やらなければならない仕事を与えられて、少しだけ楽になった。
これは逃避に過ぎない。
それは分かっている。
だけど、今はそれに甘えようと思う。
どれだけ追いつめられていたか、どれほど余裕がなかったか、今はっきり思い知らされたから。
「お姉ちゃんがんばってね!」
元気な声につられて振り向いて見れば、スバルが姉に飛びついて応援の言葉を送っていた。
いきなり胸の中に飛び込んできた妹にギンガは、少し驚いたように瞬きを数回した後、
「うん、先にいってるから、スバルも二年後にね」
優しく微笑んで、その頭を撫でる。
「うん!」
再び元気な声で返事をするスバル。
その仲むつまじい姉妹の姿を見て思わず笑みがこぼれる。
「こらスバル、暴れないの。お料理がひっくり返るでしょう」
同じ気持ちを抱いたのか、無作法を叱る母の声も、どこか優しげだった。
「それよりほら、まだたくさん並べないといけないんだから、スバル手伝って、あ、ギンガはそこでじっとしていて」
「うん!」
席を立とうとする上の娘を手で制して、クイントさんはスバルを連れて厨房に向かう。
さらに追加で料理を運んでこようというのだろう。
リビングにいくつかの机をつなげられて作られた大きなテーブル。
その上には普段の夕食の倍する種類の料理が並んでいるが、テーブルの面積はまだ三分の一も埋まってはいない。
日はまだ暮れかけたばかり、夕食時までにはきっと全て埋まっているのだろう。
それは、いくら食欲旺盛な育ち盛りの姉妹を抱えているとは言え、ナカジマ家だけでは到底消費しきれないほどの量。
普通ではないほどたくさんの料理を用意しているのには理由がある。
明日からしばらく、この食卓に着く人数が減るのだ。
ギンガが明日から陸士訓練校の宿舎に入寮する。
訓練校に入るということは、試験に合格したということ。
ならばそれなりに準備していたであろうし、試験が近づけば、いろいろとどたばたもしていたはずだ。
僕は、この家族に随分と助けられていた。
仕事のこともそうだし、夕食などにも良く招かれ、公私にわたってお世話になっている。
ギンガやスバルにも精神的に支えてもらっており、せのせいか、二人のことを本当の妹のように思っていたくらいに。
それなのに、こうして壮行会が開かれるまでまったくそのことに気がつかなかった。
妹同然に思っていたギンガの進路のことにさえ目を配る余裕がなかったのである。
そのことで、僕がどれだけ追いつめられていたのか、はっきりと分かった。
今回、任された仕事は確かに執務官である僕が赴いたほうが早いが、最近は、教会とも交流を深めていると聞いているゲンヤさんの伝手でもどうにか成ったはずだ。
それにもかかわらず、リハビリ中の僕を引きずり出したということは、追いつめられてまったく周りが見えていない僕の目をほかに向けさせようとしたためだろう。
――ゲンヤさんには本当に助けられっぱなしだな。
僕が持っていない大人の思慮に今までどれだけ助けられただろう。
だから、今回もそれに従って、気持ちを切り替えることにする。
それに、妹を送り出すときくらいは笑顔でいたいから。
そう考えて、手伝いたそうにそわそわとしているギンガに声をかける。
「ギンガ……」
「はい!? なんでしょうか!? クロノさん!」
丁度我慢できずに席を立とうとしたところに声をかけてしまい、びっくりさせてしまったようで、ギンガからの返事はどこか上ずっていた。
浮かせかけた腰を勢いよく戻したせいでバランスを崩して、あたふたとしている姿を見て、自然と頬が緩む。
「……ほら」
「あ、ありがとうございます……」
倒れそうになっている椅子の背もたれを支えてあげる。
体勢が安定して、安心したのだろうギンガはほっと息をついて、頬を赤らめながら礼を言ってきた。
「はは、訓練校では気をつけてな、もう今のようになっても僕は支えてあげられないから」
「く、クロノさん!」
頬がますます赤くなる。
それが見られたくなかったのだろう、ギンガは怒ったようにそっぽを向いてしまった。
「ごめん、ごめん。冗談だよ。それよりギンガ……」
「……はい、なんでしょうか?」
笑いをおさめて、すこし姿勢を正して改めてギンガと向かい合う。
「まだ、ちゃんと言ってなかったね。入学おめでとう、ギンガ。がんばったね」
「はい、ありがとうございます」
ギンガは立ち上がって深々と頭を下げる。
礼儀正しい子ではあるが、これはいくらなんでも仰々しすぎる。
下げられ、そして上げられたその顔その瞳には決意の意志のようなものが見受けられる。
何をそこまで、と考えたところで、どうして訓練校にすすむのか、どうして進路に管理局を選んだのかを聞いていないことに気がついた。
突然黙り込んだこちらを首をかしげて見ているギンガにその疑問をぶつけてみようと思ったが、そこまで立ち入ったことを効いていいのか判断に迷う。
「クロノさん……?」
その様子を不思議に思ったのか、ギンガが促すように声をかけてきた。
声に背中を押され、疑問を口にしようとしたところで、沈黙を引き裂くように呼び鈴の音が甲高く鳴り響く。
「あ、リンディおばさんだ!」
呼び鈴にいち早く反応して玄関までかけていったスバルの声が来客を知らせてくれる。
「あ、リンディさん良くいらしてくださいました」
「このたびは本当におめでとうございます。これつまらないものですが……」
「もう、本当にありがとうございます。ルーちゃんもいらっしゃい。ほら、エリオ! この前話したルーちゃんよ。恥ずかしがってないでこっちにいらっしゃい」
娘の声に、小走りで玄関まで迎えに出たクイントさんがリビングの扉で身を隠すように玄関の様子をうかがっている息子を呼んでいる。
「あ、あの子がエリオ君ですか、どうもはじめまして、クロノの母のリンディです。気軽に『リンディさん』って呼んでくださいね。そしてこの子が、ほら、ルー」
母は、エリオの姿に気がつくと近くまでよっていき、身をかがめて視線を合わせて、微笑みを浮かべる。
そして、背中を押された娘は、
「るーてしあです……」
名前を名乗って、ちょこんと頭を下げた。
きっと、ここに来る前に教えられたのであろう。
両手を合わせて頭を下げるその仕草はすごくかわいらしいものであり、思わず周りの微笑みを誘うものであったが、どうやら、それを向けられた本人には通用しなかったようで、
「……!」
なにやら、恐いものにでも出会ったように、勢いよく走り出して、クイントさんの後ろに隠れてしまった。
「あらあら……驚かせちゃったかしら?」
「……?」
ルーテシアは不思議そうにエリオのほうを見つめている。
「もう、エリオ。ごめんなさいね、ルーちゃん。この子、人見知りが激しいの」
困ったような笑顔を浮かべるクイントさん。
「まあ、色々ありましたし、それもしょうがないことですわ。でも……」
母はルーテシアに視線を送る。
ルーテシアはそれに頷いてから、ゆっくりとクイントさんのほうに、いや、その影にいるエリオのほうに歩いていく。
「同い年ですから、これくらいの歳の子供なら仲良くなるのもあっという間ですわ」
「……そうですわね」
僕を挟んで睨み?あっている子供二人を見て、クイントさんもうなずきを返す。
「……それより、ギンガさん、おめでとう。よくがんばりましたね」
「はい、ありがとうございます」
僕にしたのと同じように深々と頭を下げるギンガに、
「こちらこそ、本当によろしくお願いします」
母も同じように頭を下げる。
まるで何かの儀式のように。
お互いに通じ合っているようだった。
そして、周りを見回すと、その意味が分かっていないのは幼児二人を除くと僕だけのようだ。
「まるで浦島太郎だな……」
ナカジマ家から借りて、ルーテシアに読んであげたことがある絵本の登場人物を思い浮かべる。
僕が悩みにはまっている間にも当然のことながら時は進んでいたようだ。
僕をおいて。
少し寂しく思っていると、
「帰ったぞ!」
玄関が勢いよく開いて、野太い声が響いた。
「お、まだ始まってねぇみたいだな、間に合ったか」
ネクタイを緩めながら、ゲンヤさんがリビングを覗いて安心したようにつぶやく。
「お帰りなさい! 平気だよ、お父さんを置いてはじめたりしないよ!」
「そーか、そーか、ありがとよ」
そんな父にスバルは元気欲飛びついて、帰宅を喜ぶ。
「お、リンディさん。いらっしゃい」
「はい、お招きに預かりました」
「今日はギンガのために思いっきり大騒ぎしようと思うんで、協力頼みますぜ」
おどけたように笑うゲンヤさん。
「ええ、力いっぱい協力させていただきますわ。普段クロノがお世話になっているお礼も込めて」
母も同じように笑いを返す。
「いやいや、世話になっているのはこっちですぜ。今回だって面倒な仕事を……」
そう言って、お互いいかに僕に対して、世話しているのか世話になっているのか、の言い合いをはじめる。
その内容に聞いているこっちがいたたまれなくなって、きた。
あまり長く続くようなら、エリオではないが、どこか別の部屋にほとぼりが住むまで引っ込んでいようと席を立とうとしたところで、助け舟が出た。
「お父さん、め! 今日はお仕事の話は禁止! 今日の主役はお姉ちゃん!」
両手を腰に当て、怒ったようにスバルがその言い合いの仲裁に入る。
「うふふ、そうでしたね」
「ちげえねぇ。すまねえな、ギンガ」
ゲンヤさんはそう言って、ギンガの隣に腰を下ろす。
「じゃあ、私は……クイントさん、何か手伝うことはないかしら?」
「え、そんな、お客様に……」
「うふふ、今はこれでも主婦ですのよ。じっとしていると落ち着かなくて」
「ああ、では、そのお皿お願いします」
母は、クイントさんの手伝いに向かったようだ。
ふと視線をずらすと、幼児二人が仲良く座っているのが目に入った。
やはり母達が言っていたように仲良くなるのが早い。
もう心配は要らないだろう。
視線をギンガたちのほうに戻し、会話に加わる。
そして、十分くらい経っただろうか。
「お待たせしました!」
最期のお皿が運び込まれてきた。
そして、そのまま母たちもテーブルに着く。
全員が席に着いたのを確認して、
「……じゃあ、始めるとしますか。ギンガ、おめでとう! 向こうに行ってもがんばるんだぞ! 乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
二家族合同にギンガの壮行会が始まった。
「んにゃ……お姉ちゃんおめでとう……もう食べられないよ」
「たくしょうがねぇな……よっこらせっと」
はしゃぎすぎたのだろう、疲れ果てて眠り込んでしまったスバルをゲンヤさんが抱える。
そして、そのまま寝室へと運んでいった。
「本当に今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
母達は頭を下げながら起用に後片付けをしている。
あれだけあった料理は信じられないことに綺麗になくなった。
ギンガとスバル、特にスバルがおおはしゃぎしながらがんばったおかげである。
僕も後片付けを手伝おうと、空になったお皿を集めていると、ギンガも同じようにさらに手を伸ばしてきた。
「あ……」
指先が触れ合う。
熱いものに触れたかのように手を引っ込めるギンガ。
「……ごめんなさい」
「ん? 何を謝るんだ? それよりギンガ」
「はい!?」
「こっちはいいよ、僕がやっておくから、明日早いんだろう? 今日はもう休んだほうがいいよ」
皿を集めるために視線はテーブルに向けたままギンガに寝るようにそくす。
「……はい」
ギンガから返事とともに、その気配が遠ざかっていく。
それに安心して、後片付けを進めていると、遠ざかろうとしていた気配が立ち止まり、そして、
「クロノさん! 私がんばります! きっと力をつけて戻ってきます! だからクロノさんもがんばってください! 負けないでください!」
大きな声が轟く。
驚いて顔を上げてみると、その声の主は急いで走り去っていこうとしているところであり、後姿しか見えず、その表情まで確認できなかった。
「……ギンガ」
どうしていいか分からず動きを止めていると、
「くっくっく、いいねぇ、本当に若いっていいねぇ」
かみ殺すのに失敗したような笑いを浮かべながらゲンヤさんが戻ってきた。
「ゲンヤさん……?」
うまく理解が出来ずに、ぼうっとその顔を眺める。
「ったくよぉ……坊主、まだ時間は平気だよな? いやあ、なんだったらうちに泊まれ、だから、おまえはもうちょっと付き合え。ちょっと坊主を借りますぜ、リンディさん」
ゲンヤさんはこちらに視線を送ってあきれたような表情を浮かべると、母に声をかけてから僕の首に腕を回してきた。
いつの間にかその手には酒瓶が握られている。
「ええ、いいですよ!」
「ちょっと、僕はお酒は……」
「飲めねぇのは知ってるよ。杯を前においているだけでいい。一人酒は寂しいんだよ。娘に巣立たれる父親の寂寥を慰めてくれたって罰はあたらねぇだろう、な?」
どこかさびしげにそういわれては断ることも出来ずに、そのまま庭にあるテーブルまで連行される。
もうすぐ夏が近いとはいえ、日が沈み、代わりに満天の星が煌いているこの時間帯は少し肌寒かった。
「ほれ」
ゲンヤさんは椅子の上に僕を投げ出すと、反対の椅子に座って、勢いよく二つの杯に酒を注ぐ。
「ほらよ」
そのままその片方を僕に差し出してきた。
「持っているだけでいい」
「……はい」
杯を受け取る。
何故かそれはすごく熱く感じられた。
「……覚えているか?」
「……何をです?」
ゲンヤさんは目を瞑り、一口、酒を口に含んでから、小さく問いかけてきた。
「坊主、おめえさんが、初めてうちで飯食ったときも、こうして庭で酒酌み交わしたよな」
「……はい」
返事を返すと、ゲンヤは自重するかのような笑みを浮かべる。
「……まさか、あの時はここまで深入りするとは思ってなかったぜ」
「……本当にありがとうございます」
あのとき出会ってから、今までのことを思い深々と頭を下げる。
この家族には本当に世話になりっぱなしだ。
ナカジマ家が僕を支えてくれていなかったらとっくの昔に僕は挫折していただろう。
「……別に礼はいらねぇよ。こっちは好きでやってんだ。だがなぁ……」
らしくなく、口を濁す。
「……ゲンヤさん?」
「ほれ、飲め」
そのあまりにらしくない言動に様子をうかがうように名を呼ぶと、ゲンヤさんは、まったく減っていない杯にさらに酒を注いできた。
「ゲ、ゲンヤさん!」
「いいじゃねぇか。つぶれたって、ここはもうおめぇさんの家のようなもんだ。安心してつぶれな」
これ以上そそがれたらたまらないと、急いで杯をこちらのほうに引き寄せる。
ゲンヤさんは、遠ざかった杯におもちゃを取り上げられた子供のようなまなざしを送ってから、
「……しかし、まあ」
大きくため息をつく。
「その物好きではじめたことが、まさか娘の進路を決めちまうとはなぁ……」
「……どういうことです?」
「やっぱり気がついてないか。おめえさんはもう少し自分に向けられる感情、いや期待って言ったほうがいいな、それに敏感になったほうがいいぜ」
杯が一息で開けられる。
「……その右腕、元通りにはうごかねぇんだろ?」
空になった杯でこちらの右腕を指す。
「はい……近接戦闘能力は、以前の8割がいいところでしょう」
「その代わりになりたいんだとよ。姉妹そろってよ……たく、出来ればこんな因果な商売じゃなくてもっと、こう平穏な仕事について欲しかったんだがよ」
「右腕の代わりですか……?」
「ああ、俺に憧れてって言う話ならまだ覆しようもあるんだがなぁ」
長袖に包まれた右腕を見下ろす。
言うことを聞いてくれない右腕。
そのため以前と同じような戦術を取ることは出来ない。
どちらかといえばセンターよりの戦術を取る必要が出てくるだろう。
だから、強力な前衛の存在はありがたいことだといえる。
しかし、それは別にギンガでなくてもいいはずだ。
「……止めてきます。僕にはもったいなさ過ぎる」
今ならまだギンガは寝てはいないだろう。
その前に話をしようと思い腰を浮かせたところで、
「駄目だって、行くんならまずその杯を開けてからにしな」
ゲンヤさんの制止の声に手に持ったままの杯に視線を落とす。
飲み干すことは出来るかも知れない。
しかし、酒に酔った状態でするような話でもない。
判断に迷っていると、
「どうせいっても無駄だよ。覆らねぇって」
「ゲンヤさん……」
その声はどこか寂しげであり、誇らしげでもあった。
「もう道を決めちまったんだ。自分の意志で。あきらめずに夢を目指している馬鹿の手助けをするってよ。だったらそれを尊重してやるのが親って言うもんじゃねぇか」
持っていた杯が奪われる。
「だから、おめえさんももう少し自分に自信を持ちな。周りの、俺を含めた人間に相させるだけのものをおめえさんはもってるんだよ。それも立派な『力』だぜ」
「力……ですか?」
「ああ、そうだぜ。ま、それが自覚できるようならこんなに思い悩んでねぇか……気にするなそのうちおいおい分かるってもんだっと」
奪われた杯は一息で開けられ、空になったそれは再び手の中に戻される。
「ほらよ、坊主やっぱり今日は泊まっていきな。ギンガも朝おくりだしてもらいてえだろうからよ。リンディさんには俺から言っておく」
空になった杯はひどく重く感じられた。