その日、月村すずかは生まれて初めて、〝本来の衝動〟を体験した。
いや、厳密に言えば初めてではない。これまでにも小なりとも〝そういった〟トラブルはあったし、かねてより姉から聞かされていた彼女の家系の〝持病〟―――それが〝本来の〟程度と同じだったかどうかはさておき―――と思われるものは体験していた。
しかし、彼女が今日体験した〝衝動〟に比べれば、今までの〝衝動〟など〝衝動〟とすら呼べない。例えるなら、グルメ雑誌の写真を見て味を想像するのと、料理を実際に味わうのと同じくらいの違いと隔たりがあった。
すずかは最初、〝ソレ〟を見た時今まであったように心臓が跳ね上がったのを感じた。
呼吸が激しくなり、鼓動が爆発的に加速し、ついで耳朶が熱くなって知らぬうちに熱い吐息を漏らしてしまう。
だが、普段はそこまでで治まるはずの〝衝動〟が、さらに今回は頭がくらくらし、まるで一日中水を飲まなかった時のような、いやそれよりももっと激しく酷い飢餓感と、例えようがないほど体が訴える渇きとなってすずかを襲った。
起きた出来事、トラブルに関してはなんてことない。
ただ、調理実習の最中に、クラスメイトである本田時彦が包丁で少しだけ深く指を切っただけ。
包丁で指を切る、というありふれたトラブルではあるが、だからこそ誰だってその対処法に関しては慣れていると言って良い。事実、すずかの知らない所でもほんのちょっぴり指を切ったり、危うく爪をかすめて背筋が総毛立つような思いをしている少年少女は、ごく少数ながらいたのだから。
そう言った意味で、その時にすずかがとった行動は、誰から見ても〝極普通〟の行為だった。
急いで駆けより、傷の具合を見る。少し深めに切ったようだが、きちんと治療すれば病院に行くほどの怪我ではない――――残っていた理性が考えられたのは、そこまでだった。
次の瞬間には、理性を一瞬で食い殺す濁流の如き本能がすずかを襲い、気がつけば、少年が切った指の血を吸い取り、あまつさえその指を口に含んでいた。
別に難しいことでも不思議なことでもない。誰かがやらずとも、あるいは本人が無意識にでもやりかねない、誰だって思いつく応急処置だ。
……しかし、その瞬間におけるすずかは、彼の傷を治さなければという意識のほかに、同じくらいの比重で、とある意識が渦を巻いていた。
深く、大きく、たとえどれほど歳不相応に精神が大人びていても抗うことの難しい、彼女の一族に纏わる鎖とも言うべき本能が。
――――血だ。
ただそれだけ。しかし、それほどシンプルだから故にこそ抗いがたい。
人が持つ三台欲求に匹敵するソレは、まだ九つを数えるばかりであった少女の精神を容易く蝕んで余りある程強力なものだった。友人の怪我を治すという意識を上塗り、まだ未成熟も甚だしい、幼い彼女の中に潜む本能が鎌首をもたげてしまうほどに。
それは赤い液体だった。
さらには見ているだけで喉を震わせる液体の瑞々しさと、少し離れた位置にいるだけでわかる甘美な誘惑、さらには滴り落ちて床に弾けた際に、鼻腔を貫くような凄まじい芳香を放っていた。
気がつけば、すずかは彼の指をその口に含んでいた。それまでの細かいやり取りは、はっきりいって覚えていない。
桜色の唇に、まだ鮮血の滴る傷跡新しい指を加え、小さな舌でじっくりと溢れてくる滴を舐めとり、形容できないほどの名残惜しさと共に嚥下する。
脳に、比喩なしに紫電が迸るのを感じた。
舌先が彼の血の味を電気信号に変換するだけで背筋がゾクゾクと震え、十二分に過ぎるほど丹念に味わったソレが喉を滑り落ちると、それまで激しく高鳴り過ぎた鼓動が遂に刹那の停止を迎える。その瞬間、間違いなく少女は、今までの記憶を粉砕して余りあるような、想像を絶する美酒の味に酔いしれていた。
月村家という〝夜の一族〟に生まれた以上、すずかが生まれてこのかた、一滴も血を飲まなかったことがないとは言わない。
姉が市の総合病院の院長に協力してもらい、定期的に輸血パックを買い取っていることは知っているし、無論すずかもその輸血パックには数え切れないほど世話になっている。
初めて形容しがたい〝渇き〟を覚え、いやいやながらも姉に輸血パックの血を口移しで飲まされた記憶は未だに生々しくすずかの脳裏に刻まれている。その抵抗感は、今でも輸血パックを飲むのに嫌気を覚えてしまうくらいだ。
……そう、本当は〝血を飲む〟という行為が嫌いなのだ。
血を飲まなければならない宿業を背負った一族でありながら、その宿業に幼い身で抗う。それが、月村すずかという少女だった。
繰り返すが、すずかは〝血を飲む〟ことが大っ嫌いである。
なぜなら、彼女の周りは姉を除いて誰一人そんなことを必要としない。月村と言う家系が異常だというのは幼少のころから知っていたし、だからこそ自分はみんなとは違う存在なのだと、幼心ながらも傷つきながらしっかりと受け止めていた。
しかし、そんな大人顔負けの精神の強さを持っていても、やはり大切な友人と〝違う〟という現実は、少女の繊細な心を傷つけて余りある程の嫌悪を覚えさせた。だからこそ、少女は限りなく友人たちと近い位置に、出来る限り普通の人間としてありたいと願った。
別に血を飲まなくとも死にはしない。我慢すれば、きっといつかは皆と同じ人間になれる。ある日、少女は心の中で〝絶対に血を飲まない〟と堅く心に誓ったのである。
それは、この歳の少女にしては異常すぎるほどの忍耐力と言って良い。いわば、すずかの誓った〝血を飲まない〟という決心は、人が一生水を飲まずに生きようとするのに等しい程の苦行であり、しかしだからこそ、事実その苦行は月村すずかという少女を徹底的に追い詰めた。
二週間が過ぎ、姉でさえ呆れかえる程に血を飲むのを我慢し、そして彼女の努力をあざ笑うかのように〝衝動〟が爆発した時、月村すずかという少女は初めて己の宿業を思い知った。
あの我慢の末の最後の三日間の事を、今でもすずかは覚えていない。自分がどのように一日を過ごし、最後にどうして気絶し、また自室のベッドで目を覚ましたのか。ただわかったのは、結局自分は〝衝動〟に負け、どうあっても血に頼らなければ静かに生きることすら叶わない化け物であるということだった。
だからこそ、月村すずかという少女はとりわけ〝血を飲む〟という行為に嫌悪感を持つ。それこそ、自分からは決して進んでやろうとは思わず、姉やメイドに促されていやいや飲むくらいに嫌っているのだ。
そんなすずかが、生まれて初めて自分から〝飲みたい〟と望んだ。自分ですら不思議に思わないくらい、極々自然に彼の血を飲んでいた。
あまつさえ、その血に対して途方もない程の甘美さを覚えてしまった。例えそれがどれほどこの体に必須なものであっても、今まで一度たりとも〝美味しい〟と思えなかったソレに。
そして生まれて初めて泥酔状態に陥り、妙に高揚している気持ちを抑えつけられず、ついには今まで感じたことのない満足感に包まれながら、すずかは意識を落としたのだった。
目が覚めた時には、既にそこは自宅のベッドの上であった。
姉の忍は所用で出かけており、代わりにメイドであるノエルとファリンが看病してくれていたのだが、同時に学校で何があったのかについても説明を迫られたのは言うまでもない。
すずかの説明を受けた二人は、暫くどうしたものかと眉をひそめてしまった。
無論、今までどれほどすずかが〝血を飲む〟という行為に対して自制と嫌悪を抱いていたのか知らない二人ではなく、ましてや自制どころか自覚すらできなかった〝衝動〟故の事故のようなものだったとなれば、二人のメイドにそれ以上すずかを責められよう筈がない。
それよりも、我を忘れてしまうほどの〝衝動〟に襲われた、という事実の方が、月村家のメイド達にとっては頭の痛い問題であったのだ。
親友の二人、高町なのはとアリサ・バニングスの血を見ても、すずかはここまで酷い〝衝動〟に襲われたことはない。それは他の人間も同じで――――つまり、本田時彦という人間が例外なのだ。
では、ナニが原因なのだろうか、と推測を始めたところで、すずかはファリンの思いつきの一言に〝衝動〟とは全く異なる理由で顔を赤らめることになった。
なのはとアリサが月村の屋敷を尋ねてきたのは丁度そんな折であり、それまで面白いくらいにしどろもどろの弁解を続けていたすずかが、まるでその場から逃げ出すように出迎えに走ったのは、とても微笑ましい照れ隠しであったと、ノエルは後にすずかの姉である忍に報告する。
だが、すずかを待ち受けていたのは、親友たちの嬉しい思いやりだけではなかった。
なのはとアリサを出迎え、汗をかいてしまったこともあってとりあえずシャワーを浴びて着替えたすずかが客間に戻ると、そこには今最もすずかの心を揺るがし続けている少年と、もう一人――――決して忘れることなどできない、すずかにとっては今最も敵視しているといっていい金髪の少女がいた。
最初は状況の理解に頭の回転が追いつかなかった。
なのはとアリサがいるのは問題ない。なぜなら最初からいたのだから。
そこへ何故、彼――――本田時彦がいるのか。そして何故その隣に、あの金髪の少女が立っているのか。その刹那、少女の心を一瞬だけ塗りつぶした負の感情に、本人は気付く事が出来ない。
多少驚きはしたものの、それでも以前に時彦から話を聞いた通り、すずかから見た金髪の少女――――フェイトという少女は、以前対峙した時と比べると嘘のように大人しい様子だった。
常に時彦の斜め後ろに位置し、すずかを見た時も非常に恐縮そうに小さく挨拶をするだけで、斧を構えるだの魔法を撃って攻撃してきそうだの、そういう乱暴な印象は露ほども感じられない。本当にあの黒い少女と同一人物なのかと疑いたくなるくらい、別人然としていた。
ただ、同時にすずかは少年の来訪が嬉しくもあった。
迷惑をかけたのはこちらだというのに、むしろ少年は「それは俺の所為だから。月村さんは何も悪くない」とそもそも指を切ってしまった自分に非があると主張し、あくまでも体調を崩したすずかのことを気にかけてくれる。
それは無論、なのはとアリサが心配してくれたのと同じようなものだったが、何故かすずかは少年の優しさにより大きな感慨を覚えたのだ。先程のファリンの言葉の影響もあるのだろう。知らず知らずと頬が熱くなるのを感じた。
だからこそ、すずかは少年が一緒についてきた金髪の少女の家へと向かうと聞いて、即座に意識を切り替えた。
今は仲良く見えるが、仮にも命を狙われた間柄だ。だというのに、なんの頓着もなく「なんか、こいつのかーちゃんが俺に話があるらしくってさ」と安気に言ってのけた時、すずかは文字通りに自分の耳を疑った。
しかし、すずかは聡明な少女だ。
同い年のアリサと比べても大人びたモノの見方をするし、物腰や所作、纏う雰囲気すらもそこらの同年代――――いや、小学生の高学年、あるいは中学生とでさえ一線を画す程のものがある。
故に、すずかは瞬時に思い至ったのだ。常々突飛なことをやらかしては、知らずとトラブルに首を突っ込む少年のことである。今回もまた、無自覚に大変なトラブルに巻き込まれているんじゃないか、と。
そう考え至れば、すぐにでも確認しなければならない。場合によっては、なのはやアリサを巻き込んで説得してでも少年を行かせるのを阻止しなければならない。
おそらく、この時のすずかは自分が何をどうしてそういう考えに至ったのかさっぱりわからなかったことだろう。いや、その時も現在も、すずかはきちんとした理由があってそういう結論に達したのだと胸を張って言える。言えるが、その根底にあった感情がなんであったかまでは、十中八九未だ思い至っていない。
だからこそ、すずかは迷わなかった。逡巡すらしなかった。結論を導き出すと、それこそが最善とばかりに、少年の横に立つ少女へと疑問を投げかけたのだ。
「…………本田君を連れていくのは、また危険なことに巻き込むため?」
「違うよ。ただ、話を聞くだけ」
「本当に、危害を加える気はないの?」
「……彼の安全は、私が約束する」
場の空気が凍りついた中、たった二人の少女の、背筋の凍るような冷たい会話だった。
およそ九歳の子供が交わすようなものではない。
かたやほとんど睨み殺さんばかりに少女を見据え、方やそれを受けて微塵もたじろくことなく受け止める。
そして再び訪れた重苦しいまでの沈黙の中で、すずかは以前、ジュエルシードの影響で姉と体が入れ替わった時、少年から聞いた〝フェイト〟という少女の情報を思い出しもしていた。
本当は、根が優しいということ。
なにかしらの事情があって、ああいうことをしているということ。
そして、少年の大切な人に瓜二つであるということ。
――――ズキン……。
その時の胸の痛みがなんだったのか。
すずかは、それを「少年がそこまで認めている少女を疑わなければならないことへの罪悪感」と捉えた。それは同時に、すずかに「だからこそ」という動機を与えることになる。
本当に、このフェイトという少女が時彦の言う通りの人間なのか。そもそも、本当に少年に危害を加えないのか。そういった疑問と懸念への保険の意味合いもあったし、加えて、毎度毎度無茶ばかりする少年のお目付け役をしなければ、というすずか本人ですらよくわからない義務感も手伝い、すずかは自身ですら予期していなかた台詞を口走ることになる。
「それじゃ、私も付いていきます。悪いけれど………私はまだ、あなたを信じることができていないから」
その台詞を聞いた少年が、それこそ目玉が飛び出かねないほどに驚いたのは言うまでもないことであるが、以外にもなのはとアリサが「わ、わたしもいくよっ!」「しょうがないわね……あんた達だけじゃ不安だから、私がついてってあげるわ!」と、乗り気で賛成してきたことに関しては、すずかも若干びっくりした。そして時彦がそれに大きく反対し、最終的にいつものごとくアリサに説き伏せられてしまうのもまた、いつものことであった。
ともあれ、そういった経緯があって、すずかとその友人二人の仲良し三人組が時彦のテスタロッサ家の家庭訪問へ付いてくることになった。
ただし、すずかの内心では、未だ消えそうで消えずにいる蝋燭の火のように、ちろちろと静かに揺らめく疑念が残っている。
何故時彦の血にだけ、あのような反応をしてしまったのか。
フェイトの母が時彦に尋ねたいこととは一体何なのか。
そして、なによりも気になって仕方がないのは――――。
屋敷を出て、道中で少しだけフェイトと会話をしたすずかは、ふとその疑念が孕む大きすぎる矛盾に気づいた。
少し話は逸れるが、月村の家は仮にもこの海鳴一帯を管理する旧家だ。世間話とはいえ、どこどこの誰がどこに引っ越した、逆にどこそこにどこから誰かがやってきた程度の話であれば、すずかは物心つく前から聞いて育ってきている。
そして、密かに完全記憶力に程近い記憶力を持っているすずかは、自身の記憶の中にここ数年〝海鳴から引っ越していった、同年代程度の子供のいる家庭〟が一世帯たりともないことを覚えているのである。
一方で、すずかは以前、時彦が生まれてからずっとこの街に住んでいるという話を聞いたことがある。もっと言ってしまえば、この海鳴に住んでおり、かつ時彦の知人で〝フェイトと瓜二つの人物〟という人間がいないことを、知っているのだ。
だというのに、時彦ははっきりと言った。
――――フェイトってさ、俺の大切な人に瓜二つなんだよ。だからほっとけないっていうか……。
ふと、すずかは前を歩く少年の背中を見た。自分達と背丈はそう変わらない、むしろ最近は自分よりも細く、華奢になったような印象さえ覚える背中だ。
だが、すずかは今まで何度もその小さな背中に助けられた。
カリビアンベイでも。
夜の学校でも。
姉と体が入れ替わった時も。
単純にすごいと思った。同時に、どうしてそんな勇気が持てるんだろうと不思議にも思った。
だからこそ、すずかは問わずにはいられない。決して口にはしないものの、それでも悲鳴に近い心の言葉を、その小さくもたくましい背中にぶつけずにはいられない。聞きたくて仕方ないその言葉を、苦しくも胸の奥に飲み込まなければならないもどかしさを覚えながら。
…………貴方の大切な人って、誰?
少年の背中は、すずかの問いには答えてくれない。ただじっと、その白い制服の背中を、すずかに見せ続けるだけだった。
‡
フェイトの連れてきた客人達を無事に送り返し、息を切らせて駆けつけた大広間は――――凄まじいことになっていた。
雷撃によりあちこちが炭化し、強固な大理石の床は嵐が通り過ぎたかのように彼方此方が砕けて捲れ、しまいにはホールを支える支柱の何本かが盛大に折れてはただの石ころと化している。
そんな大広間の中央、玉座と入口の間に、二人の人間がいた。
一人は言うまでもない、この城の主たるプレシア・テスタロッサ。
そしてもう一人は――――。
「こんの……クソババァああああああ!!!」
「――――フン」
大理石の床の上にうつ伏せに倒れ、もはや怪我していないところがどこかを探すのが難しいほど傷だらけになっている最愛の主人の姿を見た瞬間、使い魔アルフは一瞬にして怒りの沸点を超えて咆え猛った。
人間フォームから狼フォームになることすら忘れ、ただ純粋に一途な思いを以てその拳を振りかぶる。
ただのダッシュではない。
一瞬で凝縮させた魔力を足裏で爆発させて加速力とし、猛進しつつも乱数的に角度変更とフェイントを織り交ぜてのフォトンランサーを展開。その弾幕に紛れてプレシアの死角を突く形でアルフは大広間を駆け抜ける。
しかし、プレシアはそんなアルフの鬼のような形相を、犬の遠吠え程度にしか思わないのか、つまらなさそうに鼻で笑って杖を一振り。瞬間、アルフの進路上に雷のカーテンが猛々しい放電と共に迸る。
鼻を突くようなイオン臭を感じ取る以前に、アルフは自身の猛加速を止めることが出来ないまま、その雷の雨へと自ら突っ込んだ。
「あが―――ッ!?」
僅差で発動できたプロテクションのおかげで致命傷こそ避けられたが、それでも大きなダメージを受けたことに変わりはない。当初の狙いを外れて、アルフはプレシアにその拳をとどかせることなく、皮肉にもその遥か前方、うつ伏せに倒れるフェイトの横へと転がるようにして倒れた。
「主によく似た駄犬ね」
「っ……さい……うっさいんだよこの鬼婆!」
雷で筋肉をやられたのだろう。
一時的にせよ、軽い痙攣症状を引き起こす筋肉の所為で、アルフは立つことすらままならない。いや、立つどころか呼吸さえ苦しい有り様だ。もし直撃していたならば、今頃こうして憎まれ口を叩くことすらできなかったに違いない。
必死に両手両脚をずりずりと動かしては立ちあがろうとするものの、未だに筋肉はアルフの意志を離れている。なんとか肘を突いて上半身を起こせたが、それ以上は無理だった。脚を動かした瞬間に力が抜け、無様に地面へ熱烈なキスをしてしまう。
そんなアルフの姿を見ることなく、プレシアは身を翻すと、感情の篭らない、実に平坦で冷たい声でアルフに告げた。
「……その子が起きたら伝えなさい。〝ジュエルシードの回収は継続、次は拘束してでもあの少年を連れてきなさい〟と」
「なっ……なにさそれ! なんで、なんでフェイトにそんな酷いこ――――ひぁっぐ!?」
問答無用だった。反論しようとしたアルフを再び強烈な雷が襲い、アルフは自身の身が焦げる匂いを嗅ぎ取った。
今度こそ指一つ動かせない程ダメージを与えた事を確認したプレシアは、そのまま無言のままに立ち去っていく。
焼け焦げた肌の痛みは既に感じられずとも、体表を走った雷による感覚の麻痺と、今度は先程とは逆に、急激な電流による筋肉の硬直の痛みが、濁流のようにアルフを襲う。
それでも、ガチガチと冬山で遭難したかのように震える歯を噛みしめ、立ち去ろうとする黒髪の魔女を睨み上げたアルフは、血を吐く思いでようやく声を絞り出した。
「なんで、さっ……! なんで、フェイトにばっかり、こんな…………ッ!」
果たして、その執念の怨嗟はプレシアに届いた。
ゆっくりとした足取りを縫い付け、こちらの言葉に耳を傾けさせただけという小さな成果ではあるが、それでも無情冷酷極まりない魔女の歩みを留める事ができたのは、賞賛に値するだろう。
「……決まってるでしょう?」
首だけを振り向かせ、黒い魔女が嗤った。
それは、陰惨で、凄絶で、そしてなによりも凶悦の入り混じった笑みであった。
同時に、アルフは動物的本能で全身を総毛立たせる。
雷で痙攣していた筋肉が畏縮し、危険時における緊急的な興奮状態に陥る。痛みすら感じなくなり、ただただ、目の前に存在する得体のしれない狂気に震えた。
それがなんという感情だったか――――アルフは久しく忘れていた。
フェイトが大切にしていたマグカップを壊した時とは違う。リニスにこっぴどく怒られた時のソレに似ていると思ったが、だがあの時のそれとは、根本的な何かが違っていることに気付く。そして、その思い違いからすぐに、アルフは結論を見出した。
〝恐怖〟だ。
これは、正体不明のナニかに対する、〝恐れ〟に他ならない。
わからない、ということほど恐ろしい事はない。
特に、今アルフを見下している黒い魔女の思考など、その欠片の一端程も、アルフに理解できるものではない。
故に恐怖した。何を考えているのか。一体何を企んでいるのか。
そして、何よりも――――。
「出来損ないだからよ」
「な――――――っ!!?」
実の娘を、〝出来損ない〟呼ばわりする母親の心境など、アルフに理解できよう筈もなかったのだ。
そして、驚愕に震えるアルフに一瞥をくれたプレシアは、それきり二度と振り返ることなく、大広間の奥の方へと静かに消えていった。
大広間には、傷だらけで気絶したままのフェイトと、体のあちこちに蚯蚓腫れと火傷を負い、それでも意識を失わずに這いつくばっているアルフだけが取り残される。
ぎり、っと。大広間に音とも言えない音が消えていった。
それはアルフが自身の奥歯を噛みしめた音だった。
悔しさと、怒りと、そしてやるせないほどの無力感。
決して愛を向けてはくれない母へ尽くす主人への憐憫。健気な娘に愛を向けてすらくれない母への憤怒。そして何よりも、最愛の主のためになにもできない自分が許せなくて、やるせなくて、アルフは震える拳を振り上げて、力なく振りおろした。
いつもなら、この程度の大理石の床など粉砕せしめる威力を持つ拳は、しかし罅一つ入れるどころか、ぽすっ、という軽い音を響かせるだけにとどまる。
「っ――――ぅ」
ぎゅっ、と。爪が指先に食い込むほどに握りしめた両拳の内側で、アルフは俯いてこらえていた。
フェイトが褒めてくれた色鮮やかなオレンジの髪も、今は酷く色褪せて見える。
震える喉を力づくで抑え込み、洩れそうになる声を必死に歯をかみ合わせる事で飲みこむ。
何故も、どうしても、今は何も問う事が出来ない。問う気にもなれない。
微かに希望を持っていた。ひょっとしたら、もしフェイトがあの鬼婆の願いを叶えてやれば、と。
例え、それが砂漠の中から一粒のダイヤモンドを見つけるのに等しいほどありえないことであっても、可能性はゼロじゃない。そして自分のご主人様なら、きっと掴み取って見せる。そう、ほんの微かに信じていた。
それを今この瞬間、完膚なきまでに否定された。そんなことは所詮夢幻でしかない。だから〝諦めろ〟という言葉もなく。
それがアルフにはたまらなく悔しい。
一度のチャンスすらなかったのだ。あるように見せかけて、実際はただ単に〝便利な道具〟として扱っていただけなのだ。
その何処に幸せがあると言うのだろう。フェイトの求める愛情があると言うのだろう。そもそも、その関係の一体どこに〝親子〟という絆があるというのか。
あるはずがない。ありえるはずがない。そして恐らく、フェイトも薄々その事に気付いている。それなのに、あんなにも健気に母を思って闘ってきたのだ。
そんなフェイトの心情を慮ったら、悲しさで胸がつぶれそうだった。切なさでこの身を掻き毟りたくなった。
何故運命は、同じ名を持つあの心優しい少女に、こんなにも残酷な仕打ちをするのだろう。
フェイトはただ、優しい母と静かに笑いあいたかっただけなのに。
晴れた木漏れ日の下で、母と娘で一緒にランチマットの上に座り、ただ穏やかながらも取りとめのない話をして、手作りの昼食を一緒に食べたかっただけなのに。
そんな、9歳の少女が抱えるにしてはあまりにもささやかすぎる夢だったというのに……。ましてや、それ以上の夢など考えたことすらないような、純真で無垢で、心優しい少女なのに!
世界が一人の少女に圧しつけた理不尽に怒りを覚え、今度こそ全力で床を砕かんばかりに力を込めて拳を振り挙げたその刹那、アルフの脳裏をよぎるものがあった。
――――『私達、きっと――――きっと戻ってきますから! フェイトちゃんを助けに、絶対に戻ってきますから!』
白い魔導師の少女。栗毛を結わえ、くりくり動く瞳で、本来なら敵同士であるはずのフェイトを〝友だち〟と呼んでいた、あの少女の言葉が。
溜まりに溜まったマグマのような怒りが、瞬時に冷やされどこかへと消えていくようだった。
振りあげた拳をゆっくりと下ろし、同時に自分の中で一つの決意が芽生えていることに気付く。
そう……運命がフェイトに不幸を押しつけてくると言うのならば、黙ってそれを受け入れなければならない道理など何処にもないのだ。
アルフはフェイトが好きである。大切なご主人様であるし、自分の命の恩人だ。だからこそ、彼女の望む幸福の形ではなくとも、今ある不幸ではない、別の幸福を授かってほしいと心の底から願っている。
そして、そのためには手段を選ぶつもりがないのが、アルフと言う使い魔の覚悟であり、そして決意だ。
誰かが言っていた。
すると口にした時には、すでに実行していなければならないと。
「……いに――――る」
みしり、と体のあちこちが軋むのがわかる。
だが、それでもアルフは構わずに全身に力を込めて、這いつくばった姿勢から無理矢理上半身を起こした。
多少なりともマシになったものの、それでも未だに軽い痙攣状態にある筋肉を無理矢理動かし、蚯蚓腫れや火傷その他で引きつるような痛みに顔を顰めながら、どうにかして天井を仰ぐようにして膝立ちになる。
傍らの小さな少女を見やり、自分よりははるかに軽傷であることに改めて気付いて、アルフはふっと安心の溜息を洩らした。このぐらいなら、普通に手当てするだけで十分だろう。
そして再び大広間の天井を見上げて、目を細める。
この際、もはや立ち場だの手段だのを選んでいる場合ではない。
あのプレシアが集めさせているジュエルシードが、危険極まりないモノであると言うのは、これまでの経緯で嫌と言うほど認識している。そして、目的こそわからないものの、そんな危険なものを使った〝研究〟がどんな結果を引き起こすかなど、考えるまでもない。
ならば、アルフがするべきことは一つだけだ。
たとえそれが主人である少女の意に反する事であったとしても――――彼女が、今の現状でいいと望んでいたとしても。
「絶対に……っ! 幸せにして見せる…・…っ!」
〝幸福〟に決まった形は無い。
もしかしたら、今のままでもフェイトは幸せなのかもしれない。今が不幸だと思っているのは、アルフだけなのかもしれない。
だが、アルフはフェイトの使い魔だ。使い魔はその性質上、主の本質とある程度直結/リンクしてもいる。フェイトが幸せだとアルフは幸せだし、フェイトが悲しければアルフも悲しい。逆に、アルフが幸せならばフェイトも幸せであり、アルフが悲しいとフェイトも悲しくなる。二人はいつも必ずどこかで繋がっていて、そして二身一体のように、お互いの心が通じ合っている。
つまり――――フェイトは、心のどこかで、今の状況を多少なりの〝不幸〟や〝幸せでない状態〟と認識しているのは間違いないのだ。
ならばこそ、アルフはもう、自分の決意に迷わない。
気絶したままのご主人さまを抱きあげて、アルフは大広間を後にした。
ゆっくりと、ゆったりと、しかし着実に。
腕の中に眠る主のために。
狂気の中にある、虚構の愛情に捕まった主のために。
そして少しだけ――――主を〝友だち〟と呼んでくれた、あの少女達のために。
―――――使い魔アルフは、一つの決意を固めた。
‡
シルフィ――――その名は、プレシア・テスタロッサにとって忌むべき名前と同義であった。
思い出すだけでも胸が痛み、哀愁と失望の入り混じった複雑な思いが去来する。
腰かけたデスクシートの上で、プレシアは全身を締め付けるような痛みから逃れるように溜息を吐いた。
うずたかく積もった書類の山と、空になった薬瓶の集群。吸えばそれだけ肺を蝕まれそうな重苦しい研究室の空気の中、プレシアはそっと一つの写真立てを撫でた。
淡い木目の額縁に納まるのは、幼き金髪の少女と、その少女を抱えて微笑む若かりし頃の自分。忙しくも、しかしはっきりと幸せを感じていたあの頃――――必ず取り戻さなければならない、幸せの偶像。
「……ゴホっ!」
突然湧き出た咳を、慌てて口を抑えて塞ぎ、同時に抑えた手に生温かい何かが付着するのを感じ取る。
そのまま咳が収まるまでこらえたプレシアは、焦ることなく抑えていた手を口元から離し、手のひらに付着した血をいつものように近くにあった布巾で拭きとった。
あとどれほど、この体が持つかはプレシアにすら想像できない。
そして、その何時とも知れぬ刻限までに、もう一度この手に本当の愛娘を抱く事が出来るかどうかも、わからないのだ。
苦々しい思いと共に、もはや味すら感じられぬ常備薬を飲み下し、プレシアはシートに深く、その身を沈めた。
脳裏をよぎるあの日の事――――ようやくこの手に、愛娘を抱けると思ったあの日の事を思い返して。
ありとあらゆる手段を用いた。だからこその結果であったし、そこに不備があるとは思っていなかった。それは嘘ではない。
だが、不備はなくとも、前提が間違っていたのだ。より正確に言うのであれば、〝魂〟と〝因果〟に関する認識がずれていた、と言った方が良いだろう。
生命創生、あるいは死者蘇生の秘儀とも呼ばれる前人未到の研究は、確かに成就したのだ。
生きていた人間と全く同じ人間を創り上げる事。死んでしまった人間を蘇生する事。どちらも、凡百な科学者では決して成し遂げられない非凡極まりない領域の偉業に他ならない。
だが、そのどちらとて、プレシアの要求を満たすものではなかった。
前者の問題点。それは、例え生前の人間と全く同じ人間であっても、それは始まりの違う別個体であったという事。即ち、一卵性双生児に近い類似性しか持たないことにある。
例え遺伝子情報が全て同じでも、それだけなのだ。生まれも違えば育ちも違う。価値観も異なればその性格も似て異なる〝別人〟でしかないのだ。生前の人間と同じと言うのは、あくまでも記号としての意味しか持たない。これは、プレシアの求める〝本当の愛娘〟の姿ではない。
後者の問題点。それは、例え死者を蘇らせようと、そこに〝魂〟が存在しないことに他ならない。
例えプレシアがどれほど希代の才能を持っていようとも、失われた〝魂〟とそっくりそのまま同じものを創り上げるのは、前述した生命創生の技術にあった問題点を克服できなかったことと同じように、不可能であった。
故に、例え脳の破損意外に肉体的損壊のない愛娘の体を、狂気を代償とした医術により生きている人間のソレへと蘇生せしめたとしても、愛娘がもう一度、その可愛らしい瞳にプレシアの姿を映してくれる事は、二度となかったのである。
愛娘を蘇らせるための手段。そう思っていた二つの手段が失敗に終わり、プレシアは一度絶望を味わった。
もう無理なのかと。もう一度、せめて一瞬だけでも、生きている娘に逢いたいというこの些細な願いですら叶わないのかと。
例え誰かに〝貴方は人の身でありながら神の領域に踏み込んだ〟と褒め称えられるよりも、ただ一言、愛娘の口から〝おかあさん〟と呼ばれる事と比べたらなんと些末な事か。ただ一言、最愛の娘の口から〝おかあさん〟と呼ばれれば、それだけで自分は生きていて良かったと胸を張って言えるというのに!
そんなプレシアに救いの手が差し伸べられたのは、果たして天使の慈悲なのか、それとも悪魔の誘惑であったのか。
とまれ、絶望の淵に立たされていたプレシアを再び立ちあがらせたのは、一つのシンプルな助言であった。
即ち、生命創生と死者蘇生の融合。
――――――〝F・A・T・E計画〟である。
生命創生による同一存在の創造。
死者蘇生による同一存在の蘇生。
この二つの融合による、死者であろうと生前の存在へと完全に復活せしめる、前人未到の生命操作技術。
生命創生では完全な同一存在を創ることはできない。死者蘇生では、肉体は蘇生できても精神が蘇生できない。
ならば、元となる体で創り上げた複製の体に、蘇生対象である存在の〝精神〟を転写してみてはどうか、という単純な発想である。それが、〝あの男〟からのたった一つの助言であった。
何故その事に気付かなかったのか、とプレシアは自分の愚昧さを呪った。
考えてみれば当然のことである。創り上げた複製の体に、本体の〝精神〟を全て余すことなく完璧に転写する事が出来たならば、それは〝本物の愛娘〟となるのではないか。
例えそれが、人の命を〝大量生産品〟と同系列で扱う事になる危険な思想であっても、その時のプレシアには、その考えこそが天啓の如き妙案に思えてしまっていた。それほどまでに、狂気に蝕まれていた。
多大なある苦難と困難の果てに、プレシアはついに複製した愛娘の体に、愛娘の持つ記憶、癖、所作、その他全てのありとあらゆる要因をコピーした。
実験は成功し、ソレは目を覚ました。
その瞬間の嬉しさを例えるには、一体何を持ちだせばいいのだろう。筆舌に尽くしがたい幸福を胸一杯に味わいながら、プレシアは在りし日の思い出の猫、リニスを蘇生すると共に使い魔とし、娘との再会を心か今か今かと、まるで遠足を控えた子供のように楽しみにしていた。
ベッドに眠る最愛の娘。震える睫毛が、覚醒が近い事を物語る。
プレシアは溢れんばかりの愛情を以てその頬へと手を伸ばし、優しく撫でた。今までの途方もない離別の日々の溝を埋めようと、それまで溜まりに溜まった娘への愛を注ごうと。
だが――――。
「アリシア……目が覚めた?」
「やだ……触るなッ!!」
「アリ……シア……?」
「そうやって……そうやってまたボクに姉さんの姿を重ねるんだな!」
その幸福の絶頂のような心の高揚は、そんな〝愛娘の姿をしたナニか〟によって崩壊させられる。
愛娘と同じ姿。同じ声。同じ瞳。
だが、その声に込められた感情は紛れもない憎しみであり、その瞳が放つのは疑いようのない恐怖。
プレシアは自分の中で何かが壊れそうになるのを感じた。それでも必死にその何かを抑えつけ、震える指を〝ソレ〟へと近付ける。
「姉さんのほうが大切でボクを捨てたくせに……今度はボクを姉さんの代わりにするのか!?」
「なっ……何を言っているの、アリ―――」
「アリシアじゃない! ボクは、ボクはアリシア/姉さんじゃなくてシルフィだっ! たった一人の妹/シルフィだッッ!」
瞬間、プレシアの中で、それまで抑えていた何かが崩壊する音が聞こえた。
指先から全身が凍ったかのように冷たくなり、それまで春の陽気のように暖かかった心は極寒の冬の如く冷え下り、仇敵を睨むかの如き憎しみを向ける愛娘の姿に、絶望すら生温い漆黒の槍を穿たれる。
気がつけば、プレシアはデバイスの補助なしに〝ソレ〟を気絶させていた。
スタンガンに似た簡単な電撃魔法であったが、まだ目が覚めたばかりの〝ソレ〟には必要以上の効果を示した。
目尻に涙を浮かべ、ギリギリと歯を食いしばって自分を睨みつけていた〝ソレ〟が白目をむいて気絶したのを確認した時、とうとうプレシアはこらえることのできない嗚咽と共に、心を削るような涙を流す。
いっそのこと、このまま死ぬ事が出来たらどれだけよかっただろう。
愛娘への愛情も、この世への憎しみも、全て何もかもを投げ打って命を断てたならば、それだけで幸せな事だろうと思えてしまうほどに、プレシアは疲れてしまった。
だが一方で、ここまで来た以上後に引く事ができないのもまた、事実だ。愛娘の姿をしたソレの記憶を操作し、今のフェイトという存在へと修正する傍らで、プレシアはそんなことを考える。
理論は間違っていなかった。工程にも不備は見られなかった。そして、結果を見るならばある意味で成功とも言える成果が出ている。
ならば、前提が間違っていたのだ。
〝精神〟だけでは足りない。では何が足りないのか――――そこまで考えて、プレシアは一つの決意をしたのであった。
意識を河岸の向こうから引き戻し、我に返る。
自立天候プログラムにより、城の外には夜の帳が重い緞帳を下ろしている。窓の向こうから微かにしみいる虫のオーケストラが、夜の静寂を際立たせていた。
シートから体を起こし、ふと自分の手が何かを持っていた事に気付く。
「……アリシア」
それは、あの写真立てだった。
中に納められているのは、自分と、最愛の娘と、その良き友であった山猫の移る在りし日の幸せ。それがこの小さな写真の中に凝縮されていると考えると、羨ましさと切なさと、そして言い知れぬ哀愁が胸を締め付ける。
プレシアの立てた最後の計画は、既に終わりに近付いている。
多少の予定変更があったものの、概ね最終的な目的に変わりはない。
当初の懸念であったジュエルシードの数による出力不足も、仮定が違っていたからこその計算違い。実際は、出力不足などとんでもない話だ。むしろ、現在保有しているジュエルシードだけでも有り余るほどと言って良い。
もし、本来想定していた〝アルハザード〟への道を開こうとするならば、確かに足りないだろう。せめて今の数の三倍はなければ、そもそも最低限のエネルギーを確保できない。
だが、あの少年が用いた方法ならば――――〝作業〟に必要なジュエルシードなど、極端な話一つで十分なのだ。それは、あの少年がその身を以て証明してくれている。
何よりも、今回の件において、あの少年の御蔭でジュエルシードの〝本質〟に気づけたのは大きい収穫だった。同時に、あの少年が〝シルフィ〟と何らかの関連性があった事には大いに驚いたが、はっきり言ってしまえばそれは二の次である。大切なのは、あの少年の御蔭で下準備がはかどり、それもあと少しで完了するということ。ジュエルシードの捜索とあの少年の確保を〝出来損ない〟にさせるのは、あくまでも後々来るであろう時空管理局を欺く囮にすぎない。
出来得るならば、あの少年と〝シルフィ〟の関連性について調べることで、何故あの時失敗してしまったのかが知りたいと言う、科学者としての学術的好奇心を満たしたいものだが、そうするだけの余裕はもうないだろう。そして言うまでもない事であるが、今のプレシアにとっては、それは文字通り二の次の目的ですらないのだ。
「もうすぐよ……もうすぐ、本当の貴方に逢えるわ」
狂気に蝕まれる精神と、死の病に蝕まれる肉体。
二つの苦難の渦中にありながら、愛娘を求める一途な母が独り言ちる。
そんな彼女の思考の中に、フェイト・テスタロッサという健気な少女が入り込む余地など、塵芥ほどの領域も残ってはいなかった――――。
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心よりのお詫び
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よ、ようやく更新できました……!
大変お待たせして申し訳ありませんorz
今回でようやく伏線の回収ができて一安心と申しますか……えーと、うん。風呂敷また広げた!?
ともあれ、ようやくシルフィについてある程度お分かりに頂けるエピソードが盛り込めました。
恐らく予想していらっしゃった方も大勢おられたとは思いますが、〝フェイトの最初の人格がシルフィだった〟というのが正解でございます。
本文中にもありますように、結局シルフィの人格はプレシアさんによって今のフェイトへと処置されてしまったわけですね。プレシアさんマジ鬼畜。
ともあれ、次回からはプレシア事件の終焉に向かいます。同時に、すずかちゃんの回りでもちょろっと事件の匂いをさせていきたいなぁ、みたいな。
こんな超不定期更新なアレですが、完結まで今しばらくお付き合いくださいませ。
そしてここまで付き合って下さっておられる読者の皆様方に、改めて最大の謝辞を。