身構えたなのはたちの前で、十一個のジュエルシードが目を潰すのではなかろうかという程の、まばゆい純白の光を発した。
臨界点に達したエネルギーが宝石の外へと放出され、崩れかけた時の庭園を上下に貫く、巨大な光の柱が顕現する。
──それは、以前なのはとフェイトが引き起こしたジュエルシードの暴走と同じものであった。
しかし、今度のそれは前回の起こしたものとは規模も威力も速さもケタ違いだ。アースラでこの次元世界から逃れようとしても間に合わない
だろう。そう判断したクロノにより、プレシアとアリシアの遺体は広間の端で結界魔法を張って安静にさせた。
空気を通し体の芯にまで伝わる圧力に、これが『世界を滅ぼしうる力』であることを、なのはたちは本能から痛感する。
それと同時に、一度おさまった震動が強さ激しさを増して再発し、足元を大きく揺るがす。
「くっ! 駄目だ、立っていられない…!」
クロノの言葉とともに魔導師たちが堪らず飛行魔法で宙へ逃れる中、マタドールは一人、地に足を付けた直立したまま眼前の白光を見つめる。
彼の視線の先──白光の柱の周囲の空間にグニャリと歪みが生じていく。
空間はじょじょにうねりを増し、白光の柱──即ち、ジュエルシードを中心にして渦のように回転を始める。
巨獣の唸りの如き、腹の奥まで響くような轟音を放ち、歪みの渦は床を、壁を、柱を、傀儡兵の残骸を次々と飲み込み、空間ごと引き千切り、
粉微塵に分解していく。
放り込まれれば防御も回避も叶わず、瞬時に粉微塵にされてしまう事であろう、恐るべき空間ミキサー。
──しかし、これですらまだ本格的な次元震には至っていないのだ。
この歪みの渦が、更に巨大化したその時、一つの次元世界を丸ごと飲み込む最悪の奈落と化す。
「おい! 本当に大丈夫なのか!?」
クロノが自身の前に立ち続けるマタドールへ、騒音に負けぬよう大声をかける。
「無論。その為にここに立ち、貴公らにも留まってもらったのだ。地球が飲み込まれる前に何としても封印する。行こうぞ諸君…!」
言いながら、マタドールが後方へ目をやれば、
「うん!」
「はい!」
「ああ…!」
「わかった!」
「任せな!」
なのはたちはその声に頷きながら答えを返して来た。
返事を聞き、再び正面へと視線を戻したマタドールは、眼前に迫る歪みの渦を一瞥した後──
「試し斬りには頃合いか…」
台詞とともに天へ向けて大きく口を開けると、手にしたエスパーダを切っ先から突っ込んだ。
『っ!?』
背中に驚きの声を上げる皆の目線を感じながら、マタドールは鍔元まで口腔に納める呑剣の妙技を周囲へ見せつけると、呆気にとられる一同
を尻目に、今度は一気に口内から刀身を抜き放つ。
途端、なのはたちが先程以上に驚きの気配を発した。
解き放たれたエスパーダが、銀線を走らせ空を『斬った』のだ。
比喩ではなく、文字通りに。
奇妙な光景であった。
まるで一枚の絵を半分に切り、その切断面同士を元の形に近いよう添えたが如く、エスパーダの通った軌道に沿って空間が、景色が僅かにズ
レを生じさせていた。
「空間を…斬った…?」
「刀身にジュエルシード…!? それの力か!」
その様子に、ユーノは呆けたように呟きを漏らし、クロノはマタドールの掲げたエスパーダの刀身に埋め込まれた七つのジュエルシードを目
にし、驚きの声を上げた。
「──如何にも。呑み取りしジュエルシードをエスパーダへと収束させし、死地を征する次元斬りの魔剣…称して死地征剣(しちせいけん)!」
奇しくも刀身に散りばめられ、輝きを放つ七つのジュエルシードは、中国の道教において生死を司るとされる神の星、北斗七星と同じ配列を描いていた。
マタドールは他の三体の魔人を戻し、悪魔たちを送還して手持ちのジュエルシードを己一体の身に集約したのだ。
「ジュエルシードを利用しての次元干渉攻撃か!? 確かにこれならこの作戦、やれるかもしれない…!」
S2Uをぎゅっと握りしめ、希望を見出したクロノは力のこもった呟きを漏らした。
「──参るぞ」
宣言とともに、エスパーダ改め死地征剣を高々と掲げた大上段の構えをとり、流れるように澱みない足運びで疾駆するマタドール。
同時に、頭上の死地征剣が刀身を中心にして空間を歪める渦を巻き起こす。
「雄ォォォォォォォォォォォォォッ!!」
獅子吼。
裂帛の気迫のこもった雄叫びを上げながら、マタドールは指呼の間程にまで迫った目前の巨大な歪みの渦めがけ、己が魔剣を閃かせた。
第十一話 Voyage
「…皆聞いて欲しい。一つだけ次元震を止める手立てが存在する。ただ、危険は否めず、貴公らの手を借りる事になるであろうが…」
ナインスターの話を聞き、マタドールがなのはたちへ切り出した作戦は非常にシンプルであった。
四体の魔人の内にある八つのジュエルシードの力を魔人形態維持用の一つを残して結集し、それを次元震を引き起こしたタイミングであの十
一個にぶつけるというものだ。
無論、個数差に開きがある以上、完全に相殺する事など不可能。
だからこそ、その足らない分のカバーをなのはたちが行い、完全に封印を施す。そういう作戦だったのだが──
ぶつかり合う二つの次元干渉エネルギーがプラズマを生み出して大気を焦がし、大砲じみた衝撃波が周囲の壁や床に穿つ。
双方が生み出す空間の歪みが複雑怪奇に絡み合うその様相は、まるで巨大な二頭の獣が顎を広げて互いを噛み砕かんと相食んでいるかのようのようである。
その二つの力を中心にして周囲の景色は曲がりくねり、引き伸ばされ、かき回され、入り混じり、最早何が映っているかもわからない極彩色
の異空間と化していく。
見るものに精神的不安や生理的嫌悪を抱かせるその異常な光景に、マタドールの背後に待機するフェイトやユーノは直視する事ができず、顔
を歪めて視線を逸らした。
──ただ一人、祈るかのように胸の前で両手を組んで握り締め、マタドールを見つめるなのはを除いて。
正直言えば、今すぐこの場より逃げ出したいくらいだった。
歪みの渦との鍔迫り合いは、全身を引き千切られるような激痛を絶え間なく与え続け、魔人を上回る圧倒的な力の存在は、悪魔の精神力を凌
駕し、魔人の中の令示の心中は、恐怖で埋め尽くされていた。
しかし、たった一つ心の奥底にあった小さな気持ちが、──「後悔したくない」とリンディたちの前で語った、その言葉一つが令示をこの場
に繋ぎ止めていた。
今逃げれば、この後一生悔み続ける事になる。
そんな人生を送る事を拒絶し、アースラの指揮下に入る条件を了承してでも、なのはたちに協力しようとした時と同じように、そんなたった
一つのちっぽけな想いが、令示の折れそうになる心を支える骨子となっていたのだ。
──否。
『御剣令示』という存在であればこそ、この気持ちがこのような生死の狭間、鉄火場にあってもそこに在り続けられる立脚点になりえたのであろう。
後悔と挫折に彩られ、「転生」(やりなおし)という稀有な経験をした人間だからこそ、「悔む」という辛酸と苦杯を舐め続けてきたからこ
そ、再びそれらを味わうハメになるのを拒んだのだ。
これは若者ではない、老成した魂を持つ転生者であるが故の立脚点といえよう。
歪みの渦と魔人は両者一歩も引く事なくぶつかり合う。
結果、行き場を失った荒れ狂う歪みの一端が、鞭のように空を切ってしなり、マタドールへと向かって飛来。
鎬を削り合う最中に大きな動きなどとれる筈もなく、マタドールは頭蓋へまともに歪みの強襲を浴びた。
ガッ! という鈍い打音が響き、魔人の帽子と砕かれた頭蓋骨の欠片が同時に宙へと舞い上がる。
その衝撃によってバランスを崩し、身を仰け反らせた隙に歪みの渦が一気に飲み込まんと迫り、マタドールは拮抗状態から一気に劣勢へと追い込まれる。
「マタドールさん!?」
誰の目から見ても重傷と言わざるをえないその様子に、なのはが声を上げマタドールの元へと駆け出し──
「来るな!」
「っ!?」
他ならぬマタドール本人の鋭い鋭い叱責によって、その足を止めた。
「…まだ動くには早いぞ、なのは。貴女は何故そこに居る? 己の役割を忘れるな…!」
左眼下部から右頭頂脇まで、頭部のおよそ三分の一を斜めに吹き飛ばされたままの姿で、マタドールは体勢を立て直し、死地征剣で歪みの渦を押し戻す。
「で、でも…」
「フッ、フフ…何、そう案ずるななのは」
なおも食い下がろうとするなのはへ、マタドールは一転して明るい口調で語りかけながら、背後の彼女へと振り返る。
「見ているがいい…今、己の役割を果たそう! ──グオォォォォォッ!!」
マタドールが気炎を上げ、全身の魔力を、マガツヒを両手を介して死地征剣へと流し込む。
過剰供給とも言える程のエネルギーを受け取った刀身は、七つのジュエルシードの力強い輝きを灯し、その刃より放たれる空間の歪みに、紅
い輝きを宿す。
「空間の歪みを正面から受け止めながら魔力を練り上げるのは、中々骨だったぞ──ムンッ!」
気合一閃。
その瞬間、拮抗状態であった鍔迫り合いは、魔人の剣圧がジリジリと歪みの渦を押し返し、優勢へと傾いていく。
「づっ……! オオオオオオオォッ!!」
一歩、また一歩と小さく足を踏み出しながら、マタドールが気勢を上げたその刹那──
「憤!!」
噛み合う刃を軋らせて死地征剣を振り上げると、魔人は一気呵成に振り下ろした。
銀線が弧を描いたと同時にその軌跡に沿って生み出された魔力刃が、マタドールの眼前で不気味に蠢いていた極彩色の空間の歪みを、真っ二つに両断した。
それはまるで、旧約聖書の出エジプト記でモーゼが起こした海割りの奇跡の如く、一直線に歪みを切り裂き道を造る。
歪みが消えた真っ直ぐな道の先──渦の中心部に、輝く十一のジュエルシードが全員の目に映った。その距離、およそ三〇メートル。
「今だ…! 道の保持を急げ…!!」
力の大半を今の一太刀に持っていかれたマタドールは、堪らずその場に膝をつきながら後方で控えていた仲間たちへ次手の展開を促す。
「っ!? わ、わかったよ!」
「今行く!」
その声に我に返ったユーノとアルフが、文字通りに切り開かれた道の左右上方に次々と防御魔法を展開し、元に戻ろうとする歪みの渦の動きを阻み──
『Chain Bind』
更にクロノが水色の魔力鎖を射出し、無数の魔力障壁の群れをガッチリと繋ぎ止めた。
「策は成ったか…」
マタドールは肩で息をしながらそう呟いた。
ようやく封印の為のお膳立ては整った。
「二人とも急げ! 長くはもたないぞ!!」
己のデバイスにありったけの魔力を流し込みながら、クロノが後のなのはとフェイトへと振り返って大声を上げる。
その言葉通り、防壁としているシールドもチェーンバインドも、元の形に戻ろうとする歪みの圧力によって軋み、亀裂が生じて次々と粉砕されていく。
破られた傍からすぐさまユーノとアルフが防壁を展開し、クロノの魔力鎖が巻き付くものの、こんな矢継ぎ早に補充をしなければならない状
況では、三人の魔力が三分も続かない。早急に手を打つ必要があった。
「──フェイトちゃん、行こう!」
「うん……!」
クロノの呼びかけに応じて、なのはが差し出した手を握り返し、フェイトは力強く頷く。
二人は宙へと高く舞いあがり、開けた視界の先に輝く十一のジュエルシードに向かって一直線に空を駆ける。
しかし──
「っ…!? 何これ…? 上手く飛べない、何か、体が重い…」
いつもの飛行のような速度とキレを体感出来ず、なのはは己の体を見回しながら、不安げに表情を曇らせた。
「ジュエルシードの暴走が気流だけじゃなくて、私たちが体外へ放出している魔力の流れまで乱しているんだ。速度が出ないのは、おそらくそのせいだと思う」
「そんな──」
フェイトの推測になのはは言葉を失った。
いつもの飛行であれば、あっと言う間に到達しているであろう僅か二,三〇メートル程度の距離が、恐ろしく遠く感じた。
それでも崩れかけの床を直に走るよりはずっと速いのだが、元に戻ろうとする歪みの渦はそれを上回る速度で圧力を増していく。
徐々に狭まっていく左右の空間の歪みが、津波のようにクロノたちの展開する防壁を鎧袖一触に粉砕し、なのはたちへと迫る。
「クッ! 元に戻る力が強過ぎる、防御魔法が間に合わない…!」
防御魔法の同時連続展開による急激な魔力の消費に、ユーノが悔しげに声を上げた。
「どんどん道が狭まっている…!」
「急ごう!」
目前で、ジュエルシードまで続く道が閉じ始め、左右を見回し焦るフェイトとなのはは、懸命に魔力を制御し正面の標的を目指す。
しかし、蠢く歪みの速度は、明らかに二人の飛行速度よりも速く、どう希望的に見てもジュエルシードに辿り着く数メートル手前まで行く事
が出来るかどうかという、冷酷な観測結果が二人の心中ではじき出され、その表情が絶望と悲観に彩られていく。
その刹那──
二人の背後より、螺旋を描く『紅』が、細まる歪みの間道を一色に染め上げる。
それはまるで、真紅が織りなす海波のトンネル、サーフィンで言うところのグリーンルームのようだった。
歪みの隙間に沿って、『紅』が閉じつつあったジュエルシードへの道を無理矢理にこじ開けた。
「な、何っ!?」
「これは…!?」
突然の思考の埒外の現象に、二人が慌てて『紅』が来た後方を見やれば──
「…………」
頭蓋を砕かれ、膝をついたままのマタドールが、右手のカポーテを大きく、長く引き伸ばして投じていた。
なのはたちの目に映っていた視界一面の『紅』は、それだったのだ。
肩で息をしながら、二人を見つめる洞のような双眸が無言で訴えていた。「この機を逃すな」と──
「──レイジングハート!」
『All'right!』
「──バルディッシュ!」
『yes, sir.』
その言葉無き声に、二人はそれぞれ己の相棒へ力を注ぎ込み『紅』のグリーンルームの先──再び開かれたジュエルシードへの入り口目がけ
て飛翔する事で答える。
周囲を覆うカポーテが、歪みの渦からの魔力干渉を遮断したのか、二人は水を得た魚の如く加速。
カポーテのトンネルを瞬時に駆け抜け、ジュエルシードが輝く歪みの中心へと一気に到達した。
その刹那、彼女たちの背後でカポーテが歪みによってズタズタに引き裂かれ、間道は人が通れぬ幅となる。間一髪のタイミングであった。
そこは、台風の目のように周囲で荒れ狂う歪みの暴虐とは相反し、不気味なほど静まり返っていた。
その空間の中心に、ユラユラとたゆたい輝くジュエルシードを見つめながら、彼女たちはデバイスの先端を突きつけ構える。
同時に、彼女たちの足元に魔法陣が展開。桜金二色の魔力光が静寂を打ち破った。
…ここで失敗すれば、自身を含めた多くの命が失われる。
「……」
その地球一つを超える命を守らなければならないという重圧感が、なのはの心に圧しかかる。
しかし、レイジングハートを掴む彼女の腕は、些かの震えもない。
アースラからバックアップしてくれるエイミィたちが──
頭部に傷を負いながらも自分たちを援護してくれたマタドールが──
危険を承知でこの場に残り、この作戦に協力してくれたユーノ、クロノ、アルフが──
そしてともに並んで立つ女の子…フェイトが──
自分を支えて、好機を与えてくれたみんなが居てくれるから、私は出来る、戦える…!
駆動炉でのユーノとマタドールとの共闘以上の心強さを感じているなのはに、恐怖はなかった。
花吹雪の如く、彼女たちの魔力が大気に散華し、舞い踊る。
この乾坤一擲の大勝負に、二人は全身全霊、持ちうる全ての力を振り絞る。
「ジュエル──」
「シード──」
二人の紡ぐ言霊に応じ、周囲に飛散した魔力が彼女たちを中心に渦巻き、収束していく。
「封!!」
「印!!」
なのは、フェイト。二人の叫びと同時に構えたデバイスより、束ねられた魔力砲が轟音を響かせ放たれる。
桜色、金色の尾を引く双砲が、蒼白の魔光を発する十一のジュエルシードと激突。
その接触の瞬間、大気を震わす衝撃を撒き散らし、目が潰れるような閃光の爆発が巻き起こった。
白光はなのは、フェイトを巻き込むだけで治まらず、歪みの外にまで広がり全てを白一色に染め上げていく。
やがて、なのはの耳より魔力のせめぎ合う衝撃音すら失われ、彼女の耳目は完全な静寂に包まれた。
《……! みん……! りして……!》
一分か? 一〇分か? 一時間か?
永久に続くのではと思われる程のしじまの世界に、ノイズが走る。
「ん…!」
そのノイズが呼び水となり、沈んでいた意識が覚醒したクロノは息をもらし、ソレがエイミィからの呼びかけであった事にようやく気付く。
《クロノ君!? 聞こえる!? 聞こえてたら返事して!!》
「聞こえている…だからそんなに怒鳴らないでくれ、エイミィ…」
少しずつクリアになっていく五感を確かめつつ、倒れていた床から立ち上がったクロノは、しかめっ面でこめかみを押さえながら、通信機で
呼びかけを続けるエイミィへ声を返した。
《やっと通じた!! クロノ君大丈夫!? みんなは!? なのはちゃんとフェイトちゃんは!?》
「とりあえずマタドールとユーノ、アルフは僕と同じで、さっきの光でフラついてはいるようだが、意識もあるようだし問題なさそうだ。結界
に避難させておいたプレシアも異常はない。気を失ったままだ」
返事をした途端、エイミィから矢継ぎ早に投げかけられる問いの連続に、周囲を見回し仲間の様子を確認しながら、慣れた様子ですらすらと
答えていくクロノ。
「なのはとフェイトも…無事だよ。鎮静化したその場で座り込んでいる。見た限り、封印は成功したようだ。…まあ、そうでなければ僕たちも
こうして話していられる訳がないが…」
《OK! こっちも観測機の反応が出たよ。…十一個全ての封印と回収を確認! もう心配いらないよ!》
「そうか…何はともあれ、最悪の事態は避けられたね…」
エイミィの観測報告を聞き、クロノは安堵の息を吐きながら、ようやく肩の力を抜く事が出来た。
《メインモニターも回復。そっちの画像が──って!? マタドールさん!?》
危機が去り、いつもの明るい様子に戻ったエイミィの声に、再び驚きと恐れが混じった。
「っ!?」
慌ててクロノがマタドールの方へと目をやると、魔人はうつ伏せになって地に倒れ、ゼエゼエと苦しげな息づかいで呻きを漏らしていた。
「おいっ、マタドール! しっかりしろ!!」
彼の傍へと駆け寄りクロノが声をかけるが、聞こえていないのか、もしくは、聞こえていても返事をする余裕すらないのか、マタドールは呻
きを上げるのみであった。
「っ!? マタドールさん!?」
ジュエルシードの封印処理で疲れ切り、その場に座り込んで居たなのはであったが、クロノの大声を聞いた瞬間、反射的に走り出していた。
彼女はふらつく体を無理矢理動かし、マタドールの元へと駆け寄った。
「無茶をするな! あれだけの連戦の上に封印処理までやったんだ、体を壊すぞ!?」
クロノが傍に来たなのはを諌めるが、マタドールの異変に気を取られている彼女にその言葉は届かない。
なのはは己が足元で、地に伏した魔人の体へ素早く視線を走らせる。
左手の死地征剣は既にジュエルシード消えてエスパーダへと戻り、頭部に負った傷もそのままである。それは、魔人形態維持の為の魔力すら
枯渇しかかっている事を意味していた。
『──put out.』
それを察したなのはの判断は速かった。レイジングハートから、つい今しがた封印したジュエルシードの内の一つを手に取る。
「あっ!? ちょ──」
その行動の意味を悟ったのであろうクロノが言葉を発するより早く、なのははそのジュエルシードを倒れたままのマタドールの背中へとそっと乗せた。
砂が水を吸収するかのように、ジュエルシードはマタドールの体内へと沈み込み、消えた。
そして次の瞬間、ジュエルシードより魔力が補充されたのであろう、マタドールが頭蓋に負っていた傷が癒え、歪みの渦に引き裂かれたカポ
ーテも、ビデオの逆回しのように再生して新品同様の姿となった。
「……む? 治っている…?」
体の再生が終わると、意識、言動ともに普通の状態に戻ったマタドールがムクリと起き上がり、傷を負っていた頭部に手を添えながら不思議そうに首を捻る。
「マタドールさん、大丈夫!? なんともない!?」
それと同時に弾かれたようにマタドールの前へ飛び出したなのはは、慌てた様子でマタドールへ体の異常の有無を尋ねる。
「なのは…? そうか、封印したジュエルシードを使ったのか…また面倒をかけてしまったようだな、すまぬ」
その不安げな表情を見て、何があったのかを察したのであろう。マタドールはなのはへ頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
「ううん、気にしないで。マタドールさんが居なかったら封印なんて出来なかったんだから」
どうやら無事なようなマタドールの様子を目にして、ようやくこわばった表情を弛緩させて安堵の息を漏らしたなのはは、笑みを浮かべて首を横に振った。
「いや、しかしだな…」
「あー、君たち。話し合いの最中にすまないが──」
何となく、長引きそうな雰囲気を察したのであろうクロノがなのはとマタドールの会話をぶった切り、口を挟んだ。
「次元震はおさまったとは言え、時の庭園はあちこちに崩落の兆しが見える。それに、プレシア・テスタロッサの容体も気がかりだ。全員最優
先でアースラへ帰投するべきだろう」
もっともなクロノの意見に反対意見など出る筈もなく、一行は来た道を引き返して一路、アースラへと戻るべく駆け出した。
──なのはたちが立ち去ってから十数分後、動力部に大きな損傷を負っていた時の庭園は、ゆっくりと崩壊を始め、アースラクルーたちの見
守る中、次元の海へと沈んでいった。
「ガーゼと消毒液をが足りないぞ!」
「治療が終わった奴と歩ける奴はさっさと退いてくれ! 後ろがつかえているんだ!」
怒号が飛び交い、白衣の医療班が忙しく行き来するアースラの医務室。
武装局員の大半が怪我を負った今回の作戦は医療担当局員の手も設備も足らず、通路にまで怪我人が溢れており、医療班にとっては、作戦が
終了した今が、彼らにとっての戦場と化していた。
「──とりあえず、フェイト・テスタロッサとその使い魔アルフは再び収監という事になった」
そんな鉄火場の如き医務室より少し離れた、自販機を並べた通路上のイートインコーナーのベンチに腰掛けた、フェイトとアルフを除くなの
はたち突入組と、付き添いに来たエイミィの計五名は帰投後の慌ただしさの中ようやく一息ついた。
そうなると当然話題となるのは、この場に居ない二名の事であった。
「気の毒だとは思うが、今回の一件は次元世界規模の事件であり、彼女たちはその重要参考人だ。管理局としてもその扱いには慎重にならざるを得ない」
「ふむ…まあ、容疑者扱いでない分だけマシと考えるべきか…」
顎に手を当て天井を見上げながら、とりあえずフェイトの扱いが妥当である事に安心しつつ、マタドールはクロノへ視線を戻して言葉を紡ぐ。
「それで、フェイト嬢たちの今後はどうなるのだ?」
「本局に戻り次第、裁判という事になる。起きた事件の大きさを考えれば、数百年単位の幽閉も有りうるのだが…」
「そんなっ!?」
「なのだが!」
数百年の禁固刑と聞いて反射的に椅子から立ち上がって抗議の声を上げようとしたなのはを、クロノが制して言葉を遮る。
「フェイト・テスタロッサの家庭環境や精神状態、年齢を考慮すると十二分に情状杓状の余地がある。保護観察処分におさまる公算が高いだろ
う。──大丈夫、管理局はそこまで非情な組織じゃないよ」
「あ──」
僅かに笑みを浮かべてそう言ったクロノに、なのはは安堵の息を吐いてぱっと花が咲いたような笑顔を作った。
「しかし…それならば問題はプレシア・テスタロッサの方だな」
だが、そんななのはに相対するかのように、マタドールは抑揚のない硬い声色でそう述べる。
「…………」
クロノは「やはりきたか」と言いたげに渋面を作って俯き、溜息をついた。
「…その通りだ。今回の件はプレシアが主犯であり、その犯行動機は極めて個人的で身勝手。証拠と証言は十分だし余罪も多数、更には未成年
のフェイトへの仕打ちを鑑みると、極刑か、それに準ずる重刑が科せられるのは避けられないだろう」
「それって…じゃあフェイトは…」
クロノの言葉に含まれるものの意味を悟ったユーノが呟きを洩らす。
「ああ…フェイトはおそらくもう二度と母親に会う事は出来ないだろう…」
「そんな…」
目を閉じ、無表情のまま語るクロノへ、なのははいかな言葉をかけるべきか考えつかず、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろしてそのまま俯いた。
お世辞にもいい母親とは言えなかったがフェイトはそれでもプレシアを母と呼び、母であってほしい願っていた。
この事を知ったフェイトはどうなるのであろうか? どう思うだろうか? なのはの胸中は、不安と憐憫の念がないまぜになった複雑な感情で
いっぱいになっていた。
しかし──
「だが、それ以前にプレシアが裁判に立てるかどうかという問題がある」
暗雲の因子はそれだけではなかった。
「え?」
「どういうこと?」
この上まだ何かあるのかと、不安に表情を曇らせるなのはとユーノ。
二人を一瞥したクロノは「エイミィ」と、隣に座っていた己の相棒に呼びかける。
「…さっきプレシアを診察した医務官から報告が上がったの。顔色の悪さや吐血からメディカルチェックをしたらしいんだけど、その結果プレ
シアの両肺から悪性の腫瘍──癌が見つかったらしいの…」
「癌…?」
「…進行度合はレベルⅣ、肺がボロボロの状態の上に癌細胞が全身に転移している。摘出手術ではどうにもならない末期症状だそうだ。あと一
、二ヶ月持つかどうかもわからない状態なんだよ」
「そんな、そんなのって…」
その残酷な結果に、なのはは目を見開き言葉を失う。
エイミィもユーノも、なのはへかける言葉が見つからず、所在なさげに目を伏せた、その時、
「そのプレシアについて、幾つか頼みがあるのだがな執務官殿」
「…? 何だい?」
この場に漂う静寂を破るように、マタドールが先程と変わらぬ抑揚のない声でクロノに話しかけた。
「プレシア・テスタロッサと面会がしたい。それと、フェイト嬢たちの事や少々の些末事でな」
四人の視線が注がれる中、マタドールは何とも奇妙な依頼を口にした。
「…………今度はなにを企んでいる?」
なのは、ユーノ、エイミィがマタドールの意図を計りかね、首を捻っている中でクロノは一人半眼で魔人へと詰問する。
が、当の本人はその突き刺さるような視線にも堪えた様子もなく、おどけた調子で肩をすくめた。
「人聞きが悪いな。純粋な人助けだ」
「人助け?」
「ああ」
訝しむクロノへ頷きを返しながら、
「苦しみから解放するのだよ、テスタロッサ母子をね──」
小さく笑みをこぼし、軽い口調でそう答えながらマタドールは己の考えを四人へ開陳する。
医務室の喧騒の隣で、四人の男女の驚きの声が上がった。
アースラ深奥部。周囲にはデバイスを所持した武装局員が歩哨をしており、警戒レベルが非常に高い区画である事を窺わせる。
そんな薄暗く、如何にも牢屋と言った佇まいのこの場所へ、クロノに案内され、やって来たマタドール。
「…ここだ。この部屋にプレシア・テスタロッサは収監されている」
宇宙船や潜水艦を思わせる分厚い密閉式の扉の前に立つと、クロノは足を止め背後の魔人へと振り返る。
「で? さっき医務室の脇で話した事、本当に出来るのか?」
マタドールを見上げてクロノは言葉を向けた。
「ふむ。 まだ疑っているのかね? 執務官殿」
それに対してマタドールは顎に手を当てながら、やや疲れ気味な声を漏らした。
「君が非常識な存在である事は十分理解しているつもりだが、流石に信じ難い…」
「まあ、国どころか世界そのものが異なるのだ。信じられぬ事であろうが──百聞は一見にしかずじゃ。しかと刮目されるがよい」
渋面で心中を吐露したクロノへ、マタドールは大僧正へと変じながら、臆する事もなくそう言い切った。
「わかった…部屋のロックを開けてほしい。プレシア・テスタロッサと面会を行う」
「了解しました、クロノ執務官」
控えていた武装局員がクロノの求めに応じ、扉横のパネルからパスコードを入力。隔壁じみた扉がゆっくり左右へ開いて行く。
完全開放を待ちながら並び立つ二人。正面を見つめたまま、大僧正が口を開いた。
「…フェイト殿は?」
「既に控えてもらっている」
「ならばよし」
「それと、これは頼まれていた物だ」
言いながら、クロノはポケットから蓋をして内部を液体で満たした試験管を取り出し、大僧正へ突き出す。
「うむ。感謝する」
「しかし、そんなもの何に使うんだ…?」
「まあ、楽しみにしているがいい」
首を捻るクロノに笑いを返し、曖昧に答えながら大僧正は試験管を懐へ収める。
そんな短いやり取りの後、二人は開き切った扉をくぐって室内へと足を踏み込んだ。
「何を…しに来たのかしら…?」
ベットの上で上半身を起こしたプレシアは、部屋の入口に立ち様子を見守るクロノと、浮遊する大僧正へ視線を向け静かな声でそう尋ねてきた。
病魔と疲労によるものか、己が望みが断たれた事により張り詰めていたものが切れてしまったのか。大僧正たちの目前に居るプレシアに、数
時間前の狂気に憑かれたかの如き言動は見当たらない。
「…一つ、尋ねたい事があってのう。故にこうして汝の枕元までまかりこした次第じゃ」
「尋ねたい事?」
オウム返しに問い返し首を傾げるプレシアへ、「左様」と言いながら大僧正は手にしていた金剛鈴を目線の高さまで持ち上げると軽く揺らした。
凛、と澄んだ音色が四方へと響き渡る。
「──プレシア・テスタロッサ、汝に問う。汝、亡き娘アリシア・テスタロッサとの邂逅を望むか?」
『────』
金剛鈴の残響が室内に飛び交う中、三人の間に沈黙が訪れた。
「…何を言っているの? 貴方は…」
やがて鈴の音が完全に消え去った後、プレシアは怒りを通り越し、「呆れた」と言わんばかりに疲れた眼差しを大僧正へと向けた。
「そんな事、聞くまでもないでしょう? 伊達や酔狂で私がこんな所に居ると思うの?」
「然り。故なればこそ問うておる。今この場にて亡き娘と会う気があるか? とな」
再び訪れる沈黙。室内に重い空気が立ち込める。
「どういう、意味かしら? それは…」
プレシアの視線が僅かに揺らぎ、小さな動揺が見え隠れした。
「まるで貴方が、『アリシアに逢わせる』と、そう言っているように聞こえるのだけれど…?
貴方の持つジュエルシードを操る力を使おうというの? いくら願いを叶えるロストロギアとはいえ、死者蘇生なんて不可能な筈よ?」
最もな意見だった。そんな手があるのならば、わざわざアルハザードに行こうとは考える筈がない。
「別段、蘇生させる訳ではない。死者の霊魂を認識出来るようにするだけじゃ。拙僧の降霊の術を使ってのう」
「降霊術…? いくつのかの次元世界に存在するとは言われているけど、実物を目にした事はないわね…」
懐疑的な視線を向けてくるプレシアを、大僧正は呵々と笑い飛ばし、飄々とした態度を崩す事なく語り続ける。
「我らの世界ではさして珍しくもない術式じゃがな。古今東西、様々な魔術体系の中に降霊の術式が存在しておる。…最も、それらの大半は使
い手も無くなり、知識も散逸してしまっているがな。残るものも、そう遅くもないうちに消えてしまうであろう」
九十七管理外世界──地球の魔法はミッドチルダや古代ベルカ以上に個人の才能や知識、精神性に左右されるものである。
氏神や祖霊との血縁による遺伝性のもの。
数十年の荒行の末に開眼するもの。
前提として神仏や鬼、悪魔精霊の感知能力を必要とするもの。
崇高な信仰心を求められるもの等々…敷居の高さは次元世界随一と言っても過言ではない。
威力や汎用性はともかく、安定供給など皆無に等しく、術式によっては自分どころか家系そのものに呪いを残すような、安全性に欠くものまである。
そのような技術体系であるが故に、地球では魔法は忘れられ科学の発展拡大にシェアを奪われたのだ。
──閑話休題。
「それを…その術を使えば、アリシアに逢えるというの…?」
戸惑い、不安、迷いの念を感じさせる震える声で、プレシアが問う。
信じ難い一方で、常識を打ち砕く魔人の力であれば、あるいは…と考えてしまっているのであろう。
「然り」
プレシアの問いに対し、大僧正は事も無げに「是」と答えた。ただし、と言葉尻に一言をつけ加えながら。
「これが汝にとって喜びたる吉となるか、嘆きたる凶となるかは、汝の受け止め方次第じゃ。それでも娘子に逢いたいかな?」
「馬鹿な事を…あの子に逢う為に、その為だけに私は外法にまで手を染めたのよ? その願いが叶うというのであれば、それが幸運以外の何だと言うの?」
己の過ちに気が付いたとはいえ、二〇年以上もの間抱き続けていた、妄執にも等しい願望はそう易々と切り捨てられるものではない。大僧正
を見る彼女の双眸には、未だ我が子を取り戻さんとする執念の炎が燻っていた。
「…承知した。なれば汝の望み、叶えてしんぜよう──ナウマク・サマンダボダナン・エンマヤ・ソワカ」
大僧正の口より、閻魔大王(ヤマ)の真言(マントラ)が紡がれた。
その刹那、室内の空中にいくつもの青い燐光が生じる。
無数の光は室内の一点──プレシアのベットの脇へと収束し、人の形を描いていく。
「あ──」
役目を果たした光が纏まって宙へと舞い上がると同時に、周囲へ四散し空気へ溶けた。
後に残ったのは、青白い光を纏う、フェイトによく似た半透明の少女が一人。
「アリシア…」
感情が抜け落ち、呆けた顔でプレシアが呟きを漏らした。
「さて、永の時を超えた再会じゃ。存分に堪能するがいい」
「っ! …ふん。この程度の幻影、簡単な魔法で同じ事が出来るわ。拍子抜けもいいところね」
大僧正の言葉に我に返ったプレシアはやや険のこもった視線を向け、吐き捨てるように言い放つ。
「ほう、まやかしとな? 汝にそう見えるか?」
からかうような声色でわざとらしく首を傾げる大僧正。
その態度が癇に障ったのか、プレシアの視線に孕む怒気が増す。
しかし、その視線を向けられる魔人は気にした様子もなく、むしろ自らプレシアへ近付き、逆に洞の如き闇の双眸を彼女へ向ける。
「つまらぬ幻影であるというのであれば、何故見惚れた? 何故名を呼んだ?」
「っ!? それは──」
枯れ枝のような腕を持ち上げ、プレシアへ指先を突きつけながら、大僧正は問いかける。
声は穏やかだが、その言には「偽りは許さぬ」という気迫が込められており、プレシアはその思わぬ反撃に鼻白み、言葉を詰まらせる。
「汝は感じとった筈。己の魂で、心で。そこに居るのはまごう事無く己の娘であると」
──中華の地相占術、風水の中に陰宅風水と呼ばれるものがある。
陰宅──即ち墓地の良し悪しを判断する風水術なのだが、この中に『祖先の骨は子孫と感応する』という思想が存在する。
故に、陰宅風水では墓相を整えた場所に先祖の骨を埋葬すれば、良質な大地の気を吸い上げ、子孫にそれを伝播させて家系を栄えさせると言
われているのだ。
何親等も血縁の離れた祖先の骨にすらそれほどの感能力があるのだ。ましてやアリシアはプレシア自らが腹を痛めて産んだ我が子、それも剥
き出しの霊魂だ。与える感応力、共感の力たるや如何程のものか想像もつかない。
それをプレシアが見誤る筈がない。大僧正はそう確信していた。
「…………」
大僧正の言に、愛娘を凝視するプレシアだったが──
「アリ…シア…?」
しばらくの後、まるで熱に浮かされたような覚束ない言動で、ふらふらとベットから下りて、アリシアの元へと歩み寄っていく。
「アリシア…アリシア、アリシアッ!!」
娘の前に立つと同時に、プレシアの固い表情が崩れ、関を切ったかように激情が溢れ出す。
彼女は溢れ出す感情に任せるまま、アリシアの名を連呼した。
だが──
「…………」
当のアリシアは、母親へ一瞥もする事なく、膝を抱えたまま俯き、光の消えた瞳を床へ向け、ブツブツとうわ言のように「ごめんなさい、ごめ
んなさい」と呟き続けているだけであった。
「アリシアッ!? ママよ、貴女のママよ!?」
プレシアの必死の呼びかけにも関わらず、アリシアに反応はない。
「なぜ!? 何を謝っているの!? なんで答えてくれないの!? アリシアッ!!」
プレシアは、最早眼前の少女が偽物などと疑う気持ちは微塵もないようで、自らの呼びかけに一向に応じる気配が見えない事に半狂乱となり、
叫びを上げた。
「無理もない。その娘子は心を閉ざしておるのだ。汝の呼びかけは届いておらぬ」
「心を閉ざしているですって!? どういう事なの!?」
横合いから発せられた言葉に、プレシアが髪を振り乱して踵を返し大僧正に迫る。
「当然であろう? 己の母親が嘆き悲しむ姿を、己と酷似した妹への行いを、この娘子はずっと見続けていたのだ」
「あ──」
大僧正の言葉に、プレシアは間の抜けた声を上げ呆然と立ち尽くす。
アリシアは亡くなったあの日からずっと己の狂態を目にしていたのだと、プレシアはようやく悟った。
「呼びかけようとも聞こえず、叫ぼうとも届かず、ただひたすらに母親の狂態を見せつけられ続けた」
「ああ…」
「だからこの娘子は謝罪の言葉を口にし続けているのだ。自分が死んだせいで母親が壊れてしまったのだと、自分が死んだせいで妹が辛く当ら
れているのだと…」
「あああ…!」
たんたんと語る大僧正に対し、プレシアは体を震わせ大きくかぶりを振り、焦燥の色もあらわな必死の形相でアリシアの元へ駆け寄った。
己の腕の中へ彼女を納めようとするが、その手は虚しく空を切り、少女の目も、母を捉えようとしない。
「アリシア、私よ!! 気付いて!! 貴女は悪くないの! もう謝らないで!!」
「…アリシア・テスタロッサも何度もそう思ったであろう」
半狂乱状態のプレシアを冷静に見つめながら、大僧正が抑揚のない声でそう呟きを漏らした。
「しかし、汝は気が付かなかった。それも至極当然、汝は娘を取り戻そうとする妄執と狂気に憑かれ、生者の言葉にすら耳を傾けようとはせなんだ。
そんな状況で死者のか細き声など届く筈もない。
…だから申したであろう? 『狂気に憑かれたが故に視えぬか。汝の傍らにて滂沱の涙を流し続ける己が娘の姿に』と──」
その言葉は、大僧正たちが時の庭園に突入する前に言い放たれたもの。
「それは…それじゃあの時言っていたのは、フェイトの事じゃなくて…」
あの時の言葉は、フェイトではなくアリシアを指したものだったのだ。
「死して冥府へ渡る事も叶わず、現世に戻る事も出来ぬ永劫の魂の牢獄…まさしく賽の河原じゃな」
大僧正がアリシアの霊体を見つめながら、憐れむような静かな声でそう呟いた。
「賽の、河原…?」
「我らの国の死後の世界観の一つでな。親よりも早く死んだ童子は両親を悲しませたという罪によって、あの世の入り口たる三途の川のほとり、
賽の河原で石を積み、石塔を築く罰を課される」
プレシアの声に大僧正が語り出す。
「しかし、その石塔は断じて完成する事はない。積み上がる間際になると、獄卒の鬼がやって来てそれを崩してしまうのでな。そして子供らは
泣きながらまた一から石塔を築き出す。父母への謝罪を口にしながら。両親への思慕を募らせながら」
「──っ、やめて…」
ビクリと体を震わせ、両肩を己の腕で抱き締めながらプレシアが怯えてような声を漏らす。
「十字教の言うところの煉獄で永遠に焼き続けられるが如き有様よ。憐れなる童子たちは歌にも語られておる」
──一重積んでは父の為。
──二重積んでは母の為。
──三重積んでは西を向き、樒程なる掌を合せ郷里の兄弟が為と、あら痛はしや幼子は泣々石を運ぶ也。
──手足は石に擦れ爛れ、指より出づる血の滴。
──体を朱に染めなして父上恋し、母恋しと、ただ父母の事ばかり云うては其儘打ち伏して、さも苦しげに嘆く也。
──あら怖しや獄卒が、鏡照日の眼にて幼き者を睨みつけ、
──「汝らが積む塔は歪みがちにて見苦しし。斯ては功徳に成り難し。疾々是を積直し、成仏願へ」と呵りつつ、
──鉄の榜苔を振揚げて、塔を残らず打散らす。
──あら痛しや幼な子は、また打ち伏して泣き叫び…
「やめて! やめなさい!!」
両耳を塞ぎ、プレシアがヒステリックな叫びを上げて大僧正の歌を遮った。
「お願いよ、アリシアを生き返らせて! 貴方なら、ジュエルシードを使いこなせる貴方なら出来るでしょう!?」
プライドをかなぐり捨て、プレシアは泣き叫びながら大僧正の膝に縋りついた。
そこにはもう冷徹な魔女の姿はなく、ただ我が子を求める哀れな女がいるだけだった。
「…先程汝自身が申したであろう? 死者を蘇らせる事など不可能であると。その言葉の通り死を覆すなど、この世のコトワリそのものを書き
換える業。たとえ神の身であろうとそのような真似は不可能じゃ。拙僧に出来るのは、この憐れなる御魂を逝くべき所へ送る事のみよ」
泣きじゃくる幼子に言い聞かせるように、大僧正が静かな声でプレシアにそう諭す。
「あ──」
大僧正の法衣を掴む手より力が抜け、プレシアの体が離れる。
「あはははははははははははははははははははははははははははっ!!!」
狂笑。
天を見上げ、プレシアは化鳥の如き壊れた笑い声を上げた。
「滑稽だわ…二十六年、二十六年よ!? アリシアを失ってから今日までの時間、私は娘を苦しめていただけだった…この四半世紀、全て無駄だった!」
自らの額に手を当て、憐れな女が自嘲の笑みを浮かべる。
「…忘れればよかったと言うの? 捨ててしまえばよかったって言うの? 出来る訳ないでしょう!? この娘を捨てるという事は、私にとっ
て死ぬのと同義だわ! どうすればよかったというのよ…!」
大僧正から離れたプレシアは床に両手をついて慟哭を上げた。
「忘れるのでも捨てるのでもない。『過去』を受け入れ『未来』へ歩んでいくのだ。耐え難き悼みもあろう、尽きぬ涙もあろう、止まぬ悔恨も
あろう。じゃがな、それでも生きていかねばならぬのだ。それが『現在』(いま)を生きる者の責務故に。
『過去』に囚われ『現在』『未来』から目を逸らすは、最早亡霊に憑かれているのと変わらぬ。…汝は、愛娘を怨霊にしたいのか?」
「っ! そんな事──」
プレシアの否定の声を遮り、大僧正は懇々と彼女を諭す。
「それに、今日まで過ごした時は決して無駄ではあるまい。失ったもの、捨ててしまったものもあれど、手にしたものもあった筈。疎まれよう
とも蔑まれようとも、汝を母と慕う娘子が」
「今更…あの子に、フェイトに母親なんて言える筈ないでしょう…? 私にそんな資格なんてないわ…」
ひざまづき、床に視線を落したまま、絶望に打ちのめされたプレシアは抑揚のない声で答える。
「ようやく本音を吐きおったか。しかし、万事を一人で決めつけるのは汝の悪癖のようじゃな…それならば直接当人に尋ねてみればよかろう」
言いながら大僧正が、入り口でこちらの様子を見守っていたクロノへ目配せを来ると、頷きを返した彼が部屋の扉を開く。
「母さん…」
開いた扉の向こうには物憂げな表情のフェイトがプレシアを見つめていた。
「フェイ、ト…?」
「ここに訪れる前に、執務官殿に依頼し我らの後に扉の前に待たせるよう言い含めておったのだ」
顔を上げ、突如訪れたもう一人の娘を見つめて呆然と呟くプレシアへ、大僧正が事前にクロノと打ち合わせていた『頼み事』を開陳する。
「さて、フェイト・テスタロッサよ、魔人大僧正が汝に問う。…汝、今なお母への思慕に偽りはないか?」
「──はい」
真正面からの問いかけに、フェイトは迷う事なく力強い頷きを返した。
「これまで存在した汝と母御との関係は、完全に壊れてしまった。それでもまだ、汝が娘として生きようというのであれば、並々ならぬ努力と
忍耐を要する事になろう…それでも母を慕い続けるのかね?」
「はい。時の庭園で母さんに伝えた通りです…」
「…………」
プレシアは沈黙を守ったまま、フェイトの言葉に耳を傾けていた。
「左様か…なれば拙僧が言うべき事は何もない。後は汝ら親子次第であろう。後は──」
言いながら、大僧正はフェイトから視線を外し、未だ俯き謝罪の言を口にし続ける、アリシアの霊体へと目を向けた。
「あの憐れな幼子の魂を救うのみ」
「貴方、アリシアをどうするの…?」
「二十六年もの間苦しんだのだ、もう解き放ってもよいであろうよ…」
アリシアの下へと進む己の姿を目で追うプレシアの声に、視線を向ける事なく答える大僧正。
正直反対の声を上げるかと思っていたのだが、プレシアは無言のままであった。
「…さあ迷い子よ。汝の魂に救いの手を! オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ──」
アリシアの霊体の眼前へと進み出たところで、印を組み紡がれたのは、釈迦入滅後五十六億七〇〇〇万年後に現れる救世主、弥勒菩薩の誕生
までの間、一切衆生を救済する役目を負った地蔵菩薩の真言。
真言に合わせて発せられた柔らかな光が、アリシアの霊体を包み込んだ。
「ああ…アリシア!」
「アリシア──姉さん…!」
光を発した娘を前に、プレシアとフェイトが声を上げたその時──
「ママ…? フェイト…?」
今までどれ程呼びかけようともまるで反応もなかったアリシアが、顔を上げて二人を目にして声を発した。
「っ!? アリシアッ! そうよ、ママよ!!」
その反応に驚きながらも、プレシアは転げそうな勢いでアリシアの前へと駆け寄って行く。
「ママッ…! やっとお話出来た…!」
じわりと目尻に涙を浮かべ、アリシアは眼前の母の顔を見上げた。
「ママごめんなさい。私が死んじゃったから、ママが沢山悲しい目にあったんだよね…ごめんなさい、悪い子でごめんなさい…」
「違う…! 違うのよアリシア、貴女は悪くない! 私が、私があんな仕事早く辞めて、貴女と二人で過ごせる場所に行けばよかったのよ…
だからもういいの、謝らないで!」
プレシアはかぶりを振って愛娘の言葉を否定する。
そんな母の様子に、アリシアは静かに首を振って寂しげな微笑を浮かべ、自分たちを見る妹へ目をやった。
「あ──」
己の姉と目のあったフェイトは言葉を失い、そのまま互いに見つめ合う。
「ごめんねフェイト。私のせいで、フェイトを酷い目に遭わせちゃった。私、駄目なお姉ちゃんだ…」
「私、私は…」
フェイトは姉の言葉に一瞬目を伏せるが、意を決したかのように顔を上げ真っ直ぐにアリシアを見つめて口を開いた。
「私、怒ってないよ…アリシアの、姉さんの記憶は途切れ途切れだけど、私の中にもある。だから母さんがどれだけ姉さんを愛していたか、姉
さんがどれだけ母さんを愛していたか、わかるから…だから怒ってない、怒れないよ」
言いながら姉へと微笑みを向けるフェイト。
「ありがとう。フェイトは優しい子だね…」
アリシアも、妹へ笑みを返した。
「アリシア、もう放さないわ。これからはずっと一緒よ…」
笑い合う二人を見ながらプレシアがアリシアに語りかける。しかし…
「駄目だよママ」
それに対し、アリシアは悲しげな否定の言葉とともに首を横に振った。
「私はここには居られないの」
「アリシア…? 貴女何を言って──」
プレシアが疑問を口にしかけ、その言葉失った。
彼女の目前、まるで春の陽の如く暖かい光の中で、アリシアの体が足元からほどけるように徐々に空中へと散華していく。
「アリシア! 貴女、体が!」
「もういかないと…」
「いくって…まさか──」
死者の辿り着く場所など、一つしかない。
「いや…いやよ! 居なくならないでアリシア! 私は、まだ貴女を幸せにしていないのに!」
プレシアは消え行く娘をこの世に留めようと、半ば狂乱となって彼女をかき抱こうとするが、その手は霊体の身をすり抜け虚しく空を切る。
「…ありがとうママ。でも私、幸せだったよ。優しいママが居て、妹が出来て…」
「でも私は、私は二度も貴女を失う苦しみに耐えられない!」
「大丈夫。ママは一人じゃない」
言いながらアリシアはフェイトへ視線を向ける。
「姉さん…」
ぎゅっと、胸の前で両の手を握り締め、
「だから、今度は二人で幸せになって…ママ、約束」
既に下半身全体が消えているアリシアはプレシアへ手を伸ばし、そっと重ねた。
「あ──」
愛娘のその姿に、プレシアはかつての花畑での語らいを思い出す。
「ああ、もう終わりみたい…」
「っ!? アリシア!」
「アリシア──姉さん…!」
母と妹の四眼が、既に胸まで消えた肉親の姿に傾注される中、アリシアは自らの家族たちへ目を向ける。
──ごめんなさい
──ありがとう
──さようなら
最後にアリシアは二人にそう告げると、儚げな微笑を浮かべたまま光に溶けて宙へと消えていった。
「逝ったか…」
光の舞い上がる天井へ目をやり、大僧正は一人呟いた。
──こうして、一つの世界が滅亡の瀬戸際に陥る起因となった少女は、四半世紀の長きに亘って捕われ続けた魂の牢獄から解放され、天へと召された。
「願わくば、かの少女が来世にて幸多からん事を」
アリシアの幸せを祈った後、悲しみに暮れるプレシアとその傍で佇むフェイトへと視線を戻した。
その時──
「グッ!? ゴホッ!!」
「っ!? 母さん!」
無理をしたのが祟ったのか、プレシアが突如咳き込み、口元を覆った手の間から吐き出した血が漏れた。
「私もここまでね…ごめんなさいアリシア。約束は守れそうにないわ…すぐに貴女の後を追う事になりそうよ…」
「そんな…」
自嘲気味な笑みを浮かべるプレシアの言葉に、その身を支えるフェイトの顔が蒼白となる。
「申し訳ないが、そうはいかぬ。汝には現世に残り罪を償い、娘子との約束を果たしてもらわねばならぬ」
プレシアの正面へと進み出た大僧正が、彼女の弁に抗する。
「…無駄よ。私の病状は知っているのでしょう? 末期の肺癌、医者も匙を投げるようなレベル。何をしようと無意味よ」
「っ! そうだ、貴方なら…あの時私を助けてくれたっていう治癒魔法なら──」
希望を見い出したフェイトが大僧正へ縋るように哀願の視線を送ってくる。
「『常世の祈り』の事かな? 駄目じゃ、あれは外傷にしか効果がない。体の奥深くにまで浸透した病巣の除去が出来る魔法など、拙僧は知らぬよ」
「それじゃ、母さんは…」
かぶりを振ってフェイトの考えを否定する大僧正に、少女は考えたくもない結末を想像し、その顔が蒼白となる。
「じゃがな、フェイト殿。拙僧も悪足掻きをしてみた」
「え──」
己が懐へ手を入れながら発っした大僧正の言葉にフェイトが呆けた声を上げた。
「ジュエルシードよ、我が意に従え…!」
懐から室内に入る前にクロノから受け取った試験管を取り出し、右掌中へ握り込みながら大僧正が命を発す。
試験管を握る大僧正の右手全体がマガツヒの赤い光で覆われていく。
すると、試験管の中に浮かぶピンク色の「何か」にマガツヒが吸収され、赤い燐光を放つ怪しげな物体と化した。
「出来たか…」
試験管を顔の高さまで持ち上げ中身を確認すると、大僧正は封を解き、中身を大気へと晒す。
「後はこれをプレシア殿へ」
言いながら試験管の口をプレシアへと向けると、赤い物体は弾かれたように飛び出し、プレシアの胸に命中。その体内へと吸収された。
「グッ!?」
「母さん!!」
その衝撃にプレシアはくぐもった悲鳴を吐き、フェイトが悲鳴を上げる。
「案ずるなフェイト殿。拙僧が治療を施しただけよ」
「治療…?」
心配そうに母と魔人の顔を交互に見るフェイトに、大僧正が頷きを返す。
「グゥッ…! か、体が熱い…!」
「っ!? 母さん、本当に大丈夫なの!?」
胸を押さえて苦しみ出したプレシアを支えながら、フェイトが疑問の声を上げる。
「末期症状の癌である上に全身に転移までしているのじゃ、多少の熱や痛みは堪えてもらう以外にない。なにせ、全身の細胞を入れ替えている
ようなものである故な。…しかし、このまま苦しませるのも酷じゃろうし、暫し眠ってもらうか」
「あ──」
大僧正が人差し指をプレシアの眼前へ突き出し、くるりと円を描くと糸が切れたように体が
崩れ落ち、そのまま意識を失う。
魔人は彼女の体を念動力で持ち上げると、驚くフェイトの目の前でベットの上へと運んだ。
「細胞の入れ替えって…?」
「簡単に言ってしまえば、癌に侵された体の部位を丸ごと排除して新しく再構築するという事じゃ」
大僧正はプレシアを寝かせると、己の発言が理解出来ずに眉を曇らせていたフェイトに、
その意味を噛み砕いて説明する。
「この試験管に入っていたのは、プレシア殿の体細胞でな。先程の医療班が治療を行っていた際に採取した物を、クロノ執務官殿に頼み込んで
渡してもらってのう。拙僧はこれを使って人工の幹細胞──あらゆる種類への細胞へと分化可能な、実質上の万能細胞へと作り変えたのじゃ」
「ちょっと待て!!」
大僧正の説明を遮り、今まで入り口で沈黙を守っていたクロノが声を上げた。
「万能細胞!? それもこんな短時間で体組織として成り立つような高速培養だって!? 無謀だ、人体にどんな悪影響が出るかわからないぞ!?」
クロノの驚きも最もであった。現実の地球においてもES細胞やIPS細胞は既に技術として提唱確立されているものではあるが、未だ実験
段階の状態で、実用化のめどは立っていないのだ。
それも高度な医療設備のある施設ならばともかく、こんな独房の一角で裁判も受けていない容疑者にそんな真似をされれば気が気ではないだろう。
「僕はてっきり、君の魔法でどうにかするものだと思っていたぞ!? こんな無茶をするとわかっていたのなら、細胞サンプルなんか渡さなかった!」
「失礼じゃな執務官殿、拙僧とて確証も無しにこんな真似はせぬわい」
「──勝算はあったというのか?」
激昂するクロノを大僧正はカラカラと笑い飛ばしながら説明を続ける。
「うむ。これは拙僧の適正因子を用い、ジュエルシードそのもので治癒を施したのじゃよ。完全に力を御す事が出来る故にな」
──令示はずっと考えていたのだ。プレシアを病気をどうにかする方法はないものかと。
魔人たちの回復魔法は、先程言った通りに外傷や、一部のバッドステータス解除位にしか使えず、病気をどうにかする力はない。
女神転生シリーズでも、何人ものサマナーや異能者が病気で死んでいる。この事から鑑みるに、魔法で病気を治す事は不可能と考えるべきだろう。
本来ならばこの時点で手詰まりなのだが、令示は頭を捻り反則とも言える方法を思いついた。
体内のジュエルシードとその適正因子とを利用するという方法を。
「暴走したジュエルシードを見ればわかる事であるが、殆どの暴走体の力は普通に考えてもあり得ぬ、無茶苦茶な領域のシロモノじゃ。
自己再生、質量増幅、元素変換、高速進化、環境適応等々…物理法則や進化論に喧嘩を売るような能力の数々…じゃがな、もしこれらの能力
を暴走させる事なく、しっかり手綱を握り締め制する事が出来たならば、どうかな?」
人差し指を立てて説明する大僧正を、フェイトとクロノは無言のまま食い入るようにみつめる。
…ヒントになったのは「ジョジョの奇妙な冒険」の四部と五部だった。
四部の主人公、東方丈助が己のスタンドで母親の体を高速でブチ抜き瞬時に再生させ、体内に侵入した敵スタンドを生け捕りにした技法と、
五部の主人公、ジョルノ・ジョバーナの能力を応用して体の欠損した部位を復活させる技法。この二つをモデルに、令示はプレシアの病気の根
治を試みたのだ。
「手始めに拙僧は暴走体たちが見せた数々の異能を完全に掌握し、手中の細胞サンプルへジュエルシードの力を集中させて己の望む形へと改造した」
まずは老化の原因となる体細胞中のテロメアDNAの短縮をストップさせた後に再生させ、細胞分裂の限界値であるヘイフリック限界を引き伸ばす。
更にリンパ液や血液を介して転移してきている癌細胞を排除、細胞を完全にクリーンな状態にした。
そして、大僧正は改造した細胞サンプルのゲノム情報をジュエルシードに解析させて、プ
レシアの体に適合する人工の幹細胞──あらゆる種類への細胞へと分化可能な、実質上の万能細胞へと作り変えたのだ。
「更には進化能力と環境適応能力を応用して逆に癌細胞を浸食破壊するようにしておいた。ついでに癌細胞を徹底的に攻撃する抗体を、血中と
リンパ液の中に解き放っておる。再度の転移防止対策も抜かりはないぞ。
…しかし、流石に一つ二つのジュエルシードではこのような力技は不可能であったがな。九個ものジュエルシードであればこそ出来た荒技じゃ」
「無茶苦茶だ…」
愉快そうに笑う大僧正の脇で、クロノが頭を抱えて呟いた。
無理もない。彼がやってのけた行為は老化現象の防止措置や、臓器移植問題等に真っ向から喧嘩を売る、オーバーテクノロジーの連続だ。
「それじゃ、母さんは助かるの…?」
「無論。その為に施術を行った故な」
「あ──ありがとう…!」
フェイトの疑問に、大僧正が力強く頷きを返すと、彼女は不安げな表情を笑顔へと転じさせた。
「ふむ。だがこれからが苦難の時であるぞ、フェイト殿」
フェイトの感謝の言葉に頷きながらも、大僧正は洞のような目を向けると、やや厳かな態
度で彼女へ語りかけた。
「これまで存在した汝と母御との関係は、完全に壊れてしまった。それでもまだ、汝が娘として生きようというのであれば、並々ならぬ努力と
忍耐を要する事になろう…」
「──はい」
真正面からの問いかけに、フェイトは迷う事なく力強い頷きを返した。
「私は…私と母さんは最初から擦れ違っていたんだと思う。母さんは私に姉さんを重ねて、私は姉さんの記憶越しにしか、母さんを見ていなかった…
二人が二人とも、姉さんを通してしか相手を見ていなかった。そういう意味じゃ、私たちは親子にすら成れていなかったんだと思います」
「だから」と顔を上げてそう言いながら、ベットで眠るプレシアに近付いていくフェイト。
「一から始めようと思うんです。今度は姉さんの記憶越しじゃない、フェイト・テスタロッサとプレシア・テスタロッサの親子としての関係を…」
彼女は眠る母親の手を優しく握ると、大僧正の方へ振り返り、微笑みを浮かべた。
「これで一件落着、じゃな」
フェイトとプレシアをそれぞれの独房に戻し、クロノと大僧正はブリッジへと続く道を並んで歩いていた。
「まだ終わっていないだろう? プレシアとアリシアとの約束はどうするつもりだ? このまま裁判が行われれば彼女の幽閉は免れないぞ」
安心したように声を漏らした魔人へ、クロノが浮かない顔で指摘する。
「その件か…それならば問題あるまい──もう手は打ってあるぜ、クロノBOY」
クロノの方を向きながら、法衣の木乃伊がヘルズエンジェルへと変じつつ、明るい声で返事をした。
「今度は何をしたんだ…?」
「ま、その辺の細かい話は全員揃ってから話そうぜ」
予想外の展開の連続で、疲れ切った声を漏らすクロノに、ライダースーツの骸骨は笑いながらブリッジへ続く扉を開く。
「クロノ君、大僧正さ──じゃなくて、ヘルズエンジェルさん、おかえりなさい!」
「ていうか、また変身したの?」
ブリッジに入った二人の姿を目聡く見つけ、ぱっと花の咲いたように笑みを浮かべて駆け寄って来るなのはと首を傾げているユーノ。
「二人ともお疲れ様。『アリシア・テスタロッサの亡霊とプレシアを対面させる』と言われた時には半信半疑だったけど…結果的には許可を出
してよかったわ」
なのはたちに続き、艦長席から立ち上がったリンディもまた入り口の方へと歩み寄り、ヘルズエンジェルたちへ労いの言葉をかける。
ブリッジのモニターからプレシアの部屋での様子を見守っていたリンディたち三人の顔には、無事に面会が済んだ事への安堵の色が浮かんでいた。
「只今戻りました艦長」
「フフン。だから言ったろう、リンディ姉ちゃん。問題無いってな」
「姉ちゃんはやめてと言ったでしょう…」
胸を張って言い切るヘルズエンジェルに対し、こめかみに手を当て溜息を吐くリンディ。
「…まあ、それはともかく大僧正さんのあの隠し技…降霊術には驚かされたわ。実物を目にしたのは初めてだったし」
「全くです。しかし、治療の方は一言くらい事前に説明位して欲しかったぞ」
クロノは言いながら、隣に立つヘルズエンジェルへ非難のこもった眼差しを向ける。
「まあいいじゃねえか。そっちだって喜んで許可出したんだしよ」
「君が『プレシアに会わせなきゃ無理矢理にでも会う』って言い出すからだろうが! 許可を出したのだって、目の届かないところで無茶され
る位なら、こちらの監視下でやられた方がマシだったからだ!」
肩を竦めておどけるヘルズエンジェルに、クロノが吼えた。
「にゃはは、まあまあクロノ君落ち着いて…」
と、苦笑を浮かべてなのはがクロノを宥める。
「まあそう言うなよクロノBOY。生身のお前さんには『視えない』だろうが、悪魔の身の俺にはプレシアの脇で膝を抱えて泣いてるアリシア
の姿が、ずっと『視えて』いたんだぜ? アレを放っておくなんて出来ねーよ。
この国の諺にもあるぜ。『泣く子と地頭には勝てぬ』ってな。それとも、泣いてるだけのガキなんざ無視しろってか?」
「そんな事は言っていないだろう? 僕は筋を通せと言っているだけだ。…そういう言い方は卑怯だぞ?」
「HAHAHA! 卑怯狡いは大人の得意技だ。よく覚えておきな執務官」
唇を尖らせるクロノを、ヘルズエンジェルは笑いながら軽くいなした。
「でも、フェイトちゃんもアリシアちゃんもプレシアさんも、これでもう大丈夫だよね?」
「うん。色々あったけど、みんなが納得いく形で終わったしね」
なのはの言葉に、ユーノが大きく頷き笑みを浮かべる。
「いや、まだ終わっていないよ。さっき廊下でヘルズエンジェルにも言ったが、プレシアとアリシアとの約束がどうにもならない。このまま本
局で裁判が行われれば、プレシアは間違いなく懲役刑が課せられる」
「あ──」
「そうだった…」
明るい表情から一転、なのはとユーノの顔に不安の影が差した。
「んで、俺の出番という訳さ」
と、そこで親指を立て自身の胸を指しながら、ヘルズエンジェルが自信たっぷりな様子で声を上げる
「それは廊下で聞いたよ。早速聞かせてもらおう、今度は何をやるつもりだ?」
「おう、実はだな──」
ジト目で睨みつけてくるクロノへ口を開こうとしたその時──
「おーいヘルズエンジェルさーん!」
ヘルズエンジェルたちの元に、エイミィが声をかけながら近付いて来た。
「おう、丁度良かった。エイミィ嬢ちゃん。例の件はどうだい?」
己の目に現れたエイミィに、丁度いいとばかりに語りかけるヘルズエンジェル。
「うん。ホントにヘルズエンジェルさんの言う通りで驚いたよ…」
「例の件?」
聞き覚えのない話に、クロノは首を傾げる。
「たった今話そうとしていた件についてさ。ここじゃ何だから、場所を変えて話そうか…」
「じゃ、ミーティングルームで。あそこなら資料を開示するのも楽だし」
「あっ! おい、ちょっと待て!」
勝手に話を纏め、さっさと移動を始める二人の後を慌てて追いかけるクロノに続き、残ったなのはたち三人も狐につままれたような面持ちで
その後について歩き出した。
「──さて、まずは状況を整理する意味でも情報をおさらいしてみようか」
海中のジュエルシード回収の一件で、なのはたちがリンディにお叱りを受けた、アースラのミーティングルームにやって来た一行は、座席に
腰掛け、一人立ったまま説明を始めたヘルズエンジェルに注目していた。
「今回の事件はプレシア・テスタロッサが、次元干渉型ロストロギア『ジュエルシード』を入手し、失われた技術の眠る伝説の地、アルハザー
ドへの道を開こうとした事から始まった。そしてその起因となったのは、二十六年前のミッドチルダのアレクトロ社にて彼女個人が開発してい
た次元航行エネルギー駆動炉『ヒュードラ』起動実験の際の暴走だった。
…それによってプレシアは愛娘であるアリシア・テスタロッサを失った上に中規模次元震を起こした事によって中央を追われてた。とまあ、
こういう経緯だったよな?」
言いながらヘルズエンジェルが確認の意味も込めて全員の顔を見回すと、肯定の頷きを返してくる。
「しかし俺はここで疑問を感じていたんだ。次元震なんか起こしたってのに、なんで都落ち程度で済んでいるんだ? とな
んで、疑問に思った俺はエイミィ嬢ちゃんに頼んで裁判記録や当時のニュース、新聞記事、それに管理局の事故調査資料なんかを取り寄せて
もらったんだ。ああ、さきに言っておくが一般人でも見れる公開文書だけだぞ? 流石に機密文書まで見せろとは言っていないから安心してくれよ?」
「部屋から出てこないと思っていたが、そんな事をしていたのか…」
クロノがヘルズエンジェルのアースラでの生活ぶりを思い出しながら、呟きを漏らした。
海上での封印作戦の後、ヘルズエンジェルがエイミィに頼んでいたのはこれだったのである。
「それでなのはたちが一時帰宅している間、俺はアースラで宛がわれた部屋にこもって、それらの資料に目を通していた訳だが…ますます腑に
落ちない事が見つかった。まず裁判だが、プレシアは民事裁判だけでしか裁かれていない。刑事の方は影も形もないんだ」
「その辺りはこちらも把握しているわ。アレクトロ社はプレシアが民事で自分の過失を認める事で被害届は出さない──つまりは刑事裁判は行
わないという方向で和解が成立したという事になっているわね」
ヘルズエンジェルの言葉に詳しい説明を補足するリンディ。
「あ、あの…民事と刑事って何ですか? 裁判に違いなんかあるの?」
と、そこでなのはがおずおずと手を上げ、申し訳なさそうに疑問を口にした。
「ああ、まあ普通の小学生にゃ違いなんかわからねえわな。簡単に説明するとだな、民事裁判ってのはこの土地は誰の物とか、この財産は誰の
物とか、離婚するから慰謝料払えとか、そう言った私的──プライベートな争いを解決する為にやる裁判の事だな。
で、もう一方の刑事裁判の方は犯罪者の有罪無罪、有罪の場合はその罰の軽重を決定し、裁く為の物だ。一応両者分けて区分されているが、
場合によっては同じ出来事が民事刑事の両方で争われる時もある」
わかったか? と尋ねるヘルズエンジェルに、なのはは大きく頷きを返した。
「で、問題はその刑事裁判なんだが、これがどう考えてもおかしいんだ。『ヒュードラ』の暴走事故が起こったのは郊外とはいえミッドチルダ
──次元世界の中心的な場所だろう? 日本で言えば東京の西側、青梅や多摩辺りで大爆発があったようなもんだ。いくらアレクトロ社の研究
所敷地内での事だろうとも、付近の住民、企業からすれば相当にショッキングな出来事だろうよ。更には人的被害でアリシア・テスタロッサが
死亡している。にも拘らずだ、管理局はアレクトロ社の被害届以前に殺人──刑事事件での可能性を一切考慮していないんだよ。その証拠に、
管理局は事故現場の検証を行っていない」
「「なっ!?」」
抑揚のない言葉で静かに述べられた事実に、ハラオウン親子が驚きの声を上げた。
「現場検証をやっていないだって!? そんな馬鹿な!」
「本当なの、その話は…」
「残念ですが、本当です」
疑問を投げかける二人へ返答を行ったのは、ヘルズエンジェルではなく、エイミィであった。
「事件性は低く、プレシア・テスタロッサの安全管理不備による事故として処理すると、当時調査にあたっていた管理局員から提出された書類
にそうありました」
「正気か? 当時の刑事部は…」
信じられないと言いたげに顔を顰めるクロノ。
なのはとユーノは動揺する管理局の面々を見て、話についていけずに当惑の表情を浮かべる。
「現場検証、要するに事故事件の起きた場所を調べるのは、その時現場で何があったのかを知る為の重要な作業だ。なのはも刑事もののドラマ
とかで、指紋を調べている警察の鑑識とか見た事あるだろう?」
「あ、見た事あるよ。あの綿みたいのでポンポンってやるのだよね」
それを察したヘルズエンジェルが捕捉を行うと、なのはが得心のいったように寄せていた眉を緩めた。
「そうだ。その重要な現場検証をやらずに済ましたって事は、管理局もアレクトロ社の事故報告資料を鵜呑みにしたに違いない。当然、裁判の
方もこの資料を中心に争われた事になるな。
さて、そうなるとプレシア・テスタロッサにはとことん不利な状況になる。何と言っても当時の彼女は『ヒュードラ』の開発主任であり、安全
基準責任者なんて肩書まで持っていたしな。全責任をひっ被させられるのは自明の理だろう」
会社という「大」を守る為にプレシア個人という「小」を切り捨てる。古今を問わず、往々にして組織とはそういうものである。
『原作知識』とエイミィに取り寄せてもらった資料で考えを纏めていたヘルズエンジェルは、そこで更なる爆弾を投下した。
「だが、ここまで見事なお膳立てをされているとなると、アレクトロ社と管理局がグルだったと考える方が自然だ」
「なんだって!?」
クロノはその言葉に目を見開き、先程以上に大きな声を上げた。
「ここでそこまで言うからには憶測じゃなく、証拠を掴んだという事かしら?」
それに対してリンディは表情を崩す事なく固い声でヘルズエンジェルへ問い返す。
「その話はもう少し後でな。今は「アレクトロ社と管理局の関係がどうにも怪しい」と、その位の認識を持ったままで聞いていてくれ」
ヘルズエンジェルは飄々とした態度を崩す事なく話を続ける。
「アレクトロ社と管理局の黒い繋がり…それを意識して『ヒュードラ』開発の件を調べ直すと、ますます疑問が生じてくる。
まず、裁判記録に添付されていた開発資料も見たんだが、技術関連にゃ素人の俺でもわかる位に無茶苦茶だった。開発の途中で追加された仕
様や設定は数え切れないほど。資料上はプレシアが『独断でやった』という事になっているが、どんなマッドサイエンティストでも、こんな無
謀はありえねえ」
人を乗せて運ぶ船の動力部分なのだ。その設計開発には慎重に慎重を重ねるが当たり前である。
ましてや長期継続運用が前提のものが、こんな異常な開発状況でまともに動くとは思えない。技術職でもない令示にもわかる理屈だ。それが
優秀な科学者であったプレシアにわからない筈がない。
「それにだ、会社ってのは利益を追求する組織だろ? 開発の責任者はプレシアだったとは言え、彼女個人の研究ならばともかく、当時の彼女
はアレクトロ社に所属し、研究の設備も人員も全て会社側が所有していた。たとえ結果を出したとしても、勝手な行動を理由に研究成果を会社
に全て奪われる可能性だってゼロじゃない。つまりプレシアには独断専行をやったとしても、得られるメリットは何もないんだよ」
ここでプレシアの独断専行の動機の一つとされた、立身出世という理由が完全に消える。
「それに、研究の最終的な管理監督は会社側の責務だろう? それがこんな無茶な仕様を見逃した挙句、最終的な暴走まで気付かなかった? 甚だ疑問だ。
事故が起これば会社がどれだけの損害を被るか馬鹿でもわかる筈だ。『ヒュードラ』の暴走の件も、いくら背後に管理局が付いていたと仮定
しても、民事の和解のみで決着がついたのは奇跡だろう。下手をすれば会社そのものが吹っ飛んでもおかしくないレベルの事故だった筈だ。そ
れを見逃し続けていた? ハッ! あり得ねえ、どれだけ綱渡りな運営だよ? ここまでくればもう、アレクトロ社は黒確定だ。どう考えても
会社主体で開発を急がせた挙句、暴走事故を起こしてプレシアに全責任を押しつけたと断定できる」
「それじゃプレシアさんは…」
「利用された揚句に罪人にされたという事…?」
「しかしそれならば尚更、管理局がグルとは考えにくくないか? そんな無茶をする会社と結託する等、懐に爆弾を抱え込むようなものだ。リ
スクばかりで旨味が無いぞ?」
社会のダーティーな面を垣間見て、驚き戦慄するなのはユーノを尻目に、当然の疑問を口にするクロノ。
それに対してヘルズエンジェルは人差し指を立てて左右に振り、否定のサインを送る。
「チッチッチ、クロノBOYそこで逆転の発想だ。「旨味もないのに何故グルになった?」ではなくて、「グルにならざるを得なかった」と考えるんだよ」
その言葉に首を傾げるクロノ。
「「グルにならざるを得なかった」?」
「そのカギとなるのが『ヒュードラ』だ。まず、何故こんなに開発を急ぐ必要があったのか? 裁判での名目上はプレシアが独断専行をしたと
なっている。しかしさっきも言ったが、アレクトロ社が開発を急がせたとなれば、ソレを買う客が居たという事だ。発注元は大手の次元航行船
製造メーカーという話だが…
さて、クロノ執務官ここでクイズだ。新型エネルギ―駆動炉を搭載した次元航行船、こんな糞高い代物をポンポン買ってくれるような組織、
団体、個人…その中でも一番の大口顧客と言えるような存在は何だと思う…?」
「…?」
言葉の端々に笑いを交えながら紡がれた問いに、クロノは訝しげな表情で首を傾げつつも口元に手を当て思考を巡らせ──
「──っ!? まさか…!」
目を見開き、震える声で顔を上げる。
「次元航行船舶を最も多く所有、運行している組織…時空管理局」
「BINGO! 正解だクロノBOY。エイミィ嬢ちゃんの話じゃ常時一〇〇隻以上の船が動いているらしいじゃねえか。こんな大口顧客、逃
がす馬鹿は居ねえよな?」
クロノの様子を眺めながら楽しそうにヘルズエンジェルは語る。
「次元航行船の売買契約により動く大金目当ての結託…それが貴方の言った次元航行船のメーカーを仲立ちにした形の、アレクトロ社と管理局
の結託の理由という事かしら?」
動揺するクロノとは対照的に机に両肘をついて顔の前で手を組んだリンディが、ヘルズエンジェルの動向を探るように静かな声色で問いを投
げかけてきた。
「Exactlyだリンディ姉ちゃん。これなら管理局側の初動捜査の不手際も納得いくだろう? そのメーカーと管理局は相の蜜月な仲だったんだろ
うよ。当然、アレクトロ社の連中もそのおこぼれにあずかっていたんだろうがな。
現場検証が行われなかったのも、捜査を許して芋づる式に管理局と企業の結託が明るみに出ないようにする為だ。いや、ひょっとすれば司法
部にも手を回して、裁判を有利に運ぼうとしたって可能性もある」
「ちょっと待て! 最初からアレクトロ社と管理局がグルだというのであれば、なんで『ヒュードラ』開発が無謀を極めたんだ!? 裏で組ん
でいたというのであれば、こんなにも急速な開発を行う必要などないだろう!?」
「そう、そこで浮かぶ当然の疑問だな。管理局と組んでいながら、アレクトロ社は何故『ヒュードラ』の開発を急ぐ必要があったのか? モチ、
その答えも用意して居るぜ──エイミィ嬢ちゃん」
「ハイハーイ」
クロノの詰問にも慌てる事なくヘルズエンジェルはエイミィへ資料の開示を促した。
エイミィの十指がコンソールの上を駆けると同時に、机の中心に添えられた宝玉より中空へ画像が投射され、全員の視線を集めた。
「まずはこれだ。管理局の公開文書の中にある競争入札の記録だ。見ての通り、例のメーカーがかなりの割合で落札を勝ち取っているのがわか
るな。納入品目は…公用車に、ヘリ、次元航行船と。まあ糞高いシロモノのオンパレードだな。さぞかし笑いが止まらなかったろうよ」
記載された品目を呆れ混じりの溜息とともに、ヘルズエンジェルが読み上げる。
「まあそれはさておき、問題はこれだ。新暦三十七年に管理局から公布された資料なんだが、ここに気になる一文があった」
ヘルズエンジェルが指差した個所に書かれていたのは、管理局の次元航行戦艦の採用方式変更に関するものだった。
「管理局次期主力次元航行戦艦は入札制ではなく、トライアル方式の採用を決定したと記載されている」
「…そういう事か。今までのやり方が通じなくなっての苦肉の策の挙句が、あの結果だったと…」
「トライアル方式?」
聞き慣れない言葉に、再び眉を寄せて疑問の表情を作るなのは。
「トライアルってのは決められた金額やテーマに沿った品物を設計させて出来た試作品を試験して、総合的に優れている方を採用、購入する方
式のことだ。ちなみに入札制度ってのは売り側が「うちはこれで売ります、工事します」って金額を書いた紙をみんなで箱に入れて、一番安い
金額のところの商品を購入をするって方式だ」
「入札制度はもともと不正が問題視されていた制度だったの。それを改める為のトライアル方式の採用だったのだろうけど…」
リンディが眉を顰め、説明の捕捉をする。
「それが事故を引き起こす一因になっちまった。例のメーカーの連中もアレクトロ社もそれはそれは焦った事だろうよ。何せトライアルはある
程度の情報は公開されるし、不正に絡まない管理局の高官や管理世界のVIPが発表の場に招かれる事だってある。
あまりに性能の低い船を出して、それが他を押しのけて採用されようものなら、すぐに癒着を疑われる。当然、談合なんて真似は出来ない。
つまりこの時、例のメーカーとアレクトロ社は、何が何でも顧客の──管理局の求めるスペックの次元航行船を用意しなきゃならなかったん
だ。それも早急にな」
「それが、『ヒュードラ』開発を急がせる事となり、無茶なタイムスケジュールで実験を強行し、結果暴走。アレクトロ社と管理局は事件が大
事になる前にプレシアに全責任を押しつけ、全てを闇の中に沈めたと…」
ヘルズエンジェルのこれまでの話を整理する意味で、クロノが簡潔に纏める。
「で、最後に連中のグルの裏付けだ。エイミィ嬢ちゃんに可能な限り調べてもらったぜ」
「ヘルズエンジェルさんに頼まれてたのは、アレクトロ社と例のメーカーの資産、有価証券、株式の保有比率、会社役員及び取締役の人員とそ
の詳しい経歴、主な取引先に銀行、関連企業に子会社、運営資金の状況、流通等々…」
エイミィの言葉とともに、次々と中空のモニターに浮かぶ数々の書類データ。
「こっち俺も見れない機密文書の類もあったんでエイミィ嬢ちゃんに頼んでたんだが、さっきブリッジで話した通りバッチリだったようだな」
「うん。子会社の取締役や相談役に…ほら」
「これは…!?」
書類データにいくつものアンダーラインが走ると、クロノとリンディの表情に驚き満ちる。
「管理局の元高官、将校…知っている人だけでもこんなに…?」
「優先的な売買契約の見返りに再就職斡旋という名の利益供与…癒着か!」
「天下りってヤツだな。まあ国が関わる独立行政法人不正でなくて、完全な民間企業って所が俺らの国とは違うが…世界が違うと、この辺の法
律の絡みも、多少は違うみたいだな。しかも管理局退職後、ご丁寧にも数年間の空白期間を設けた後の就職となっているから、法律上問題が無
い。それに、金の流れや決定的な証言が無い以上、これらのデータは所詮疑惑止まりになるだけだろう………が、もしもプレシア・テスタロッ
サの裁判前に、こんな物が次元世界中にばら撒かれたりしたら大変な事になるなぁ、執務官?」
言葉に笑いを含ませ、ヘルズエンジェルがクロノを見る。
「管理局に好意的な世界も、世論がひっくり返りかねないスキャンダルだ。次元世界はさぞかし楽しいお祭り騒ぎになる事だろうぜ。清廉潔白
な筈の管理局が悪魔の所業! 一人の母親から娘を奪った上に、罪をなすりつけてその人生を狂わせた! ってな」
「…それは脅しか?」
睨むようにヘルズエンジェルへ視線を叩きつけるクロノ。
しかし当の本人はそれを「意外だ」と言わんばかりに肩をすくめる。
「おいおい、なんでそうネガティブに取るかねえ。こいつはあんたらにとって『美味しい』お話だぜ?」
「私たちにとって?」
怪訝そうにリンディが聞き返す。
「確かにこの話題をブチ撒けただけなら大騒ぎなだけだろうさ。しかしだ、そこに『ハラオウン親子が自ら身内へ大鉈を振るい、管理局の不正
を正した』ってオマケが付けばどうだ?」
「君は、僕らにこの癒着構造を叩けというのか…?」
「管理局でまともな知り合いなんてあんたらしか知らねえしな。あんたらが上に行ってくれれば、俺としても色々やりやすいし、なにより、知
っちまった以上、そのままに出来ねえだろう? 堅物の執務官殿としてはな」
「むう…」
からかうように尋ねるヘルズエンジェルを面白くなさそうに睨むクロノ。
両者はしばし睨み合った後、クロノは大きく溜息をついて視線を落とした。
「わかった…この資料を元に二十六年前の事件の見直しと管理局の癒着構造の内偵調査を行おう。僕としてもこの件を有耶無耶にするつもりは
ない。この事件の背景が明らかになれば、プレシア・テスタロッサにも情状杓状と恩赦が出る公算が高いしな」
「っ!? それじゃ!」
目を見開き声を上げるなのは。
「ああ。この情報が確かならば少し時間がかかるだろうが、プレシアは娘と一緒に暮らせるようになるよ」
「よかった、フェイトちゃん…」
クロノの説明になのはは安堵し、胸を撫で下ろす。
「おいおい、こんだけお膳立てしたんだぜ? これで証拠が出なかったら、単に調査がヘボかったってだけだろうが…」
「調査に手を抜くつもりはない! 不正が確かなら、絶対に証拠を上げて見せる!」
呆れたようにつっ込むヘルズエンジェルへ、クロノはムキになって言い返した。
「まあまあ、落ち着きなさいなクロノ。ところで、ヘルズエンジェルさんは随分と法律関係に詳しいようだけど、どうしてそこまで知っているのかしら?」
笑いながらクロノを宥め、ヘルズエンジェルへと目を向けたリンディが。静かに質問を投げかけてきた。
「なに、俺は法曹界志望でね。世界が違おうが人間の考える事なんざ基本一緒だ。不正関連も同じようなもんだと考えて動いていたんだが、案
の定だったってだけさ」
「ふうん、『これから』法曹界を目指すという事は、こちらの世界ではまだ未成年、もしくは成人したばかりという事かしら?」
「チッ、喋りすぎたか…あんたも結構な狸だな」
「フフ、やられっ放しは性に合わないのよ」
頭を掻きながらぼやくヘルズエンジェルを、リンディは笑いながら軽くあしらった。
「フゥ…」
ミーティングルームでの会談を終えて、「今後の件で話し合うから」と言われて部屋を追い出されたヘルズエンジェルは、通路上のベンチに
腰掛けると天井を見上げながら大きく溜息をついた。
アリシアの亡霊、プレシアの病気、そして裁判によるテスタロッサ家の進退と、様々な難問を一気に片付けた為、流石に大きな疲労感を隠し
切れなかった。
(何とか『原作知識』で上手いこと立ち回れたけど、かなりな綱渡りだったな…)
TVアニメ版、漫画版、小説版、映画版等のプレシアの過去やアレクトロ社の矛盾や不審点を元に、エイミィに取り寄せてもらった資料の調
査と裏付けを行い、どうにか今回の報告を作るに至った。
『原作』にない部分でもあり、殆ど手探りであったが、どうにかプレシアの自由を確保できるだけの条件を揃える事が出来た。
クロノたちの捜査や裁判の行方がまた不透明ではあるが、最悪、こっそりアースラに分霊の魔人を乗せたままにしておいてミッドチルダに密
航し、証拠や証言集めを裏から支援してしまえばいい。
最早、現状で懸念するような事は皆無だ。
だが──
(これで憂いは晴れた筈、なんだけどなぁ…)
交渉の連続で張りっ放しだった緊張感が弛緩すると、たった一つ心に残った「重荷」がヘルズエンジェルの気分に影を落とした。
「ヘルズエンジェルさん!」
と、そこへ少し遅れてミーティングルームから退室したなのはとユーノが、声を上げ彼の元へと駆け寄って来た。
「凄かったよ! 私は何も出来なかったのにあんな難しい問題を全部解決しちゃうんだもん!」
興奮冷めやらぬといった様子で頬を紅潮させ、なのはがヘルズエンジェルへ尊敬の眼差しを向けてくる。
「うん、僕も驚いた。特にあの降霊術! 知識としては知っていたけど実物を見たのは初めてだよ!」
学術の徒であるスクライア出身らしく、ユーノも瞳を輝かせてなのはの言葉に同意する。
「ああ、うん…まあな」
が、当のヘルズエンジェルはというと、頬を掻きながらどこか居心地の悪そうに言葉を濁した。
「? ヘルズエンジェルさん、どうかしたの?」
その言動の変化を察したなのはは、首を傾げて問いかけてきた。
「あ~、さっきのプレシアを説得した事でちょっとな…」
隠し切れなかった感情を見抜かれたヘルズエンジェルは、ばつが悪そうに視線を逸らしてそうこぼした。
「さっきの独房での事? 何か問題でもあった?」
不備でもあったのかと考えたのか、少し心配そうにユーノが尋ねる。
「いや、プレシアには問題はねえな。どっちかっていうと俺自身の悩みというか、自己嫌悪というかだな…」
歯切れの悪い物言いをしながら、友人から視線を逸らしたままヘルズエンジェルは思案し──
「俺がプレシアに偉そうに説教を垂れる資格があったのかと思ってな…」
数秒の後、己の心中を二人へ吐露した。
「……君は自分にその資格が無いって、そう思っているの?」
「ああ」
言葉を選びながら慎重に問いを返したユーノへ、迷う事なく肯定の意を示すヘルズエンジェル。
「プレシアはアリシアを心から愛していた。己の半身と言ってもいい程にな。だから、それを理不尽に奪われた事によって、嘆き、苦しみ、そ
して狂気に憑かれた…そう、愛故にだ」
再び天井を見上げたヘルズエンジェルが紡ぐ言葉を、なのはとユーノは黙って聞き入る。
「俺はさ、理不尽に大切な人を奪われた事なんてない。だから、もしも俺がプレシアと同じ立場になって、あの狂気に憑かれず正気を保てるの
か? って聞かれたら、大丈夫なんて答えられねえんだよ。
人を愛したが故に狂ったというのであれば、あの狂気は誰しもが持っているものだ。この先俺が愛した者を奪われた時、プレシアみたいにな
らないなんて、誰が保証出来る?」
個人の悟りを尊び、六道輪廻からの脱却を目指す小乗仏教では、愛は執着であり煩悩であると説く。
それはある意味では正鵠を射ているだろう。愛は時として憎悪を産み、狂気すらも孕むのだから。
TVのモニター越しではない、肉眼で、肌でプレシア・テスタロッサという女を捉えた御剣令示は、その疑問を心へ深く刻みつけられたのだ。
「だから考えちまうんだ。偉そうにプレシアに説教を出来る程、俺はご立派なヤツなのか? ってな」
視線を足元へと落したヘルズエンジェルは、自嘲気味に笑いながらそう言葉を結んだその時──
《大丈夫。令示君はそんな事にならないよ…》
脳裏に響いたなのはの念話の呟きとともに、俯いていたヘルズエンジェルの視界に入った小さな両手が、そっと彼の右手を包む込んだ。
《令示君は人の痛みがわかる優しくて、強い人だもの。だから、大丈夫》
「いや、そう言ってもだな《それに──》…」
希望的観測に過ぎないと思って、言おうとした反論を遮り、なのはが続けて念話を放つ。
《もしも令示君がプレシアさんみたいになったとしても、私が止めるよ。絶対に》
ヘルズエンジェルの目を正面から見つめ、なのははどこまでも真っ直ぐにそう言い切った。
《なのはの言う通りだよ。僕も君がそんな事になるとは思えない》
「過大評価し過ぎだろ二人とも…俺ァそんなご立派な人間じゃねえよ」
子供二人の純粋な眼差しを受けて、何ともバツが悪くなったヘルズエンジェルは目を逸らしながらぶっきらぼうにそう言い放った。
この世界に生まれ落ちたばかりの頃の、煩悩まみれな思考が脳裏にちらつき、何とも後ろめたくなってしまったのだ。
《見ず知らずの僕やなのはを助けた上に、危険を冒してまで敵対していたフェイトたちを助けた君がそんな事を言ってもね…それこそ説得力が無いよ》
「だから、それは《それに──》」
なのは同様に、ユーノまで反論を遮り喋り続ける。
《君が君の言う狂気に憑かれたとしても、なのはと同じように僕も全力で止めてみせるよ。だって、『ダチの危機に、一人だけ外野で応援』な
んてやってられないもんね?》
「ね? なのは」と言いながら、ユーノが悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女へ
以前ヘルズエンジェルが言った台詞を真似て、ユーノが悪戯っぽく笑いながらなのはにウインクを送ると、一瞬キョトンとした後、すぐに満
面の笑顔となったなのは、力強く「うん!」と返事をして大きく頷いた。
「チッ、海の時の言葉なんざ引っ張り出して来やがって」
ヘルズエンジェルはユーノの意趣返しともいえる言葉に深く溜息をつくと、
「ま、そこまで言われちゃいつまでもいじけていられねえだろうが…よっと!」
軽く笑いながら勢いをつけ、ベンチから立ち上がると大きく伸びをして、体をほぐした。
「んじゃ気分転換に食堂でも行くか。丁度小腹も空いたし、なんか摘めるものでも貰うとしよう」
「あっ! 待ってよヘルズエンジェル!」
「私も行く!」
(全く、俺には勿体ない位にできたダチだな。ありがとよ、二人とも…)
歩き出した己の後を、慌ててついて来るなのはとユーノを尻目に、ヘルズエンジェルは心中で感謝の言葉を紡いだ。
「さて、ゴタゴタはあらかた片付いたし、後はアースラ組が帰還するだけか?」
アースラの食堂へやって来た三人。
ヘルズエンジェルは手にしたカップを傾け、ブラックコーヒーに口を付けると、正面の席に座る二人へ何とは無しにそう投げかけた。
「そうだね。でも、さっきブリッジのスタッフの人たちが話していたけど、ミッドチルダ方面の次元空間がさっきの次元震の影響で不安定にな
っているらしいから、渡航にはもうしばらくかかるんじゃないかな?」
幸い、地球には何の影響もないみたいだけどね、と続けて、ユーノは自分のオレンジジュースをたぐり寄せて、ストローを咥える。
「そっか、じゃあ海鳴のみんなには何も起こらないんだね…」
ユーノの言に、なのははコップを握ったまま大きく安堵の息を吐き、両肩から力を抜いた。
「ふむ…」
なのはやユーノと話を聞きながら、ヘルズエンジェルが考えていたのはフェイトの今後であった。
彼女はこの後、本局での裁判が控えている事もあり、なのはたちと会えるのはだいぶ先の事になるだろう。
自分が色々と根回しを行い、クロノたちも協力してくれる事を確約してくれた事により、その裁判も九分九厘優位に進むだろう。
とは言え、犯罪者という事で侮蔑し、色眼鏡で彼女らを見る連中も確実に存在する筈だ。
フェイトは芯は強いが、人の悪意に疎い箱入り娘的な面があるところは否めない。『原作』では無事に再開となるが、イレギュラー多発の現
状ではそんなものは当てにならないだろう。
分霊をミッドに送り込んで護衛させたとしても、メンタルな面まではカバーしきれないところが出てくる筈である。
(何か背中を後押し出来るようなものでもないか…?)
「? どうしたの? ヘルズエンジェルさん」
指先で顎を掻き、思案するヘルズエンジェルの様子に、なのはが声をかけた。
「ん? ああ、ちょっと──」
それに答えようとヘルズエンジェルが正面に視線を戻すと、首を傾げこちらを窺う彼女の顔が目に飛び込んで来た。
「………………」
「? ? ヘルズエンジェル…さん?」
黙ったまま自分の顔を見つめるヘルズエンジェルに、なのはが怪訝そうに声をかける。
「……これだ」
「へ? え? 何──」
ヘルズエンジェルの不可解な言動についていけず、一体何を言っているのか、なのはが問いかけようとしたその時、
「なのは、この前の貸し一つ、早速だが使わせてもらうぜ? とりあえず──」
突如魔人が以前交わした約束の件を持ち出し、その要求を口にした。すると──
「え……ええっ!?」
ヘルズエンジェルが口にした内容に、なのはは思わず驚きの声を上げ、席を立ち上がった。
「そ、そんなの無理だよ、私そんなに上手くないし…」
「大丈夫だ、問題無い」
「なんで言い切れるの!?」
「勘だ」
「根拠ないよ!?」
「いいから。とにかく早速練習するぞ。今日からでも」
「よくないよ! ていうか、いきなり!?」
焦るなのはと落ち着いたままのヘルズエンジェル。周囲のアースラの乗組員たちもその声の応酬になんだなんだと注目を始める。
「あ、あはは、まあまあ二人とも、今日は色々あったし、もう時間も遅いからそろそろ休む事にして続きは明日また話しあえばいいんじゃないかな?」
とりあえずヒートアップしていく二人を宥めようと、ユーノが間に立って折衷案を提示する。
「…もう時間も遅い……? ──ってなのは! 今何時だ!? 日本時間で!!」
途端、慌てた様子でヘルズエンジェルがなのはに時間を尋ねる。
「え? えと、午後七時三十五分だけど…?」
「……ヤバイ」
現時刻を耳して、ただでさえ白いヘルズエンジェルの骨のみの顔が、更に蒼白となる。
「ソーリー、急用が出来た! 俺は地球に帰る!!」
慌てて椅子を蹴るように立ち上がると、ヘルズエンジェルは大急ぎでハンガーデッキ──転送ポートの方向へと走って行く。
《ちょ、ちょっと、どうしたのヘルズエンジェル!?》
あっと言う間に姿見えなくなったライダースーツの悪魔に、ユーノが念話を投げかける。
《門限だよ! もうとっくの昔に過ぎてんだ!》
「「あ──」」
頭に響くヘルズエンジェル──令示の叫びに、二人は思わず声を漏らした。
そう、両親に断りを入れてアースラに来ているなのはと違い、令示は一部の人間を除いてその正体を隠し活動している。
当然、それは母綾乃にも言える事であり──
《時の庭園で魔人四体同時召喚の総力戦したから、アリバイ用の分身なんか家に置いてる余裕なかったんだよ! ヤベエ、マジ怒られる!!》
完全に口調が令示に戻っているところを見るに、相当パニクり参っているようである。
二人への挨拶もそこそこに、彼は早々とアースラを飛び出し、自宅へと帰って行った。
そして後に残された二人は…
「あはは…」
「にゃはは…」
互いに顔を見合わせ、何ともいえない苦笑を浮かべた。
──ちなみに、ハーレーまで使って大急ぎで帰宅した令示であったが、既にその時には午後八時近く、当然如く綾乃にこっぴどく怒られ、一
ヶ月小遣い抜きの罰則を科せられるのであった。
合掌。
──人の心の安定も動揺も置き去りにして、時は流れ、組織は動き、自然は変化していく。
とりあえずジュエルシード事件は一応の収束となり、なのはは自宅に戻る事となった。
ようやく一緒に登校できるようになったアリサとすずかが喜んだのは言うまでもない。
また、今回の一件で管理局の任務へ大きな協力をしたという事で、なのはは表彰を受けた。
魔人たちも表彰を、とリンディから誘いを受けたものの流石に正体不明の相手にそれは不味いだろと、令示は断りを入れた。
そんなこんなで令示となのはが普通の生活に戻ってから一週間が経った。
「ん…朝か。くあぁ…っ!」
カーテンの隙間から差す陽の光で意識を覚醒させ、上半身を起こした令示が大きく伸びをしたその時、
《令示君…! 起きてる…!?》
ややトーンを落して控えめにしながらも、興奮冷めやらぬという様子の、なのはの念話が頭の中に響いた。
《ととっ…! ん、ああ。今起きたところだ、問題無いよ。で? どうしたなのは?》
《うん、朝早くごめんね。 今リンディさんから電話があって、フェイトちゃんが私と魔人のみんなに逢いたいって、そう言ってくれたんだって!》
隠し切れぬ嬉しさで声を弾ませるなのは。
《それで、今から少しの時間だけど、話す時間をくれるって…令示君は今から出てこれる?》
《断る訳ないって。すぐに変身してそっちに迎えに行くよ、合流してフェイトの所へ向かおう。で? その待ち合わせの場所ってのは?》
《臨海公園だよ。じゃあ私、着替えてから家の前で待っているね。また後で!》
会話を終えると、令示は玄関前に行ってジュエルシードを起動。ヘルズエンジェルへと変化し自分の姿の分霊を家に置くと、そっと音も無く
自宅を抜け出し、道路上で呼び出したハーレーに跨って朝もやの街の中を一路、高町邸へと向かって走り出した。
──早朝の海鳴海岸。
沿岸に造られた海鳴臨海公園に人気は無く、都会の喧騒から切り離され、緑と水に囲まれた庭園は、まるで別世界のようであった。
フェイトとアルフは、護衛と監視を兼ねたお目付け役のクロノとともに、入り江の外側──外海まで見渡せる橋の上でカモメの鳴き声を耳に
しながら、水平線を見つめて、ただ来るべき人物を待ち続ける。
と、その時、重低音のエグゾーストノイズが響き渡り、朝の静寂を打ち破ると同時に──
「フェイトちゃーん!」
元気に自分を呼ぶ声が耳に届き、フェイトがその方向へと目を向ける。
視線の先、橋のたもとにバイクに跨るヘルズエンジェルと、タンデムシートに同席したなのは、そしてその肩に乗るユーノが姿を現した。
よくよく見れば、ヘルズエンジェルはトレードマークのヘルメットが無く白頭の頭蓋のままで、己の替わりになのはに被らせていた。
「Hey! 到着だぜ、なのは」
「うん! …よっと。はい、ヘルズエンジェルさん」
「おう」
フェイトたちの前でハーレーが止まってヘルズエンジェルがそう告げると、なのはが飛び降りて被っていたヘルメットを彼へと手渡す。
「またそんな派手な方法で移動を…ちゃんと隠蔽用の術式は使用したんだろうな?」
眉間に皺を寄せ、クロノがヘルズエンジェルへ苦言を呈した。
「Don't worry. 姿を隠す術は悪魔の得意技さ。…まあ、俺の姿は消えていたが、同乗していたなのははバッチリ見えてたかもしれねえけどな」
「ええっ!? そんなの聞いてないよ!?」
「制服姿の女子小学生が中腰の姿勢のまま滑るように公道を走る姿…「怪異 ターボばあちゃん」ならぬ「怪異 ターボなのちゃん」ってとこ
ろだな。Happy Birthday! おめでとう、なのは! 新たな海鳴都市伝説の誕生だ!」
「ううう、嬉しくないよ~!!」
なのはへ向かって指を差しポーズを決めるヘルズエンジェルに、彼女は両手をブンブンと振って抗議の声を上げる。
「冗談はその位にしてくれ…で? 本当のところは、問題無いんだろうな?」
疲れたように一息つき、睨むような視線をヘルズエンジェルへ投げかけるクロノ。
「ハン、普通の人間に見られるようなヘマはしてねえよ。ちょっとしたデビルジョークだ」
それに対して魔人は、肩をすくめておどけた調子で答えた。
「うう…ヘルズエンジェルさんは意地悪だと思うの…」
「そりゃ悪魔だし」
「悪魔でも、だよ!」
食ってかかるなのはと、軽くいなすヘルズエンジェル。
「プッ、ふふっ…」
平常運転の二人を見て、少し緊張していたフェイトは思わず吹き出してしまった。
「フェイトの緊張を解したのはいいが、それほど時間に余裕がある訳でもないからな。話す事があるなら急いだ方がいい」
クロノがそう言って仕切り直すと、ユーノがなのはの肩から降りると、フェイトの隣に立っていたアルフの掌へと跳び乗った。
「僕たちは、向こうに居るから」
「あ、うん。ありがとう」
「ありがとう…」
気を利かせて二人きりするよう配慮してくれたクロノへ、なのはとフェイトは礼を述べる。
「じゃあ俺も…」
ベンチの方へ歩いて行く三人に続こうとしたヘルズエンジェル。
が──
「駄目だよ、ヘルズエンジェルさん」
その手を掴み、なのはが引き止める。
「フェイトちゃんは私だけじゃなくて、ヘルズエンジェルさんや魔人のみんなとも逢いたいって言ってたんだよ?」
「いや、ここはまずGirl's Talkを優先するべきだろ、ladies first的にさ」
「だーめ! みんな一緒なの!」
「おおっと!? おいおいっ!」
なのははその言い訳を一刀の下に切り捨てると、ヘルズエンジェルの手を引っ張り無理矢理フェイトの前へと引き摺って行こうとして、
「「あ…」」
真正面から、二人の視線がぶつかり合った。
「ふふ…」
「へへ…」
数瞬、二人は互いの顔を見合わせて、照れたように頬を紅潮させながら笑みを浮かべた。
「あはは、いっぱい話したい事あったのに…変だね、フェイトちゃんの顔を見たら忘れちゃった…」
「私は……そうだね、私も上手く言葉に出来ない…」
「そんなもんだろ? あれもこれもって考えていても、いざ話し合うとなると言いたい事の半分も出なかったなんてよくある事だぜ?」
「あ、それわかる気がするよ」
闘いを乗り越えた三人は、穏やかな海を前に語り合う。
「だけど、嬉しかった」
「え?」
なのはがフェイトへ目を向ける。
「二人が、真っ直ぐに向き合ってくれて…」
フェイトはなのはとヘルズエンジェルに顔を向けて、柔らかな笑みを浮かべそう言った。
「うん! 友達になれたらいいなって、思ったの」
「俺はなのはの付添いみたいなもんだが、半端で投げ出す訳にはいかなかったしな」
それに対し、力強く返答をするなのはと、軽い調子で答えるヘルズエンジェル。
しかし、なのはの笑みは、すぐに浮かないものへと変わってしまう。
「でも今日、もうこれから出かけちゃうんだよね…」
「そうだね、少し長い旅になる…」
それを見たフェイトの顔色も沈んだものになってしまう。
「また、逢えるんだよね…?」
顔を上げ、不安げに尋ねるなのはを見て、フェイトはゆっくりと頷き微笑を浮かべた。
「……うん。少し悲しいけど、やっと本当の自分を始められるから…」
「あ…」
その言葉に不思議そうに自身の顔を覗き込むなのはの視線を避けるように、フェイトは顔を赤らめ、俯きながら口を開いた。
「来てもらったのは、返事をする為…君が言ってくれた言葉──『友達になりたい』って…」
「あっ…うん、うん…!」
「私に出来るなら、私でいいならって……だけど私、どうしたらいいかわからない…」
何度も頷くなのはへ、フェイトは自身の胸に手を当て想いを打ち明けるが、そのぶつけ先に迷い、紡いだ言葉は小さくなってしまう。
「だから教えて欲しいんだ。どうしたら友達になれるのか…」
「……簡単だよ」
俯き押し黙ってしまったフェイトへ、なのはが語りかけた。
「えっ?」
フェイトが顔を上げると、視線の先には微笑みを浮かべるなのはが居た。
「友達になるのは、凄く簡単」
「名前を呼んで? 初めはそれだけでいいの。「君」とか、「あなた」とか、そういうのじゃなくて、ちゃんと相手の目を見てはっきり相手の
名前を呼ぶの。──私、高町なのは。なのはだよ…」
なのははそっと自分の胸に手を当て、改めてフェイトへ名乗る。
「ナノ、ハ…?」
たどたどしく名前を呼ぶと、なのはは嬉しそうに頷きを返す。
「うん…そう!」
「ナノは…」
「うん!」
「ナのは」
「うん…」
フェイトは名を呼ぶ度に笑みを深め、呼ばれたなのはは涙を浮かべてその手を取る。
微笑み合い、見つめ合う二人の間を一陣の海風が吹き抜けた。
「ありがとう、なのは」
「うん…」
「なのは…」
「っ…! うんっ!」
零れ落ちた涙を振り払って、なのはは最高の笑顔をフェイトへ向ける。
「君の手は暖かいね…なのは」
「くっ…、ぅぅっ…!」
堪え切れずに溢れ出てくる涙を拭うなのはの目もとへ手を伸ばし、フェイトがそっと涙を掬い取った。
「少しわかった事がある。友達が泣いていると、同じように自分も悲しいんだ…」
なのはと同じように、目もとに涙を湛えるフェイト。
「っ! フェイトちゃん!!」
「友達」と言ってもらえた!
心が通じ合えた事に感極まり、なのははフェイトを抱き締める。
「ありがとう、なのは。今は離れてしまうけど、きっとまた逢える。そしたらまた、君の名前を呼んでいい?」
フェイトはなのはを優しく抱き止め、静かにそう尋ねる。
「うんっ、うんっ…!」
その声になのはは何度も頷きを返した。
「逢いたくなったら…きっと名前を呼ぶ」
「───」
見上げたフェイトは涙を流しながら微笑を浮かべ口を開く。
「だからなのはも、私を呼んで。なのはに困った事があったら、今度はきっと私がなのはを助けるから…」
「~~…っ!!」
なのはは声を殺して泣きながら、フェイトの体を強く抱き締めた。
潮風が吹き抜ける中、二人は互いを慈しみ、支え合うように抱き合う。
ヘルズエンジェルは橋の欄干に背を預け、そんな二人の様子をそっと見守っていた。
「もういいのか?」
「うん…」
ややあって、自然に離れた二人の少女へ向け声をかけると、なのはは照れ隠しに頭を掻きながら小さく頷いた。
「ヘルズエンジェル…」
フェイトがゆっくりと魔人の前へと歩み寄り、その名を呼ぶ。
「貴方にも、貴方たちにもお礼を言いたいと思って…それと、出来るなら貴方たちとも友達になりたいんだ。他の魔人のみんなとは、今逢える?」
「of course. 問題ねえよ。すぐに召喚しよう」
ヘルズエンジェルがパチンと指を鳴らすと、彼の周囲に真紅のマガツヒが渦巻き、輝きを発すると同時に他の魔人たちが次々と顕現していく。
──マタドール。
──大僧正。
──デイビット。
時に矛を交え、時に轡を並べた悪魔たちが赤い輝きより次々と顕現し、揃ってフェイトの前へと立つ。
「改めて名乗らせていただくこう、魔人マタドールだ。今後ともよろしく…」
マタドールは優雅に一礼した後、フェイトへ向かって左手を差し出した。
「ありがとうマタドール。貴方が次元震を食い止めてくれたから、私たちはこうして笑い合う事が出来るんだね」
「なに、あれは皆で掴んだ勝利だ。栄光は私一人のものではないさ」
「…そんな事ないよ」
フェイトはゆっくりかぶりを振って、マタドールの言葉を否定した。
「貴方が傷だらけになっても立ち向かって、頑張ってくれたからみんなも、私も頑張れたんだよ? …だから、ありがとう」
言いながら」、フェイトも己の手を差し出して握手を交わす。
「ふふ。女性にここまで言われて、尚も否定するは無礼無粋というもの。貴女の賛辞、謹んで受け止めさせていただくよ、フェイト嬢」
「うん」
握った魔人の骨手は、固い感触がしたがとても温かく思えた。
「さて、今度は拙僧じゃな。同じく魔人大僧正。今後ともよろしく…」
マタドールと手が離れると、結跏趺坐のまま中空に浮かぶ僧形の魔人が宙を滑り、フェイトの前へと進み出る。
「うん、ありがとう大僧正。姉さんと母さんを助けてくれて」
「なんの。拙僧はきっかけを与えたに過ぎぬ。全ては汝らが見つけ、選び、掴み取った結果よ。それに、繰り返す事になるがむしろここからが、
汝の苦難の始まりとなるやもしれぬぞ?」
忌憚のない大僧正の言葉。しかしフェイトの心は揺らぐ事は無い。何故ならば──
「大丈夫だよ。大僧正やなのはたちが教えてくれて、気付かせてくれたから。私はもう、どんな事があっても「フェイト・テスタロッサ」であ
る事から逃げたりしない。私の事を大切だって、大好きだって言ってくれる人たちの為にも、私は真っ直ぐ歩いて行くよ」
大僧正の言葉が、己の身を慮るが故のものであると、彼女は理解しているからだ。
「うむ、その意気やよし。汝の進む道に幸多からん事、拙僧はこの地にて祈るとしよう」
視線に力を込め、そう宣言するフェイトを目にすると大僧正は満足げに頷き、呵々と笑いながら身を引いた。
それと同時に、今度はヘルズエンジェルが入れ替わるようにフェイトの前へと立つ。
「さあてと、俺のターンだな。魔人ヘルズエンジェルだ、今後ともよろしくだぜ、Little Lady」
「うん、ありがとうヘルズエンジェル。クロノたちから聞いたよ? 詳しくは話せないらしいけど、私と母さんが一緒に居られるように色々働
きかけてくれてたって…」
「なに、俺ァ大した事はしてねーよ。俺は殆ど指示飛ばしてただけだからな、実際に動いてたのはエイミィ嬢ちゃんだ。礼ならあの娘に言っときな」
「わかった。エイミィにもちゃんとお礼を言うよ」
「そうしとけ。ああそれと、時の庭園までのお前さんとのtouring. 楽しかったぜ? また海鳴に来たら走りに行こうや!」
「うん!」
サムズアップを向けてくるヘルズエンジェルへ、フェイトは元気に答える。
「さて、最後は私ですね…」
最後に、楽師の魔人が進み出る。が、それに対しフェイトは眉を寄せて少し困ったような表情を作る。
「えっと…誰?」
「っと!?」
その声に、魔人はガクッとつんのめって転びそうになった。
「あ~、そう言えばフェイトとデイビットが顔を合わせたのって、時の庭園の中でのほんのちょっとの時間だったっけか…」
「ましてやあの時は、拙僧らが召喚していた悪魔たちが群れを成しておったからのう。気付かぬのも無理はない」
ヘルズエンジェルがフェイトの反応に対して、ポンと手を打ち得心がいったように声を上げると、大僧正も先日の闘いを思い出しながら相槌を入れた。
「ご、ごめんなさい…」
じゃあ覚えてる訳もねえわな、と言うヘルズエンジェルの呟きを聞き、フェイトは申し訳なさそうに頭を下げた。
「…いえ、仕方ありませんな。あの状況では…
それでは改めて名乗らせていただきましょう。私は魔人デイビット、つまらぬヴァイオリン弾きでございます。今後ともよろしく…」
転倒しかけた事で、頭からズレたベレー帽を元の位置に戻した後、デイビットが大道芸人のように仰々しく一礼する。
「うん。よろしくね、デイビット」
「さて、私の事を知らないとあれば、逆に私という悪魔を知っていただくにはよい機会。丁度よく、お近付きの印代わりにフロイラインへ一つ、
贈り物を用意しておりまする故──なのは」
デイビットがなのはの名を呼びながら視線を向けると、彼女はビクリと肩を震わせた。
「うう…本当にやるの?」
「当然です。その為に今日まで練習をしてきたのでしょうが」
なのはが上目遣いの困り顔でデイビットを見るが、彼はそれを一切気にする事なくたんたんと話を進めていく。
「えと、二人はこれから何をするの?」
「フェイトの為に練習していた歌を披露するのさ。ShowTimeだ!」
話の展開についていけずにフェイトが疑問の声を上げると、ヘルズエンジェルが笑い混じりに答える。
「歌?」
「おう。これからフェイトは色々大変な事があるからな。景気付け何かやれねえかなって考えて、俺プロデュース、曲デイビット、歌なのはの
この企画を用意したって訳さ」
これこそが、ヘルズエンジェルがアースラにて、なのはへ「貸し一」の取引条件として持ち出したものであった。
アースラを降りた後の昨日まで、なのはと頻繁に会って練習を行っていたのである。
「ヘルズエンジェルさん…や、やっぱり恥ずかしいよぉ」
得意顔で自分の考えを開陳するヘルズエンジェルへなのはがそう訴えかけるが、魔人の暴走は止まらない。
「大丈夫だなのは。お前が本気になれば武道館ライブや全国ツアーだって狙える!」
「ええっ!? 無理無理、絶対無理!」
ギャーギャーと言い合う二者であったが──
「私、なのはの歌を聞いてみたいな…」
それを眺めつつ漏らしたフェイトの一言が、言い争いの趨勢を一気に魔人たちへと傾けた。
「えええええっ!? で、でも私自信無いし…」
フェイトの言葉になのはは俯き、もじもじとしながら口籠る。
「駄目…かな…?」
「う、ぇ…そうじゃなくてね、あのね…」
「往生際が悪いですよなのは。いい加減に覚悟を決めなさい」
「そうそう、フェイトも「聞きたい」って言ってんだしな」
その顔に影を落としたフェイトを目にして泡を食うなのはへ、デイビットがぴしゃりと叱りつけ、ヘルズエンジェルがニヤニヤと笑いつつ、
それに続いた。
「ううぅ~~…わかったよ…」
ようやく諦めが付いたのか、なのはは大きく肩を落として了解の返事を絞り出した。
「なれば早速参りましょう。旅立つ友へ送るこの一曲、この魔人デイビット全身全霊を賭け最高の演奏をお耳に入れましょうぞ! いきますよ、なのは!」
宣言と同時にデイビットはストラディバリを構え、流水の如き澱みない所作で、弦にあてがった弓を弾きはじめる。
途端、飴色に輝く名器より発せられる響きが、周囲へ伝播していく。
何度も練習を重ねた為であろう、前奏が流れる中でまるで条件反射のようになのはの表情から曇りがなくなると、胸の前で手を合わせ目を瞑
り、朗々と歌い出した。
──それは別れを惜しむ歌だった。
──それは再会を願う歌だった。
なのはの紡ぐ詩が、魔人の奏でる旋律と交り合い、遥か空へと響き渡る。
歌が終わり、なのはが大きく息をついて肩から力を抜き、デイビットのヴァイオリンが後奏から終止符を打つと、フェイトが大きく柏手を打
ち、やや興奮した様子で破顔する。
「凄い。凄く綺麗で素敵な歌だったよ。二人とも、私の為にありがとう…!」
「にゃはは…フェイトちゃんが喜んでくれて、よかったよ」
「恐悦です。フロイライン」
瞳を輝かせて己を見るフェイトに対して、なのははホッとした様子で鼻の頭を掻きながら照れ笑いを浮かべ、デイビットは恭しく頭を垂れた。
「──時間だ、そろそろいいか…?」
と、その時、語り合う三人の元へクロノが近付き、刻限を告げる。僅かな対面の終わり知らせる言葉だ。
「うん…」
ゆっくりとなのはと魔人たちから離れたフェイトが、彼へ頷きを返した。
「──っ、フェイトちゃん!」
「あ…」
フェイトの目前で、なのはが自身の髪を止める白いリボンを解き出した。
「思い出に出来るもの、こんな物しかないんだけど…」
「じゃあ、私も…」
なのはの掌中のリボンを目にし、フェイトも自分の髪を止める黒いリボンを解き出した。
お互いが、リボンを握る相手の手の上へ、己の手を重ね合わせる。
「ありがとう、なのは…」
「うん、フェイトちゃん…」
「きっとまた…」
「うん! きっとまた!」
再会の約束を交わし、二人はリボンを交換する。
「魔人のみんなも、またね」
「sí」
「うむ」
「Yes」
「ja」
フェイトが魔人たちへ顔を向けそう言うと、彼らもそれぞれ肯定の言葉を返した。
と、そこへ、クロノに続いてこちらへと近付いて来たアルフが、胸の前でフェイトのくれたリボンを握るなのはの肩へユーノをそっと乗せた。
「ありがとう。アルフさんも元気でね」
振り返ったなのはは彼女へ礼を述べた。
「ああ、色々ありがとよ。なのは、ユーノ、それと魔人のみんなもね」
憂いが晴れ、彼女らしい大らかな笑顔を浮かべて感謝を述べるアルフ。
「それじゃあ僕も」
「クロノ君もまたね」
「ああ」
クロノも彼らしく、無駄のない言葉で別れを交わす。
「次会う時はもちょっと柔らかくなれよ、堅物執務官」
「なら君はもう少し真面目になるべきだな、不良悪魔」
ヘルズエンジェルとクロノが皮肉の応酬を交わす。
だが、互いが笑みを浮かべて行うそれは、悪友同士のじゃれ合いのようであった。
なのはたちの目の前で、三人の足元へ転移用の魔法陣が展開される。
見つめる視線の先でフェイトがなのはへ小さく手を振った。
「あっ…! あはっ…!」
それを見て、なのはも力いっぱい手を振り返した。
《──フェイト!》
大きく手を振るなのはの姿を目にしたその時、突如フェイトの脳裏へ念話が伝わった。
《えっ!? 誰?》
聞いた事のない声に戸惑うフェイトだったが、声の主は構わず言葉を続ける。
《令示──御剣令示だ。四人の魔人の正体、人としての名前だ。覚えておいてくれ》
《え──》
驚き、なのはの背後の魔人たちへ目をやると、彼らは念話の言葉を肯定するかの如く、皆揃って頷きを返した。
《クロノたちには内緒にしといてくれよ? あいつらはいい連中だけど、俺の事が管理局にバレると色々面倒なんでな》
《う、うん。わかった》
悪戯っぽい声の懇願ながらも、そこに込められた重大さを察し、フェイトは真剣な面持ちで返事をする。
《じゃ、次は俺が人間の時に逢おうな?》
《うん! またね、令示!》
別れの言葉を交わした直後、魔法陣から生まれた閃光の柱が空へと走り、周囲を飲み込んで白一色に染め上げた。
視界を覆った光は瞬時に消え失せ、戻った視界には誰もなく穏やかな海と潮騒の音が響くだけだった。
「なのは…」
潮風に解いた髪をなびかせ、無言のまま遥か水平線を見つめ続けるなのはへ、気遣うように声をかけるユーノ。
「うん、平気!」
だがなのははそれに元気な声で答える。
「きっとまた、すぐに逢えるもんね…」
空を見上げたなのはは、フェイトとの再会の約束を噛み締め、涙を浮かべたまま笑みを作った。
「さっ、いい加減帰らねえとな。学校もあるし」
他の三体の魔人を送還し、ヘルズエンジェルが大きく伸びをしながらそう言うと、橋の脇に止めておいたハーレーが彼の傍へと近付いて来た。
「うん、早く帰って朝ご飯食べなきゃね」
「乗れよ二人とも。家まで送って行くぜ」
バイクに跨りタンデムを親指で示すヘルズエンジェル。
「う──」
頷いて同乗しようとしたなのはだったが、バイクの手前でその足を止め、口籠った。
「? どうした?」
「なのは…?」
ヘルズエンジェルとユーノは、彼女の行動に首を傾げる。
「…都市伝説になるのは嫌なの…」
「──プッ、ハハハハハハハッ!」
警戒心を露わに上目遣いの視線を送るなのはを見て、ヘルズエンジェルは空を仰いで大笑いを上げた。
「笑い事じゃないよ! 口裂け女みたいに言われるのなんてやだもん!」
「悪い悪い、ちゃんと送って行くから大丈夫だよ」
抗議の声を上げるなのはに、両手を上げて「降参」のポーズを取ったヘルズエンジェルが彼女の名誉を保証する旨を口にする。
「…本当に?」
「ああ、ホントホント」
「うん…それじゃあお願い!」
「おう!」
──そして、公園に再び響き渡る鋼鉄の咆哮。
ヘルメットを被らされたなのはは、ヘルズエンジェルの背中にしがみ付きながら、離れていく後方の臨海公園へ目を向ける。
(バイバイ、またね。クロノ君、アルフさん、フェイトちゃん…)
小さくなっていく海を見つめながら、なのはは心中でもう一度フェイトたちとの再会の誓いを交わすのだった。
──嵐のような騒がしい日々が去り、再び変わらぬ日常の中──
──なのはは心を通じ合えた友との再会の約束を胸に、ただ真っ直ぐ前を向いて進んで歩いて行く──
──臨海公園でフェイトと交換したリボンで髪を結うと、親友たちが待つ学校へ向かう為、今日も元気に部屋を飛び出した──
──ドアが閉まる寸前、なのはは自分の机を見て、ふっ、柔らかな笑みを浮かべる──
──その机の上には、フェイトと撮ったともに笑い合う写真が収まる写真立て。そして──
──僅かに開いた引き出しにもう一つ、二人が四人の魔人とともに笑い合う写真が、顔を覗かせていた──
第十一話 Voyage 了
偽典 魔人転生 第一部 完
後書き
ほぼ半年ぶりの御無沙汰となります。長らくお待たせして本当に申し訳ありません、作者の吉野です。
ようやく「偽典 魔人転生」無印完結と相成りました。長かった…
半端な状態のプロットでスタートした自分がいけないのもありますが、プライベートの多忙も重なり、執筆ペースもモチベーションも
下がること下がること。パソコンの前に座っても、一向に文章が浮かんでこないなんて事はざらでした。
また、今回はアリシアの件をどう治めるか? プレシアの病気をどうするか? そして最大の懸案、26年前のヒュードラ暴走の真相について。
これらが頭を悩ませた最大の原因でしたね。
まず今回、よくあるアリシア復活は無しとさせていただきました。期待していた方はスイマセン…
自分は基本的に『命は一つだけ。たとえ復活出来たとしても、相応の対価が伴う』と考えています。
え? じゃあ令示はどうなのかって? 当然彼にも相応のリスクを背負って貰います。まだ内緒ですがね。
次にプレシアの病気。コレを治すのでも、いくらジュエルシードがあるからって『そのときふしぎな事が起こった!』ではあまりに無理矢理
過ぎると考え、Es細胞とか医療関連の資料とか調べて、どうにか納得いく形に収められた思うのですが、どうだったでしょうか? つーか、
それで手間取ったのも遅筆原因の一つだったりするんですがね…
あと今回は複線回収回ってのもありましたが、やり残したことがあまりにも多くて参りましたね。
前回マタドールと大僧正が、原作知識で知っている筈のシリンダーのアリシアを見て驚いていたのは、その脇に佇んでいたアリシアの幽霊を
見つけたからだったという訳ですね。ちゃんと伝わってるか? 大丈夫か? 俺。
ヒュードラの一件は、他の作家さんがよく管理局とアレクトロ社がグルだったという描写をしているのを拝見するのですが、具体的にはどう
だったという事までは書いていないんですよね。(自分が知らないだけで、詳しい考察をされている方もいるかもしれませんが…)
それで、どうして暴走事故が起きたのか、TVアニメ版、劇場版、劇場漫画版、小説版をネチネチと調べて考察し、今回の結論に至ったという訳であります。
数百の次元世界を束ねる時空管理局。一つ一つの世界が地球規模と考えると途方もない数字になる訳で、当然それに関連付随人員と金も途方
もない物になる。
水は滞れば濁りを産む。数十年の長きに渡って平和という名の安定を保ってきた管理局の汚職は、日本の官僚もびっくりものかと考察出来ます。
とまあ、そんな考えでアレクトロ社と管理局の黒い関係を妄想してみましたが、いかがだったでしょうか?
…これを書く為に陸自の予算の内訳とか、欧米の汚職事情とか調べたりするんで手間取ったのも遅筆原因…いや、もうほんとスイマセン。
当初のプロットでは、ミッドに乗り込んだ魔人がフェイト側の弁護士に化け、裁判所で『逆転裁判』やる予定でした。…長くなるし面倒なのでボツになりましたが。
ラストでなのはの歌った歌、これは皆さんのご想像にお任せするという方向で。
自分は田村ゆかりさんの歌は「リリカル」のやつ以外はあまり知らないので、彼女の持ち歌ではこれがいいってのはパッと思い浮かばないんで。
個人的には、今回のタイトルと絡めて、「サクラ大戦3」のエンディングばかり浮かんでしまいますがね。歌を教えたのは令示の前世知識からだから、こういうのもありかな?
あ、あと、映画版ラストの写真って一体いつの間に撮って《──宇宙の 法則が 乱れる!──》
追伸
何勘違いしてやがる…まだ俺の投稿フェイズは終了してないぜ!
という訳で遅れたお詫び代わりに連続で間幕を投下します。
タイトルは「紅き奈落の底で」。いよいよ皆さんお待ちかねのあの御方の登場です! お楽しみ下さい!