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No.12804の一覧
[0] 偽典 魔人転生 閑話海鳴怪奇ファイル開始[吉野](2014/09/27 10:11)
[1] プロローグ[吉野](2010/03/22 22:32)
[2] 第一話 誕生。魔人と魔王と淫獣と。[吉野](2009/11/24 04:27)
[3] 第二話 初陣。闘牛士と吸血鬼とツンデレと。(前編)[吉野](2009/11/24 04:24)
[4] 第二話 初陣。闘牛士と吸血鬼とツンデレと。(後編)後半大幅加筆修正版[吉野](2009/12/26 16:34)
[5] 第二話 初陣。闘牛士と吸血鬼とツンデレと。(あとしまつ)[吉野](2009/12/26 16:55)
[6] 第三話 武装TAKAMACHI 魔王再臨。(前編)[吉野](2009/12/05 13:47)
[7] 第三話 武装TAKAMACHI 魔王再臨。(中編)[吉野](2009/12/06 01:19)
[8] 第三話 武装TAKAMACHI 魔王再臨。(後編)~なのはの気持ち~[吉野](2009/12/25 13:57)
[9] 第四話 愚者の英断、臆病者の勇気。(前編)[吉野](2011/06/08 12:41)
[10] 第四話 愚者の英断、臆病者の勇気。(中編)[吉野](2010/01/17 22:26)
[11] 第四話 愚者の英断、臆病者の勇気。(後編)[吉野](2010/03/22 22:22)
[12] 間幕 悪魔考察[吉野](2010/02/07 11:43)
[13] 第四話 愚者の英断、臆病者の勇気。(終編)~令示の悔恨~[吉野](2010/03/22 22:29)
[14] 第五話 魔僧は月夜に翔ぶ (前編)[吉野](2011/06/08 12:41)
[15] 第五話 魔僧は月夜に翔ぶ (中編)[吉野](2011/06/08 12:41)
[17] 第五話 魔僧は月夜に翔ぶ (後編)[吉野](2011/06/08 12:44)
[18] 第六話 ぶつかり合う信念、擦れ違う想い。 (前編)[吉野](2011/06/08 12:45)
[19] 第六話 ぶつかり合う信念、擦れ違う想い。 (後編)[吉野](2011/06/08 12:45)
[20] 第七話 それぞれの思惑 (前編)[吉野](2011/06/08 12:45)
[21] 第七話 それぞれの思惑 (後編)[吉野](2011/06/08 12:45)
[22] 第八話 地獄の天使は海を駆る[吉野](2011/01/04 22:02)
[23] 第九話 決斗! 不屈の心は砕けない (前編)[吉野](2011/06/08 12:46)
[24] 第九話 決斗! 不屈の心は砕けない (中編)[吉野](2012/02/09 17:37)
[25] 第九話 決斗! 不屈の心は砕けない (後編)[吉野](2011/06/14 10:16)
[26] 第十話 絶望への最終楽章か。希望への前奏曲か。[吉野](2011/08/25 19:32)
[33] ※おわび[吉野](2012/02/05 23:37)
[38] 第十一話 Voyage[吉野](2012/02/09 17:39)
[40] 間幕 紅き奈落の底で[吉野](2012/02/06 00:08)
[41] 閑話 海鳴の休日(文末に加筆)[吉野](2013/02/27 18:56)
[42] 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.1 うしろに立つ少女[吉野](2013/02/27 18:59)
[43] 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.2 絢爛舞踏会[吉野](2014/09/27 10:10)
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[12804] 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.1 うしろに立つ少女
Name: 吉野◆fe64ebc7 ID:ea804a88 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/02/27 18:59








 ※前回の「閑話 海鳴の休日」の文末部分に大幅に加筆をしてあります。出来ればそちらから読んでいただければ幸いです。








私が私の視覚の、同時にまた私の理性の主権を、ほとんど刹那に粉砕しようとする恐ろしい瞬間にぶつかったのは、私の視線が、偶然

――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隠微な原因によって、その妻の傍に、こちらを後にして立っている、一人の男の姿に

注がれた時でございました。閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。



 芥川龍之介 「二つの手紙」より抜粋。



















 六月二十五日 PM7:30

「え──」

 日曜の夜。久し振りに家族三人が揃った食卓で、父母に囲まれ笑顔を浮かべていたアリサは、父デビットの発した言葉にその表情を

固め、呆けた声を上げた。

「すまないアリサ…急な予定が入ってしまってな。だから今度の連休は出かけられなくなってしまったんだよ」

 俯き、申し訳なさそうな面持ちで告げる父を見て、ハッと我に返るアリサ。

「だっ、だって約束したじゃない!! 連休はちゃんとお休み出来るようにお仕事も先に片付けるって!!」

「……すまない」

 椅子を飛びおり、慌てて父の傍へと駆け寄り声を荒げて詰め寄るアリサに対し、デビットは俯いたまま謝罪の言葉を口にするだけだった。

 だが、そんな態度が余計にアリサの苛立ちに拍車をかける。

「もういい! パパもママも大嫌い!!」

 爆ぜた怒りの念とともに拒絶の言を叩きつけ、アリサは一人食堂を飛び出した。

「アリサっ!」

「アリサお嬢様!!」

 両親や使用人達の声を背に彼女は廊下を駆け抜け自室へと飛び込んだ。

 ドアに鍵をかけながら、ゼェゼェと荒くなった呼吸を整えると、ベットへと身を躍らせた。

 布団が大きくたわみ、バフッ! と音を立て僅かに揺れながらも、ベットは彼女をしっかりと受け止める。

「バカ! ママのバカ! パパのバカ!!」

 アリサは両手を振り上げ、何度も何度も枕に向かって固めた拳を叩きつけた。

 アリサは同年代の子供に比べ、頭一つも二つも抜きん出た非常に聡い少女だ。己の父母に今回突然入ってきた仕事が、二人にとって

不本意なものであるという事は、その表情を見て察したし、自分に対して申し訳ないと思っているのもわかっている。

 しかし、理解は出来ても納得が出来るかといえばそれは別の話。

 理性が「是」としても、感情がそれを拒絶するのだ。

 アリサからしてみれば己という存在が、両親から仕事より下に見られていたように思えてしまい、怒りと悲しみがごちゃ混ぜになっ

た感情で心が占められていた。

 やがて、暴れ疲れたのか、最初より勢いを失った小さな拳が枕へと力無く振り下ろされ、ポスンと気の抜けた音を最後に、アリサは

ベットに突っ伏してその動きを止め、

「ばか…」

 小さな呟きを漏らし、彼女はそのまま沈黙した。








 ──アリサは気が付かない。

 己の一連の所作を見つめる存在に。

「ソレ」はジッとアリサを凝視する。

 じっとりと、絡みつくように。それはいっそ病的な程に。

 その憎悪すら孕む視線を浴びながら、アリサは静かに寝息を立て始めた。








 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.1 うしろに立つ少女












アリサ視点




「ん…」

 ピピピという耳障りな電子音に、アリサの意識がゆっくりと覚醒していく。

「朝か…って、あれ?」

 眠い目を擦りながら体を起こした彼女は、自分の姿を見下ろし疑問の声を漏らした。

「私…なんでパジャマなの?」

 確か昨日は起き巻きのままベットに飛び込み、眠ってしまった筈だ。誰か──メイドの人が着替えさせてくれたのであろうか?

 しかし、たとえそうであったとしても、体を動かされて服を変えられて気が付かない事などあるものだろうか?

「まあ、いいか…」

 考えたところで埒が明かない。

 アリサは軽く頭を振って思考を切り替えると、目覚ましのアラームを止め、ベットを降りて机の上の携帯へと手を伸ばす。

 昨日、両親とのいざこざでしていなかったメールチェックをしようと携帯を開いた。

 だが──

「は?」

 携帯を開いて表示されたトップ画面を見て、アリサは我が目を疑った。

 そこには、『6/27 TUA AM6:45』の数字が羅列されていた。

 日曜の夜に寝た筈のアリサが、気が付けば火曜の朝。丸一日寝ていたという事になる。

 だがそれはあり得ない。目覚ましのアラームが鳴る筈だし、いつまでも寝ていれば使用人の誰かが起こしに来る筈だ。そしてそれ以

前に、二十四時間以上も気付かず眠り続けるとは考えられない。

「…何かの間違いでしょ?」

 故に、アリサは苦笑しながら携帯の時刻を否定する。

 そもそも、寝坊などというふざけた理由で欠席を許す程、アリサの両親は甘くない。

 しかし、それならばこの携帯の日付はどういう事か?

 可能性としては、誰かがアリサの寝ている隙に携帯を操作した?

 悪戯か?

 アリサが父母と言い争ったこのタイミングで?

 笑いどころかアリサの怒りと不興を買うだけだ。そもそも、バニングス家にこんなくだらない悪戯をするような人間はいない。では

誰が? 何の為に?

「一体何なのよ…」

 片手で頭を押さえ呟き、アリサはテーブルへと歩み寄り卓上に置いてあったTVのリモコンを手を伸ばし電源を入れる。

 携帯の日付をあり得ない事だと、ただの勘違いだと考えながらも、心のどこかで「もしかして」と思ってしまう。

 そして、モニターに映像が表示されて幾つかのCMが流れた後、七時きっかりとなり朝のニュース番組が始まった。

 音楽とともにTV局のスタジオで頭を下げるキャスターが映り──

『おはようございます! 六月二十七日、火曜日の朝です!』

 その能天気ともとれるテンションの高い声が、アリサの頭にガンガンと響き渡った。

「六月二十七日…」

 生放送のTVですらも、携帯の時刻と同じであった。

 空白の一日。

 どうしても思い出せない記憶。

「昨日何があったのよ…」

 それは誰への問いなのか、アリサは呆然TVを見つめたまま一人呟いた。








「おはようアリサちゃん、すずかちゃん!」

 海鳴の住宅街に止まったスクールバスに搭乗して来たなのはが、後部座席に座るアリサとすずかを見つけると手を振りながら近付いて来た。

「おはようなのは」

「なのはちゃん、おはよう」

 アリサはすずかとともに挨拶を返してなのはを迎え入れる。二人に内心を気取られぬよう、笑顔を作りながら。




 ──朝の出来事の後、アリサは混乱しそうな心を無理矢理抑えつけ、まず現状の整理を行った。

 その結果、今日が間違いなく六月二十七日の火曜日である事、そして記憶にない月曜日もちゃんと学校へ行き普通に生活をしていた

事を使用人達にそれとなく聞き出していた。

 当然の事だが、昨日の記憶がない事は誰にも喋っていない。変な娘と思われるのも嫌だったが、何よりも心配をかけたくなかったからだ。

 幸か不幸か、アリサの両親は言い争った日の翌日から数日間の泊まり込みの仕事でう家を開けており、顔を合わせる事はなかった。
 
 アリサは(彼女の主観時間での)昨夜の事で気まずく、顔を合わせ辛かった為少しホッとしていた。

「あれ? アリサちゃん、なんか元気がないね?」

「そ、そう…?」

 隣に腰かけたなのはがそう言って首を傾げるが、アリサは素知らぬ顔でとぼける。

「あ、なのはちゃんもそう思う? 私もなんだか今日のアリサちゃんは疲れてるみたいなだなって思っていたんだ」

 なのはの意見の同調するすずか。アリサは自身の変調を隠し切れなかった事に、内心で舌打ちをする。

 だが、次になのはの発した言葉に、アリサは苛立ちを放り投げた。

「昨日は一日中物凄く楽しそうで元気だったけど…あ、もしかしてそれで今日は疲れちゃったのかな?」

「(っ!? 昨日の話!?)そんなに元気そうだったかしら? 『昨日の私』」

 一体前日、自分が何をしたのか? すぐにでも二人に問い詰めたい衝動を抑えつつ、アリサはポーカーフェイスを保ったまま探りを入れた。

「うん、なんかずっとニコニコ笑っていたし」

「時々鼻歌も歌ってなんかしてたよね」
 
「ふーん…そうだったかしら…?」

 互いに顔を合わせて語るすずかとなのはを見ながら、アリサは適当な相槌を打つ。

(やっぱり記憶にない。単純に昨日の事を忘れているだけなら、話を聞いている内に思い出すかもって考えたけど…)

 二人に口から語られる出来事は、まるで他人の行動を伝え聞いているようであった。

 自分の事でありながら自分ではない。それはボタンの掛け違いのように、もどかしく気持ちの悪い感覚。

 そんな心中に生じた不安と違和感によって、アリサは額にじっとり脂汗を滲ませた。

(ああ、もうっ!)

 アリサは軽く頭を振って沈みそうになる気分を転換すると、とりあえず汗を拭おうとポケットのハンカチに手を伸ばし──

(んっ? あれ?)

 カサリと、指先に触れた布とは違う異質な感触に気が付いた。

『聖祥大付属小学校正門前です。降りる時は急がずゆっくりと降りましょう』

 それと同時にバスが停車し、アナウンスが流れる。

 ゾロゾロと降りていく他の生徒の後について、アリサたち三人も列の最後尾に並ぶ。

 歩きながら、アリサは先程指先に触れた物をポケットから引き抜いた。

「紙…?」

 それは、ノートの切れ端を折り畳んだ物であった。

(こんなの入れた覚えはない…という事は、『昨日の私が』入れた?)

 アリサの制服は、使用人が毎日洗濯して夜に部屋に持って来てくれている。

 使用人の誰かがこんな物を入れるとは思えないし、何よりこの切れ端の罫線は、アリサのノートの物と同じだ。故に、消去法で昨日

のアリサがやったと判断した。

「何が書いてあるのよ…」

 列の最後尾で足を止めたアリサは、幾重にも折り畳まれた紙を広げ──

「ひっ!?」

 言葉を失った。

 広げた紙にはただ一言、こう書かれていた。




 Alisa's me. Not you(アリサは私だ。アンタじゃない)












 ──怖い。




 ──夜が怖い。




 時刻は午後8時を回った頃。

 夕食を終え自室に戻ったアリサは、一人ベットの上で頭から毛布を被り、恐怖によって震えの止まらぬ己の体を抱きしめ続けていた。

 今朝のバスでの一件の後、青ざめた顔を誤魔化す事が出来ず、なのはやすずかはもちろん他の生徒や教師にまで体調を案じる声をかけられた。

 しかし、アリサはそれにまともに対応する事が出来る筈もなく、皮一枚程度に残っていた理性と意思を酷使し、どうにか放課後まで

耐え切ると、逃げるように学校を後にして自宅へと帰って来たのである。

 今日は塾も習い事もなかったので、これ以上精神をすり減らす必要もない事に一時は安堵の息を漏らしたが、窓から差し込んできた

西日が、そんなアリサを嘲笑った。

 ゆっくりと太陽が山の稜線に沈んでいく。

 そう、再び夜が訪れようとしているのだ。

 それを認識すると同時に、今朝のバス内で目にしたノートの切れ端の一文がアリサの脳裏をよぎった。




 Alisa's me. Not you(アリサは私だ。アンタじゃない)




 最早、アリサは自身に振りかかったこの奇妙な出来事を、ただの記憶違いなどとは考えていなかった。

 何かが、自分の中には得体の知れない存在が入り込んでいると、そう確信していた。

 今日また眠ってしまえば、再びその存在──即ち『昨日の私』に体を乗っ取られるかもしれない。

 だが、こんな馬鹿げた話を誰にも話せる筈もなく、誰にも頼れる筈もない。

 まるで無人の野に一人で放り出されたような寂寥感。

 このまま一人、己の内を侵され、蝕まれていくままなのでは?

「っ!」

 そんな考えがアリサの中に更なる怖気を生み、それが抑え難い震えとなって彼女を襲う。

「…寝ない。今日は絶対に寝ないんだから……!」

 故に、アリサは震える手で毛布の端を握り締め、懸命に己を叱咤し迫り来る眠気の那美に耐えていた。

 正体不明の『昨日の私』に体を奪われないようにする為、アリサが考えたのは睡眠を摂らずに己の意識自我を保ち続けるという事だった。

 しかし、極度の精神的疲労とストレスによって、心身ともに限界近かったアリサの幼い体が、いつまでも睡眠欲に抗い続ける事など

出来る筈もなく、

「ねむったり、しない、んだか、ら……」

 重くなる瞼を擦り、頭を振って眠気を追い払おうとするものの、意識が闇に飲まれゆく感覚は抗い難く、その甘美な誘惑は徐々に彼

女の意思を浸食し、思考能力を削り落としていく。

「い……や…ねた……くな……」

 瞼が完全に閉ざされ、意識が途切れるその寸前、アリサは誰かの笑い声が聞こえたような気がした。












「っ!?」

 鳴り響く目覚ましのアラームに、即座に意識を覚醒させたアリサは、ベットから転げ落ちるように起き上がった。

「寝ちゃった!? 今日、今日は何日!?」

 アラームを消す手間すら惜しみ、アリサは机上の携帯へと手を伸ばす。

 気が動転し思うように動かない手で開いたトップ画面に目をやれば、『6/29 THU AM6:45』と表示された文字が視界

に飛び込んできた。

「…また、一日時間が飛んでる…」

 力無く呆然と呟いたアリサの手から、携帯が滑り床に落ちた。








「…リサちゃん、アリサちゃんってば!!」

「っ!!」

 何度も呼びかけられる声に、アリサはようやく我に返り、意識を取り戻した。

「な、なのは…?」

 正面へと目をやれば、眉を八の字にして心配そうにこちらを窺うなのはの姿。

「大丈夫? さっきからボーっとしていたけど…」

「あ、うん…そっか、バスに乗ったんだっけ、私…」

 アリサはここが聖祥のスクールバスの中で、すずかとなのはの二人とともにいつのもの座席に腰掛けているのを認識し、ようやく現

状を理解した。今は通学の途中だった。

 どうやら起きがけに見た携帯の時刻が相当なショックだったらしい。また知らない間に一日時間が経過していたという事実に意識を

奪われ、殆ど上の空で物事をこなしていたようだ。朝の支度や朝食、バスに乗り込むまでの記憶が途切れ途切れで酷く曖昧だった。

(いや、ひょっとしたら、これもの仕業なんじゃ…)

 ふとアリサの心中に小さな疑惑がよぎる。

 この曖昧な記憶も、今し方まで『昨日の私』に乗っ取られていたのではないか?

 段々と乗っ取られる時間が増してきているのではないか?

 一事が万事の要領で何もかもが疑わしく思えてしまってならない。振り払おうと、否定しようとしても、一度抱いた疑いの心は、ア

リサの心を容易には放さない。

(私、このまま『昨日の私』に殺されるんじゃ…)

 考えうる中でも最悪な展開に至ったアリサは、背筋を走るうすら寒さにぶるりと体を震わせる。

「アリサちゃん寒いの? やっぱり昨日から体の調子良くないんじゃ…」

「──え?」

 心配そうに優しく肩へ手をかけたすずかの言葉に、アリサは疑問の声を漏らした。

「調子が良くなさそうだった? 『昨日の私』が?」

 人の体で好き放題しているであろう奴が、一体どうしたのであろうか?

「ほら一昨昨日に、令示君と遊ぶ約束したでしょ? それで昨日の放課後に待ち合わせ場所にした翠屋に行く途中で、アリサちゃん顔

が真っ青になっちゃって、「調子が良くないから帰る」って言って帰っちゃったじゃない。やっぱりあれから体の具合が悪いままなん

じゃないかと思って…」

 体調を崩した? 「あんたなんていらない」などと傲岸不遜に宣告してきた『昨日の私』が?

 正体不明の怪物でも、調子が悪くなる事があるのか?

(いや、おかしいわ。すずかは「翠屋に行く途中で」って言った。という事はそれまでは普通に行動していた筈。それはつまり、何か

が原因で急に体がおかしくなったか、『昨日の私』にとって都合の悪い事が起きたって事じゃないの?)

 すずかの言葉を心中で反芻しながら、アリサは摩耗していた精神力を総動員して必死に思考を巡らせる。

『昨日の私』が体調を崩す程の出来事、そこにこの状況を覆すチャンスがあるかもしれない。

 アリサは死中に求める活を、その一点に見出そうとしていた。

(翠屋が原因…はないわ。どう考えても普通のお店だし。

 じゃあ翠屋に行くまでのルート? これも考えにくい。学校から翠屋行く途中なら、スクールバスで通るところもあるし、通学中に

おかしくなったなんてなのはもすずかも言っていない。

 それなら人が原因? なのはとすずかは…当然なし。『昨日の私』ともずっと一緒な訳だし。士朗さんや桃子さんも普通の人だし、

令示も普通の…って、普通?)

 消去法で原因を模索していたアリサが、令示の姿を思い浮かべたところでその思考を止めた。

 そう、御剣令示は普通の人間ではない。悪魔に、それも稀有とされるという魔人という種族に変身能力を持つ異能者だ。

 人に取り憑き、その体を奪う存在であれば、それは悪魔に近い存在なのではないか?

 となれば、『昨日の私』は翠屋で待っていた令示の存在とその力を察知し、恐れを抱いたという事なのでは?

(そう考えれば納得がいくわ。令示は『昨日の私』を私の体から追い出すか、倒す力を持っているんだ!)

 そう結論に至り、アリサは意識せず両の手を握り締め、笑みを浮かべる。暗中でようやく光明を見出した瞬間であった。

(そうとわかればのんびりしていられないわ! 早くアイツに会わないと!)

 最早学校になど行っている場合ではない。一刻も早く令示に会いこの状況を打破しなくては。

 そうなればもう迷う事などない。学校や両親への謝罪と説明など後でいくらでもすればいい。アリサがそう考えたその時、スクール

バスが道路脇で待つ数人の聖祥の生徒を乗せようと、路肩に停車した。

 チャンスとばかりにアリサは座席を立ち、バス先頭の出入り口へ向け駆け出した。

「ふえっ!?」

「アリサちゃん!?」

 背後から、呆気にとられた親友二人の驚きの声が響く。

「ゴメン二人とも! 私、用があるからここで降りる!」

 後ろを向かずにそう叫び、アリサは搭乗者しようとする生徒達を掻き分け、スクールバスから駆け降りた。

「ここからだと令示の学校は……あっちね!」

 アリサは周囲を見回して現在地にあたりを付けると、市街地の裏路地へと入り、令示の通う市立小学校へ最短距離で走り出す。

 表通りに比べ人の往来も少ないので、小学生の独り歩きを咎められる可能性が少ないという点も、考慮しての事だ。

(早く…早く令示に会わないと…)

 希望を見出した故に生まれた焦燥感に駆られ、アリサは脇目も振らずにただ走る。身の内に抱える爆弾にも等しい異物を除去せんが為に。

 ──しかし。

「わっぷっ!?」

 角を曲がったところで顔から何かに突っ込み、その動きを止めてしまった。

 勢い余って、出会い頭に通行人にぶつかってしまったのであろう。アリサは慌てて後ろに下がると当たった相手に頭を下げる。

「ご、ごめんなさい! 今急いでいたんで──」

 謝罪を口にしながら顔を上げたアリサは、ぶつかった人物を目にしてその言葉を止めた。

「どちらへ向かわれるのですか? アリサお嬢様…」

「鮫島…?」

 いつも通りの慇懃な言動の老齢の紳士、バニングス家執事である鮫島が路地の真ん中に立ち塞がり、アリサを見下ろしていた。

 しかし一体いつの間にアリサのバスからの逃走を察知したのか?、その上、入り組んだ路地の内からどうやって正確に彼女のルート

を特定したのか?

「いけませんな、今は学校に行く時間の筈ですよ。さ、私がお送り致しますから、参りましょう」

「っ!? ごめんなさい、今急いでいるから! パパとママには私がちゃんと謝るから!」

 突然現れた鮫島には驚いたが、今はそれに構う余裕などない。アリサは謝罪の言葉を口にしながら彼の脇を抜け、再び駆け出すが──

「くぁっ!?」

「なりません。行かせませんよ、お嬢様」

 素早く伸びた鮫島の手がアリサの腕を掴み、その動きを止められてしまった。

「なっ!? 放して鮫島!」

「放しません。さ、バスまでお送りしましょう」

 アリサの言葉に耳を傾ける事なく、鮫島は彼女を引き摺るようして掴んだ腕を引っ張り、表通りの方へと歩き出す。

 おかしい。と、アリサの心中に疑問が生じる。

 確かにアリサのとった行動は誉められたものではない。しかし、アリサの言い分も聞かず無理矢理連れて行こうとする程、鮫島は乱

暴でもわからず屋でもない。全く以って彼らしくない行動だった。

 普段とはどこか異質な鮫島に違和感を覚えたアリサであったが、それはともかくとして、今はこんなところで言い争っている場合ではないのだ。

 アリサは必死に抵抗し、鮫島の腕から逃れようともがく。が、所詮は子供と大人。その力の差は歴然であり、彼はまるで意に介して

いないようであった。

「くっ! …だったら、こうよ!!」

 自分の言い分をまるで聞かない鮫島の言動に、苛立ちを感じ始めたアリサは強行策に出た。

 鮫島から逃れようと彼に対して反対方向へ引っ張っていた体の動きを、急激に逆転させて押し込む──つまり、相手にタックルを仕掛けたのだ。

「ぬおおっ!?」

 予想外のアリサの行動に鮫島は対応出来ず、まともに体当たりを喰らって体勢を崩し、鈍い音を立てて即頭部をビルの壁に打ちつけてしまう。

「あっ!?」

 驚くアリサの前で鮫島はそのまま地に倒れ伏し、動かなくなった。

「さ、鮫島!しっかりして鮫島!!」

 自らの行動で親しい使用人を傷つけてしまった事に、蒼白となったアリサは慌てて倒れたままの鮫島の傍へと駆け寄り、彼に呼びか

けるが、返事はない。

「救急車…救急車呼ばないと…」

 アリサは震える手で携帯を取り出し、119をプッシュしようとしたその時、ガシリと、横合いから伸びた手が彼女の足首を捉えた。

「きゃっ!? ──って、鮫島!?」

 アリサが伸びた腕の元を目で追えば、それは地に伏した鮫島その人。

「ちょっと鮫島! 起き上がって大丈──」

 慌てて鮫島の動きを制し、「大丈夫?」と声を賭けようとしたアリサだったが、その言葉は彼の顔を目にした途端、途切れた。

「なに、それ……」

 顔が、割れていたのだ。

 ブロック塀に接触した部位に、放射状に罅が入って表層の肌が経年劣化したペンキのようにボロボロと剥がれ落ちていた。

 更にその肌の下には筋肉でも脂肪でもない、プラスチックの如くツルリとした質感の物体が広がっている。

「アギギギギッザザザザザザアアアザアザオジョ、オジョオジョオジョジョジョジョジョジョザババババババババババッ!!」

「ヒッ!?」

 鮫島──いや、鮫島の形をした異形はガクガクと瘧のように体を小刻みに震わせ、まるでガラス玉みたいな生気の抜けた双眸をアリ

サに向けると、言葉にならない狂気に満ちた叫びを発しながら、事務士の如く地を這って彼女の五体を捕えんと接近してきた。

「い、嫌…!」

 アリサは思わず後ろに逃れようとするが、足首を掴む異形の右手が枷となり、離れる事が出来ない。

 異形はズリズリと地を這いずり、更にアリサの体を掴まんと空いている左手を伸ばす。

「嫌ぁぁっ! 誰か、誰かぁ!!」

 追い詰められたアリサは、襲い来る異常現象によって精神的限界──パニックに陥り、異形を振り払おうと滅茶苦茶に暴れ、助けを

乞う悲鳴を上げた。

 しかしここは市街地の裏路地。人気も無くアリサの声を聞く者も皆無。

 アリサの叫びも虚しく、異形の左手がアリサの肩にかかる。
 
 膝立ちになった異形が正面からアリサを見た。

 人形のような自我自意識の感じられない異形の双眸が真正面からアリサを捉える。

「誰かぁ! お願い助けてぇ!!」

 殺される! その恐怖に憑かれたアリサはあらん限りの声を張り上げ、最後のSOSを求める。

 だが、その声に気付く存在はなく、足を掴んでいた異形の右手がはなれて、今度はアリサの顔へと伸び──




「──委細承知」




 横合いから発せられた声と同時に、突き出された腕が、異形を殴り飛ばした。

「アガァァァァッァアァアアッァァァァァ!!」

「え──」

 呆然とするアリサを置き去りにして異形はもんどり打って吹っ飛び、数メートル先のアスファルトの上を二転三転した後、ようやく

その動きを止めた。

 アリサの眼前には、数珠を握り込んだ拳と節くれだった枯れ木のような腕。

 その付け根へと視線をやれば、色褪せた黄色の法衣と、擦り切れた緑の袈裟を纏う木乃伊の姿が、アリサの視界に飛び込む。

「令──だい、そうじょう…?」

「無事か? アリサよ」

 結跏趺坐の姿勢で浮揚する木乃伊──魔人大僧正は突き出した拳をそのままに、異形から目を逸らす事なくアリサの安否を問うた。
















「…ぶ、無事じゃないわよぉ、来るのが遅いよ馬鹿ぁ…!」

 信頼出来る相手の登場と救助に緊張の糸が切れたのか、アリサはその場に崩れ落ち、涙を浮かべ上ずった声で大僧正を前に弱音を吐露した。

「済まぬ。じゃが──」

「ギュロロロロロロロロロロロッ」

 謝罪を口にする大僧正の視線の先で、異形が糸の切れたマリオネットのような奇妙な体勢で立ち上がり、不気味な叫びを上げる。

「まずはあのクグツを処理せねばな」

「クグ、ツ…?」

 大僧正の利き慣れぬ言葉に、首を傾げるアリサ。

「外法によって仮初めの魂魄を封入された人形(ひとがた)の事よ。普通であれば木偶を使うものなのじゃが…」

 大僧正が目を向けた異形──クグツは、人としてのメッキは剥がれてしまっていたが、それさえなければ人と見分けが付かない良く

出来た偽装であると言えた。

「しかし、何故たかがクグツ一体にここまで手間をかけたのかのう?」

「ちょっと! のんびり考えてる場合じゃないでしょうが!」

 顎に手を当て思案する大僧正に、アリサが怒鳴りつける。

「ギュガァァァァァァァァァァッ!!」

「ほ、ほら! あいつが来るわ!!」

 奇声を上げて駆け寄って来る異形を見て、アリサが慌てて大僧正の袖を引っ張り声を張り上げる。

「そう急くなアリサよそもそも拙僧が──」

 しかし大僧正は落ち着いた態度のままそれに答えつつ、

「ゴッ!?」

「このような木偶に劣る道理があるまい?」

 近付いて来たクグツの頭を左手で掴み、そのまま大地に叩きつけ余裕の笑みを浮かべた。

「無に帰せ!」

「────!!」

 大僧正は掴む相手の頭部へ更なる力を込め、粉々に打ち砕く。クグツは断末魔の声も無く、その活動を停止した。

「…さてアリサよ、一体何があったのだ?」

 地面に転がったままのクグツを睨み、仕留めた事を確信した後、ようやくアリサの方を向き直り現状の確認に入る。

「あ、うん、実は──」










 
「もう一人のアリサ、か……そやつに汝という存在が脅かされていると、そういう事じゃな?」

「ええ…」

 ここ数日間にアリサの身に起こった奇怪な出来事の子細を聞きながら、大僧正は思考を巡らせる。

「しかし妙じゃな? 汝の体より悪魔の気配は感じぬ」

「嘘なんか吐いてないわ! ほら、『昨日の私』が書いたメモもあるのよ!?」

 自身の正気を疑われたと思ったのか、アリサは憤慨しながら例のメモを取り出すと大僧正の前に突き出した。

「落ち着け、別に汝がおかしいなどとは思ってはおらぬ。そもそも拙僧がここにやって来たのは、町中に散布していた監視の目にあの

クグツが引っ掛かったからじゃ。それに汝が狙われていた以上、何らかの異常に見舞われているのは明白であろう?」

「う、うん…、ていうか、街中の監視なんかしていたの?」

「先日我らの前に姿を現した『あの女』の影響でな、この街に他にも悪魔が現れたらしいのじゃが、中々尻尾を掴ませぬ故、町中の道

祖神や塞の神、地蔵などの石像を媒介にして術式を施し、網を張っておったのじゃ。そこにあのクグツが引っ掛かったという訳よ」

「って、じゃあその入り込んだ悪魔が私に!?」

 大僧正の話により発覚した『昨日の私』の正体に、アリサは驚き大声を上げる。

「左様。『あの女』が無理矢理顕現した為に、世界と世界の間に生じた隙間から何体かの悪魔が入り込んでしまった。汝に災いを巻き

起こしたのは、おそらくはその内の一体であろうな」

 しかし、と大僧正は繋げる。

「なればこそおかしい。何故その悪魔はこんな手の込んだ悪戯のような真似をしたのか? それに汝の身より悪魔のいた痕跡一つ見つ

けられぬのもどうにも、どうにも解せぬ」

「そう言えばそうね…」

 大僧正の口にした疑問を聞き、アリサも頷きを返す。

 何故こんな遠回しに脅しをかけてきたのか?

 アリサの命や身分が目的であれば、殺して化けて変わった方がよっぽど早い。

 それがどういう訳か一日置きにアリサの意識を乗っ取ったり、恐怖を煽ったり等々、このような遠回しでまどろっこしい真似をする

必要があったのか。

「おそらく、「そうせざるを得なかった」何らかの理由がある筈じゃ。…時にアリサよ、この数日汝の家の使用人や家人の立ち振る舞

いに違和感や齟齬──普段とは違う様子はあったか?」

「え? ううん、別に自分の事で手一杯で回りの事に注意なんかしてられなかったけど、変な事はなかったと思う。でも、それが何なの?」

 大僧正の質問に答えながらも、その言葉の意味するところを読めず、アリサは首を傾げて問いを返す。

「うむ、今の汝の反応から鑑みるに、汝の家中でそこなクグツの如く成り替わった者はいないと考えて良いという事じゃ」

「──あっ!?」

 アリサは大僧正の考えを聞いて総毛立ち、思わず声を上げた。

「そうだ、本物の、本物の鮫島はどこに!? まさかこのクグツって奴に──」

「喝っ!!」

「っ!?」

 最悪の結果を想像し蒼白となっていたアリサを気合いの籠った声で一喝する。

「いかに表面を巧みに取り繕おうと所詮は木偶、その立ち振る舞いにはどうやっても違和が生じよう。だが、たった今汝が言ったであ

ろう? ここ数日汝の家の人間に異常は見られなかったと。それはつまり家人には手を出していないという事じゃ」

「でも! 万が一って事があるかもしれないじゃない!」

「だから落ち着け」

 所詮は推論に過ぎぬとばかりに、アリサは大僧正に喰ってかかるが、彼はそれに怒るでもなくただ冷静に彼女を宥め、諌める。

「ここ何日かの汝の身の回りに起こった異変をもう一度よく思い返してみよ。話を聞いただけでも、狡猾にして周到な追い詰め方じゃ。

まるで真綿で首を絞めるかのようにな。そんな手を使う悪魔が、周囲の人間を簡単に消す筈がない。それに何よりも汝に当てられた手

紙が、それを如実に訴えておろう?」

「あの手紙が?」

 アリサは大僧正の言葉に自身の掌中の『昨日の私』からの手紙に目を落とす。

「左様。その手紙に書かれた『アリサは自分がアリサであり、お前ではない』という文章、それはつまり汝の「立場」を奪ってやると

いう宣言であろう? アリサ・バニングスという「立場」が欲しい者が、それを成す為の因子である家人に手をかけるは本末転倒の筈。

汝に家人の様子を尋ねたのは、手紙の内容の確認を兼ねての事じゃ」

「それは…確かにそう考える事は出来るけど、でもそれならますますわからない。何で今になってこんな鮫島の偽物に私を襲わせたっ

ていうのよ?」

 大僧正の説得に一応落ち着きは見せたものの、それでもアリサは不満げな様子で疑問を呈する。

「ハッキリとした事はわからぬ。が、突如としてこのような、強引と言える手法へと切り替えたのには、それなりの理由があるのでは

ないかと考えておる」

「それなりの理由?」

 アリサのオウム返しの問いかけに、大僧正は鷹揚に頷く。

「うむ。アリサが今この場にいる事、この後に取ろうとしていた行動が、その悪魔にとっては不都合極まりない事のであったと考えれ

ばどうじゃ? さすれば穏便に事を運びたかったであろう相手が、このようにクグツを用いた強引な一手を打った事にも得心がいくのではないか?」

「あ──」

 大僧正の推論を耳にして、アリサは思いがけず散らばったパズルのピースの合わせ方を瞬時に見出してしまったかのような呆けた声を漏らす。

「私は令示に、あんたに会いに行こうとしていたのよ。なのはとすずかの話で、『昨日の私』が三人で遊びに行く時、急に体の具合が

悪くなって帰ったって言っていたの。それも、あんたに会いに行く途中でよ? だからもしかしたら、『昨日の私』が令示の魔人の力

を怖がっているんじゃないかって思って──」

「拙僧に会う為に通学途中で抜け出した。そしてそれに気付いた悪魔が、接触を阻止せんとクグツを送り込んで妨害をした…成る程、

そう考えれば筋が通るな」

 口元に手をあて、大僧正は思案しながら言葉を紡ぐ。

「じゃがそうなると、相手の次手読めぬな。恐れていた汝と拙僧の接触が果たされてしまった今、敵は更に強行な策をとる可能性も──ぬ?」

 と、その時、大僧正は突如言葉を切ると、後ろを振り向きの彼方の空へと目を向けた。

「? どうしたの?」

 突然の大僧正の不可解な行動に、アリサは訝しみながら声をかける。

「妙じゃな。聖祥付属のバスが学区を外れて走っておる。とうに八時を回っているというのに、生徒を乗せたままでじゃ」

「え? それ本当?」

「道路沿いの地蔵を介して視ている。間違いはない」

「おかしいわ…この時間じゃバスはとっくに学校についてる筈よ」

 学区外を生徒を乗せたまま走るスクールバス。…嫌な予感がする。

「ちょっと、確かめてみる」

 アリサはそう言いながらポケットから携帯を取り出し、登録されているなのはの番号をプッシュした。

『…もしもし?』

 数コールの呼び出し音の後、おずおずとした様子で電話口から発せられた親友の声を聞き、アリサはとりあえずその無事に安堵をする。

「もしもしなのは? …よかった、電話に出た。体は何ともない? すずかも大丈夫?」

『えっ? う、うん、私もすずかちゃんも別に何もないけど…?』

 矢継ぎ早に安否を問うアリサに対し、なのははどこか上の空で話しているような感じが見受けられる。

「? なのは? どうかしたの?」

『…んと、その…』

 妙だ。なのはの物言いが奥歯に物が挟まったかのように歯切れが悪い。

「どうしたのよ、なのは。何か気になっている事でもあるの?」

 何とも不可解ななのはの態度にアリサが問いただすと、

『えっと……その、あなたはアリサちゃん…なの?』

「──は?」

 なのはは実に奇妙な質問を投げかけてきたのだ。

「…何言ってんのよなのは。携帯が鳴った時に私の番号と名前が画面に出たでしょ? 第一、声で私だってわかるでしょうが、普通」

『う、うん、そうだけど…でも…』

 受話器の向こう側で、なのはは数秒ほど言い淀んだ後──
















「アリサちゃんは私の隣に座っているんだよ?」

















「え──」

 なのはの言い放った台詞の意味を理解する事が出来ず、アリサは言葉を失った。

 私がバスの中に居る?

「ちょっとなのは…それって一体──」

 どういう事だ? とアリサが尋ねようとしたその時、

『えっ!? あっ! ちょ──』

「なのは? どうしたのよ、なのは!?」

 焦ったようななのはの声とともに、ブツリと通話が途切れてしまった。

「一体何なのよ…」

 アリサは切れた電話に耳を当てながら、虚空を見つめてポツリと呟いた。

「如何したアリサ?」

 アリサの異変に気付いた大僧正が、近付き様子を窺ってくる。

「なのはが、バスの中に「私が居る」って…」

「やられたな…」

 アリサの言葉に、大僧正は苦虫を噛み潰したような声を漏らした。

「やられたって…どういう事よ!?」

 その言動に不安を覚え、アリサは焦った様子で大僧正に詰め寄る。

「先程申した、敵が取りうる更に強行な策…おそらくはこれじゃな」




「──お気付きですか。察しが良くて助かります」




「「っ!?」」

 突如、第三者の声が二人の背後より響き、慌てて大僧正とアリサは慌てて振り返る。

 二人の視線の先には、先刻大僧正に打ち倒されたクグツが、上半分を失った頭部をガクガクと動かしながら四つん這いで立ち上がり、

こちらへ体を向けていた。

「…打ち壊したクグツで、大した人形繰りの腕前よのう。汝がアリサを拐かそうとした悪魔か?」

 クグツの残骸へ目をやりその動きに気を付けながら、大僧正はアリサを庇うように前へ出る。

「いかにも。まあ、貴方の登場で予定が狂ってしまいましたがね。よもや街中に網を張っているとは思いませんでした」

 クグツの内部構造を利用して喋らせているのか、金属が擦れ合うような耳障りな声で、悪魔が語る。

「そんな事より! あんたがバスを変な方向に走らせているの!? なのは達に何するつもり!? 鮫島はどこ!?」

 挨拶などどうでもいいと大僧正の後ろから、アリサがクグツの残骸を怒鳴りつける。何よりも最優先にすべきは、目前の悪魔に浚わ

れた友人たちや生徒、使用人の皆の安否である。

「御安心を、バニングス嬢。貴女の御友人の二人も他の生徒達にも、鮫島氏をはじめとする貴方の家の使用人達にも危害は加えており

ませんし加えるつもりもありませんよ。軽い暗示をかけて邪魔をしないよう控えてもらっているだけです。バスの運転手も含めてね」

 アリサはなのは達は無事なようだと聞き、安堵の息を漏らしそうになるが、慌ててかぶりを振って疑いの眼差しを悪魔へ向ける。

「…本当でしょうね?」

 相手は自分を苦しめ、騙そうとした悪意の塊のような存在である。迂闊にその言葉を信用する訳にもいかない。

「おやおや信用がありませんな。ならば私の名と魂にかけて誓いましょう、大人しくなってもらう為、拘束魔法程度は使わせて頂く事

はあるかもしれませんが、それ以上は車内にいる人間に危害は加えません」

 信用なんか出来るか! と罵声を浴びせてやろうとしたアリサを大僧正が右手で制した。

「待てアリサよ。名と魂にかけて誓った以上、奴はそこに嘘偽りは差し挟めぬ。悪魔に取ってその約定を破るというのは死ぬのと同義じゃ」

「…そうなの?」

「うむ。それにあのクグツの核は先程完全に打ち砕いた故な、『クグツが勝手に誓ったから関係はない』などという屁理屈は通じんぞ?」

 念を入れるように悪魔を睨む大僧正。

「心得ておりますよ、魔人殿」

「…わからないわね、なのは達を人質にもしないのに捕まえたりして、あんた何がしたいのよ?」

 訝しげに悪魔を見つめながら、アリサは首を捻る。友達に危害がないのはいい事だが、ますます眼前の存在が何を考えているのか、

理解出来なくなった。

「何、お二方に私の催す宴の席へ御足労いただきたいのです。バスの御友人方は、あなた方に確実に確実に来ていただく為の保険とい

った所ですね」

「っ!? それじゃやっぱり人質じゃない! この嘘吐き!」

「いえいえ嘘は吐きませんよ。先程の誓いの通り、バスの人間に危害は加えません。もっとも、あなた方にお越しいただくまでは何十

年でも留まっていただきますがね」

 しれっと答える悪魔に、アリサは顔を紅潮させながら怒気を孕んだ視線を相手に叩きつける。

「ああそれと、危害を加えないと誓ったのは『車内の人間』だけなので、あなた達以外の人間が彼らの奪還に来た場合は、遠慮なく皆

殺しにさせていただきますので」

「~~~~っ!!」

 アリサの目の奥で、チカチカと白い光が飛び散る。

 怒りのあまり頭の血の巡りがおかしくなったような気分だった。

 同時に頭の冷静な部分で理解する。眼前の存在は嘘吐きではないと。

 そんな可愛いレベルの存在ではなく、人を騙し、陥れる事に愉悦を覚える最悪の詐欺師なのだと。

「是非もあるまい。それで? 汝の宴とはどこで行うというのじゃ」

 言葉も発せないほどに怒り狂っているアリサに変わり、大僧正が冷静な口調で相手に子細を問う。

「バスの行き着く先でお待ち申しております。車の動きは、そちらで把握しておられるでしょう?」

 アリサはあくまで落ち着いて振る舞う大僧正に苛立ちを覚え、その背中を睨みつ怒鳴りつけようと口を開く。

 しかし──

「承知した…なれど、覚悟せよ。魔人の縁を拐した事、よもや唯で済むとは考えておるまいな? 閻魔天の裁きを待つまでも無し。拙

僧手ずから無間地獄へと叩き落としてくれよう」

「…………」

 一見無感情な、抑揚の無い大僧正の言葉。だがその節々から滲む静かな怒りと殺意によって、アリサは冷や水を浴びせられたかのよ

うに固まってしまい、開いた口もそのままに、言葉を失い押し黙ってしまった。

 肌は粟立ち、全身が毛総立つ。アリサは事ここに至ってようやく、大僧正の身の内に籠る怒りの深さを理解した。

「フフフ…楽しみにしておりましょう。では宴の準備がありますので、これにて失礼。現地にてお待ち申し上げております…ああ、そうそう」

 頭を下げた後、悪魔は思い出したように言葉を続ける。

「饗宴の前菜として、余興を準備してありますので、どうぞ御堪能あれ。それでは」

 挨拶を言い放つとクグツの残骸は力を失い、グシャリとその場に崩れ落ちて再び物言わぬ物体となり果てた。

「アリサよ、二人の下へ参るぞ」

「え…あ……う、うん……」

 大僧正はアリサの方へと振り向き、固い声でそう言った。総身より放たれる気配は重苦しい圧力を伴ったままだ。

 アリサはその気配に気圧され、向けられた言葉にただ頷きを返す事しか出来なかった。

「? 如何した?」

 その言動の急変に違和を覚えたのだろう、大僧正がアリサに様子を尋ねてきた。

「……ねえ、アンタ大丈夫なの? あいつに話しかけてから、物凄く怒ってるみたいだけど」

 数瞬ほど、どう答えるべきか悩んだが、意を決し、思いの丈をそのまま述べた。

「………殺気が漏れていたか。身の内に留める事も出来ぬとは、愚僧も精進が足りぬな」

 アリサがおずおずと指摘した事実に、大僧正は嘆息とともに額にペタリと手を当て、天を仰いだ。

「心配致すな。これ以上怒りで我を失う無様は見せぬ──オン・マユラ・キランテイ・ソワカ」

 大僧正は軽くかぶりを振って、安心させるように努めて明るく振る舞い、意気軒昂な様を見せると、孔雀明王の真言を口にして印を結ぶ。

 アリサは大僧正の急激な感情の起伏に一抹の不安を覚えたが、次の瞬間突如として巻き起こった旋風にその懸念も吹っ飛ばされた。

「キャッ!? 何!?」

 驚きつつも目を向ければ、旋風は大僧正を中心に立ち昇っており、更には甲高い鳴き声とともにその膝元に鮮やかな蒼翠の羽毛に覆

われた鳥獣──孔雀が顕現したのだ。

「さ、乗るがよいアリサよ」

「あ、うん…」

 以前動物園で見たそれよりも遥かに巨大な、大きな牛位はありそうな孔雀の背に跨る大僧正に促され、アリサは誘われるまま歩み寄

りその隣に腰を下ろした。

「揺れるぞ、しっかり掴まっておれ!」

「え──キャァァァァァァァァッ!!」

 孔雀が大きく双翼を羽ばたかせたかと思うと、砂塵を巻き上げ一気に空へと舞い上がった。

「もう大丈夫じゃ。風を掴んで安定した故な、目を開けてみよ」

「ん、あっ…うわぁ」

 促されるまま、ゆっくりと目を開いたアリサは、眼前に広がる景色に言葉を失った。

 高さにして地上二、三〇〇メートルと言ったところであろうか。アリサから見て左側には海鳴湾と市街地のビル群が見下ろせて、正

面には三浦半島を超えて広がる太平洋が遥か水平線まで一望出来た。

 右側には天下の嶮たる箱根の山々が居並び、そのまま北の秩父山系や浅間山系へと続いていき、背面には広大な関東平野が広がっていた。

 湿り気を帯びた初夏の風が吹き抜けアリサの頬をなでる中、彼女の鮮やかな金髪が視界の端で揺れる以外に遮る物のない大パノラマが、

両目に飛び込んで来る。

 ガラス越しでも、レンズ越しでもない肉眼で捕えたその景観に、アリサは現状も忘れて心奪われた。

 しかし──

「シギィィィィィィッ!!」

「ギュイィィィィィッ!!」

「っ!? 何!?」

 突如として蒼穹に響いた奇声に現実に引き戻され、慌ててそれが発せられた方向へと目をやる。

 大僧正の肩越しに見える前方およそ一〇〇メートル程先で、アリサはそれを見つけた。

 幾つもの物体が地上から飛翔して、アリサ達の行く手を遮るように中空に布陣していく。

「何よ、あれ…」

「これが先程あやつが申した『余興』とやらか」

 半円状に包囲網を敷いた一団を見て、震える声で呟いたアリサへ、大僧正は正面を睨んだまま抑揚のない声で返答する。

 出現した一団は不気味、奇妙、奇怪…そう呼ぶにふさわしい連中だった。

 それは、プラスチックのマネキンのような質感の無機物の体と、ガラスのような双眸で、先刻アリサを襲ったクグツと同じ系統の存

在であるのが窺えた。

 だが、問題はその姿だ。

 あるものは人形の上半身のみを縦に幾つも連結し、百足のような姿をしていた。

 またあるものは、下腹部から臀部が以上に肥大化しており、更にそこから三対六脚の足が伸び、その先端には巨大な鉤爪が生えてい

る蜘蛛のようなクグツや、両腕が大鋏と化し、尾骶骨部分から先端に針が付いた尾を生やす蠍を模したクグツなど、曲りなりともヒト

ガタと呼べたアリサを襲ったモノとは大きく異なっており、その姿はまさしく異形。その数、およそ五、六〇体。

 その異形のクグツの一団は皆、一様に背部より蜻蛉のような細長い透明の羽を伸ばし、震動の如き羽音を立てながら、ジリジリとこ

ちらとの間合いを詰めて来る。

「ち、近付いて来るわよ!?」

 迫り来るクグツの群れ。その異容に、怖気を覚えながらアリサは大僧正の袖を引き、どう対処する気かと問いかける。

「──問題無い」

 だが、大僧正は泰然自若としたまま答えを返し、おもむろに両手で印を組んだ。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バヤベイ・ソワカ──吹き荒べ、風天陣!」

 魔人の真言に応じるように孔雀を中心にして竜巻が生じ、周囲のクグツたちを巻き込んで上空へと吹き上げる。

「先程も申したであろう? この程度の手合い…」

 上空に巻き上げられたクグツたちを見上げた大僧正は、顔の前に印を解いた双手を突き出して交差させ──

「引き裂け!!」

 威声とともに両手を左右に振り払うと、風がうねり大僧正の腕の動きに合わせて舞い踊る。

「ガギィィィィィッ!?」

「ギュイィィィィッ!!」

 気流に捉われたクグツ達は、その身より軋みを上げ、悲鳴とともに五体を裂かれて千切れ飛び、次々と破砕されていく。

「いくら来ようとも拙僧の相手ではない」

 上空から落ちて来るクグツの破片に構う事なく、大僧正は南へと目を向けた。

「さて、先を急ぐぞアリサよ。 バスは国道十六号を南下。鎌倉方面へと向かっておるようだ」

「鎌倉って…そんなところに何しに行くのよ」

 大僧正からの報告に、アリサは怪訝な表情で首を傾げた。

「さて、のう。しかしあの性悪な口振りから鑑みるに、碌でもない考えあっての事じゃろうな。急ぎ向おうと、言いたいところではあるが…」

 大僧正が言い淀むと同時に、再びクグツの一団が地上から飛び上がって来た。

「っ!? また出た! 一体何体居るのよ!」

「時間が惜しい。敵陣を突破するぞ! しっかり掴まっておれ!!」

「うん!」

 アリサがしがみ付くのを確かめた後、大僧正は孔雀を真っ直ぐに加速させながら、新たな印を組む。

「ナウマク・サマンダボダナン・ベイシラマンダヤソワカ──毘沙門天、夜叉走牙!」

 真言の詠唱と同時に、孔雀の周りに幾つもの鬼面の魔弾が生まれ、迫り来るクグツの一団目がけ次々と襲いかかって行く。

 鬼弾の群れが喰い散らし、崩れたクグツ達の包囲網の合間を抜いて、二人を乗せた孔雀は空を駆る。

(なのは、すずか、無事でいてね…!)

 アリサは孔雀の向かう空の先を見つめながら、祈るようにそう思った。










──時間は少しさかのぼる──








なのは視点




「どうしたんだろ、アリサちゃん……」

「うん…ちょっと心配だね」

 止める間もなくスクールバスを飛び出して行ったアリサの身を案じながら、呟いたなのはにすずかも相槌を打つ。

 …考えてみれば数日前から、アリサの様子は少しおかしかったと、なのはは考える。

 二日前、何かに脅えてビクビクとしていたかと思えば、昨日には何事もなかったかのように明るく振る舞っていた。しかし、そんな

様子でもどこか遠くを見るような目をする事が多々あり、なのははいつもと違うアリサの言動や所作に対して、言い知れない憂いと不

安を感じていた。

 何かいつもと違う。それで何か悩みでもあるのか? 何か力にはなれないか? と考えていた矢先に、先程のあの不可解な行動である。

(やっぱりなんか変だよ、最近のアリサちゃん…)
 
 ただの悩み事や気分の良し悪しではない。アリサは何か、もっと別の厄介事を抱え込んでいるのではないだろうか?

「ん、あれ…?」

 数日間のアリサの態度を思い起こして、うすうすと違和感を覚えていたなのはの耳に、すずかが漏らした不思議そうな呟きが響いた。

「どうかしたの? すずかちゃん」

 一旦考えを打ち切り、なのはは顔を上げるとすずかへ声をかける。

「うん…なんかこのバス、いつも走っている道と違わない?」

 首を傾げて答えるすずかの視線を追い、なのはが窓の外へと目をやると、確かにいつもの通学ルートとは異なる景色が流れていくの

が目に映った。

 それになのはの記憶ではこの道は──

「これ、学校から離れていない?」

「そうだよね。どこに向かっているんだろ?」

 怪訝そうに漏らしたなのはの疑問の声に、すずかも眉を顰めながら同調した。

 他の生徒達もこの異変に勘付いたのか、俄かに二人の周囲でざわめきが立ち始める。

「なんかいつもと道違くねえ?」

「だよなぁ、いつもだったらもう学校着いてるし…」

 不審と不安が入り混じった声が、ちらほらと聞こえ出したその時──

「あれ?」

「止まった…」

 突然、バスは停留場でもない路上で停車した。

 更なる疑問符を浮かべた生徒達の前で、乗車口が開くと一人の生徒が乗り込んで来た。

 満面の笑みを浮かべて通路を歩き近付いて来るのは、先程降車したアリサその人だった。

「ハァイ。なのは、すずか!」

「え…?」

「…アリサ、ちゃん?」

 先刻とは打って変わって明るい様子で、アリサは二人に声をかけて来る。なのはもすずかもその変貌ぶりに、一瞬我を忘れてしまった。

「えと、用事があるって言っていたけど、もういいの?」

「ん? ああ、さっき言っていたヤツ? それならもう済んだから大丈夫よ」

 すずかの疑問に軽く答えながら、アリサは二人の傍に腰を下ろす。

「その…凄く急いでいたみたいだったけど、用事ってなんだったの?」

「ふふ。大した事じゃないわよ、まあ、面倒な厄介事の後始末というか、軌道修正というか…そんなところね」

「…………」

 なのはの問いに対し、アリサは口端を僅かに吊り上げた小悪魔的な笑みを浮かべて返答をはぐらかした。それは、言外に「聞くな」

と言っているようで、それ以上尋ねる事が出来ず、押し黙ってしまう。

 そうこうしている内に、バスが再び動き始めた。しかし──

「やっぱり、学校とは逆の方向に向かってる…アリサちゃんを乗せる為に、ここに来たんじゃなかったの?」

 窓の外を見ても、一向に変わらぬバスの謎の迷行にすずかは呟いた。

「ちょっと、運転手さんに聞いた方がいいのかな?」

「大丈夫よ。そんな事言わなくても、大人なんだからわかっているでしょ?」

 運転席の方へと目を向けながら漏らしたなのはの懸念を、アリサが制止する。

「でも…このままだと、海鳴の外に出ちゃうよ? それにもう、八時も過ぎて──あれ?」

 どこか呑気なアリサへ反論しながら、なのはがポケットから携帯を取り出し時刻を確認しようとしたその瞬間、掌中で携帯が震えて

着信を告げた。

「あ、ちょっとごめんね」

 二人に断っての座席を横にズレると、携帯を開いて画面に表示された発信元を確認し、なのはは息を飲んだ。

「え……これ、なんで」

 震える言葉を紡ぐなのはの目に映ったのは、『アリサちゃん』という六文字。

 そっと横目で座席に座る二人を確認するが、アリサは徒手空拳のままで携帯を操作している様子はない。

 ではこの着信は何なのか? 誰からのものなのか?

「…もしもし?」

 思い悩んだ末、数コールの呼び出し音の後に、なのははおそるおそる通話ボタンを押して受話器へ呼びかけた。

『もしもしなのは? …よかった、電話に出た。体は何ともない? すずかも大丈夫?』

 電話に出たのは、まごう事なき親友の、アリサの声。それは安心したかのような溜息を吐きながらも、どこか焦った様子で矢継ぎ早

に質問を投げかけてきた。

「えっ? う、うん、私もすずかちゃんも別に何もないけど…?」

 突然の安否を尋ねる質問の意図を理解出来ずに首を傾げつつも、取り合えずなのははその問いに対して素直に答えを返す。

『? なのは? どうかしたの?』

 どうにも調子を合わせられないなのはの様子に違和感を覚えたのか、電話の相手がその言動に対する疑問を投げかけてきた。

「…んと、その…』

 アリサが向こうに居る状況で、『アリサ』として電話をかけて来ている相手に、何と聞いたらいいものであろうか?

 上手い問いの文言が思い浮かばず、なのはは目を泳がせながら考え悩む。 

『どうしたのよ、なのは。何か気になっている事でもあるの?』

 何とも煮え切らないなのはの態度に、若干の苛立ちを帯びた問いが飛んで来た。

 その声で意を決し、なのはは真正面から疑問をぶつけんと口を開く。

「えっと……その、あなたはアリサちゃん…なの?」

『──は?』

 数瞬の間を置いた後、気の抜けた声が受話器から響いた。 

『…何言ってんのよなのは。携帯が鳴った時に私の番号と名前が画面に出たでしょ? 第一、声で私だってわかるでしょうが、普通』

 そう、それは当然の答え。受話器の向こうに居る相手は己がアリサ・バニングスである事に何の疑問を持っていない。しかし──

「う、うん、そうだけど…でも…」

 なのは再び横目で二人の方へと目をやりつつ、若干言い淀んだ後──
















「アリサちゃんは私の隣に座っているんだよ?」
















『え──』

 なのはの言葉が衝撃的だったのか、電話の相手は言葉を失い、二人の間に暫し静寂が流れる。

「……ちょっとなのは…それって一体──」

 やがて混乱から立ち直ったのか、電話の相手がなのはの言葉の真意を問い質そうと声を発したその時、背後から伸びた手が、なのは

の携帯を奪い取った。

「えっ!? あっ! ちょ──」

 慌てて振り返り、携帯の行方を追おうとしたなのはの目前で、

「駄目じゃないなのは。私達を放って長電話なんて感心しないわね」

「アリサ、ちゃん…」

 優しげな笑みを浮かべたアリサが、携帯の電源を切りながらそう窘める。

 いつも通りのアリサの所作。しかしそこに、そうであるが故に、なのはは彼女対し言い知れぬ違和感を覚えた。

「どうしたのよ、なのは。まるでお化けにでもあったみたいな顔して」

 そんななのはの様子を訝しみつつも案じるアリサ。

「っ…」

 なのははアリサの脇を抜けてすずかの隣に立つと、ジッとアリサを見つめる。

「な、なのはちゃん…?」

 突然の奇妙な友人の行動に、すずかは驚きつつもなのはに呼びかける。

「アリサちゃん、あなたは…本当のアリサちゃんなの?」

「言葉の意味が理解出来ないわ。何が言いたいの? なのは」

 真正面から見つめて真剣な面持ちで問いをぶつけるなのはに対し、アリサは若干不快そうに眉を顰めながら言葉を返す。

「あなたは、私とすずかちゃんが「知っている」アリサちゃんなの?」

「え? なのは、ちゃん…?」

 なのはの紡いだ言葉を聞き、すずかが目を見開き驚きの声を漏らす。

 無理もない、それは言外に『お前はアリサ・バニングスじゃないだろう?』と聞いているようなものだ。

「酷いわ、なのは…私が友達じゃないって言うの?」

 悲しそうに顔を歪めるアリサを目にして、なのはの胸に罪悪感の痛みが走る。

 しかし、ここ数日のアリサの奇妙な言動や、先程の不可思議な電話の事が脳裏をよぎり、確かめずにはいられなかった。

「…じゃあ、私たち三人が友達になった切っ掛けは? 何だったか覚えているよね?」

 だから、尋ねる。答えて欲しいと、あの電話が単なる偶然や悪戯であってほしいという一縷の希望に縋るかのように。

「…………」

 だが、その答えは無い。

 アリサはなのはの問いに対して感情を消した無表情となり、黙したまま何も語らなかった。

「アリサ、ちゃん…?」

 そのアリサの様子に、すずかは信じられないものを見たかのように、呆然と彼女を凝視する。

 知らない筈がない。覚えていない筈がない問いかけだった。

 あの出会いが、喧嘩が、今の三人の関係を作り出した始まりであり、大切な思い出なのだから。

 故になのはとすずかは理解し、確信した。

 目前に居る彼女は、アリサ・バニングスではないと。

「……あ~あ、こんなに早くボロが出るなんてね」

 数秒の睨み合いの後、アリサ──否、アリサの姿をした少女は、忌々しそうに溜息を漏らしながら愚痴をこぼした。

「やっぱり、アリサちゃんじゃないんだね…?」

「違う…違う違う違う!! 私が「アリサ」よ! あんな奴じゃない、私が「アリサ」なのよっ!」

 確認の為に尋ねたなのはの言葉を耳にした途端、少女は顔を歪ませ怒りの籠った大声を叩きつけてきた。

「「っ!?」」

 豹変とも言える激情の発露に、なのはとすずかは驚きたじろぐ。

 周囲の生徒達も少女の大声によって三人の異変に気が付き、こちらへと注目を集める。

「あのミイラといい、アンタ達といい、なんでアイツばっかり…」

「え──」

 こちらを睨みつけたまま、吐き捨てた少女の言葉の中に混ざる単語に、気になるものを聞き取り、なのはは思わず声を上げる。

「ミイラって…まさか大僧正さんの事?」

「ああ、あのミイラそんな名前なんだ? 全く、アイツを捕まえる邪魔までしてくれて…最悪な奴だわ」

 顔を顰め、憎々しげな様子で大僧正に対して悪態を吐く少女。 彼女が語る「アイツ」とは、おそらくは本物のアリサの事であろう。

 少女の言葉から読むに、どうやら本物のアリサは大僧正に窮地を救われたようだ。親友の無事に、なのはは心中でほっと安堵の息を漏らした

「…私達を、どうするつもりなの?」

 なのはの影からすずかが少女に向かって問うた。

 その声を聞いてなのはも我に返り、眼前の少女へ注意深く目をやる。

 本物のアリサへの干渉が失敗し、その後に自分達の下へ現れた以上、何らかの手段を自分たちへ行うのは必定である。それが何なの

かはわからないが、決して良い事でないのは容易に想像できる。目の前にいる相手は油断してはならない存在だ。

「別にどうもしないわよ。安心なさいな」

 が、そんな二人の思考を知ってか知らずか。少女はすずかの問いを鼻で一笑した。

「本当に…?」

 相手の反応を窺うように見つめるすずかに、少女は肩をすくめて答える。

「アンタ達に危害を加える意味はないし、むしろ私にはマイナスにしかならないもの。だって──」

 少女は口端を吊り上げ三日月の如き笑みを浮かべると、






──私はアイツの全てを奪ってやるんだから──






 双眸に熾火のように妖しく揺れる光を宿し、楽しげに弾む口調でそう言った。

「えっ? それってどういう──」

「残念時間切れよ。ようやく着いたみたいね」

 言葉の意味するところがわからず、その真意と問いただそうとしたなのはであったが、少女がそれを遮ると同時に、バスがその動き

を止め、乗車口が開いた。

 窓から覗く景色は、市街地から離れた住宅街の更に外れ。山林にほど近い空き地であった。

「待っていましたよ。アリサ」

 乗車口から黒いスーツを身に纏った男性が、少女に声をかけながらバスに入って来た。

 見知らぬ他者の侵入に、ざわざわと周囲の生徒達が大きくざわめき始める。

 背の高い男だった。天井に頭が届いてしまう為、やや背中を丸めてゆっくりと後部座席へと近付いて来る。

 アフリカ系かアラブ系か、褐色の肌の持ち主で、深浅他種な皺の刻まれた顔から読める年の頃は、五〇代くらいの壮年。

 こちらへ向ける黒い双眸には、歳相応の深い知性の光が見て取れた。

「おじさん、なんだか色々邪魔が入ったし、計算違いがあったみたいだけど、大丈夫?」

 些か不満げに少女が文句を述べる。

「問題ありませんよ、アリサ。街中であればともかく、ここは既に私の領域です。たとえ相手が魔人であろうとも、おそるるに足りません」

 だが、おじさんと呼ばれた黒人の男性は、少女に向かって優しく微笑みながら力強く宣言する。

 …どうやらここまでバスの動きは彼女のみならず、この黒人の男性も絡んでいたようだ。

 そして何より聞き捨てならない言葉があった。「たとえ魔人であろうとも、おそるるに足りません」と。それは──

「あなた達は、大僧正さんを──令示君を倒そうとしているの?」

 なのはは自分の胸元に、最も信頼する相棒に手をやり、少女と男性に問う。

「ええ、そうよ。あのミイラが「アイツ」を捕まえるのを邪魔するんだもの」

「アリサの望みを叶える為です。彼には御退場願いますよ」

「っ!? そんな事させない! レイジングハート!!」

 この二人を放置すれば、令示もアリサにも危険が及ぶ。そんな事、なのはが許容出来る筈がない。

 何としても阻止しようと衆人環視の中だという事も忘れてデバイスを起動させようとする。無力化すればどうにかなると考えながら。

 しかし──

「いけませんね。幼子がそんなものを振るうのは危険ですよ」

「っ!?」

 レイジングハートを動かすよりも早く、男性の腕が伸びてなのはの手を掴んだ。

 ただならぬ雰囲気に、周囲の生徒達もいよいよ混乱の容相を呈してきた。

「ふむ。少々騒がしいですね…皆さん、静 か に し て 下 さ い ね

 男性が言葉に威を込め、周囲へ微笑を向けたその途端──

「ひっ!?」

「う、あ…!」

 我が子に向けるような慈愛に満ちる優しげな笑顔にも関わらず、そこに覚える感情は腹の底から凍え上がりそうな恐怖。

 喧騒から一転、車内は水を打ったような静けさに包まれる。

 バスの中の生徒達は誰一人、石になってしまったかの如く、指一本動かす事も出来なくなっていた。

「さて、これで皆さん大人しくなりましたし…」

 言いながら窓の外へと目を向ける男性。

「……っ!?」

 釣られて、なのはが異常に重くなった首を無理矢理動かし、男性の視線を追う。

 なのははその先に、バスの近くへと降り立つ巨大な孔雀と、それに跨る法衣の木乃伊と金髪の少女の姿を捉えた。

「彼らを迎えるとしましょう。アリサ」

「ええ。おじさん」

 二人は動けぬなのはをそのままにバスの入口へと歩いていく。

「待って…!」

 なのはは去りゆく二人を止めようとするがその身は強張り、意のままにならずにバスの床へと膝をついてしまう。

 このまま彼女達を行かせる訳にはいかない。

 アリサや大僧正の身の安全も心配だ。だが、眼前のもう一人のアリサの存在もまた、なのはの心を掴んで離さなかった。

 どこか気にかかる、放っておけない雰囲気を持つ少女…

「なのは、また後でね」

 彼女は足を止め、首だけをなのはの方へと向けると満面の笑みを浮かべてその一言だけを発し、男性の後について外へと向かって行った。

 動けぬなのはには、その背中を目で追う事しか出来なかった。












令示視点




「お待ち申しておりましたよ、お二方」

 朝比奈インターチェンジ付近の空き地。
 
 上空より聖祥のスクールバスを発見し、その傍らへと孔雀を着陸させた大僧正とアリサに、バスより出て来た男が恭しく頭を垂れて挨拶をする。

「お初にお目にかかります、私は黒男爵と申します。以後お見知り置き下さい」

 長身の黒人であった。年の頃は壮年、黒いスーツを身に付けた紳士然とした男性──黒男爵。

「その声…アンタがさっきのふざけた事言ってた悪魔ね?」

 大僧正の袖を掴みながら、アリサは眼前に立つ黒男爵を睨みつけた。

「はい。クグツ達の余興、楽しんでいただけましたかな?」

「楽しいわけないでしょうが…! そんなことより、なのはとすずかは!? みんなは無事なんでしょうね!?」

 おどけた調子の悪魔の言動に、怒りもあらわにアリサは益々険の籠った視線を向ける。

「ええ、先程口頭でお約束した通りに。まあ、暴れて怪我をしそうだったので、私のデビル・スマイルで大人しくしていただきましたがね」

「…ふん。なる程のう」

 黒男爵の人通りの言動を眺めていた大僧正は、つまらなそうに呟きを漏らす。

「? 何か?」

 その様子に黒男爵は不思議そうに首を傾げた。

「空を舞う羽や蟲の如き部位を持つ改造型のクグツを、短期間にあれほどの数を揃えられる程の力…ただの悪魔にはちと荷が勝ち過ぎ

ておると疑問に思うておったが、汝を見て得心がいったわ。ヒトガタに仮初めの命を込める程度、神代の死霊術の使い手たる汝には、

造作もない事であろうなぁ、黒男爵──いやさ、堕天使ネビロスよ」

 両者の間に、数瞬の沈黙が流れる。

「──フ、フフフフフフ…お気付きでしたか」

 黒男爵が愉快そうに笑みを浮かべると同時に、その足元から薄緑色の燐光が立ち昇り、彼の姿を覆い隠す。

「何、あの光…!」

 乱舞する燐光を中心にして吹き荒れる颶風に、アリサが顔を逸らしながら声を上げる。

「マグネタイト…悪魔が現世に降り立つ為の力の源泉じゃ。…そら、奴が正体を現すぞ」

 マグネタイトの輝きが大気に散華し、黒男爵がその本性を開帳する。

 それは、赤い外套に身を包んだ男であった。

 布の隙間から覗く肌は、人にあらざる紫。顔には髑髏を模した白い化粧を施し、全身に白の化粧や緑の刺青を入れた、辺境の呪術師

を彷彿とさせる姿だった。

「改めて御挨拶させていただきます。魔軍元帥にして死霊術師ネクロマンサー、堕天使ネビロスでございます。以後、お見知り置きを…」

 先程、黒男爵と名乗っていた時と同じくネビロスが頭を垂れると、彼の右手から吊り下がった操り人形が、繰り手の動きに合わせて

ペコリと会釈をした。

 それを目にした大僧正の身の内の令示は、どこまでも人を食った奴だと心中で吐き捨てた。

「堕天使…ネビロス?」

 アリサがポツリと、疑問の呟きを投じる。

「魔界でも魔王級に次ぐ屈指の大物悪魔の一角じゃ。死霊を操る術に長けた外法の使い手よ」

 言いながらアリサの横顔を見やれば、大僧正の内心と同様の想いを抱いてるらしく、眉間に皺を寄せてネビロスを睨みつけている。

「拙僧らの名乗りは…いるまいな。時間も惜しい故、単刀直入に申すぞ。今すぐバスの中の人間すべてを解放し、アリサへの干渉の一

切を止め早々に魔界へと戻れ。さすればこの一件、ここで手打ちとしよう」

「ちょっと!? 何勝手に決めてるのよ!」

 大僧正の述べた要求に対し、ネビロスよりも早くアリサが抗議の声を上げた。

「…アリサよ、何よりも優先すべきはなのは達の無事であろう? その為であれば、あ奴らなぞ捨て置いてでも良しとせねばならぬ。

業腹ではあるがな」

「むぅ…」

 ネビロスを見つめたまま淡々と語る大僧正の弁は、全く以って正論。故にアリサは反論を返す余地がない。

 何より、先程のクグツを介したネビロスとのやり取りで噴出した怒りが、抑えが利かず、言葉の端々から漏れていたのであろう、大

僧正の押し殺した感情を察したのか、アリサは押し黙り、引き下がる。最も、その表情からは不満がありありと見て取れたが。

 だがその時──

「拒否するわ」

 バスのステップを踏み付ける金属の響きとともに発せられた声が、大僧正の要求を一蹴した。

「ソイツと同じ意見なのは気に食わないけど、今更そんな条件飲める訳ないでしょ?」

 バスの影から完全に姿を現したその姿に、二人は呆気にとられ見入ってしまう。

 二人の視線を受けながら、傲然と笑みを浮かべるその人影は、ネビロスの存在以上に驚くべきものであった。

 腰まで届く鮮やかなブロンドにシミ一つ無い白磁のような肌。

 白を基調とした聖祥大付属小女子の制服に身を包んだ、その人影がこちらへと向ける薄いグリーンの虹彩の双眸には、知性と気丈さ

の輝きが見て取れた。

 見紛う筈もない。

 その姿はアリサ・バニングスそのものであった。

「…な、何よ。何なのよあんたは!? 一体誰!?」

 突如現れた己と瓜二つの少女に、数瞬我を失っていたアリサだったが、かぶりを振って気を取り直すと人差し指を突きつけ問いを発した。

「誰って…私はアリサよ」

「はぁっ!?」

 つまらなそうに返答した少女が、自らを『アリサ』と名乗った事に、アリサはますます動揺と驚愕の想いを強く発露させる。

「何を言ってるのよ! アリサは私よ!! 勝手に人の名前を使うな!!」

「へえ、「アリサ」って名前はアンタ一人の物なの? 世界中の「アリサ」はみんなアンタに許可を取って名乗っているんだ?」

 小馬鹿にするように、アリサの主張を鼻で一笑し見下すもう一人の『アリサ』。

「~~~~~っ!!」

 その挑発に、アリサは怒りで顔を紅潮させ、歯軋りしながら相手を睨みつける。が──

「落ち着け。安い挑発じゃ、相手にするな」

 大僧正はそんなアリサの前に手をかざし、今にも飛びかかって行きそうな彼女を制する。

「い、言われなくたってわかってるわよ…!」

 ばつが悪そうに唇を尖らせるアリサの様子に、言わなかったら絶対殴りかかっていたなと確信しながら、大僧正は改めて正面──ネ

ビロスの隣に並び立ったもう一人の『アリサ』へと目を向けた。

「して、汝は何者ぞ? こちらのアリサの体を操り、なり替わって生活をしていたのは汝であると推測するが?」

「ふん。まあいいわ、教えてあげる。確かにソイツの代わりに学校に登校していたのは私。手紙も読んだでしょ?」

「あのノートの切れ端、あんたが書いた物だったの!? 私の体奪って好き勝手に動き回って一体あんた何者!? 何が目的よ!?」

 ここ数日間、自身が体験した怪現象の元凶が目前に居る。

 アリサは鬱積していた感情を叩きつけるかの如く、自身に酷似した少女へ問いを投げかけた。

「失礼ねえ。私はまだアンタの体に触れてすらいないわよ」

 アリサの激情に反比例するように冷めた口調と視線をこちらへと向けて来る『アリサ』。

 そんな彼女の態度が更にアリサの怒りを煽り立て、『アリサ』を睨む視線は一層きつくなる

「こんなところにきて嘘吐くんじゃないわよ!!」

「嘘なんか言っていないわよ。アンタはね、おじさんの魔法で一日中眠らされて、その姿も見つからないように隠されていただけだも

の。私はその間に学校に行って、なのはやすずかと過ごしていたのよ」

「は──」

 悪魔が関わる以上何か恐ろしげな計画を企てていたと思っていたのであろう。想像に対して『アリサ』の取った行動の小ささ、意味

不明さに、アリサはその真意を測りかね、怒りが散じて気の抜けた表情を作る。

「何故そのような事を? 汝らがその気になればアリサの体を奪う事など容易であった筈」

 アリサに代わり、大僧正がその疑問を呈する。こんな回りくどいやり方をして何になるのか? それはアリサも抱いている疑問であろう。
 
「確かに、おじさんに頼めばすぐにでも出来たでしょうね。でも、それじゃ意味がないのよ。

 無理矢理に──殺して奪ったんじゃ、それはただの動く死体に過ぎない、私はそれじゃ満足できない。私はね、完璧な体、完全な人

間の体が欲しいのよ」

「人間の体って…あんた、自分の体を持っているじゃない。何で私の体なんて欲しがるのよ…?」

「人間の体? 「これ」が?」
 
 怪訝な表情のアリサの疑問を、『アリサ』は己の体を抱き締めながら皮肉気に笑う。

「この体はね、おじさんが造ってくれた偽物の体よ。成長もしない、痛覚すらない。おじさんからの力を──マグネタイトを供給され

なければ、すぐに崩れてしまう、脆い脆い仮初めの肉」

「偽物だって言うの、その体が…?」

 信じられないとアリサが目を見開き『アリサ』を見る。

「そう。だからアンタの体が欲しいのよ、完璧な形で。その為にはアンタの心だけを殺して、無傷の体を手に入れる必要があるの」
 
 心を殺す。それは精神にのみダメージを与えるという事、つまり──

「なるほど、一日置きにアリサに成り替わっての行動も、手紙を使って脅しをかけたのも、全てはアリサを精神的に追い詰め、その心

を壊す為であったという事か」

「その通りよ。まあ、所詮は体を手に入れる為の手段に過ぎなかったんだけど、思いの外楽しめたわ。ソイツが前の日の記憶がない事

にビクビクしたり、手紙を見た時の青ざめた顔! 笑いが止まらなかったわ」

 ケラケラと、実に愉快な様子で『アリサ』は笑いを上げる。

 その双眸は泥沼の如き濁った光を放ち、隠そうともしない憎悪と殺意をアリサへと向ける。

「ひっ…!」

 その圧力に飲まれ、アリサは小さく悲鳴を漏らして後ずさる。

 それは無理もない事であろう。以前誘拐された時でさえ、対面した犯人達は外道ではあれど常軌を逸した存在ではなかった。笑いな

がら凶行を成そうとする存在に、幼い少女の精神が耐えられる筈もない。

「もっとも、ダイソウジョウだっけ? アンタのお陰で計画は全部おじゃんよ。しょうがないから、アンタを殺してからゆっくりソイ

ツの心を追い詰める事にするわ」

「な、何でよ…! 私はっ! あんたなんか知らないし、憎まれる覚えもないわ!! なのに、何であんたはそこまで…!」

 恐怖に耐えながら、アリサが必死に反論する。

 確かに疑問であろう。

 アリサの体が欲しいというのは理解は出来る。しかしそれはアリサを怯えさせて楽しんだり、憎々しげに殺意を向ける理由にはならない筈だ。

 その点が納得いかず、アリサは『アリサ』へ疑問をぶつけた。

「…それよ。アンタのそういうところがムカつくのよ」

 すっと、浮かべていた笑みを能面のような無表情になると、『アリサ』は抑揚のない冷たい声で、ポツリと答えを返した。

「──え?」

「アンタは自分がどれだけ恵まれているのかまるでわかっていない。自分の周囲に在るものは、最初からあって当然の、空気のような

ものとでも思っている。 それはどんなに神様に祈っても、どんなに世界を恨んでも手に入れる事の出来ないものだというのに。アン

タのその無知が、殺したいくらいムカつくのよ!!」

 語っている内に怒りと苛立ちが許容を超えたのか、『アリサ』は激情を言葉へ乗せ、アリサへと叩きつけた。

「…もういいわ、おじさん。さっさとあのミイラを殺して、アイツの体を手に入れましょ」

「承知しました。ではアリサ後ろへ」

 ネビロスに促され、『アリサ』は踵を返して後方へと下がり、バスの脇へと向かった。

「戦闘は避けられぬな。アリサ…汝も下がっておれ」

「う、うん…」

 剥き出しの怒気と怨嗟の念を向けられ、不安に曇る表情のままアリサも大僧正の指示に従い、数メートルほど後方へと身を引いた。

 残ったものはネビロスと大僧正のみ。

 魔界屈指の大悪魔と、悪魔も恐れる魔人が対峙する。

「…一つ問う。何故、汝のような大悪魔がそのような童の言葉につき従う?」

「たった一人でこの世界を彷徨っていた哀れな幼子の願い、聞かぬ訳にはいかないでしょう?」

 大僧正の疑問に、ネビロスは当たり前の事を聞くなとばかりに言い切る。

「大人しく退くつもりもない、か。悪魔でアリサをつけ狙うとあれば最早是非も無し。汝の身を粉砕し無理矢理にでも魔界の本体へ還

ってもらおうぞ」

 言いながら大僧正が戦闘態勢を取る。

 しかし、そう言いながらも大僧正の胸中では違和が生じていた。

 眼前に立つネビロスは、構えを取るでもなくただ漫然と立ったまま笑みを浮かべ、こちらを見ている。

「……何がおかしい。この期に及んで勝機があると思うてか? この地では汝が得意とする死霊術ネクロマンシーも、存分に振るう事も出来まい」

 そう、ここは石を投げれば死体に当たる戦国時代でも中世欧州でもなく、世紀末や大破壊後のトウキョウでもない現代日本だ。

 ネビロスが得意とする死霊魔術も、その力を発揮するには些か分が悪い筈だ。その証拠に、ここに来るまでにクグツには襲われたが、

アンデット系の悪魔には一度も遭遇していない。

 だというのに──

「フフフ、果たしてそうですかね…?」

 このネビロスの余裕はどういう事か? もしや、自分は何か見落としているのではないか?

 相手の態度に益々違和感が肥大し、大僧正は疑心暗鬼に捕らわれそうになる。

(くっ、なら速攻でけりをつける。どんな策があろうが、こいつをブッ倒しちまえばそれで終わりだ!!)

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──不動、火界呪!!」

 大僧正の中で令示はそう決断すると、湧き起こる疑問を振り払って印を組み、真言マントラを唱えた。

 印より生まれた紅蓮の炎が螺旋を描き、ネビロスへと襲来する。

「──おいでなさい」

 だが、迫り来る火炎を目にしてもネビロスの態度は不変。静かにただ一言、そう呟きを発した次の瞬間──

「なんと!?」

 不動炎がネビロスに命中する寸前、彼の正面に轟音とともに地面より高さ三メートルはありそうな巨大な赤い壁がせり上がり、その

攻撃を完全に遮断し、防ぎ切った。

「ふむ、一切不浄を焼き払うという不動明王の炎ですか。大したものだ、よもや一撃でこの防壁が崩されるとは思いませんでしたよ」

 不動炎を直撃を受け、ボロボロと崩壊していく壁の向こう側から、ネビロスが姿を現す。相変わらず不敵に笑みを浮かべたまま。

「確かに不浄たる死霊を操る私と、不浄を払う真言密教を使う貴方とでは、最悪と言っていい程に相性が悪い。ですが──」

 言いながら、ネビロスが左手の指を鳴らす。

 するとそれを合図に、ネビロスと大僧正の周囲に、先程と同じ赤い壁が幾つも地面よりせり上がって来た。

 まずい。このままではまずい。胸中の違和感が警鐘へと変わる。

「この地、この場所においては、その相性は逆転すると断言せねばなりますまい」

 もう一度ネビロスが左手を鳴らす。

 途端、周囲の赤い壁が小刻みに震えて変形し、人の形をとりながら蠢きだす。

 それは、巨大な人骨の群れであった。赤い壁が変形し生まれたのは、下半身が無く、宙に浮かぶ赤い巨大骸骨──死者達の骸骨や怨

念が集まって合体し生まれた巨大骨悪魔、邪鬼ガシャドクロ。赤い壁は、人骨の塊だったのだ。

 幾十、幾百も生まれたガシャドクロ達は、円陣を組んで大僧正を取り囲む。

「何故…これほどのガシャドクロの群れがこの土地に…」

 周囲を見回し、大僧正が呆然と呟きを漏らす。

「この地なればこそですよ。この死都鎌倉の鬼門なればこそ、ね…」

「鎌倉だと!?」

 ネビロスの台詞に、大僧正は驚きの叫びを発した。

「ほう、御存知でしたかこの場所がいかなる場所か」

 骸の軍勢の向こう側で、ネビロスがほくそ笑む。

「鎌倉の語源は『かばねぐら』。神代の時代、神武天皇の東征においてまつろわぬ民の『しかばね』を、山のように築き上げ『くら』を成した故についた名前…」

 呻くように言葉を漏らしながら、大僧正はネビロスを睨みつける。

 鎌倉の語源には諸説あるが、一説によればかつて、神武天皇が東国を征服しようとした際、東戎がそれに刃向かった為、天皇はその

民衆に毒矢を射かけた。

毒矢は万を超える人々を死に至らしめてその骸が山となし、今の鎌倉の山となったとか、谷を埋め尽くしたなどと言われ、屍が倉を作

り「屍倉」となった。それが訛って「鎌倉」と呼ぶようになったと言われる。

(やられた…!)

 大僧正の中で、令示は歯噛みした。

 警鐘は確信へと変わり、事ここに至って自分は相手を追い詰めたのではなく、まんまとおびき出されたのだと悟る。

 何故今の今まで気が付かなかったのか。鎌倉という場所は死霊術師にとって宝の山に等しい場所であるという事に。

「…鎌倉は死霊の巣窟。つまり拙僧はまんまと汝の策に嵌められたという事か…」

「神武天皇が東戎を殺し尽くして築いた屍山血河、その数一万。 鎌倉本地ではないとは言え、鬼門であるこの地であれば、死霊を呼

び出し操る事、私にかかれば造作もない事。さて、余興はこれまで。目障りな貴方を降し、アリサの悲願を叶えるとしましょう。

 さあ、いかな死の具現たる魔人と言えど、死を操るこの私の前には膝を折るしかないと知りなさい!」

 その思考、仕手はまさに老獪。完璧な計算の下、大僧正を追いこんだネビロスはせせら笑う。

 群雄割拠、弱肉強食、下剋上。常に鎬を削り合う魔界において、地位を保ち続ける大悪魔の最も恐るべき点は、その能力でも勢力でもない。

 齢を重ねた知恵、狡猾な手練手管こそが、最も恐れるべきものなのである。

 魔人という、規格外の力を手にしたが故の油断。怒りによって視野狭窄となっていた事もあって、令示は完全に足元をすくわれた。

「ガシャドクロよ、魔人を蹂躙なさい!!」

『グアァァァァァァァ!!』

 ネビロスの号令に応じ、ガシャドクロ達が叫びを上げて四方八方より大僧正へと殺到する。

「クッ!? ナウマク・サマンダボダナン・ベイシラマンダヤソワカ──毘沙門天、夜叉走牙!」

 大僧正はここの危機を脱せねばという焦燥の念に駆られるまま、正面より迫り来るガシャドクロの群れに向け、鬼面の魔弾を撃ち放つ。

「グガァッ!?」

「ギュオッ!!」

 鬼弾が次々とガシャドクロへ襲いかかり、骸骨たちを粉砕し撃退していく。

 しかし、その残骸、苦しむ同族を踏み越えて更に後方から来る増援のガシャドクロ達が、生まれた空間を埋め、すぐさま大僧正へと

逆襲をかけて来る。

「チィッ! オン・マカラギャ・バゾロウシュニシャ──ガッ!?」

 一向に怯む様子もない第二波へ向け、今度は愛染明王の呪を唱えようとした刹那、横合いから襲撃してきた一体のガシャドクロが、

大僧正の頭部を殴りつけて詠唱を止められた。

「グッ!? おのれぇ!!」

 大僧正は怒号とともに握った拳を振り抜いて、ガシャドクロを殴り返す。

「ぎっ!?」

 襲い来たガシャドクロは、短い悲鳴とともに頭蓋を打ち砕かれて消滅するが、背後から正面から側面から、間断なくその他のガシャ

ドクロ達が攻撃を仕掛けて来る。

「チイッ!!」

 その攻勢に苛立ちと焦りを覚えながら、大僧正は背後から肩に噛みついてきた一体へ、舌打ち混じりに裏拳を放つ。

 だが──

「ギュイィィッ!!」

「くっ!?」

 打点のズレた一撃は、ガシャドクロを滅しきる事が出来ず、そいつは頭蓋の半分を粉砕されながらも動きを止めずに、逆に攻撃を放

った大僧正の右腕に絡みついて、その行動を阻害する。

 ガシャドクロの顔には、勝ち誇る会心の笑みが浮かんでいた。

「舐めるな三下!!」

 しかし、大僧正は怒声とともにガシャドクロが絡みついたままの右腕を振り上げると、その笑みが驚愕へと変じた。

「ゴォォォォッ!?」

 絶叫を上げるガシャドクロに構う事なく、周囲の敵勢へと腕ごとそいつの体を振り回し、武器代わりに叩きつける。

 二度、三度と続け様に打撃を与える度に、腕へと伝わる力は弱まり、四度目にしてその拘束を解いてガシャドクロは消滅。

 だが気を抜く暇は無く、新たな個体が双碗を振り上げ突撃してくる。

(キリがない…!)

 迫り来るガシャドクロ達を撃退しながら、大僧正は内心で歯噛みする。

 まるで死肉に群がる蠅の大群だ。追い払っても追い払ってもこちらの攻撃の隙を縫い喰いついて来る。

 個体としての能力差が大きい為、致命傷には至らないが、全身に細かな傷を負い、僅かずつではあるがダメージは蓄積しつつあった。

 そして何より問題なのは──

(こ奴ら、先刻より手や頭を集中的に狙っておる…拙僧に真言の詠唱をさせぬ腹積もりか!)

 これもまたネビロスの策略であろう。

 大僧正にとって大きな威力、範囲を誇る真言魔術を封じられるという事は、能力の大半を制限されるに等しい。無論、ゲームと同じ

スキルは別個で使えるが、それにしてもこうも敵に囲まれ絶え間なく攻撃を受けていては魔術同様に使う事はままならない。

 ──そもそも、初動の選択をミスしたのだ。

 最初に相対した時から、ネビロスはなのは達の乗るバスを背後にして立っていた。これでは威力や貫通性の高い魔術は巻き添えの危

険があって使えない。大僧正もその恐れから、ジュエルシードの暴走を止めた倶梨伽羅の黒竜や、帝釈天の呪法を唱えなかったのである。
 
 使用する能力が限定されるそんな状況であるならば、ガシャドクロに囲まれた際に攻撃ではなく空中に逃れるか、防御陣を敷いて迎

撃体勢を整えるべきであった。

(今更気付いたとて、後の祭りだがな…!)

 悔みつつも詮無き事と切り捨てる。

 第一に、相手は権謀術数に長けた、海千山千の大悪魔。よしんば自分がそんな行動を取ったとしても、すぐに別の一手を打った可能

性があるし、向こうになのは達が居る以上、取り返す側の自分達はどうやっても後手を踏まざるを得ない。

(チッ! 打つ手なしか……!?)

 両腕を振り上げ襲って来たガシャドクロの顎部をアッパーの要領で拳で撃ち抜きながら、大僧正の中で令示が苛立ち混じりに吐き捨てる。

 袈裟や法衣は破られ、その下の肌にも裂傷や切傷が幾つも生まれている。

 大僧正は脳裏にちらつく敗北の二文字をかぶりを振って打ち消し、眼前の敵へと意識を集中した。












アリサ視点




 アリサは眼前に広がる光景を食い入るように凝視していた。

 それはにわかに信じ難い光景であった。

 令示が、アリサが知る強力無比たる存在である魔人が、雲霞の如く攻め寄せるガシャドクロと呼ばれた赤い髑髏の怪物集団に押され

ているのだ。

 アリサの知っている悪魔の戦力と言えば、すずかとともに誘拐された時に見たマタドールによる誘拐犯達の掃討戦と、先程のクグツ

戦くらいだが、その二つと比べて今の大僧正の動きは、明らかに精彩を欠いていた。

「一体どうしたのよ…?」

「わからないの? まともに戦えないのよ、アイツは」

「っ!? あんた!」

 漏らした呟きへの返答に驚き振り返れば、口端を吊り上げ皮肉気に笑う『アリサ』の姿があった。

 アリサが大僧正の戦いに目を奪われていた隙にここまで近付いて来たのであろうか?

「…まともに戦えないって、どういう事よ?」

 しかしそれよりも気になったのは眼前の相手の放った言葉であった。アリサは油断無く『アリサ』を睨みながらも、心に引っかかっ

たその一言の真意を問いかける。

 彼女は、そんなアリサを鼻でせせら笑い口を開いた。

「あれだけ大勢の悪魔に囲まれてまともに身動きが取れる訳がないじゃない。例え強力な攻撃が撃てても、バスのなのはやすずか、ア

ンタまで巻き添えにしちゃうかもしれない。かと言って弱い攻撃じゃ何体も倒せないしね」

「あ──」

 言われてはじめて、アリサは大僧正の窮地を正確に把握した。

 それを見た『アリサ』は嘲笑的な唇の歪みを更に深める。

「アハハハハハハハハハハハッ!! あのミイラ本当に憐れね! あんなに必死で戦っているのに、肝心の、原因のアンタが全くその

理由をわかっていないなんて、なんて滑稽! まるでピエロじゃない!!」

『アリサ』の笑い声に立ち眩みを覚え、アリサはその場でよろめいて地面に腰を落としてしまった。

(何で、こいつはこんなに私を…)

 自分の為に親しい者たちがどんどん傷付いていく。それは、まるで底なしの泥沼に足を取られ、抵抗虚しくジリジリと呑まれていく

ような感覚。

 目の前にいる自分と同じ顔をした存在は、そんな己の苦しむ様を愉悦を帯びた表情で、しかし当然と言いたげな冷たい視線で、アリ

サを見下ろしていた。

「…アンタさぁ、本当に役立たずで疫病神だと思わない? だって──」

『アリサ』は猫のように目を細めて笑い、桜色の唇をその場に座り込んだアリサの耳朶へとそっと近付けた。

「あそこでアンタの為に戦ってるミイラは、アンタが役立たずなばっかりに今にも殺されそうじゃない?」

「えっ!?」

 言われてアリサは、はっと顔を上げて戦場へと目をやる。

 ガシャドクロ達に襲われ続ける大僧正は、ズタズタに引き裂かれた法衣姿と全身の傷が相まって、ボロ雑巾の如き様を呈していた。

 最早風前の灯火と言ったその容相に、『死』の一字が脳裏に浮かび全身が総毛立つ。

(このままじゃ令示が…! 早く、早く助けないと…)

 心中に生じた危機感に、焦りに駆られるまま思考を巡らせるアリサ。だが──

(私じゃ、あいつらに太刀打ち出来る訳がない。

 バスのなのはは? 魔法が使えるって話だし…って、あの娘がこんな状況を黙って見ている筈がない、なのに未だに出て来ないのは

動けないって事じゃない。 …駄目だ、やっぱり私じゃ何も出来ない)

 どう考えても手詰まりであった。

 どうにもならない絶望と何も出来ない悔しさに、アリサの目頭に涙が浮かぶ。

(なんで……なんで私は何も出来ないのよ! 本当にこのまま大僧正が、令示がやられて、こいつに体を乗っ取られるしかな──)

 ──待て。「体を乗っ取られる」?

 その一言にアリサは引っ掛かりを覚えた。

 さっきあいつは何と言った?

 思い出せ、思い出さなくてはならない。

 その言葉に現状を打破する糸口があると、アリサは感じとっていた。故に、必死で記憶を掘り下げる。






──私はね、完璧な体、完全な人間の体が欲しいのよ






 脳裏によぎる、『アリサ』の言葉。

(っ!? これ!!)

 まるで、複雑な迷路の脱出ルートを看破したかのように、アリサは勝利への一手を掴んだ。

 アリサの考えが正しければ、己の手で起死回生のチャンスを手にする事が出来るだろう。

 そう、アリサの考えが正しいのであれば・・・・・・・・・・・・・・・

(…本当に、これで大丈夫なの? こいつやあの悪魔が、この考えも含めて最初から私を騙していたとしたら? 私の考えなんて、と

っくに読まれていたとしたら?)

 全てはアリサの推測にすぎないのだ。自分の考えが間違っている可能性や、相手が自分の上をいっている可能性も捨てきれない。

 失敗してもやり直しは聞かない。しかも支払う対価は己の命だ。

 アリサが二の足を踏むのは詮無き事であった。

 どうする? 動くべきか動くまいか。ぐるぐると思い悩み、逡巡するアリサ。

「ぬぉぉっ!?」

 その耳に、大僧正の苦悶の叫びが届く。

 我に返ったアリサが顔を上げ正面を見やれば、魔人の体がガシャドクロに殴り飛ばされたところであった。

 大きく体勢を崩した大僧正へ、ここぞとばかりにガシャドクロの群れが殺到し、赤い小山のようになる。

 アリサは、以前テレビで見た動物ドキュメンタリーで、ハイエナの集団が草食獣を追い詰め、寄ってたかって喰い殺したシーンを重

ね合わせ、思わず目を逸らしそうになる。

 しかし──

「舐めるなぁっ!!」

 赤い髑髏の小山より響く大喝に、それを止めた。

 五体に絡みつくガシャドクロ達を粉砕し、破砕し、撃破し、打破し、死者の群れを割って魔人が姿を現す。

 それでも尚ガシャドクロ達に組みつかれるその体は、正しく満身創痍なれど、未だ意気軒昂。未だ気炎万丈。

「死を喰らい、死を殺し、死を御してこその魔人!! 二〇〇〇年もの時を地の底で死に捉われ燻っておったカビ臭い亡者どもが、拙

僧を喰らおうなどとは片腹痛いぞ!!」

 肩に齧りついていたガシャドクロを無理矢理引き剥がし、力任せに地面へと叩きつける。

「────ッ!!」

 声無き断末魔の叫びを漏らし、ガシャドクロは四散し、その骨片はマグネタイトの粒子となって空に散華する。

「拙僧の首が欲しくば、この十倍は用意するがいい、戯けが!」

 そう言いながら呵々と笑いを上げ、大僧正はチラリとアリサの方へと顔を向けた。

(あ──)

 アリサと視線があっても尚、大僧正はからからと笑い続けていた。

 それは時間にして、三秒にも満たない短い時。

 直後、彼は再度襲って来たガシャドクロ達との乱戦へと入り、その姿は赤い人骨の壁に阻まれ見えなくなってしまった。

 そんな短時間ではあったが、大僧正の言いたかったであろう事はアリサに伝わっていた。

 あれは、「心配するな」と言いたかったのだと。

 痛い癖に精一杯元気に。

 怖い癖に胸張って大威張りに。

 クラスに一人か二人は居る目立ちたがりな馬鹿な男子生徒とまるっきり同じレベルの行動だった。

(って、アイツも同い年か)

 そんな益体もない考えがよぎり、アリサは思わず笑みがこぼれる。

 悩む事などなかった。

 馬鹿な友達が一人、虚勢張って自分や皆の為に戦っている。

 ならば、自分もそんな友達の為に思いっ切り馬鹿をやってやろう。

 アリサの決断が、心中の迷いの霧を払い、四肢に力を巡らせる。

 込み上げる気力に任せ、アリサは一気に立ち上がり駆け出した。──一路、大僧正の元を目指し。

「あっ!?」

 アリサの背後で驚きの声が上がる。言うまでもなく『アリサ』の発したものだ。

 だがアリサはそれに構う事なく一直線の最短ルートで大僧正の元へと向かう。当然その手前に立ちはだかるは、ガシャドクロの群れ。

一体一体がアリサの四、五倍はあろうかという身の丈と大きさ、そしてその身から発せられる闘気と迫力に、一瞬圧倒され怖気付きそ

うになる。

 だがアリサはかぶりを振って己の恐怖を捻じ伏せると、身を低くしてひしめく巨骸達の隙間へと隙間へと入り込んだ。

「ギッ!」

「ギギッ!?」

 突然の闖入者にガシャドクロ達の間に驚きや戸惑う声が上がり、その感情が群れの中で次々と伝播していく。

 だが、その内の一体がアリサへと意識を向け、彼女の前へと立ち塞がった。

「っ!? アリサ!! おのれ、退けい三下ぁ!!」

 ガシャドクロに囲まれていた大僧正が、己の包囲網に入り込んだアリサの存在に気付き、周囲の巨骸を打ちのめしながら怒声を張り上げた。

 そいつはアリサを獲物とみなしたようで、威嚇の如くガチガチと歯を打ち鳴らし、彼女の体を引き裂かんと高々と腕を振り上げた。

 だが、アリサはそれを目にしてもその場から動く事無く、じっと相手の動きを見つめるのみ。

 恐怖に囚われた、のではない。これはアリサにとっての賭けだった。

 己の考えが正しいか、否か。確かめなくてはならない。だからアリサは、己を打ち砕かんとするガシャドクロの凶手を黙って見上げ

ていた。これを乗り越えなくして、起死回生の策は成立しない故に。






「やめなさい!! その娘に傷一つ負わせるな!!」






 凶手がアリサへ振り下ろされる寸前、その場にいる誰よりも速く声を発したのはネビロスであった。

 その表情にも声にも先程対峙した際のような余裕は無い。

 隠す事ない焦りの混じった召喚主の叫びによって、使役されるガシャドクロはその動きを止める。

 その瞬間、己の考えが正しかった事を確信したアリサは、再び駆け出す。

 アリサが確信した事実、それは『ネビロス達はアリサに傷を負わせられない』という事。

 先程の会話で漏らした、『アリサ』発した言葉がその事実を物語っていた。

 連中はアリサの体を完全な形で乗っ取る為に、傷を負わせる事をタブー視していたのだ。

 ──つまり、それを逆手にとれば──

「助けに来たわよ! 令示!!」

 走る勢いのままにアリサは大僧正の背中に跳び付き、声をかける。

「アリサ! 汝はなんという無謀を──」

「文句は後! 私の体が目的なんだから、もうこれであいつらは私達に手出し出来ないでしょ!?」

 苦言を呈しようとした大僧正を遮り、アリサが声を上げる。

 ──アリサが盾となって、手出しをさせない事も可能という事である──

「さ、反撃開始よ、大僧正!」

 己との賭けに勝ったアリサはいつもの彼女らしい、勝気な笑みを浮かべそう宣言した。












令示視点




 アリサの思惑通り、ガシャドクロ達はネビロスの命令によって彼女に手を出せず、更に自らを盾にするように密着している為、大僧

正にも攻撃が出来ず、数メートルの距離を置いてこちらを取り囲み、様子見をしている。

 アリサがおぶさるようにして大僧正と密着している為、彼女への攻撃を禁じられているガシャドクロ達は二人に手を出す事が出来ず

戦いは一種膠着状態となっていた。

(さて、どうするか…)

 ガシャドクロ達と睨み合いながら、大僧正は思案する。

 アリサの奇策──という事はあまりに無茶苦茶で肝を冷やした暴走と呼ぶには等しいが──で、値千金の時間的猶予を得る事が出来た。

 しかし、ここからどう己の流れに持って行くか、それが問題だ。

「…ねえ、何であんたまであの骸骨たちみたいに動かないの?」

「決め手に欠けるのじゃ。威力の弱い技ではガシャドクロの壁を穿てずにネビロスの奴めに届かぬ。さりとて威力が強過ぎれば、あ奴

と傍のバスまで巻き込んで攻撃してしまう」

「それはさっきあのニセモノ女に聞いたわよ!! だったら、空とかからこいつら飛び越えて空から弱目の魔法とか誘導弾みたいな魔

法とかで直接あいつを狙うのは!?」

「地中にまだガシャドクロを控えさせておる筈。拙僧が奴を直に狙ってもそれで壁を作って攻撃を防ぐじゃろうて」

 澱みない大僧正の解答に、うむむ…と難しい顔で唸りを漏らすアリサ。

「なれどグズグズとしてもおれぬ。時間から考えて、未だ学校に着かないバスの事が警察に通報されている可能性が高い。街中の監視

カメラや、生徒達の持つ携帯電話の位置情報サービスからこの場所が割り出されているやもしれぬ。最悪、ここに来た保護者や警察官

が奴らの人質にされかねぬ」

「ああ、もう!! あの骸骨たちは大昔の怨霊なんでしょ!? この場所に神社とかお寺とか無いの!? ちゃんとお祓いとかしてれ

ばこんな事にならなかったんじゃないの!? 神様も仏様も揃って何やってたのよ、今の今まで!!」

「落ち着け、この地にも寺社は建立されておるし、仏神もきちんと祭られて──」

 不利な情報ばかりがもたらされた事に、うがー! と自らの背中で気炎を揚げるアリサを宥めようとしたその時、はたと己の言葉に

混じっていた事実に気付いた。

「神…そうか神か! カカカ、拙僧は阿呆か! こんなことにも気が付かなんだとは!」

「ちょっと、どうしたのよ!?」

 思い悩んでいた先程とは一転、カラカラと笑い出した大僧正の変化に、アリサがたじろぎ様子を窺ってくる。

「いや大事ない。それよりアリサよ汝の言葉で思いついたぞ、起死回生の方策を」

「え? それって──」

 アリサが大僧正の言葉の真意を問おうとするが、

「致し方ない。多少の傷は構いません、その娘を魔人から引き剥がしなさい!」

 この膠着状態に痺れを切らしたのであろう。ネビロスがガシャドクロ達へ強行策を命じた。

 召喚主の命を受け、再び巨骸の群れが二人へと殺到する。

「っ!? 来た!!」

 怯えを帯びた声を上げ、大僧正の首に回していたアリサの腕が、ビクリと強張る。だが──

「心配無用。勝機は既に我らの手中にあり!」

 大僧正は力強く宣言を発すると、印を結び呪を紡ぐ。

 その刹那、二人は次々と襲来するガシャドクロの群れに組みつかれ、赤骸の山に埋没した。








「チッ…少々強引でしたが止むを得ませんね」

 うず高く積み上がったガシャドクロの山を見ながら、ネビロスは若干不満の籠った言葉を吐いた。

「おじさん、アイツの体にあんな無茶して大丈夫なの…?」

 その傍に駆け寄って来た『アリサ』が不安げにネビロスを見上げる。

「なに、手足が折れるか千切れるかはあるかもしれませんが大丈夫、問題ありませんよ。回復魔法を使えば癒せます。まあ、何日か手

足の末端に違和感が出るかもしれませんが、それは我慢して下さい」

「う~…我慢するわ」

 完全な状態で無い事に少し不満があったのか、唸りを漏らしていた『アリサ』であったが、仕方がないと悟ったのか溜息をつきなが

ら不承不承といった様子で頷いた。

「いい子です、アリサ」

 そんな彼女の一連の所作にネビロスは、慈愛に満ちた表情を作りその頭を撫でようと手を伸ばした。

 瞬間──

 ガシャドクロの山より、巨大な白光の柱が天に向かって立ち昇った。

「ぬっ!?」

「キャッ!? 何!?」

 驚く二人が眩しさに耐えながら白光の柱へと目を向けると同時に、白光の柱に包まれたガシャドクロの山より、白い閃光が水平に走

り、『アリサ』へ向かって伸ばしていたネビロスの左腕を穿った。

「ぐおあっ!!」

「おじさん!?」

 二人の叫びが響き同時に根元から断たれたネビロスは、そこから生じた衝撃で吹っ飛ばされて背後のバスにその身を打ちつけられ、

その左腕は弧を描いて宙を舞い、地面へ血液をぶちまけた。

「ぐぅぅ…何、が…?」

 傷口より血液とともに漏れ出すマグネタイトを右手で押さえながら、ネビロスは頭を振って立ち上がろうとする。

 その時、視界の端──側面のバスの表層に突き刺さる、山鳥の矢羽根を使った一本の矢がネビロスの目に飛び込んで来た。

「これ、は──っ!?」

 これが己の腕を断ったのかという疑問を抱いたネビロスであったが、それは突如としてガシャドクロの山より響いた瓦解音によって

中断させられた。

 ネビロスと『アリサ』、二人が慌てて正面へと目を戻せば、白光の柱が周囲へと広がり、山になっていたもの以外の周囲に居たガシ

ャドクロ達までも次々と飲み込み、バラバラに粉砕して消滅させていく有様が映る。

 止める間もなく、僅か数秒程度で現存していた全てのガシャドクロが姿を消すと同時に、白光の柱も消滅する。

 後に残ったのは、いつの間に手にしてたのか、片膝立ちで黒塗りの和弓を構える魔人大僧正と、その背におぶさったままのアリサ、

そして彼らの背後に立つ、十メートルはあろうかという太陽の如く輝く光の巨人。

「──南無、八幡大菩薩…!」

 弓を射ったままの姿勢──残心を崩す事なく呟いた大僧正の言が、風に乗ってネビロス達の下へと響く。

「ハ、ハハ…何よ、あれ」

『アリサ』は大僧正が呼び出した存在を見上げ、呆れ混じりの乾いた笑いを漏らし、

「八幡神──威霊ハチマンか!!」

 ネビロスは目を見開き、驚愕の相を浮かべた。








 ──威霊ハチマン。

 別名を誉田別命と呼ばれ、応神天皇と同一とされる神。

 また、弓矢八幡とも呼ばれて武門から多くの信仰を集める存在であり、仏教との習合により八幡菩薩としての側面を持つ。

 故に大僧正の召喚に応じ、この場に顕現したのである。

 しかし、以前のジュエルシードの一件で不動明王を召喚した際も、倶梨伽羅の黒龍を使用する為の僅かな時間しか現界出来なかった。

にもかかわらず、今こうして顕現しているハチマンはネビロスの腕を切断し、ガシャドクロの群れを滅して限界し続けていた。菩薩と

いう、高位の存在であるというのに、だ。

 九個というジュエルシードを手にして尚、令示の今の実力では高位の仏神の完全召喚は手に余る技術である。だと言うのに、何故こ

のような無茶を通せたのか?

 その答えは、大僧正の睨む先──ネビロスにあった。

「策士、策に溺れるとはまさにこの事よのう、魔軍元帥よ」

 そう言いながら、大僧正が右手を横へと伸ばすと、虚空より矢が生じ、その掌中へと落ちる。

「「屍倉」の怨霊…成る程確かに死霊術師の汝にしてみれば、これほど強力な武器などそうは有るまい。しかし、「この地」に於いて

ならば、それは拙僧らも同じ事よ」

 手にした矢をゆっくりと弓につがえた。

「鎌倉の地は、征夷大将軍源頼朝が幕府を開いた源氏の本拠地。当然その氏神たる八幡神も勧請され、建立されたのが鶴岡八幡宮よ。

そしてこの地に根付き、長き時をかけて強い信仰を集めてきた。その下地がある故に、汝が召喚したガシャドクロ同様、拙僧が八幡神

の降臨を願うのも容易であったのだ。つまり──」

 きりきりと弓弦を引き絞り、鏃の先端をネビロスへと向け、狙いを付ける。

「拙僧らに対して切り札を使いながら、同時に汝は鬼札を引いていたという事よ。──南無八幡大菩薩」

 大僧正の呪に応じ、つがえた矢が八幡同様の輝く白光に包まれる。それは先程、ネビロスの腕を断った閃光。

「かつて源三位頼政が、神仏に守護された宮中へ侵入したヌエを射落とした、八幡神の加護が宿りし神威の破魔矢よ」

 数多い八幡神の別名の一つに、護国霊験威力神通大自在王菩薩の名がある。

 護国。その名の示す通りに国家鎮護、そして国利民福を意味する言葉である。

 故に、その力がこの国の無辜の民草を傷つける事は無い。源頼政が宮中で放った矢が、妖魔以外を傷つける事がなかったのと同様に。

だからこそバスを背にしたネビロスを、なのは達を傷つけずに射る事が出来たのである。

「破邪の力、その身でとくと味わえ堕天使ネビロス!!」

「くっ…!」

 引導を突きつけられたネビロスは、その場から動けず、苦渋の表情を浮かべる。

 だがそれも無理もない事であろう。大量のクグツやガシャドクロの召喚に使役、『アリサ』の肉体の維持、そして先程の片腕の切断

によるマグネタイトの消費に散失、軽く見積もっても途方もない量になる。

 サマナー仕えの悪魔のような安定したマグネタイト供給源も無く、人を襲って入手しようにも、魔人の闊歩する街でそんな真似をす

れば、すぐに気取られ排除される危険性もある。今の今までその存在を大僧正に気付かせずに秘密裏に行動していたのだ。まともにマ

グネタイトの補給など出来なかった筈。如何な大悪魔とは言えこの状況では弱体化は免れない。いや、むしろ未だに消失も肉体崩壊に

よるスライム化もせずに体を保ち続けていること事態、信じ難い頑強さであると言えた。

(だが、それもここまで。この一撃で決めてくれよう)

 大僧正はとどめの一撃を与えんと、引き絞った弓弦を解き放とうとしたその時──

「っ! アリサ、何を!?」

『アリサ』がふらりとネビロスの前へと進み出て、その行動に驚く彼を庇うように、大僧正の前へと立ちはだかり、その矢道を塞いだ。

「…そこを退け娘。ハチマンの神威、喰らえばその矮躯程度、跡形も無く消し飛ぶぞ?」

「…好きにすれば?」

 大僧正の感情のこもらぬ声で通告するも、『アリサ』はどこか投げやりに答えを返した。

「彼の言う通りです、下がりなさいアリサ。貴女があの攻撃を受ければ、肉体どころか魂にも大きな傷を負いかねません。下手をすれ

ば、存在自体消し飛んでしまいかねません。悪魔である私とは違うのですから」

 ネビロスが優しく諭すが、『アリサ』は力無く首を横に振った。

「もうどうにもならないわよ…おじさんだって、もう余分な力は無いんでしょう?」

「確かに…ですが貴女が前に出る理由にはなりません。何、所詮この身は分霊、魔界の本体がある限り滅びる事はない。だから安心なさい」

「……嘘でしょ?」

 ネビロスの方へ顔を向ける事なく、ポツリと『アリサ』が呟きを漏らした。

「おじさん、死なないって言ったけど、また私のところに戻って来れるの? 出来るのならそれはいつ? 明日? 明後日? 必ず帰

ってきてくれるって、約束してくれる?」

「それは──」

『アリサ』の問いに、ネビロスは答えを濁した。

 肯定できる筈がなかった。分霊は敗れた場合、本体へダメージがフィードバックされる。

 それは分霊に振り分けた力が大きければ大きい程、倒された際のそれに比例して本体に返るダメージも大きくなる。

 ネビロスがどれ程この分霊に力を注いだかはわからないが、使われた術の手並みから考えて、相当なマグネタイトを込めた高位分霊

である事は間違いない。

 これだけの高位の分霊が倒れれば、本体に返るダメージは計り知れない。手傷を回復し、再び分霊を派遣出来るまでどれ程の時間が

かかるか、軽く見ても百年二百年ではきかないだろう。

 そこから再び『アリサ』を見つけ出し再会できる可能性は、…正直砂漠に落とした針を見つけられるかといった程度の位の確率であろう。

「約束、出来ないんでしょう?」

『アリサ』はネビロスの方を振り返り、力無い乾いた笑みを浮かべた。

「なんで『私』なのかしらね…? パパもママも友達もいない。挙句に乱暴されて殺されて。今度はおじさんともお別れ。同じ人間で、

同じ「アリサ」なのに、私ばかりが奪われる…」

(…乱暴されて殺された? 同じ「アリサ」?)

 遠くを見つめながら吐露された『アリサ』の身の上に、大僧正は思わず二人へ傾注する。

 天涯孤独で、乱暴をされて殺されたアリサそっくりの少女…一人、心当たりが浮かんだ。

「…成る程、今の言葉で理解した。汝はアリサの同一存在──並行世界のアリサだな?」

「並行世界?」

 大僧正の呟きの意味がわからなかったのか、アリサは怪訝な表情で疑問を漏らす。

「…確率の世界、分岐した世界の事じゃ。つまりあ奴は「もしもの世界」のアリサ」

「その通りよ。私はアリサ、アリサ・ローウェル…「両親が存在しない世界」のアリサ」

 じっとこちらを見つめながら、『アリサ』が己の出自を明らかにした。




 ──アリサ・ローウェル。




「リリカルなのは」のスピンオフ元である「とらいあんぐるハート3」というゲームの登場人物だ。

 スピンオフ元とは言え、キャラや舞台の重複はあるものの、微妙に設定や年齢が異なり、まさに別世界の話の登場キャラの一人である。

 だが、より正確に言うのであればこの『アリサ』は、「とらいあんぐるハート3」の世界から更に分岐した、「なのはと出会わなか

ったアリサ」と言うべきであろう。

「とらいあんぐるハート3」のなのはに出会っていたのであれば、「友達もいない」などと言う筈もないし、未だ幽霊として存在して

いる筈がない。だが、そんな世界の存在が、何故この場に現れたのか?

「互いに交わる事無き故に並行する世界の筈。何故汝はこの地へ現れたのだ?」

「私も最初は訳がわからなかったわ。気が付いたらいきなりこの世界に投げ出されてて、元々私がいた海鳴市と同じようで色々なとこ

ろが少しずつ違っていて、私がおかしくなったのか、世界がおかしくなったのかって、凄く混乱した。…そんな時よ、おじさんに会ったのは」

 当然の疑問を口にした大僧正へ、『アリサ』はそう言葉返してネビロスを一瞥する。

「おじさんは私の話を聞いて、色々教えてくれたわ。おじさんが悪魔だという事、この世界が私にとって別世界である事、おじさんが

居た世界の強い悪魔が、無理矢理移動してきた影響で、不安定になった時空間揺れに巻き込まれて、私とおじさんはこの世界に流され

て来てしまったという事…」

(強い悪魔って、もしかして…)

(考えるまでも無い。「あの女」の事じゃ)

『アリサ』の言葉を聞き小声で尋ねて来たアリサに、同じく小声で答える大僧正。

「おじさんから話を聞いて、私は同一存在──「この世界の私」の事が気になった。一体どんな娘なんだろうって…それでおじさんに

頼んで、あちこち探してやっと見つけてその生活を覗いて見たのよ。…そうしたらどう? ちょっと一緒に居る予定が潰れたくらいで、

「もういい! パパもママも大嫌い!!」なんて叫んで…」

「それって、私が無理矢理眠らされるれる前の日の──」

 その声に、アリサは四日前──彼女の主観時間では二日前だが──の事を思い出しているようであった。

「そうよ。それを聞いて、本当に憎らしかったわ。だってそうでしょう? 家族も友達も、私には無いものを全部持っている癖に、そ

の大切さもありがたみも、まるでわかっていないんだもの。だから奪ってやろうって、嫌いなら貰ってもいいだろうって、そう思ったのよ」

 俯きながらそう告白をした『アリサ』は、フッと口端を吊り上げて皮肉気な笑みを浮かべ、「でも」と言葉を繋げる。

「全部無駄だった。何重にも仕掛けた罠もおじさんが呼び出した悪魔達もやられた挙句、「私の時」にはどんなにお願いしても助けて

もくれなかった神様までソイツを助ける為に現れて…アハハハハッ! ホント、呪われているのかしらね、私って」

 自嘲的な笑いを漏らし、『アリサ』は大僧正の背後に立つハチマンを見上げる。

 遠くを見つめるようなその双眸には、諦観の色が浮かんでいた。

「もう、何もかもどうでもいいわ。もう疲れた…」

 力無い乾いた笑みを浮かべて『アリサ』は静かに心中を吐露し、自ら大僧正が構える弓矢へと歩み寄り、鏃の先端に己の胸を押しつけた。

「また一人になるなら、このままおじさんと一緒に殺してよ」

 胸に喰い込んだ鏃が『アリサ』の肉を抉り、偽りの体を形成していたマグネタイトが漏れ出す。
















「ダメ!」
















『アリサ』が更に一歩踏み出そうとしたその時、横合いから響いた叫びがその足を止めた。

 全員が声の発せられた方向へと傾注すると、そこには手摺りにもたれかかる様にしてバスのステップを降りて表に現れたなのはの姿があった。

 ネビロスの負傷によりデビル・スマイルの構成が甘くなったのであろう、そこを持ち前の抗魔力で無理矢理術を破り、ここまでやっ

てきたなのはは、額に脂汗を浮かべ、苦しげな表情で『アリサ』の元へと歩み寄って来る。

「なの…は?」

 鏃の先端を己が身へ突き立てようとしていた『アリサ』は、その動きを止め、呆けた声を漏らした。

「ダメだよアリサちゃん! そんな終わり方、絶対ダメ!」

 フラフラと覚束ない足取りで『アリサ』の元へ近付きながら、なのはは彼女の行動を咎める。

「…バスの中でも喋ったし、私達の話しは入り口からでも聞こえたでしょう? 私はアンタの知っている「アリサ」じゃない。真っ赤

なニセモノよ。本物はあっち」

 だが『アリサ』は、意に介する事なく淡々となのはの説得を流し、親指でアリサを示しつつそう嘯いた。

「よかったじゃない、偽物の私は消えて滅びて万々歳。誰もが納得のハッピーエンドでしょ?」

「こんなのハッピーエンドじゃない! ちっとも嬉しくないよ…!」

 皮肉っぽい『アリサ』の物言いに、なのはは大きくかぶりを振って反論した。

「だってあなたが、アリサちゃんが全然幸せになってないもの!」

「はぁっ!?」

 予想外のなのはの言動に、驚きの表情を見せる『アリサ』。

「ア、アンタ馬鹿じゃないの!? 私が幸せになっていないなんて当り前じゃない、私は負けた悪役なのよ!?」

『アリサ』から諦めの色が消え失せて、焦燥感の滲む台詞を吐き出した。

 それを耳にした途端、なのはの眉が吊り上がり、

「悪い事をしたからって、幸せになっちゃいけない理由にはならない!!」

「!?」

 激情のこもる言葉を『アリサ』へと叩きつけた。

 おそらくは『アリサ』の言動に、今は別世界の空の下で贖罪を続ける友人の姿が被ったのであろうと、大僧正を考えた。

「私の、幸せ……? 何よそれ、アンタが幸せにしてくれるとでも言うの? だったらさあ、私と同じになってって、死んでくれる? 

って聞いたら死ぬの!? どうせ出来やしないでしょ!? 綺麗事ばかり言わないでよ!!」

 なのはの激情が呼び水となり、『アリサ』は目尻に涙を浮かべ、剥き出しの感情をさらけ出す。

「……私が」

 己の睨む『アリサ』の視線を数秒、真正面から受け止めてなのははポツリと言葉を漏らした

「私が死んで、アリサちゃんと同じになったら、アリサちゃんは幸せになれるの?」

「──え?」

 その切り返しは予想外だったのであろう、『アリサ』は険が抜け落ち呆けた表情を浮かべた。

「それが本当に幸せだって言うのなら、それはなぜ? どんな理由で?」

「────」

 重ねられる問いに、沈黙を守る『アリサ』。いや、答える事が出来ないのであろう。

 今なのはが命を断って幽霊となり、『アリサ』の傍に行ったとしても、喜びなど一時の事だ。

 灼熱の砂漠に僅かな水を撒いても見る間に乾いてしまうように、二人のみの変化のない日常は、すぐに色褪せ、無味乾燥なものへと

なり果てる。幸せとは程遠い結末である。

 そしてなにより、なのはのこの問いかけに答えない、反論しないという事自体『アリサ』本人が一番それを理解している事に他ならない。

「今はちょっと遠いところに行っている私の友達がね、前に言ってたの。「友達が泣いていると、同じように自分も悲しいんだ」って。

…だから助けたい、力になりたいんだ、アリサちゃん!」

『アリサ』の目前にまで迫っていたなのはは彼女の手を取り、誠実に訴えた。

「なんでよ…私はその娘じゃない。アンタの友達じゃないでしょう……?」

「友達だよ、少なくとも私はそう思っている!」

「それはアイツの──元々アンタの友達の「アリサ」と混同しているだけじゃない! 私はアイツじゃない!」

 じっと視線を合わせたままのなのはの手を振り払って、『アリサ』は否定の言を叩きつけ、

「…うん、そうだね」

「え?」

 あっさりとそれを肯定された事に再び言葉を失った。

「貴女は、この世界のアリサちゃんとは違う全然別の人。今ならわかるよ」

「わかるって、何がわかるのよ!?」

 超然としたなのはの態度が癇に障ったのか、『アリサ』はきつい口調で詰問する。

「三日前の算数の自習の時、クラスの男の子に分数の計算教えてあげてたよね?」

「…あんなの、アイツでも教えられるでしょ?」

 ぶっきらぼうに言い捨てる『アリサ』へ、なのはは頷きを返す。

「うん。アリサちゃんもよく勉強でわからないところとか難しいところを人に教えている。でも、それはやっぱり同級生らしい喋り方

だよ。貴女は優しいお姉さんみたいな感じだったな」

「…他の連中が子供なだけでしょう? 私は精神年齢が高いのよ」

「あと、一言だけの挨拶にも凄く楽しそうに返事をしてたよね?」

「……幽霊になって長いから、会話に飢えていただけよっ」

「すずかちゃんと私と三人で、うちのお店でシュークリームを食べていた時、目をキラキラさせて美味しそうに食べてくれてたよね?」

「甘い物なんて久し振りだったから、ちょっとテンション上がってただけよ!」

 矢継ぎ早に投げかけられる問いに対し、いちいち反論する度に『アリサ』は感情的になっていく。

「なんで…なんでなんでなんでなんでなんで! なんで今更私に構うのよ!! そんなに…そんなにされたら我慢、出来ないじゃない…!!」

 臨界を超えた感情に流されるまま胸の内をさらけ出して、『アリサ』は涙を流しながら俯き、嗚咽を漏らした。

「──言ったよね? 友達だから放っておけない、力になりたいって」

「だから私は友達じゃ…」

「私が名前を呼んで、私の名前を呼んでくれて、一緒に遊んで、話して、勉強して…これだけしたら、もう友達だよ」

『アリサ』の否定を遮って、なのはは彼女へと一歩、足を踏み出し、

「それは──」

「それに、これも言ったでしょう?」

『アリサ』の小さな肩をぎゅっと抱き締める。

「あ…」

「「友達が泣いていると、同じように自分も悲しいんだ」って。私は悲しいよ? アリサちゃんが泣いてると、凄く悲しい」

 若干上擦る声で告げたなのはの言葉に、『アリサ』は、ビクリと体を震わせた。

「…………そっか、やっとわかった」

 抱き締められる事数秒。中空を見つめながら『アリサ』は誰に向けるでもない呟きを漏らした。

「私が欲しかったのはアイツの体でも、生活でも、家族でもない。「私」を見てくれて、「私」を認識してくれて、「私」の為に泣い

てくれる友達が欲しかったんだ…」

「アリサちゃん…」

「おかしいと思ってた。アイツになり替わっても、その体が手に入りそうになっても、嬉しいと思うのに何かが足りない、心がどんど

ん乾いていくような、そんな気がしていた。当然よね、たとえアイツの全てを奪っていたとしても、結局周囲の人間は私を「アリサ・

ローウェル」ではなく、「アリサ・バニングス」としか認識しないんだから。私の行動は、最初から破綻していたんだ…

 でも、だからこそ──」

「あっ…」

『アリサ』がなのはの肩に手をやり、正面から彼女の顔を見つめた。

「なのはに会えた。私を見てくれて、私の為に泣いてくれる、私を友達って言ってくれる娘に」

『アリサ』を見るなのはの顔は、あふれる涙で濡れていた。

 他ならぬ、『アリサ』を想い流した涙だ。

「ああ…体が解けていく」

 うわ言のような呟きとともに、『アリサ』の体を構成するマグネタイトの結合が分解され、四肢の末端から淡緑の燐光が生まれて宙

に舞い、それに比例するように彼女の体がゆっくりと薄まっていく。

「アリサちゃん!? 体が消えて…!」

 その様子になのはが声を荒げる。

「心残り、無くなっちゃったからね…ずいぶん遅くなっちゃったけど」

『アリサ』は険の取れた表情で苦笑する。

 この世への未練が消えたのだ。故に彼女は自らの意思でこの世から去ろうとしている。

 それは滅びではなく、解放。彼女は新生の為に輪廻の輪へと戻るのだ。

「ふむ、もう危険は無いか…」

『アリサ』より危険な気配が消えた事に、最早戦闘の構えは必要ないだろうと判断した大僧正は、引き絞っていて弦を緩ませ、弓を降

ろした。…一応、念の為という事で、ハチマンはそのまま待機させてあるが。

「──ねえ」

 構えを解いた大僧正──正確にはその背にしがみついたままのアリサへ、『アリサ』が視線を向けてきた。

「ここまでやっておいて、許してなんて虫の良い事言えないけど、これはちゃんと言っておかないとね…八つ当たりで体を奪おうとし

て、ごめんなさい」

「…………」

 大僧正の背中から降りたアリサは無言のまま、自分へと頭を下げ謝罪する『アリサ』を訝しげに見つめる。

「アリサちゃん…」

 なのははそんな不穏な二人へ交互に、不安の混じる視線を送りながら心配そうにアリサの名前を呟く。

「うう…ああもう! わかったわよ許す、許すっ! っていうか、この雰囲気で許さなかったら、私完全に悪役じゃないの!」

 なのはの懇願の視線を受けて、アリサはしかめっ面でそう怒鳴り、大きく溜息を吐いた。

「ありがとう! アリサちゃん!」

「ありがとう…」

「…ふんっ」

 なのはと『アリサ』に礼を言われたアリサは、不機嫌そうにそっぽを向く。が、その頬はやや紅潮しており、照れ隠しである事は一

目瞭然であった。

「──アリサ、もうよいのですか?」

 その時、沈黙したまま事の成り行きを見守っていたネビロスが『アリサ』に問うた。もう逝くのかと?

「うん、おじさんごめんなさい…私の我儘に付き合ってくれたのに、そのせいでおじさんは…」

 その問いに頷きながら『アリサ』は申し訳なさそうに目を伏せ、謝罪を口にした。

「気にする必要はありません。要は貴女が幸せであるかどうかにあったのですから。それに、先程も言ったように私は死ぬ訳ではなく

魔界の本体へと還るだけです。再活動までに暫し時間はかかりますが…なに、私の目的や細かな後事は私の朋友がやってくれるでしょ

うし、問題はありませんよ」

『アリサ』と同様に、ネビロスもまた体内のマグネタイトの枯渇によってその姿が薄れつつありながらも、彼女に向けて笑いかける。

「貴女の行く道に幸があらん事を」

「ありがとう。私もおじさんが探している娘に早く逢える事、祈ってるね」

「はい、では──」

 その言葉を最後に、堕天使ネビロスは完全にマグネタイトの粒子と化して空中へと散華、消滅した。

「おじさんも消えちゃったか…私ももうすぐね……と、ああ、そうだ」

 空へと飛んで行く淡緑の光を見上げていた『アリサ』は、ふと何か思い出したようにアリサへと視線を向けた。

「な、何よ…」

 なのはの手前一応許したとは言え、命を狙って来た存在である。意識を向けられると、思わず警戒心が出る上に怯んでしまうアリサ。

「最後のお詫びに忠告。パパとママとは、早く仲直りした方がいいわよ。じゃないと、私の家族みたいに、本当に伝えたい時に「あり

がとう」も「ごめんなさい」も言えなくなるから」

 今回の一件で後回しになっていた問題を鼻先に突き付けられ、アリサは思わず「うっ」と口ごもるが、

「う~……わかったわよ…」

 元々避けては通れぬ事情であった為、アリサは渋々といった態度で頷きを返した。

「うん。それじゃ、これで最後ね、なのは…」

「アリサちゃん…やっぱりもう行っちゃうの?」

「…参ったなぁ、もう未練はなくなったと思ったのに、なのはを見ていたらまた心残りが出来ちゃいそう」

 既に四肢は完全に消え、残るは胴体と頭部のみとなった己を悲しげに見つめるなのはに、『アリサ』はやや眉尻を下げ、ちょっと困

ったような笑みを浮かべた。

「じゃあ、なのは一つ約束してくれない?」

「約束…?」

 オウム返しに問うなのはへ、『アリサ』は頷き口を開く。

「私が生まれ変わって、またこの世界へ来れたら、私の友達になってくれる?」

「うん、うん、うんっ! 私待ってる! 忘れないよ、約束の事、アリサちゃんの事!」

 大きく首を振って肯定の意を返しながらなのはが声を上げる。

「ありがとう。バイバイ、なのは──」

 その別れの言葉を最後に、『アリサ』は空気に溶けるようにその姿を消した。

 同時に放出されたマグネタイトの光が、淡緑の花弁が舞い散るかの如く周囲に乱舞した。

「逝ったか…」

 事の成り行きを見守っていた大僧正は、空中に溶けていくマグネタイトの輝きを眺めながら呟きを漏らす。

「ふむ。しかし此度の拙僧は大した事も出来ず終わってしまったのう」

 ハチマンを送還しつつ、大僧正は溜息混じりにぼやきを吐いた。

「そんな事ないわよ。あんたが居なかったら私も危なかったし」

「そうだよ! 大僧正さんが居たから、もう一人のアリサちゃんとちゃんと話せたんだよ?」

 自分的にはいまいち何もやっていなかった感覚があった大僧正だったが、アリサにそれを真っ向から否定され、なのはもそれに同意し、後押しをする。

「むう、そうだろうか…?」

「そうよ」

「うんうん」

 二人に力強くそう言い切られ、何とも面映ゆく頬を掻く大僧正。

「そうか? うむ、そう言ってもらえれば有り難い。…さて、このままゆっくりともしておれぬ。早くバスの中に居るすずかや他の生

徒を助けねばな。これから来るであろう警察や生徒達の記憶の誤魔化しもせねばなるまい」

「そうね」

「うん! すずかちゃんも心配してるだろうし」

 三人は気持ちを切り替えると、すずかの居るバス車内へと入って行った。








 ──その数秒後、ネビロスとの戦いで疲れ、隠行をかけるのを忘れていた大僧正の姿によってバス車内が恐慌状態に陥り、それを鎮

める為に魔術を用いて四苦八苦する羽目になるのであった。












アリサ視点




「はあ…疲れたぁ」

 使用人の運転する迎えの車から降り立ち、アリサは自宅玄関前で大きく息を吐いた。

 事件の後、アリサが自宅に帰って来れたのは、日が傾く夕刻となった頃であった。

 ネビロス撃退の後、大僧正が聖祥の生徒や運転手に魔術による記憶操作を施し、警察や関係各所への偽装工作を行ったところで、パ

トカーが到着し、警察による保護。そこから病院へ搬送されて怪我の有無の調査やメンタルケア。それが終わると警察官からの簡単な

事情聴取で、保護者教師との面会等々…正直目が回りそうであった。

 建前は上部外者である大僧正は、偽装工作終了後にさっさとその場から消えてしまい、後はなのはと念話とか言うテレパシーっぽい

能力でやり取りをしていた。なんでも、鮫島の安否確認やその件でのバニングスの家の使用人の記憶操作に行くとは言っていたが──

(絶対面倒が嫌で逃げやがったわね、あの野郎)

 とアリサが心中でぼやいたのも無理も無い事であった。

 とは言えバニングスの家の誤魔化しはしっかりこなしたと、なのは経由の連絡があったので、やる事はきっちりやっていたようなの

で、強くは出られなかった。

 結局のところ、この事件は計画的な愉快犯による誘拐未遂事件として処理される事になりそうである。

 生徒達は、突然バスに乗り込んで来た顔を隠した誘拐犯に鎌倉近くまで連れ回され、そこから犯人はバスから脱出し山林へ逃走。そ

の後行方不明という、大僧正の魔術で施した記憶操作のカバーストーリーのまま処理されそうだと、アリサは彼から後始末の手伝いを

頼まれたという、月村忍から電話でそう連絡を受けた。

 ともかく、事件の表向きに関してはこれで一件落着と見ても大丈夫そうだ。

(…まあ、それよりなにより一番大変だったのは、すずかだけどね)

 バスの中に置いてけぼりにされ、親友達の安否もわからぬ状態であったすずかは、現れたアリサ、なのは、大僧正の三人を叱り飛ば

す程ご立腹であり、三人は平謝りで事情を話しどうにか宥めて、渋々ながら許しを貰ったのだ。

「はぁ、今日は早く休もう」 

 アリサは再び溜息を吐きながら、自宅の扉を開いて玄関に入った途端──

「アリサ!」

「大丈夫だった!?」

 切迫した声色の両親が駆け寄って来た。

「え…パパ、ママ?」

 この時間にはいない筈の両親を目にして、アリサはポカンとした様子で声を漏らした。

「え? なんで? まだ会社に居る時間でしょ?」

「アリサの事が心配で仕事を切り上げて帰って来たんだ」

「こんな短い期間で二回も誘拐されたんだもの。心配で仕事どころじゃなかったわ」

 アリサの疑問に、父母が答える。

「とは言え、本当は直接現場に行きたかったんだが、間に合わなくてな…」

 申し訳なさそうにそう言いながら、デビットは腰を屈めてアリサと目線を合わせると、そっとアリサを抱き締めた。

「だが無事でよかった…」

「本当に…何もなくてよかった」

 父に続いて、母もアリサを懐へと抱き入れる。

「………」

 触れる両親の体が、小刻みに震えてを伝えた。

 本当にアリサの身を案じていたのであろう。自分へ語りかける父母の顔は憔悴しきっており、その言葉は震え、いかにアリサの身を

案じていたのかが、伝わってくる。

(ああ、あいつの言う通りだ。私はどうしようもなく我儘だった…)

 こんなに優しい両親に「大嫌い」などと罵ったアリサは、『アリサ』から見ればさぞかし傲慢に見えた事であろう。

 愛されていない筈がない、大事に思われていない筈がないのだ。
 
 約束が守られずに辛かったのは自分だけではない、いや、自分以上に父母の方が辛かっただろう。

 大切な仕事を投げ出してまで自分のもとへ帰って来てくれた事が、何よりもその証と言える。

 だから真っ直ぐに伝えなくてはいけない。自分をこんなに愛してくれる大切な二人に、自分の想いを。

「……パパ、ママ。大っ嫌いなんて言ってごめんなさい。本当は大好き」

 アリサの言葉を聞いた両親は、少し驚きた表情を浮かべた後、笑顔を浮かべてもっと強く彼女を抱きしめる。

「ああ、パパもアリサが大好きだよ」

「勿論、私もよ」

「うん…」

 伝わる両親のぬくもりにアリサは微笑みを浮かべ、二人の胸に顔を埋める。

 父母は優しく、彼女の頭を撫でながらその様子を見守るのであった。








 閑話 海鳴怪奇ファイルVol.1 うしろに立つ少女 了








 後書き

 どうもお久しぶりです、吉野です。

 約半年のご無沙汰となります。更新遅くて申し訳ありません。

 いや、書いてはいたのですが、筆が進まない事進まない事…おまけに書いては書き直しを繰り返していたもんで、こんなにかかって

しまいました。スイマセン…

 さて、今回は外伝その1、「アリサ編」でしたが、いかがだったでしょうか?

 冒頭の文章は文豪、芥川龍之介が自分のドッペルゲンガ―を見た際の事を記したもので、今回のもう一人のアリサを書こうとした時

に色々調べ物をしていて見つけたものです。本当は「ペルソナ2罪」の冒頭のハイネの詩の邦訳版「ドッペルゲンガ―」が良かったん

ですが、あれは版権が存在するので…

 で、今回のテーマはそのドッペルゲンガーなのですが、「ペルソナ2罪」だと、主人格と敵対、相反する影の人格であるシャドウが、

ドッペルゲンガ―として現界しました。

 じゃあ「とらは3」のアリサがいるから、ドッペルゲンガーチックにして出してみるか! と言う事から始まったのが今回のお話だった訳です。

 しかし話が長くなった割りには、自分の中にもう一人の居るという恐怖や、二人のアリサの心理描写が甘かったかな? と言うのが

今回の反省点でしょうか。もうちょっと心の変化と移り変わりを書ければよかったかなと思いました。…今後の糧にします。

 後魔人とヒロイン達がペアでそれぞれ主役をはる話も考えたりしたんですが…時間の都合上没。そんなの書いていたらいつまでたっ

ても「A´S」編始められないので、一応次回の外伝終わったら本編に入ります。外伝の設定は、次回の更新時に一緒に書きましょうかねえ…


 で、今回の諸々の解説です。


 堕天使ネビロス

 言わずと知れた六本木の大悪魔コンビの片割れ。

 名台詞「愛する者の為につくすのがなぜ…いけないのだ…」を残した真性のロリコン。

 今回の閣下のお遊びの犠牲者その一。漫画版「葛葉ライドウ コドクノマレビト」の如く、愛しき幼女を求めてアラカナ回廊とか歩

いてた時に、閣下の無理矢理次元移動に巻き込まれた。

 で、偶然出会ったアリサを気の毒に思い、願いを叶えてやろうと思った人。

 基本六本木に居た分霊と同じで、基本力技で問題を片付けたり、融通が利かないところがある性格が、今回の騒動の一因となった。

(言葉の裏を読んだり、我儘を諌めたりする事が出来れば、六本木とアリスはもうちょっとマシな事になっていたと思う…まあ、悪魔

らしいと言えば悪魔らしいけど)


 威霊ハチマン

 源氏の氏神。八幡様で有名な神様。

 今回の戦いの舞台は鎌倉近くなので、じゃあ出しちまえとばかりに出してしまった悪魔。

 ハッカーズに出てくるけど、武芸の神様の割には攻撃系スキルがイマイチな感じ。


 邪鬼ガシャドクロ

 骸骨の集合体悪魔。

 メガテンシリーズでは関西弁のおばちゃん喋りだけど、今回は操られている設定と言う事で無しにしました。

 一回おばちゃん喋りで書いたらなんか間抜けだったのでw


 マシン クグツ

 真・女神転生の吉祥寺にて闊歩しているザコ。正直金属バットでもあれば、一般人でも余裕で殺せるんじゃないかと妄想するような

ぼろいマネキンのような敵。

 ちなみに後に出てきた虫のようなデザインのクグツは、アトラスの「魔剣X」の敵幹部、八卦レイのステージであるバチカンのメシ

ア教会に出て来る「栄光のスレイヴ」という雑魚をモデルにしています。


 アリサ・ローウェル

「とらハ3」のおまけシナリオに登場。ゲームではなのによって救われたキャラだが、それがもしもなのはに会わずに、救われなかっ

たという「if」ルートでの人物と言う設定。

 閣下の遊びに巻き込まれた犠牲者その2

「アリサはこんな奴じゃねえぞ!」とお怒りの方もおられるでしょうが、「隣の芝は青く見える」というやつと、なのはに会えなかっ

たルートでの歪みという事でご勘弁を。


 鎌倉

 今回の舞台に近いところ。海鳴の隣の市みたいな感じですかね。閣下の結界ギリギリのところだったので、鎌倉市の縁くらいまで行けました。

 この小説では海鳴は神奈川の設定なんですが、「とらハ3」でフィアッセが「茅場町でお好み焼き」云と言っていたから、海鳴って

実はオフィシャル設定は千葉なのか? とも考えました。葛西臨海公園=海鳴臨海公園って感じで。…まあ、正式なものじゃないから

いいかな? と思い神奈川説を採用しました。

 ちなみに鎌倉の鬼門は諸説ありますが、今回は朝比奈切り通しを採用。つーかグーグルマップでこの辺りを見ると、でっかい霊園も

あるんですよね…つーか、魔術合戦やりたさに選んだ舞台設定だったのですが、いまいち大僧正活躍できなかったですね。思った以上

にアリサとなのはが前面に出ていた…これがヒロイン力と言うものか!


 すずか

 今回出番少ない…と言うかローウェル相手だと、どうしてもなのはが前面に出ざるを得ない。因果の関係上。

 まあ次の話ではヒロインなので勘弁してほしいです。


 では長々と書いてしましたが、また次回更新時にお会いしましょう。

 次回タイトルは「絢爛舞踏会」(仮)ようやくすずかのターンです。

 あ、でも書いてる途中に真4が発売したらヤバいぞ…


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