「ふぅ……」
ユキヒトは、小さく息をついた。
今日は、注文されていた剣の納品日だ。元々仕事量が決して多い訳ではない彼は、納品の三日前には大抵注文の品は仕上げていたし、客もそれを知っているため、納品日前に受け取りに来る者もたまにいる。とはいえ、やはりそれも稀な事である。増して今は、今日納品の剣以外に、仕事がなかった。
彼は、暇を持て余していた。
ちらり、と、窓際に目をやると、ノルンは、椅子に腰かけて目を閉じ、じっと座っている。
盲目である彼女は、普段から目を瞑っている。そうして静かに座っていると、起きているのか寝ているのか、そろそろ付き合いも長い彼でも判別できない事がある。
元いた世界ならば、パソコンなり、読書なり、いくらでも暇をつぶす方法はあった。この山奥に工房を開く前、まだ鍛冶師になっていない頃ならば、魔術学院と呼ばれる、その名の通り魔術知識を専門的に教える教育機関に通っていたため、勉強することで時間も潰せた。
しかし、この世界ではまだ印刷技術が発達しておらず、本は全て手書きの写本であり、紙もまた高価な代物であるため、そう簡単に手に入れられるものではなかった。こんな山奥では、暇潰しの方法すらないのである。
暇を持て余すのは、ユキヒト以上に、店番を任せているノルンで、暇があれば彼女は、話をせがんでくる。
自分では何も見る事が出来ず、体を十分に動かす事もままならない彼女だ。人との会話は、彼女の、唯一と言っても良い娯楽である。
「……ノルン?」
小さな声で、ユキヒトは名前を呼ぶ。
極力小さな声にしたのは、ノルンが非常に敏感な聴力を持っているためだ。
生まれつき目が見えなかった反動か、ノルンは、聴覚や嗅覚が非常に優れている。大きな声、どころか、普通の声で名前を呼べば、深い眠りの中からであっても、ノルンは目覚め、返事をしてしまう。それも、自分が寝ていたことを悟られないように気を遣う事も多い。
ユキヒトは、長い生活の中で、ノルンを起こさず、起きていた場合のみに返事をするぎりぎりのラインを見極めていた。余りにも限定的すぎるスキルの為、今のところ、それを習得した事を知っているのは、ユキヒト自身のみである。
返事はなかった。どうやら、春のうららかな光の中、少女は居眠りをしているらしい。それを知って、ユキヒトは少しだけ頬を緩めた。
刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』。本日も平和に、時間は過ぎていた。
こんこん、と、ノックの音がして、ノルンが、はいどうぞ、と、声をかけた。
結局あれからしばらく、ユキヒトは居眠りをするノルンを眺めて時間を潰していた。少女の居眠り姿を盗み見る、と言えば不埒な行為に違いはないが、春の穏やかな日の中眠る彼女は、一幅の絵画のようで、それを鑑賞する心は決して下卑たものではない、と、ユキヒトは内心に断言していた。
さておき、ノックの主は、扉を開いた。
扉を開けたのは、まだ、少年の域を抜け切れていない、あどけなさを残すヒューマンだ。
「こんにちは、依頼していたものを取りに来ました」
声変りは流石に終わっているだろうに、ボーイソプラノのような高い声だ。体もやや華奢で、余り肉体労働に相応しいようには見えない。しかし彼はれっきとした冒険者であり、それも、かなりの実力を持つ、中堅どころと言っても良いポジションにある、と聞く。年齢からくる経験不足の感はあるものの、遠からず一流と呼ばれる実力を備えるだろう、と、その筋では有名らしい。
彼の名は、ファル。ヒューマンの冒険者だ。
「ようこそ、ファルさん。ご注文の品は、完成していますよ」
「ありがとう。楽しみだなあ」
にっこりと、ファルは笑う。そう言う表情をすると、どうにも頼りなげな子供のようで、とても将来有望な冒険者には思えない。とはいえ、その情報が伝わってきたのは、ユキヒトとしては最大限の信頼を置いている経路を通っての事だ。実際に戦っているところを見た訳ではないが、彼が才能ある若者である、と言う事を、ユキヒトは疑っていなかった。
「じゃあ、取ってくるか。ノルンはどうする?」
「ついて行きます」
「そうか」
ユキヒトは、決してノルンが刃物に触る事を許さない。目の見えない彼女には、それは危険にすぎる。
とはいえ、ノルンが家の中を歩き回るのを、ユキヒトは止めようとはしなかった。
目が見えない、と言うのは、大きなハンディキャップではあるものの、かと言って、何もできない訳ではない。何もさせず、何もできないもののように扱うのは、彼女にとって失礼だ、と、ユキヒトは思っている。
ファルの注文は、軽めでよく切れる片手剣。体格を考慮すれば、実に無難な選択と言えた。
それと同時に、ファルは材料を持ち込んでいた。
基本となる金属類は、ユキヒトの工房で用意している。鉄や銅、銀といった、通常の金属だ。
しかし、例えば、ミスリルやモンスター素材など、特殊な素材は、持ち込まれれば加工するが、自前で用意してはいない。
実のところを言えば、ユキヒトは、そう言った素材の扱いが、それほど得意ではない。
鉄などの、ユキヒトが元いた世界にもあった素材は、ユキヒトにとって扱いやすいのだが、この世界に来て初めて見る素材は、どうにも性質が把握しきれていない。
とはいえ、この世界で生きていくのだから、毛嫌いするわけにはいかない。むしろ積極的に扱うべきものだ。
ユキヒトはそう考えているし、事実、金銭的に余裕がある時は、街に出てそう言った素材を買い求め、研究してもいる。
ファルが持ちこんだのは、『鎧亀の甲羅』と呼ばれるモンスター素材だった。
鎧亀とは、アーマードタートルと呼ばれるモンスターの略称である。その名の通り、非常に硬い甲羅を持ち、通常、剣などの刃物で倒すのは困難と言われるモンスターだ。その甲羅を細かく砕き、熱した金属に、仕上げの前に振りかけると、金属が強度を増す事で知られている。
ファルがその素材を持ってきたところに、ユキヒトは感心した。
軽さと鋭さを求めれば、どうしても、剣はやや細身にならざるを得ない。そうした剣は、えてして、折れやすい。
ユキヒトとしては、出来る限り良質の鋼を使い、さらに日本刀の製法を参考に、硬度の違う複数の鉄を組み合わせることで、曲がりにくく折れにくい剣を作っているのだが、それにしても限界がある。
自分の求める剣の特性をよく理解し、その弱点を正確に補強する素材を持ち込んだところなど、流石は有望な冒険者と呼ばれているだけはある、と思えた。
工房の棚に、注文の剣は出来上がっている。それを手にとり、ユキヒトは元の部屋へと戻る。その間、ノルンは、とことことユキヒトの後ろをついて歩いていた。
元の部屋に戻ると、ファルが、じっと、人の顔を見てくる。突然の事に面食らい、ユキヒトは、思わず言った。
「どうした、人の顔をじろじろ見たりして。そんなに物珍しいものでもないだろ」
「謙遜しないでください……ノルンちゃんみたいな可愛い子を山奥に監禁している世紀のロリコンの顔は、物珍しいものだと思います」
ファルは、それまでと全く変わらない表情で、全く変わらない口調で、そんな事を言った。
何故なのかは分からないが、ファルは、ノルンがいない場面だと、よくこういった事を言ってくる。と、言って、本気でそんな邪推をしている訳ではない事は分かっているため、ユキヒトは、大して相手をしない。
今も、やれやれ、と言うように肩をすくめると、ひょい、と、後ろを振り返った。
「……だ、そうだが。ノルン、どう思う」
「監禁されてませんし、ユキヒトさんにそう言う事言う人は嫌いです」
「何というミステイク!? 背中に隠すなんて卑怯ですよこのロリコン!」
小柄なノルンは、ユキヒトの背中に完全に隠れてしまっていたらしい。保護者であるユキヒトに全幅の信頼を置いているノルンは、彼の悪口を言うものにだけは容赦しない。容赦しない、と言っても、可愛らしく拗ねる程度なのだが。
「ごめんよノルンちゃん、これは軽いジョークと言うか季節の挨拶みたいなもんなんだよ。ああそうだ、飴をあげよう」
突然早口になったファルが、慌ててフォローらしきものを入れ、それと同時に、本当に紙に包まれた飴を取り出す。用意周到なのか、本来は自分用のものだったのか。ユキヒトは笑ってしまうのを抑えられなかった。
「季節の挨拶で人を特殊な性癖の人扱いするのは失礼ですし、飴なんかで釣られる年じゃありません」
「嫌われた!? でも少女の口から特殊な性癖とか言われるとちょっと興奮するかもっ!?」
「ノルン、奥に戻りなさい。こういう可哀そうな変態の目で見られると、魂が汚れるぞ」
「はい。私、失礼します」
いつも穏やかな彼女にしては珍しく、つん、とした声で言うと、本当に奥へと引っ込んでいく。
「くそぅ……なんて卑劣なロリコンなんだ……僕みたいな清純な魂の持主の事を、いたいけな少女に誤解させるなんて、貴方は悪魔ですか!?」
「勝手に自爆しといて良く言うよ」
ユキヒトは、全力で苦笑した。
普通なら、彼こそノルンを狙う特殊性癖の持主……と言っても、年の差は4つ程度である以上、それほど異常と言う訳でもないのかも知れないが……ではないかと疑うところかも知れないが、それは違う、と、ユキヒトは知っている。
なぜならば、ファルには恋人がいる。同い年の、それも、少なくとも幼い雰囲気などは持たない少女だ。
「……で、聞きますが。帰ってくるつもりは、やっぱりないんですか、という伝言です」
急に、表情をすっと真面目なものに変えて、ファルは切りだす。
と言って、先程までのやり取りが、何もノルンを遠ざけるためだけの演技である訳でもない。どちらかと言えば、あちらの方が本性に近い、と、ユキヒトは思っている。演技派と言うよりは、切り替えの早い奴なのだ、と。
「返事はいつも通りだよ。そのつもりは全くない」
「そうですか」
素っ気なく答えるユキヒトに、淡々と受け入れるファル。そこには、何度も繰り返したやり取りの空気があった。
「分かりました。ケイガルドさんには、ユキヒトさんは少女との山奥での秘密の生活が捨てられないらしい、とお伝えします」
「お前の場合は、本気でそう伝えるからタチが悪いんだよな……。自分でもそんな事思ってないくせに」
「何を言ってるんですか、いつでも僕は真剣です。真剣と書いてマジと読む男ファルとお呼びください」
「で、真剣と書いてマジと読む男ファル、いい加減にしないと殴るぞ」
「思ったよりも恥ずかしいっ!?」
ばたばたと騒がしい。本気で一発殴ろうか、と思いながら、ユキヒトはため息をついた。
「……お前、あんまりそう言う事ばかり言ってると、今度お前の彼女が来た時、言いつけるぞ……?」
ファルの恋人も、冒険者であり、ユキヒトの顧客の一人である。
「この悪魔! 僕に死ねと言うんですか!」
一瞬の躊躇いもなく、ファルはユキヒトを罵倒した。
「……お前、ある意味すごいな」
それまでの自分自身の誹謗中傷を棚に上げて、即座に、相手が全面的に悪い、と言わんばかりの面罵を出来るのは、切り替えの早さすらも越えたなにものかではないか、と、ユキヒトには思えた。
「貴方は彼女の本当の怖さを知らないからそう言う外道な事が言えるんです……」
「いや、十分知ってるつもりなんだけどな……」
「不十分です。ええ、もう、間違いなく」
「……あれでか」
ユキヒトは小さく呟いた。ファルは、寒い訳でもないというのにぶるぶると震えている。
「まあ、でも、嵌まると抜け出せません。蟻地獄並です」
「お前、たくましいよな……」
突然、けろっとした顔になるファルに、ユキヒトは笑った。
「さて……では、代金です」
「おう」
「あと、これはサービスです。ご所望だった、ミスリル」
ごとん、と、ファルは無造作にカウンターの上に、その塊を置いた。
ミスリル。代表的な魔法金属である。
銀とよく似た光沢を持っているが、魔術的価値は高いものの柔らかく武器に向かない銀とは違い、魔術的価値は銀をもしのぐうえに、鋼よりも硬いという性質を持つ。
いくつかの鉱山で採取が可能であり、手に入らない、と言うほどに希少なものではないものの、かなり高価な素材であることに違いはない。少なくとも、この様に、おまけ、としてどさりと置くものではない。
「おい、待て。流石にこれは高価すぎる」
「……まあ、これが全部ミスリルだったら、そうなんですけれど」
今度は、ファルが苦笑した。
「ん?」
「……合金です。ミスリルと鉄の。悪質な商人が混ぜて売ってたんです。混ぜられたんじゃ、ミスリルとしても、鉄としても使えません」
「ああ……なるほどな」
ミスリルの特性として、他の金属と混ぜたり、不純物の割合が高まると、その魔術的性質を失ってしまう事があげられる。そうなると、少し硬い鉄でしかない。
「……でも、ユキヒトさんなら、何か有効に使えるんじゃないですか?」
「どうだろうな、やってみないとどうにも」
ファルが一瞬目を鋭くするのに、ユキヒトは穏やかに笑顔で返す。
「……それじゃ、今日は帰ります。剣、ありがとうございます」
「今度は彼女と一緒に来いよ」
「ええと。考えておきます」
ぽりぽりと頬を掻きながら、ファルははにかむように笑い、席を立った。
彼は、この世界にあっては、非常に特別な人間であった。かといって、それは、彼が、この世界で並ぶもののないほどの無二の才を持っている、と言う事ではない。
それは、彼の知識の為のものだった。
この世界では、魔術と言う便利な技術がごく普遍的に使用されているせいもあってか、学術的な知識の発展が非常に遅れていた。世界はファリオダズマを中心に、天が回っているものだと信じられていたし、物が上から下に落ちるのは、それが当然だと考えられていた。地動説や万有引力と言った、地球では当然の知識が、全く存在しないのだ。この世界にあっては、例えば中学校の理科の教科書でも、禁断の知識の書となるだろう。
ユキヒトとて、曲がりなりにも最高学府まで進んだ人間だ。この世界では、恐らく、自分こそが最も学術的知識を備えた人間であろうという事は、想像がついた。図らずも、ユキヒトは世界一の賢者になってしまっていたのだ。
とはいえ、彼は、それを人に教えるつもりはなかった。
それは、自分だけが知識を独占してしまいたいだとか、特別な人間でいたいだとか、そう言った理由からではなかった。
世界は、その世界に住まう人々が進めていかなければならない、と思うのだ。この世界にとっては来訪者でしかない自分が、徒に過剰な知識を広めてしまえば、それは、この世界の未来に、夥しい影響を与える恐れがある。蝶の羽ばたきは、やがて嵐を呼ぶかもしれないのだ。ユキヒトには、そんな事に対する責任など、取れはしなかった。
魔術学院で学んだ際に、魔術、特に魔法陣と科学的知識の重要な関連性にユキヒトは気付き、極めて優れた成績を残していた。
つまるところ、魔術もまた、一つの技術なのだ。世界の理を理解し、その理の元に術式を組み立ててこそ、効率的で有効な術となる。
ファリオダズマの魔術は、経験に頼りきったものであり、創造的発展はもはや望みがたい所に来てしまっている。しかし、もしも、彼らが、ユキヒトの持つ科学知識を習得し、それを魔術へと結びつければ、圧倒的な発展が訪れるのは、ユキヒトから見れば明らかだった。
ユキヒトは、文系の学生であった。必ずしも、元の世界の最先端知識を山ほど抱えていた訳ではなかったが、このファリオダズマの人々とて、知性、という点で、元の世界とそれほど大差がある訳ではない。きっかけさえ与えてしまえば、後は勝手に、研究が進んでいってしまうであろうという事は、想像に難くなかった。
だからこそ、ユキヒトは、自分の知識を隠した。自分が、技術革命の発祥になるなど、冗談ではなかった。
ユキヒトは学院の卒業後の進路を、恩のある鍛冶氏の元での修行に決め、その通りに実行したが、学院からすれば、それは極めて優秀な能力の流出であり、未だに、誘いの声がかかるのだ。
また、魔術と科学の関係性に気づいたユキヒトには、一つ、特殊な能力が身についてしまっていた。そして彼は、その能力にこそ、非常に感謝していた。
「……まあ、とはいえ、並べて世に事は無し」
ポツリ、と呟くように言って、ユキヒトは、春の暖かな日差しの差す部屋で椅子に座り、カウンターにだらりと突っ伏して、昼寝を始めた。
『艱難辛苦を望んで往く若人へ この剣が君の望む道を切り開かんことを 行人』