日曜の夕刻。図書館での予習を終えた令示は、勉強道具を入れた手さげを腕にかけて手元の冊子に目を落としつつ、海鳴の商店街を歩いていた。
「国公立の大学が入学から卒業までにかかる費用が……ざっと三〇〇万かよ。「貧乏人は死ね」って言ってんじゃねえか? コレ」
大学入学の為の資料を読みながら、提示されたその金額に令示は顔を顰め、呟きを漏らす。
「どこぞの国会議員が、学校の入学費用を家畜を売っ払った金で工面したとか聞いた時は『明治大正かよ』って思ったもんだが、こり
ゃシャレにならねえぞ…バイトしながら学費稼ぐしかねえな。奨学金制度なんぞ実質借金だから、馬鹿馬鹿しくてやってられねえし」
幸い、魔人四体召喚可能なので一人は学業専念、一人はいざという時の予備としても、後の二体でバイトをすれば問題ない。
「大検受けるなら十五で大学入る事になるから夜間のバイトは無理だけど、数をこなせば──」
「あら? 令示君?」
「うん?」
不意に己の名を呼ばれて、顔を上げた令示の目にノエルと忍の姿が映った。
「こんにちわ。勉強熱心なのね」
「ですが、本読みながら歩くのは少々危険です」
「とっ、すいません」
微笑む忍とやんわりと窘めるノエルに、令示はばつが悪そうに謝罪して、冊子を手さげへとしまう。
魔人四体召喚以来、急激に増した令示は、人間の状態でも魔人の身体機能や能力が僅かながらも扱えるようになった為、マタドール
の反射神経や運動能力を使って歩いていたので、通行人にぶつかる事などあり得ないのであるが、確かに行儀がいいとは言えない行動
だったので、素直に忠言に従った。
「忍さんとノエルさんは今日は…買い物ですか?」
今日はどうしたのかと問おうとした令示だったが、ノエルがぶら下げていた買い物袋を目にして、その目的を察した。
「はい。根を詰め過ぎて、忍お嬢様がお疲れのご様子でしたので、気分転換に散歩でもしていらしたらと申し上げたのですが」
「どうせ出かけるんならノエルに付き合おうって思ってね。煮詰った頭を切り替えるにも丁度よさそうだったし」
ノエルの説明に捕捉を行いながら溜息混じりに苦笑を作り、忍はそう答えた。よく見ればその表情は僅かに陰り、疲労の色が浮かんでいる。
「…まあ、忍さんの立場なら色々悩む事があるでしょうからね」
「あら、わかる?」
「忍さんのような特別な立場の人間であれば、かかる責任も自分のような一般人とは段違いであると思いますので」
窺うような忍の視線を受け「特別」という言葉に若干のニュアンスを込めながら、令示はそう答える。
「ある意味私よりも、令示君の方が特別だと思うけど?」
「俺は人の上に立っていませんから。責任ある人間の苦労というものはありませんよ」
「なんか、すずかと同い年の子と話してる気がしないわ…」
しみじみと呟く忍に、令示は内心少々ヒヤリとしながらも表情を崩さず適当に言い繕う。
「小知恵つけて生意気言ってるだけですよ。中身はその辺の子供とかわりませんって」
「ふうん…」
令示の言を聞き、忍は興味深そうにしげしげと彼を眺めながら、
「ねえ、令示君。ちょっと付き合ってくれない?」
「へ?」
突然、そう誘いの言葉を口にした。
偽典魔人転生 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.2 絢爛舞踏会
「──ねえ令示君、すずかの婚約者になってくれない?」
「は?」
忍に誘われ月村家へとやって来た令示は、勧められるままに椅子に着くなり開口一番に予想の斜め上を行く台詞を切り出され、思わ
ず間抜けな声を上げた。
「忍お嬢様、それでは令示様が混乱してしまいます」
「ああ、うん、そうね…焦っていたから結論から口走っちゃったわ」
背後に控えていたノエルからの呆れ混じりの視線と諫言に、我に返った忍は、改めて座席に座り直すと改めて口を開いた。
「実は…今度企業の取締役とか役員の子女を集めた懇談会というか、パーティが開催される事になってね。私とすずかにも声がかかったのよ」
「只のパーティであれば、忍お嬢様もここまでお悩みにはならなかったのですが…」
「何か問題があるものなんですか?」
目を伏せ言葉を濁すノエルに、令示がたずねる。
「懇談会って言うのは建前。本音は年頃の男女を集めたお見合いよ」
「今から婚活ですか? 二十歳どころか小学校卒業すらしてないってのに?」
盛んに目をしばたたかせ、令示は怪訝な顔で問いを返す。
「血の繋がりで結束を作る。遥か古代より行われてきた方法です」
「戦国時代かよ…」
ノエルの補足説明に呆れたように呟く令示。
「今でも珍しくないのよ? むしろ財閥系の家系は後継者問題とかに余計なトラブル抱えたくないから、推奨しているくらいだし」
「俺には分からない世界ですね…」
言いながら令示は用意されたティーカップを口元に運び、紅茶でのどを湿らせる。
「話を続けるわね? 私は公式的に恭也がフィアンセである事を喧伝したし、当日も彼にエスコートを頼むつもりだから、大っぴらに
声をかけて来るような人間はいないと思うんだけど…」
「忍お嬢様へ向いていた矛先が、すずかお嬢様に向かう公算が高いのです。今や月村家は名家というだけでなく、それ以上の『実』が
存在しますから」
「『実』、ですか?」
ノエルの言わんとするところがイマイチわからず、令示は首を傾げた。
「はい。旦那様と奥様の経営する月村重工は、今やロボット産業では世界トップクラスの企業です。シェアでこそ欧米や日本の旧財閥
系企業には及びませんが、その技術力では他の追従を許していません」
「その両親に何かあったら、月村重工は私とすずかが相続する事になる。月村重工が所有する資金、土地、有価証券、知的財産諸々ね。
良くも悪くも、今の日本は男系社会だから、私達と結婚した後に手八丁口八丁で丸め込んで、なし崩し的に月村を乗っ取ろうとでも
考えているんでしょうね」
こめかみに手を当て、うんざりとした様子で忍が溜息を吐いた。
「無理もないかと思います。月村重工が現在抱える技術特許は、それ一つで数十億円の価値がありますから…」
(ロボット産業のトップで、その技術特許。って事は…)
忍とノエルの話を聞きながら、令示は顎に手を当て天井を見上げ思案する。結論は一つしかない。
「ひょっとして、ロボット技術ってノエルさんの技術を応用したんですか?」
「「っ!?」」
何気なく発した令示の言葉に、忍とノエルは目を見開き、驚きに満ちた表情で彼を見つめた。
「えっ…、あの、何か…?」
二人の突然の豹変に令示は戸惑いつつも、問いかける。
「…令示君、あなた何でノエルの体の事知ってるの?」
(あっ──)
静かに問いかける忍の言葉に、令示はようやく己の失言に気が付く。自分がノエルの体の秘密については聞かされていなかった事に。
「私もノエルも、あなたにその事は話していなかった筈だけど…すずかかファリンから聞いたの?」
「あ~、その、えーと……あっ! アレですよ、アレ」
若干の疑いを込めた忍の視線を受けながらも、令示は必死に頭を働かせて言い繕う言葉を探しだした。
「アレって…?」
「ほら、以前お茶会の時にマタドールに変身して、ノエルさんを抱き上げたじゃないですか」
「ああ、あの時の。でもそれで何がわかったの?」
「ノエルさんの体から漏れていた駆動音っていうんですか? 人間の体から漏れる音とは少し違うものが聞こえたり、抱き上げた時の
五体の重さというか、全身の比重の違和感というか、その辺で…」
「あの数秒で!?」
「なんと…」
令示の言に驚き目を剥く忍と、口元に手を当て呆然とするノエル。
嘘はついていない。マタドールの五感は確かにあの時にノエルの体から生じる違和を捉えていたのだから。
それ以前に知っていたか否かは、また別の問題である。
「ん、まあそれじゃ仕方がないわね。あの時先に仕掛けたのは私な訳だし、不可抗力か…ただ、この事は内緒でお願いね?」
頭を軽く掻きながら、ばつが悪そうに忍が箝口を願い出る。
「わかってます。人に言いふらすような話じゃないですしね」
「ありがとうございます令示様」
令示の答えに、ノエルは深々と頭を垂れた。
「それで話を戻すけど、ノエルの技術を応用したかと言われれば、イエスよ。無論、一般に流しても問題無いレベルの物だけだけど。
それでも他の企業と比べれば、かなりのレベルのものになるのだけれどね」
忍は話を仕切り直しつつ、捕捉を加える。
「まあ、そうでしょうね…」
チラリとノエルを見ながら相槌を打つ。
最先端技術を誇る大企業や大学、研究機関が、ロボットがスムースな二足歩行や移動を出来るか否かで大騒ぎをしているというのに、
こちらは自立思考、自立行動はもちろん、戦闘すら可能なアンドロイドである。後塵を拝するどころではない、性質の悪い冗談のような存在だ。
「…つまり纏めると、パーティー会場で粉をかけて来る馬鹿どもから、すずかを守る為の盾になるって事ですね?」
少し考えて出した令示の結論に、忍は頷きを返した。
「ええ。すずかはまだ子供だし、あの通り大人しい性格でしょ? 欲で目の色変えて迫って来る連中や、腹黒い奴らを相手に口先でや
り過ごすには少し荷が重いのよ」
「いや、流石に子供から財産関連で言質を取っても無効だと思いますけど…? つか、子供の口約束を盾にそんなこと言い出したら、
相手の正気を疑いますよ」
いくら欲に狂った馬鹿どもでもその位はわかる筈である。正式な契約書も無く、ましてや子供の口頭での約定では、法的根拠の欠片もない。
「連中もいきなりそこまで踏み込んでは来ないわよ。まず、考えられるのはすずかに有無を言わせない状況に持ち込んで、自分の家に
招くとか、一緒に遊びに行くとか、その辺りから口頭で約束して徐々に縛り上げていくと…おそらくはそんなところでしょうね」
「うわぁ…子供相手に搦め手で籠絡とか…引くわぁ」
忍の説明に令示は思いっ切り顔を顰め、そこまでやるか? と、気持ち悪そうに心中を吐露した。
「うん。そういう連中の相手をしなくちゃいけないから、正直あんまり気分がよくない役目なんだけど…どうかしら?」
色の良い返事を聞けるか不安なのだろう、忍は俯いた顔から上目づかいに令示を窺ってくる。
「まあ、友達のピンチですから助ける事位別にいいんですけど…」
「っ! それじゃ」
忍が顔を上げ機体に満ちた視線を令示へと送る。
「ただ俺、パーティー用の服なんか持ってませんよ?」
「大丈夫! こっちが無茶なお願いしているんだもの。服一式は私の方で用意させてもらうわ! ノエル、令示君の服のサイズ調べて!」
「畏まりました忍お嬢様。それでは令示様、早速で申し訳ありませんが寸法を測らせていただきたいので、こちらへおいで下さい」
「あ、はい…」
己の了解を得て、慌ただしく動き出した二人に気圧され言われるがまま従う令示。
(しかし、そうなると忍さんやすずかが恥をかかないように、色々と予習しておかないとな…)
ノエルに手を引かれながら、令示は己がなすべき事を指折り数えるのであった。
──そして、数日後の日没後、海鳴市郊の海岸線付近に広がる巨大な森。
夜の闇と合わさり、昼以上に鬱蒼とした針葉樹の森と外界との境界は、人の身の丈をはるかに超える長大な壁に囲まれ、入口に出来
るのは、正面の大門と目立たぬ裏門の二つのみ。
その片方──正門から一直線に伸びる二車線の公道程の幅の石畳の道を、黒塗りのリムジンが走る。
代わり映えのしない木々ばかりの風景が数分ほど続いた後、突如景色が開けて切り開かれた空間が現れる。
広大な森の中心に在ったのは、森にも負けぬ威容を誇る白亜の洋館。
まるで赤坂離宮を彷彿とさせるネオバロック様式の半円状の豪邸は、見る者を圧倒する大迫力を内包していた。
森を抜けたリムジンが、洋館の入り口前へと車体を横付けしてその動きを止める。
途端、扉前に控えていた数人の黒服の男たちが車体に駆け寄り、そのドアを開いて恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました月村様」
「ありがとう」
礼とともに、ドアの内より現れたのは黒のタキシード姿の恭也と、彼に手を引かれた紫色のドレスを身に纏った忍であった。
「ありがとうございます…」
一拍置いて、中部座席のドアが開き、今度は白いドレス姿のすずかと、仕立てたばかりのスーツが着慣れない様子の令示が
姿を現した。
「月村忍様とお連れの方々ですね? お待ちしておりました」
『お待ちしておりました!』
数人の黒服が四人の前へと立ち並び、頭を下げて歓迎の意を口にした。
「西埼会長や私達以外のゲストの方は、もういらしてるのかしら?」
黒服たちの言葉に鷹揚に頷き、笑顔で答えながらも忍の目は冷たく、油断や気の緩みなど一切ない。
未だ若輩に有りながら、忍には既に一流の企業家としての風格と才気を身に纏っていた。
「さっ、それじゃ中に入りましょうか。二人ともいい?」
忍がそっと恭也の腕に手を絡ませながら、子供二人へと問いかける。
「うん、大丈夫だよお姉ちゃん」
「はあ、まあ、なんとか…」
姉の声に肯定の意を返したすずかに対し、令示の方は体の調子を確かめるかのように全身を捻りつつ、何とも煮え切らない答えを発した。
「どうした令示君、具合でも悪いのか?」
令示の言動に首を捻りながら、恭也が問いかける。
「いや、こういうよそ行きの礼服って着慣れていないので、何か違和感が強くて…」
「そんな事ないよっ、令示君。よく似合ってるよ!?」
きまり悪そうに苦笑を浮かべた令示へ、横合いからすずかか勢いよく反論を唱えてきた。
「そ、そうか?」
「うん! 大丈夫だよ、よく似合っているから!」
「ああ、うん、ありがとな…」
両の拳にぐっと力を込めて握り締め、思い切り頷きを返す気圧され、令示は呆けた声で礼を述べた。
「あー…、でもあれだ、その、すずかのドレスの方がずっと似合っているし、可愛──綺麗だと思うぞ?」
お返しにと、不器用ながらもすずかのドレス姿を褒める。
「可愛い」ではなく「綺麗」と述べたのは、一応令示なりに女性への気遣いのつもりだ。
「あ…、うん、その、ありがとう…」
それを耳にした途端、先程までの元気はどこへやら。すずかは借りてきた猫のように萎縮して俯き、上目づかいに令示へと目をやり
ながら、ポソポソと謝辞を口にした。
「…………」
「…………」
令示とすずか。向き合いながらも、顔と視線を互いに左右逆の横方向へと逸らしてしまう。
実を言うと、今日この屋敷へ来る際、月村邸で顔を合わせた時からずっとこんな調子であった。
二人とも互いに、今回の財界関係者を騙す為の『婚約者』という言葉を妙に意識してしまい、普通に言葉を交わす事もままならない
状況なのである。
令示自身、これでパーティの参加者を騙しきれるのかと不安に思い、忍にその旨を相談したのだが、彼女は二人の様子を見て「初々
しくて良いじゃない」と、毒にも薬にもならない感想を述べるだけでまるで当てにならなかった。
これが、互いに只の友人に過ぎなかったのであれば、もっと簡単に演技を行えた事であろう。
だが、生憎と二人は単なる友人と呼び合うには、余りにも相手の精神的領域へ踏み込み過ぎていた。
すずかから見れば、令示は己と親友の救い、なのはとともにこの海鳴のピンチまで押し留めた一種ヒーローのような存在であり、強
大な悪魔の力をその身に宿してなお、腐らず曲がらずそのままの自分で在り、吸血鬼というすずかのコンプレックスとも言える出自
を知っても、物怖じする事なく平然と付き合ってくれる貴重な存在である。
それに対し、令示から見たすずかも、悪魔の力を持つ自分を恐れる事も隔意もなく、好意を持って接してくれる彼女は稀有な存在で
あり、大切な人であると断言できた。
無論、なのはやアリサ、ユーノやフェイト達もそういったいみでは大切な人達であるが、先天的、後天的の差はあれど、常人と異な
るという点で、彼女には一種のシンパシーを抱いており、かつ、時折己に向けられる純粋な好意にドギマギとしてしまう事も相まって、
令示は恋愛感情ではないものの、友人という範疇にもカテゴライズし難い、何とも複雑で難しい想いを持っているのであった。
そんな悩みを抱えつつ、しきりに視線を泳がせながらすずかとの距離感を測ろうとしていた矢先──
令示は目を細め、からかう様な笑みを浮かべた忍と目が合った。
「…何見てるんですか?」
「いやー、なんかいいふんいきだなあっておもってー」
ジト目で問いかける令示に、忍はすっとぼけた様子で答えを返す。無論、その口元に笑みを絶やさぬままに。
「おっさん臭いですよ忍さん」
「親父臭いぞ、忍」
「お姉ちゃんおじさん臭いよ」
「三人とも酷い! ていうか同意見!?」
三人から呆れ混じりの冷たい視線を向けられ、忍はがっくりと肩を落とした。
(はあ、全く見た目に反して子供っぽいところあるよな、この人。でもまあ──)
チラリと脇へと視線を向けると、しょうがないなあ、といった感じで苦笑を浮かべるすずかの姿が目に映る。
(お互いに変な緊張はなくなったし、良しとするか)
令示はそう考え、一つ深呼吸をするとすずかへ向けてそっと手を伸ばした。
「お手を許していただけますか? 麗しいお嬢さん」
「……ふふっ」
令示の言葉に、数瞬キョトンとした後に、すずかは口元に手を当てクスクスと笑いを漏らす。
「おいおい、そんなに笑うなよ。キザッたらしいのは覚悟でやったってのに…」
「ご、ごめんなさい…でも、ふふ、おかしくて…」
ぼやく令示であったが、すずかの緊張緩和とウケ狙い目的であった為、その声色に憤りはなく、逆にその顔には「大成功」と言いた
げな笑みの形を浮かべていた。
「ま、緊張はほぐれたようだし、これはこれで良しとするか。じゃ、行こうかすずか」
「うん。よろしくね、令示君」
再び差し出された手を取って、すずかは大きく頷くと令示と二人並んで忍たちの後に続き館へと向かって歩き出した。
「はぁ…これまた、庶民には縁のない世界だな」
黒服に案内され、辿り着いたパーティ会場へと足を踏み込んだ令示は、周囲を見回して圧倒されたように溜息を漏らした。
学校の体育館の二、三倍はあろうかという広大な空間は隙間無く赤絨毯が敷き詰められ、壁沿いには等間隔に絵画や彫刻、ガラスケ
ースには陶磁器などの美術品が設置されていた。
いずれも素人の令示の目から見ても解るほど精巧であり、中には教科書で見かけるような名の知れたアーティストの作品までも存在していた。
館の主の趣味だろうか、理解に苦しむ現代美術の抽象画のような物ではなく、写実主義の物ばかりであったのがありがたかった。
無いとは思うが、万が一美術品の感想を求められた時に答えに窮する事がなくて済む。
入口の左右の壁沿いでは、何十人ものシェフや板前が忙しく動き回り、洋の東西を問わない様々な料理を拵え、賓客達に提供している。
それを受け取る客達も、よく見てみれば既製品ではない上質な布地を使い、体に合わせて拵えた一品物のスーツを着込んでる。会場
のレベルに比例した、ハイソな連中である事が見て取れた。が──
(なーんか、余裕が無くないか?)
会場内の他の客層を眺める令示は、その表情に違和感を覚えた。
ギョロギョロと、大きく目を見開いて周囲を注意深く窺う者や、苛立ちながら携帯や時計を何度も確認する者、土色の顔で脂汗を浮
かべる者など、優雅な場所だというのに彼らから生じる雰囲気は場のそれに反し、何か焦燥感を滲ませていた。
会場と客の妙な齟齬を覚えながらも、令示はどうにかポーカーフェイスを取り繕い、周囲を警戒する。
形だけのフィアンセとは言え、実質的にはすずかの護衛なのだ。気を引き締めなければならない。
「おお忍君、よく来てくれたねえ!」
令示が気持ちを改めたその時、背後よりよく通る弾んだ様子の声がかかった。
それに反応した四人が振り返ってみれば、紋付袴姿の白髪白髥の老人が左右に黒服の侍従を連れて立っていた。
「お久しぶりです西埼会長。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「なに、今や精密機械分野では飛ぶ鳥を落とす勢いの月村重工の御令嬢を招待できたのだ、それだけでも十分な成果というもの。礼を
言うのはこちらの方だよ」
深々と頭を垂れる忍へ、西埼と呼ばれた老人はそう言って愉快そうに笑い声を上げた。
(この爺様が主催者で屋敷の主──西埼グループの会長、西埼康二郎か…)
その様子を眺めながら、令示は心中で呟きを漏らした。
当初、忍がその名を口にした時は全く聞き覚えのない企業名だと思ったが、よくよく話を聞いてみれば前世で白いライオンのマスコ
ットで有名な球団を抱えてた大元の会社の代替(?)存在である事がわかった。
そして眼前のこの老人は戦後の混乱期に一代で西埼グループを築き上げた傑物だという。
その剛腕辣腕ぶりからついた渾名が「怪物」。
忍と談笑するその姿は、一見すると品の良い好々爺といったところだが、常在戦場を往く悪魔達をその身に宿す令示には、優しそう
に見える老人の双眸の奥に、油断無く相手を窺い、スキあらば喰い殺さんとするような、危険な光がある事を見抜いていた。
(なるほどね…「怪物」なんて言われるだけはある。相当な食わせ者だな、この爺さん)
令示が心中でこっそりと西埼の人物評を行っていると、ふいに当の本人がこちらへと目を向けた。──いや、正確に言うならば、隣
に居るすずかに、だ。
「君が忍君の妹さんかね? 私が西埼康二郎だ。よろしく」
西埼はすずかの前へと歩み寄ると、彼女の目線に合わせて腰を落し、名乗り出た。
「あの…月村すずかです…本日はお招きいただき、ありがとうございます」
堂々とした言動に気圧されたのか、すずかはおずおずとした様子で挨拶を返す。
「うむ。今夜はゆっくりと楽しんでいってくれたまえ」
そんな彼女の返答に目を細めて笑みを浮かべる西埼。
「さて、それでは他にも挨拶回りがあるのでね。一旦この辺りで失礼させてもらうよ。忍君、すずか君、また後ほどゆっくりと語り合おう」
「はい、会長」
そう言葉を交わしながら立ち上がると、西埼は侍従を引き連れ歩き出した。
そして令示の前を横切るその刹那、彼はチラリとこちらへと視線を向けた。
「…………」
令示を見るその目は、路傍の石を見下ろすが如く無機質無感情なものであった。
(なんだありゃ…)
月村姉妹に向ける感情と比べてあからさま過ぎる隔意を受け、令示は怒るよりも呆れ半分になり、心中でぼやきを漏らした。
「あっ! 会長に二人の事を紹介するのを忘れてた!」
立ち去って行く西埼の背中を見つめていたその時、ハッと我に返った様子で忍が声を上げた。
「ごめんなさい恭也、令示君」
「ああ、気にする事はないさ忍。あの強烈な存在感を前にしたら、それも仕方がないというものだ」
「ですね。凄い迫力でしたし」
男性陣のアピールを失念していた事を気にやみ、申し訳なさそうに頭を下げる忍へ二人は微笑みかける。
「…あの人、怖い」
先程、己へと向けられた視線から何かを感じ取ったのであろうか、西埼が去って行った方向を見つめながら、すずかは胸中の想いを吐露した。
(なんにせよ、あの爺さんも要注意人物だな)
西埼からただならぬものを感じたのはすずかと同様であった為、あの老人に対する警戒のレベルを上げておく事にする令示。
「あ、あのぅ、月村さんですよね?」
「え?」
「あ、はい」
と、その時、後方より声をかけられ、月村姉妹が返事をしながら振り向く。
令示と恭也もその動きにつられ背後へと目をやると、十を超える男達が、四人へと近付いて来た。
「はじめまして! 僕は東京プラチナバンク相談役、渡井の孫の──」
「私は暁エレクトロニクス社長の大田原の息子で──」
「私は──」「私は──」「私は──」
忍が西埼と話している際は、遠巻きにしてこちらを窺っていたのであろう。男達はあの老人が他所へ行ったと見るや、一気に接近し
て来て忍とすずかへ猛アピールを始めたのだ。
(どいつもこいつも眼をギラギラさせていやがるな…)
まるで目の前に人参をぶら下げられた腹ぺこロバのようだ。月村の御令嬢と懇意になりたいという魂胆が透けて見える。
(っと、感心している場合じゃないな)
突然、大勢の男達に囲まれて動揺しているすずかを、それらから遮るようにして令示は彼女の前に立った。
ふと、横へと目をやれば恭也も令示と同様に忍を庇い、男達の前に立ちはだかっていた。
「────」
「────」
そこで令示と恭也は視線が合い、どちらともなく笑みを浮かべる。どうやら、互いに考える事は同じだったようだ。
「おい、何だ君らは!? 今月村のお嬢さん達と歓談をしているんだ、邪魔をしないでくれたまえ!」
突如として自分達の前に立ちはだかった令示と恭也に対し、目障りと感じたのであろう男達の一人が、苛立ちを隠そうともせずに二
人へと食ってかかってきた。
「ああ申し訳ない、自己紹介が遅れてしまいまして。『すずかのフィアンセ』の御剣令示と申します。
今回のパーティでは『義姉』から彼女の『エスコート』を頼まれまして、こうして参加させていただいた次第です」
わざと言葉の一部を強調して喋り、厭味ったらしく聞こえるようにする。
「フィアンセだって…!?」
「馬鹿な!? 聞いてないぞ、そんな話は!!」
令示の台詞にざわめき立つ男達。
それも当然の事である。すずかに婚約者が居るなどという話は、本日この場で公開されたものなのだから。事前情報を持っていなか
った彼らが驚くのも無理もない事であった。
「まあ、そういう事ですので、過度の接近はご遠慮願います」
「な、何だと!?」
「ではこの辺で失礼します。さ、すずかに忍『義姉さん』、も恭也『義兄さん』も行きましょう」
令示は動揺する男達との会話を一方的に打ち切るとすずかの手を取り、己と同じように男達をあしらっていた恭也達に声をかけて連
れ立ち、悠然とその場を立ち去った。
「…あんな感じでよかったですかね、忍義姉さん?」
背に突き刺さる、男達の恨めしげな視線を感じながら、令示は小声で忍にそう尋ねた。
「ええ、上出来よ。これですずかや私に表立ってちょっかいをかけようとする連中も減るでしょうね」
令示の問いに、忍は悪戯が成功した悪ガキのように子供っぽい笑みを浮かべて、サムズアップをした。
「それは──」
それはよかったと、相槌を打とうとした令示は、背後から生じた不穏な気配に言葉を切り、後方へ目を向けた。
令示の目に映るは、先程すずかに声をかけて来た男達。
どいつもこいつも脂汗を浮かべ、顔から血の気が引いてい青白い表情をしている。
最初ここに来た時に見た賓客達の表情も、よくないものであったが、彼らのものはそれに輪をかけて酷くなっていた。まるで壁際に
追い詰められたネズミのようだ。
(…妙だな)
思惑が外れたのは、確かに不愉快であろう。だがそれにしてもこの世の終わりとでも言いたげな表情をしているのはどうにも腑に落
ちなかった。こういう場合、まずは「油揚げ」をかっさらった「トンビ」への憎悪が先に出る物ではないか、と。
「? どうしたの? 令示君」
やはり大勢の年上の男達に囲まれるのは、この気弱な少女には相当堪えたようだ。こちらを窺うその表情は不安げで、強張っていた。
「ああ、いや、何でもないよ」
男達の様子が気にはなったが、己の右手をぎゅっと握りしめて、上目づかいにこちらを見ながら尋ねるすずかに、令示は笑みを浮か
べてその問いに答えた。
「ほら、せっかくの華やかな席なんだから、しっかり楽しもう。大丈夫、さっきみたいな馬鹿共が来ても、俺がまた追っ払うからさ」
「う、うん…」
令示がおどけた調子で拳を突き出して見せると、安心したようで、右手を握るすずかの力が緩まった。
「あの、令示君」
「うん?」
「助けてくれて、ありがとう…」
「お、おう…」
はにかみつつも、笑みを浮かべて礼を述べるすずかに対して令示は面映ゆくなり、明後日の方向を向きながら短く答えた。
そしてその様子をニヤニヤと笑う忍に見られていた事に気が付いた頃には、令示の中から先程の男達への違和感はすっかり消え去っていた。
振る舞われる食事に口を付け、四人で談笑する事小一時間。
「……すいません、ちょっとトイレに」
ふと尿意をもよおした令示は中座して邸宅のトイレへと向かう。
広間を出る際に黒服の一人に教えてもらったルートで、長い廊下を歩き、
「─────」
辿り着いた先にあった扉を開いた令示は、声を失った。
目に映ったのは、広い間取りと明るい内装で悪臭も不浄な気配も一切存在しない、まるで銀座の高級百貨店の中にあるようなトイレであった。
「まあ、建物があれだけ豪奢でトイレがしょぼかったら、それはそれで驚きだったけどさ…」
丹念に磨き上げられた白い床石──おそらくは大理石だろう──をカツカツと鳴らし、室内へ踏み込み部屋の半ばまで進んだその時、
令示の背後でガチャリと、ドアを開く音が響いた。
何気なく後ろを振り返った令示の目に映ったのは、こちらを睨みつける二人の男。
よくよく見てみれば、二人とも先程すずかに絡んでいた男達の中に居た人物であった。
「…何か御用ですか?」
感情を表に出さず、冷めた顔で令示が二人に尋ねる。
目があった時から、彼らが用を足しに来たのではなく、自分が目的であろうという事は察していた。
そして、その視線に混じる、己へと叩きつけられる敵意が故に、決して穏やかな内容ではないという事も。
「…単刀直入に言う。月村すずかとの婚約を解消しろ」
「──は?」
ここでの揉め事は不味かろうと、感情を殺してなるべく穏便に話すつもりであった令示だが、そのあまりにも斜め上な要求に、思わ
ず初心のスタンスを忘れて目を丸くし、呆けた声を上げてしまった。
(こいつらは何を言っているんだ?)
正直なところ、すずかのフィアンセという立場の自分への嫌味や罵声、遠回しな脅迫位はあるだろうと踏んではいたのだが、よもや
ここまでストレートな要求をしてくるとは考えておらず、まさに青天の霹靂であった。
「おい! 黙ってないで何とか言えよ!!」
と、二人組の片割れが発した苛立ち混じりの言葉で、現実に戻された令示は溜息をつくと、小馬鹿にした眼差しを目前の男達へと向けた。
「あんたらアホですか? 他人にそんな事言われて「はい、そうします」って言うとでも思います?」
「…つまり、NOって事だな?」
「もういい、やっちまおうぜ!」
令示の返答に、二人は怒気を露わとして、スーツの懐に手を入れると、黒い棒状の物体を取り出し、勢い良く振り下ろす。
シャコンッ! という音ともに二人の手中の棒は、元の三倍もの長さに伸びた。ガードマンなどが所持している特殊警棒だ。
「正気かよ…こんなところで騒ぎ起こしてタダで済むと思ってるのか?」
呆れたと言わんばかりに、令示は二人へ冷めた視線を向ける。
「ふんっ、そんなものどうにでもなる! それよりも今お前を始末する方がずっと重要だ!」
言うが早いか、二人の内の距離が近い片方が特殊警棒を振り上げ、令示へ襲いかかって来た。
二人組は一見、十代後半から二〇代前半といったところだろうか。小学生である令示と比べるまでもなく、体力体格は向こうの方が上である。
まともな争いであれば、令示に勝ち目などない。──そう、まともな争いであれば、だ。
「死ねッ!」
言葉とともに大上段に振り下ろされた一撃を体を斜にして躱すと、令示は眼前へ無防備に晒された相手の左膝へ、遠慮無しに前蹴りを放った。
「ギッ!?」
靴底越しに、筋繊維の断裂と骨が砕ける感覚が令示に伝わってくる。
その感触の気持ち悪さに、内心で顔を顰めながらも令示は攻撃の手を緩める事なく、放った蹴り足を戻すと同時に床を踏み締め、片
膝を潰されバランスを崩して前のめりに倒れてくる男の顎へと、腰の入ったアッパーを叩き込んだ。
「──っ!?」
無防備に伸び切った首と、地へと倒れる男自身の体重も手伝って令示の拳の威力は倍加し、その衝撃は脳天を貫き、相手は悲鳴を上
げる事も出来ずに白目を剥いて床へ伏した。
「小沢っ!? ク、クソガキがぁぁっ!!」
仲間を倒されて激昂した残る一人が、右手に握った警棒を滅茶苦茶に振り回し、令示へと迫る。
令示は慌てずにその攻撃を見切り、少しずつ後方へ下がる事で警棒が当たらないギリギリの位置を取って、相手に空振りをさせ続ける。
「くそっ! このっ! なんで、なんで当たらねえんだよ!?」
男は一向に命中しない事に苛立ちを露わにし、怒りに任せるまま大振りに得物を振るう。
そして、男が横薙ぎに特殊警棒を一閃し、右手が大きく伸び切ったその瞬間、令示は動いた。
ほぼ水平に伸びた男の右腕へ、鉄棒にぶら下がる要領で飛びつき、体重をかける。
「う、うぉぉっ!?」
体勢も考えずに警棒を振るっていた男は、突然の加重に耐えられる筈もなく、大きくバランスが崩れる。
男の両膝が折れ、令示の両足が床についた刹那、令示は更なる一手を打つ。
掴んだままだった男の右腕を捻りながら、巻き込むように相手の背後へ回り込む。
「ぐあっ!?」
捻り上げられた腕に走る激痛に、男は短い悲鳴を漏らし、掌中の警棒を取り落とす。
令示は更に男の膝裏に前蹴りを叩き込んで、その場に跪かせた。
頭の高さが自身と同じ位になったところで、令示は素早く男の首へと己が両腕を蛇のように絡みつかせ、頸動脈をギリギリと締め上げる。
「ぐっ!? ごぉぁっ!?」
男は令示の腕を振り解こうと必死の形相で暴れる。
しかし、万力の如く締め上げてくるその腕を解く事は出来ず、むしろ無理に動こうとした事で、ますますタイムリミットを縮める結
果となり、男は令示の予想よりも早く意識を失い、倒れ伏した。
「……ふう。見様見真似だけど、どうにかなるもんだなぁ、CQC」
二人が完全に落ちた事を確認しながら、令示は呟きを漏らした。
彼がやったのは、前世の記憶になる某潜入隠密ゲームの主人公がやっていた近接格闘術の真似事である。
無論、当人の言葉通りに見様見真似である為、かの伝説の傭兵のような洗練されたものではない。
逆上した馬鹿二人の未熟な体運びと、自身の桁外れなポテンシャルに頼った力技である。
「一体どうなってんだかなぁ…」
体内のジュエルシードを全力解放して以来、どうにもおかしい。
不調という意味ではなく、むしろ逆──体調が良過ぎるのだ。
特に五感と運動能力の向上は著しい。やる気など更々無いが、陸上の世界記録の更新も容易ではないかと思える程だ。
先日のネビロスの一件で、自身の感情に振り回されそうになった時といい自分の心身に何らかの変調が起きているのでは? と考え、
その辺りをナインスターに問うてはみたが、その答えは「解答不能」であった。
ただ、ジュエルシードの力の流れ、悪魔の力の行使が以前に比べて遥かに速く、より洗練されたものになっている為、これまで無駄
に使われ消費していたエネルギーに余剰分が生まれ、それが体に回って肉体の基本性能を底上げしたのではないか? という推論が述べられた。
「このところ色々振り回されているような気がするな…」
先の事件の事も含め、己の見えないところで大きな変化が起きているように感じられる。注意しておかねば、手痛いしっぺ返しを喰
らう事になるやもしれない。令示はそう考えて気を引き締めた。
「──っと、それはそうとして、こいつらをどうにかしないとなあ」
言いながら令示は思案を打ち切り、便所の床に転がる男二人に目をやる。
「とどめを指すのは論外。かと言って放っておくのも色々不味いだろうし…」
何しろ子供相手に凶器を持って襲って来るような奴らだ。意識を取り戻した時にどんな狂言凶行に及ぶものか、わかったものではない。
「ん~~、…このプランが妥当かなぁ」
暫しの逡巡の後、考えが纏まったのか令示はおもむろにそう呟き、倒れたままの二人の襟首を掴むと、個室トイレ向かってズルズル
と引き摺っていった。
「トイレの個室から、妙な声や物音が聞こえる」
ゲストの少年からそう訴えられ、パーティーの警備を担当していた黒服の一人は、数人の同僚を伴って急ぎトイレへとやって来た。
急性アルコール中毒や、可能性は低いが食中毒のおそれ、はたまた足を滑らせ頭を打ったというアクシデントも考えられた為、ホス
ト側として、放置するという選択はなかった。
ゲスト用のトイレへと到着した一行は、使用中の個室ドアを叩き声をかける。
「お客様、お体の具合はどうでしょうか? 何かございましたか?」
「…………」
黒服の呼びかけに対して返事はなく、中で動いているような気配もない。何度か同じように声をかけるが、変化無し。
「…失礼します!」
いよいよおかしいと考えた黒服は、一声発した後にドアに幾度か体当たりを喰らわせ、鍵を無理矢理こじ開けた。
「お客様!」の声とともに、蝶番の壊れたドアを開け放って──
「ぬなっ!?」
──言葉を失った。
個室に立ち入った彼らの目に映ったのは、周囲に服を脱ぎ散らかした男二人が、抱き合いながら気を失っているという光景だったのだ。
「……御前に連絡を」
衝撃的な光景に暫し我を失っていたものの、何とか正気を取り戻した黒服は、来客の起こしたとんでもない珍事に、自分の判断レベ
ルを超えていると考え、主人にこの事態の判断を願い出る事にした。
「だから知らないって言ってるだろう!?」
「しかし、ここから妙な声や音がしたと報告が…」
男子トイレは案の定、混乱と騒動のるつぼと化していた。
黒服に起こされたのであろう、二人の男はパンツ一丁のまま何やら喚き散らして押し問答をしていた。
(想像以上の馬鹿どもだな、あいつら…)
令示も、まさかここまで上手く行くとは思っていなかった。
あの二人を半裸にしてトイレの個室に閉じ込め、それを第三者に発見させる事で、わざと騒ぎを起こす。
当然、二人を見つけた人間は、彼らが「何を」していたのかと考え、疑惑を抱き、そこで問答が起きる。
令示が自分達に暴力を振るった等という狂言を言い出す暇も与えぬ為の方策であった。
普通の人間であれば、十にも満たない子供にのされた等とは、恥ずかしくて口にする事も出来ないだろうが、その子供相手に武器を
持って襲って来たような連中だ、下手をすれば忍達にも迷惑がかかるような事案故に、遠慮無用と徹底的にやったのだが、どうやら目
前の様子を見る限り、その決断は間違いではなかったようである。
と、その時──
「だから俺達は自分でこんな格好になった訳ではなくて──」
「あっ、やべ」
周囲の人間へ強く訴えながら部屋を見回した、二人の片割れと目が合ったその刹那、
「ϹЋЙІ☨☧ϷϻНỨ☼☫ἛἌХЦЧบบษื้็♛ลลีๆ☛⣧⣧☷♉♇☙㈊ửớỹ㈛♌☕☥♆ЬЩІϵЕ㈍ㇻㆸㆦ⣜⊧⊶☚⣷⊜☥⋇⋈!!」
激昂に駆られたらしい男は、謎の宇宙生物のような理解不能意味不明な叫びを上げ、令示目がけて襲いかかって来た。
「動くなッ!」
「くっ! この、暴れるんじゃない!!」
だがその手が届く前に、周囲の黒服達が男に飛びかかってその体を押さえ込み、拘束した。
「クソガキがぁぁぁっ!! A@$yゃを4%ふじゃ!!」
四肢を抑えつけられながらも、男はなおも令示へと襲いかかろうと、奇声を上げて暴れる。
「──耳障りな声だ」
そんな喧騒の中、カツン、と、床を打つ杖の音ともに抑揚のない声が周囲に響き、場を支配した。
つい今しがたまでの大騒ぎが、水を打ったように静まり返り、その場の誰もが声を発した人物──トイレの入り口に立った西埼へと
視線を向けた。
「全く、私の主催した集まりでこのような不祥事を起こされるとは…」
西埼はゆっくりと歩みながら、抑えつけられた男の前へと進み出て、そいつともう一人、己の出現に驚いたまま呆然としている男の
顔を交互に睨む。
「一体何を考えてこのような暴挙に及んだかは知らぬが、不愉快極まりない」
「なっ…!?」
汚物に視線を向けるが如く傲然と己を見下す西埼の台詞に、抑えつけらていた男は両の眼を見開き、怒気を露わにした。
「ふっ、ふざけるなぁ!! 全部…、全部お前のせいだろうがぁっ!?」
黒服達に抑えつけながらも、男は狂ったように体を暴れさせ、西埼に向けて怒号を上げる。
「見苦しい上に耳障りだ。宴が終わるまでこやつらは倉庫のでも放り込んでおけ」
だが、それを受けても西埼の氷のような表情と口調に変わりはなく、ただ淡々と命令を下すだけだった。
配下の黒服達もまた粛々とその言葉に従い、暴れ続ける男と呆然としたままの男を拘束し、どこかへと連れて行く。
そして、その一団が視界から消えると同時に、西埼は周囲の野次馬達をゆっくりと見回し、
「さて皆々様、どうにもお見苦しいところを晒してしまいましたが、原因は排除しました故このままごゆるりと、宴をお楽しみくだされ」
つい今し方のそれとは一転し穏やかな口調と声色で、衆人達へとそう告げた。
周囲の、その言葉に対する反応は様々だった。連れていかれた男達への同情や憐憫、西埼に対する恐れや怯え等々。
(ん? これは…)
感情や思念、精神力の昂りによって増減するマグネタイトやマガツヒを糧とする悪魔の力を宿すからこそわかる、周囲の人間達から
発せられる「思い」の流れ。そこに令示は一つの違和感を覚えた。
それは、その場に残った人間達が放つ感情──憎悪。
(政財界の対人関係が友好だけで成り立つなんて毛程も思っちゃいないが、いくらなんでもこりゃおかしいだろ…)
一人二人に恨まれる程度であれば理解は出来る。しかし一人の例外もなく、ざっと見ても二〇人は居るであろう令示以外の来客者、
全員がである。
商売上恨みを買う事はあるだろうが、この場に居る全員がそうなのだろうか? だとしたら、何故そんな相手をわざわざパーティに
招くのか? 更には来客者も何故、そんな憎い相手の宴に参加するのか?
(それと、さっきのあいつの言葉、『全部お前のせいだろうが』ってのは、どういう意味だ?)
連れて行かれた男の片割れが、怒りとともに発した言葉を思い出しながら令示は考える。あのイカれた行動の原因の一端が、西埼に
あるというのだろうか?
(わからねえなあ…けど、何かヤバイ予感がする)
先程の会場での、来客者達の放っていた異様な雰囲気の件もあり、今や令示はこのパーティー自体に対して強い警戒心を抱いていた。
(とりあえずは忍さん達と話すか)
令示はトイレ前から散り始めた来客者たちに混ざって足早に会場へと戻って行った。
「うん、確かにそれは妙ね…」
会場に戻った令示が三人を集め、部屋の隅で己の体験を語り終えると、細い顎に手を添え思案していた忍が、顔を上げて同意の言葉
を口にした。
「そうね…私の方でちょっと調べてみるわ。少し気になっている事もあるし」
「気になっている事? こっちの方でも何かあったんですか?」
自分がトイレに行っている間に何かトラブルでも起きたのかと思い、令示が尋ねるが忍は首を横に振って、それを否定した。
「いや、そうじゃなくて、さっきすずかに群がって来た人達が居たでしょ? その時に少しね。 私の思い違いかもしれないから、詳
しい話は裏を取った後でね。──って訳で恭也、少し付き合ってくれない?」
「わかった」
そこで話を打ち切った忍は恭也を伴い、どこかへ向かおうと動き出す。
「二人とも、単独では動かないでね、後はなるべく人目の多いところに居る事。…まあ、令示君がいれば万が一もあり得ないと思うけ
ど、念の為ね」
最後に、「すぐ戻るから」と二人に告げると、忍は恭也とともに会場から出て行った。
忍達が居ない間、何人かの男がすずかに接触しようとしてきたが、令示が盾となって全て追い払った。
普通の相手であれば常識的に応対するのだが、来る連中はトイレでの二人組と同じような危ない雰囲気を纏う者ばかりで、明らかに
まともではなかった。
中には令示を押しのけ、無理やりすずかに話しかけようとした者まで出た為、悪魔の威圧感──手加減はした──を発して追い返した。
社交界でとるような態度ではないだろうが、度を超えた無礼な相手に礼儀を払う気など更々ない。それに手を出した訳でも罵詈雑言
を浴びせた訳でもないのだ。問題はないだろう。
──五、六人ほど追っ払ったところで、忍達は戻って来た。
「それで、忍さん達は何を調べていたんですか?」
「このパーティーの参加者名簿と、そこからわかった各企業団体を家に居るノエルに電話して調べてもらったんだけど、ビンゴだったわ」
そう言いながら忍は、目線の高さに上げたケータイの液晶を三人に見せる。
ノエルからのメールに添付されていた文章ファイルだろうか、細かい文字や数字がびっしりと書かれている。
文字数もかなりのものなのであろう。画面端のタクスバーが、芥子粒のように小さくなっている。
「隣に立って話を聞いていた俺でも、どうも何を話をしていたのかよくわからなかったのに、そんな文字を見せられても理解不能だと
思うぞ、忍」
「あ、それもそうか」
恭也の冷静な指摘にはっとした忍は、少々ばつが悪そうに頬を掻きながら「要訳するとね」という枕詞とともに、調べた出来事の詳
細を語り始めた。
「このパーティに招待されている人間は、私達を除いてみんな西埼会長に首根っこを掴まれて、逆らう事も出来ない連中なのよ」
言いながら忍は、ケータイを操作して画面のタクスバーを動かし、幾つもの企業の資産状況が箇条書きで羅列されているページを表示した。
「…銀行に圧力をかけての融資の貸し渋りや、関係取引先とのやりとりを潰した後の貸し剥がし。支払いが滞ったり手形の不渡りが出
たところで、会社を買い叩いて傘下に治める…かなり強引な手段ね。ここに居る人達はみんなそういう無理矢理な方法で、西埼グルー
プの下に置かれたのよ」
「なるほど…いい年こいた男どもが必死の形相ですずかに迫ったり、トイレで俺を脅したりしたのも「月村」と懇意になって、西埼に
頭押さえつけられている現状を、どうにかするつもりだったという訳ですか」
言いながら令示は、遠巻きにこちらを窺っている連中へ汚物に向けるような視線を送る。
「しかし、それならば「月村」がこの場に呼ばれたのは何故だ? 忍の話通りならばこのパーティは西埼グループの、言ってみれば
「身内」の集まりだろう? 外様の忍達が来る事に何の意味がある?」
「そうなのよね…「身内」の醜聞を外に漏らす事になりかねないリスクを考えれば、プラスなんて何一つない。むしろマイナスにしか
ならないわ。善悪はともかく、経営者としては一流の西埼会長がそんな愚を犯すとは思えないんだけど…」
恭也の口にした疑問に、忍は細い顎に手を当て思案する。
「「身内」と言えばもう一つ気になる事があるの。この会場に西埼会長の血族──家族や親類縁者が誰一人として居ないのよ。グルー
プ企業の中で高い地位についている人達なのにね。これも妙だわ」
疑問は増えるばかりで肝心の答えは見えず。忍と恭也は渋面のまま唸りを漏らすのみであった。
「あー、何はともあれここから出ませんか? 残っていても碌な事にならないと思うんですよね…」
「うん、私も令示君に賛成。ここの人達も、さっきの会長さんもなんか嫌な感じがするし…」
令示の提案に、すずかはすぐに賛成の意を表した。
「すずかがここまでハッキリ人に対して嫌悪を示すなんて珍しいわね。まあ、私もあの人は好きじゃないけど…そうね、二人の言う通
りにするのが現状では最良の選択かしら」
「最悪、さっきの騒ぎで気分を害したとか、俺かすずかが体調を悪くしたとか言えば、相手も無理に引きとめられないでしょうし」
「それで行きましょう。恭也もいい?」
「ああ、反対する理由はない」
全員の意見が一致し行動に移そうとしたその時──
「さて、お集まりの皆々様。楽しんでおられるかな?」
前方のステージに上った西埼の声が、場内のスピーカーから響き渡った。
「この辺で我々が用意した余興をお見せしよう。会場中央の床を注目していただきたい」
西埼の言葉に従い、会場の人間の目が指定された場所へと集まると、床の一部がスライドして穴が開く。
「さあご覧あれ。これが私の今一番の宝です」
穴の底から機械の駆動音──恐らくはエレベーターのものであろう──が響き、賓客達の前に西埼の「宝」が顕現した。
「何だあれは…?」
「金、か?」
現れた物を目にした客らがざわめき立つ。
シャンデリアの光に照らされたソレは、直径一メートル、厚さ一〇センチはあろうかという巨大な黄金のインゴットであった。
しかもただの金塊ではない。その表面には様々な図形や文字の、緻密な紋様が施されている。
令示達の位置ではその全体像は把握できないものの、只の成金趣味の代物とは一線を画す、手間暇をかけ丁寧に作られた物である事が窺えた。
「さて。これは見ての通り、純金のインゴットですが、無論只のそれではありません」
衆目が集まったところで、西埼が説明を始めるべく口を開く。その口端を吊り上げ、皮肉気な笑みを浮かべながら。
「コレは、皆様の会社の資産を切り売りした際に生じた金を使って作ったものなのです」
『────』
その言の刹那、会場内に訪れる静寂。
その場にいる誰もが発せられた言葉の意味を飲み込めず、唖然とした表情のまま固まっていた。
「まあ二束三文の端金でしたが、ゴミのような経営で無駄に消費されるよりも、遥かに有意義な使い方というものでしょう」
「ふっ、ふざけるな!!」
喉を鳴らし、さも愉快そうに笑う西埼に対して我に返った客の一人が、目を剥いて怒号を上げた。
「私の会社をこんなガラクタに変えたというのか!? 話が違うじゃないか!! 西埼の傘下に入れば負債を補填して、会社も立場も
守るというから、私は全てを差し出して取引したんだぞ!?」
「そ、そうだ、こんなのは契約違反だ!!」
「訴えるぞ!?」
最初に抗議の声を発した客の怒りが伝播し、次々と他の客達も再起へと憤りをぶつけ始める。
だが、当の西埼本人はそんな怒声の中にあっても、未だ余裕の笑みを崩す事なく豚の群れを見下すが如き傲然とした視線を客達へと
向けていた。
「契約違反とは心外だな、諸君らの会社はちゃんと残っているよ…書類上は、ね」
「──は?」
礼を取り払った西埼の言葉とその態度に、再び訪れる困惑の沈黙。
「所謂ペーパーカンパニーという奴だ。登記上の名義は残っているし、取締役社長として諸君らの名前をそのまま使っている。どこに
も契約違反など存在していないだろう?」
「────」
嘲りを含む弾んだ声に、客達は言葉を失い呆然とする。
「──フザケルナ」
「──コロシテヤル」
「──ニクイ」
「──モウオワリダ」
「──ナンデコンナメニ」
憤怒、殺意、怨嗟、絶望、悲観。
西埼へと向けられる客達の目には、多種多様な負の情念で彩られた妖しい輝きが充ち満ちていく。
「──あれ? 何アレ?」
と、その時。唖然とした様子で事の次第を見つめていた忍が、客達の頭上を見上げ怪訝そうに呟きを洩らした。
他の三人がその声に釣られて視線を向けると、客達の上空に無数のピンポン玉サイズの淡緑の光球が、蛍のようにユラユラと宙をた
ゆたっている光景が、目に飛び込んで来た。
「ホントだ。なんだろ、アレ?」
「妙な代物だな、御剣君……御剣君?」
反応が無い事を不思議に思ったのであろう、恭也が令示の方へと目を向ける。
「まさか、アレは……マグネタイト!?」
令示は硬い表情で、上空で次々と数を増していく淡緑の光を睨みつけていた。
「御剣君、アレが何なのかわかるのか?」
「恭也さん、すぐに逃げて下さい、このままじゃマズイことになる!!」
恭也の問いかけにYESともNOとも答えず、令示は必死な様子でそう訴える。
だが──
「ふははははははははははははははははははははははははははははははは!! 感じる…感じるぞお前達の恨みの念を…!
踏みつけられ、地虫の如く這いつくばるしか能がないゴミ共でも、役に立つではないか!! さあ、もっと憎め! 呪え!! それ
がこの儂の力になる!!」
広い会場に響き渡る狂笑。
西埼が天に向かって両手を突き上げると、それに呼応するように中空にたゆたうマグネタイトが、一斉に場内の一点──会場の中心
に鎮座する黄金の塊へと向かって収束していく。
マグネタイトを吸い込んだ金塊が激しく明滅し、周囲へ強烈な光を撒き散らす。
「おお…、おお……! お゛お゛お゛お゛お゛!!」
突然の異変と怪異に、来客者達が戸惑いざわめく中、西埼はカッと目を見開き、空へと向かって咆哮を上げた。
「アレは…」
令示は悪魔の視力でソレを捉えた。西埼の左手薬指に、会場中央にある金塊と同じく、妖しげに輝く黄金で作られた指輪があるのを。
「お゛お゛お゛お゛ご ご ご ご ご が あ゛あ゛あ゛あ゛! !」
直後、西埼の叫びがより一層激しさを増し──
ドクン……!
その瞬間、世界が揺れた。
否、シフトした? 吸い込まれた? とでも表現するべきか。
巨獣の胎動の如き大気震わす振動が、等間隔で喧しく鳴り響き、同時に周囲の空気も気配も、慨知のそれとはかけ離れた物へとすり
替わり、この屋敷全体が現世在らざる領域へと変貌を遂げる。
──即ち、異界へと。
「おい、何だこれは…?」
「なんか変だぞ!?」
来客者達が辺りを見回し、口々に騒ぎ始めた。会場自体には何の変化もないが、周囲より生じる異質さを本能的に察したのであろう。
「あの爺さん、魅入られたな…」
令示の漏らした苦々しい呟きは正鵠を射た、疑いようのない事実であった。
マグネタイトの概念どころか存在すら知る由のないこの世界の人間が、それを集め、利用する技術を用いるなどあり得る筈がない。
もし可能性があるとすれば、それを知る何者かに吹きまれた以外に考えられない。つまり、悪魔にである。
「力だ…! 力が漲ってくるぞ!!」
明滅する西埼の指輪から葉脈の如き筋が生まれ、その指先を覆っていく。
それは、この老人を浸食するかのように凄まじいスピードで全身へと伸び、淡緑の輝きを放つ。
おそらく、会場中央の金塊と西埼の指輪には魔術的なラインが存在するのであろう。来客者達から吸収したマグネタイトを、そのま
ま彼へと流し込んでいるのだ。
そしてその急激なマグネタイトの摂取は、西埼の全身に常軌を逸した変異をもたらす。
まず、西埼の皮と骨ばかりの矮躯は、凄まじく巨大化を遂げた。
その大きさは優に十メートルを超え、枯れ木のように節くれだった手足は丸太のように膨れ上がり、臀部からは大蛇のような長い尾
が突き出て、風切り音とともに大きく横一閃に振るわれ、轟音と衝撃を伴ってステージの一部を粉々に破砕した。
土色の肌は鋼の如き硬質な黒へと変じ、それとは対照的に胴体、四肢の両脇には白いラインが走り、胸部中央から背後にかけて退化
した骨のような翼が生まれ、その左胸にはハートのエンブレムが刻まれた。
「ヴォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
鬼貌を模したフルフェイスの西洋兜の如き容相へと化した頭部が、天を見上げて巨大な口腔を開き、自らの誕生を宣言するかのよう
に咆哮を上げ、大気を振るわせる。
「ヒィィッ…!」
「う、あ…」
マグネタイトを奪われた上に、その巨躯より発せられる、人を遥かに超える生命体の圧倒的な覇気をまともに浴びた来客者達は、次
々とその場にへたり込み、気を失っていく。西埼配下の黒服達も同様だ。
「コイツは…!?」
令示には、西埼の変わり果てたその姿に見覚えがあった。
「令示君、アレが何かわかるの!?」
「邪龍ファフニール…北欧神話で、英雄ジークフリートによって倒される巨大な竜です」
油断無く相手を睨みつけながら、令示は忍の問いに答えを返した。
「──っ! そうか…! このパーティも、一連の動きも、北欧神話の伝説を模した再現儀式だったんだ!」
北欧神話において、旅をしている最中のロキ、オーディン、ヘーニルの三神は、河でカワウソに変身していたフレイズマルの息子、
オッテルをそうとは知らずに殺してしまう。
その日の宿を求め、フレイズマルの屋敷を訪れた三神は彼の残る二人の息子、ファフニールとレギンに捕えられ、オッテルを殺した
賠償金を請求される。
三神は、オッテルの皮の内側と外側を埋め尽くす黄金を払うことで合意し、オーディンとヘーニルが支払いが済むまでの人質となっ
て残り、賠償金の調達に向かったロキは、ドワーフのアンドヴァリから「黄金を生み出す指輪」を盗み取った。
その所業に激怒したアンドヴァリは、指輪の持ち主に永遠の不幸をもたらす呪いをかけたのである。
結果、指輪を手にしたフレイズマルは、黄金の魅力にとり憑かれたファフニールによって殺害された。
更にファフニールは手にした黄金を弟のレギンと分けることを嫌い、逃走。
指輪の呪いで邪龍の姿へと転じてなお、強欲に黄金を守り続けていたが、最後は英雄ジークフリートによって倒された。
これが「ラインの黄金」の伝説とその顛末だ。
「つまり西埼は己をファフニールに、騙した来客者達をアンドヴァリに、そして彼らが発した恨みの情念と、そこから生まれたマグネ
タイトという悪魔の欲する生体エネルギーを、指輪の呪いに見立てたんでしょう…。伝説を再現し、同時に集めたマグネタイトを吸収
して竜へと化す。このパーティーは、最初から西埼が悪魔になる為に画策したものだったという事です」
「クハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!! その通りだ小僧! 儂は脆弱な人の身を捨て、力の象徴たる竜になった!」
令示の説明に西埼──ファフニールが壇上より高笑いを上げ、その言を肯定した。
「正気なの!? こんな衆人環視の中で怪物に変わるなんて…! 地位や財産どころじゃない、自分の全てを失うわよ!?」
誇るような態度のファフニールに、忍は信じられないとばかりに目を見開く。
「はっ! 笑わせるな。地位も財産も血族も! 全ては儂の道具──只の手段に過ぎぬ!」
対するファフニールは忍の言葉を一笑に付した。
「血族って…、まさか、このパーティーに貴方以外に西埼家の人間が居なかったのは…」
「この身を得る「苗床」にしたのだ。光栄であろうよ、儂の望みの為にその命を捧げる事が出来たのだからな」
「この会場の人間だけじゃ、ファフニールなんて高位悪魔に変身するにはマグネタイトが少な過ぎると思ったが…こいつ、自分の親類
縁者のものを、根こそぎ絞り取ったな…!」
「なんて事を…!」
西埼グループは親類縁者を含めれば相当な数の筈である。この男はその全てを、笑いながら自身の為に「使った」と、そう言い切ったのだ。
まるで路傍の石を投げ捨てるかのように、身内を切り捨てるファフニールの言動。その人間性を放棄した化生の思考の一端に触れ、
忍は吐き気に近い嫌悪感を覚える。
「そこまでして、一体お前は何を求めている」
忍を庇うように前に立った恭也が問いかける。
「──夜の一族」
『っ!?』
笑いを止めて口にしたその一言に、令示達は驚き目を見開く。
「ずっと求めていた…半世紀以上待ち望んでいたのだ、この機会を!!」
「何故忍達の事を知っている! 待ち望んでいたとはどういう事だ!!」
「──アルカード、やれ」
オウム返しに問いかける恭也に答える事なく、ファフニールは天を見上げ、静かに令を発した。
「ギギッ、承知したぞ、契約者」
刹那、耳障りな鳴き声とともに、ファフニールの呼び声に令示達の背後より応じる返事が響き、空を切って何かが躍りかかって来た。
「っ!? キャアァァァッ!!」
「すずか!!」
会場内にこだます、絹を裂くようなすずかの悲鳴と忍の叫び。
令示も恭也も、正面のファフニールに気を取られ、ソレに対する反応が遅れた。
疾風の如く飛翔した黒い影はすずかを浚い、天井に近い高所へと飛び上がったのだ。
「あれは、蝙蝠…!?」
シャンデリアの光に照らされあらわになった相手の姿を捉えた、恭也が呟きを漏らす。
巨大な青鈍色の両翼に、スカルキャップを彷彿とする頭部と深く窪んだ眼窩、そして、耳まで裂けた口から覗く鋭い犬歯。
恭也の言う通り、なるほどその姿は蝙蝠だ。しかし驚くべきは、異形もさる事ながらその大きさ。
成人男子に等しい体躯を持つソレは、鎌のような鋭い鉤爪の生えた両足で、しっかりとすずかを抱えたまま悠々と宙を飛び、ファフ
ニールの側へと滑るように移動していく。
「吸血鬼アルカード…! そうか、西埼に入れ知恵したのはあいつか…!」
中空に浮かぶ蝙蝠──悪魔アルカードを睨みつけ、令示が呻くように呟きを洩らす。
「吸血鬼ですって!?」
「ええ、だけどあれは伝説そのものの存在です。人の生血を啜り、眷族を増やし、吸血鬼伝説を体現する、本物の『不死の王』」
──吸血鬼アルカード。
かの「串刺し公」、ヴラド・ツェペシュが魔術によって召喚し、使役した悪魔である。
「いや、放して!」
「ギギッ、暴れても無駄だ小娘。その程度の力で俺の拘束は振り解けんぞ」
アルカードから逃れようと、もがくすずかであったが、彼女を掴む両足は、人の手のように器用でありながら万力のような力でしっ
かりとその身を捕まえており、その願いは叶わない。
「それにしても美味そうなガキだ。そう言えば、久しく極上の処女の血を喰ろうておらんな」
アルカードが眼下のすずかをねめつける。
その顔はまるで、獲物を捉えた肉食獣のようであった。双眸をらんらんと輝かせ、口腔から覗く林立する牙の間を、赤く長い舌が別
の生物のようにうねり、這い回っていた。
「ひっ」
そのあまりにも醜悪な凶貌に、すずかは恐怖に青ざめ、言葉を失う。
「──やめよアルカード。手を出す事はまかりならんぞ?」
その時、壇上のファフニールがアルカードを制止した。心なしかその言には、苛立ちを孕んでいるようであった。
「貴様には儂の血縁、配下をくれてやった筈。早くすずかを儂に差し出せ」
「ギギギッ、あんな連中、この儀式の為にマグネタイトを絞り切った残りカスばかりじゃねえか。旨味の欠片もありゃしねえ…」
傲然と言い切るファフニールに、アルカードは不満げにぼやきを漏らしつつ、開かれたその右掌へ落とすようにして、すずかを渡した。
「クククク…カカカカカカカッ! ついに…ついに手に入れたぞ夜の一族の乙女を!」
「…………」
文字通り、己が掌中に入った怯えて声も出せないすずかを見下ろし、ファフニールは抑えきれぬ喜悦を滲ませ、笑いを上げた。
「ああ…やはり美しい。行住坐臥その全てに、凡俗とはかけ離れた気品がある。それでこそ、我が花嫁に相応しいというものよ…!」
「花嫁!?」
想定外の台詞に、目を剥き驚きの声を上げる令示に、ファフニールは満足げに頷きを返した。
「先の大戦の終焉の時、上海租界からありったけの財産を持ち出して日本へ引き揚げる最中、儂は満州で見たのだ。純白の雪原で、舞
うように襲い来る馬賊どもを悉く叩き伏せ、舞い散る血煙の中に佇む、赤眼黒髪の乙女を!
美しかった…。もの言わぬ骸と化した馬賊どもを見下ろすあの冷徹な目、常人を超越した絶対者の風格。どれ程の財貨を積み上げよ
うと値する事のない究極の美がそこにあったのだ。
…だからこそ、欲した、求めた、探した! 日本へと戻りあらゆる伝手を辿り、金をはたき、あの乙女の正体を、素性を探った…そ
して、ようやく行き着いたのだ、夜の一族という存在に」
語りながら下卑た笑いを漏らし、ファフニールは掌中のすずかへ絡みつくような視線を向ける。
「ずっと待ち望んでいたぞこの時を…! 夜の一族の乙女を組み敷き、破瓜の血で褥を朱に染めるこの時を!」
「い、いやぁ…!」
すずかが尻もちをついたまま後ずさろうとするが、ファフニールの手の縁から落ちそうになり、それは以上は離れられなかった。
「くっ、この! すずかを離しなさい!」
「貴様、やめろ!」
「ギギッ、大人しくしてろ」
捕らわれたすずかの身を案じ、忍がファフニールへ怒声を浴びせ、恭也が跳びかかろうとする。しかし、そこに立ちはだかるのは吸
血鬼アルカード。更にはその言動に応じるように、倒れていた黒服達がフラフラと覚束ない足取りで立ち上がり、三人を取り囲んだ。
「こいつら…邪魔するつもりか…?」
周囲を油断無く睨みながら、恭也は両手の袖口から隠していた二振りの短刀を取り出し、構える。
忍のアイディアで持ち込んだ、金属探知機にも引っかからないセラミック製の短刀だ。普段使っている小太刀に比べて小振りになる
が、隠して持ち込むには最適な暗器であった。──もっとも、便所の騒動で持ち込まれた特殊警棒の件を鑑みるに、持ち込みに関する
警備はザルだったようだが。
「──ふっ!」
鋭い呼気とともに恭也が駆け出す。
一足で数メートルの間合いを踏破し、黒服達へ返した刃の峰で首筋を打ち、柄頭で水月、米神を突き穿ち、次々と剣打を叩き込んだ。
だが──
「っ!? 効いていない!?」
殺しはせずとも、気を失わせるつもりで剣を叩きつけたのにも拘らず、黒服達は僅かに怯み、体勢を崩しただけで、すぐさま立ち上
がると、そのまま包囲の輪の維持に戻ってしまった。
「馬鹿な…手加減はしたとは言え本気で打ったんだぞ…!?」
いかに身辺警護の為に訓練された人間とは言え、鍛えようの無い人体の弱点を狙ったと言うのに、平然とする黒服達の様子に、忍の
前へと戻って彼女を庇う恭也は、驚きと戸惑いの言葉を漏らした。
「恭也さん…こいつら、もう死んでます…アルカードに血を吸われて屍鬼にされたんだ。だから、多少の攻撃じゃ全くダメージがありませんよ!」
「死んでるですって…!?」
令示の言葉に忍が目を凝らせば、確かに黒服達の視線は定まっておらずに白濁としており、顔は血の気が無く蒼白となっていて、そ
の首筋には噛みつかれた歯型に穴が穿かれ、吸い残した血液が滴っていた。
おそらくは令示達がファフニールの誕生に気を奪われていた時に、アルカードが眷族化したのであろう。
「なんて事を…!」
忍の憎悪すらこもった視線を受けても、当の邪龍は彼女を一瞥し、つまらなそうに溜息を吐く。
「忍よ…お前も儂の伴侶とするつもりであったが、男の手垢が付いたのでは最早価値はない。そこですずかの嫁入りを眺めておるがいい」
言いながらファフニールはすずかを弄ぶつもりなのか、左手の人差し指を彼女の体へと伸ばしていく。
「っ!? すずかっ! やめて!」
「クソッ! させるか!」
すずかの危機に対し、ファフニールに詰め寄ろうとする忍と恭也であったが、アルカードが率いる屍鬼の群れが壁となり、その行く手を遮る。
「邪魔をするな!」
怒りを滲ませる恭也の台詞にも、アルカードは余裕の態度を見せ、耳障りな声で嗤う。
「グギギ…そっちの男は多少は腕に覚えがあるようだな。そこのガキも随分と悪魔に詳しいようだ。屍鬼程度なら殺せるだろうが、無
駄な事だ。ギギッ! 何しろ俺は──」
「「孤陋の妖闘人」と謳われた、十三代目葛葉ライドウでも、殺す事が出来なかった不死の怪物…とでも言いたいのか? アルカード」
「ギギィッ? 小僧、貴様何故それを知っている?」
令示の台詞に、アルカードは怪訝そうに目を瞬かせ、首を傾げる。
多くの伝説を残す吸血鬼と、比較的名の知れているファフニールの事を既知であるのは不思議ではない。が、世界の裏から悪魔を討
つクズノハのサマナ―について知っているのは世の中のごく一握り。しかもこことは異なる異世界の、という枕詞が付く。
だからおかしいのだろう。忍と恭也の間を通り、アルカードの前に出た少年──令示が、その「知りえる筈のない情報を」知っているのを。
「ギギギッ!? 小僧貴様一体──」
「何者だ」とでも言おうとしたのだろうか。だがその台詞は、令示の足元より立ち昇った赤光によって遮られた。
「なっ!? マガツヒだとぉっ!?」
アルカードが令示の体を包み込んでいくソレの正体に気付き、驚愕の叫びを上げたその刹那──幾条もの銀光が走った。
「グアァァァァァァァァッ!!」
次の瞬間、両翼を断ち切られたアルカードが浮力を失って、絶叫とともに地に落ちた。
同時に、十数人居た屍鬼達全てがその首を落され、噴き出す血煙で周囲が朱に染まる。
「獲物を前に高説とは暢気なものだな。カルナバルの幕は既に開いているのだぞ?」
咲き誇る鮮血の花の中心に、呆れ混じりの言葉とともに現れたるは、優雅に身を躍らせ曲刀エスパーダに付着した血液を振り払い、
濃緑金飾の闘衣に身を包んだ髑髏の剣士──魔人、マタドール。
「その姿、悪魔だと!? 貴様何者だ!?」
「マタドールさん!」
突如として己が領域に入り込んできた異物に、ファフニールが驚き誰何の叫びを、すずかは歓喜の声を上げた。
「────」
しかし、マタドールはそれに答えず、無言のまま地を蹴り駆け出す。一路、己の正面に立つファフニールと、彼に囚われたすずかの下へと。
右手に握られたカポーテが、吹流しのように後方へとたなびいた。
「おのれ、すずかを奪うつもりか!?」
マタドールの行動で、その意図を察したファフニールは怒りをあらわにし、左手を振り上げると、
「すずかは儂の物じゃ、誰にも渡さぬぞ!!」
気炎を上げ目前にまで迫った魔人目がけて、そのまま振り下ろす。
「マタドールさん、危ない!」
すずかの悲鳴を引き裂いて邪龍の剛腕が空を切り、舞台を叩き壊して床へと激突した。
手加減抜きの悪魔の膂力は床をも粉砕し、その衝撃は周囲の柱壁や大気を震わせる。しかし、
「消えた!?」
持ち上げた左手の下に、マタドールの姿は無かった。
「──風に舞え。赤のカポーテ!」
そこに発せられる、上空からの声。
ファフニールとすずかが天を見上げれば、上空で赤のカポーテを発動させ、紅布で螺旋を描くマタドールが、重力に身を任せ邪龍目
がけて一直線に落ちて来るところであった。
初撃を躱され、焦っていたファフニールは己に向かって落下してくる魔人を見て、失笑した。
「馬鹿め! 空中では身動きが取れまい、今度こそ粉微塵に粉砕してくれるわ!」
ファフニールは、しなやかにくゆらせる竜尾をもたげる。
先刻壇上の一部を打ち砕いたソレには、鉄塊の如き硬度と質量が秘められている。
身動きが取れない空中でそんなものが直撃すれば、例えマタドールと言えども只では済まない。ファフニールの言う通り、鎧袖一触
でバラバラにされてしまうだろう。
「死ねぃ!!」
「駄目!」
嘲笑とともに振り抜かれる尻尾から目を背け、すずかが短い悲鳴を漏らす。
だが──
「──マハザン」
悪魔をも砕くであろう竜の尾は、虚しく空を切ったのみであった。
尾撃が届く寸前に発動した衝撃魔法によって空中に足場を得たマタドールは、三次元的な縦横無尽の跳躍を行い、ファフニールの一
撃を難無く躱してみせたのだ。
「な──」
己の攻撃に絶対の自信があったのであろう。ファフニールは、尾撃が躱された事に対し、二撃目を取るでも回避行動を取るでもなく、
只呆けたままマタドールの動きを見つめていた。
「所詮は素人か。悪魔同士の戦いにおける覚悟と心構えがなっていない」
そしてそんな隙を逃す程、魔人の剣士は甘くない。ましてや、相手が己の友人の純潔を汚そうとした下衆であるならば尚更だ。
上空より壇上のファフニールを俯瞰的に捉えていたマタドールは、感情のこもらぬ声で呟きを洩らしながら、足場の衝撃魔法を強く
蹴りつけ、眼下の相手目がけて一気に跳ぶ。
跳躍と重力加速をエスパーダに乗せ、未だ呆けたままの邪龍の顔面へとその切っ先を突き立てた!
「ムウッ!?」
「ふむ、剣の徹りが甘い。やはり物理耐性持ちか」
ファフニールの鼻先に降り立ち、一、二センチほどの深さで突き刺さった足元の剣先を眺めながら、首を傾げてどこな暢気な口調で
呟きを洩らすマタドール。
僅かながらも走る痛みに苛立たしげな声を上げ、体を揺らすファフニールの上にありながら、まるで平地に立っているかの如く安定
した体勢のまま泰然自若としており、その姿は暴れ馬を御するカウボーイのようであった。
「鬱陶しいぞ小僧ぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
そしてそんな言動が、邪龍の癇に障ったらしい。
ファフニールは怒声とともに蠅を払うように右手を振るい、鼻先のマタドールを叩き落とそうとする。
が、そんな緩慢な動きで魔人を捉えられる筈もなく、マタドールはトンボを切って後方へ跳び、難なく己への攻撃を躱してみせた。
「やれやれ、たかがかすり傷と軽い挑発であろうに。その程度で激昂するとは…」
床に降り立ったマタドールは肩を竦め、呆れ混じりの溜息を洩らす。
「まあ、こちらとしてはその程度の愚物で大いに助かったがな…」
言いながらマタドールは右手のカポーテへと目をやる。
そこには、赤布に包まれ守られたすずかの姿があった。
「なっ!? 貴様、いつの間に!!」
ファフニールはそこでようやく己の手中にあった少女が、消失していたことに気が付いた。
「悪魔の力を手にしてのぼせ上がった小者を出し抜くなど、造作もない」
慌てるファフニールへ抑揚のない声で答えながら、マタドールは腕の一振りですずかを包んでいたカポーテを解き、彼女を解放した。
「さあすずかよ、早く忍嬢のところへ」
「え? あ、うん。ありがとうマタドールさん」
床に降ろされたすずかは、いきなり窮地を脱したことに思考が追い付かないのか、どこかぼんやりとした様子でマタドールへ返事をする。
「すずかっ! 大丈夫!?」
「お姉ちゃん…うん、うん…!」
しかし、慌てた様子で駆けつけた忍に抱き締められ、ようやく助かったという実感が湧いたのか、何度も頷きながら体を震わせ姉の
体にしがみついた。
「おのれぇ…おのれおのれおのれおのれ!! すずかを返せ、それは儂のものだぞぉっ!!」
ファフニールが激昂し、雄叫びとともに壇上を飛び降り、一直線にすずかの下を目がけ駆け出す。
「っ!? 忍、すずかちゃん、こっちだ!」
恭也が迫り来る邪龍に先んじて二人の元へと駆けつけると、ファフニールから逃げようと彼女達の手を引いて出口へと駆け出す。
「逃さぬっ!!」
巨大な竜と人間の逃げ足。どう足掻いても逃れようのない絶望的なまでの身体能力の差。
床を踏み鳴らし、三人の背へとファフニールの魔手が迫り──
空中より飛来した銀光の閃きが、恭也達を捕えんとした邪龍の掌へと叩き込まれ、その狙いが逸らされた。
「見苦しいぞ匹夫。人面獣心の上に女性を物扱いとは…救いようない愚か者だ」
宙を跳び、上空よりファフニールの邪魔を行い、三人を守るように降り立ったのは、エスパーダを水平に構える魔人の剣士。
「邪魔立てするな糞ガキがぁぁぁぁっ!! アルカード、いつまで寝ている!! 早く起きてこいつを始末しろ!」
再び妨害をされた事に更なる怒りを滾らせたファフニールは、未だ自身の援護に来ないアルカードへ憤りのままに言葉をぶつける。
「ギギッ…無茶を言うな。残りっカスみたいなマグネタイトだけで、力が出る訳がねえだろうが…」
反論するアルカードの体は不死の二つ名に偽る事なく、再生を始めていた。しかしそのスピードはお世辞にも速いとは言えず、戦闘
復帰など望める筈もない。
「ええい、どいつもこいつも! 儂の足を引っ張りよって…」
苛立ちに身を任せ、ファフニールがマタドールを睨みつけながら、両腕を持ち上げ身構える。
「もういい、儂の手で貴様を叩き殺し、死骸の上ですずかを犯してくれるわ!」
咆哮とともに、邪龍が魔人目がけて双碗を振り下ろした。
「その不快な口を閉じろ。下劣な蜥蜴風情が麗しい少女を娶ろう等とは、思い上がりも甚だしい」
両腕の一撃が、テーブルやその上に載っていた料理や装飾品ごとホールの床を打ち砕き、その衝撃で破片が宙に舞う。
だが、マタドールはその一撃を難なく躱し、それと同時に床へとめり込んだままのファフニールの腕に飛び乗りると、そのまま
一気呵成に駆け上がる。
マタドールの進撃とともにエスパーダが縦横に走り、幾条もの銀線がファフニールを襲撃する。
しかし、物理耐性の壁は厚い。剣を通じてマタドールの手へと伝わる感覚は、まるで鉄塊を叩くような衝撃。
効いていないという事は無いであろうが、ファフニールからしてみれば、子猫に噛まれた程度のダメージといったところであろう。
だが、マタドールはその感覚を特に気にする事も無く、そのままエスパーダを振るってファフニールの五体を斬り続ける。
「こそばゆいぞ小僧! カトンボの真似事か!?」
大した効果もないというのに、自らの体の上で剣を振るうマタドールの姿がおかしかったのであろう、嘲りの言葉を向けながら、
ファフニールは小うるさそうに両腕を振るって、自分にたかる相手を振り払おうとする。
が──
「むうっ!? このっ!!」
手を向けようと体を振るおうと、マタドールはその間隙をするりと縫って躱し、揺れる足場も難なく踏破してみせる。
同時に、向かってきた両手へキッチリ斬撃をお返しして。
「鬱陶しい! いい加減離れぬか!」
苛立つファフニールが怒声を上げた。
伝説の竜が、身の丈の半分にも満たない相手にいいように弄ばれているその姿は、まるでカートゥーン・アニメのようで、酷く滑稽
であった。何も知らない第三者であれば、気楽に笑い飛ばしていたであろう。
しかし、当の本人や関係する者たちから見れば、それは命を天秤に載せたデスゲームだ。笑いなど無い。
その中でも、すずかは沈痛な表情のまま、祈るように胸の前で両手を合わせ、事の推移を見守っていた。
「がぁぁぁっ! これでどうだ!!」
数分ほど変化のなかった小競り合いは、その停滞に耐えられなかったファフニールの激昂で変化を迎えた。
両手で捕まえられぬ事で、怒りの臨界に達したファフニールはいきなり駆け出し、ホールの壁へと己が五体を衝突させたのだ。
瞬間、壁が粉砕されてその衝撃が会場全体に伝播し、ビリビリと大気を揺らした。
「…なるほど、桁外れの耐久性を活かして、五体全ての、どの箇所に居ても逃れられない攻撃を行う事で私を引き剥がすか。頭に血が
上っていたようで、中々に機転が効く」
いち早く、ファフニールの策を読んだマタドールは壁へ衝突する前にその身から飛び降り、攻撃を逃れたのだ。
「ふん…もう同じ手は喰わんぞ」
ガラガラと崩れる壁の穴から顔を覗かせ、ファフニールがマタドールを睨みつけながらそう言った。
「ふむ、そうだな…蜥蜴風情といったのは訂正せねばならぬな」
マタドールはゆっくりと会場を歩きながら言葉を漏らす。
「女性一人…それも年端もいかぬ少女を手籠めにする為にそこまで激昂し、必死になる姿は、下衆や滑稽を通り越して、最早哀れだ」
「なっ──」
マタドールの言に、ファフニールは言葉を失った。
「うん? 聞こえなかったか? 貴様を蜥蜴に例えるのは蜥蜴に対し、あまりに失礼というものだと言ったのだ」
歩みを止めたマタドールは、ファフニールに向き直し改めてそう宣言する。
「こっ…小僧ォォォォォォッ!!」
脆弱なる人の身を捨て、悪魔へと変じて超越種へと至ったファフニールにとって、それは許しがたい侮辱であったのだろう。
今まで以上の怒りに身を任せ、一直線にマタドールへと突進してくる。
「¡Vamos! venir!」
対するマタドールは水平にした右手を大きく揺らし、カポーテを振るう。まるでファフニールを誘うかのように。
それは正しく闘牛士。しかし、相手は牛などという生易しい相手ではない。
「ゴアァァァァァァァッ!!」
その姿にますますいきり立った邪龍は更にスピードを上げ、マタドールへと迫る。が、
「これで王手、そして──」
直前で呟きとともにその身を翻し、ファフニールの突進を紙一重で躱し、
そして次の瞬間、大量のガラスの破砕音と液体の飛沫音が会場内に鳴り響いた。
数拍置いて鼻を突く刺激的な香りが周囲に漂い始める。
ゆるりと優雅に振り返ったマタドールの視界に映ったのは、大量の酒瓶と酒樽の山に突っ込んだファフニールの姿。
ここは賓客たちに酒を振る舞う為に、会場内に作られたバーカウンターだ。
古今東西、多様な酒が揃えられていたであろうその場所は、最早見る影もなくなっていた。
その一本一本が、一般人の年収並はするであろう酒の残骸と、大したダメージも無く悠然と立ち上がろうとするファフニールを見下
ろし、マタドールは左手に構えたエスパーダの切っ先を、相手に向けたまま弓矢のように引き絞る。
「血のアンダルシア!!」
叫びと同時に放たれる、速射砲の如き突きの連撃。
「ぬうっ!?」
立ち上がろうとしていたファフニールはその音速の連撃を浴びる。
しかし──
「貴様の攻撃なぞ効かぬと言っておろうが、このたわけがぁぁぁぁっ!! これで終わらせてくれる!!」
咆哮とともに振り向き、自身へと懲りずに攻撃を仕掛ける魔人へとどめを刺さんと、繰り出される刺突に構う事なくマタドールへと迫る。
「そう。これで詰みだ」
だが、マタドールはそんなファフニールの言動にも慌てることなく、抑揚のない声で答えながら、更に鋭さと速度を増した連撃を、
邪龍へと叩き込む。
放たれた刃の群れが先程以上に激しく、次々とファフニールの表面へと命中し、甲高い金属音とともに幾つもの火花を撒き散らした
その刹那──
突如として火花の一つが、巨大な炎へと変化し、ファフニールの巨体を瞬時に包み込んだ!
「グゥアアアアアアアアアアアッ!?」
瞬時に全身火達磨となった巨竜は、先程までの余裕など欠片もなく、悲鳴を上げながら無様に転げ回る。
「燃焼と呼ばれる現象は、酸素供給源と燃焼物、そして着火源の三つを以って成立する。つまり空気、撒き散らされた高濃度のアルコ
ール、エスパーダの剣撃によって生じた火花、この三つがそれに当たる」
七転八倒するファフニールを見下ろしながら、マタドールは淡々とした口調で、突然生じた炎の種明かしをする。
「仮にも企業のトップが、火災や爆発の基礎知識も知らぬとは些か問題だな。その身を以って、とっくりと学び直せ──マハザン!!」
言葉と同時にマタドールは、未だ苦しみもがくファフニールへ更なる衝撃魔法の追撃を放った。
「ガァァァァァッ!?」
通常であれば、扇状に広がり複数の敵を一掃する全体魔法であるマハザンであるが、マタドールのアレンジコントロールによってそ
の弾道を変えられ一点に集中して撃ち出された事により、無数の弾群をまともに全身に浴びたファフニールは、床を転がるように吹っ
飛んで、敷き詰められた絨毯を引き裂きテーブルを潰し砕いて、広間の反対の壁に衝突して、ようやくその動きを止めた。
「な、何故!? 儂は悪魔になって、最強の…鋼の肉体を手に入れたのではなかったのか!?」
衝撃魔法と途中の衝突物によって全身を覆っていた炎から解放されたファフニールが、ヨロヨロと立ち上がり、信じられないといっ
た様子で震える声で疑問を漏らす。その身は炎によって焼け爛れ、鋼鉄のようであった表皮はマハザンの直撃によって打ち砕かれ不様
にひしゃげていた。
「剣や打撃などの直接的な物理攻撃が効かぬであれば、他の方法で攻撃を加えればよい。それだけの話だ」
ゆっくりとファフニールへと歩み寄りながら、マタドールが相手の呈した疑問に答えを返す。
「そも、貴様のような対物理に特化した手合いは、それに比例するように魔法や搦め手に弱い。対抗策も講じず己の強さに驕った貴様
の慢心こそが、この結果だ」
「何だと…!? 聞いておらんぞ、そんな話は!!」
ぶつけられたマタドールの指摘に、ファフニールは目を見開き驚きの声を上げた。
「ギギッ、そりゃ確かに伝えていねえからな」
その時、魔人と邪龍の頭上より、空を切る羽音と耳障りな声が響いた。
二者が見上げた視線の先に居たのは、双翼を羽ばたかせて滞空しているアルカードの姿であった。
マタドールとファフニールの戦いの間の時間の経過で、ようやく傷が回復したのであろう、その身に傷は無い。
「っ!? アルカード!! どういう事だ、貴様儂を謀ったのか!?」
「ギッ! 人聞きが悪い…俺は聞かれなかったから答えなかっただけだ。第一、契約では『人間より遥かに強い体は手に入れたい』
というものだっただろうが。ギギッ、俺は嘘は言っていない。その身は確かに人間なぞ足元にも及ばねえ力を持っているんだからなぁ」
「くっ…!」
アルカードの言い分に、ファフニールは忌々しそうに言葉を詰まらせる。
「聞かれなかったから答えなかった」と、アルカードは言っていたが、おそらくは意図的に黙っていたのだろうと、マタドールは考えていた。
悪魔を取引相手にして誠実さを求める事が、そもそもの間違いである。
天使や善神に分類されるものですら、虚言や二枚舌を弄して契約者を欺き陥れる権謀術数を、平然とやってのけるのだ。
ファフニール──西埼も、正常な思考であればアルカードの魂胆に気付いたかもしれない。
だが、すずかへの歪んだ思慕と、延命への渇望がこの男の眼を曇らせたのであろうと、マタドールは二者のやり取りを眺めながら、
そう考えていた。
「ええい、もういい! ならばこの小僧を殺す手伝いをしろ!」
「ギギッ、承知したぞ」
苛立ちを剥き出しにしてファフニールが怒鳴りつけると、アルカードはそっけない態度が嘘のように、指示された要求をあっさりと承諾した。
「クッ…カカカカ! 小僧、これで終わりだ! いかに貴様が強かろうと、我らを同時に相手にして無事でいられる筈が──」
「──マハザンマ」
アルカードの参入を得て、ファフニールが勝ち誇るように笑いを上げたその刹那──黒い外殻に覆われていた巨竜の胸が、朱に染まった。
「ゴフッ!? こ、お、何、を…?」
数瞬、己が身に何が起きたか理解出来なかったのであろう。ファフニールはとめどなく血を流し続ける自身の胸部と、上空で羽ばた
きながら滞空するアルカードとに、何度も視線を往復させる。
「ギギッ、やはり仕留められんか。まあマグネタイトの量を考えれば、仕方がねえな」
呆けたままのファフニールをつまらなそうに見下ろし、アルカードは淡々と呟きを洩らした。
「ア、アルカード…! 貴様裏切るのかぁっ!?」
吸血鬼の放った衝撃魔法に胸部を撃ち抜かれたファフニールは、総身に怒りの念を滾らせながら、喉の奥より溢れる血液に構う事な
く、憤りのままに叫びを上げた。
「ギッ、人聞きの悪い事を言うな。俺はお前の願いを叶えようとしているだけだぞ? ギギッ、今の弱った俺ではその魔人にはとても
勝てん。だから──」
お前の力をいただくのさ。
そう言うが早いか、アルカードは両翼を折り畳み、ファフニール目がけて急降下。
同時に、その身に回転を加えて黒い弾丸と化した吸血鬼の狙いは誤る事なく、傷を負っていた邪龍の胸部を完全に貫いた。
「ガッ…! ガァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
ファフニールが大気を震わせる咆哮を上げると同時に、穿かれたその胸から、先程の衝撃魔法によって生じたものを超える、多量の血液が噴出する。
巨躯より噴き出した血液は、その身に比例して瀑布の如き勢いで、邪龍に風孔を開けた張本人──床へと降り立ったアルカードの全身へと降り注いだ。
それは時間にして僅か数秒の血液の滝であった。
そして、その噴出が止み、猛烈な血臭が漂う血溜まりに佇むアルカードは、全身余すところなく真紅に染めた己が身を見回すと、口
端を吊り上げ喜悦に満ちた表情を浮かべた。
「ギッ、ギギッ、ギギギギギギギギギガガガガガガガガガッ!! 竜の血を! ファフニールの魔血を五体に浴びたぞ! これで俺は
もう恐れるものなど無い! 大蒜も! 聖水も! 白木の杭も! 神の子の聖句も! 銀の武器も! 流れる水も! 太陽の光でさえも!!
何一つとして俺を傷つけられねえ!! 俺は真の『不死の王』になった!!」
双翼を広げて天を仰ぎ、アルカードが狂笑を上げた。
マタドールはその言葉に、ファフニールの殺害に至ったアルカードの奇怪な行動の理由を悟った。
「不死身のジークフリート…そうか、この仰々しく面倒なまでの回りくどい儀式は、全てこの為か…!」
──不死身のジークフリート。
「ラインの黄金」のクライマックス、英雄ジークフリートによる邪龍ファフニール退治の逸話だ。
ファフニールの心臓を貫き、その心臓から溢れた血液を全身に浴びたジークフリートは、竜血に込められた魔力によって不死身の肉
体を得るエピソードだ。──そう、アルカードの狙いは最初からこれだったのだ。
「仮初めの不死を…吸血鬼の弱点を克服する為に色に狂った老人を騙し、竜へと変じさせるべくこの舞台を用意した訳だな?」
「なん…だと…!?」
マタドールの口より語られる言に、ファフニールは驚愕に表情を歪めて、呆然と己が前に立つアルカードを見つめる。
「ご、がはっ!? ほ、本当か…? アルカード…」
「ギイ? ああ、力を手に入れる為にお前を利用したっていうのなら、本当になるなぁ。ギギッ」
必死な形相で、声を震わせ尋ねるファフニールに、当の吸血鬼は血を浴びた五体を確認しながら、おざなりに答えを返した。
「な、何故だ!? 何故儂を騙した!? 竜の血が目的だというのであれば、その為のコマだって用意したのだぞ!?」
「これが一番早かったからな。強大な悪魔の気配がそこら中からするこの街で、ちんたら時間をかけていられねえ。ギッ、それにな、
何度も言うが俺は騙してなんかねえぞ。「契約上」の文言はきっちり守っているだろうが。それでもまあ、騙されたと思ってるのだったら──」
騙されたお前が間抜けだったって事だろ? と言いながらアルカードは後ろを振り返り、ファフニールを見上げた。
耳まで裂けたその口が、嘲りを伴う笑みの形に吊り上がる。
「くっ、糞、糞ぉっ!!」
叩きつけられた現実に、唖然となったファフニールだったが、すぐさまそう様相を憤怒と焦燥に染め上げ、勢いは衰えたものの、未
だ流血が治まらぬ巨体を無理矢理動かし、ふらつく四肢で会場の一点目指して歩み出す。邪龍の欲望の起点──即ち、月村すずかへと向かって。
「すずか…! すずかぁっ!! 心臓を失った儂はもう死ぬ以外にない…ならばせめて、お前に…お前に儂を刻み付けてくれよう!!」
「──っ!? い、いやっ!!」
文字通り、必死の形相で接近してくるファフニール最後のあがき。
「すずかっ!」
「させるか!」
鬼気迫る邪龍の様子に気圧され、恐怖に強張るすずかを守らんと、忍は彼女を抱き締め、恭也は剣を構えて二人の前に立つ。
「どけぇぇぇぇっ!!」
「往生際が悪いぞ三下。貴様の役目は終わった。舞台を降りる時間だ」
怒声を上げて迫るファフニールとすずか達を分かち、遮るように、疾風の如く回り込んだマタドールが、半身の構えを取ってエスパ
ーダの切っ先を相手へと向けながら、抑揚のない声で宣誓する。
しかし、言葉を向ける相手は面前の邪龍でありながら魔人の意識は、未だ上空に在る吸血鬼へと向けられていた。
「小僧ォォォォッ!! 貴様さえ、貴様さえ居なければぁぁぁっ!!」
今や死にかけの自分など、歯牙にもかけていない。そんな態度を読み取ったのであろうファフニールは、口腔より血を吐き散らしな
がら激昂し、マタドールを踏みつぶさんと更に勢いを増して襲い来る。
怒り狂うファフニールとは対照的に、マタドールは氷のように冷徹な態度を崩さずに、相手へ向かって踏み込んだ。その足取りは流
水の如く、淀みない。
「愚か──」
呟きとともに邪龍の懐へと潜り込んだ魔人は、ガラ空きの首元目がけ曲刀を一閃。
振るわれた刃は、ファフニールの首を紙を裂くかのように容易く切り裂き、斬撃の勢い余ったその頭部は、弧を描いて残っていた僅
かな血液を周囲に撒き散らしながら床へ落ち、転がった。
つい先程まで、エスパーダの刃を殆ど徹さなかった外殻と、同じ物とは思えぬの脆さであった。
ファフニールにとって、エネルギーを生み出す精製炉に等しい心臓を失った今、体を構成するマグネタイトは枯渇し、その身は砂糖
菓子にも等しい脆弱さと化していたのである。
「す…ず…か…、儂の…花…よ、め…」
胴より泣き別れ、床に転がった首のみと化して尚、ファフニールはカッと目を見開き、絶えることない執念に満ちた言葉を紡ぐ。
しかし、欲望に憑かれた狂人の妄執も、そこが限界──終着点だった。
「…狂った欲に身を任せた事が既に、貴様の運命を決定付けていたのだ。手の届かぬ、いと高き月を見上げながら貴様はそこで朽ち果
てて逝け。近親縁者を丸ごと手にかけた貴様には、それすらも分不相応だがな」
邪龍を一顧だりせず、優雅な動作でエスパーダの血振りを行ったその刹那、魔刃の風切り音を引き金にしたかのように、ファフニー
ルは斬り離された胴体ごとマグネタイトの塊と化し、爆散して宙に散華した。
「邪法にその身を売った者の末路だな…悪魔と化した以上、肉の一片、血の一滴に至るまで現世には残らぬ。全てマグネタイトに変換
され、他者に喰われるのみ…」
そしてその魂魄も同様だ。ファフニールという高位の悪魔と化した西埼は、その魂のみは人としての記憶と人格を保ってはいた。
しかし、マタドールたちの前に現れたファフニールは、魔界の本体より分かれた分霊にすぎない。
現世での活動で、分霊が得た力やダメージは全て、魔界の本体へとフィードバックされる。それはファフニールと同化した西埼の魂も同様だ。
それが純粋な分霊のみであれば、本体との人格や記憶の齟齬が無いので、同化するのに問題は発生しない。
だが、本来只の人間に過ぎない西埼の魂はそうはいかない。起源も何もかもが全く異なる存在──言ってしまえば異物だ。それも、
高位の悪魔から見れば、大海に落ちる真水の一滴にも等しい矮小な存在である。
悪魔の魂の強度の前に、人のそれなど塵芥も同然だ。西埼という人格は、ファフニールという強固な自我の前にその存在すら許されず、
粉微塵に打ち砕かれ、吸収されてしまうだろう。それは即ち、「西埼康二郎」という存在自体の喪失──根源的な死亡を意味する。
常世に逝く事も、輪廻に戻る事も許されず邪龍の魂に叩き伏せられ、喰らい尽される…外法に手を出した者には、相応しい末路と言えた。
「既に決した外道の行く末は、もうよかろう…」
淡緑の光が雪の如くちらつく中、マタドールは宙に滞空し続けるアルカードへ向き直す。
「それで…貴様はどうするつもりだ? 吸血鬼。契約者は既に亡く、約条を履行する責務も消えたぞ」
「ギッ、確かにお前の言う通りだ魔人よ。最早俺に契約による縛りはなく、守る必要もない。だが…お前を潰せばこの世界で俺の行動
を邪魔する者はいない。ギギッ、どの道俺を傷つける事などできんが、目障りであることには変わりないからなぁ。それに…」
ちらりと、アルカードがすずか達の方へと視線をやる。
「この世界に来てからこっち、飲んだのは絞りカスや残飯みてえな血ばかり。いい加減、処女の血で祝杯を挙げたいところだぜ、ギッ」
大きく裂けた吸血鬼の口が吊りあがり、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「っ!?」
新たな悪魔にまで目を付けられたすずかは、血の気が引いた青い顔で、恐怖に唇を震わせながら二、三歩後ずさる。
「──」
「やらせんぞ、化物」
そんな彼女を守らんと、険しい表情と気配を漂わせた忍と恭也が、すずかの姿をアルカードから遮るように立ちはだかった。しかし──
「ほう? 極上の乙女を前にしているとは言え、魔人を五月蠅い羽虫
程度と断ずるか…いいだろう、ならばそののぼせ上がった頭に、死の恐怖というものを教育してやろう!!」
すずかたち三人の更に前に立ち、半身でエスパーダを構えたマタドールが、朗々と宣告を発した。
「ギィッ? お前、今の俺がどういう存在かわかっているのか?」
だが、人間どころか悪魔すらも恐れ逃げ出す死の化身、魔人の本気の宣誓と気迫を前にしながら、アルカードがマタドールへ返した
のは、呆れ混じりの態度と言葉であった。
「今の俺は完全なる不死。死を克服した今、如何な大悪魔であろうとも俺を殺すことなどできんのだ! ギギッ、死の具現たる魔人で
あろうと、恐るるに足りねえ!!」
勝ち誇るようにそう叫び、吸血鬼は嘲笑を浮かべる。
「死を克服しただと? これはこれは…愉快な戯言をほざいたものだ」
手にしたエスパーダの切っ先をアルカードへと向けたまま、マタドールは喜色満面の相手とは対照的に、感情の抑揚のない、無機質
な言葉を投げかけた。
「ギッ、何だと?」
「滑稽。そう言ったのだ、吸血鬼。貴様は死に克ってなどいない。存在した以上、誰もが迎える終末から逃げただけだ」
「────」
その言葉に、アルカードは笑みを消しマタドールを睨む。
「夜が怖いと、暗闇が怖いと布団を被り怯える童と何も変わらぬ。それも大の大人どころか、伝説に謳われるか悪魔のともあろう者がだ。
これが滑稽と言わず、何が滑稽だというのだ?」
「──黙れ」
「不死の王などと嘯きながら、その実態は震える小鹿の如く臆病とは、何とも大衆受けしそうな話だ。喜劇の演目には丁度よい」
「黙れェェェェェ!!」
マタドールの止まらぬ口上にアルカードは怒号を上げ、風を切って空を飛ぶ。
吸血鬼の狙いは唯一点、眼下の魔人マタドールのみ。
十数メートルの間合いを瞬時に踏破し、マタドールとの距離を指呼の間程に狭めたアルカードは、耳まで裂けた口を大きく開く。
シャンデリアの光に照らされた口腔内には、ナイフのように鋭く尖った牙が林立している。
狙いをマタドールの首に絞ったアルカードは、その頸骨を噛み砕かんする勢いで襲いかかる。
一連の動作の速度はまさに疾風。ファフニールの竜血を浴びた上に、先程宙に撒き散らされたマグネタイトも幾分か吸収したのであ
ろう。アルカードの力は、マタドールの斬撃で容易に斬り断たれた先刻のそれと比べ、桁外れに上昇していた。だが──
次の瞬間広間に響いたのは、骨を砕く鈍い音ではなく、剣戟が如き甲高い金属音であった。
「ギッ、ギギッ、てめえ…!」
アルカードがガッチリと噛みついているのはマタドールの首ではなく、彼が眼前に構えたエスパーダの刀身であった。
「雑魚と蔑む私の御首級を取る事も能わず、このような無様な姿まで晒すとはな…ますます喜劇役者じみてきたではないか。
なあ、Vampire?」
「黙りやがれェェェェェェェッ!!」
牙と噛み合いギリギリと軋みを上げる刃の陰で、からかい混じりの言葉を投げかけるマタドールにアルカードは益々激昂する。
エスパーダの刀身を噛み締めたまま双翼を羽ばたかせると同時に、両足の鉤爪でマタドールの胴体を掴んで浮かび上がった。
「マタドールさん!?」
驚きと魔人の身を案じた、すずかの声が響く。
「心配するな! この無礼者は私が引き受ける、皆はこの事態の収束に当たれ!」
「のんびりくっちゃべってんじゃねえェェッ!!」
叫びとともにアルカードはマタドールを抱えたまま前方へと飛翔し、邸宅の壁を体当たりでブチ抜いて外へと飛び出すと、そのまま
上空へと加速。
異界の主たるファフニールが倒れた事で、既に屋敷は通常の空間に戻っており、二者が飛び出した外も同様であった。
夜気を身に受け飛翔するアルカードは、マタドールを掴んだまま上昇に次ぐ上昇。
視界を遮る物のない高度へと舞い上がった二者を、中天に座す下弦の月が煌々と照らす。
「ギギッ、死にやがれ!!」
口からエスパーダを離すとともに、アルカードはそう叫びながら掴んでいたマタドールの体を蹴りつけ、眼下に広がる西埼邸の森
林へと投げ捨てた。
枷から放たれた一瞬の解放感の直後、全身に風圧を受けながらマタドールは地表へと一直線に落下していく。
高度一〇〇メートル前後からの自由落下だ。この高度から地面に衝突すれば無事では済まない。
しかし、それはあくまで『無事では済まない』という程度の事である。悪魔、それも魔人からすればこの位の物理的衝撃は、痛打に
はなっても決定打にはなり得ない。
更に言えば、それもまともに地面へ衝突した場合の話である。受け身を取ったり、魔法や身体能力、固有技能で以って落下の衝撃な
どいくらでも軽減できる。
(さて。その程度の事、予測するまでもなくわかっている筈なのだが──っ!?)
重力に身を任せ、アルカードの行動に思いを巡らせていた最中、突如マタドールの背筋に悪寒が走る。
反射的にその危機信号に従い、マタドールが無理矢理体を捻ったその刹那、黒い影が高速で右方を通過した。
「グッ!?」
直後、マタドールはくぐもった呻きを漏らす。
黒い影が通り過ぎる瞬間、脇の下を掠めてマタドールの右胸の一部をもぎ取っていったのだ。
普通の人間であれば、腎臓を潰されたに等しい痛激である。
だが、傷を気にしている暇はない。すぐに自己修復を働かせながら、マタドールは通り過ぎた影の行方を追い、正面へと目を向ける。
顔を上げ視界に映った光景は、月光にその身を照らされながら、戦闘機の弧を描く軌道とは正反対の、鋭角な軌道で不規則に宙を舞
い、耳障りな声で嗤う黒い影──アルカードの姿。
「ギギギギギギギギギッ!! この高度で、翼もねえてめえは満足に身動きも取れねえだろう! そうら、いくぞぉ!?」
宣告とともに、アルカードが再び迫る。左右に広げた双翼に、淡い魔力の光が宿るのが見て取れた。
舌打ちとともに再度体を捻ってアルカードの強襲を躱そうとするが完璧に避けるとはいかず、魔力を纏い刃と化した翼がマタドール
の左肩を切り裂いた。
「くっ!?」
「ギギッ、さっきまでの威勢はどうした小僧! 何とか言ってみろよ!」
形勢逆転となり、勝ち誇るアルカードは自身に対して手も足も出ないマタドールを嘲笑う。
「このまま足をもがれた糞虫みてえに嬲り殺しにしてやるぜ!」
三度、アルカードが加速しながらマタドールに迫る。
が──
「調子に乗るな。三下が」
窮地に立っている筈のマタドールは、迫りくる吸血鬼へ傲然とそう言い放ち、その場で『跳び上がった』。
「──あ?」
絶対に躱されない──否。そもそもそんな事を想定すらしていなかったアルカードは、自身の一撃を避けられ、間の抜けた声を上げた。
「マハザン」
衝撃魔法を足場にしての移動法で、アルカードの頭上を取ったマタドールは体を捻り、エスパーダを大きく振り被った。月明かりに
照らされた白刃が、淡い輝きを放つ。
その刹那、銀線が空を走り吸血鬼の胴を薙ぐ。しかし──
「む?」
曲刀を通じてマタドールにもたらされたのは、獲物を討った確かな感覚ではなく、まるで霞を斬ったような手応えの無さであった。
「鬱陶しい真似してんじゃねェェェェッ!」
斬撃を浴びた直後、アルカードは中空で急停止して反転、叫びを上げながらマタードル目がけて切り返す。
重力も遠心力も無視したアルカードの奇怪な航空機動。だがマタドールはそんな動きにも翻弄される事なく、魔力の籠った翼の斬撃
をエスパーダで受け流し、
「マハザン!」
相手が通り過ぎる瞬間に、ゼロ距離で衝撃魔法を撃ち放つ。が、これも斬撃同様、確かな手応えは感じられなかった。
「誰も俺を傷つけらねえと言っただろうがァッ! マハザンマァッ!」
怒声を上げながら再び反転したアルカードは、お返しとばかりに衝撃魔法を撃ち返してくる。
「フッ!」
鋭く呼気を吐き、マタドールはエスパーダを振るい、己に向かってくる魔弾の群れ次々を斬り伏せると同時に、足元に飛来した物を
踏みつけ、大きく蜻蛉を切った。
体勢を整えたマタドールは、西埼邸敷地内に植生する、針葉樹の内の一本へと降り立つ。
「どうした、私を嬲り殺しにするのではなかったか? 吸血鬼。この通り地上に辿り着いてなお、我が身は未だ健在、未だ軒昂だぞ」
長い空中落下から地上へと戻ったマタドールは、挑発するように両腕を大きく開き、頭上のアルカードへ己の無事を喧伝する。
「ギギッ、てめえ…」
双翼を羽ばたかせて滞空する吸血鬼は憎々しげに顔を歪め、眼下のマタドールを睨みつけた。
(ふむ。これで奴に意識は完全にこちらへ向いたな。これで俺がやられでもしなければ、すずかに危険が及ぶ事はないだろ…)
アルカードの様子を窺いながら、マタドールの中で令示は、己の企みが上手く運んだ事に安堵の息を漏らす。
先刻の邸宅内でのマタドールの挑発的な言動は全て、すずかに食指を動かしていたアルカードの意識を、己へと向ける為の方策だったのである。
(とは言え、正直なところ竜血を浴びた奴の耐性はかなり厄介だな…物理攻撃も衝撃魔法も無効、不死身のジークフリートの再現は伊
達や酔狂じゃないという事か)
だが同時に、未だ全容を掴めていない相手の能力に舌を巻いていた。能力的には、今のアルカードはマサカドゥスを装備した人修羅
か、「ベルの王」の一角であり、不死身に等しい耐性を持つベル・デルことバルドルに匹敵するであろう。
(完全な不死などあり得ん。いかな大悪魔でも、滅びの運命からは逃れられる筈がない。)
アルカードは完全な不死などと謳っていたが、おそらく耐性を貫いて攻撃できる万能魔法であれば、攻撃が通じると令示は考えている。
(…問題は、俺が現状で万能魔法を使う事が出来ない事だな)
魔人で万能系魔法が使えるのは、人修羅を除けば四体。だが、現在令示が変身出来るのはその内の一体──魔人大僧正だけだ。
しかし大僧正が使えるのは攻撃力の低いドレイン系スキルである瞑想だけで、決定打に欠ける。
シヴァやヴィシュヌの仏教での姿──大自在天や那羅延天として召喚するという方法もあるが、仏教では下位の天部に属するとは言
え、相手は魔界でも屈指の大悪魔である。鎌倉付近で召喚した威霊ハチマンの時と違い、召喚条件を緩和する材料はなく、素で呼び出
すには、敷居が高過ぎる。
ジュエルシードの一件の際に呼び出した仏神たちのように、瞬時送喚するにしても、メギドラオン級の大魔法を使わせるのでは、現
在の令示の実力では力不足もいいところだ。そして何より問題なのは、今現在彼はマタドール以外の魔人には変身できないという点である。
ネビロスの一件で、この世界に来てしまった悪魔たちが、自分のみならずその周囲にまで被害を及ぼしかねない事に危惧した令示は、
現在大僧正の力を使って道祖神や賽の神、地蔵を使った監視の他にも、ガンダルヴァやキンナリー──仏教で言うところの乾闥婆と緊
那羅を召喚し、ルイ・サイファーの結界に覆われた海鳴とその周辺の哨戒をさせている為だ。
そちらに割り振っているエネルギーのリソースは大きいが、他に悪魔がいた場合や、アルカードがここから逃げて一般人を襲おうと
した場合の対策として、この警戒網は維持しておかなくてはならないのだ。
よってこの場は、マタドールの独力でどうにかしなければならないのだが…
「お望み通りぶち殺してやるぜっ! ギガァッ!!」
いかに相手を討ち斃すべきか。マタドールの内で思考を逡巡させる令示であったが、苛立ちが臨界に達したアルカードはこちらの都
合など考える筈もなく、怒声とともに翼をたたむと、急降下。一気に空襲を仕掛けてきた。
「チッ!」
舌打ちとともに横へ跳躍し、別の樹木へと飛び移る。
次の瞬間、今しがたマタドールが立っていた場所を魔力を帯びたアルカードの双翼が、断頭台の刃の如く走り過ぎる。
マタドールはそのまま針葉樹の先端から針葉樹へ先端へと、地を駆るように次々と跳び移っていく。
アルカードもその後を追って攻撃を仕掛けてくるが、マタドールもそれらを巧みに躱しながら反撃を行い、互いが斬撃と魔法の応酬を繰り返す。
アルカードの双翼の羽ばたきや、唱える呪から撃ち出される衝撃魔法をエスパーダで切り落とし、お返しとばかりにマタドールもマ
ハザンを放ち、すれ違いざまに斬撃を放つ。
(さて、どうする…? このままいくら斬り続けても奴は死なない。それに痺れを切らした奴が、戦いを離脱する可能性も否定できない。奴の不死が完全でな
い。可及的速やかに奴を始末しなきゃならないんだが…考えろ、どこかに弱点がある筈だ。ギリシャのアキレスも、ジークフリートだ
って結局は、弱点となるべき物以外には無敵という限定的な不死だった)
現状でわかっている相手の特徴は、魔法は効かず、斬撃も無効。いずれの攻撃も霞を斬ったような軽さしかなかったという点。
(──待て。『霞を切ったような軽さ』?)
考えを張り巡らせていた令示の心中に、僅かな疑問が浮かんだ。
(ああ、それは間違いない。しかしそうだとしたらあの時の『アレ』はどういう事だ?)
──ファフニールの血。
──ジークフリート。
──唯一の弱点。
(ひょっとして……)
いくつかのキーワードを起点にして令示の脳裏で素早く思考が巡り、一つの推論が導き出される。
(確信はない。けど…このままじゃ手詰まりだ。試してみる価値はある)
不確定要素はある。しかし、現状これ以上の相手を打破する為の方策はない。賭けに出るしかないのだ。
マタドールは一本の針葉樹の頂で足を止める。
そのまま頭上のアルカード睨んだまま体を斜に構えると、エスパーダを水平にし、弓を引き絞るような格好を取る。
先刻までの、躱しながらや逃げながら戦うヒット・アンド・アウェイではなく、正面から相手を迎え撃つ攻めの構え。
それを目にしたアルカードの表情が喜悦に歪む。
「ギッ、やっと腹を決めやがったか。どうせ勝てねえなら一矢報いようってところか? 無駄だぜ無駄無駄、ギギッ」
「……下位の魔人一人も容易く屠る事もできぬ蝙蝠が、大きな口を聞くものだな」
「あ?」
「初撃を防がれた挙句、自身の得意とする領域に引き摺りこんでおきながら、私を黙らせるに至らぬ不様さ。下手下策もいいところだ。
せめて──」
言いながらマタドールは顎を逸らし、アルカードに己の首を晒す。
「最初の狙い通り、この首を噛み砕く位はしてみせろ。吸血鬼」
自分の首を親指で指し示し、傲然と言い放つマタドールに、
「じ、上等じゃねえかっ! お望み通り、その細首噛み千切ってやるぜっ! ギガァッ!!」
牙を剥き出し叫びを上げると、アルカードは相手の喉笛目掛け、一直線に空を駆った。
これを迎え撃つマタドールもまた、攻勢に出る。
針葉樹を踏む右足を捻り込みながら跳躍。
体にひねりを加えて、迫りくるアルカードへ向け、エスパーダを横薙ぎに一閃した。
──刹那、夜の森に響き渡ったのは金属を叩きつける、激しい打音。
マタドールの振るった白刃は、再びアルカードの歯によって噛み止められていた。
エスパーダを噛み締めたまま、アルカードはニィと口端を吊り上げ、同時に両足を振り上げた。
「ギギッ、剣なんか効かねえって言ってるだろうが、この低能がァァァァッ!!」
「グオォォッ!?」
嘲りとともに振り下ろされた両足の鉤爪が、両肩から腹部までをズタズタに引き裂かれ、その痛撃にマタドールは苦悶の声を漏らした
その様を見たアルカードは、満足そうに目を細めると、噛み止めていたエスパーダを離す同時に、マタドールの胴体へ前蹴りを喰ら
わせ、吹っ飛ばした。
「ぐっ!?」
くぐもった悲鳴とともに蹴り飛ばされたマタドールは、放物線を描いて軌道上にあった一本の針葉樹に激突する。
が、不幸中の幸いというべきか。マタドールはその木の幹にしがみつく事で地上への落下を回避した。
「ギギッ、おいおいこれじゃどっちが無様かわからんな小僧。ギッ、必死に頭働かせて俺を倒す方法を考えた挙句が、あのやけっぱち
の突撃か? 全部無駄だったなあ。ギギッ、完全なる不死の王たる俺を殺す術なぞある訳ねえだろうがぁっ!!」
空中で勝ち誇り、笑いを上げるアルカードに対し、マタドールは今し方受けたダメージが大きく、肩で荒い息をしながらノロノロと
した動作でどうにか樹上に立った。
「フ、フフ、フフフハハハハハハハッ!!」
頭上のアルカードを見上げて、マタドールが発した第一声は笑いであった。
「全部無駄? 違うな、この傷を負ってでも得る物はあった…愚か者め。見切ったぞ、貴様のジークフリートの一葉を!!」
叫ぶが早いか、マタドールは体をひねり、右手に掴んだカポーテを巻き込むように大きく引き寄せた。
「ギィ? ──ガッ!? グアァァァァァァッ!?」
その刹那、滞空していたアルカードはいきなり体をビクビクと痙攣させ、大きく口を開いたまま、言葉にならない奇妙な悲鳴を上げ出した。
激しく翼をはばたかせ、その場から逃れようとするも、まるで空中に縫いつけられたかの如く動けずにいた。
「グゥッ! ギィッ!! ゲ、ゲゲゲ、ガギゴギガガッガ!?」
「目を凝らして周囲を見てみるがいい。月の光が答えを教えてくれよう」
狂ったように暴れて奇声を発するアルカードへ、マタドールは抑揚のない落ち着きを払った声で、静かに返答した。
返された言葉に、アルカードがギョロギョロと辺りに眼を凝らす。すると──
「ギギィッ!?」
アルカードは目を剥いて驚愕する。
月光の下、幾百、幾千条もの糸が縦横に走り、キラキラと青白い光を反射していたのだ。
しかもそれらの糸は、全てアルカードの口へと伸びており、その見た目に反する強靭さで、舌を、歯を、口蓋を、喉を固定していたのだ。
「ガ…ガグガゴゲガ!! ゴグガゴゴギグゴガギ!?」
「これはカポーテの糸だ。先程、貴様に斬りかかった際に解いて、空に張り巡らせていたのだ」
マタドールが右手を持ち上げ軽く引くと、掌中のカポーテから伸びた糸が、月明かりに照らされてあらわになり、そのまま空中に張
り巡らせたそれへと繋がっているのが、見て取れた。
「英雄ジークフリートはファフニールの血を浴びて不死身となった。しかし、その際に背中に貼りついていたイチジクの葉によって背
中の一ヶ所のみ血を浴びず、人のままであった。故にそこが弱点となり、かの者の伝説の終焉へと繋がった。
……吸血鬼でありながら吸血を忘れるとは、何とも皮肉な事だなアルカードよ。血を口にしなかった貴様の身の内は、正しくジーク
フリートの一葉となったのだ」
「っ!?」
マタドールの台詞に、アルカードは目を見開いて絶句した。
「さあ幕引きだ。伝説の最後はいつ何時も呆気ないものだ。神話伝承を基とした魔術は、確かにそれを信奉する人間の思念の多大さ故
に大きな力を発揮する。しかしそれは、同時にその「神話や伝承に」縛られる事を意味するのだ! 不死身であったジークフリートが
最後に非業の死を遂げたように、貴様もその運命からは逃れられん!」
マタドールが右手のカポーテを大きく掲げると、それと同時に空中の糸が一斉に動き出した。
「ゴッ!? グアァァァァァァァァァァッ!!」
その瞬間、アルカードは瘧のようにガクガクと体を震わせ、絶叫を上げた。
「糸状のカポーテを貴様の体内に侵入させた。まずは全身の筋繊維と内臓を粉微塵になるまで斬り裂く」
「────ッ!!」
七孔憤血。
宣告通りに体の内部を掻き回した事で、声を発する事もできなくなったアルカードは目、鼻、耳、口。顔中の孔という孔から血を噴き出した。
時同じくして、体を固定していた糸の全てが体内に入り込んだ事で、支えを失い、アルカードはその身を地へ叩きつけられた。
「ギ…、ギガガ…これで、勝ったつもりか…? ギギ、俺はこんなもんじゃくたばらねえぞっ……!」
ズリズリと地を這いながら、アルカードは自身より遅れて地上へ降り立ち、悠然と歩み寄ってきたマタドールを睨みつけ、吐き捨てる。
「知っているさ。本来の、吸血鬼としての貴様は白木の杭で心臓を打たねば、滅する事ができないのだろう? 幸いここにはいくらで
も杭の原料になる木がある」
周囲の木々を見回し、マタドールが冷たく言い放ち、だが、と言葉を繋げる。
「体の内部は竜血の対象外とは言え、貴様の弱点に対して浴びた血が、どのような効果を及ぼしてくるか未知数だ。故に私は、徹底し
た安全策を、確実に貴様を殺す方法を取らせてもらう」
冷徹にアルカードを見下ろすマタドールの周囲に、カポーテから枝分かれした幾条もの糸が舞う。
「朝日が昇るまで貴様の臓腑を掻き回し、この場に縫いつける。そして開いた口から陽光を浴びせながら、身の内から直接心臓に白木
の杭を打ちこんでやる。つまり──死ぬまで殺してやるという事だ」
「────」
マタドールの宣告に、アルカードは絶句し色を失う。
いかに不死の吸血鬼とは言え、痛覚は存在するし感情もある。故にマタドールの述べた方策がいかに恐ろしいかを誰よりも理解していた。
「払暁まで、おおよそ八時間といったところか…さあ、夜が明けるまで存分に楽しむがいい。このDanse Macabreを!」
──次の瞬間、夜の森に濁った悲鳴がこだました。
水平線の彼方から昇る朝日。
「…ふう、やっと終わりか」
樹上にて、海から吹きつける冷たい潮風に体を晒しながら、マタドールは疲れを帯びた呟きを漏らした。
「死んだ後に皮だけが残るようであれば、錘を付けて海溝にでも捨てるようと考えていたが…どうやら杞憂であったか」
そう言って目を向けた彼の左掌中には、エスパーダではなく、黒い獣毛に覆われた皮──竜血を浴びたアルカードの外皮があった。
ファフニールの血の効果か、マタドールが宣告通りにアルカードを殺し続け、朝日を浴びせながら白木の杭で心臓を針鼠になるまで
突き続け、滅した後にも皮だけ残っていた。
しかしそれも、本体の消失に伴って、ゆっくりとではあるが端の部分からマグネタイトへと変化し、消えつつあった。
マタドールは完全に皮が消え去ったのを確認した後、樹上から地面へ降り立ち、屋敷の方向へと足を向ける。
「──さて…、今頃忍さんたちはてんやわんやだろうけど、大丈夫かねえ?」
同時に魔人の姿から人間へと戻りながら、令示は今後に振りかかるであろう面倒事の山を想像して大きく溜息を吐いた。
と、その時──
「っ!? 令示君!?」
キョロキョロと周囲を見回しながら木々の間から姿を見せたすずかが、令示を目にして驚きの声を上げた。
「よっ、すずか」
「大丈夫なの!? 怪我はない!? さっきの怪物は!?」
軽く手を上げ挨拶をする令示に、すずかは素早く駆け寄ると矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「お、落ち着けって…アルカードの野郎ならもうぶっ倒したし、多少怪我はしたけど問題はないよ。でなきゃ人間の姿のままでこんな
所ウロウロしてる訳ないだろ?」
「怪我したの!? 大丈夫なの!?」
「ああ、悪魔は再生能力は高いからな。ま、その分疲れるけど」
「そっかぁ、よかったぁ…」
心配事が杞憂に終わり、すずかは安心したのか大きく息を吐いてその場にヘナヘナトしゃがみ込んだ。
心優しい彼女の事だから、自分を心配していたのであろうと、令示は少し申し訳なく思った。が──
「けど、何の備えも情報も無しでいきなりここに来るなんて危険だぞ、すずか。あの野郎がまだ生きていたらどうすんだ?」
いくら何でも不用心過ぎる。少々眉間に皺を寄せながらそう注意すると、すずかは俯いてごめんなさい、と口にした。
「私…会長さんが変身した怪物とか、令示君を連れて行った怪物に捕まったり、みんなの迷惑ばっかりかけて何もできなくて…でも、
令示君の事が心配で…その、私をかばったせいで、し、死んじゃうんじゃないかって思って…」
スカートの裾を握り締めて、上擦った声でそう述べるすずかを目にして、令示は何も言えなくなった。
何もできないどころか足を引っ張ってしまったという思いと、自分を助けてくれた友達が死んでしまうかもしれないという恐怖と自
責の念に一晩中苛まれたのだ。少し考えればわかっただろうが! と、令示は心中で自分を呪う。
「あ~…悪いすずか、ちょっと言い過ぎた。気にかけてくれた相手に少し無神経な言い方だった。ごめん」
「…ううん、いいよ。令示君だって、私を心配して言ってくれた事だってわかるから」
込み上げる吃逆を堪えながら、すずかは微笑んだ。
「それでだな、屋敷の方はどうなってる? あれだけの騒ぎだと隠すのも一苦労だと思うんだが…」
令示は懸命に涙を堪えるすずかの様子に気付かないふりをして、話題を変えようと現在の懸案事を口にした。
「うん、すぐにお姉ちゃんが一族の人たちに連絡して、来てもらっているよ。魔眼での記憶操作とか、警察の偉い人と仲がいい人とか、
みんな忙しそうにしている」
「…現場に居た人間の記憶操作と、警察への根回しは終了済み、か。流石忍さん、心配はなさそうだな──と!?」
隠蔽工作も問題が無さそうな事に安堵した途端令示の視界が揺れ、立ち眩んだ。
「っ!? 令示君、大丈夫!?」
覚束ない足取りでふらついた令示に駆け寄り、その肩を支えながらすずかが呼びかけてくる。
「あー、済まんすずか。流石に一晩中あの野郎の相手をして疲れたわ。ちょっと眠気に耐えられそうにない」
「ちょ、ちょっと令示君?」
その場で膝から崩れ落ちる令示に、彼の身を支えていたすずかもそれに伴って腰を下ろしてしまう。
「えと、えと……」
突然の令示の様子にどうするべきか困惑するすずか。
「……あっ、そうだ。令示、君…! ちょっと、体…ずらして…!」
うんうんと唸りを漏らして考える事数秒後。何か思いついたらしい彼女は、力が抜けて倒れそうになっている令示の上半身を、己の膝
の上へと誘導した。──所謂、膝枕だ。
「これでよし、と。どうかな? 令示君。頭、痛くない?」
「ああ…大丈夫、いい気持ちだ」
上から窺うように己の顔を覗き込んでくるすずかを見つめながら、令示は肯定の意を返した。
「そっか、よかった。令示君、お疲れ様」
「すずかもな……少し眠るわ。忍さんたちが来たら起してくれ」
「うん」
まどろみの中、自分へと微笑みを向けるすずかを眺めながら、令示は気付いた。
──陽の光を浴びる黒髪は、とても暖かい色をしているのだと。
偽典魔人転生 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.2 絢爛舞踏会 了
後書き
皆様本当にお久しぶりになります、吉野です。
約一年半ぶりのアルカディアへの投稿になります。お待たせして申し訳ありません…
感想掲示板の、こんな拙作を待って下さっている心温かい皆さまの書きこみを見る度に、
「は、早く書かなくては…か、感想のお返事も…」
と思っていたのですが、思うように筆が進まず、書いては消しの繰り返しでした。
更に言い訳をさせていただければ、仕事が忙しいのと、気力と体力が落ちてきているのが主な理由になります。
…三〇過ぎると疲れが抜けにくくなりますね。ましてや干支が三回り近くなるともうね…
閑話休題。
ところで皆さまは『真・女神転生Ⅳ』はプレイなされたでしょうか?
賛にしろ否にしろ言いたい事はありますが、一つだけ言わせてもらえればルシファー様のデザインは元のままでよかった…!!
さて、それでは今回の話の解説を少々。
西埼康二郎
今回登場したオリジナルキャラですが、西○グループの初代会長がそのモデルになっています。
この人は性豪として数々の伝説を残した人物で、ウィキの記述を見るだけで「どこのエロゲーだよ!!」と、ツッコむ事必至の
エピソード満載で、モニター見て固まる、やる夫のAAみたいになってしまいました。
アルカード
「葛葉ライドウ対超力兵団」の前日譚になる「デビルサマナー 葛葉ライドウ 対 死人驛使」に登場する小説版オリジナル悪魔になります。
夜の一族と本物の吸血鬼を絡ませた小説にするかと考えていた時、メガテンシリーズでは只のヴァンパイアくらいしか居なかったの
で、こいつの存在は丁度よかったですね。ただ、ちょっと雑魚っぽいんだよなぁ…アーカードの旦那まではいかなくても、もっとこう、ねえ?
ジークフリート
北欧神話は厨二病患者の三大必読書の一つだと思う。
吸血鬼がファフニールの血を浴びたら最強じゃねえ? という発想もあったけど、「不死身のジークフリート」とか、「ジークフリ
ートの一葉」とか、厨二心にギュンギュンとキテしまったのがそもそもの発端です。
絢爛舞踏会
いつすずかとダンスを踊ると言った?
タイトルの絢爛舞踏会とは、アルカードを死ぬまで殺すDanse Macabreの事だったんだよ! (AA略
ΩΩΩ ナ、ナンダッテー!!
いや、最初はすずかと踊らせるつもりだったんですけどねえ…どうしてこうなった?
最近の社交界って、ダンスもやるパーティーってあるんですかね? 社交ダンスって、なんかコンテストとか大会みたいになってる
雰囲気があるますね。
まあ最後に膝枕やったので、ヒロイン力はアップしましたね。
さて、次回からはいよいよ「A´S」編突入となります。
今度はなるべく早く投稿を、半年以内…いや、せめて三カ月以内には投稿を…できたらいいなあ。
という訳で、また次回の投稿でお会いしましょう
追伸
遅れたお詫び、という訳ではありませんが、今回の番外編を書くにあたり、ボツにしたネタなども載せます。
楽しんでいただければ幸いです。
それと番外編のタイトルは全て、ゲームのタイトルをもじったり、そのまま使用してたりします。
EXCITEBIKE(エキサイトバイク)
海鳴に東京湾を跨ぐアクアラインが建設された。
東京、千葉、神奈川の一都2県を繋ぐ新たな交通バイパスに沸く市内。
しかし、完成を目前の数日前から市内やネット上に奇妙な噂が立ち始めた。
曰く、『アクアライン上に幽霊が出る』と。
アクアラインに侵入した者や、外から見物した人間達が次々と目撃証言を述べ始めたのだ。
普段であれば単なる噂と一蹴するところであるが、悪魔が出没する現状、只のほら話と言い切る事は出来なかった。
令示は完成式典に招かれていたアリサとすずかに同伴する形でアクアラインに向かい、そこで悪魔の大群に出くわした。噂は真実
だったのだ。
オボログルマ、クリス・ザ・カー、首なしライダー、ターボばあちゃん等々、騒走系統の悪魔達の狂走に対抗すべく、ヘルズエンジ
ェルへと変じた令示は、逃げ遅れたすずかをタンデムシートに乗せ、悪魔達を撃ち破りながらアクアラインをひた走る。
その背後より高速で迫る騎影。
首なしライダー達を従えた悪魔、スピードデーモン。
速さという狂気に憑かれ化生へと変じた最新の悪魔は、ヘルズエンジェルとすずかを見て嘲笑う。
「そんなカビの生えた古臭ェオンボロにお荷物まで抱えて、俺のマシンに勝てると思っているのかよ!?」
だが、ヘルズエンジェルはそれを聞いても泰然と鼻を鳴らす。
「ほざいてろbad boys(クソガキども)マシンの性能におんぶに抱っこしてやがるひよっこどもに、俺が負けると思っているのか?
それに──」
不安げにこちらを見つめているすずかの方へと振り返り、笑いながら言い放つ。
「こっちには幸運の女神が居るんだぜ?」
ギターフリークス
闇の書の騎士たちを追う最中、高町家の面々と親しいフィアッセ・クリステラが来日した。
ワールドツアーの最中であり、海鳴がその開催地の一つでもあったのだ。
高町家とその縁者たちが会場に招かれる事になり、アリサやすずかはもちろん、フェイトと令示も招待された。
会場で楽屋に招かれた際、バイオリニストの一人が事故で来れなくなったと告げられ、魔人デイビットの演奏力を知る
なのはたちが何気なく呟いてしまった。
「令示君ならできるんじゃない?」
その一言でフィアッセの前でバイオリンの演奏をする事となり、彼女も、演奏者たちもその腕前に納得して代役を頼まれてしまう。
そして観客が入り、幕が開いたその時、
騒音のような暴虐のメロディとともに悪魔が現れる。
ユリア、スピーディー、ミキヤ。
音楽の怨霊たちが奏でる狂気のメロディに憑かれ、暴れ出す観客たち。その暴徒の群れを何とか脱出したフェイトと合流した令示は
魔人デイビットに変身し、フェイトに呼びかける。
「奴らの歌と曲は呪歌の一種です。呪歌には呪歌で対抗するしかありません。フェイト、「POWER GATE」を!」
デイビットと呼びだした悪魔たちの演奏で、フェイトが歌い出す。
ミッドチルダに滞在中だった時のビデオレターのやりとりで令示が教えていた、明るくポジティブな歌詞がフェイトの声で紡がれ
魔曲と合わさって怨霊たちの狂騒曲を打ち消していく。
切羽詰まった怨霊たちは呪歌を召喚の祝詞に、観客の狂騒から現れたマグネタイトと己自身を贄にして、アマラより悪魔を召喚する
魔王ベルゼブブ。
その召喚は不完全で、魔法陣より髑髏の杖を掴んだ腕一本のみであった。しかし、大物悪魔の力で会場の人間たちはどんどん衰弱化
していく。
ここに来て、デイビットも切り札を切った。
「──フェイト、天羽々斬を」
朗々と紡がれる雄々しき戦歌。
その呼び声に応じ、顕現したのは。
「オオオオッ! 熱い、燃えるぜええ! 萌じゃねえ、燃えだぁぁぁっ! 建速須佐之男命見・参!!」
フェイトの呪歌を供物にしてスサノオを召喚したデイビット。
「さあ、これでフィナーレと参りましょう!!」