「……少し、休んだ方がいいんじゃないですか……?」
遠慮がちにかけられた声に、ユキヒトは手を止めて窓の外を見た。
「……ああ、いつの間にこんな時間になってたんだ」
昼食の後から仕事を始めたにもかかわらず、外の光はすでに赤い夕陽となっている。気づいてみると自分の全身にも随分と疲労がたまっている。これ以上仕事をしていたのでは思わぬミスが出ると、今日の仕事を終える事をユキヒトは決めた。
「最近、お仕事しすぎだよ……。病気になっちゃうよ」
「うーん、最近は集中して仕事ができるから、つい……。大丈夫だよ」
「……」
「分かった分かった。じゃあ、明日はヴァレリアも非番だから、一日休みにしてヴァレリアをお昼に呼ぼうな」
心配そうな表情をするノルンに、ユキヒトは笑って言うと、ぽんぽんと頭を撫でた。
山の中の工房では、年齢に不相応なほどの聞き分けの良さを持っていたノルンだったが、心に痞えていたものを吐き出したためなのか、ユキヒトに対して素直に心情を吐露する頻度が高くなった。
結果として随分と大人びていた彼女は幾分、幼さを感じさせる行動をとるようになった。言葉も年齢の割には、そして家族に対するものとしては異常なほどに丁寧だったのが、少し砕けた子供らしさを見せるようになっている。
ユキヒトがかつての『湖亭』跡地に工房を建て、そこに移ってから一年が経った。山の中の工房には看板を立て、ベルミステンの『湖亭』跡地に新たに工房を立てる事を記しておいた。懇意にしている顧客には手紙を送ったものの、現在地がつかめない顧客も何人かいる。
工房の経営は順調だった。ユキヒト自身の力量に加えて、オルトの時代からの顧客、さらにはベルミステンで最も有名な騎士のひとりであるヴァレリアの愛剣を打った事が評判となり、以前とは比べ物にならないほどに注文が来るようになった。
全てが上手く行っているわけではない。ノルンの体調は相変わらずであるし、やはり父を思い出すのか夜中に時折泣いているのをユキヒトは知っている。自分自身も完全に吹っ切れたわけではなく、ともすれば過剰なほどに仕事に打ち込んでしまうのが、一種の逃避であることも分かっている。
「さて、晩飯作るか。ノルン、何が食べたい?」
「……グラタンが良いです」
やけどしないように気をつけようなと、ユキヒトは笑った。
刀身は竜の鱗製。それは極めて金属に近い性質を持つが、加工には鉄とは比べ物にならないほどの高温と、繰り返しの鍛練が必要となる。その代わりに、仕上がりさえすれば、魔力への反応、強度ともミスリルすらもしのぐファリオダズマ最高の素材だ。
そもそも竜の鱗は金で買う事が難しい素材である。一部特権階級のみが持つどころか、一部特権階級ですら手に入れるには相応の幸運と時間を必要とする。
緩やかに反った刀身は、金属と有機物の中間の、妖しいような輝きを放つ。個体により鱗の色は違うが、今回は白銀。竜種の鱗の中でも特に美しいとされる色合いだ。
柄頭は竜の頭、柄は竜の体、鍔は広げた翼、鞘は尾と、剣全体が竜を模した意匠に彩られている。持ち主自身はあまり派手な装飾を剣に施すことを好まないが、その意匠の見事なところは見た目だけでなく、剣自体の使い勝手を全く落としていないところにあった。
当初剣の持ち主は装飾を拒否しようとしたが、ユキヒトが、使い勝手を落とさない事を条件に腕利きの装飾師を探し出し、試作品を作らせてまで持ち主にそれを了承させた。
結局出来上がったその剣を、持ち主自身もいたく気に入っている。とはいえ彼女が評価するのは、美術品としても一級と言われるその意匠ではなく、純粋なその剣の使い心地であった。
長い時間をかけ、使い手自身の要望を丁寧に盛り込み、刀身の長さや太さに反り、全体の重量のバランスはもちろんのこと、柄の太さでさえも本人の手の大きさに合わせて慎重に慎重に作られた。それは、技術だけで作り上げられる領域を超えた、作り手と使い手の絆の強さを表す出来であった。
刀身の素材である鱗の提供者であるところの、竜種に珍しい刀剣愛好家シェリエラザードなど、それを見たとたんに譲ってくれと見栄も外聞もなくその持ち主に懇願し、丁重に断られて拗ねたという事実がある。更には自分の鱗をもう一枚提供して自分用の刀剣を依頼しようとしたところで、同行していた姉に叱られて涙目になるという、竜種にあるまじき失態まで演じていた。
「……余程の事がない限り抜かないようにしていますが、持っていないと少し不安になるほど、私に馴染んでいるのです」
その剣を持参した使い手……敬意と、幾分の国への揶揄を込めて、『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』と呼ばれる彼女、ヴァレリア・ロイマーは剣について一通り語り終え、にこりと笑った。
実際には、ロマリオ皇国には『竜騎士』の称号を持つ者が彼女のほかにも多数存在する。しかしそのいずれも、ロマリオ皇帝が授けたものであり、純粋な竜種から認められたのは、ヴァレリア唯ひとりである。
ロマリオ皇国ほど大きな国にしては、それはかなり特殊な事態で、そこにはやはり皇帝が竜の末裔を『自称』していることが影響しているとの見方が一般的である。その風聞の真偽のほどはともかくとして、ユラフルスの三大国の中でロマリオ皇国が最も竜種との交流が疎らであるのは、皮肉ながらも厳然たる事実である。
「だからって、私服で行動する非番の日まで持ち歩くのはやめにしろってば」
ユキヒトとしては、自分が贈った剣をそれほどに大事にしてくれるのはありがたい半面気恥ずかしくもあり、ついついぶっきらぼうに言ってしまう。しかしながら、ヴァレリアはと言えばそんなユキヒトに、分かっているとでも言いたげな余裕のある笑顔を向けるばかりだ。
「大切なものですから。肌身離さず持っていたいのです」
下手をすれば寝るときに抱きしめて寝ていそうだと思ったユキヒトだが、怖くて確かめられない。万に一つ肯定されると彼女に対する見方が少し変わってしまいそうだった。
全く、と声というには小さすぎる何かを口の中で転がして、ユキヒトはヴァレリアを見た。
相変わらず、私服と言っても華やかさには欠ける。清潔感があり爽やかな印象ではあるものの、彼女を知らないものにその私服を見せて職業が衛兵だと言われれば十人が十人、ああなるほどと頷きそうだ。
「……この頃、仕事の方はどうなんだ?」
自分の話題の無さに呆れそうになりながらも、他に彼女と話ができそうなことを思いつけず、ユキヒトはそれに水を向けた。
「順調です。相変わらずどうも妙な遠慮はされますが……結局のところ、私の側の問題だったのでしょうね」
ユキヒトがベルミステンに帰ってくるまで、彼女は急な出世と周りの態度の変化についていけず、まともに仕事がこなせない状態になっていた。
ユキヒトがベルミステンに帰って来て以降、正確にはユキヒト、ノルンと彼らが街を離れることになった原因となった事件について語り合ってから、彼女の心境にも変化があった様子で、仕事に対しても意欲的に取り組み始めた。
まずはできることからと、配下の小隊の訓練の見直し、特に剣を中心とする武術の奨励を行なった。モンスター相手に大被害を受けた騎士団では再建がまず重要であったが、新たな衛兵を大量に募った結果、質の低下が大きな問題となっていた。
ヴァレリア自身も、時間の許す限り積極的に訓練に参加した。
半ば英雄として祭り上げられている彼女だが、昇進後の二年間でほとんど何の実績も残せなかったことでやや評価を落としていた。しかしながら一般の隊員にも細かく目を配り、剣の指導を丁寧にこなしていったことで、再び騎士団内、特に下層からの評価を取り戻した。
驕らず、分からない事は分からないと謙虚に認めて教えを請う姿勢、そして教わった事を吸収して中隊長としての任務も着実にこなしていく彼女に、当初はあまりいい顔をして見せなかったベテランの補佐官たちの態度も好意的に変わっていっているという。
彼女には元々、それをするだけの能力があった。ただ、それを発揮できなかった。その原因が己にあるのだとあっさりと認められるのが、彼女の長所なのだろうとユキヒトは思う。
「失った信頼を取り戻すには、失うのにかかったよりもずっと長い時間がかかります。私は私のできる事を着実にこなして、それを取り戻したい」
いずれ彼女ならば、ただ一度の英雄的行為と竜種との親交によりその地位を得たなどとは言われないようになるだろう。
「応援しているよ」
「ありがとうございます」
そんな彼女の事が眩しくて、ユキヒトは笑った。
「ユキヒトも順調なようですね。工房の評判は折々に聞きますよ」
「……そりゃあ、『竜騎士』相手に愛剣を打った工房の悪口を言う様な奴はいないだろ、良い方のしか入ってこないよ」
半ば照れ隠し、半ばは本気でそう言う。
中途半端な仕事はしていないと自負している。それでも、かなりの数をこなしているのだ。今までよりも顧客の要望や癖を細かく把握しきれてはいないし、全てが全て、使い手にぴたりとあう作りになりきっているかは分からない。
そこのところに自信を持てるかどうかは、やはり経験が必要なのだろう。
「ユキヒトさんは最近少しお仕事をしすぎなんです。ヴァレリア姉さまからも注意してあげてください」
もう自分の手には負えないと、少し拗ねる様な声でノルンが言う。
「……ユキヒト。今月が期限の仕事は、どれだけありますか? もう引き渡しが終わったものも含めて、です」
「ん、と……」
その視線と、自分の仕事ならば完璧に把握しているノルンの手前、嘘もつけずに正直に言うと、ヴァレリアはその秀麗な眉をピクリと動かした。
「多すぎますね」
それを聞いて、ヴァレリアはずばりと切り捨てる。
「……」
「熱心であることと休養を取らない事を混同してはなりませんよ。貴方が倒れれば結局のところ貴方の仕事は遅れるのです」
「返す言葉もない」
自覚はあっただけに、ユキヒトは少し肩身の狭い思いをした。
「全く……ノルンの為にも、少しは時間を作ってあげてください」
「ヴァレリア姉さまの為にも、ね」
「こ、これ、ノルン」
悪戯な表情で言葉を付け加えるノルンに、ヴァレリアは頬を赤くしてたしなめる。
「……そういえば、そっちは非番の日は普段どうしてるんだ?」
「私ですか? ええと……道場に稽古に行ったり、隊員たちに稽古をつけたり、街を見まわったり……あ、ええと、図書館に行くこともありますね!」
明らかに途中で何かに気づき、図書館をつけたした。じとっとした目でヴァレリアを見ると、ユキヒトは追撃を決行した。
「……図書館で見る本は?」
「……戦術の教本や過去のモンスター襲撃の資料などです」
「……」
正直に白状したヴァレリアに、ノルンが頭を抱えた。ヴァレリアも実際のところ殆どユキヒトと変わりがない。
「ユキヒトさん、ヴァレリア姉さま」
「はい」
かたい声で名前を呼ぶ少女に、大人二人は姿勢を正して返事をした。
「午後から二人でお出かけしてください」
「え? いや、その……」
「文句でもあるんですか」
目が見えていたならばじろっと睨んだであろう。ノルンは声を固くしてぎゅっと肩に力を入れる。
「……まあ、まずは昼飯にしよう。せっかくヴァレリアもノルンも好きなメニューを揃えたんだからな」
まずは答えを保留。せせこましいやり口で、ひとまずユキヒトはその場を乗り切った。
ノルンも決して不機嫌だったわけではなく、昼食の間は終始穏やかであった。
しかしながら、昼食も終わり、後片付けも済ませた頃になると、ノルンがにっこりと笑って再び言った。
「それじゃ、二人でお出かけしてきてください」
「そうは言うけれどな。俺もヴァレリアも、特にどうしようと計画を立ててたわけじゃないし……」
「何年も住んでる街を二人で歩くのに、どうして前もって計画がいるんですか」
「……ノルンを置いていくわけにはいかないでしょう」
「最近は少し調子が良いです。大体、ユキヒトさんがお仕事を始めたら、半日くらい放っておかれるのはいつもの事です」
ノルンは笑顔で大人二人がおずおずと切りだす言い訳を次々と切り捨てていく。
「そもそも、二人で出掛けるのが嫌なんですか?」
「いや、そんな事はない」
殆ど反射的にきっぱりと言い切ってから、あ、と隣を見ると、ヴァレリアが熟れたトマトのように赤くなっている。
「……で、何の問題があるんですか?」
何の問題もありませんと、養っているはずの少女に頭を下げる家主がそこにいた。
結局のところノルンに押し切られる形になり、午後からは出かけることになった。とはいえ、ノルンを一人で家に残すことに不安があり、ヴァレリアの実家にノルンを預けるという決着になった。
ヴァレリアの実家では、ノルンを預けることに難色を示されるどころか、理由を伝えると大喜びされてしまった。いっそ今日は帰って来なくてもいいとまで口走った母親の前で、ヴァレリアは頬を引き攣らせて夕飯前には帰ると宣言した。
ちなみにその時、剣は彼女の両親に取り上げられた。持っていくと主張した彼女に対して馬鹿な事を言うなと一蹴して、さっさと片付けてしまう手管は、流石にヴァレリアの親を二十年以上も続けているだけの事はあった。
「……相変わらずだな、ご両親」
「……迷惑をかけます」
完全武装で五時間の行軍をこなし、その後剣の稽古をしても平然とした表情を崩さないヴァレリアが、ぐったりと疲れ切った表情で頭を下げる。
「とはいえ、この頃確かに仕事ばっかりだったしな。良い機会だと思うよ」
「私も、暫く仕事の事を全く考えない時間と言うものを持っていなかったように思います」
少し肩の力を抜いて、ヴァレリアがほほ笑む。生真面目な彼女の事、仕事中にはなかなか見せない表情だろうと思うと、ユキヒトは独占欲が少し満たされるのを感じる。
「とはいえ、どうしましょうか」
街歩きなどなかなかしないのであろう、ヴァレリアが少し困ったような表情をする。本当にふらふらと街をさまよっただけで帰れば、二人揃ってノルンとヴァレリアの両親にまた理不尽な説教を受ける。ユキヒトが想像できたその未来と同じものが見えたようで、ヴァレリアは頭を抱えた。
「……そうだな、じゃあちょっと、買い物に付き合ってくれるか?」
ユキヒトは、少しの悪戯を思いついて、そう切り出した。本当の目的を素直に言えば、合意を取り付けるのに時間がかかるという判断だった。
「分かりました」
ユキヒトの本当の狙いに気づくはずもないヴァレリアは、方針を示されてパッと笑う。
「それじゃあ、行こうか」
計画を立てていないなどとノルンに言い訳をしたものの、何年も住んだ街だ。ノルンがばっさりと切り捨てた通り、目的さえ決まっていればあえて計画など立てずとも十分に行くべき場所は頭に浮かぶ。
商業地区へは馬車を使わなければ時間がかかる。共同馬車の駅に向かう道中、ユキヒトは遅ればせながら、明るい気持ちになってきた。
しかしまあ、十以上も年下の女の子に場をセッティングしてもらうってのは相当に情けないなと内心に愚痴り、ユキヒトは少し苦笑した。
奥手なうえに有名人な想い人を持つと苦労すると考えそうになって、相手のせいにするのは卑怯だと思い直す。
今も時折、明らかに好奇心交じりの視線を感じる。彼女に気づいてちらちらとこちらをうかがってくるその態度に、ユキヒトは居心地の悪さを感じる。
釣り合いという言葉は、他人が気にしているのを見れば馬鹿馬鹿しくも思えるが、自分が当事者になってみればなかなかどうして気になるものだ。何とは無しに噂を聞けば、彼女の元には縁談もいくつも持ち込まれている事が知れる。中には、かなり御大層なところからの声もかかっているという。
そんな彼女が私服姿で街を歩き、その隣には男とくれば、好奇心もやむをえまい。問題なのは、堂々と胸を張れない自分だとユキヒトは思う。
自分は果して彼女にふさわしい人間だろうかと、そんな事を考えていると知られれば、隣に立つ彼女はきっと怒るだろうと思う。
「ん、あれは……」
共同馬車の駅に、知り合いの姿を見つけてユキヒトは声を漏らす。
「おおい、ファル」
「ユキヒトさん。珍しいところでお会いしますね」
「いや、共同馬車の駅なんて偶然知り合いに会う可能性はかなり高い場所だと思うけどな……」
「工房以外でユキヒトさんにあった事がないので、工房から一歩出たら死ぬ病気にかかっているのかと思ってました」
「そんな病気が存在するはずがあるか」
相変わらず、真面目な顔で素っ頓狂な事を言うやつだとユキヒトは笑った。
「ユキヒト、そちらの方は」
「顔を合わせるのは初めてだったな。ファル、紹介しておくよ。名前くらいは知ってるかも知れないけれど、ヴァレリア。ベルミステン騎士団の騎士だ。ヴァレリア、こいつはファル。冒険者で、変な奴だ」
「へぇ! 貴女が、あの! お噂はかねがねお聞きしています! はじめまして!」
「は。いえ、その……はじめまして」
ファルのテンションの高さと言うよりは、ユキヒトに変な奴呼ばわりされて全くそれにコメントしない点に戸惑いを覚えたらしく、ユキヒトの方をちらちらと伺いながらヴァレリアはファルに挨拶をした。
「ユキヒトさん。貴方と言えど、私の下僕を変態扱いするからには相応の覚悟があるのかしら」
「……お前、恋人を下僕呼ばわりするのを躊躇しなくなってないか」
「流石に変態扱いはされてない!」
「ファルはファルで下僕呼ばわりされる方は良いのかよ」
後ろから聞こえてきた言葉に振り返ってみれば、ファルの恋人、冒険者のブレンヒルトがそこにいた。どうやら何かの用事で外していただけで、今日は連れ立って出かけていたらしい。怒っているのかどうなのか、半目でユキヒトをにらんでくる。やや鋭い眼、怜悧な顔立ちだけに、そう言った表情がことさら似合う。
突っ込みどころの多い連中めと呟いて苦笑すると、ヴァレリアが何故か一つ頷いた。
「聞き覚えのある声が聞こえましたね」
「……えっ」
「しかし私の知り合いのはずはありませんね。その知り合いには、さんざん口が悪いのを直すように言い渡してあるはずですから」
「あら師範代。ご機嫌麗しゅうございます。このようなところでお会いするなんて、奇遇ですね」
くるりと振り返って微笑んで見せるヴァレリアに、ブレンヒルトがしれっと挨拶をする。
「……知り合いだったのか?」
どうやら知らない仲ではないらしいやり取りに、分かりきった事ではあるもののヴァレリアに確認をする。彼女はそれに、こくりと頷いて返事をした。
「ええ、まあ。私の通っている道場の、門下生の一人です」
「なんと、まあ」
世間は思いのほか狭いらしい。
「さて、ブレンヒルト。私が禁止した、他人を貶す様な乱暴な言葉が貴女の声で聞こえてきたように思いますが、どういう事でしょうか」
「まあ。私によく似た声の方が近くにいらしたのかしら。奇遇な事もあるものですね」
「……次の私の非番は六日後です。道場に来なさい」
「……その日は……」
「用事などありませんね?」
「……はい」
がっくりとうなだれるブレンヒルトと言うものを初めて見て、ユキヒトは思わず、おお、と呟いた。
「……え、ブレンヒルトがうなだれてる」
「いや、お前ですら初めて見たのかよ」
ファルの呟き声に、反射的にユキヒトは突っ込んでいた。
「うなだれるという仕草をする事が出来ない体の構造になってるんだと思ってました」
本気で驚いた声と表情で言っているファルに、ユキヒトは驚きを超えて笑いがこみあげてきた。
「……ファルに私の弱点を知られたわ……。かくなるうえは、記憶の抹消を狙うしか」
ブレンヒルトがぎゅっと拳を握りしめる。
「ブレンヒルト?」
にっこりと、魅力的と言っていい笑顔でヴァレリアがブレンヒルトに微笑みかける。それに対してブレンヒルトは、握っていた拳をぱっとほどくと、あさっての方向に目をやった。
「あら、ほんの冗談です。まさか私が不意打ちで後頭部を強打することで記憶の抹消を狙うなんて、ありえません」
どうやら弱点と言ったのは本当らしい。相当に動揺しているようで、それはもはや弁明ではなく自白だった。
「……師匠と呼ばせてください! 胸の大きさ的に僕の好みからは外れですが!」
とりあえず、ユキヒトはあらぬことを叫んだファルの後頭部を、黙って強打した。
結局ファル、ブレンヒルトの二人と合流し、四人で商業地区へと向かった。
「そっちは何の用事だったんだ?」
「ブレンヒルトの用事に付き合った記憶は探さなくても嫌になるほど出てきますけど、僕の用事にブレンヒルトが付き合ってくれた記憶は一生懸命探さないと出てきません」
「事実だとしたら随分悲しいな」
「ブレンヒルト?」
「……事実です」
沈痛な面持ちでブレンヒルトはそれを肯定する。逆らっても無駄と体に叩きこまれているのだろう。
「全く……貴女の甘えん坊は治っていないという事ですか」
『……は?』
ファルとユキヒトが全く同じタイミング、全く同じ表情で聞き返す。つまり、虚をつかれて完全にポカンとした顔だ。
「……う……」
「甘え方が下手なくせに根っこのところで甘えたがりなのですから。甘えたい相手にはもっと言葉を選びなさいと言ったでしょう」
「……くっ……」
きっと、ファルを睨むブレンヒルト。いや僕が何をした、と小さく呟くファルにユキヒトは同情した。
「……ファルに私の内面の真実を知られたわ。もうファルを殺して私も死ぬしか」
「お前と僕の関係をもう一度見つめ直す時が来たようだな!」
「ファルに弱みを握られるくらいなら心中した方がましよ!」
「一周通りこして好かれてるんだか憎まれてるんだか分からねえよ!」
二人ともどうやら今いるのが公共馬車の中である事を忘れているらしい。
「落ち着け。ブレンヒルト、ここは公共馬車の中だけど、そのキャラがどこかに知れ渡る可能性は考慮しなくていいのか?」
気心の知れた相手以外には優等生の仮面をつけるブレンヒルトである。その指摘に、はっとした表情になる。
「くっ。私のここまでの苦労が……やっぱり、ファルを殺して私も死ぬしか」
「お前実は僕を殺したいだけだろう!?」
「女の独占欲を笑って許すのも男の度量のうちじゃない」
「度量で殺されたら元も子もない!」
「……ブレンヒルト、お前本当にヴァレリアの事怖いのか……?」
いつも通りどころか、いつにも増してファルへの迫害がひどい。
「思い出させないで! 必死に現実逃避しているんだから!」
「……ブレンヒルト。どうやら私が思っていたよりも貴女の病理の根は深いようですね。徹底的に矯正してあげます」
どうやら相当腹に据えかねたらしく、ユキヒトでもそうそう聞いた覚えのない低い声でヴァレリアが言う。それに対してブレンヒルトは、絶望的な表情を浮かべた後、にこりと笑ってファルに向き合った。
「ファル。私がこの性格で貴方に会えるのは、今日が最後みたいだから言っておくわ。少し意地悪もしてしまったけれど……私、貴方の事、大好きだったのよ?」
「なんでちょっといい話風にまとめようとしてるんだよ! お前つい今しがたまで僕の抹殺狙ってただろ! ギャップに萌えるじゃないか!」
実は矯正しなくても、少なくともこの二人の関係という意味では全く問題ないんじゃないかとユキヒトが疑い始めたところで、まあそれは置いといて、とファルがあっさり話題を転換する。
「ユキヒトさんたちは何を買いに?」
「うん……服をな」
「服ですか。私では見立ての役には立てなさそうですけれど……」
申し訳なさそうに呟くヴァレリアに、悪戯心が刺激される。ここまでくれば本人が納得しておらずとももう引き返すこともできまいと、ユキヒトは企みをばらすことにした。
「良かったら、そっちの買い物が終わってからでいいから付き合ってもらえないかな。……ヴァレリアの服の見立てに」
「……は?」
ヴァレリアが事態を把握するよりも、ブレンヒルトが反撃材料と見なす方が早かった。にまぁ、と擬音がつきそうな笑みをブレンヒルトが浮かべて、それを見た瞬間ファルが小さな声で、うわぁ、と呟いた。次の瞬間にはブレンヒルトは、その笑顔を見事なまでの優等生スマイルに変えた。
「お世話になっている師範代の為ですもの。全面的に協力します」
「いつもこんな恰好だからな。悪いとは言わないけど、流行の服の一揃えでも見立ててあげて欲しいんだ」
「師範代の場合、素材が良いですから見立てが楽しそうだわ」
「す、少し待ってください……。自分で着る服は、その、自分で選びたいのですけれど……」
ブレンヒルトの丁寧な口調の裏に潜む危機を敏感に察したらしく、やや腰の引けた口調のヴァレリアに、ユキヒトは笑う。
「たまにはいいじゃないか。何も自分の服を他人に選ばれるのは我慢ならないなんて訳じゃないだろ?」
「……そういうわけではありませんが……」
強いこだわりを持って服装を決定しているわけではないのは、普段の言動から明らかだ。
「師範代の魅力、このブレンヒルト・オーガストが存分に引き出して差し上げます」
「何ナチュラルに人の名字名乗ってるんだよ! お前はブレンヒルト・ディングフェルダーだ!」
「間違えた。だって毎晩羊皮紙の端に百回くらい書いてみて微笑んでいるのよ?」
「……くっ! 99.9%の確率で嘘でわざとで単なる嫌がらせだけど、嘘だと断言して本当だったときに傷つけるから指摘がしにくい!」
「嘘だろ」
「嘘でわざとで単なる嫌がらせよ」
この二人の会話のテンポに慣れているユキヒトがさらりと指摘し、何を当たり前のことをと言う様な口調でブレンヒルトが肯定する。
「でも、ブレンヒルト・オーガストって名前を書いてみて真っ赤になった事があるのは本当だったりするかも知れないわ」
「するかも知れないのか」
「確率は半々ね」
「結構高いな」
自分の行為なのになんで確率が関係してくるんだ、などと言えば、ブレンヒルトは恐ろしく冷たい目をして、ふんと鼻で笑う。普通の感性の人間には耐えられないレベルで完成した冷笑だ。
「ファルはどちらに賭けるのかしら?」
「まずは何を賭けるかからはっきりさせようか」
「そうね……外したら一生私の言う事を聞くっていうのはどうかしら。その代わり当たったら三十秒間何でも貴方の言う事を聞くわ」
「お前の辞書に等価交換という言葉は載っていないのか!」
「何よ。私とあなたの存在価値を考慮すれば十分平等な条件じゃない。このゴミが」
「え。そんな直接的な分かりやすい言葉で罵倒するなんて、どこか調子が悪いんじゃないか」
心配すべきポイントが明らかにずれているが問題ないだろうと判断して、ヴァレリアの方へ向き直る。
「……私はどこで後輩育成の道順を間違ったのでしょうか……」
怒りを通り越して虚しさの領域に達した様子で、ヴァレリアは茫然と呟いていた。
「……目をかけて育ててきた後輩なのですが」
ヴァレリアに目をかけられてこれだけひねくれて育つのも一つの才能ではなかろうかと妙なところでブレンヒルトに感心しつつ、ユキヒトはぽんぽんとヴァレリアの頭を撫でるように叩く。少しくすぐったげに、ヴァレリアは身をよじった。
「師範代が乙女の表情をしてる。初めて見た」
「なっ……」
目ざとくヴァレリアの照れた表情を見つけたブレンヒルトがするすると寄ってくるとからかうように言う。
「だ、誰が乙女です! 私を愚弄しますか!」
「きゃー、師範代こわーい」
明らかな棒読みの声で言われてしまう程度には、今のヴァレリアには迫力が欠けていた。
「ファル、ヴァレリアが暴走する前にブレンヒルトを止めろよ」
「僕が止めた程度で止まる様な生易しい人じゃありません」
「……」
「そんなところが好きなんですよねー」
あっけらかんと続けたファルに、負けるよとユキヒトは小さく呟いた。
結局のところ、常識人のうえ有名人なヴァレリアは公共の場所であまり騒がしくするわけにもいかず、ブレンヒルトにからかわれるままに耐えていた。
馬車を降りる間際にぼそりと、覚えていなさいとヴァレリアが呟いた瞬間、ブレンヒルトの表情が凍りついたが、悔いはありませんと返して晴れ晴れと笑った。
「あんな良い表情、そうそう見られません。僕には被害がないし、超得しました」
「……あら、ファル。本気で言っている? 私の彼氏は、彼女を一人死地に向かわせる様な甲斐性無しだったのかしら」
「……どうやらこの子の悪戯好きを加速させた者がいるようですが、その者をこの子と一緒に心身ともに徹底的に鍛えることに吝かではありません」
暗い表情で笑うブレンヒルトに、呑気に推移を見守っていたファルの表情も凍りつく。
「え。何このとばっちり」
「……彼女の手綱を握るのも彼氏の役目ってことだろ」
「何他人事な感じで評論してるんですかこのロリコン野郎! 彼女の事もどうせ薄い胸が気に入ったんでしょう!」
「人聞きが悪い上に違うわ!」
不名誉極まりない決め付けをしてくるファルに、流石にユキヒトもどなり返す。やり取りを聞いていたヴァレリアがファルの頭にぽんと手を置いた。
「ファルと言いましたね」
「……? はい、そうですが」
改めて名前を確認するヴァレリアに、ファルは怪訝な表情で返事をする。
「人の身体的特徴について、その様にあげつらうのは、良い趣味とは言えませんね」
微笑んで、ヴァレリアはファルの頭を握りつぶそうとでも言うように、頭に置いた手にギリギリと力を込め始めた。
「頭が割れるように痛い!」
「割れないとはなかなか丈夫な頭です」
「割るつもりなんですか!? ぐしゃって! スイカみたいに!?」
「リンゴなら割った事がありますが……。今ならその時以上の力を出せる様な気がしています」
「うわ! うわわ! 今、ミシッていった! ミシッて!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐファルをしばらく締め上げてから、ヴァレリアは手を離した。
「全く。次はこの程度ではすませませんよ」
「……はい」
痛みが相当にひどいらしく、げっそりとした表情でファルが頷いた。
「ブレンヒルト、女性用の衣料品店は殆ど当てがないんだが……。良い店はあるか? 大きい店の方がいいのかな」
ノルンがいる以上、全く無縁というわけにもいかないのだが、目が見えないノルンはやはり服装にも深いこだわりはなく、極々標準的な、着やすい服を買っているだけで、詳しくなれるほどに店をめぐるわけではない。
「そのあたりはこの私、ブレンヒルト・オ…ディングフェルダーに任せればいいわ」
言い間違いかけて訂正する。かといって今回は本当に単純に言い間違いかけたのかと言うと、それはユキヒトには分からない。ブレンヒルトには、愉快犯的とでも言うべき、気紛れで無意味なひっかけが多い。
「……本当に私の服を見に行くつもりなんですか……」
「こんなところで嘘ついて何になるっていうんだよ」
「それはそうなんですが……」
居心地が悪いというように、ヴァレリアは身を小さくする。
「安心してください、師範代。その色気の欠片もない格好ばかりをしているのは大体想像がついています。ばっちりとお似合いの服を見繕って差し上げます」
「い、色気など……」
「要らない、と言えますか? 本当に?」
「……う……」
言葉に詰まるヴァレリアに、勝ち誇ったようにブレンヒルトが笑う。
「話し合いは終わりました。さっそく服屋に向かいましょう」
「……お前の彼女は実に恐ろしい奴だな」
「でしょう?」
「何で誇らしげなんだよ」
先程までのげっそりした顔が嘘のように明るい笑顔を見せるファルに、ユキヒトは肩を落とした。
大都市らしく、商業地区に行きかうヒトの種族は様々だ。最も多いのはヒューマンで、それは大陸の多くの地域においてそうだ。ファリオダズマにおいて最も数が多い種族がヒューマンである。加えて、ベルミステンは種族間抗争の激しかった時代からヒューマンの街だ。古くからの住民はことさらヒューマンの比率が高い。
通りに出ている店も、やはりヒューマンを対象にしたものが多い。食料などは基本的にどの種族もそう大した違いはないのだが、衣服など身につけるものとなると種族間ではやはり体格が違う。好みや感性も種族によってやや異なるため、一つの店で複数の種族の衣服を扱うのは非常に難しい。大きな衣料品店では幾つかの種族に向けたものが置いてある場合もあるが、小さな店では特定の種族のための専門店が一般的である。
また、工場と言うものがまだ十分に発達していないファリオダズマでは、それぞれの店が針子を抱え、商品となる衣服を縫っている。小さな店では、ほとんどの場合経営者自身ないしその身内が針子をしている。その分融通も効き、オーダーメイドの様な事もしてくれる店が多い。
ブレンヒルトが先導していったのは、そういった小さな店の一つだった。
「私のお気に入りの店の一つです」
「ブレンヒルトさんにはよくしてもらっていますぅ」
にこにこと笑うのは、ブレンヒルトやファルよりもさらに年下に見える店員だ。やや小柄でふっくらとしており、やや舌足らずなところが余計に幼さを感じさせる、愛らしい様子の少女である。名をアーミルといい、店の娘で、針子も兼ねているとブレンヒルトが紹介する。すっかり優等生の仮面を被っているという事は、この店で本性を現してはいないらしい。
「年は若いけれど、衣服に関してとても勉強熱心で流行も良く知っています。任せて間違いありません」
「そんな、買いかぶりですぅ。私なんてまだまだ……」
「このように謙虚で可愛らしいところも、応援したくなる理由ですね。技術的には確かに大型店の有名針子のようにはいかない部分もありますが、仕事は丁寧です」
「仕事が丁寧なのは、飾ってある服を見れば分かります」
大分ペースを取り戻したのか、ヴァレリアもにこりと笑って言った。
「……私は流行には疎いですが、軍属である分丈夫な服については多少目が効きます。飾ってある服はどれも、よく仕立てられた長く着られるものです」
「ありがとうございますぅ! その……ひょっとして、騎士団のヴァレリア・ロイマー様でしょうかぁ……?」
ファリオダズマに写真はないが、公式行事に出る機会も多く、新聞には挿絵として似顔絵も載せられるヴァレリアである。広くベルミステンの市民に顔を知られている。
「ええ。ベルミステン騎士団のヴァレリア・ロイマーです。様は結構ですよ。私は公僕ですから、市民の方に敬称など付けられても困ってしまいます」
そう言った反応にも慣れているらしく、微笑みを絶やさずにヴァレリアは対応した。
アーミルがきらきらとした目でヴァレリアを見る。モンスターの襲撃により多大な被害を受けたという事実から一般市民の目を逸らすためにも、英雄の存在は不可欠だった。その為にヴァレリアは、その功績をやや過剰なまでに宣伝されている。
ヴァレリア自身、騎士団の思惑に気づいており、それを快く思ってはいないものの、組織の意思に対抗することができるほどにヴァレリアは力を持たず、そして当初はその気力もなかった。叔父の死に茫然としている間に英雄に祭り上げられてしまい、今はそれを幾分窮屈にも思いながらも、与えられた職務を精一杯にこなすことに決めている。
「私の通っている剣術道場の師範代でもあるの」
「そうなんですかぁ!」
アーミルはにこにこと笑う。馴染みの客が連れてきた意外な有名人に興味津々と言ったところだ。
「師範代はあまり服には詳しくないの。だから貴女に一式任せたいのだけれど……」
「私で良いんですか……?」
驚きと興奮と少しの不安をにじませておずおずと言う彼女に、ヴァレリアは笑って言った。
「服には詳しくありませんが、このように丁寧な仕事をする貴女にぜひ、服を作ってもらいたいと思います」
「……はいっ!」
「それで、師範代はあまり服には詳しくないから、型とかそのあたりは、私と……そっちの男性が決めます」
「ん、俺か?」
急に指名を受けて、ユキヒトは思わず自分を指差す。
「その人はユキヒト・アヤセさん。師範代の剣を鍛えた鍛冶師さん。師範代ととても仲が良いのよ」
「わぁ……」
含みを持たせたブレンヒルトの言葉に、本格的に色恋に目覚め始める年頃の少女がますます目を輝かせる。
「……」
ヴァレリアは幾分気恥ずかしそうな表情をするものの、流石にそこで慌てては逆効果と分かっているらしく、落ち着いた様子を崩さなかった。
「それじゃあ、どんな感じがお好きですかぁ?」
さっそく商売っ気のある表情を見せるアーミルに、やはりファリオダズマらしい早熟さを感じながら、ユキヒトは店を見渡した。
せっかくならばオーダーメイドで作ってもらいたい。とはいえ店に展示してある既成品が参考にならないわけではないだろう。ユキヒトはじっくりと彼女が作ったという服を眺めた。
女性の衣服について詳しいわけではない。だからこそファルやブレンヒルトに同行してもらったのだが、やはり二人に任せきりと言うのも面目が立たない。
改めて眺めてみると、女性の衣服と言うものは実にバリエーションに富んでいる。工場で機械生産された製品ではないことも無関係とは言えないだろうが、店内に展示してある服はどれ一つとして同じ型ではないと言っても過言ではない。
「こんな感じはどうですか? 師範代」
「……どうも、その、このようにヒラヒラした飾りは私には……」
「この程度のレースがダメって、師範代、貴方本当に女ですか」
ブレンヒルトはブレンヒルトで、楽しそうにヴァレリアに服をいくつもあてがい始めている。しかし近頃のベルミステンの若い女性の流行は、ヴァレリアにとってはやや感性に合わないものらしく、服を差し出されては渋るという事を繰り返している。
「……上品で落ち着いた感じに一揃えだとどんなのが良いかな。背が高いから、あんまり『女の子』って感じじゃない方が良い。色合いも落ち着いた風で」
ユキヒトは、数多の服の中から彼女に似合うものを発掘することを早々に諦め、大まかな方針だけを伝えてプロに任せることにした。
「そうですねぇ、そういうご要望でしたら……」
広いとは言えないながら多数の服が置いてある店内を、アーミルは考えながらも迷う様子は見せずに歩く。
「……んーとぉ、こっちと、これと……あっちの方が良いかなぁ……?」
ぶつぶつと独り言をつぶやきつつ、アーミルが服をそろえていく。選ばれた服は、注文通り派手ではないものの、普段のヴァレリアの真面目一辺倒の、言ってしまえば地味な服とは違い、上品な華やかさがあった。
しばらく服をとっかえひっかえし、最終的に何通りかのパターンを選ぶと、アーミルはにっこりと笑った。
「こんな感じでしょうかぁ。……サイズがちょっと合わないかも知れないのもありますが、それはご注文いただければ」
「……うん、いいな。ヴァレリアに見せてみよう」
流石にアーミルは幼いながらもプロだった。ユキヒトの漠然とした注文だけで、思った通りの服を選んでくれた。
ヴァレリアとブレンヒルトはと言えば、ずっと同じような事を繰り返していたらしい。ファルはと言えば、出番はなかったはずだがにこにこと二人を見守っている。ユキヒトは、それだからしょっちゅうブレンヒルトの買い物に駆り出されるのであろうと、馬車の中で聞き出した二人の普段の生活を想像してみる。どちらかと言えばヴァレリアの方が、女の買い物に不本意に巻き込まれた男のような疲れた表情であった。
とはいえ成果がなかったわけでもないらしく、いくらかヴァレリアとブレンヒルト、両方の眼鏡にかなったものもあるらしく、それらしき服が何着か取り分けられていた。
「疲れてるとこ悪いけど、こっちで選んだ服も少し見てくれるか?」
「いえ、疲れてなどいませんよ」
明らかに嘘だったが、自分の為の買い物なのだということも自覚しているヴァレリアはそう返事をする。
「少しお手伝いさせていただきましたが、ユキヒトさんのお選びになった服ですぅ」
え、と思わずアーミルの顔を見そうになったとたん、ヴァレリアから死角になる背中辺りをぎゅっと抓られる。しれっとした顔でそれをしたのは、いつの間にか後ろに回り込んでいたブレンヒルトだ。
「あら、ユキヒトさん。なかなか良い趣味をしているじゃない」
加えた一言の裏に『黙っていろ』というメッセージを感じて、ユキヒトはひきつるような苦笑をした。
「ユキヒトが……」
「ああ……うん……」
半ば以上嘘であり、微妙に居心地が悪いのだが、どこか嬉しそうにつぶやくヴァレリアを見ると、そうとも言いだしにくく、ユキヒトはあいまいに肯定した。
「ありがとうございます」
礼を言うと、ヴァレリアは服を一つ一つ丁寧に広げて見始める。
その横顔を見て、彼女を連れて服を買いに来てよかったとユキヒトは思った。
それからしばらく、ヴァレリアはその服を真剣に検討し、結局、ユキヒトやブレンヒルト、ファルもアドバイスをしながらいくつかの型を選び、オーダーメイドの為に採寸をした。
ヒューマンの女性としては長身のヴァレリアにぴったりのサイズの服というものは、なかなか置いていない。アーミルの店の服も、既成品はヴァレリアが着るには少しばかり窮屈だった。
「さて。ところで私は一つの目的の為だけに動くことをよしとしません」
ヴァレリアの採寸が終わったところで、おもむろにブレンヒルトが宣言した。
「アーミル、貴女良い裁ちばさみが欲しいって言っていたわね?」
「え……? はい、お家にあるのは古くてちょっと切れ味が悪くなっちゃってぇ……」
「ユキヒトさんは専門は刀剣の鍛冶師だけれど、日用の刃物も扱っているのよ。腕の方は……ファルも私も、師範代も彼の顧客と言えば大体想像がつくかしら」
「包丁でも鎌でも、一通り打てる。……もちろん、はさみもね」
アーミルの目が期待できらきらと輝いている。
「今は少し仕事が立て込んでしまっているから、渡しは来月になるけれど、それでよければ受けるよ」
「お代はどれくらいでしょうかぁ?」
真っ先にそれが出るのが、やはり商売人だ。むしろそれを好ましく思いながら、ユキヒトは報酬を説明する。
「うん……それくらいなら……。お願いしますぅ!」
思い切って、という風にアーミルは依頼をする。
「左利用の裁ちばさみだね。承りました」
「はい! ……え? あれ? わたし、左利きだって言いましたっけ……?」
「君の動きを見てて左利きだと思ったけど……違ったかな?」
「いえ、左利きですぅ。はぁー、良く見ていらっしゃるんですねぇ……」
「癖みたいなもんでね、顧客はよく観察するんだって師匠の教えなんだ」
一つ一つの動きを注意して見るんだと、そう教えられた。相手の利き手を間違えるようでは話にならない。
「……初対面の針子の利き手より、見るものがいろいろあるでしょうがこの甲斐性無し」
「!?」
後ろに回ったブレンヒルトの、絶妙に声量を調整された呟きがユキヒトの耳に突き刺さる。慌てて振り返るが、ブレンヒルトは優等生スマイルを浮かべているばかりだ。ともすれば自分の空耳かと思ってしまいそうになる。
「……正確な引き渡しの日は、また追って連絡するよ」
「はい、楽しみにしてますねぇ」
ブレンヒルトの言葉には気づいていないらしい。アーミルは無邪気ににこにこと笑っている。
「よろしく頼みます」
気配に敏感なはずのヴァレリアも、上機嫌なせいなのかブレンヒルトの態度に気づいた様子がない。
一行はひとまず店の外に出る。すると例によってブレンヒルトの表情から愛想がすとんと抜け落ちる。
「さて……本命は終わったわ。次は、間に合わせね」
「……ん?」
「まさかこれで終わると思っていたわけではないでしょう?」
平然としていたのはファル一人。ヴァレリアとユキヒトは、どうやらここからが長そうだという事に今更ながらに気付き、表情を引き攣らせた。
それから結局五つの店を回り、ヴァレリアはすっかりブレンヒルトの着せ替え人形と化した。
三店目の時点ですでにぐったりとしていたヴァレリアは、最後の方になると判断力を失って、趣味とはやや離れたものも購入していた。ブレンヒルトもどうやらそれを狙っていたらしく、後半になるほど、やや露出度の高い、流行ではあるがヴァレリアは眉をひそめそうなものを購入のラインナップに潜ませるようになっていった。
「……最後の店では下着まで見立てられました……」
「師範代の下着ったら、予想通り白の面白味も何もないやつなんですもの」
「……」
怒る気力もなくなったのか、そんなことを暴露されても、ヴァレリアはがくりと肩を落とすばかりだ。
服も、二店目で購入したものに着替えさせられ、初めに着ていた服は折りたたんで買い物袋の中だ。まだヴァレリアの理性が働いている間に購入したものだけに大人しいデザインのものではあったが、やはり普段よりは華やかだった。
ちなみに、買った服は持ち歩くのが困難なほどの量になったために自宅への郵送を依頼した。
「あー、面白かった。こんなに色々服を見て、着せて、買って回れるなんて」
それだけ楽しみながら、合間に自分の服も買っている。女の買い物とは恐ろしいと、元の世界でもファリオダズマでもまともにそれに付き合ったことがなかったユキヒトは戦慄した。
「ファル、お前、良く平気だな……」
平然とした表情を最後まで崩さなかったファルに、ユキヒトは若干の畏敬の念すら込めつつ話しかける。
ファルはと言えば、余裕とどこか諦念の様なものを感じさせる笑みを浮かべて言った。
「慣れです」
「……そうか」
犠牲にしたものの大きさを感じさせる態度に、ユキヒトはそれ以上の追及をやめにした。
「それじゃ、師範代、ユキヒトさん。そろそろお別れね」
公共馬車も元の居住地区までたどり着き、上機嫌なブレンヒルトが言う。
「ええ……。お疲れさまでした」
「そうだ。そろそろ一度剣を見せに来いよ。二人の事だから大丈夫だろうけど、手入れを見る」
「分かりました。よろしくお願いするわ」
このしばらくの間に、二人は冒険者として名の知れた存在になりつつあった。ユキヒトの剣も大事に使ってくれている。
「……それじゃあ師範代、ごきげんよう」
「またいつかお会いしましょう!」
「ええ。……六日後にまたお会いしましょう」
『……』
くっくっく、と、喉を鳴らすように暗く、ヴァレリアは笑った。
「……逃げたらどうなるか……聡明なあなたたちに、説明の必要はありませんね……?」
「……くっ。逃げきれないか……」
無念、と肩を落とすブレンヒルトの肩に、ファルがポンと手を置いた。
「……貴方も一緒よ。死なば諸共……」
「結局最後まで心中かよ!」
顔をあげたブレンヒルトの言葉にファルが突っ込みを入れつつ、二人は去って行った。
「……騒がしい二人です」
「年相応だろ。……良い子たちだよ」
「……それは認めざるをえませんが」
本人たちの前では言えませんねとヴァレリアは笑う。
「帰りましょう。……夕飯は、私の家で食べていってください」
どうせ母はノルンとユキヒトの分も用意していますと続けて、ヴァレリアはゆっくりと歩きはじめた。
日も暮れはじめた道を、二人で歩く。赤い夕日は郷愁を誘う。川べりの慣れた道、並木の葉はもう落ちて、冬の気配が色濃くなっている。
かつて生きていた世界で、似たような道を歩いた記憶がよみがえりそうになる。忘れようとして忘れられないものが、鈍く胸を刺す。
考えるべきことはたくさんあった。日々の忙しさにかまけて、それを置き去りにしたままな事は分かっている。
「……」
少し風が吹いた。冬の夕暮れ、川沿いの道に風が吹けば、当然に寒い。
「ユキヒト」
「うん?」
「お願いがあります」
「なんだ?」
「……」
躊躇うように、ヴァレリアは一瞬目を伏せて、それからしっかりとユキヒトの目を見ていった。
「手を、繋いでくれませんか」
「……」
寒いからというだけではないことも、彼女が求めるものがただそれだけのことではない事も理解できて、ユキヒトは沈黙した。
「私の気持ちは理解してもらえていると思います。……貴方の気持ちも、おそらく、ただの私の勘違いではないと思います」
返事をするのが難しい。もちろんそれはその通りなのだが、中途半端な言葉で肯定してしまうには、暗黙のままの関係が長すぎた。
「……でも、私たちの間には、あまりにも何もない。約束の言葉も、誓いの証も、……体のつながりも」
意図したのではないというのは言い訳だろうかとユキヒトは思う。しかし無意識にでもなんでも、それを恐れている自分がいたのも確かな事だ。
「……貴方の故郷の事を、聞かせてください」
「……」
唐突にも思えるその話だが、彼女が何故それを言い出したのか、ユキヒトにはそれも理解できた。
「私に教えられないと思って黙っていた事を、今こそ教えてください。そうでないなら……終わりにしましょう」
きっぱりと、ヴァレリアは言い切る。しかしその手が、瞳が、唇が震えるのがユキヒトの目には分かった。
帰りたいという希望。この世界に根を下ろすことに対する忌避。戻れないのではないかと想像する恐怖。身軽であろうとしたのは事実だった。そしてそれが彼女を傷つけていることも知っていた。
「……多分、とても信じられないような話だ。だけど、本当のことを話す。都合の良い事を言うけど、信じて欲しい。君に嘘だと思われるのが、多分一番痛い」
そして彼女が嘘だと思うという事は、彼女を永遠に失うということも意味するだろう。本当のことを言って彼女を失うのでは、あまりに心が痛すぎる。
それでも、それらしい嘘をつくことはできないと思った。彼女は確実にそれを見抜くだろうと思えた。自分の嘘を見抜くくらいには彼女は自分の事を知っているとそう自惚れたかった。
「……俺の故郷は、こことは別の世界だ」
躊躇いながら、ユキヒトは語り始めた。
故郷の街のこと。そこに住む家族と友人。その世界での常識。持っていた価値観。そう言った一つ一つを、確かめるようにゆっくりと話していく。
ヴァレリアはそれを、頷きもせずにじっと聞いている。わずかに、全身に力が入っているようにも思える。嘘だと思って身を固くしているのかと不安にもなりながら、ただ懸命に、本当のことだけを語る。
「……そうして気がついたらこっちの世界にいて、偶然オルトさんに拾われて、そこからはヴァレリアも知っている通りだよ」
語り終えて、ユキヒトは長く息をついた。息は白く残って、もうそんな季節になっていたのかと思わせた。
「……荒唐無稽で、嘘だと思うかもしれないけど……。何一つ、嘘はついていない」
「信じましょう」
躊躇いもせずに、ヴァレリアは頷いた。
「……」
「信じると言ったのです」
返事をできずに固まったユキヒトに、ヴァレリアはもう一度言った。
「……貴方は、そんな顔と声で嘘をつける様なヒトではありません」
「……そうか」
「理解できました。帰れない故郷。異邦であるこの地。帰還を諦められないのであれば、この地に縁を作ることに憶病になるのも分かります」
「……」
「……それでも、私は、私のこの手を、貴方に取ってほしい」
ヴァレリアが、すっと真っ直ぐに手を伸ばす。請う様に掌を上にするのではなく、掴み取ろうとするように手の甲を上にしているのが彼女らしさなのだろう。
その手を取るという事の持つ意味に、ユキヒトは震える。
人生は等価交換だという者がいる。何かを得るために何かを棄てなければならないのだと。その手を取ることで得るものと失うもの。彼女とこれまで生きてきた世界と、どちらかを選べと彼女は求める。
ごめん、と小さくユキヒトは呟く。その言葉に、ヴァレリアの手が震えた。
「……親不孝だな、俺は」
ヴァレリアの震える手を握って、ユキヒトは言った。
「元の世界を棄ててでも、ヴァレリアが欲しい。……俺は、ファリオダズマで生きていくよ。これから、ずっと」
「……ユキヒトっ!」
繋いだ手をぎゅっと引き寄せて、少し強引に抱き寄せる。今まで我慢してきたのだ、これくらいは許されるだろうと、彼女をぎゅっと抱きしめる。
「……好きだ。愛してる。ヴァレリアのこと、何よりも大事に思っている」
「……」
耳元に囁くと、火がついたようにヴァレリアの顔が赤くなる。
「……今夜、ご両親に挨拶しようか。娘さんを下さいって」
「それは……! 嬉しいのですけれど、その、は、早すぎるのではないでしょうか……」
「……うん。さんざん待たせてごめんな。今更、急ぎ過ぎることはないよな」
でもこれくらいは良いだろうと言って、ユキヒトはヴァレリアと唇を重ねた。
「……音がなんだか楽しそう」
工房で依頼の品を作っていると、ノルンがふと声をかけてくる。ユキヒトは手を止めて、ノルンの方を向き直る。
「……いつの間に潜り込んだんだ」
全く気付かなかったぞとユキヒトは笑う。集中しすぎですとノルンは返して、ユキヒトに質問を重ねる。
「何を作っているんですか?」
こんな風にノルンがユキヒトの仕事の邪魔になる様な事をするのは極めて珍しい。ユキヒトは嫌な顔をせず、そのノルンの疑問に答えた。
「ようやくいろんな仕事がひと段落したからな。この前言った、ヴァレリアの服を縫ってもらう針子さんから頼まれた裁ちばさみだよ」
「それでそんなに嬉しそうなんだ」
ノルンはにこりと笑う。
ヴァレリアとの関係の変化については、既にノルンも、ヴァレリアの両親も知るところだ。耐性のないヴァレリアは、その後真っ赤な顔が一向に収まらず、その癖手を離すことも嫌がった結果、彼女の家に着いた時には、何かがあった事は一目瞭然の状態で、ヴァレリア自身が全て白状させられた。
やはりノルンにすすめられて二人で出掛けなければ、あの日そんな事にはならなかった。アーミルの店でのやり取りも、ヴァレリアの背中を押した要因の一つだと彼女から聞かされれば、その仕事に熱が入り、また機嫌が良くなるのも当たり前の話だ。
「オルトさんも、喜んでくれるだろうさ」
「お父さん……ヴァレリア姉さまの事、気にしてたから」
「うん。……そうだな」
少し身を固くしながら、それでもノルンは笑って見せた。
がんばっていこうなと、ユキヒトはノルンの頭を撫でた。
若き職人へ 君の真摯な仕事が多くの人に幸せをもたらすように 行人