声が聞こえた。
結界という言葉、その本来の意味のように、外界から切り離された空間にいるというのに、その声ははっきりと聞こえた。
呼ばれている。求められている。
進もうとしている。貫こうとしている。
されど、ままならなくて嘆いている。
声が聞こえた。
心が届いた。
それに対して自分はなんと答えればいい?
……簡単だ。今、自分は何を呆けていたのだろう。答えは分かりきっている。
鼓動はまだ命を刻んでいる。生きている。
息はしている。なら、言葉を紡ぐことが出来る。
足はまだ地面を踏みしめている。立っていられる。なら、踏みだせる。
そして、手の中では相棒が指示を待っている。
レイジングハート・プレゼピオ。
それは、なのはが立ち続ける、歩み続ける意味。誓い。
なら、答えないでどうする? 向けられた想いに。託された心に。
手をさし伸ばさないでどうする? 必死にもがいている命に。貫こうとしている意志に。
「……レイジングハート」
『All right』
なのはの小さいけれど、強い意思がこめられた呟きにレイジングハートが答える。
俯いていた顔が上げられる。そして、強い光が再燃し始めた瞳で天を見上げる。
視界に映ったのは、どこまでも透き通る高い空ではなく、なのはの歩みを阻む、蒼き結界。
……邪魔。
なら、吹き飛ばせばいい。なのはの魔法は想いを貫くため、どこまでもまっすぐに進むためにあるものなのだから。
「ギンガ!」
なのはが呆けていた間、一人でがんばり続けてくれていた、ギンガに声をかける。
ギンガが一瞬振り向いたところで、視線を何か思いつめたようにお守りでもある母の形見の首飾りを握り締めるルーテシアに向ける。
ギンガは頷きを返してきた。意思は通じた。
ならば後は――
『何で、何で! 答えてくれないの! こんなにこんなに求めているのに!』
『ママーー!! ママーー!!』
この呼び声に、応えるだけだ。
「……全力――」
す、と息を吸い込み、力を溜めるように呼吸を整える。
さっきまで体を満たしていた無力感。それを根こそぎ打ち消すように――
「――全開ッ!」
それは、叫びと同時であった。
なのはが高く掲げたレイジングハートを中心にして、魔力が、想いが爆発する。
炸裂した魔力は結界を爆ぜ砕き、なのはに襲いかかろうとしていた戦闘機人は魔力の奔流、その余波で吹き飛ばされた。
それだけではなく、強すぎる想いを乗せた光は、世界を灼いた。この光を直視して視力を保っていられるのは難しい。
それは、戦闘機人であっても例外ではない。
「く……」
戦闘機人とはいえ人である以上、不意に視界がホワイトアウトしてしまえば動きは止まる。
メインに据えるセンサーを、視力から、聴力、嗅覚に入れ替える一瞬の隙。それを同じ戦闘機人たるギンガが見流すはずがない。
ルーテシアをかばうために身を伏せ、光の奔流から逃れていた彼女は身を起こし、一息に、擬態を解いていたドゥーエのもとに踏み込んだ。右腕でひったくるようにしてヴィヴィオを取り返すと、勢いを殺さぬまま、まるで仕返しとでも云うように後ろ回し蹴りを叩き込んだ。電光の如き蹴りが、ドゥーエの脇腹を抉る。デバイス越しに伝わる感触から、肋骨を粉みじんにしたとギンガは確信できた。
完璧な状態で放たれた技に、無防備に晒された体。たとえ防護スーツが優れたものであろうと、急所への一撃を無視することなどできはしない。
血しぶきが、潤滑油が、火花が舞う。吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられるドゥーエ。えぐられたわき腹からは、破損した中枢回路が火花を散らしている。まったく、機械に疎いものが見ても、それは致命的であると分かる。もはや、ドゥーエは立つことが出来ないであろう、と。
「ママ! ママ!」
ドゥーエと同じように視力を奪われたはずの、ヴィヴィオがなのはを求める。その視線はまっすぐになのはに向けられていることを考えると、なんらかの防御魔法を発動させたのかも知れない。
「ヴィヴィオ!」
その声に反応して、戦闘機人に注意を飛ばしながらも、なのははギンガに駆け寄る。なのはを迎えたギンガは、頷きと共にヴィヴィオを渡すと戦闘機人の拘束を開始した。
なのはの元に戻れたヴィヴィオは、すぐに抱きつこうとしたが――なのはの怪我に気付き、瞳に涙を溜め始めた。
「いたいのいたいのとんでいけ!!」
しかしヴィヴィオはそれを溢さず、しゃくり上げながらも、なのはに"おまじない"を使い始めた。
「ごめんね……ごめんね」
なのはは取り敢えず傷が塞がったことを確認すると、ぎゅっとヴィヴィオを抱きしめる。たくさんの言葉がのど元まで上がってくるのに、謝罪の言葉しか出てこない。それが、申し訳なかった。
もうヴィヴィオを離したくない――そう強く思うものの、状況はそれを許してくれない。
なのはは名残惜しみながらもヴィヴィオを解放すると、倒れ伏したまま動かないティアナの元に向かう。
――よかった。まだ息がある。
残っている戦闘機人二機に警戒しながら、ティアナの様子を伺う。傷は確かに深いが、早く治療をおこなえば救うことは可能だろう。
「ティアナ……ヴィヴィオ。ママのほうはもういいから、このお姉ちゃんに、おまじないかけてもらっていいかな?」
なのはのミスによって、兄を奪い、そして、またティアナ自身の命さえも奪うようなことがあったら、と思うとなのはもさすがに平静ではいられない。償うことは、その相手がいなければ出来ないのだから。
「いたいのいたいのとんでいけ!!」
ヴィヴィオが放つ優しい光にティアナが包まれるのを見て、なのはは、顔を上げる。
――だから、守りきろう。
恨み言を言われるもの、怒りをぶつけられることも。それはまっすぐな想いなのだから。すべて受け止めよう、と。
それがなのはの生き方であり、そしてそうするためには、この場で終わるわけには行かない。倒れるわけにはいかない。
――あと、二機、いや、三機かな?
なのはは、この戦場で確認されている、戦闘機人のデータを思い浮かべる。
後方支援型の射撃砲撃タイプが二機、そして移動型の物質透過能力持ちが一機。
射撃砲撃タイプは、それだけではなのはの敵にならない。物質透過能力持ちは厄介だが、ギンガもいるこの場ではそこまで脅威にならない。
「……油断は禁物だけどね」
増援がこないとも限らない。自らを戒めるように、なのはは呟きをもらし、ヴィヴィオとティアナを守るように立ち、あたりを警戒する。
その姿が滑稽だったのだろうか?
嘲りを多分に含む笑い声が響き渡った。
なのはが、その声のもとを探し、首をめぐらせると、
「うふふふふ、本当に滑稽ね」
瓦礫を背に、だらんと足を伸ばして、座り込んだまま、笑い続けるドゥーエの姿があった。
魔法少女リリカルなのは Verbleib der Gefühle
第二十五話 『Ragnarøk 』
「うふふふふふふふふ……」
不気味な笑い声が響きわたる。
なのはたちから警戒の視線を向けられても、ドゥーエは嗤うことをやめない。
いや、やめられなかった。可笑しかった、可笑しすぎたからだ。
何が、可笑しいのかと問われればドゥーエは、こう答えただろう。
すべてが、強いて言うならば自分自身が、と。
そして、もしドゥーエの創造者であるスカリエッティがこの場にいたのならば、ドゥーエの嗤いを肯定しただろう。
その嗤いを浮かばせている、心の動きこそが彼が望んでいたものであるのだから。
スカリエッティが戦闘機人を創造したのは、管理局の戦力不足を解消するためではない。そんなことは表向きの理由、スポンサーである最高評議会の望みでしかない。スカリエッティが成したかったことは、唯一つ。
新しい生命の創造にあった。
戦闘機人とは、機械と人の融合。人に機械の力を与えた存在ではなく、その逆。機械に人の心を与えた存在。
感情を持った機械。それこそがスカリエッティが望んだ新しい生命。戦闘機人のあるべき姿であった。
だが、この新しい生命の創造はスカリエッティの叡智をもってしても難しかった。
機械に傾けば、感情が育たない。感情を与えすぎれば、ただの人に成り下がる。あくまで機械として感情を理解して、俯瞰する存在でなければならないのだ。
それは、決して感情に溺れてはならないということ。
怒りを、悲しみを、喜びを知り、それを糧として、ただの機械にはありえない力を発揮することを可能としながら、決して感情がもたらす恍惚には溺れない。
そんな存在こそが、真の戦闘機人。
そして、今、嗤い続けるドゥーエはそんな存在に近づいていた。
「うふふふふふふふふ」
ドゥーエは、まだ完全に視力が戻っていない瞳で空を見上げながら、嗤い続ける。
ドゥーエはこの状況に陥って、何故、自分がこうも完全な失敗をしてしまったのか理解した。
彼女は、自分が戦闘機人の中で、最も感情というものの本質に近付いていると自負していた。ついている任務からして当然であるのだが、稼動暦が長いウーノよりもこの点に関しては優れていると考えていた。
人の群れにもぐりこみ、その感情を弄び、情報を、時には命を奪ってきた。最初こそは失敗もあったが感情というものを理解してからは、任務を楽しむ余裕すら出てきていた。
感情という形がないものに左右される人という生命体を哀れみさげすんでいた。
今回の任務もそうしようと考えて、実際におこなった。なのはの、ティアナの心を弄び、さげすみながら、任務をおこなっていた。
そして、失敗した。
その理由は、身動きが取れなくなった今だからこそ分かる。
溺れていたからだ。
そのことがドゥーエにははっきりと理解できた。だから、嗤う。人に成り下がった自分を嘲笑う。
弄ぶのはいい。楽しむのもいい。だが、溺れるのは駄目だ。
溺れた瞬間、戦闘機人は、人に成り下がる。人に成り下がっては人に勝つことが出来ない。
故にこの結果は当然といえたのだ。
当然であるから、ドゥーエには嗤うことしかできない。
嗤うことしかできないから、嗤う。
だが嗤っている意味はそれだけではなかった。
なぜなら、彼女は戦闘機人とはどうあるべき存在なのかあらためて理解したからだ。
ゆえに、この嗤いは唯のワライではない。
「うふふふふふふふふふふふ……」
ドゥーエは空を見上げながら嗤い続ける。下半身はまったく動かない。立つことができない身ではそれしか出来ない。
嗤うことでしか、なのは達の注目を集めることが出来ない。
「うふふふふふふ……」
ドゥーエは感情に溺れた自分を嘲笑うために嗤い、なのは達の注目を集めるために嗤い、そして心のそこから喜んで笑っていた。
楽しんでいた。己が目指すべき先がはっきりと分かったのだ。これは喜ぶべきことだ。だから、このまま終わるわけにはいかない。
感情は力になる。それを否定してはいけない。溺れてはならないが否定してはならない。喜びがあるからこそ、そして溺れてはいないからこそ、ドゥーエは嗤い続ける。
「うふふふふふふふ……」
嗤いながらドゥーエは視線をなのは達に戻す。
油断はまったくしていない。この状況では、残された戦闘機人全機が襲い掛かっても、不意をついても、鍵を、ヴィヴィオを奪うことは難しいだろう。
「うふふふ……」
ならば、その隙を作るしかないだろう。そして、作れば、何とかしてくれるだろうという不思議な確信があった。
「ふふふふふ」
再び空を見上げながら、ドゥーエは考える。
出せるのは正常稼動時の数十分の一のスピードくらいか。ならば、どんなに短くても数秒、なのは達の動きを止めなければならない。
数秒。普通に生活しているのならば、あっという間に過ぎ去る短い時間。けれど、戦場という緊迫した状況においては永遠に感じるほどの長い時間。
普通に考えれば、そんな時間動きを止めることなど不可能に近い。
だが、
「うふふふふ」
ドゥーエは笑う。簡単ではないが、戦闘機人たるものがなんなのか理解した彼女には不可能ではないと。
ようは、ここが戦場だということを忘れ去ってしまうほどの何かを見せ付ければいいのだ。
「うふふふふ……知っているかしら?」
空を見上げたまま、ドゥーエは呟く。その声は小さかったが、はっきりと通り、なのは達の鼓膜を打つ。
警戒を深めるなのは達に視線すら向けないまま、ドゥーエは続ける。
「私は、妹に最優の戦闘機人だと持ち上げられていたわ。うふふふ。こんな失敗をした今となっては、その褒め言葉は、お笑いぐさでしかないけれど……」
ドゥーエはゆっくりと右手を、長い爪がついた右手を持ち上げる。
「でもね。姉として、妹の幻想を壊すのが我慢できないことも確かなの……」
それは意地。溺れなければ絶対の力になる感情の一つ。
ドゥーエの動きに、言葉に、何かを察したのか、なのはが砲撃を放つために杖に魔力を集め始める。
なのはが放つ砲撃に、ための時間はほとんどない。射撃魔法もかくやという速さで放たれる。
だから、それは一瞬のことであった。
「うふふふふふふふふふふ!!」
笑い続けるドゥーエは笑みをそのままに、持ち上げた腕、その先にあるピアッシングネイルを側頭部へと突き刺した
肉が破れ、鋼が軋む不協和音が鈍く上がる。
その光景、ドゥーエの行動はなのはたちの意表を突くことになるだろう。
しかしこれだけでは完全ではない。奇しくも人の死というものに慣れ、エースとして修羅場を潜り抜けてきた古強者であるなのはの思考は止められない。
むしろこの状況で、より警戒心を煽ることになるだろう――
だから、奪われた。
唯の自決ならば、こめかみに爪をさした時点で終わっていただろう。爪は反対側のこめかみにまで貫通して突き出ている。それだけで充分に致命傷だ。
だが、ドゥーエの動きはそれだけでは終わらない。
「うふふふふふふふふふ!!」
不気味な笑みを浮かべたまま、ドゥーエは笑い続ける。
そして、ゆっくりと広げられる指。広がってゆく爪。
鮮血が爪を滴り、ボタボタと赤黒い血が飛び散ってゆく。次々と。
「いっ、ギ、あぐあぁぁあッ……!」
あらわになる桃色の筋組織は、その鮮やかさがいっそ気味が悪いほどに鮮やかだった。
原色の中に埋もれている白の骨に、血とオイルに濡れた機械部品。
「あ、アァァああっ……!」
みちみちみちみちと音を上げながら、べしゃり、と地面に何かが落ちる。
鮮血ではない。いや、鮮血ならば今もぴちゃぴちゃと音を上げながら落ちている。
「ギッ……!」
そうして作られた血の池に、べしゃりと落ちたもの――それはつい数秒前まで血が通っていた、ドゥーエの顔、その表皮だ。
それと共に爪によってえぐり出された眼球が、赤から黒へと色を変えつつある血の池から、なのはたちを見上げる――
凄まじいなどという言葉では足りない、いや、決して言葉では言い表せない衝撃に、ドゥーエは息を詰まらせる。
盛大に咳き込むと共に、獣のような咆吼が上がる――その叫びの合間にある、呼吸が漏れるような響きはなんだろうか。
決まっている。風船から空気が漏れるような、断末魔の如く醜いそれは――笑い声だ。
ありえない光景。戦場であってもありえない死にかた。
人というものは、ありえないものに直面したときに動きを止める。それは訓練された局員であるなのはたちも例外ではない。
それゆえに、稼げた。数秒というどうしようもなく短く、とてつもなく長い時間を。
「……」
地面にへばりついたまま、不気味な笑みを浮かべていた、顔の口がかすかに動く。
すでに、脳という命令組織から離れたそれが、自分で動くことはありえない。だから、それは筋肉の痙攣であったかもしれない。
だが、向けられたものには、その唇の動きをはっきりと見て取ることが出来た。
だから、返す。
返す言葉は決まっている。
「……任された」
はるか上空から一気に急降下してきた、トーレは確かにその遺言を聞いていた。
戦いは終わった。
静かになった戦場を見ながら、クロノは小さく息を吐く。
ゼストとの戦いの決着はつかなかった。
暴走したノーヴェの動きは荒く、ゼストから見れば隙だらけであっただろうが、出来れば回収しようとでも考えていたのか、ゼストは決してノーヴェを深く傷つけようとはしなかった。ノーヴェは暴走しているため、細かい負傷ではとまることがなかったため、戦闘はこう着状態に陥っていた。
いつまでも続くかのように思われた戦いは、遠くで起きた魔力爆発を機に終わりを告げる。
桜色の光の柱が天をついたのとほぼ同時に、ゼストは撤退する。
なのはたちのほうで何かがあったのは間違いないだろうが、今はそれを確かめる術も、撤退するゼストを追う余力もクロノたちには残っていなかった。
魔力は本当にひとかけらも残っていない。本当に全力を尽くした戦いだったのだ。
だがしかし、クロノの胸には全力を尽くしたにもかかわらず、喪失感が広がる。
この光景を目の前にしては、もし、少しでも魔力が残っていればと考えずにはいられない。
「お母さん!! お母さん!」
スバルが、弱弱しく呼吸を続ける母親にすがり付いている。鼓動も弱く今にもとまりそうだ。
クイントを貫いたゼストの槍は、動脈を激しく傷つけていた。いくら必死に止血を行おうと、流れ出る血を止めることはできない。いや、傷は深いが、ミッドチルダの発達した医療技術をもってすれば決して手遅れというわけではない。
そして、魔法が――魔力さえあれば――
だが、今クロノのもとには、その二つともがない。ゲンヤが今、急いで医療班を向けてくれているが、それまで保つことは難しいだろう。
世話になった女性が、兄と慕ってくれているスバルの母が、今にも死を迎えようとしているのに、クロノにはどうする手段も残されていない。意味を成さない止血を、傷口を必死に押さえるだけだ。
――なのはたちは、無事に離脱できただろうか?
クロノは半ば逃避気味に、この戦いの勝利条件を思い浮かべる。
しかし、出来れば、そうあって欲しい。そう考えるのは切実な願いであった。
命に対価を求めるのは間違っているが、失われたものに等しい、何かがなければと考えてしまうことをとめることはできなかった。
失われたのは、失われようとしているのはクイントだけではない。この戦いでどれだけの局員の命が失われたのだろうか?
そして、この戦いにそこまでの価値はあったのだろうか?
クロノの脳裏に疑問がよぎる。
「……だめだな」
考えても仕方がないこと、クロノはそう考えて、呟きと共に首を振ってその考えを頭の中から押し出す。
意味もない、唯の呟き。
けれども、そばで聞いているものにとっては、意味がないものではなかった。
「駄目……? そんなこと言わないで、お母さんを助けてよ! お兄ちゃん!」
悲痛な叫び。スバルは、クロノにしがみついてくる。
だが、クロノはそんなスバルに何も返してやることが出来ない。
もう、手遅れだと、手段がないと分かってしまっているから。下手に頭が回ってしまうために、冷静でいられるためにあがく気力すらわいてこない。
魔法も、医療という技術もない。
「お兄ちゃん! お母さんを助けてよ!」
呼び声に答えてやりたくても、クロノには答える手段がない。
だから、答えたのはクロノではなかった。
「う、うぅぅぅ、うわあああーー!!」
ゼストが去ったあと、動きを止めていたノーヴェが叫びをあげる。
そして、そのまま、クイントのそばから、クロノとスバルを弾き飛ばすと、クイントの上に覆いかぶさった。
それと共に、淡い光が放たれる。
それは、優しげで、どこか温かいものであった。
「回復魔法……? いや違う、何だこれは?」
クロノの知識をもってしても分からない、摩訶不思議な光。
分かるはずがない。ノーヴェはただ返していただけなのだから。
スバルの叫びに答える方法が、それしかない。だからノーヴェはその方法をとっただけ。それをすることの意味がどういうことなのか分かっていても、そうするしかない。
「お母さん……ノーヴェちゃん……?」
スバルは状況が理解できないのだろう。座り込んだまま、二人を呼び続ける。
光はほどなくして、収まった。
クロノはゆっくりと近づいて、二人の状況を確認する。
「……これは」
若干であるが、クイントの呼吸が、鼓動が強くなっている。これならもしかしたら、医療班が到着するまで保つかもしれない。
ノーヴェのほうも、鼓動は正常であり、呼吸も自然だ。
「助かる、助けられるぞ!」
「え!?」
クロノは思わず、叫び声をあげる。
スバルが歓喜の声を上げて走りよってくる。
だが、二人は気がつかなかった。
クイントに覆いかぶさっているノーヴェの瞳が開いたままなのを。その瞳には何の光も浮かんでいないのを。
そして、喜び合う二人を嘲笑うかのように、すべては無駄であったかということを示すかのように、空に一筋の光が走ったのを。