東の空が明るくなるよりも早く、城壁の外からはすでに街の人の声が響き始めていた。喧騒を耳にしつつ、俺は周囲の気配を探る。
……うん、特に異常はない。周りであり得ないほどの動物がワンワン、ニャーニャー、ヒヒーンと吼え立てているが、それは気にしなくてもいいだろう。
近くの棟には、人のいるような様子はなかった。おそらくここは兵士たちの幕舎、それも将軍クラスの人間の住居なのだろう。居並ぶ家の数々は、昨日侵入した館ほどではないにしても、今までに見た村や町のものとは一線を画している。
壁や屋根にも穴や腐敗など見当たらない。修繕がなされているというより、元から腐りにくく、頑丈なものを使用しているのだろう。薄く、脆い木で家を作っていた季衣の村のことを少し思い出した。
カタッと館の内部から音が聞こえてくる。どうやら二人も起きたようだ。扉が開かれる。賈駆の着ている白い寝間着が人々の声に後れながらも登り始めた朝日に照らしだされ、勝気な吊りあがった瞳と左右に分かれた緑の髪が揺れる。
「あんたも入ってきなさい。これからのことを説明するから」
尖った声と、横に逸らされた視線。可愛らしい顔が、道端で死んでいるヒキガエルの死体でも見たかのように歪められている。
「…………分かった」
起きたばかりなのに、どうしてああもすぐに不機嫌そうな声と顔ができるのだろうか。気持ちは理解できなくもないが、軍師ならば押し隠してほしい。無闇に敵を増やすことになるぞ。
扉をくぐり、俺は館の中にお邪魔することにした。
机を挟み、賈駆と向き合う。董卓の姿が見えないが、まだ着替えているのかもしれない。賈駆は寝巻の上に昨日と同じ羽織り物を着ている。ムス―とした吊り眼に睨まれながら、俺は賈駆が話しだすのを待っていた。
「昨夜に異常は?」
「特になかった。今も近くに人の気配はない。今のところ襲ってくる気はないみたいだな」
彼女たちだけであったとしても彼らは襲ってくることはなかっただろう。完全に集中が切れる頃を狙ってくるはずだ。小さな威嚇を何度も繰り返し疲労困憊した後、弱りきったウサギでも狩るようにゆったりと攫いにくるに違いない。
昼の間も護衛についていた方がいいだろう。日の高いうちの暗殺など、数え切れないほど行われている。この時代の護衛の基本は知らないが、おそらく今まで見てきたものと違いはないと思う。
だが……。
「昼間の護衛はいらないわ」
こちらから切り出す前にばっさりと切り捨てられてしまった。
「どういうことだ? 信用できる味方は残ってないんだろう?」
「あんただって十分信用おけないんだけどね。護衛の兵士くらいるの」
結構な言い方だな。それに護衛がいるならば何故昨日は襲われていたのか? そんな疑問が浮かんだが、問いかける前に董卓が「はい」と両手で盆を抱えながら現れた。
「衛宮さんもどうぞ」
「あ、あぁ」
温かい湯気を揺らめかせる茶を受け取る。手に余るように感じるのは、器が彼女たちが普段使われるものだからだろう。鼻孔を通り抜けるような爽やかな香りが届く。少しぼんやりとしていた頭がはっきりと目覚めた。口の中に含むと心地よく眠気を払い、温かな液体が体をめぐるのを感じた。
「………………」
ラベンダー色の董卓の瞳が、不安そうに俺に向けられていた。視線を向けると、「へぅ」と赤く俯いてしまい、柔らかなすみれの髪が前に垂れる。雪原の肌には薄く赤が差していたような……。
とそこまで見た所でようやく気付いた。
「おいしいよ」
「あ……ありがとうございます」
淹れてもらったのは俺なのだから、この場合礼を言うのは俺の方なのだろうが、可愛らしく微笑む姿に見惚れてしまった。けれど俺の視線に気づき、慌てて盆で顔を隠してしまう。
「ちょっと! 今大事な話してるのに、何、月に見惚れてるのよ!」
「い、いや……その。董卓が可愛かったから……」
「へぅ!」
まずい、また俯いてしまったっ。このままでは!
視線を戻すと、そこには右手を高く掲げ、投球モーションに入った賈駆の姿が。
「こんの、変態がーーー!!!」
ガツン!!!
星だ! 今星が見えたスター!
賈駆の放った全力投球ザ湯呑みは、風を切るかの如く飛翔し、俺の脳天を直撃していた。
「だ、大丈夫ですか?」
「へ、平気だ」
気が動転していたせいで、咄嗟に避けることが出来なかった。戦場であったならそのまま死に直結してしまうだろう。
ふん! と鼻を鳴らす賈駆と俺の視線を受けると、慌てて眼を逸らしてしまう董卓。このままではいつまでたっても話が進みそうにない。俺の方からきっかけを作らなければ。
「で、護衛がいらないっていうのはどういうことだ? 敵に襲われたのは昨日だっていうのに」
「ボクだって宦官の奴らが暗殺者を仕向けてくることぐらい予想付いてたよ。みんなが虎牢関に行ったらボクと月の守りが甘くなるのは当然だからね。だからボクも護衛の兵士を選ぶ時は、慎重にそして不規則に選ぶようにしてたの」
「……? どういうことだ?」
「だぁかぁら! 護衛の兵士を完全に決めちゃうと、宦官が工作を仕掛けてくるの! 恋たちが残して行ってくれた兵士は皆腕利きなんだけど、絶対に裏切らない、なんて保証はないからね。だから誰が護衛になるのかは相手にも予想がつかないようにしてるの」
あぁ、確かに暗殺や侵入をする時は内部の手引きが必要だ。守りが堅牢であればある程、その重要性は高まってくる。誰を、どう転ばすかという問題はあるが、崩れるところは絶対にある。見極めを間違えなければ、攻勢に出る方が圧倒的に優位だ。
賈駆がいう誰が護衛になるかは漏れないようにしているというのはそのためだろう。護衛の人間を限定してしまえば、彼らが狙われる危険性が非常に高くなる。それこそ中東のテロリストがよくやるようにSPの家族を人質に取るなどということもやりかねない。要求を断りきれず、補佐官がテロリストの手引きをしたなどということもあった。けれど
「それでも絶対安全とは言えないだろ。選んだ中に紛れ込んでたら……」
「分かってるよ、それくらい。だからって誰も護衛をつけないわけにもいかないでしょ。裏切られても大丈夫なように配置したり、相手を選ぶのがボクの役目なの!」
「でもそれじゃ……!」
「いいから黙ってあんたは休んでなさい! あんただって夜から寝てないんでしょ!」
「俺のことは心配する必要は」
「衛宮さん。ここは詠ちゃんの言うとおりにしてくれませんか?」
熱くなりかけていた俺と賈駆に、董卓が割り込んできた。
「私、嬉しいんです」
「えっと、何が?」「何がなの? 月」
俺と賈駆の疑問符が重なる。
「詠ちゃん最近いつも疲れてて、私のことを守るためにほとんど眠れていなかったんです。だけど昨日は詠ちゃん、本当に気持ちよさそうに眠ってて」
董卓の言葉に合わせるかのように賈駆の頬が紅潮していく。顔をリンゴのように赤く染め上げながら立ち上がった。
「それは……その、昨日はいろいろあったから疲れてたの! 別にこいつを信用したわけじゃ」
「でもいつもの詠ちゃんなら多分、疲れてても休まなかったと思うの。……私のせいで」
憂いを浮かべる董卓の声が熱くなりかけていた賈駆を冷やしていく。吊り上っていた眼が徐々に落ち着きを取り戻していった。
「詠ちゃんも、自分のことは心配する必要はないから、っていつも私に言ってくれて……。でもやっぱり詠ちゃん、無理してたんです。護衛の人の選抜とか、宦官さん達の情報工作の処理とか。他にも詠ちゃんにしか決断できないことがたくさんあって、ほとんど眠れてなかったはずです。ご飯も全然食べてくれなくて。だけど昨日は久しぶりにぐっすり眠ってる詠ちゃんが見れて。だから嬉しかったんです」
董卓が嬉しいって言ったのはそう言うことか。
確かに今までの賈駆の言葉や行動を振り返ると、それぐらいの無茶はしていてもおかしくはない。しかし彼女たちにも護衛の兵がいるということは予想していたが、昨日の惨状を見る限り機能しているとも思えない。兵を配置するだけでは何の意味もないということは二人も分かっているだろう。まとめる人間が必要なはずだ。
「なら、護衛の指揮くらいは俺がやっておこうか? 俺がやれば賈駆の負担は減るだろうし、基本的なやり方ぐらいは分かってるからさ」
「……それ、ボクだと信用できないって意味?」
賈駆のジト眼が俺に向かってくる。背筋が凍るような冷たさが襲ってきた。
「い、いやそういうことじゃないぞ。ただ俺でもそれぐらいのことはできるから……」
「それで衛宮さんはいつ休むんですか?」
「え?」
董卓が俺の言葉を遮るように割り込んできた。唐突過ぎる質問に思わず言葉に詰まる。
「詠ちゃんも、フラフラになるくらいまで無理してくれて。だから昨日まで私たち襲われなかったんです。でも……」
言葉足らずな感じはあるが、董卓の言いたいことは分かる。洛陽を軍が出発したのが三日前。その後彼女たちは自分たちだけで身を守らなければという思いに囚われていたはずだ。護衛の兵はいても絶対の信頼は置けない。だからこそ選抜や、点呼などには必要以上の気を張らなければならなかったはずだ。
三日ぐらいなら寝ないでいても問題はないだろうが、二人はまだ子供だ。一日寝ないだけでも大きな負荷がかかるはずだ。
昨日、気が立っているように感じたのはそういう理由もあるのだろうか?
「俺なら大丈夫。心配する必要はない」
「ボクは心配なんかしてないよ!」
賈駆が叫ぶように否定してきた。それを見て董卓がフフと小さく笑う。キッと強い視線を董卓に向けるが、その笑みが深くなるだけだった。
「私が心配なんです。このままじゃ衛宮さんまで倒れちゃうんじゃないかって。衛宮さんが男の人だっていうのは分かっています。それでも休んで欲しいんです。衛宮さんのことを利用してるみたいで悪いんですけど、私も詠ちゃんも、今信用できる人はいないから」
出会ってすぐの俺にそこまで話さなければならないほど、彼女たちは追い込まれているのか。逆にいえば、ここさえ乗り切れば、彼女たちにも展望はあるということだ。そうでなければわざわざ大軍を洛陽から離す理由はない。
二人の気持ちも分からなくもないが、二、三日寝なくても集中力や体力に支障は出ない。別に休む必要はないのだが。
「分かった。昼の間は休ませてもらうことにする」
ここは二人に賛同しておくことにした。董卓が花が咲いたような笑顔を浮かべる。賈駆は何やら不満げだったが、フンと鼻を鳴らすと眼を逸らしてしまった。そこまで嫌われるようなことしたか、俺? むずがゆい冷気のようなものが漂ってきている。
「一応、護衛の確認と街の様子だけ見させてもらっていいか? でないと俺も安心できないし、街の全体像も掴んでおきたいからな」
「……それくらいなら」
ムスッとした表情のまま、賈駆が棚の引き出しをあける。取り出され、投げ渡されたのは木片だった。俺には読めないが墨で文字のようなものが刻まれている。
「通行手形。これを見せればいちいち執金吾や都尉に捕まることもないから」
そんなものがあったのか。というか必要だったのか。待てよ、じゃあさっきまで俺はいつ捕まってもおかしくない状態だったのか?
いやな汗が背筋を落ちるのを感じた。今まで好き勝手に旅してきたけど、もしかして結構危険なことだったんじゃないだろうか。
「あ、ありがとう」
「? どうしたの? 声が震えてるわよ?」
なんでもない、と答えて手形を赤套の内側に入れる。絶対に失くせないな、これは。
「じゃあ、仕度が終わるまで外で待ってて」
賈駆がしっしっと手で追い払うように命じてきた。犬猫でも扱うようなやり方にムカッときたが、黙って席を立つ。言い負けるのが目に見えていたからだ。そのまま扉に手をかけようとした時、
「あ、あの……」
振り返ると、董卓が戸惑ったように目線を逸らす。赤く染まった顔は、でもしっかり俺に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「あぁ」
最後のほうは立ち消えそうなほど小さな声だったが、頷いて返事をすると董卓は柔らかな微笑みを浮かべた。心が温かくなるような笑顔に、扉に掛けた手が止まる。お互いに見つめあい、硬直したまま時間が過ぎる。
「ちょっと、早く出ていってよね!」
「わ、わかった!」
賈駆に追い立てられるように館から追い出された俺の胸には、それでも先ほど見た董卓の笑顔が焼き付いて残っていた。
「これは……すごいな」
「ふふん。そんなにボクの手配した護衛の配置が良かった?」
「いやそれじゃなくて……」
確かに賈駆の命じた配置は理にかなったものであった。廊下の曲がり角や部屋の扉の前に二人ずつ、しかも一組が別の二組を監視しあうことのできる位置に配置し、不穏な動きを見せることができないようになっていた。巡回警備や定時報告の間隔もほぼ完ぺきなものだと言っていい。異常があれば鐘を鳴らすようになっている。それで暗殺者の侵入を察することができるはずだ。
ここまで警備をやっていて何故昨日攻め込まれてしまったのか、聞いてみたいような気もしたが、聞いたら多分賈駆は怒る。いや間違いなく怒りだす。反省はしていても他人に言われると腹が立つだろうし、その怒りの矛先を俺に向けることに何のためらいもないはずだ。
考えられる方法としては……単独では不可能だ。どこか一つを破る間に悟られてしまう。少なくとも六人。昨日見た暗殺者の数と同じくらいの人数が必要だ。さらに内応者も。六人が館に忍び込むことができ、そして内応者もいるという状況でなければ、この警備を破ることはできない。もちろん、百人以上で正面から襲いかかるというなら話は別だが。
今の賈駆を見る限り、そんな隙を与えるようなことはないだろう。眼に宿っている力が昨日とは比べ物にならない。
それよりも俺が驚いたことは、
「よくそんな量の仕事をこなせるな」
賈駆の机の前に山のように置かれた竹簡を目の当たりにしたからだ。
「これ? 一応、洛陽は都だからね。確認しなくちゃいけないことが多いの。それに……」
「それに?」
「……これ以上はあんたに聞かせられる話じゃないわ」
つまり、信頼できるものがいないから自分たちで処理しなければならないことが多いということだろう。どこから綻びが生まれるか分からない。そういう状況であればたやすく他人の手に裁量を委ねるなどということはできないはずだ。しかもおそらく洛陽に残っている役人の多くは宦官と何らかのつながりがあるに違いない。わざと情報をあげてこない、などということも考えられるのだ。彼女たちが領地から連れてきた兵にも限りがあるだろうし、文官なども数えるほどしかいないだろう。
そんなことを考えている俺に気がついたのか、賈駆は多少眼を吊り上げると「あんたに心配されるようなことじゃないわ」と釘をさしてきた。
「あんたがどうにかできる問題でもないでしょう。余計なことは考えないで、今は自分がしなくちゃいけないことを考えなさい」
「……分かった」
答えてはみたが、何もすることができない自分が歯がゆく思う。こんな時、戦うことしかできない人間は無力なのだということが身に詰まされるようだった。
「勘違いしないでよ」
眼を伏せ、床にまで積みこまれていた竹簡を見ていた俺に賈駆が声をかけてきた。
「あんたがしなくちゃいけないことはボク達を守ることだけ。替えの効くここと違って、あの館は恋から任された大切な場所でこの街でたった一箇所安心できる場所なの。そこを守らせてるんだから自分にできないことで気を逸らすのはやめて。ボク達が安心できない」
要するに、出来もしないことをいちいち考えるな、鬱陶しい、ということか。
身を守るというだけなら、ここにいれば安全は確保することができる。ただ、いつ襲われるかも知れないと二人は心休まる時がないだろう。昨夜の襲撃も、そんな緊張の途切れた瞬間をねらってきたに違いない。出なければ、内応の疑いのあるものを護衛になど用いなかっただろうし、敵も侵入できなかったはずだ。
だからあの館は二人が何の心配もなく休める場所にしなければならない。その手配をする俺に余計な気を使うなというのも分かるが。
出来ないから、と言って諦めるというのは嫌だ。どこまでが出来ないことかそれはやりもしない内から決めていいものじゃない。けれど今はそんな時期ではないということも分かっていた。
俺が賈駆の言葉を理解したのを察したのか、それ以上の言葉はなく、賈駆は自分の仕事に取り掛かり始めた。俺も言葉を掛けずに部屋から出ていく。
安心できる場所を任されている。そこを守るために俺がいるんだ。
そんな気持ちが俺の中で生まれていた。
「ふぅ」
何冊目かの竹簡を読み終わった後、賈駆は胸の奥に溜まっていた重い空気を一息に吐き出した。
やはり、連合軍は汜水関、虎牢関に兵力を集中させているようだ。というより大部隊が通れるような道がほかにないということでもある。数百人程度の部隊であれば、関を無視して直接洛陽に向かうことはできるが、その程度であれば、洛陽を守る執金吾だけで打ち払えるものだし、彼らも董卓たちではなく、洛陽を襲うものを野放しにはしないだろう。
敵を内にも外にも抱える。それは戦においてあまり好ましい状態ではないが、常に完ぺきな状態で戦えるなどというのはあり得ない。状況に応じて手を打つのも軍師の務めだ。
まずは西の函谷関だが、涼州や雍州から馬騰や韓遂が出てくるといったことは考えなくてもいいだろう。西の匈奴を討つときに協力し合った仲間、という意識が強いだろうし、元々洛陽より西側は朝廷からの支配に抵抗してきている。袁紹など名門と呼ばれるものたちの命令に従うなどということは考えられない。
そして北と南だが、いまさら南陽や河内からここを目指す勢力があるとは思えない。幷州では刺史が殺され反乱が飛び火しているし、南の劉表が気がかりと言えば気がかりだが、今は隣に接する孫堅との争いでそれどころではないはずだ。孫堅自身も今回の戦いには自ら参加せず、娘と部下を向かわせたという。
東に関して言えば、それほど心配していない。いくら三十万を超える軍勢が集まったとはいえ、所詮欲に駆られた獣の集団であることに変わりはない。数ではやや劣るものの、虎牢関、汜水関の砦はたやすく落とせるものではない。さらに恋、霞、華雄がいるのだ。兵糧に関してもねねに任せておけば問題ない。兵站が襲われることを心配しなくてはいけないのは、むしろ連合軍のほうだろう。
一つ心配なのは、華雄が敵の挑発に乗せられないか、ということだけだが……。まさか華雄もそんなにたやすく激昂したりはしないだろう。……多分。
やはり問題は洛陽(こちら側)だった。ここを守る執金吾の連中がどうにも信用できない。彼らが都を襲うとは思えないが、二万を超える兵が帝を担ぎ出し内乱を起こせばどうなるか目に見えている。何進が丁原を呼び寄せたことが仇になっていた。
丁原が何を考えているのか。洛陽の平穏を守るとは言っていたが、それ以上のことは何も話さなかった。それすらも本心かどうか分からない。ただ近くに賊が来た時などは追い散らしている。
信用できないと言えば、あの衛宮とかいう男も同じだった。おそらく南の人間だろうが、あまり聞かない名前だった。交州あたりの名かも知れない。
会ったばかりの男に何故護衛など頼んでしまったのか。昨日は襲撃された後で気が動転していたとはいえ、どうにかしていたとしか思えない。あの男の、どこか朴念仁じみた表情もこちらを信用させる仮面かも知れないというのに。
こうして考えてみると信じたことが間違っていたとしか思えないほど怪しい男だ。賈駆たちが襲われたときにちょうど良く助けに来るなど出来すぎている。月があぁ言わなければ放り出しているところだ。月の人を疑ったりしないところは好きだけど、今みたいな状況だと敵に利用されやすい。だから自分がしっかりしていなければと、賈駆は心を決めていた。それなのに昨日は……。
やはり疲れていたのだろうか? 点呼が遅れていることに気づかなかった。そして護衛でありながら敵の手引きをしたと思われる兵士は、今日妻の死体の上で自害していたという報告を受けている。
ぎりっと唇を噛み締める。能力もあり、何より清廉な人柄な兵士だったのが、それを頼ってしまい指揮官に似たような真似をさせてしまったことがいけなかった。自分がやっていれば……。そんな後悔が胸を襲う。
いつも通りの自分なら彼の変化にも気づけたはずだ。そして彼と彼の奥さんを救うことも。
顔を叩いて気合いを入れなおす。今賈駆が気にしなければならないことはそんなことではない。自分たちの身の確保、それと……。
虎牢関、そして汜水関から届いている報告書に、賈駆は再び眼を戻し始めた。