―――――四月某日。海鳴市中丘町。
世界は呆れるくらいに平等だ。全てに意味があり、全てに役割が定められている。
そう思えばこそ、自身の不遇の身の上にも我慢が出来た。
生まれた時より足が不自由なのも、突然の事故で両親を失い天涯孤独の身になったのも、全部そう〝定められていた〟からなのだ、と。
それは、幼い彼女にとって望外より手繰りよせた、歳不相応の諦観だったと言える。
だが、そうでもしない限り、彼女はこの辛く残酷な現実を正面から受け止める事ができなかったのだ。
そんな彼女――――八神はやてにとって、その出会いは奇跡だった。
最初は、ラッキーだとしか思っていなかった。
その日、はやてはいつものように病院での献身を終え、相変わらず変化の無い検査結果に特に何かを思うでも無く、今夜の夕飯は何にしようかと存外呑気な事を考えながら帰路についていた。
ソレに気が付いたのは、何の事はない。手になじんだ車椅子の車輪を転がした時、何かを踏んだ気がしたからだ。
危うく車椅子から転げ落ちそうになるのをどうにか踏ん張って、かなりの努力を費やして拾い上げたソレは、不思議な魅力を孕んでいた。
透き通った青、角度によってその色を帰る不思議な表面。気のせいか、時折表面が脈動しているようにすら見える。
誰かの落としモノなのだろうか。にしては、ケースにも入っていないし台座が付いているわけでもない。路傍に転がっているにしてはあまりにも無防備すぎる。
あるいは、見てくれは確かに宝石のように美しいが、本当は単なる〝綺麗な珍しい石〟なだけなのかもしれない。
数旬、これは警察に持って行って大丈夫なのだろうかと悩むが、諸々の理由により却下した。代表的な理由としては、1にこれがただの石だったら恥ずかし過ぎて地面に埋まりたくなる。2に自分の〝なり〟を見て何かを言われたりしたら、また説明するのが激しく面倒。3に余計な気遣いをされるのが非常に困る。そんなところだ。拾ったその石は、とりあえずスカートのポケットに放り込んでおいた。
綺麗な石が手に入ってラッキー。ねこばばちゃうもんね。ただの石やもんね。
そんな言い訳のような屁理屈を内心でこねながら、はやては何事も無かったかのようにその場を後にした。
その後ちゃっちゃと夕飯の買い物を済ませ、暖かな夕焼けを眺めながらはやては帰宅した。
手早くシチューを作り上げ、いつものように一人で夕飯を済まし、諸々の用事を片付けると、これまたいつものように就寝時間になっていた。
通信教育の勉強を終わらせた後、ほとんどぶっ続けで図書館から借りてきた本を読んでいた所為か、体の節々が硬くなっている。
ベッドの上に大の字で寝転がり、ぐにぐにと若干気持ち悪い動きをしながら体をほぐしてみる。何故か、ストレッチをするのはめんどくさくてやりたくなかった。
そうやってひとしきり一人でグダグダしていると、ふと右の太ももに妙な感触がある事に気付く。
手探りで取り出してみると、それは夕方路傍で拾った、あの妙な石――もう、宝石とは思えない――だった。
天井の明りに透かせば、相変わらず綺麗な青と不思議な表面を楽しめるが、それだけである。
ただ、じっと見つめていると、なんとなく不思議な光を放って自分を魔法少女にしてくれるとか、まだ何個か世界に散らばっていてそれを全部集めると願いを一つ叶えてくれるとか、万能な錬金術の触媒になるんじゃないか、なんて考えてしまう。
最近読みあさった漫画や本の影響がもろに出ている思考だったが、勿論そんな事が現実にあるはずもない。
はやてはバカな事を考えていた自分の思考に自嘲するように溜息を吐き、石を握りしめたまま手を額に当てた。
「でも……もし、本当に願いが叶うなら」
それは、今まで幾度となく夢想した戯言だった。
その願いがどれだけ贅沢で、どれだけ我儘で、どれだけ非現実的なのかは自分でも理解している。それでも、八神はやては夢想して止まない。
もし。
もしも、私の願いが一つだけ叶うのなら。
―――ただ、手を伸ばせば暖かな手が握り返してくれる。そんな、家族が欲しい。
それだけでええ。それ以外、なんにも望みません。
とっても贅沢なお願いやけど、私のお願い事は、それだけです。
所詮は、ただの戯言だ。子供の妄言だ。叶う事の無い、現実逃避に他ならない泣き言だ。
それでも、八神はやては祈る。何もしないで諦めるより、無駄と知りつつも諦めない事を選ぶ。ちょっぴり強がりで、ちょっぴり頑固。八神はやてと言う少女は、そんな子だった。
だからこそ、神の気まぐれははやてを選んだのだろうか。あるいは、これすらもが予定調和だったのか。
その真偽は誰にもわかるはずもなく、それは唐突に起きた。
「あつっ!?」
突然、握りしめていた石が発熱した事に気付き、はやては慌てて握っていた石を放り投げた。
まるで、高温の油が手に跳ねた時に似た痛みが手の平にジンワリと広がり、悪態を吐くよりも驚きで身を起こす。
次いで、思わず石を放り投げた事を思い出して、その行方を追って部屋を見渡した。見渡して、呟いた。
「―――――は?」
石が、浮いている。
先程握りしめていた、突然発熱しだしたのに驚いて放り投げたその石は、まるで漫画かアニメのように、ひとりでにふわふわと、青い燐光を洩らしながら宙に浮いている。
状況が呑みこめない。現実を認識してはいるが、一体何が起こっているのか把握する事が出来なかった。
はやてが混乱している間にも、さらに異変は続いた。
何故か石の燐光に呼応するかのようにして、本棚の最も上に鎮座していた〝あの不思議な本〟までもが輝きだし、次の瞬間には突如として一際眩い光が室内全体を満たす。
まるで閃光手榴弾のような激しい眩しさに、はやては顔を背けて目を瞑る。
光が収まり、ようやく目を開けて石を見ると―――――今度こそ、はやては絶句した。
「――――ふむ、なかなかどうして、具合は悪くない」
「んぁ……なっ……!!」
「やや肉体が幼いのが気になるが……ま、贅沢は言うまい」
宙に浮かんで輝いていた石はどこかへと消え去り、代わりにそこにあったのは――――鏡映しのように、自分と瓜二つの人間だった。
クリーム色のハイネックシャツ、ネイビーブルーのフリルスカートに暖かそうなブラックレギンス。
左の髪を留める特徴的な髪留め、どこか小型の動物を思わせる風貌。
ただ違うのは、自分の栗毛とは違った美しい銀髪と、その毛先にかけて黒いアッシュがかかっている事。
そして――――深淵の闇を思わせる、形容しがたい瞳。
「いずれにせよ、大義であったぞ、我が子烏よ」
そんな〝もう一人〟の自分が、無い胸をふんぞり返らせて腕組みしながら何かを言っている気がした。
だがしかし、はやての耳には入らない。
ずりずりと、動かない足を引きずってベッドの上を移動し、〝もう一人の自分〟に近付く。
「むっ……王たる我の言葉を無視するか」
「…………」
「……まぁ良い。我の受肉を手助けした功績は大きい故、特別に許そう。感謝するがよいぞ、我が子烏よ」
はやてから返事が無い事を不服に思ったのだろう。〝もう一人の自分〟が柳眉を曲げ、反応の無いはやてに向かって再度何かを言う。
繰り返すようだが、それでも今のはやてにはただの雑音でしかない。
無言のままずりずりとベッドを移動し、ついにはやてはベッドの縁へとたどり着いた。
ベッドの傍、それも手を伸ばせばたやすく届く距離で立ちつくす〝もう一人の自分〟と、それをベッドの縁に腰掛けて見つめるはやて。
暫しの間、二人の間に妙な沈黙が流れ、その間ずっと、はやては〝もう一人の自分〟を舐めまわすように見つめていた。
どれほどの時間をそうしていただろうか。
無言の重圧に耐えかね、ついに〝もう一人の自分〟が口を開こうとしたその瞬間。
はやての伸ばした手が〝もう一人の自分〟へと伸び―――――その頬をつねり上げた。
「ぅぃだだあぁあああッッッ!!?!」
「――――おぉ、ほんまもんや」
「当り前であろうこの大戯けッ!!?」
手加減なしに全力でつねりあげたせいか、〝もう一人の自分〟が物凄い剣幕で涙目になっていた。
赤く腫れた頬を抑えながら、はやての目と鼻の先まで顔を近づけ、今にも噛みつかんばかりの形相で睨みつけてくる。
しかし、はやてはそれでも怯む事はなかった。
それどころか、自分の目の前で怒りを湛える少女の姿が、頭のおかしくなった自分の妄想でもなく、れっきとした肉と温度と存在感を持って、今自分の目の前に確かに存在する事に、筆舌に尽くしがたい興奮を覚えている。
何が原因で、どうしてこうなったのか等どうでもいい。
気がつけば、はやてはそっと〝もう一人の自分〟へとその両腕を伸ばし、抱き寄せた。
「むっ、いきなりなんだ子烏よ。ええい離せ! いくら我が寛大といえど、これ以上の狼藉は――――」
「……夢じゃ、ないんよね」
「――――ふん」
突然抱き寄せられ、初めこそ強く抵抗していた〝もう一人の自分〟は、はやての蚊の鳴くような問いかけを受けてすぐに大人しくなる。
そして、ゆっくりとはやての頭を撫でながら、言った。
「無論だ……貴様の抱きしめているその温もりが、何よりの証左であろう」
優しく耳朶を叩く、どこか不思議な感じがする自分のモノではない自分の声に、はやては何度も頷く。
自分が今抱きしめている温もりがどこかへ行かないよう、強く、強く腕に力を込めながら。
世界は呆れるくらいに平等だ。全てに意味があり、全てに役割が定められている。
そう思えばこそ、自身の不遇の身の上にも我慢が出来た。
生まれた時より足が不自由なのも、突然の事故で両親を失い天涯孤独の身になったのも、全部そう〝定められていた〟からなのだ、と。
それは、幼い彼女にとって望外より手繰りよせた、歳不相応の諦観だったと言える。
だが、そうでもしない限り、彼女はこの辛く残酷な現実を正面から受け止める事ができなかったのだ。
正直に言えば、生きている事が苦痛だった。自分一人が生き残った事が恨めしかった。
変わり映えのしない毎日。静かなリビング。一向に動く気配の無い脚。そんな日々を終わらせる勇気も無い滑稽な自分。
しかし、八神はやては今日。生まれて初めて、この世に生きている事に感謝した。今この瞬間まで生きてきた自分を、誇らしく思った。
夢なんかじゃない。
頭がイカレた末の妄想でもない。
嘘偽りの無い、確かな現実として、いつも夢想していた〝一生のお願い〟が、今此処に在る。ずっと求めていた暖かさが、この両手の中にある。
その事実が、例え様が無いほど嬉しかった。
「それとも何か、子烏よ。よもやここにきて、我を夢幻の類だと抜かすつもりでは無かろうな?」
「……ううん、ちょぉ温い。温過ぎて、なんや目から汗出てきたわ」
「ふふん、そうであろうそうであろう。感謝するがよいぞ子烏よ。今宵の我は深淵なる闇の如く寛大で――――子烏貴様、決して鼻水は垂らすなよ?」
「なんやケチ。ちょっとくらいええやろ」ズズッ
「待て貴様突然ぐずぐず言いおっておいまさか言っている傍からかこのバカ小烏!? ええいやはり離れろ貴様! 闇統べる王たる我を塵紙扱いするとは何事かッ!」
「ええやーん! もうしばらくこうしててーな!」
「こ と わ る ! ぬぐぅおおおお! は な れ ろぉおおおお!!!」
「い や やぁああああああああ!!!」
そのまま二人はもつれ合ってベッドに倒れ、ぬぎぎだのむぎぎだの、実に淑女らしからぬ呻き声をあげながら泥臭いキャットファイトを繰り広げた。
そして、互いの衣服があられもなく肌蹴てしまうほど戯れ合った二人は、乱れた息を整えながらも、ふとどちらからともなく声を上げて笑いあう。
この奇跡がどうして起きたのか。あるいはこの出会いは決まっていた事なのか。
八神はやてにとって、そんな瑣末な事等どうでもよかった。
ただただ、只管に笑いながら神に感謝する。今日まで生きてきた事に感謝する。なによりも――――この出会いに感謝する。
そして、はやては固く心に誓う。
「なぁ、そっくりさん?」
「なんだ、子烏」
「―――――私な、今日の事は一生忘れへん」
「―――――当然だ。なにせ、我の生誕日なのだからな」
春特有の涼しさが残る夜。
いままでありえなかった、二人分の温もりを乗せたベッド。
ちょっと言動がおかしい、自分のそっくりさん。
そっと手を伸ばすと、初めて温もりが返ってきた。
それが嬉しくて、幸せで。
はやてはそっと、空いた方の手で目を覆うのだった――――――。
☆
―――――五月某日。海鳴市藤見町。
高町桃子はその日、珍しくオフの一日を満喫していた。
前々から気になっていた喫茶店や洋菓子店は当然として、道中で見つけたアンティークショップや雑貨屋等にも立ち寄り、店に使えそうなもの、レシピのヒント等を探し求めて歩きまわった。
昼も大きく回ったところで、歩きづめで減っていたお腹を満たすために近くにあった適当なレストランに入り、今は食後に運ばれてきたヨーグルトムースタルトを堪能しているところだ。
有名パティシエの作るような異様に凝った出来ではないが、しかしシンプルすぎない見た目に作者のセンスを感じつつ、しっかりとした味にライバル心を刺激される。
確かにそれは桃子なりの休日の過ごし方であり、楽しみ方なのだが――――どうみても、それはもはや職業病だった。
ともあれ、そんな久方ぶりの(一人で過ごす、という意味で)休日を楽しむ一方で、桃子は今もって、高町家の末娘が巻き込まれている〝事件〟の事を考えていた。
始まりは四月。桃子が事態を把握したのは、既に大事になりつつあった時だった。
フェレットに変身できる少年。願いを叶える魔法の石。魔法少女として頑張っている末の娘。
今までの常識を打ち壊す不可思議な事件は高町一家のみならず、その親しい知人一家にまで波紋を及ぼし、四月の中頃より末まではまさに怒涛の毎日を体験する事になった。
とはいえ、事件も山場は過ぎ去り、後は事後処理と言った感じで沈静化しているので、先月に比べれば心労は遥かにマシになっている。
少なくとも、娘から痛ましい擦り傷や生傷が少なくなっただけでも、母親としては心の荷が軽くなったものだった。
ただし、その副次効果というか弊害と言うか、末の娘――――なのはがその事件をきっかけに兄や姉の鍛錬に少しずつ付き合い始めた所為で、危険が無くなった今でも擦り傷や生傷が絶えないのが新しい悩みの種となっているのだが。
そもそも、年頃の少女が体中あちこちに生傷をこさえてしまうこと自体、お母さんとしてはなんとも喜ばしくない出来事なのだ。出来るならばそんな危ない事等せず、以前のように極一般的な女子小学生として毎日を謳歌してほしいのだが……血は争えない、ということなのだろうか。
そのくせ、旦那の士郎や長男の恭也、あるいは長女の美由希のように運動神経が出鱈目にすごいというわけでもなく、むしろ逆だというのだから悩ましいところである。
なにせ、ここ最近こさえてくる生傷等の原因の九割が、なのは自身のドジ(転んだり蹴躓いたり足を滑らしたり……とにかく転ぶのである)なのだ。
自分がなのはと同い年の頃を思い返して、なんでまたそんな変な所だけおかーさんと似ちゃったのかしらねぇ、と桃子は苦笑するしかなかった。
だが、そんな運動音痴の我が娘が、かの専門家曰く〝百年に一人の天才魔法少女〟であると言うのだから、世の中どうなるかわかったものではない。
そもそも、この世界に〝魔法〟等と言うファンタジーの象徴が確かに存在する事自体、桃子には未だ以て実感が得られない事実であった。
確かに何もない空間から突如明りが生まれたり、人が生身で空を飛んだり、アニメや漫画のように変身したりと様々な〝魔法を使っている〟場面を目にしたが、桃子の中でそれらは、どこか〝映画の中の出来事〟のような感覚として受け入れられていた。
つまるところ、〝自分は無関係〟という認識が強いのである。
その原因として、桃子自身が夫や子供達と一緒に事件の渦中に身を置いていたにもかかわらず、直接的な〝事件〟に巻き込まれた事が無かった事が挙げられる。
それは勿論、桃子を危険から切り離すと言う立派な理由があってのことだったのだが、それ故に桃子は今一つ、末の娘が〝魔法少女である〟という、どこかふんわりと宙に浮いた、曖昧な認識しかできずにいるのだった。
故に、〝ソレ〟を桃子が手に入れた時、桃子は今まで散々聴かされた〝ソレ〟の危険性を失念していたのである。
―――――同日。海鳴市海鳴臨海公園、第二海水浴ビーチ。
空腹も満たし、気力も十二分に快復した桃子が次に向かったのは、海鳴臨海公園だった。
水上バスの発着場や、サッカーコートくらいはありそうな草原、海を望む散歩道や、小さな池を囲む公園等、付近の住民だけでなく、近隣の都市からも客足が伸びる有名な場所だ。
そんな中でも、今桃子が歩いているのは、小さいながらもシーズンには海水浴も楽しめるビーチだった。
避暑地のように真っ白な美しい砂浜とは言えないし、海も透き通る程綺麗と言うワケではないが、桃子はこの砂浜が好きだった。
なんてことない、どこにでもありそうな小さなビーチ。そんな慎ましさが、どこか桃子の琴線に触れるのである。
晩春が足音を立て始めた今日この頃、徐々に気温は上がっていき、気がつけば海水浴のシーズンとなっているのだろう。
こういうと、なんだか年寄り臭くなってしまうので嫌なのだが、どうしてもこの年齢にまでなってしまうと、時間が経つのを早く感じてしまうものだ。
誰かが言っていたが、『二十歳の一年は、二十年が凝縮された一年』という言葉を聞いた時は、いやに納得できてしまった。
「そっかぁ……もう、九年も経つのねぇ」
細波の調に耳を傾けつつ、波打ち際の砂を踏みしめながら、桃子は一人言ちた。
九年。
それは、高町家の末娘が生まれてから流れた歳月であると同時に、顔も見れなかった〝もう一人〟の末娘と別れてからの歳月でもある。
高町桃子は、片時もその子の事を忘れた事はない。
無論、いらない心配をかけないためにも、普段はその事を憂いている様子等おくびにも出さないが、こうして一人でいる時だけは、どうしても隠しきれるものではなかった。
原因がなんだったかと考えるなら、それは〝わからない〟としか答えようがない。あるいは〝仕方なかった〟とでも言うべきだろうか。
―――――九年前、本来であれば、なのはともう一人が、双子として生まれてくるはずだった。
初めての診察の時は、一卵性の双子だろうと言われていた。
それを聞いた時、士郎は手放しで喜んでくれた。
まだ幼かった恭也と美由希には、生まれた時のサプライズとして黙っていようとしたのだったか。
だが、その〝もう一人〟は生まれてこなかった。
新たな命を授かってから、それが世に生まれ出るまで。たったそれだけなのに、その期間に想像もつかないアクシデントが起こり得る。それ故に、生まれてくるはずではなかった子が生まれ、またその逆も起こってしまうのが、この世の常だ。
言ってしまえば、それは〝世の理不尽〟だ。
何故私が。何故この子が。何故あの人が。これまで桃子が経験してきた理不尽を数え挙げればキリがない。
そういった〝世の理不尽〟とどう折り合いをつけるか。生きると言う事は、その巧稚さをどう身につけるかでもある。
そして、桃子自身はどうかと言えば――――正直、上手な方ではないな、と自分でも理解している。
九年の月日が経った今でも、桃子は時折夢に見るのだ。
それは決まって、普段の家族の団欒のワンシーンから始まる。
夕飯を食べ終え、士郎と恭也はソファーに座ってテレビを眺め、美由希はテーブルでなのはと一緒に談笑している。桃子はそんなみんなのために、お手製のデザートを用意している。
そして準備を終え、みんなに『はぁーい、みなさんお待ちかね、桃子さんの手作りデザートよ~♪』と配るのだ。
そうしてみんなに配り終えると、唐突に恭也が問いかける。『母さん、一つ余ってるみたいだけど』と。
見れば、デザートは自分含めて全員に行きわたっている。なのに、持ってきた盆にはもう一人分、誰のかもわからないデザートが残っているのだ。
最初、桃子はそれを自分のうっかりだと思う。だがしかし、余ったそれを片付けようとしたところで、末娘のなのはが言うのだ。
『おかあさん、だめだよ』
『どうして? なのは、もう一つ食べたいの?』
『ちがうよ。なのはのじゃなくて、あの子の』
『あの子……?』
なのはの指さす方に振りかえると、そこにはなのはと瓜二つの、〝もう一人のなのは〟が佇んでいる。
髪を二つのお下げにしているなのはと違って、その子はなのはよりもやや濃いダークブラウンのショートカットで、どことなく恭也と雰囲気が似ている、とても無表情な子だった。
桃子は気付く。あぁ、そうだった。これは〝この子〟のだったっけ、と。
慌てて『ご、ごめんなさい! そうだったわよね、もう桃子さんうっかりしすぎだわ』と、静かに佇む〝もう一人のなのは〟にデザートを差し出す。
だが。
『……どうしたの?』
『……』
〝もう一人のなのは〟は、ただ静かに首を横に振るだけで、桃子の差し出すデザートを受け取ろうとしなかった。
最初は存在を忘れていた所為で怒っているのだろうかと、内心おろおろする桃子だったが、次にその子が微笑んで見せた事で、そうではないことを理解する。
そして、〝もう一人のなのは〟は桃子に対して深々とお辞儀をすると、そのまま一言も呟くことなく踵を返して去っていくのだ。
慌てて『ま、待って!』と桃子が呼びとめても、〝もう一人のなのは〟は止まらない。
必死に手を伸ばし、駆け寄ろうとしても、桃子の足はその場に縫い付けられたようにして動かない。
ついには〝もう一人のなのは〟がその空間からいなくなってしまうと、桃子はその場に頽れ、訳もわからず涙が溢れてくるのだ。
『おかあさん、なかないで。おかあさんがなくと、あの子もいっしょにないちゃうよ』
なのはがそう語りかけてくれても、桃子の涙は止まらない。
謝罪の言葉だけは決して口にしたくなかった。
でも、他に〝あの子〟になんと声をかければいいのか思いつかない。
申し訳なさと、悔しさと、自分への怒りで胸が千切られそうになる。
だから、桃子は泣くしかなかった。
情けない母親だ。〝自分の娘〟に声すら掛けられない、謝る事も出来ない自分に、どうしようもなく腹が立つ。
だが、そんな桃子に、なのははなおも語りかける。
『おかあさん。あの子はおこってなんかいないよ? そうじゃなくて、ありがとうって。ごめんなさいって』
はっと振り返ると、なのはの顔に〝あの子〟の顔が重なって見えた。
同時に、なのはが何を言っているのか、はっきりと理解する。
でも、それでも。
高町桃子は、末の娘にすがりつくようにして泣くしかなかった。
〝あの子〟に掛ける言葉は結局見つからず、なのはの言葉にどう答えていいかもわからないまま。
夢は、いつもそこで終わる。
そんな、他人に話すにはとっても恥ずかしい夢を思いかえしてみて、桃子は自然と笑みを零す。
あの夢が、果たして桃子の都合のいい解釈なのか、はたまた本当に〝あの子〟からのメッセージなのか、それはわからない。
だからこそ、こうして時偶ふと一人になると考えてしまうのだ。〝あの子〟の口から、本当の事を聞きたい、と。
「――――きゃっ!?」
当然、そんな風に物思いに耽っていれば、高町家のドジ遺伝子ホルダーこと桃子さんの事である。
もはやお約束とも言って良いくらい綺麗に砂に足を取られ、しかも砂場の方ではなく波打ち際の方へと体が傾いてしまう。
気が付いた時にはもはや遅い。
勢いよく左半身から押し寄せた波にダイブし、盛大にその体を砂と海水でデコレーションする羽目になってしまった。
「……うぁっちゃぁ」
下が砂だったため怪我こそなかったが、しかし海水その他諸々で酷い有様だった。
慌てて周囲を見渡してみるも、幸いな事に時期外れの平日(ただし夕方近く)という事もあって、この醜態を目撃した人はそう多くない。
その事に少しだけ安堵しながら、桃子はすぐにその身を起こし、急いでその場から離れようとして――――気付いた。
「あら……?」
砂地に手をついたところで、なにやら硬い物が手のひらに当たっている。
何かと思って手を退けると、半分砂に埋もれる形で、どこかで見た記憶のある〝青い宝石〟のような石があった。
桃子はなんとなしにその石を掘り出し、半分海水でべとべとになってしまった服から(無駄とは知りつつも)砂を軽くはたき落としながら立ち上がる。
そして、その石を指でつまむように持ち、太陽の光にかざしてみると、表面をきらきらと様々な色に輝かせながら、仄かに光を放っていた。
はて、どこかで見たような……と暫くためつすがめつその石を眺めてみて、桃子は気付く。
「これって、もしかして……」
先月の中頃より、末娘のなのはが関わっていた〝例の石〟ではないか。
持ち主の願いを捻じ曲げて叶えてしまう、曰くつきの〝危険な魔法石〟とやら。
もはや名前すら忘れて久しいそれを、まさかこの自分が拾ってしまう事になるなんて。
運命の皮肉さに苦笑が漏れると同時に、少しだけ――――ほんの少しだけ、悪戯心が芽生える。
そして、その悪戯心こそがトリガーであった事に、桃子は気付かなかった。
桃子が我に返った時には、既に遅かった。
手に持っていた石の、一瞬の発熱と発光。その熱さに驚き、眩さに思わず目を瞑る桃子。
次第に光が収まり、恐る恐る次に目を開けると。
――――――桃子の目の前に、一人の少女が佇んでいた。
子供特有の柔らかさを持ちながら、すらりと伸びたしなやかな肢体を清楚な水色のワンピースに包む少女は、調子を確かめるように二、三度左右の手を握ったり開いたりを繰り返している。
肌は病的からは程遠く、しかし健康的とはやや言い難い、淡い桃色がのった白で、これで麦わら帽子をかぶっていればどこぞのお嬢様という風体だろう。
年のころは10歳前後――――いや、ちょうど末の娘と同い年くらいだろうか。それにしては纏う雰囲気が泰然としており、歳不相応な大人っぽさを醸し出している。
それはもしかすると、どこか大人っぽさを感じさせる、風に靡くやや濃い目のブラウンショートのせいでもあるのだろうか。
だがなによりも、桃子は突如目の前に現れた少女の相貌に、言葉を奪われていた。
桃子の思考が目まぐるしく走りだす。
様々な推測と願望が入り乱れ、今すぐにでも目の前の出来事が本当なのか、それとも転んだ拍子で見ている幻覚なのかを確認したくて仕方がない。
気がつけば、無意識に膝を付いて少女の目線まで下り、ついにはこちらをどこか焦点の定まらない表情で見つめている少女の左頬に触れていた。
暖かい。
初雪のように滑らかで、しかしじぃんと染みいるような暖かさを持つ頬は、間違いなく〝本物〟だった。
そっと、二度、三度とそっと頬を撫でると、そんな桃子の手がを、少女の左手が包む。
見れば、それまでどこか空ろ気だった視線はしっかりと桃子を捉え、次第にその瞳に力強い色を灯していく。
そして、桃子の右手を掴む左手に、力がこもる。
桃子は、この次に起こった出来事を――――いや、今この時に起こった出来事を、一生忘れないだろう。
何度思い描いたかわからない。
何度思い願ったかわからない。
九年の歳月の間、この子の存在を忘れた事等片時もなかった。ありえないことを夢想し、それが夢になった時は何故夢なのかと、その度に涙した。
だからこそ、胸が潰れそうな想いで桃子は祈る。
どうか、どうか夢でありませんように。数日限りの魔法でありませんように……ッ!
この右手を包む左手の熱が、消えてしまわないように。自身の手を包んでくれる少女の手を握り返しながら、桃子は強く祈る。
そして、目の前の少女は、そんな桃子の祈りに応えるように、口を開いた。
「―――――痛いです」
末の娘と全く同じ声で、しかし無表情のまま簡潔にそう呟く少女。
その声には、どこか憮然とした、あるいは少しだけ不機嫌そうな色が編みこまれていた。
だが、その声はどこまでも末の娘そっくりで。
なによりも、夢に出た双子の娘、そのままだった。
それが嬉しくて、幸せで。
気がつけば桃子は、その少女の体を力いっぱい、抱きしめていたのであった―――――。
☆
―――――――五月某日。海鳴海浜公園、水上バス発着場前広場。
空高く輝く太陽は、春の日差し特有の暖かさを持って海鳴の街を照らし、休日故に海浜公園を行き交う人々は多い。
週に一度か二度の貴重な活気に満ちた公園は、同時に併設されている水上バスの人入り大きな影響を与えていた。
本日幾度目かもわからない水上バスが発着場に到着し、その白い船体からわらわらと搭乗していた人々が吐きだされていく。
それほど大きい水上バスではないので、一度に吐きだされる人数はせいぜいが多くて五〇、少なくとも二〇~三〇人程であるが、普段は閑散としている発着場である事を考えれば、実に珍しい光景と言える。
とはいえ、その普段を知らない異邦人である彼女にとっては、目の前の光景が全てでしかない。
今まで見た事も無い景色に秘かに胸を高鳴らせながら、その少女はそっと目を細めて微笑んだ。
淡いブルーのブラウスにクリーム色のカーディガンに、下は黒のボタンデザインが印象的なキュロットに黒いタイツ。そして小さく控えめながらしっかりとした主張をするリボンのついたショートブーツ。
そして何よりも、優しく吹き抜ける風に靡く、細くしなやかで砂金のような輝きを放つゴールデンブロンドのツインテールが眩しい。
すらりと伸びる肢体と纏う儚げな雰囲気も相まって、どこかお忍びで散歩に来た御姫様のような風体だ。
蔦で拵えた屋根付きベンチに静かに腰掛け、道行く人々を飽きることなく眺めるその少女―――――フェイト・テスタロッサは、鼻腔を吐く生臭い匂いに少しだけ目を見開いた。
「……これが、潮の香り」
初めて嗅ぐ海の匂いに、フェイトは得も言われぬ感動を覚える。
海。
星を覆う水の塊。
その海から香る匂いがこんなにも生臭いとは。
「君は、海を見た事が無いのか?」
「うん……ずっと、庭園にいたから」
「湖は言った事あるけどね。海なんて資料でしか見たことなかったよ」
「……そうか」
フェイトの隣、ベンチの横に立つ黒髪の少年――クロノが問いかけると、フェイトは短く答え、それを捕捉するように彼女の隣に座る妙齢の女性――アルフが言葉を繋ぐ。
少し質問を誤ったか、と内心で苦虫を噛みながら、クロノは口を噤んだ。
同時に、約束の人物が未だ現れない事に苛立ちを募らせる。彼は場を和ませる会話が苦手なのだ。
クロノがフェイトと彼女の使い魔アルフを連れてここにやってきたのには、二つ理由がある。
一つは、単純にフェイト達に息抜きをさせるため。
本来であれば重要参考人は本局に連れていくまで軟禁していなければならないのだが、リンディの計らいで特別に(無論、監視や時間制限が付くが)外出許可を出してもらったのだ。
そしてもう一つが。
「……あ!」
「おー、いたいた!」
水上バスの発着場とは反対側、公園の入り口方面からこちらへとやってくる一人の少年が、フェイト達の姿を見るなり大きく手を振りながら駆け寄ってくる。
その姿を認めて、フェイトは顔をほころばせ、アルフはあからさまにしかめっ面を造り、そしてクロノはようやく来たか、と内心で溜息をつく。
約束の時間より遅れる事十数分。やや額に汗をにじませながら走ってきた少年は、その面立ちに悪戯小僧じみた笑みを浮かべ、後頭部に手を当てながら軽い調子で挨拶した。
「お待たせ―! いやー、わりわり。帰り際に先生にとっつかまってさ」
「どうせ何か問題を起こして怒られたんだろう。約束の日くらい神妙にできないのか君は」
「クロちーひでぇ! これでも本田君、今日はすげぇ真面目に勉学に勤しんだのに!」
聖祥大付属小等部の男子用制服に身を包み、ひょうきんな態度でありながら、どことなく〝演技っぽさ〟を感じさせるこの少年――本田時彦たっての願いであった、というのが二つ目の理由だった。
フェイトは、相変わらず元気そうな時彦の姿を見て、ほっ、と安堵する。
先日、彼を含めて今回の事件に関わったみんなで一度集まった事があったが、その時の彼は(何があったのかはわからないが)大分落ち込んでいるように見えたからだ。
だが、今日の様子を見る限りでは、そういった陰りは何もない。おそらく、自力で問題を解決したのだろう。なんとなく、そう直感できた。
そうでなくとも、彼がこうして元気な姿を見せてくれるのは、フェイトにとって素直に嬉しい事だった。
思い返せば、彼との関係はとても特殊なモノだ。
母のために必死であり続けたフェイトを揺さぶった、初めての人。
彼女に初めて友達を作るきっかけを与えてくれた人。
そして何よりも、フェイト以上にフェイトを知る、不思議な人。
そんな彼が、わざわざフェイトと二人だけで話したい事があると言うのだから、フェイトもそれに応えないわけにはいかなかった。元より、フェイトも彼に聞きたい事はたくさんあったから、渡りに船だったと言える。
「フェイトも暫くぶりだな。元気そうで安心安心」
「うん。トキヒコも、元気で良かった」
「……ゴキブリ並みにしぶとそうだもんね、アンタ」
「久方ぶりに再会したってのに、ねーちゃんってば酷い! 俺の心は痛く傷付きました! 訴訟!」
「その前にアンタの骨を噛み砕くよ」
「すみません」
相変わらず、アルフと時彦の仲は良くない。というか、アルフが一方的に時彦を嫌っている、という感じだろうか。
以前アルフにその理由を聞いてみた所、なんでも「胡散臭い」とのこと。……確かに。
ただ、悪い子ではないというのはアルフも認めているらしく、邪険には扱いつつも完全に忌み嫌っている、というワケではないらしい。そのあたりの境界は、フェイトにはよくわからなかった。
そして久しぶりの再会からくる歓談がある程度落ち着いた頃、二人の遣り取りを傍から眺めていたフェイトに、クロノが静かに告げた。
「それじゃ、僕は暫く向こうにいる。話が終わったら呼んでくれ」
「……はい」
「あ、あたしも。このアホと一緒にいたらアホがうつりそうだからね」
「ねーちゃんホントに酷いね!? 俺の事なんだと思ってるの!?」
「次元破壊未遂者。でもってフェイトを危ない目に遭わせた胡散臭い奴」
「…………」
「まさか、自分がやらかした事を理解してないなんて言やぁしないだろうね?」
「…………………その節は、貴方様の大切なフェイトお嬢様を危険にさらしてしまい、大変申し訳ございませんでしたぁッ!!」
「ってわけだからフェイト。あたしは向こうでこのちびっ子と一緒にいるけど、大丈夫かい?」「おい、誰がチビだ。僕はチビじゃない!」
「うん、大丈夫だよ、アルフ」
「そっか。でもいいかいフェイト、何かあったら容赦なんてするんじゃないよ。バルディッシュも遠慮なくぶっ飛ばしていいからね」
≪Leave it to me≫
「いやー、ねーちゃんは相変わらず心配性だなぁ」
「……いいね小僧、くれぐれもうちのフェイトに変な事するんじゃないよ。もしそんなことしたら……!」ガチガチ(歯を噛みあわせて鳴らす音)
「しませんしません! ただちょっと二人っきりの内緒話するだけなんで変な誤解しないでその立派な犬歯で威嚇しないで!?」
「……フンッ!」
一度だけ、勢いよく鼻を鳴らしたアルフは、踵を返しながらチビと言われた事に関してブツブツと文句を言っているクロノを引きずるようにして、その場を離れていった。
途中、クロノの背中を勢いよくぶったたいていたせいで、クロノが思いっきり咽る姿に、時彦はどこか納得いかないような声を漏らした。
「……おかしい。俺の場合だったら軽く数メートル転がる勢いでぶったたかれるのに」
「あ、あはは……アルフも、悪気はないんだよ。その、たぶん」
「……そうだといいけどな」
「隣、いいか?」と訊ねる時彦に、フェイトはこくりと頷く。
小さく一つだけ溜息をついて、時彦は勢いよくフェイトの隣へと腰を下ろした。
そして、暫くの沈黙を経て、時彦は意を決したように深呼吸すると、しかしキレの悪いジャブでフェイトの様子を窺う。
「……えー、でだ」
「うん?」
「今日わざわざクロちーに大目玉くらってまでお前さんを呼び出した理由なんだが……」
「……うん」
静かに相槌を返しながら、フェイトは隣に座る少年と自分との間にある、不思議な繋がりについて想いを馳せた。
出会いは唐突で、かつ不思議なモノだったと思う。
夜の学校、恐らくは何かしらの理由で夜遅くに来ざるを得ない状況下で、フェイトと時彦は教室の一画で偶然鉢合わせした。
身に覚えの無い事をあれこれ聞かれ、異様なまでに馴れ馴れしかった彼の事を、フェイトは最初「少し変な男の子」としか認識していなかった。
けれども、時間が経つにつれて時彦の質問がやけに気にかかるようになり、それから少しずつ興味を覚えていく。
そして、時彦の告げたあの言葉。
――――〝言っただろ?〟〝お前を、独りになんか絶対にしない〟
フェイトが覚えている限り、そんな事は言われた事が無い。あの時、あの場所で聞いたのが初めてだ。
それなのに、フェイトは〝覚えていた〟のだ。いつ、どこでだったかは思い出せずとも、間違いなく誰かにそう言われた事があるのを、記憶ではなく経験として覚えている。
その奇妙な出来事が、今日こうして再び時彦と会おうと思った、大きな原因となっている。
もしわかることができるなら、教えてほしい。この奇妙な〝既視感〟は何なのか。そもそも自分と時彦の関係は一体何なのか。
……薄々と気付きつつあるその悩みの、答え合わせがしたい、と。
「俺から色々話しても良いんだけどさ……その、いきなり言われてもわけわかんないだろうし、やっぱりお前の方から質問してくれね?」
「……私の方から?」
「おう。あれこれ、お前も聞きたい事あるだろ。今日は出血大サービスで嘘無し百パーセントで答えるよ。その方が、お前にとってもいいはずだ」
「聞きたい、こと」
そう言われて、フェイトは噛みしめるように時彦の言葉を口の中で転がす。
時彦に言われたように、フェイトは彼に聞きたい事がたくさんあった。それらは全て、彼の用件が終わってから、許されるならといかけたかったものばかり。
だからこそ、こうしてフェイトから質問するようにしてくれた事は僥倖で、同時に〝事実〟を知る事に対して、前もって心の準備が出来る。
少しだけ逡巡と選別をし、そしてフェイトは意を決して、その最も大きかった疑問を問いかけた。
「――――私は、トキヒコと昔、会った事があるの?」
「……ある」
「やっぱり、そうなんだ……」
満足できる答えが帰ってきて、フェイトは心から安堵した。
もし違ったらどうしよう、と今までもやもやとしていた悩みだけに、それが晴れた安堵憾はひとしおであった。
フェイトが時彦とかつて会った事があるように感じていたのは、初めて出会った時の事に加えて、今までの時彦の言動が遠因となっている。
そして、それらの言動に不思議と違和感を覚えなかった事と、自分でも不思議なくらいに〝自分と時彦がかつて知り合いだったならば〟という仮定をすんなりと受け入れられた事が、フェイトにほぼ確信に近いものを抱かせていた。
ただ、それはあくまで自分の中だけで完結した推測であり、事実ではなかった。それがこうして間違いでないと分かった事が、なによりも安堵できる。
ともすれば、もう他に聞きたい事はないと言って良いほどに、その答えこそが欲しかった。
そんなフェイトの様子を見て、時彦もまた想う所があったのだろう。
やや乱暴に髪を掻きむしると、それから少し言い辛そうに捕捉を付け加える。
「正確に言えば、この〝時間〟じゃないけどな」
「……〝時間〟?」
「ああ。ぶっちゃけると、〝前世〟での話なんですねー、これが」
「………………え?」
なははー、と少しだけ冗談めかしつつ言ってのける時彦。そこに少しだけやるせなさとやり場のない憤りを感じたのはフェイトの期の所為なのか。
しかしどちらにしろ、フェイトは突然、彼が何を言っているのか理解できなくなった。
いや、言っている言葉の意味は分かる。そうではなく、彼が意図しているところが理解できないのだ。
ここにきて彼お得意の冗談?
いやしかし、最初に嘘偽り無しに答えると言っているし、まさかここにきて約束を反故にするような人間ではない事は、フェイトもよく知っている。
では、その言葉通りの意味だと言うのだろうか?
いやいや、それこそ可笑しい。〝前世〟ってあの〝前世〟だよね? そんなおとぎ話みたいな。
「まてまてこら、その目だけで〝うわ何この人頭大丈夫かしら〟みたいな困惑と心配を訴えるな」
「あ、ご、ごめんなさい……別にそういうつもりじゃ……」
「……気持ちは痛いほどわかるから謝らなくても良いよ。つーかお前からそんな普通の反応が返ってきた事に俺は酷い違和感を感じる」
何か今さらりと、とても失礼な事を言われた気がしてむっとするフェイトだったが、しかし別に怒るべき所等無い事に気付いて内心で首を傾げた。
「まぁ、俺とお前の関係ってのは、そんくらい出鱈目な前提を基にしてるってこと。そもそも、俺だってなにがどうなってこんなことになってるのかさっぱり見当つかないしな」
「……嘘だとは思わないよ。でも、その……ちょっと、ぴんとこなくて」
「そりゃーなぁー……よっぽど完成ぶっ飛んでるか厨二病最盛期でもなけりゃ誰だって首かしげる話だよ、コレ」
そして、時彦は一つ大きく溜息をついて、
「でもさ、おかげで俺はもう一度お前に会えた。それだけで、前世とかなんのかんのはどうでもいいんだ。本当に、十分なんだよ」
そう言ってフェイトの方に振り向き、少年は無邪気に屈託ない笑みを浮かべた。
子供っぽいくせに、しかしどこか大人びた諦観をも含んだ、複雑な笑み。
けれども、そこには暗い感情は一切なく、純粋にフェイトと再び会えた事に対する喜びが浮かんでいる。
知らずと、フェイトは自身の鼓動が高鳴るのを感じて、我慢できずに顔を逸らして俯いてしまった。
軽い動揺の中で、今のは失礼だったのでは、謝るべきだろうか? いやでも、何故かそれは恥ずかしい気がする。なら話題を変えるべきだ、そう話題を……!
そこまで思考を目まぐるしく走らせて、ふとフェイトは大切な質問がまだ残っていた事に気付いた。
別に、先程の答えを貰った時点で、フェイトが時彦に聞きたい質問はほとんどなかったのだが、よくよく考えて見ればもう一つ……それこそ、自分の個人的な興味と好奇心による質問が一つだけ、あった。
「あの、トキヒコ!」
「はい、なんでしょう!」
やたらと元気のいい返事に少し面喰ったフェイトだが、意を決して質問する。
「えと……その、わ、私とトキヒコって……ど、ど」
「ドドリア? ザ―ボン? ギニュー?」
「ち、ちが――――」
「あー、すみません、余計な茶々入れましただからそんなあわあわ動揺するな罪悪感がキリキリと俺の胃を痛めつける」
「……トキヒコ?」
「はい。失礼しました。どうぞ先を続けてください」
平身低頭で謝る時彦の態度に全くもって誠意を感じないのだが、しかしフェイトはそれ以上気にしなかった。
だが、おかげで妙な緊張がほぐれた。別に変な事を聞こうとしていたわけでもなし。うん、そう、全然変な事じゃない。だから大丈夫。
内心でそんな風に自分に言い聞かせて、でもやっぱりどこか照れを残したまま、フェイトは改めて問いかける。
「……私とトキヒコって、その――――どういう、関係だったの?」
「――――ま、気になるよなぁ」
なっはっはー、と力なくわざとらしい笑みを浮かべながら、時彦は頭を掻く。
その様子を見て、やっぱり聞いちゃまずい事だったのかなとフェイトは後悔するが、今さら撤回するつもりも無い。
そもそも、その心配は杞憂だった。
「ほんとはさ、今日はその事を話しに来たんだけど、ぶっちゃけ言って良いかどうか判断が付かなくて、迷ってたんだよ」
「……どうして?」
「……知らない方がよかった、ってこともあるだろ?」
突然空気が切り替わった時彦の言葉に、フェイトは不意をつかれた。
今までのお気楽で楽天的な様子は何処にもない。それは、あまりにも不自然な大人びた姿。
口にした言葉は鉛のように重く、冷たく、フェイトの心にのしかかる。
「そういう経験は俺もしてるし、お前も経験したばかりだろ。だから、何も〝事実〟は知っておくべきとは限らない、って思ったら……その、迷った」
「そっか……ふふ」
だが、対称的にその言葉に込められた暖かさを知って、フェイトは顔をほころばせた。
「……あの、フェイトさん? なんでここで笑っていらっしゃるんでしょうか。あ、もしや俺今なんか面白い事言っちゃったり? ひゃっほい!」
勘違いした末に何故か激しく喜び踊り始めた時彦を内心で可笑しく思いつつも、フェイトは「そうじゃなくてね」と首を振る。
「トキヒコは、優しいなって思ったから」
「……はい? どゆこと?」
「だって、心配してくれたんだよね? その、私が母さんからクローンだって聞かされた時の事、考えて」
「あー……まぁ、考慮の一つではありましたね」
「だから、優しいなって思ったの」
「……うん?」
腕を組んでさらに首を45度横に傾けながらも、意味がわからないと言った様子で悩んでいるトキヒコ。だが、そんな彼らしい反応が、フェイトは嬉しかった。
だから、それ以上説明はしない。
「大丈夫だよ、トキヒコ。どんな形だったとしても、私は大丈夫」
「……聞いてて楽しい話でもねぇぞ?」
「それでもいいの。だって、私の話なんだよね?」
「……後悔しても知らんからな」
「ふふ、しないよ、そんなこと」
なおも食い下がるフェイトに、遂に諦めが付いたのだろう。時彦は一度深く溜息をつくと、「……ったく、そういう強情な所はしっかり残ってるのな」と呟きいてがりがりと頭を掻きながらそっぽを向き、ぽつぽつと語り始めた。
「……こういう話がある。とある母子家庭に、双子の娘がいた。でも、母が愛していたのは姉の方だけで、妹はまるで存在すらしていないかのように扱われていた」
「……それが、私?」
フェイトの質問には答えず、敢えて無視する形で、時彦は話を続けた。
「……妹は、それでも優しくしてくれる姉に支えられながら健気に生きて……でも、ある日その姉すらも死んだ。妹は、姉の葬式にすら出る事を許されず、一枚のカードと鞄一つに収まる私物を持って、家を追い出された」
ゆっくりと、全てを初めから思い返しながら、しかしどこか他人事のように訥々と語り始める時彦。フェイトは、それ以上質問をすることをやめて、静かに話しに聞きいる事にした。
時彦と双子の妹との出会い。
双子の妹の背景。
時彦と双子の妹が過ごした日々。
それらを要点だけ抑えながら、酷く簡潔に、あっさりと。
そうしないと、その過去に自分が呑みこまれそうだとでも言うかのように。
特に、ようやく母に愛されるかもしれないと思った矢先に裏切られた双子の妹、結局は死んだ姉の代用品としてしか見られなかった双子の妹、ついには母と絶縁を決意した双子の妹。それらのエピソードを語る時の時彦は、フェイトが見ていて辛くなるほど、わざとらしく明るかった。
時彦の口ぶりからして、以前の自分―――双子の妹との絆は相当に深かった事が推し量れるだけに、それでもなんでもない、他人事のように語り続ける時彦の胸中を想って、フェイトは胸が詰まる。
それでも「もういい」と言わなかったのは、それこそ時彦に失礼だと思ったからだ。
どんな話でも覚悟していると言ったのは自分で、それを了承してくれたからこそ、時彦はこうして話してくれている。
ならば、最後まで黙って話を聞くのが、今の自分の役割だと、そう言い聞かせながら。
話は、佳境を迎えていた。
「結局、双子の妹さんは母上様に絶縁状叩きつけてお金を巻き上げた後、連れのヤロウを引きつれて散歩してたわけだ」
「……お金の件は時彦がそそのかしたんでしょ?」
「……ぼくよくわかんない」
「時彦?」
「はい、そうです、すみません。僕がそそのかしました」
「やっぱり」
「だってさー! そうでもしないといくらなんでも不憫過ぎるじゃねぇか。相手は自分の娘を塵芥かせいぜい利用できる道具ぐらいにしか見てなかったんだぜ? ならせめて金むしり取るくらいはしてやんねぇと俺の気が済まなかったんだよ」
「もう……それで?」
「……まぁ、んな事があった後、元気なワケないよな。そういうフリをしてるのはみえみえだったし、いつも以上に強がりにキレが無かったのは確かだ。おまけに、珍しく夕陽の土手に座りこんで愚痴るなんて、意識しないで厨二病やらかすもんだからびっくりだわよ」
なんとなく、時彦の述べる情景がフェイトの脳裏に簡単に蘇る。
仮に時彦の言う双子の妹のような性格だったとして、自分をその立場に置き換えて考えて見ると、ちょっとだけ違和感を感じたが、ちょっぴりだけ共感できるモノがある。実際、先日の一件では心神喪失に陥った程だったことを思えば、むしろ気丈と言えるだろう。
だからこそ、本当にその子と自分は同一人物なのかと疑いもするが……些細な事だと考えるのをやめた。
それよりも、それから続いている時彦の言葉の方に、フェイトは意識を持って行かれる。
「――――だから、寂しそうなそいつに向かって、お人好しのバカは言った。〝お前を、独りになんか絶対にしない〟って」
続けて、彼はこうも言った。あの時の事は、決して忘れない、と。
夕陽の沈む黄昏。
少しだけ鼻を突く血の匂い。
とても弱々しかった、あの背中。
返ってきた返事は〝どうせいつもの口約束だろ! 期待なんかしてないからな!〟なんていう、実に酷いモノだったこと。
でも、そんな事を言いながら、時彦曰く双子の妹は笑っていたらしい。時彦が一番好きな、無垢で無邪気な笑顔を浮かべながら。
「でも、結局約束は果たせなかった」
締めくくるようにそう結ぶ時彦の言葉に、力はなかった。
終わりは呆気ない。
そもそも、明確な終わりがあったのかどうかすら定かじゃない、と彼は言う。
自分が死んだ時の事なんて良く覚えてないし、そもそも双子の妹がどう死んだのかさえ、彼にはわからないらしい。当の本人ですらそれを覚えていない以上、双子の妹が遂げた今際の際を知る手段は皆無だった。
そして気がつけば、〝二回目〟が始まっていた。
現実はドラマや小説のようにうまくできてなどいない。でも、こうして奇妙な運命を通じて、再び巡りあう事が出来たのは、決してまぐれやたまたまなんかじゃないと俺は思う。そう、彼は力強く述べ、続けてこう言った。
―――――〝なら、俺がお前を幸せにしてやる〟
その約束を果たせなかったのは、とても悔しい、と。
「やっぱ、お前の言うとおりだったよ。口ばっかりだな、俺」
「……」
「すげぇ自分勝手だけど…………でも、やっぱり謝らせてくれ。ごめん、〝シルフィ〟」
ようやく、絞りに絞って染みだしてきた、それが彼の懺悔だった。
〝フェイト〟ではなく、〝双子の妹〟に対する謝罪であるのが、彼の心情の何よりの表れだろう。
彼はずっと謝りたかったのだろう、とフェイトは推し量る。
約束を果たせなかった事を、何より悔いていたのだろう。
だけど、この九年間、彼はその事を誰に話せるわけでもなく、誰かに打ち明ける事が出来るわけでもなく、ただひたすら、己の心にしまい続けていたのだ。
謝りたくても謝れない。そもそも、そういう感情を持つことすら失礼なのではないか。だけど、決して忘れる事はできない。そんな事をすれば自分で自分が許せなくなる。
赦しを乞えぬ罪悪感ほど辛い物はない。それが許されぬ罪とは言わないが、彼の中ではきっと、約束を破った事こそが、そもそも許されぬ事だったのかもしれない。
そう思えば思うほど、フェイトは胸に熱い物がこみ上げてくる。
身に覚えのある物、そうでない物。様々な感情がごた混ぜになって、圧縮され、指向化されて、それでもなお最後に残ったのは、たったひとつの結論だった。
「――――ううん。トキヒコは、ちゃんと約束、守ったよ」
そっと、フェイトは隣に座る少年に手を伸ばし、つい最近感じたあの温もりを握りしめた。
驚いたように、時彦が顔を上げ、フェイトを見た。
やや釣り目で、ともすれば怖い印象を与えそうな黒目に、柔和に微笑む金髪の少女が移りこむ。
彼に伝えたい事は数多くある。
でも、そのどれよりも、フェイトはただ一つの事を、彼に伝えたかった。
「そっか……〝シルフィ〟っていうんだ、私の名前」
「……あぁ。もうこの世界で、俺しか知らない、お前の本当の名前だ」
「なんか、変だね」
えへへ、とはにかみながら、フェイトは言う。
「本当はね、私もよくわからないんだ。自分が誰なのか、本当は誰なのか。私は本当に私なのか。全部が全部嘘で、今ある私はただの張りぼてなんじゃないか、って」
「……」
「でも、これだけは――――この暖かさだけは、識ってる。覚えてる。こうやって、トキヒコの手を握ると、いつもざわざわする心が、嘘みたいに静かになるの」
ゆっくり目を閉じて、まるで潮騒に耳を傾けるように、フェイトは静かに続けた。
「いつも、いつも思ってた……〝母さんのために頑張らないと〟〝母さんのために強くならないと〟って。何をしていても、どんな時でも、ずっとそんな心の声が聞こえてた。でもね、あの日――――夜の学校で、トキヒコに抱き締められた時、初めてそれが聞こえなかったんだ」
フェイトが言っているのは、あの〝怪談騒ぎ〟があった時の事だ。時彦と初めてであった、夜の校舎での出来事。
抱きしめられたと言うのは不慮の事故だし、その後も気が動転してかなり失礼な事をしでかした記憶があるが、そもそも動転した理由を考えれば、納得がいく。
今まで自分にのしかかっていたプレッシャーがさっぱりと消え失せて、フェイトは平静さを失っていた。
人は、〝無知〟こそを恐れる。理解できない事に遭遇した時、それを理解しようと努めるようとする余り、その多くが冷静さを欠く一因となってしまうほどに。
フェイトのソレは、特に長く続いた。校舎を去り、街に用意した拠点に戻った後も、布団にもぐって目を閉じても、何をしていても。翌朝まで、その疑念はフェイトにまとわり続けた。
「とても不思議だったんだ。どうして、トキヒコに触れていると、あんなにも心が静かになったんだろうって。そんなの、今までなかった事だから。何も聞こえなくて、心が静かになって、すごく眠くなって――――ずっと、ずっとこうしていたいって、思った」
それは、母とアルフ、そして乳母でもありよい教師でもあったリニスしか知らなかったフェイトにとって、生まれて初めて覚えた他者への関心。
初めて抱いた好奇心に幾度となく戸惑い続け、その好奇心は、今日やっと氷解した。
思えば、その興味、関心、好奇心があったからこそ、今のフェイトが此処にいる。
そして、その原点こそは、目の前の少年なのだ。
初めて会った気がしない不思議な少年。何故か誰よりもよく自分を知っていて、不思議なまでに自分を気遣ってくれていた彼に抱き続けていた、正体不明の安心感の理由が、ここにきようやくフェイトは理解できた。
「でも、やっとわかった。それは、トキヒコが私を識っていてくれたからなんだ」
たった一人の、〝フェイト/シルフィ〟という人間が存在した事を知る存在。それこそが、フェイトが時彦に覚えていた正体不明の安心感の理由だったのだ。
今までの自分が偽物だった事を知り、母にすら見捨てられたフェイトにとって、〝本物の自分〟を知ってくれている人間がどれほど嬉しいか、時彦はきっとわからないだろう。
こんな自分を友達と言ってくれる稀有な少女達には、もちろん感謝で一杯だが、この感情はそれとはまるで別のものだ。
言うなれば、アルフやリニス、そして母に抱いていた感情のソレで――――つまるところ、他人とは思えない。
気がつけば、フェイトは意識せずとも微笑んでいた。
そして、極々自然に、感謝の言葉を口にする。
「――――ありがとう、トキヒコ。こんな私を、覚えてくれていて」
「おう、感謝しとけよ!」
にひひ、と悪戯小僧そのままな笑みで答える時彦の笑顔が、見ていてとても心地よい。
見た事の無い、記憶にも無い少年の笑顔が、なぜかとても懐かしく思える。
できるならば、こんな彼と初めてできた友達がいる輪の中に、自分も入りたい。
その願いが叶うなら、なんだってしようと思う。
誰かが自分を知っていて、誰かが自分を見てくれる。手を差し出せば握り返され、名前を呼べば名前を呼び返してくれる。
ささやかだが、フェイトにとってはこれ以上ない幸せだ。
こんな幸せの中で生きていけるのならば、これから先もずっと頑張れる。たくさんの事を見て、たくさんの事を知って、与えられたこの命を誰にも恥じることなく生き抜きたい。フェイトは掛け値なしに、そう思った。
今こうしてこの場にいるだけでも、自分にとっては過ぎた幸せなのだから。
一方で、これまで願い続けてきた母の幸せを見る事が叶わないのは、やはり悲しかった。
あんな危険な方法を用いてまで、亡くした娘/アリシアとの時間を取り戻そうとした母は、結局あの光の中に姿を消してから見つかっていない。
クロノ達の話では、次元の狭間に落ちたか、あるいはJSの発動の影響で存在ごとこの世界から消えたか、という話だが――――どちらにしても、真実はあの光の中にしかない。そして、その光の中を覗く事が出来ないフェイト達にとって、それは永遠の謎であり、永久に叶う事の無い夢である事を意味する。そう、思っていた。
「――――フェイト」
「え、あ、ごめん。なに?」
突然、真剣な声音で呼びかけられて、フェイトは慌てて我に帰る。
見ると、時彦が真剣と言うよりも剣呑な表情で、水上バスの発着場の方を睨みつけていた。
つられるようにしてフェイトも彼の視線を追いかけ―――――絶句する。
「―――――――かあ、さん?」
腰まで伸びた艶やかな黒髪と、上品で清楚さを感じさせつつ、どこか瀟洒さも窺わせるワンピースに、シンプルなブローチとストールで着飾る妙齢の女性は、左手に日傘を持ち、右手で娘と思われる少女の手を握っている。
時彦とフェイトが驚いたのは、その女性の容姿だけではない。
風に棚引く度に、砂金のようにきめ細かく煌めく長い金髪。くりっとした丸い瞳は海のように青いアクアマリン。
物静かなフェイトとは対照的に秒を刻むごとにころころと表情を変え、薄手のワンピースをひらひらと躍動させるほど、全身を使って何事かを傍に立つ母にしきりに語りかけている。
フェイトは、そんな二人の姿に暫し心を奪われる。
そこには、フェイトの記憶深く――ソレは仮初めのものだったが――に刻まれた原風景が広がっていた。
微笑む母。甘える自分。在りし日の――――あるいは、親娘で夢見た幸せな風景。
真実を知った今、それがただの幻想であり、幻想であったからこそ、母が命を賭してまで欲した物であったことを理解している。だから、フェイトは言葉を失ったのだ。
目の前のコレは、その再現に他ならない。
あの日、母が躊躇なく命を賭け、時彦が危険を顧みずに助力してさえも叶わなかった、誰もが夢見た幸せな未来が今、フェイトの前に存在する。
気がつけば、フェイトはベンチから立ちあがって走りだしていた。
「フェイト!?」
時彦の驚きの声すら置き去りにして、フェイトは全速力でふたりの親娘の元へと走る。
何かの間違いだ。バカな事はしないで。
母さんだ。母さんが、笑ってる。母さんとアリシアが、そこにいる!
走りだす直前まで繰り広げられたコンマ数秒の理性と衝動のせめぎ合いを制したのは、言うまでも無く衝動だった。
「――――あのッ!」
「……はい?」
手が震えるほど緊張しているくせに、自分でも驚く程悩むことなく声をかけたフェイトに対し、親娘は怪訝な表情で呼びかけに応えた。
その反応に、フェイトは息を呑む。
二人の反応は、突如見知らぬ人に声をかけられたソレそのものだった。
確かに、母の方は自分を見るなり目を丸くしたが、それでも反応は知人に対するソレではない。むしろ、珍しい物を見た、とでも言いたげな好奇心と驚きのソレだ。
もしかして、私の事が……わからない?
そんなの当り前だろう、という理性の反論が聞こえるが、敢えて無視。それよりも、思考は冷静に今確認しなければならない事を列挙し、心の焦りを押しのけてその疑念を口にする。
「お、お名前を!」
「名前?」
「お二人のお名前を、お聞きしても……いい、でしょうか」
最初の勢いは、語尾になるにつれてしおしおとしぼんでいく。
最後には今自分がどんな事をしでかしているのかをじわじわと実感して、ほとんど蚊の泣くような声になってしまった。
そんなフェイト――――突如現れた闖入者に、二人の親娘は互いに顔を見合わせる。
二人が交わす一瞬のアイコンタクトが、フェイトには数時間のような長い時間に感じられた。
幸いにも、二人の親娘はフェイトを不審者扱いして避ける事も無く、少しだけ戸惑いがちではあったが、律儀にもフェイトの質問に応える事にしてくれたらしい。
まだ戸惑いの残る娘の代わりに、女性はフェイトと向き合いながら姿勢を正して答える。
「プレシアよ。プレシア・ベルリネッタ」
「プレ……シアさん」
「ええ。初めまして。えぇと……?」
「あ、す、すみません。私、フェイトと言います。フェイト・テスタロッサです」
「そう……フェイトさんとおっしゃるの」
先に名を名乗る非礼を詫びつつ、わたわたと顔を真っ赤にしながら答えるフェイトを、プレシアと名乗った女性は微笑ましそうに見つめていた。
その視線が何を意味するのかフェイトは良くわからなかったが、悪い感情から来ているものではない事はわかった。
それよりも、フェイトは目の前の女性の正体がより一層分からなくなった事で、例え様の無い戸惑いに襲われていた。
名前は同じ、でも性は異なる、自分の母と瓜二つの女性。
口ぶりからしてフェイトの事は知らず、あまつさえ初対面である事を感じさせ、しかし纏う雰囲気はフェイトの記憶に残るかつての優しい母のそれと同じものだ。
これは、一体どういうことなのだろう。
ここが次元の異なる世界とは言え、同一人物は存在しないのが通説だ。その例外が所謂二重存在/ドッペルゲンガーと呼ばれるものだが、であるならば今フェイトの目の前にいる人間は、フェイトを知っていなければならない。
演技である可能性も捨てきれないが、仮にこの人物がテスタロッサのプレシアであるならば、反応が薄過ぎる。というより、ほとんど皆無だ。
せいぜい、その傍らに立つ少女とフェイトが余りにも瓜二つであることに驚いた程度で、反応と言えばそれぐらいである。
なにより、今こうしてフェイトに向かって柔和な微笑みを浮かべている事自体が、フェイトにとって彼女がテスタロッサの人間でないことの証左と言えた。
内心で目まぐるしい推測を繰り広げ、そのせいで黙りこくったフェイトを訝しむプレシア。そしてふと気付いたように隣の少女を見ると「ほら、アリシア」と、終始黙っていた少女へと声をかけた。
それを受けて、フェイトとは目の色以外に違いの無い少女が、慌てたように背筋を伸ばす。そして、声すらもフェイトと瓜二つであった少女は、元の調子を取り戻したように元気に挨拶をした。
「初めまして、フェイト! 私、アリシアっていいます!」
「――――ッ!?」
よろしくね、と小首を傾げながら微笑む少女に、フェイトは何度目かもわからない絶句を覚えた。
アリシアと名乗った少女は、ともすればフェイトの双子と呼ばれてもなんら違和感がない。
違いと言えば前述したような目の色と服のみで、あとはせいぜい纏う雰囲気程度だ。
フェイトが静ならば、アリシアと名乗った少女は動と言える。じっとしているだけでも躍動感を感じ、所作一つ一つが見る者を楽しませる、太陽のような少女だ。
どうしよう、何を聞けばいいのだろう。
ここにきて、フェイトは混乱する。
そもそも、何故自分はこの二人に声をかけようとしたのだろうか。今は行方不明となっていた母だと思ったから? この二人の中に、自分も入れるかもしれないと勘違いしたから?
今やフェイトの胸中を満たすのは後悔だけだった。衝動に身を任せ、ありもしない奇跡を期待した末にこれでは、まるで道化でしかない。
自嘲と後悔ばかりが吹き荒れ、フェイトはそれ以上二人を見るのに耐えられず面を伏せた。次いで、鼻を突く痛みが目頭を熱く襲う。
ほんと、私はバカだ。勝手に思い込んで、勝手に期待して……なんにも変わってない。
大人しく遠くから見ていればよかったのだ。それを、こんな考えなしの行動に及んだばかりに――――。
乗り越えたと思っていて、ふっきれたと思っていたのはただの勘違いだったのだ。本当は、こんなにも未練たらたらで、少しでも可能性があれば藁にもすがりたい思いで一杯の、諦めも受け入れもできていない、表面すらも取り繕えずにいる小娘でしかない。
改めて自覚すると、あまりの自分の愚かさ加減に目尻に溜まる涙をこらえる事が出来そうになかった。
そして、溜まりきった涙が滴りそうになった、その時。
「すみません、こいつちっとワケありでして」
「――――っ、トキヒコ?」
「あら、あなたは……?」
「コイツの友人で、本田時彦って言います。すみません、いきなり割り込んじゃって」
突然頭の上に手を載せられ、誰かと思い見上げれば、それは時彦だった。
いつもの人の良さそうな、そしてどことなく悪戯小僧らしい笑みを浮かべながら、プレシアも驚く丁寧な物腰で挨拶をしている。
どうして、と視線に込めて見つめると、時彦は一瞬だけにっかと笑った。
恐らく、それは〝俺に任せろ〟という意味だったのだろう。そう汲み取ったフェイトは、大人しく時彦が話すまま、場の流れを託す事にした。
「えっと、プレシアさん、とアリシアさん、ですよね。……外人さんですか?」
「ええ。先日この町に仕事の関係で引っ越してきて」
「今日はおかあさんとお散歩なの。いいでしょー!」
「もう、この子ったら」
心底嬉しいのだろう。見せつけるように母の手にすがりつきながら、アリシアは満面の笑みを浮かべる。
それを見て、フェイトは少しだけ、胸が詰まるような気がした。
苦しくならなかったのは、そんなフェイトの機微を感じ取って、もう一度頭をぽんぽんと撫でてくれた時彦のおかげだ。
そして、時彦はにこやかに話を続ける。
「異動ってやつですね。じゃぁ、海外に住んでたんですか?」
「そうよ。イタリアのフィレンツェから来たのだけれど……わかるかしら?」
「ふふん、バカにしてもらっちゃぁ困りますぜ。あれですよね、長靴の半島にあるメディチ家とレオナルド・ダ・ヴィンチ!」
ふふん、とドヤ顔でプレシアを見つめ返すプレシア。少しだけ、プレシアは驚きに目を見開き、素直に時彦を褒める。
「あら、意外と物知りなのね、坊や」
「ミケランジェロやラファエロも活躍したよ。芸術の街なんだから!」
「アリシア、わざわざ対抗しなくていいの」
「ミケランジェロ……えーと、ダビデ像の人か!」
「……本当に物知りね。どこでそういうのを?」
「いやー、母が造形家なんつー職業をやってまして。家に転がってる本とか読んでたら自然と」
「そう、いいお母さんね」
「私のおかあさんはもっと良いおかあさんだよ!」
そういった世間話を程なく交え、お互いの間にそこそこ打ち解けた雰囲気が漂い始めた頃。
その間、フェイトはただ沈黙して話に聞き入るしかできずにいたが、時彦がタイミング良く本題を持ちだした事で、意識が会話の中へと入っていく。
「それにしても、アリシアとフェイト、すごい似てるよな」
「え、えっ!? わ、私!?」
「……そうね。私もそう思うわ。似てると言うよりも、瓜二つ」
「えへへー、こうやって並ぶと双子みたい?」
「おぉうマジだ……ほんと見分けつかんわ」
「ほんとに!? やったね、フェイト!」
「う、うん……そう、だね」
既に、アリシアのフェイトと時彦に対する警戒は解けていた。
少なくとも、二人を呼び捨てで呼ぶほどフランクに接し、自分と瓜二つであるフェイトを気味悪がる事も無く、むしろその特徴が嬉しくてたまらないという様子を、先程からフェイトにくっついたり抱きついたりと、体全体で表現している。
一方で、プレシアの方はそう簡単ではない様子だった。
恐る恐るフェイトが見れば、プレシアは確かに微笑んではいるものの、しかしフェイトを見る視線には間違いなく、拭いようの無い疑念が込められている。
それがどういった意味合いの物であるのか――――フェイトは今すぐにでも確認したかったが、恐怖がその勇気を押しつぶして邪魔をする。
聞こうか聞くまいか、いややはり止めておこう。そう思考をまとめて、アリシアに力一杯抱きしめられながら愛想笑いを浮かべるフェイト。しかし、傍らに立つ少年は、そんなフェイトの考えを読んだかのように、ど直球な質問をブン投げた。
「お二人は喜んでるみたいですが……やっぱ、お母さんとしては気になります?」
「……そうね。失礼だけど、フェイトさん。貴方のご両親は?」
「え――――」
ついに疑念を隠す事もせず、それどころか腕組をしてじっと自分を見つめるプレシアの問いに、フェイトはどう答えたものかとうろたえた。
まさか「目の前にいる貴方です」とは答えられよう筈もなく、かといってバカ正直に事の顛末を話せるわけでもない。
ではどう話したらいいだろうと頭をひねり、結局出てきたのは、
「その、事故に遭って、まだ行方不明で……」
そんな、嘘ではない、しかし大半の事情を隠しているぼやけたものだった。
だが、聡明なプレシアはそれだけでフェイトの事情を――勝手に想像して――察してくれたらしい。
まずい事を聞いてしまったと、口を手で覆いながら割と大げさに腰を曲げて謝罪までしてくれた。
「ご、ごめんなさい。嫌な事を聞いてしまったわね」
「いえ! それは、平気です、大丈夫ですから! ただ、その……貴方が、とても母さんと似ていらっしゃったので……」
「おかあさんを、フェイトのおかあさんかと思ったの?」
「……うん」
「そう……そういうことだったの」
プレシアなりに、先程のフェイトの突然の行動の納得がいったのだろう。何度か頷きながら、沈痛な面持ちで相変わらず顔を俯かせたままのフェイトを見やる。
無論、プレシアの視線を感じているフェイトは、やはりどうすればいいかわからず、今度は押し黙る他なかった。
そんなフェイトを、アリシアは心から共感したように力強く抱きしめた。
「そっか、フェイト、寂しいんだね。わかるよ、私も。おかあさんがいないと、すごく寂しいもの」
ぎゅっと、服に皺が出来るほど強く抱きしめながら、アリシアは独白するように言った。
プレシアが少しだけ表情を歪めているのを見て、時彦はこの二人の間にも、それなりの擦れ違いがあったのだろう、と想像した。
そして、フェイトはアリシアの言葉に、今度こそ理解と納得を得る。この二人は―――――〝違う〟のだと。
どれだけ姿形が似ていようとも、ここにいるのはフェイトの識っている二人ではない。ましてや、フェイトを識っている二人でもない。この世界の、この星での、この次元での二人なのだ。
そう思い至った瞬間、ついにフェイトは我慢する事が出来ず、涙を流した。
戦いが終わって、光を最後に見てから目覚めた後、母が行方不明であると聞かされた時も。こんな自分を友達と言ってくれた彼女達と再会できた時も。真実を知った時も流す事がなかった涙を。
静かに、嗚咽を必死に噛み殺しながら、それまで耐えていた反動のように涙があふれる。
そう――――もういないのだ。フェイトの母も。フェイトの本当の姉も。
リニスがいなくなった時と同じだ、とフェイトは思い出した。あの時も、アルフは敢えて、「あたしは、ずっとフェイトの傍にいるからね」と言ってくれた。そして、今回も。
その意図するところに気が付かなかったわけではない。気付いていながら、今の今まで敢えて目をそむけていたのだ。〝まだ、見つかるかもしれない〟という淡い幻想を持って。
その幻想/夢も、今日で終わった。いや、醒めたのだ。
フェイトが静かに涙を流す間、アリシアはずっとフェイトを抱きしめていた。
時折頭を撫で、その頬をすりつけながら。フェイトは、そんなアリシアに遠慮することなく抱きつき、気のすむまで涙を流した。
傍から見ると、それは本当の姉妹のようで、まるで今まで生き別れだった二人が再会したような、そんな一場面にすら見えた。
二人が抱き合って、どれほどの時間が経っただろうか。実際はそんなに長い間では無かったかもしれない。でも、その場にいた誰もが、言葉には表しがたい、濃密な時間の流れを感じた。
ようやく泣きやんだフェイトは、今までの自分の痴態を自覚し、慌ててアリシアから離れる。
「……ご、ごめんなさい!」
「ん、平気だよ。それより、もう大丈夫?」
「――――うん。大丈夫。ありがとう、アリシア」
「えへへ、どういたしまして。でも、不思議だね。今日初めて会ったばかりなのに、私、フェイトの事他人に思えない」
「……私も。やっと、お姉さんに会えた感じがする」
「ほんと! それじゃ、フェイトは私の妹だね♪」
にっこりと、ヒマワリが咲くような満面の笑みで、アリシアはフェイトの両手を取りながら喜ぶ。フェイトも、百合のように控えめであったが、それでも無垢な笑顔を見せて応えた。
「それじゃ、お姉さんから妹にプレゼントをあげるね!」
「プレゼント?」
「うん。拾い物だけど、すっごく綺麗なの。きっとフェイトも気に入ってくれるよ!」
きょとんとするフェイトに構わず、アリシアはごそごそとスカートのポケットを漁りだす。しばらくそうして「あった!」とはしゃぎながら取り出しモノを見て、フェイトだけでなく、時彦もまた言葉を失った。
「じゃーん! どう、綺麗でしょ!」
「ア……アリシア、それって……!」
「さっきね、水上バス?だっけ。その中で見つけたんだ」
アリシアが取り出したのは、フェイトと時彦にとって記憶に新し過ぎるものだった。
菱型の透き通るような青い石。中心に行くにつれて色合いは濃くなり、最も濃い中央部には、ローマ数字と似たような文字が刻まれている。
確認するまでも無く、この一ヶ月この海鳴を騒がし続けていた魔法世界の古代の遺物――――ジュエルシードだ。
まさか、探し求めていたものの一つがこうもあっさり見つかるなんて。加えて、それをアリシアが拾っていたと言う運命性に、フェイトと時彦はひたすら絶句する。
無論、プレシアがその事を知るはずもなく、娘の意地汚い真似を咎めようと、少し声を荒げてアリシアを叱った。
「アリシア、貴方またそんなのを拾って」
「いいでしょ、お母さん。だって、誰も拾ってなかったし、宝石ならこんな無造作に落ちてるワケないもの」
「ダメよ。警察に届けないと……」「あ、あの!」
少し、話の雲行きが怪しくなった事を感じ取ったフェイトは、慌ててプレシアの話を遮った。
しかし、それは勢いの物だったらしく、「どうしたの、フェイトさん?」と怪訝そうに訊ねるプレシアに、フェイトはただあたふたと答えに窮するばかり。
助け船を出して欲しくて時彦に視線を投げかけると、一瞬驚きはしたものの、少しだけ逡巡した時彦は、これまた立派な演技力/わざとらしさで会話に加わった。
「すげぇきれいだなー! 確か、フェイトって青い綺麗な石集めてただろ!?」
「ほんと、フェイト!?」
「う、うん。実は……」
「うわー、すごいすごい! じゃぁ、ますますフェイトにぴったりだよね、この石!」
「うんうん、マジでぴったりだと思う! ていうか、そんなフェイトの趣味ばっちしな奴拾ったのって、なんかすっげー運命感じますよね!」
「え、えぇ……? でも、誰か大切な人の落としモノだったりしたら……」
「それなら落としたその日の内に船止めてでも探す筈ですよ。なのに普通に落ちて立って事は、もしかしたらそんな宝石なんかじゃないってことなんじゃ?」
「そう……なのかしら……」
「それにほら、単純に綺麗な石ってだけかもしれないじゃないですか。高い宝石には見えないですもん!」
「それは……確かにそうだけれど」
よく回る舌である。
その舌に丸めこまれるように、プレシアも少しだけ態度を軟化させ、アリシアの持つ石を訝しげに見やる。
確かに、それのぱっと見は綺麗な宝石だが、よくよく見れば市場で出回っているどの宝石にも当てはまらないモノだった。
アクアマリンやサファイアとは明らかに異なる色合い、内部はさらに濃淡ではなくくっきりとした色分けがあり、少なくともプレシアの知識内に該当する宝石はなかった。
もしかしたら未発見だった新しい宝石なのかもしれないが、それこそまさか、である。そんな代物であれば、先程時彦が言ったように船を止め、操業を止めさせてでも捜索するはずだ。
考えれば考えるほど、時彦の言葉がもっともらしく聞こえてきて――――結局、プレシアは諦めた。
「……はぁ、わかったわ。確かに、宝石とは異なるようだし、本田君の言う事にも一理ある。今回ばかりは、目を瞑りましょう」
「ほんとう、おかあさん!?」
「ただし、次からこういうのはきちんと届け出るのよ。それが礼儀ですからね」
「はーい♪ おかあさん大好き!」
プレシアとしても、折角二人が仲良くなれる機会があるというのに、それを潰してしまうと言う事に引け目を感じていた。本来であれば、良識にかける行動であると自覚しいる。せめて、これが誰かの大切なものといった大層なものではなく、単純に綺麗な石である事を祈るしかない。
娘にはとことん甘くなる自分の性格を、プレシアは内心で自嘲した。
「ってことで、おかあさんからも許しが出たから……改めて、はい、フェイト」
「……いや、元々おまえんじゃねぇだろ」
「細かい事は良いの! 時彦は空気を読むスキルを身につけましょう」
「初対面でそのダメだし!? 遠慮ねぇなお前!」
「イタリア人はフランクさがうりだから」
「嘘つけ!
いまおもいっきり棒読みだったろうが!」
「もー、そんなことはどうでもいいの! それより、フェイト、受け取ってくれる?」
「あ、あはは……うん、もちろん。ありがとう、アリシア」
「よかったー。もう、時彦が変な事言うから、なんか変な気分」
「俺の所為かよ……」
ぷっくりと頬を膨らましたアリシアの抗議に、時彦はげんなりと項垂れる。初めて見る時彦のその姿に、フェイトは驚きと同時に少しだけ可笑しくなって、思わず笑みがこぼれた。プレシアも、子供達の他愛の無いやり取りを楽しそうに見守っている。
「そうだよー。せっかくのプレゼントだったのに」
「だったら、今度改めて渡しゃいいだろ。この辺に引っ越してきたんだし」
「え、フェイトってこの近くに住んでるの!?」
「と、トキヒコ!?」
突然の時彦の言葉に、フェイトは面喰って大いに焦る。
今のフェイトの身分は、今回のジュエルシード散逸も含めた事件の重要参考人と言う立場で、ある意味身柄を拘束されている。
そもそも、元からしてこの世界に住んでいるわけでもないし、拠点にしていたマンションも先月で契約が切れたので使っていない。
そんなフェイトの状況を時彦が知らないはずがないのに、この話題の振り方の糸がまるで掴めなかった。
だが、半ば抗議するような意味合いを込めて名前を読んだフェイトに対し、時彦はにやりと意地悪い笑みを浮かべると、
「近いうち、こっちに引っ越してくるんだもんな、お前も」
「ほんとに!? うわぁ、それってすごいステキだね! ね、おかあさん!」
「ええ、素敵だわ。本当に、運命を感じるくらい」
「え、あ、あの、でも私……!」
そんな無茶ぶりに、フェイトは答えに窮する。
喜色満面で喜ぶアリシアとプレシアに本当の事を言うわけにもいかず、しかしそんな予定はないと言って悲しませる事もしたくない。だが、かと言ってこの世界で暮らす予定等まるでなかったわけで、フェイトはどうしたらいいのか、というかそもそもどうしてそんな嘘をつくのか、と時彦を睨んで……はっとした。
「今はちょっとごたごたしてて立てこんでるけど、半年後……あー、もしくはもうちょい先か? そんぐらいに、こっちくるだろ?」
「トキ、ヒコ……」
「つーか来いよ。すずかちゃんやアリサ、それに高町だって楽しみに待ってんだ。俺だってそうだし、アリシアもそうだろ?」
「うん! 私、待ってるよ! だから、こっちに引っ越してきたら、すぐに連絡してね♪」
「私もよ、フェイトさん。その時は是非、一緒に食事をしましょう?」
「……だとさ。こりゃー、〝妹〟としちゃぁ、期待を裏切るわけにゃいかんだろ」
にやにやと、時彦は意地悪く笑いながらフェイトを見返す。
やられた、と素直に思った。
もとより、フェイトはここに戻るつもりなどまるでなかった。無関係だった人々を事件に巻き込み、多くの迷惑をかけ、危険な目に合わせた自分は、ここに来てはいけないと、そんな強迫観念を受け入れていたのだ。
でも、時彦はそれを許さない。時彦だけじゃない、初めてできた友達――――なのはも、アリサも、すずかも、そして今日出会ったばかりのアリシアとプレシアまでもが、許そうとしてくれない。
――――――素直に、それを嬉しいと感じる自分がいる。
不安だった。どれほどなのはや時彦達に友達だと言われても、母に言われた〝出来損ない〟という言葉がいつも胸にひっかかり、本当に自分なんかが友達でいていいのだろうかと、不安になった。
ここに戻るつもりが無かったのも、結局は逃避でしかなかったのだ。確認するのが怖くて、嫌な想像が当たるのが怖くて、だったらアルフと二人、静かに暮らしていた方がいいと、そう思っていたからだ。
なのに、状況はそれを許さない。自分に、逃げる口実を与えない。それどころか、この地に戻ってこなければならない〝理由〟さえ作っている。
ふと、時彦の口癖を思い出す。
二度目の人生を歩まされたことや、そのほかにも数多くの〝運命の悪戯〟というものを体験してきた事で、その度に口にする彼の口癖。
フェイトは、再び溢れてきた涙を拭いながら、しかし先程とは打って変わった穏やかな雰囲気で、時彦達に微笑む。手の震えはもう、とっくのまえに止まっている。
「本当に……神様って、意地悪だね」
「――――だろ?」
時彦の得意げな笑顔と、アリシアの満面の笑み――――そして、プレシアの柔和な微笑み。
フェイトは、心の中で固く誓い、アリシアと小指を絡めて約束した。
――――きっと、こっちに引っ越してくる、と。
初めて体験した神様の悪戯に、フェイトは心から深く、感謝するのだった……。
☆
アリシアとプレシアと別れ、そろそろ時間だ、とやってきたクロノとアルフは、フェイトの持つジュエルシードに度肝を抜かれた。
入手した経緯については、時彦がプレシアとアリシアについてぼかしつつ、もっともらしい嘘をいけしゃあしゃあと話した。
呼吸をするように嘘をついて見せる時彦に驚き半分呆れ半分になるフェイトだったが、クロノ達に変な追及をさせたくなかったフェイトも、結局時彦の口裏に合わせる事にした。
「……毎度毎度君達には驚かされてばかりだが、本当に君達はジュエルシードと奇縁だな」
「ひでぇなクロちー。せめて運が良いって言ってくれよ」
「君の場合は悪運だろう。それにしても、水上バスの中にあったとは……」
「よくもまぁそんな人入りの激しい所で発動しなかったね」
「うん、何事も無く見つかって、本当に良かった」
「ま、なにはともあれこれで残るジュエルシードもあと僅かだろ。やったねクロちー! 仕事が減るよ!」
「……何故だろう、君のその言い方には物凄く不安を煽られる」
クロノはまだ納得しきっていないようだったが、しかしなんの被害も無くジュエルシードが見つかった事自体は良かったと、素直に受け入れる事にしたらしい。
腕を組んで溜息を吐くのは相変わらずだったが、安堵している事には間違いなかった。
「とりあえず、エイミィに連絡しておこう。ちょっと待っててくれ」
「あいよー」
人目につかないところへ移動し、通信端末を立ちあげるクロノを見送りながら、時彦が今度は別の意味で深く溜息を吐いた。
「しっかし、心臓飛び出るかと思ったぜ。さっきの二人、ホントに赤の他人かどうかが未だにわかんねぇ……」
「それってどういう意味だい?」
「……クロノには内緒だよ、アルフ」
「? まぁ、フェイトがそう言うんなら、約束は守るよ」
「ありがとう。えっとね、実はさっき話した二人って……おかあさんと、アリシアそっくりだったの」
「なっ……!」
「あ、でもね、二人とも私の事は知らなかったみたいで、多分、別人なんだ。だからその、アルフが心配したような事はなかったから、大丈夫」
「……はぁ。なら、あたしはその場にいなくてよかったね。いたら絶対怒りを我慢できなくって、がぶっといってたろうし」
「アルフ?」
「冗談さ。でも、フェイトにそっくりだっていう子、ホントにアリシアって名前だったのかい?」
「うん。おかあさんも、プレシアだって」
「……すごい偶然もあるもんだね」
「神様の悪戯、だよ」
呆れるように感心するアルフに、フェイトは気に入ったのだろう、時彦の口癖のフレーズを口にしつつ、柔らかく微笑んだ。
さらに言えば、名字は時彦とフェイトの前世での世界の物だったが、それは黙っている事にした。ただし、いつかアルフには話しておきたいな、とフェイトは考えている。
「つかさ、ホントにクロちーには言わなくていいのか?」
「……大丈夫だよ、トキヒコ。二人は、母さんとアリシアじゃない。それに……」
「それに?」
答える前に、フェイトは一度目を瞑り、先程の二人の姿を脳裏に思い描いた。
優しく微笑むプレシア。満面の笑みで話しかけるアリシア。二人の姿は、フェイトの思い描いていた幸せの図、そのものだった。
ならば、それでいい。むしろ、それこそが、自分の望んでいた未来なのだから。それを、壊したくない。
「邪魔、したくなかったんだ。幸せな二人を」
「…………そか」
「うん。ありがとう、トキヒコ」
「なんでそこでお礼なのかさっぱりわからんぞ」
「だって、心配してくれてたよね?」
「……んなわけねぇだろ。それより、さっきもらったジュエルシード、見せてくれよ」
それがただの照れ隠しである事は、フェイトとアルフから見ても明らかであった。
それでもアルフはにやにやと、フェイトは敢えて素直にジュエルシードを渡して、その事には触れなかった。
時彦はややぶっきらぼうにフェイトの手からジュエルシードを取りあげると、矯めつ眇めつと――それこそ照れ隠しだとわかりやすく――ここ一ヶ月の間、海鳴を騒がし続けてきた厄介物を眺めた。
「しっかし、マジで運良かったなぁ。これ、封印状態でもないんだろ?」
「そうだね、本当に運が良かった。水上バスで発動してたら、きっと被害が出てたと思う」
「下手したら沈没もありえたもんな。いやー、日頃の行いって大事だね」
「どの口でそれを言ってるんだい? 自分の胸に手を当ててよく考えてみな」
「うぐっ……!」
にやにやと意地悪くからかうアルフに、時彦は反論の舌を持たなかった。
「ま、まぁ俺の日ごろの行いに関しては置いといて……」
「その内またツケが回ってくるね、きっと」
「ねーちゃんちょっとさっきからひどいよ!?」
「フン!」
と言いつつも、雰囲気が以前と比べて柔らかくなっているのは、アルフも少しずつ時彦の事を受け入れ始めている事の裏返しでもある。
それがわかるからこそ、フェイトは不器用ながらも仲良くしようとしてくれているアルフを嬉しく思う。まだもうちょっと時間はかかるかもしれないが、いつかはきっと、仲良くなってくれるだろう。
「ほい、返すよ。俺が持ってて変な願い事を叶えられたらたまんないしな」
「英断だね」
「あはは……」
時彦からジュエルシードを受け取りながら、フェイトは苦笑いする。
確かに、ただでさえトラブルメーカーの時彦が、意図せずにジュエルシードを発動などさせたら、どれほど大きなトラブルに発展する事か……自分が言えた義理ではないが、正直勘弁してほしい。彼が近くにいてジュエルシードが発動した場合、すべからく大問題に発展しているのだ。近くにいてそれなのだから、彼が発動の源になったりすれば、その規模は恐らく洒落にならない。
そしてその時は恐らく、なのはのみならず自分も駆り出される事だろう事は目に見えていた。
「その苦笑いはどういう意味だコラ、ん~?」
「え!? べ、別に深い意味はないよ!?」
「その焦りっぷりが深い意味ありますよっていってるもんじゃねぇか!」
「アンタが関わると碌な事にならないってことさ。言わせるんじゃないよ恥ずかしい」
「ほーう。なら、お二方だったら問題ないとでも?」
「当り前だろ。あたしらは暴走してもジュエルシードをすぐ封印できるし、そもそもあたしは願い事がないからね。フェイトの傍にいられれば、それで十分さ」
「うわー、でましたよ忠犬様のご主人様惚気話」
満面の笑みでフェイトを抱きしめながら、恥ずかしげもなく相言ってのけるアルフに、やれやれ、と時彦は呆れる。
そんなアルフに抱きしめられながら、ふとフェイトは自分だったらどんなお願いをするだろうか、と考えた。
母との幸せな生活は、先程の出会いで未練が無くなったと言って良い。そもそも、フェイトが望んでいたのは母の幸せだ。例えあの人が母で無かったとしても、母が望み、自分が望んだ幸せの形としてそこにいるのであれば、それは救われたのと同じなのだから。
だから、この古代の遺物を使ってまで叶えたいと思う程の願いは、正直思い当らなかった。
そんなことをぼんやり考えていたら、突然時彦によって現実世界へと引き戻された。
「じゃぁ、そんな無欲な使い魔さんのご主人様は、どんな願い事をお願いするか聞いてみようじゃねぇの」
「ふぇ!? わ、私!?」
「ふん、うちのフェイトを甘く見るんじゃないよ。アンタ見たいな俗物とは違うんだからね!」
「……だってさ、フェイト。やっぱお前だって叶えたい願い事あるよな!」
「あるわけないだろ。ていうかなんだいアンタの願い事は。さっきから聞いてればよく回る舌が欲しいだの姿を変える魔法が使いたいだの、そもそも魔法使いになりたい? はっ、そんなのほっときゃ勝手になるよ!」
「あんた最後のやつ意味分かって言ってるな!? つーかそっちの魔法使いじゃねぇっての! そして俺にそんな予定は一切ない! あってたまるか!」
またしても、二人はフェイトを置いてきぼりにして激しい口論へと移っていった。
話している内容のほとんどは良くわからなかったが、とりあえず時彦が魔導師に憧れているらしい事はわかった。残念ながら、クロノの話によれば彼にはリンカーコアがないためその可能性は皆無らしいが。
それよりも、時彦に改めて振られた事で、フェイトは再び――無自覚的に――考え込む。即ち、今の自分に叶えたい願い事はあるのだろうか、と。
無論、すぐに思い至ったのは、もう一度ここ/海鳴に帰ってくる事だった。だが、それは決意であり望みではない。必ず、自分はこの地に帰ってくる。なぜなら、大切な〝友達〟と〝母と姉〟との約束だからだ。でも、それを叶えるのは己の力でなければならない。ましてやジュエルシードを使って叶えるような願いなどでは、断じてない。
では、本当に自分には望みと言うのは無いのだろうか?
もう一度深く、自身の声に耳を傾ける。
しばらく熟考してみて、敢えて――――そう、本当に敢えて挙げるとすれば……。
「記憶、かなぁ」
そう、フェイトは知らずと零した。
記憶。プレシアによって書き換えられる前の、自分が失った記憶。
そう思ったのは、単に時彦への申し訳なさだった。
彼は以前の自分を覚えてくれているのに、自分はそれを覚えていない。
確かに、この世界で彼を知っている人間は多い。だが、その前の彼を知っているのは、本来であれば自分しかいなかったはずなのだ。その唯一であった自分が忘れてしまったら、前の彼を知る者は本人しかいなくなってしまう。
考えすぎかもしれない。そもそも、そこまで考える必要も無いのかもしれない。
だが、フェイトは自身の体験があるからこそ思うのだ。
自分を知る人間が他に誰も居なかったら―――――それは、究極の死を意味するのではないだろうか、と。
何をバカな、と言われるだろう。そもそも、前の記憶がある方が可笑しい事だ。であれば、誰も知らない事こそが正常の証なのかもしれない。
それでも、フェイトは納得できなかった。
彼は昔の自分を知っていて、それを忘れる事が出来たにも関わらず、今の今まで決して忘れることなく覚え続けてくれた。だからこそ、彼は自分を救おうとしてくれたし、事実救ってくれたのだ。
例えそんな理由が無くとも彼が自分を救ってくれただろう未来があったとしても、今この世界で、その事がきっかけになった事に代わりはない。
恐らく、時彦は――口には出さなくとも――自分が前の記憶を持っている事を期待していたに違いないのだ。
物心つくまでの情報の氾濫を耐え、世界の異和感に翻弄されながらも心を強く持ち、上書きされても可笑しくない記憶を頑なに守り続けてきたのは、きっと自分を知っている人間が他にもいるかもしれない―――そんな、砂漠からダイヤを見つけるような可能性を信じていたから。もっと言えば、彼の知る〝シルフィ〟と再会する事を、心のどこかで願っていたからなのかもしれないのだ。
結果的に、その期待を裏切る事になってしまった事を申し訳なく思うし、できるならば、彼のためにも思い出せたら、と思うのである。
それに、フェイト自身も自分の知らない自分/シルフィと言うものに、少なくない興味があった。
時彦の話しを聞けば、今の自分とも、先程出会ったアリシアともまるで別人な存在。そんな存在が、以前の自分だったと言う事実は、フェイトに決して小さくない好奇心を植え付けていた。
……だが、フェイトはこの時、思索に耽る余り重大な事を失念していた。
今自分が、その右手にどんな代物を、どんな状態で握りしめていたのかを。
「――――ぁッ!?」
「ちょ、ば、フェイトおまっ―――――!?
気が付いた時には、既に遅い。
右手に突如熱が弾けたかと思うと、次の瞬間その場にいた三人のみならず、広場と水上バスの発着場をも呑みこむほど激しい光が満ちる。
視界が白く染まる。奇しくも、それは先日の状況を如実に再現していた。このままでは、次元震を誘発する可能性すらある。
目を閉じても痛みを感じるような暴力的なまでの光の奔流にのみこまれながら、フェイトは必死に右手に魔力を込める。
こんなくだらない事で、この星の平和を、先程出会った〝母と姉〟の幸せを壊すわけにはいかない!
右手の焼けつくような痛みをこらえ、少しでも光を抑え込もうと左手も添え、フェイトは力の限りジュエルシードを握りしめながら抑制術式を瞬時に構築。待機状態のバルディッシュの補佐も受けつつ、全身全霊を持ってジュエルシードの暴走を抑えにかかる。
止まれ。
止まれッ。
止まれッ!
己の迂闊さを罵倒する暇もない。ただひたすらに、ありったけの魔力を注ぎ込んで小さな宝石の暴走を抑える。
そして――――――。
「お、おさま、った……?」
「―――――よかった……」
「フェイト、大丈夫かい!?」
幸か不幸か、フェイトの全力の抑制術式のおかげで、光はものの数秒で収まった。
全力で魔力を注ぎ続けた事で、フェイトはその場にへたり込む。
額にはべっとりと汗がにじみ、濡れた前髪がどこか艶やかに額へと張り付いていた。
気遣わしげに肩を抱くアルフに、「大丈夫だよ、アルフ」と答えるが、それで安心するようなアルフではない。
ただ、それよりも次元震が起きていないか、ないしは発動の影響が何かないのか、フェイトには自身の体調よりもその事が遥かに気がかりだった。
周囲への被害は?
次元震の発生は?
本当に、自分はきっちりジュエルシードの暴走を抑え切れたのか?
気になる事は数あれど、なによりも気になったのは、先程声を上げて以降、沈黙したままの時彦の安否だった。
「アルフ、私の事は良いから……」
「でも!」
「それより、何か代わった事は? 暴走の影響とか……トキヒコは?」
「そんなのあるわ―――――ッ!?」
「………アルフ?」
バルディッシュの補助があったとはいえ、待機モードでのソレは微々たるものだ。ほとんど生身で、それも短時間における全力の魔力行使は、フェイトに想像以上の負担をかけていた。
しばらく顔を上げるのすら億劫なほど体力を奪われていたが、アルフが突然押し黙ったことを不審に思い、けだるさを押し殺してなんとか面を上げる。
最初に目に入ったのは、顎が外れんばかりに大口を開け、あまりヨロシクナイ絵面で呆けている時彦だった。次いで、首をひねって傍に立つアルフを見れば、こちらもまた口だけでなく目を見開いて絶句している。
まさか、暴走の所為でとんでもない被害がでているのだろうか、とフェイトは背筋が凍るような想像を浮かべ、慌てて二人の視線を追う。
そして、その先に広がっている光景を見て、絶句した。
「フン……調子は、まぁまぁか」
そこには、一人の少女がいた。
すらりと健康的に生長した四肢、少女特有の丸みを帯びた柔らかい腹部、つつましやかでまだ生長すらしていない胸を、腰まで長く伸びたスカイシルバーの髪で覆い、何度も手のひらを閉じては開く事を繰り返す。時折、少女の周囲でパリッと紫電が弾け、フェイトにはそれが自身と同じように、電気変換された魔力である事がわかった。
端整な顔立ちはスッと通る鼻梁と気の強そうな柳眉、そして血色のいい桜色の唇で彩られ、夜の闇に差し込む月光のような、淡い紫の瞳が印象的な少女は、一糸纏わぬ姿で突如として広場へと出現していた。
何よりフェイトが驚いたのは、その容姿だ。
まさか、自分の運命とは、そっくりさんと何度も出会う事を決定づけられているのだろうか、と疑いたくなる。
それも仕方ないだろう。何せ、この日一日で自分とそっくりの顔立ちをした人間と二回も出会ったのだから。
そう、突如広場に出現した全裸の少女は、髪の色と瞳の色こそ違うものの、その顔立ちは紛う事無く――――自分そのものだった。
誰もが言葉を失い、全裸である事を恥ずかしがりもしない、唐突なる闖入者の行動を見守るしかない。一体、こいつは誰なんだ。
そして、今さらになって自身の一挙一動に注目していた観衆に気付いたのか、全裸の少女は三人の方へと向き直る。
次いで、陶器のような白い肌の腰に手を当て、「う~~ん?」と目を細めながら舐めるようにフェイトとアルフを見つめたと思うと、次に時彦へと視線を移した瞬間、にんまりと口角を釣り上げた。さながら、〝懐かしい顔を見た〟とでも言いたげに。
そして何故か、フェイトにはその仕草が時彦と似ているな、と感じた。
「待たせたな、電光―――じゃないけど、極光切り裂きボク、華麗に登場! 喜ぶがいいバカ彦!」
「ア――――――アホがでたぁああああぁあぁあああああ!!!?」
この時、フェイト達はまだ知らなかった。
つい先ほどまで自分が握りしめていたジュエルシードが消えていた事を。
自分だけでなく、似たような事が他に二件も起きている事を。
そして、これが本田時彦の言う〝前世〟と深い関わりを持つだけでなく、〝月村家〟をも巻き込む新たな事件となる事を。
――――――嵐はまだ、来たばかりである。
――――――――――――――――――――
ちゅーかんほーこく
――――――――――――――――――――
皆様、あけましておめでとうございます。そしてハピバレレッツ大爆発しちまえ!
クリスマスとかお正月とかバレンタインデーとか、脳内でだけすずかちゃんのらぶちゅっちゅな妄想をしていました。
プラン:データ? んなもんねぇ!
……ともあれ、冗長となってしまったお話ですが、後日談②でございまする。
これがやりたかったがために今回のお話を書き始めたと言っても過言ではありません。
なら最初からこれで始めればよかったじゃない! フェイト編いらなかったじゃない!
……で、でもほら! きちんとフェイトとの絡み書いてみたかったし! ちょっとだけ古き良き魔法少女な事件をやりたかったんだもん!(←大失敗
結果的にとんでもなく申し開きの仕様の無い(ていうかすずかちゃん出番少なすぎorz)グダグダなお話となってしまいましたが、それでもここまでこれたのは読者の皆様方のお陰に他なりません。
改めまして、この場にて感謝を。ありがとうございました。
さて、今回のお話で後日談は終わりです。まだまだ続くと思った? 残念、こんな尻切れトンボでした☆
……いや冗談はさておき、最後にも書きました通り、これにてようやく役者が揃った次第です。これから、時彦は自身の過去と、そして現マイラバーたるすずかちゃんを巻き込んだ事件に身を投じて行きます。
第二部に関しては、正直モチベーションが続けば早めに再開したいと考えています。劇場版2ndがどれほどの起爆剤となるか……。
まぁ? 賞味な話、他にも三つほど作品をかいているせいで手が回らなくなってきただkローリングフック(#●゜Д゜)━━●)`Д)、'.・.、'..
ともあれ、このような主題からそれまくりなお話に長々と付き合って下さった皆様には、心の底から感謝申し上げます。ありがとうございました。
それでは、今回はこの辺で。次は第二部……ないしは別の作品でお会いしましょう。
~いぶりす