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No.8212の一覧
[0] 異世界鍛冶屋物語(現実→異世界 日常系)[yun](2013/03/12 00:07)
[1] 鬼に鉄剣[yun](2010/11/30 01:00)
[2] 願わくば七難八苦を与えたまえ[yun](2009/04/24 01:16)
[3] 貴き種族の話[yun](2009/04/25 21:59)
[4] 汝は人狼なりや[yun](2009/05/31 17:06)
[5] 蓼食う虫も食わないもの[yun](2010/09/01 19:06)
[6] エルフと死霊[yun](2009/06/21 23:04)
[7] 鍛冶屋の日常[yun](2010/09/02 01:26)
[8] 柔らかな記憶[yun](2009/09/29 01:50)
[9] 夜に生きる[yun](2009/10/21 22:12)
[10] 剣神の憂鬱[yun](2010/04/05 01:39)
[11] 光の射す方へ[yun](2010/09/02 02:00)
[12] 鍛冶師と竜騎士(前篇)[yun](2010/09/07 01:35)
[13] 鍛冶師と竜騎士(後篇)[yun](2010/10/12 03:23)
[14] 得るものと棄てるもの[yun](2010/11/29 02:05)
[15] 復讐するは我にあり[yun](2011/02/01 01:39)
[16] 正しい力の使い方について[yun](2012/12/16 12:33)
[17] 神に祈りを、ヒトに希望を[yun](2013/03/10 08:44)
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[8212] 光の射す方へ
Name: yun◆04d05236 ID:7d24e2c9 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/09/02 02:00





 とある昼、依頼もなく暇を持て余したユキヒトは、注文を受け付けるカウンターで本を読んでいた。

 ファリオダズマでは本は貴重品である。機械が発達していないこの世界では、印刷の技術も当然発展してはおらず、本はすべて手書きの写本である。加えて紙もまだ大量生産に至っていない。その為に書物は非常に高価な代物で、図書館や研究機関、そして上流階級の家くらいにしかないものなのだ。

 決して裕福なわけではないユキヒトが本を読めるのは、時折遊びに来るアルディメロに頼んで借りているからだ。アルディメロは獣人の中では名家と呼ばれる家の出で、母親が無聊の慰めに上流階級で話題の物語本などを集めたりするものだから、ファリオダズマでは珍しくなかなかの量の書物を所有している。

「ふぁ……」

 ユキヒトは小さく欠伸を漏らす。本の内容も、暇を持て余した上流階級の婦人に向けて書かれたものであり、ユキヒトが熱中するような内容ではない。しおりをはさんでカウンターに本を置くと、ユキヒトはひとつのびをした。

 ノルンも今日は、退屈のあまりか、体調が悪いわけでもないのだが昼寝をしている。

 差し迫った仕事もなく、買い物に行く用事もない。どうにも気が抜けてしまい、ユキヒトも、少し午睡をたしなもうかと腕組みをして椅子の背もたれに体重をかけた。

 静かで穏やかな時間、何を考えるわけでもなく、ただぼんやりとした思考。うとうととユキヒトの意識が薄くなってきたところに、こんこん、と、静かなノックが響いた。

「……はい、どうぞ」

 寝ぼけた声を出さないよう、一拍置いて少し意識をはっきりさせてから、ユキヒトは返事をした。

 返事を聞いて、ドアが開く。

 立っていたのは、ユキヒトよりはやや年上に見える男と、顔を長い布で覆って隠した女だった。

 男の方はヒューマン種族らしく見える。やや厳めしい顔立ちと体格で、金色の髪は短く刈り込んでいる。人相が悪いとは言わないものの、決して愛想の良い顔立ちではない。夜道で行き会えば、誤解であろうと警戒してしまいそうな男だ。

 女の方は、顔を布で覆っているのに加え、何のつもりか鎧を身に纏っているため、どの種族かは分からない。体格的にはヒューマンとさほど変わりない。脇には、何に使うものなのか小さなボードのようなものを抱えている。

 鎧といっても、流石に戦場で騎士が身につけるような全身鎧ではない。もしそうであったなら、小柄な男なのか、それとも女なのかは判別が難しかっただろう。とはいえ、胸当て、腰当てに籠手まではめて、迷宮探索に乗り出す冒険者レベルの装備である。

 工房に訪ねてくるのに適した格好とは到底思えず、ユキヒトはひそかにカウンターに隠した剣を引き寄せた。

「……オルト殿のお弟子、ユキヒト殿の工房で間違いないだろうか」

 男の方が、ユキヒトの警戒をよそに問いかけてくる。その声は落ち着いたもので、とりあえず強盗に押し入った者のようには感じられなかった。

「そうですが、貴方は?」

 師を知っているからといって、警戒を解いて良い理由にはならない。主に鎧姿の女に注意を向けながら、ユキヒトは問い返す。男の方は、ひとまず武装をしているようには見えない。

「ファッタで鎧鍛冶をしている、ゲールハルト・ボルクというものだ。わが師とオルト殿が懇意にされており、いくらか交流があった」

「……なるほど」

「……彼女の恰好で警戒されるのは分かる。今から、事情を説明しよう。アンゲリカ」

 ゲールハルトと名乗った男が声をかけると、女は顔に巻いた布を外し始めた。

 そこに現れた顔に、ユキヒトは苦笑いをしながらその格好の理由を納得した。

 豊かな黒い髪が目を引く。ややたれ気味の、優しげな紫色の眼をしており、愛らしさの漂う顔立ちの女性だった。

 だが、彼女にちょっかいをかけるものは少ないであろうと思われた。何故ならば、彼女の肌は、ヒューマンのものとは全く違う青いものだった。

「……ダークエルフ種族」

「ああ。……とはいえ、貴殿に偏見はないようで、安心だ」

 ダークエルフ種族は、種族の名が示すように、エルフに似た整った容姿と、高い魔力を特徴とする種族である。しかしながら、エルフはダークエルフを近縁の種族として認めてはおらず、このように呼ぶ。すなわち、「魔族」と。

 ダークエルフは、ヒトとして認められるようになって最も歴史の浅い種族だ。それより以前、「魔族」という呼称は他のすべてのヒトの間で公的に使われていたもので、その扱いはモンスターに準じるものだった。

 魔族はその傲慢さゆえに他の種族と対立し、結果、滅ぼされた。根絶やしにされる寸前であったが、竜種のとりなしによりヒトとして迎え入れられることになり、その際にダークエルフという種族名を与えられたのだった。それが、百年前の出来事である。

 ヒューマンからすれば長い百年という時間も、種族によっては短い。当時の戦争に参加した者が生存している種族も数多く、ダークエルフの地位向上は、まだまだ先の話になりそうな情勢であった。

「依頼は、彼女の剣」

 重々しく、ゲールハルトは口を開いた。

「彼女が生き延びるために必要な、優れた剣を打ってほしい」

 彼は、ユキヒトの目をじっと見つめながらそう言った。

「……ついては、彼女の闘いを見てほしい。一緒に来てはもらえないだろうか?」













 ファリオダズマでの庶民的な娯楽の一つが、「剣闘」である。

 剣闘士と呼ばれる奴隷身分の者が、獣やモンスター、時としては剣闘士同士で戦い合う姿を見、あるいは賭け事をする娯楽で、大抵の大都市には剣闘に使用されるコロシアムが存在する。

 現代日本の感性を持っているユキヒトにとって、剣闘が見物して面白い催しとは思えず、また周囲に剣闘を好む者もいなかったため、深くは知らなかった。

 ゲールハルトが連れていたのは、剣闘士の一人、アンゲリカという名のダークエルフだという。

 今、一行は、ゲールハルトの乗ってきた馬車で彼の居住地であるファッタへと向かっていた。

 今回はノルンも連れてきている。ファッタはそれほど遠い街ではないとはいえ、片道で三日ほどはかかる。留守番をさせることはもちろん、どこかに預けるにも不安がある日数であった。

「……しかし、お前たちは優しいのだな」

「ん、何がです?」

 突然に言うゲールハルトに、ユキヒトは問い返した。ゲールハルトは、その厳めしい顔を少し崩す。

「アンゲリカが言葉を発しないことに、何も言わない」

 ゲールハルトの言葉に、アンゲリカは困ったように笑った。その様子を見て、ユキヒトはゆっくりと口を開いた。

「……聞く必要がある事ならば、そちらから教えてくれるでしょう。聞く必要がない事なら、好奇心で触れていい事じゃない」

「好奇心を抑えるのは困難な事だ」

 馬車を器用に御しながら、ゲールハルトは会話を続ける。

「……実のところ、俺もアンゲリカからそのことは聞いていない。彼女にも聞かないでいてくれればありがたい」

「分かりました」

 始めから聞くつもりはなかったのだが、相手が確認を求めてくるならば応じるのに何の不都合もない。ユキヒトは頷いた。

 アンゲリカは確かに全く言葉を発しない。とはいえ、無表情というにはほど遠い。

 小さなボードを常に小脇に抱えており、コミュニケーションはそれに文字を書いて行う。必然、目が見えないノルンとは直接やり取りをする事が出来ず、ユキヒトが「通訳」をしてやらなければならないが、基本的にアンゲリカは善良な人間性を持っているようで、目の見えないノルンに何かと気を使っていた。

 ノルンにしても、直接のコミュニケーションは限られているものの、彼女の人間性には感じるところがあるらしく、穏やかに接している。言葉など些細な問題だとユキヒトは思っていた。

 ゲールハルトとアンゲリカがどういう関係なのかは分からない。だが、少なくとも彼女が身につけている鎧はゲールハルトが作ったものだという。どういった方向でなのかは知らないが、浅からぬ関係があるのだろう。

「……これは言っておこう。俺とアンゲリカの関係だが……そうだな、俺は彼女のスポンサーといったところだ」

 二人の関係についてユキヒトが思いを巡らせていたのを感じ取ったわけではないだろうが、ゲールハルトは自分たちの関係をそう表現した。

「スポンサー?」

「俺は彼女が勝てるように何かと手配をし、彼女の試合で賭けをして儲ける。彼女は俺のサポートを受けて勝利し、自分を買い戻す為の金を手に入れる。そういう関係さ」

 嘘だと直感的にユキヒトは思った。確かに表面的にはそういった関係なのかもしれないが、ただそれだけの関係ではないだろうと感じる。そもそも、ゲールハルトが、金の為にそうやって動く人間にはあまり思えなかった。

 とはいえ、自分でそういうものを嘘だと否定する理由もない。ユキヒトは口をつぐんだ。

 二人の本当の関係は何なのだろうかとユキヒトは思う。ゲールハルト本人が言うような関係には思えないが、かといって男と女という雰囲気でもない。どちらかといえば、保護者とその庇護下にあるものという気配ではあるが、到底血縁があるようには思えず、また、ゲールハルトが時折見せる遠慮したような態度の意味がよく分からない。

 当たり前の見方をすれば、鎧鍛冶とその常連顧客である剣闘士という関係と見るべきであろうが、それにしては随分とゲールハルトがアンゲリカに対して肩入れが強いようにも思える。

 ユキヒト自身にも思い入れの強い顧客は何人か存在する。彼らの為となれば、伝手のある職人を訪ねるくらいのことはするだろう。それはさほど不自然な事でもない。しかし、それにしたところで、ゲールハルトのアンゲリカへの接し方は丁寧なもので、到底被差別的な種族であるダークエルフの、それも奴隷身分である剣闘士に対するものとは思えなかった。

 現代日本という、完全な異世界から来た人間であるユキヒトにとっては、種族差別というものは今一つピンと来るものではないものの、教育というものが一般市民まで完全に浸透しているとは言い難いこの世界では、偏見や差別意識というものが現代日本と比べてかなり強いものであることは分かっていた。

 アンゲリカはといえば、ゲールハルトの言葉を聞いて、肯定するでも否定するでもなく、黙って落ち着いた表情をしている。

「……剣闘士については、詳しいかな」

「いえ、剣闘はあまり好きではなかったもので」

「少し説明しておこう。……良いかな、アンゲリカ」

 あまり愉快な話ではないのだろう。ゲールハルトは、当事者であるアンゲリカに確認をとった。彼女は、ゆっくりと頷いた。

 剣闘士はコロシアムに売られた奴隷である。剣闘士から抜け出すためには、コロシアムから己を買い戻さなければならない。

 剣闘士には少なくはない給金が与えられる。自分の試合に賭けられた金の総額のうち、一定の割合が給金として与えられるため、人気のある剣闘士になれば収入もかなりのものになる。また、自分の試合、自分の勝ちに限り、剣闘士自身も一定の金額の賭けをすることが認められている。

 剣闘士は人気と実績に応じてクラス分けがされる。ある程度上位のクラスになれば、コロシアムの外に住居を移すことや、街からの一定期間の外出も許される。アンゲリカは、街からの外出を許された剣闘士だという。

 剣闘士の生は過酷である。実力のないものは、あっという間に死を迎える。例え実力があろうと、日々苛烈になっていく争いに、いずれは限界を迎える。自由を勝ち取る剣闘士というものは、ほとんど存在しない。

 巧妙なのは、ほとんどいないというだけで、全く存在しないわけではない事だ。

 人気が出れば、より過酷な闘いへと向かわされる。その為には、優れた装備を求めなければならない。激しい闘いでは、装備の消耗もかなりのものになる。その為に給金は使われ、自分を買い戻すための貯金はなかなかに進まない。しかし、ほんの一握りではあるが自らを買い戻すことに成功する剣闘士もいるという事実が、剣闘士たちを夢という名の見てくれの良い鎖で縛る。コロシアム側にとっては良くできているが、ひどいシステムだとユキヒトは思った。

「……剣闘士などというのは耳触りを良くした言葉でしかない。実際には、剣奴という言葉の方が適切だろう」

「……剣奴、ですか」

 淡々と語るゲールハルトに、ため息交じりにユキヒトは言葉をこぼした。

 ノルンもゲールハルトの話を聞いている。元々がファリオダズマの住民であるノルンは、ある程度剣闘士の境遇について知っていたのか、眉をひそめるものの、言葉を発することはしなかった。

 アンゲリカは、そのノルンの手をきゅっと優しく握った。

「……」

 驚いたようにノルンは目を開いて、何かを言おうと口を開き、結局やめて、アンゲリカの手を握り返した。

「アンゲリカはあと少しで自分を買い戻せるというところまで来ている」

「そうなんですか」

 街からの外出を許可されるという事からも、上位のクラスにあることは分かる。この大人しく優しげなダークエルフの少女は、相当な実力を持つ戦士だという事だ。

「それだけに、ここからの闘いはかなり困難になる。スポンサーとしても最大の山場だ」

「……一つ、聞いても構いませんか」

 あくまでスポンサーだと言い張るゲールハルトに、ユキヒトは問いかける。ゲールハルトがゆったりと頷くのを確認して、ユキヒトは質問を口にした。

「彼女が自分を買い戻した後、どうするつもりですか?」

「……さあな。彼女の事は彼女が決めるだろう。それだけさ」

 一瞬の沈黙の後、何気ない口調で、興味なさげにゲールハルトは言った。

 アンゲリカは何も言わず、ただ淡く微笑んでいた。













 ファッタは、元をただせば大きな金鉱山のそばにドワーフが作った街で、特産品は当然のように金細工であった。

 ファリオダズマでは、銀はありふれた鉱物であったが、その反面金は希少な金属で、銀が庶民の日常のアクセサリーにも使用される身近な金属である半面、金細工を身につけることができるのは、貴族や大商人、豪農といった一部特権的な階級のみであった。

 それだけに有名な金鉱山をすぐ近くに持つファッタという街は、情勢の安定しない群雄割拠の時代には相当の争いに巻き込まれた土地である。その名残か、傭兵の一大拠点としても有名であり、かなり平和になった今の時代でも住民の気性はやや荒々しい。

 そんな街だけに、剣闘は非常に盛んで、コロシアムも大規模なものであった。

 ファッタについた翌々日、ユキヒトとゲールハルトは、アンゲリカの試合の見物の為、コロシアムに来ていた。

 ノルンは、ゲールハルトの家に置いてきた。それなりに不安もあったが、しばらくの間ノルンを一人で置いておく不安と、コロシアムに連れていく不安を比べた時、天秤が上がったのは置いておく方だった。幸い、面倒見を買って出てくれたゲールハルトの弟子だというヒューマンの少年は、人間性に問題もなく、半日の間預ける程度であれば信頼してもよい相手であった。

「……すごい熱気だ」

 アンゲリカの試合は最終の少し手前の時間帯に予定されている。それは、それぞれが昼の腹ごしらえも終え、帰宅を控えて最も盛り上がる時間帯である。

 広いコロシアムの事、アンゲリカの試合のみを執り行うわけではないが、その試合がコロシアムのメインリングで行われるという事実は、紛うことなく、彼女の試合がその日のメインイベントであることを意味していた。

「賭けごとは嫌いか?」

「何も分からないのに賭けるほど好きじゃないってくらいですかね」

 全く賭けようとしないユキヒトに、ゲールハルトが問いかける。ユキヒトは苦笑して答えた。

「そういう貴方も、別に賭けてはいないみたいですね」

「アンゲリカの試合の前に、資金を減らすのもばかばかしい」

 つまりは、勝てないらしい。ユキヒトは苦笑を深くした。

「……ノルンを、つれてこなくてよかった」

「確かに、あの子には少々刺激がきつかろうな……」

 飛び交う歓声の内容は、決して上品なものとはいえない。負けた腹いせに賭けていた剣闘士に罵声を浴びせる者、血を見た興奮からか街中で聞けば衛兵を呼ばれそうなことを口走る者、様々である。

 気のせいなのか実際にそうなのか、空気に血の臭いが混じっている気がする。嗅覚も敏感なノルンであれば、きっと耐えられないだろうとユキヒトは思う。

「……俺も、余りこの空気は好きになれそうにない」

「何よりだ。剣闘に一人新たに巻き込まないで済む」

「……」

 その様に言うのならばなぜ、アンゲリカのスポンサーなどをやっているのか。問いかけることはできず、ユキヒトはふと遠くのリングに目を向けた。

 偶然にもそこでは、一人の剣闘士が、豚の顔をしたモンスターであるオークの首をはねていた。湧き上がる、歓声と罵声。

 ユキヒト自身にも、モンスターとの交戦経験はある。命を奪ったことも、一度や二度ではない。それをやむを得ないと割り切る程度には、ユキヒトはこの世界に順応していた。

 それでもどこか、この光景にはユキヒトの心をささくれ立たせる何かがあった。ユキヒトは、すぐにそれから目をそらした。

「そろそろ、時間だ」

「ああ」

 始めから他の試合で賭けをするつもりがなかった二人は、かなり前からアンゲリカの試合が行われるリングに陣取り、良い席を確保していた。

 試合が近づき、観客がほかのリングから次々と集まってくる。メインイベントと位置付けられているだけに、やはり注目度はかなり高い様子だ。

 始めはざわめいていた観客たちだが、その時が近づいてくるに従って、少しずつ静かになっていく。緊張感が広まっていくのが、ユキヒトにも分かった。

 やがて、剣闘士の入場を知らせるファンファーレが鳴る。そのファンファーレも、これまでの試合のおざなりなものとは明らかに異なっていた。

 音楽が最高潮を迎えたところで、入場口から選手が姿を現す。その姿に、ユキヒトは唖然とした。

「なんだ、あの恰好は……?」

 短い、剣というよりは大型で肉厚なナイフといった風情の得物と、バックラーと呼ばれる形の腕に装着する丸盾。ここまでは良い。しかし、その他は、普通とはいえない恰好であった。

 胸と腰まわりを申し訳程度に覆うだけの超軽装備。その鎧のほかには一切の衣類をまとわず、ほとんど半裸といっていい状態だ。まだしも、ユキヒトの工房に来た時に身に着けていた軽装鎧の方が、装備としてましだ。夜の街の女たちでもこれほどの恰好はしていまいというその姿に、ユキヒトは思わず茫然とした。

 そのユキヒトをよそに、観客たちは大きな歓声を上げる。それに対して、アンゲリカは手を挙げることで応え、歓声は一層大きくなる。

「……剣闘士の装備は、あの程度のものしか許されない」

 いまだに衝撃から抜け出せないユキヒトに、ゲールハルトが告げた。

「俺では彼女の手助けとなる装備は、作ってやれないのさ」

 ユキヒトは言われて思い返す。今まで目に入ってきた男の剣闘士たちにしても、似たような姿ばかりだった。剣や盾も粗末なものであったから、そもそも鎧を買えないのだろうと深く考えてはいなかったが、どうもゲールハルトの口ぶりからはそれとは別の事情があるように思われた。

「……何故、剣闘士の装備はああなんだ?」

「……剣闘士の多くは、昼のコロシアムとは別に、夜には夜で別の仕事がある。女であれば特に、な」

 質問に対する答えは直接的なものではなかったが、十分だった。

「自ら望む者だけだ。確率は低いが、そこで見初められてコロシアムから買い取られる剣闘士もいる」

「……そうか」

 極力押し殺した声で、そう返事をするのがやっとだった。リングでは、アンゲリカが入場し終わり、より大きくなった歓声にこたえているところだった。

 やがて歓声がやむと、再び入場のファンファーレ。そして、アンゲリカが入場したのとは逆の再度にあるゲートが開かれる。

「……トロール!?」

 のっそりと現れたその姿に、ユキヒトは驚きの声をあげる。

 トロールは、極めて厄介な部類に入るモンスターの一種だ。

 容貌は醜く、巨体。力は極めて強く、ヒューマンであれば一発殴られただけでも無事では済まないが、知性はさほど高いとはいえない。

「……三体!?」

 続けて現れた巨体に、ユキヒトはまたしても声をあげる。

 平均的なヒューマンであれば、一体のトロールに対して五人以上の数的優位を保つ。それができない場合は、逃げるのが普通だ。

「あの程度なら、心配ないさ」

 しかしゲールハルトは、こともなげな落ち着いた声でそういっただけだった。

 にわかには信じがたいと思いながらも、ユキヒトに何ができるわけでもない。ゲールハルトの落ち着きを信頼し、まずは様子を見た。

 のっそりと、トロールがアンゲリカに近付いていく。周囲をヒトに囲まれているためか、気が立っているようにも見える。

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオ!」

 雄叫びをあげ、トロールの一体が手に持つ棍棒を振りあげ、突撃する。原始的な武器だが、知能が低い代わりに力の強いモンスターには使い勝手の良いものだろう。

 そして、トロールはモンスター、魔力をもつ生物である。知性が低いとはいえ、己の武器を魔力によって強化する、という技だけは使いこなす。木製の棍棒とはいえ、トロールがそれを振るえば、鋼鉄の鎧すら砕け散らす凶器となる。

 勢いよく振り下ろされた棍棒は、しかし、アンゲリカに当たることはなかった。

 派手な衝突音を残して、トロールの棍棒は、石で出来たリングに叩きつけられ、リングが破壊される。

 次の瞬間、棍棒を持つトロールの右腕が、空を舞った。

「ヴォオオオオオオオオ!?」

 悲鳴のような大声をあげ、トロールが勢いよく血を噴き出させる自らの腕を押さえる。

「……速い」

 それをしたのは、当然のことではあるが、アンゲリカだ。彼女は、棍棒を下がってよけるのではなく、むしろ間合いを詰めながらぎりぎりのところで回避し、トロールの振り下ろされた腕を斬り飛ばし、素早く離脱して見せた。

 その一連の動きが、尋常でないほどに速かった。目で追うのがどうにか、といったレベルだ。

 とはいえ、ほとんどの種族では致命的であるそのダメージも、トロールであればまだ決め手に欠ける。

 トロールは、斬られた腕を拾い上げると、耳障りな声でわめき散らしながら、その切断面を合わせる。

 それは決して、ダメージから来る錯乱によるものではない。現に、トロールが手を離しても、右腕は落ちる事がなかった。それどころか、トロールは確かめるように右手の指を握り、開いて見せた。

 相対するアンゲリカは、驚くでもなく冷静に、リングに転がる棍棒を、トロールから離れた位置へと蹴飛ばした。

 巨体と怪力。それは確かに脅威ではある。しかし、モンスターにとってその特徴は、珍しいものとは到底言えない。トロールを『極めて厄介な』モンスターにしている要因は、その異常な回復力、いっそ再生力といった方が正しいようなそれであった。

 腕を切り離したとしても、見ての通り回復してみせる。殺すには、ちまちまとダメージを与えて失血死させるか、首を落とす、心臓を貫くなど、再生力が追いつかないレベルの損傷を与えるしかない。それにしたところで、巨体と強靭な体を持つトロールにそれだけのダメージを与えるのは、容易な事とは到底言えない。

 トロールも、知性が低いなりに、見くびっていたらしい目の前の小さなヒトが容易ではない敵であることに気づいたらしく、三体がそろって身構える。腕を切り離した二体以外は棍棒を持っているし、素手のトロールにしたところで、殴り飛ばされれば盾で防いだところで相当のダメージを受けるだけの怪力だ。状況は、最悪といってよかった。

 しかし、アンゲリカは焦っていなかった。それどころか、ユキヒトの家や馬車の中では決して見せる事のなかった表情で、にやりと笑って見せた。そして、その「金色の」瞳を大きく開き、敵を獰猛に睨み据えた。

「え?」

 周囲が歓声をあげて恐ろしい喧騒であるにもかかわらず、ユキヒトが思わずこぼした声をゲールハルトは耳ざとく拾って見せた。

「……知らなかったのか。まあ、若いヒューマンなら無理もないな。あれが、闘いのときのダークエルフ種族だ」

 かつて傲慢さの為に全てのヒトと敵対した種族、ダークエルフ。結果として敗れたダークエルフは、しかしながら、ファリオダズマに二つ存在する大陸のうち、ユキヒトが現在住まうユラフルス大陸に当時四つ存在していた大国のうち、二つに深刻なダメージを与えるに至った。結果として二国は合併することで存続を図ることとなり、現在のユラフルス大陸には大国と言えるものは三つになっている。

 単に傲慢なだけではなく、相応の力を持った種族。個体数も含めた種族の総合力としてみれば、竜種にすら対抗しうるとまで言われていた種族だ。

 アンゲリカが、空を仰ぎ、口を大きく開く。それはあたかも、獣が咆哮するかのような姿だった。ただしやはり、声はない。

 獣が走る。そして虐殺が始まった。











 それからの展開は、一方的なものだった。

 一体のトロールは、一瞬に右腕と右足を切り落とされ、何が起こっているのかも分らない顔のまま首を落とされた。二体目は、振りあげた棍棒を振り下ろすより前に、心臓を貫かれた。そして三体目、初めに腕を切り落とされたものは、両手両足を斬られたまま放置され、失血により死んだ。

 熱狂する観衆に手を振って応えると、アンゲリカはリングを後にした。しばし呆然としていたユキヒトだが、ゲールハルトに促され、移動を開始した。

 ゲールハルトは、窓口で賭けの勝ち分を受け取ると、衛兵になにやら身分証を提示し、地下への階段へと向かう。ユキヒトはその後ろについて行った。

「……勘違いしないでほしいのだが、あれがアンゲリカの本質、というわけではない」

 ユキヒトがやや混乱しているのを理解していたのか、ゲールハルトはそう語りかけた。

「剣闘士はある程度観客を楽しませなければならない。自分の試合の賭け金が多くなければ、いつまで経っても自分を買い戻すことなどできはしない。そして、剣闘を楽しみにしている観客は、多かれ少なかれ、残酷で無残な結末を楽しむところがあるのさ」

「……だから、それに合わせて?」

「それもあるだろうな」

「それも?」

「……あとは自分で確かめてくれ」

 階段を降りきったところには、一人の衛兵が立っており、その横には、頑丈そうな格子状の扉があった。扉は二重になっており、二重の扉の先には同じように衛兵が立っている。

 先程と同じようにゲールハルトが身分証を見せると、衛兵は頷いて懐から鍵を取り出し、扉を開錠した。

 扉と扉の間の空間に入ると、入ってきた側の扉が施錠される。それを確認してから、逆側の扉が開錠される。随分と厳重な警備だった。

「ここは?」

「剣闘士たちの控室だ」

「……」

 控室というよりは、雰囲気は明らかに牢屋に近い。剣闘士はやはり奴隷身分なのだと、それを実感させる作りだった。

 慣れているのか、ゲールハルトは黙々と歩いていく。ユキヒトはその後ろをついて歩きながら、陰鬱な気分を隠しきれなかった。

 平和な日本に生まれ、こちらの世界に来てからも、基本的にはある程度教養の高い人間との交流が多かった。奴隷制があることは知っていたが、それをあからさまに感じることもなかった。今は剥き出しの現実に直面させられている。ユキヒトの感性からすれば、苦痛だった。

 逃げ出したくなるような気持と、逃げてはいけないという理性が混在する。ただ今まで見ないで済んでいたというだけで、これは紛れもないこの世界の真実の一面だ。否定したところで、そこにあるもの。この世界に確かに存在するものだ。

 だからこそユキヒトは、その薄暗い牢屋のような場所を、ゲールハルトの後を追って歩く。この世界に生きる一員として、美しくはない現実からも、目を背けてはいけないと思うのだ。

 やがて二人は、一つの扉の前に行きつく。

 頑丈そうな鋼鉄の扉だ。しかしその頑丈さは、侵入者から中で生活する人間を守るためのそれとは異なり、明らかに、中の人間の脱出を妨げる類の極めて重苦しい扉だ。

 ゲールハルトが扉をノックする。がんがん、と鉄をたたく耳障りな音がして、ユキヒトは思わずしかめっ面をした。ゲールハルトは、返事を待たずに扉を開く。

 少し不躾ではないかとは思ったものの、抗議するような筋合いでもなく、ユキヒトはゲールハルトの後に続いて、独房のようなその部屋の中へと入って行った。

 扉から想像ができる通りの、殺風景な部屋だった。かろうじて部屋の隅に椅子が置いてあるだけの、まさに何もない部屋だった。

 その部屋の真ん中に、少女がぽつりと立っていた。

 やや上向きの瞳は、何を見ようとしているのか、明らかに部屋の中のものに焦点はあっていない。遥か彼方の何かを見るように、ぼんやりとした目で、彼女はそこにいた。

 ゲールハルトは部屋に入ると、呆然と立ち尽くすアンゲリカのそばに座る。

「座ってくれ。しばらくは何をしても無駄だ」

「……」

 金色の瞳の彼女は、魂の宿ったヒトであることを感じさせないほどに虚ろな目のままに、ただ彫像のようにそこに立っていた。よく見ればかすかに上下している胸や、僅かに動くことのある指だけが、彼女が生きている事を示す証だ。

 促されるまま、ユキヒトは腰掛ける。椅子もない殺風景な部屋の事、木の床に座るとひやりと冷たかった。

 何かする事があるでもなく、ユキヒトはただ、アンゲリカの顔を見ていた。

 その金色の瞳の奥で、彼女は一体何を考えているのか。あるいは、考えることすらも放棄して、ただただ空白でいるのか。少なくとも、それがトロール三体を瞬く間に葬ったあの戦士と同一の人物であるとは、到底信じられなかった。ユキヒトは、吸い寄せられるようにその金色を眺めていた。

 どれほどの時間が過ぎたか、金色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。そして彼女が次に目を開いたとき、その瞳の色は紫に戻っていた。

 ユキヒト達がそこにいたのを認識していたのかいないのか、彼女はゆっくりと部屋の中を見回すと、困ったように笑った。

 ゲールハルトが会話用のボードを渡すと、アンゲリカはそれに何事かを書き込み、ユキヒトへと見せた。

『ごめんなさい』

 そこに書き込まれた言葉に、ユキヒトは困惑した。

 彼女は一体、何を謝っているのか。どう返事をしていいのか分からずに沈黙していると、アンゲリカは再びボードに書き込みを行なった。

『怖かったでしょう?』

 何を言っているんだと、思わずユキヒトは呟いた。何も考えずに発してしまった言葉に、アンゲリカは疑問を覚えたらしく、少し眉を寄せた。

「怖かったかって? 怖かったよ。残酷だとも思った。ノルンを連れて来なくて本当によかったと思ったし、話も聞かせてやれないと思った。全部本当だ」

 自分が興奮しているのがユキヒトには分かった。考えなしに話してしまって、相手を傷つけるようなことを言ってしまっている。それでも言葉が止まらなかった。

 アンゲリカが、傷ついたというよりはどこか寂しそうに、泣き出しそうに、自嘲するように口元をゆがめる。その表情に、ユキヒトはますます自分が苛立つのを感じた。

「だけどそんなことはどうでもいいんだ。それでもあなたは、優しいヒトだ」

 よく分からないというように、アンゲリカは表情に疑問を浮かべる。

「あなたは優しいヒトだ。……あなたは悪くなんかない。あなたのしたことは恐ろしい事だったけれど、俺はあなたを恐れない」

 その言葉を聞いて、自嘲するようなさびしげな笑みが、少し優しく変わった。

 ユキヒトは宣言するようにそう言って、真っ直ぐにアンゲリカの目を見た。

「……教えてほしい。あなたがどうして戦う事になったのか。どうやって、その戦い方を身につけたのか」

 真摯な目をまっすぐに受けて、アンゲリカはゆっくりと頷いた。










『ダークエルフが戦争に敗れたのは、私が生まれる前の事です。ですから私には、戦争の前のことはよく分かりません』

 アンゲリカは、一文字一文字をゆっくりと書き連ねていく。思い出すことが苦痛となるような記憶は、言葉にすることですら心を刻む。まして、文章に書き起こさなければならない彼女ならば、ただ記憶を相手に伝えることも苦行のような作業であろう。

 それを理解してなお、ユキヒトはそれを止めず、じっと彼女の話を『聞く』。

『私が生まれたときには、ダークエルフは「敗北した種族」でした。今にして思えば、私の生まれた静かな村は、どこかおびえたようなそんな空気の村でした』

 逃げのびたダークエルフ達の小さな集落。彼女が生まれたのはそんな場所だった。

 かつて世界を敵にした傲慢なダークエルフは、自信を砕かれてひそかに生きていた。もっとも、そんなことを知らない子供たちは無邪気に遊びまわっていたのだが。

 静かに隠れた、閉じた世界。しかし、それしか知らない子供たちにとっては、光に満ちた優しい世界だった。

『ですがそれも、そう長くは続きませんでした。いえ、戦争が終わってから私が生まれるまで七十年、隠れ続けていられたのですから、とうとう見つかってしまいました、というのが正しいかも知れませんね』

 かつての大戦争の後、ダークエルフはその種族のみで集落を形成することを禁じられた。少数でありながら国すらも傾けた種族だ。固まって過ごしていれば、いつまた他のヒトたちに牙を剥くか分からない、という事だ。

『もっとも、その日、私たちの集落を襲ったヒト達が、そんな追い詰められた考えを持っていたとは思えませんが』

 当時のアンゲリカには知る由もなかったが、竜種のとりなしで絶滅は免れたものの、他のヒトからダークエルフに向けられる目は、温かいものではありえなかった。

 ダークエルフは奴隷身分。現在も続くそれは、世間一般では当たり前のものとされている価値観だ。

 実のところダークエルフへの差別は、恐れの裏返しであろうとユキヒトは考えている。平等の権利など与えれば、いつの間にやら立場を逆転しかねないほどに強いダークエルフ種族を恐れるあまり、対等などありえないとことさらに差別するのであろう、と。

『あの日、私たちの集落を襲ったのは、盗賊の群れなどではありません。正規の軍隊です』

 悲劇的なのは、一般大衆だけではなく、公的な権力ですらダークエルフへの差別を隠そうとしない事だ。悲しい事ではあるが、それがファリオダズマの一面の真実でもあった。

 文化や思想はユキヒトのいた世界と比べれば未熟。平等や自由といったものは、いまだ一部の知識人の間だけで唱えられる理想に過ぎなかった。

『ダークエルフの奴隷は、高額で取引されるそうです』

 ことさらさらりと書いて見せたその文章だが、ピリオドを打つ時に彼女の手が震えるのをユキヒトは見逃さなかった。

『私は、父と母に逃がされて、森の中に隠れていました。父と母は森の茂みに私を隠して、決して声を出さず、周りに誰もいなくなるまでここから出てこないように言いつけました。……体の小さな私は隠れていられましたが、その後、近くに隠れていた両親は見つかってしまいました。そうなることが分かっていたから、あえて両親は私とは別の場所に隠れたんでしょう』

 連れ去られていく両親に思わず追いすがりたくなった幼い少女は、しかし両親の言葉に従って、声を押し殺して森の茂みに伏せてそれをただ見ていた。

『その時から、私は声を失いました。どうやったら声が出せるのか、私はその時に忘れてしまいました』

 無理もない事だろうとユキヒトは思う。その不条理な恐怖が彼女をどれだけ傷つけたのか、他人には決して分からないことだった。

『夜が来て、朝が来て、そしてまた次の夜が来るまで、私はそこで震えていました。何かを食べたり、飲んだりしたい気持ちは少しもなかったけれど、それでも確実に体は弱ってきて、そのままでは死んでしまう事を私は悟りました』

 意識が朦朧として来て、彼女はとうとうその場から立ち上がり、動き始めたという。

 どの方向に、どれほど歩いたのはか分からない。ただ、夜が明けるころになって、結局彼女は動けなくなった。

『眠りたいという気持ちもありませんでしたが、ただもう体は動きませんでした。意識を失うときに、私はきっと自分が死ぬんだと思いました』

 しかし結果として、彼女は死ななかった。次に目を覚ましたのは、粗末な寝台の上で、結局彼女はとらえられたのだという。そして売られたのが、今の闘技場だ。

『父と母が助けてくれたこの身なのに、私には知恵も力も足りなさすぎた。だから私は、こんなところで死んではいけないんです。生きて、何か意味のある事を為さなければならない。そしてできれば、両親を取り戻さなければならないんです』

 決意を込めて、彼女はそう続けた。ユキヒトは、ギュッと歯を食いしばって、彼女の綴る彼女の人生を、目に焼き付けるようにじっと読み続けていた。

『私は高価な奴隷でしたから、闘いに出される前に訓練を受けました。すぐに死んでは、元が取れないという事のようでした』

 彼女が聡明だったのは、その闘技場の思惑を見抜いたこと、そして自分を鍛え、装備を整えるのに金を使うのを躊躇わなかった事だ。

『最初のうちしばらくは、ほとんど貯金をしませんでした。お金を払って闘技場の戦闘講習を受けたり、武器を買い替えたり。昔傭兵や兵隊をしていた闘技場仲間と親しくなって、戦い方を教えてもらったりもしました』

 彼女の経緯からして、兵隊をしていたものに対して、好意を抱けるはずはない。それでも彼女は、生き延びるために手段を選びはしなかった。

 そうして彼女は、実戦的な戦い方を次々に学んでいった。長い剣は取り回しが難しい。重く大きな盾は動きを鈍くし、体力の消耗を大きくする。数々の試行と訓練の末に身に着いたのは、乱戦に優れ、長時間の戦闘が可能な戦い方と武器の扱いだった。

 十分な実力を身に付けたと思ったときから、彼女は勝ち方に拘りはじめた。どうすれば、観客が熱狂するか。どうすれば、自分の試合が盛り上がるか。大切な自分の体に致命的な傷を負わないように気をつけながら、彼女は試合のたびに周囲を観察した。

 答えを見つけるのはさほどに難しくなかった。土台、剣闘は日ごろのストレスを解消するための見世物だ。であるならば、日常からかけ離れるほどに望ましい。

『楽しい事ではありませんでしたけれど、それでも生きてここまで来れました。あともう少しで、私は私を取り戻すことができる』

 そうやって体と心を傷つけながら、彼女は生きてきた。語るべきことはもうないと、会話用のボードを置いてアンゲリカはため息をつくように長く、一つ息を吐いた。

「……ありがとう。つらい記憶だったと思うけれど」

「……」

 書くのに疲れたのか、ゆるゆると首を左右に振ってアンゲリカは意思表示をした。気にするなと言う事なのだろうとユキヒトは理解した。

「あなたの今の剣を、見せてくれないだろうか」

 一瞬だけ、アンゲリカは躊躇するそぶりを見せ、それから鞘ごとユキヒトに自分の剣を渡した。

 ユキヒトはそれを両手で丁寧に受け取ると、まずは鞘から抜かずにそれを観察した。

 鞘におさめたまま攻撃を受け止めることもあるのか、いくつも傷がある。柄に巻かれた布は、余程使いこまれているのだろう、手垢で真っ黒になっている。

 鞘から剣身を抜き出す。そこには、想像した通りの剣があった。

 手入れが丁寧にされていることは見ただけでよく分かる。しかしその刃は、使い込まれて細かい傷を幾つ負っている。手入れのおかげでまだ使い物になる範囲だが、このままでは遠からず、本職の鍛冶師であろうと修復不能なレベルまで傷んでしまうであろうことは想像に難くなかった。

 短いが幅広の剣だ。いかにも頑丈そうなそれは、切れ味と言うよりは重量を活かして叩き斬るような使い方をする類のものだ。

「……」

 そっと、剣身に触れてみる。数えきれないほどの命を奪った凶器であることは間違いない。しかし、ただそれだけで片付けられない何かがあるのも確かだった。

「……これまで使った剣は、どうした?」

 何故そんな事を聞くのか、というように少し不思議そうな顔をしてから、アンゲリカはボードを手に取った。

『宿舎に保管しています。……壊れてしまったものも多いけれど』

「分かった。依頼は確かに受けた。あなたが使うのにふさわしい剣を、きっと用意する」

 そしてユキヒトは、一つ頷いてそう言った。

 ゲールハルトを促して、控室から出る。重たい扉を閉め、ゆっくりと通路を歩く。

「……何故、彼女の過去を問うたんだ」

 やや咎めるような声で、ゲールハルトは言った。

「必要ならばそちらが語るまで待つと、それは嘘だったのか」

「……魂を込めて剣を打つためには、それなりに相手の事を知らなきゃいけない」

「しかし……」

「そして、まだ足りない」

 きっぱりと言い放つと、ユキヒトはゲールハルトの顔を睨みつけるように見た。

「嘘をついているのはあなただ。あなたと彼女の関係、今こそ本当のことを言ってもらう」

「……」

「彼女の過去を聞いたことはない、か。確かに本当かもな。だけど、知らなかったってわけでもないだろう。彼女の過去を初めて知ったにしては、あなたは落ち着きすぎている」

「……」

「別に、責めるわけじゃない。今のあなたが彼女の味方だってことを疑うわけじゃない。彼女の過去に触れたくなかったのは、あなた自身じゃないのか?」

「鋭いんだな」

「過去に触れたくないのは、こっちも同じでね。なんとなく、同じ匂いがしたんだよ」

 自嘲するように言って、ユキヒトはうつむいた。

「……彼女は強いな。あんなつらい事を、ちゃんと他人に話せるし、今の自分を前に進ませられる」

 それに比べて自分はと、憤るように独り言を呟く。

「剣には、魂を込めないといけない。そのヒトの戦い方や剣に対する扱い、その剣を持って何を思い、何のために戦うのか。それを知らずに、本物の剣は打てない」

 ゲールハルトはなおしばらく沈黙していたが、力を込めて見つめると、やがて諦めたように溜息をついた。

「言葉にするだけなら、大して長い話にもならない。彼女が集落から出て気を失ったのを見つけたのが、私だったというだけのことさ」

「……」

「当時の私はまだ若く、思慮も十分ではなかったし、それなりに正義も信じていた。まさか、自分の所属している部隊が、盗賊だか奴隷商人まがいの事をするとは思っていなかったんだ」

 憔悴したように肩を落とし、ゲールハルトはポツリポツリと語った。

「言い訳がましいどころか言い訳でしかないが、ダークエルフが集合して生きるのは禁止されていたし、そういう意味であの集落は不正だった。解散させるのは法にかなった正当な作戦だった。とはいえ、解散させるだけだと本当に思っていたんだ。まさか国の正当なる軍が、ダークエルフを戦利品の用に売り飛ばすなど、考えてもいなかった。彼女にしたところで、体力を回復させるまで保護して、両親を探すなり施設に預けるものだと信じていたんだ」

 まだ基礎訓練の終わったばかりの理想に燃える新兵だったゲールハルトは、衝撃を受けた。

「それから二年は軍に勤めたが……まあ、良いところではなく悪いところばかりが目に付いた」

 結局軍にはなじめず、やめることになった。ゲールハルトは故郷のファッタに戻り、鎧鍛冶の職人に弟子入りをして次の人生を歩み始めた。

「彼女を見つけたのは、ほんの偶然だった。友人が強引に連れていくものだから仕方なく闘技場に足を運んで、そこで彼女を見つけた。あれからもう随分と長いときはたっていたが、ずっと彼女の事が気になっていた。成長してはいたが、あの時の彼女だと、すぐに気づいたよ」

 罪滅ぼしなんだろうなあと、ゲールハルトは呟く。大きなはずの体は、肩を落とすものだから、随分と小さく見える。

「私にとっての、過ちの象徴なんだ。だから彼女が自分を取り戻すまで、私はもう前に進むこともできない」

 格好の悪い話だよと言って、ゲールハルトははっきりそうと分かる自嘲の笑みを浮かべた。

 ユキヒトには、それを笑う事は出来なかった。











 過去と向き合うのは簡単な事ではない。

 まして一度背を向けて逃げてしまったことに、もう一度向かい合うのは難しい。

 それを超えなければ前に進めないと思っていても、嫌そう思うからこそ、超えるのが難しいそれに挑戦するのは苦しい。

 過去から学び、未来へとすすまなければならない。その通りだ。誰にでもわかる道理だが、誰にでも実践できる事でもない。

 過ぎてしまった事だから。もう同じ事は起こらないから。仕方のない事だったから。

 いくつも器用に言い訳を考えて、ヒトはどうしても嫌な過去から目をそらす。

「……だけどもう、終わりにしなきゃな」

 何通も重なった手紙を前にして、ユキヒトは独り言を言う。

「逃げるのはもう、終わりにしなきゃな」

 もう一度言って、ユキヒトは羽ペンを手に取った。























 過去を超えて未来へ進むヒトへ あなたの過去の闇をあなたの未来の光が照らしますように 行人







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