛的な意味で!
「い、行くっ! 是が非でもっ!」
「ありがとう、本田君♪」
「いえっ! むしろ俺の方こそ土下座して感謝する勢いですっ!」
そして本当にデッキチェアの上から土下座する小学校三年生(精神年齢と同値に非ず)の図。
軽く引かれている気がするが、この喜びを表すためならばそれもいたしかたない。
ふふふ……まさかここにきていつかのリベンジマッチがやってこようとはっ!
靴箱前でバニングマにすずかちゃんの家でのお茶会を勢いで断ってしまって以来、虎視眈々と狙ってきたこの機会! 逃してなるものかっ!
「……しかし必至すぎるな、俺」
「うん? どうかしたの?」
「いやや、なんでもないでありんす。てゆーか、バニングマ達遅いね。何してんだあいつら」
「そういえば……」
既に二十分も経っているのに、一向に帰ってくる気配がない。
今までの会話でだいぶすずかちゃんと二人っきりでいることに慣れてきたし、いっそこのまま帰ってこなくてもいいくらいなんだが、しかし心配だ。
さすがに小学生二人を放置しておいたのはまずかったか……?
仮にもここは遊楽施設。規模もそれなりに大きいし、ここから更衣室までそれなりに距離がある。普通に歩いて往復しても十分はかかる計算だ。
さすがに平日、しかも海鳴のこれだけの公衆の面前で、紳士の風上にもおけないような行為に及ぶ馬鹿がいるとは思いたくないが――――少し様子を見に行くべきだろうか。
「遅いね、アリサちゃんとなのはちゃん」
「う~ん……ちょっと様子を見に行ってみる? ここからなら一本道だし、すれ違うこともないだろうから」
「でも、もしすれ違っちゃったりしたら大変だよ」
「そりゃそうだ。……ったくぅ、何してんだあいつ――――――!?」
「あいつら」と言い切る前に、突如として耳をつんざくような悲鳴と、ザパーン!という大量の水が叩きつけられたような音が、人口波プールから聞こえてきた。
そして、しばらくすると俺達の踝までつかりそうなくらい大量の水が流れ込んでくる。
フードコートだけでなく、あたり一面がその大量の水で一杯になり、あちこちでばしゃばしゃと水が跳ねる音がした。驚いて足踏みしたり、慌ててのけぞったりする人が散見され、さすがに今の状況が尋常ではないことを悠に物語っている。
ただ事じゃないのは明白だ。
機器の故障か?
いや、にしたって規模が大きすぎる。人工波プールからこのフードコートまで近いとは言え、この量はいくらなんでもありえない。
最大波高を三,五メートルまで調整できる大型プールでも、これだけの大量の水を、しかもこんなところまでぶちまけるくらいに暴走したら、その前から警報が鳴っていてもおかしくないはずだ。
慌てて起き上がった俺は、人工波プールの方を睨みつけた。
ちくしょう。せっかくのいい気分が台無しだぞ。一生に一度あるかないかっていう(実際前世ではなかった)甘酸っぱい雰囲気を中断してくれやがった罪は、マリアナ海溝よりも深いっ!
……正直なところ、さっきから嫌な予感がうなじをズルズルなめくじのように這い回っていて、気持ち悪いことこの上ない。そして残念なことに、俺のこういう予感は絶対に外れたことがないんだよな。
「……っ」
「じ、事故かな? あ、本田君!?」
「……移動しよう。嫌な予感がする!」
俺に横に並んで、胸の前で手を合わせながらすずかちゃんが不安を交えながら呟く。
だが、俺はそんな戸惑いを無視するように、すずかちゃんの手を無理やり手を引っ張ると、近くにあった荷物をまとめて持ちあげた。
「ど、どうしたの本田君!?」
「悲鳴が終わらない! これ、なんかやべーことになってる!」
後ろですずかちゃんが息を飲む気配がした。
そりゃそうだろう。いくら同学年の中で大人びているとはいえ、まだ小学校三年生だ。ヤバいこと、と言われて怖気づかない方がおかしい。
ただまぁ、俺の杞憂という可能性もあるから、ここで余計に怖がらせるのは悪手なのかもしれないけどさ。
しかし、前世から〝何事も最悪を想定して行動せよ〟をモットーとしてきた身としては、その程度の警戒はまだまだ軽いものと言っていい。
秘かに心の中では〝テロ〟などという物騒な二文字が、ホームに滑り込む電車を知らせる電光掲示板の如く光り輝いているのだから。
「このまま更衣室に向かおう! あの馬鹿達と合流してさっさと逃げるぞ!」
「う、うん!」
三十六計逃げるに如かず。
こんなところで、変な野次馬根性や英雄根性見せるなんてもってのほかだ。
この場における賢い方法とは二つ。
〝現状把握〟と〝即時退散〟のみ。
下手な勇気を出して〝事件現場〟に向かおうものなら、間違いなくよろしくない結果が待ち受けている。そう、俺の〝最後の記憶〟のように。
ばしゃばしゃと、水たまりもかくやというくらいに浸水している地面を蹴りつけながら、俺とすずかちゃんはカリビアンベイの更衣室へと向かって駆けだした。
足を止めずに周囲を見渡すと、どうやらまだ事態が飲み込めていない人間達が大半らしい。警報もなっていないし、なんの放送もないことからこれはどう見ても〝突発的事故/アクシデント〟だ。
確認しに行くのは、何度も言うが愚策極まりない。
何よりも、俺一人ならまだしも、今はすずかちゃんがいるんだ。しかも、今日は俺が勝手にこんなところに連れてきている手前、下手に危険な目には合わせられない。
……よーは、怖気づいたわけですよ。恋するラブチキンハートな俺としては、一刻も早く逃げたい気分だね。
しかし、どうやら神様はそうそう簡単に俺を逃がしてくれるつもりはないらしい。
確かに、このすずかちゃんと手を繋ぐという幸せな時間が続くのはありがたいが、しかしその代償として嬉しくもないスリルをプレゼントされるなんざ、有難迷惑以外の何物でもないんだけどな……!
「本田君……あれっ!」
「……はは――――冗談きついぞ、おい!」
フードコートを抜け、先程乗ったバイキングのそばを通って更衣室に向かう道すがら。
その左前方に見えた光景に、俺は走りながら絶句した。
ここの人工波プールっていうのはかなりでかい。五〇×四〇メートルというドでかいプールに、最大水深十二メートル。最大波高三,五メートルという、国内でも最大規模と言われている、この海鳴カリビアンベイの名物だ。
ならばこそ、そこにある〝水量〟はとてつもない。
何せ普通の50メートルプール以上の大きさに、絶えず水を供給するバルブ付き。もし排水構造無しにずっと水を補給し続けたら、容易に今の状況が作り出せるだろう。
――――ああそうさ。俺だって最初はそれを疑った。排水機構が故障して、おまけにバルブがだらしなく栓を開きっぱなしにしたんじゃないかってな!
だが、違う。そんなの、〝ソレ〟を見れば一発で理解できる。
屹立する二本足。
その上に乗っかるのは、まるでシャボン玉のように綺麗な水の球体。
中央には軽い窪みがあり、さらに胴体である水球の左右から二つの腕が伸びている。
頭も、口も、眼も鼻もないというのに、俺はそれをきちんと〝人型〟と認識できた。いや、俺だけじゃなく、その場にいた全員がそう認識できただろう。
一言でそいつを形容するなら――――〝ブルーデビル〟
……そこ、パクリとか言わない。滅茶苦茶ギリギリなのは承知でござい。
そんなどこぞの岩あるいはメガな男の世界から飛び出してきたような〝異形〟の姿を見た俺とすずかちゃんは、思わずお互いに足を止めて、そのあんまりにもあんまりな非常識さに呆然とするしかなかった。
「水の――――――お化け?」「なんぞこれぇええええええ!!?!」
―――――
プールイベント消化。
しかしアリサはそのまんま。どうしよう☆
1003041628:Ver,1.01修正 誤字やらなにやら。