神凪一族。それは始祖に炎の契約者(コントラクター)を持つ、歴史ある炎術師の一族である。
神凪一族。それは誇り高き精霊との共生者達の一族である。
しかし、そんな彼らの住む神凪邸は現在、血と悲鳴が飛び交う戦場と化していた。優希の目には、そこに誇りなどという物が存在しているようには、とても見えなかった。
「……ふざけるな」
けれど、そんなことは取り合えずどうでもいい。優希は顔を強張らせながら、俯きがちに呟いた。
状況を考えれば、それは致命的な隙になったが、今の優希にはそんなことを気にしている余裕は無かった。
優希の拳が、ぎゅっと強く握られた。
「ざけんなっ。ふざけんな」
今の優希の心の、大部分を染めているその感情の名は怒りだった。その湧き上がる強い感情によってかみ締めた歯が、嫌な音を立てる。
目の前で人が次々と死んでいく。血が噴出し、腕が飛び、切り刻まれ、妖魔によって貪り食われる。
生理的嫌悪を呼び起こすような光景が、まるでそれこそが当然であると言うように、優希の眼前に広がっていた。
人が死ぬ所を見るのが、初めてだという訳では無かった。ここまで凄惨ではなかったが、これに似たような光景はつい最近にも見ていた。それは優希の住んでいた、宿神家での光景だった。
ふと、優希は怒りに狂いそうになる思考の中で、その時の事を思い出す。
――思い出されるのは、血と悲鳴と、絶望と諦観の入り混じった表情。家族ではない、同居者である彼らが浮かべていた、あの醜い表情。
優希はそこに、守るべき価値は無いと感じた。だから、周りの人間を見捨てて逃げる事にした。生き残る為に、他を見捨てて逃げる事にした。
それが間違った判断だったとは、今でも優希は思わない。優希は別に聖人君子ではないし、悪人とまではいかなくても、性格は良くないほうだと自覚していた。
だからその時も、見捨てた者に対して幾ばくかの罪悪感こそ抱いたが、その感情も自分の行動を論理で武装する事によって、正当化する事が出来たのだ。
だけど、やはり優希も人間である。情というものは存在した。それでも彼らを見放せたのは、結局の所、優希にとって見捨てた彼らが大切な者でなかったからだ。
彼らは優希に、愛情を与えてくれず、愛情を受け取ってもくれなかった。彼らと優希の関係は「家族」では決して無かった。
正直に言えば、自分は彼らを憎んでいたのかもしれない。優希はそう思った。
いや、きっと憎んでいたのだろう。母が死んだあと、養うことこそしたものも、愛情をくれなかった彼らを、優希は憎んでいたのだ。
それは、家族でないどころか、きっと農家と家畜のような関係だった。
そこまで考えて、再び優希の心に大きな怒りが湧き上がった。
「ふざけんな」
孤独な生活。そんな中で、優希がなんとか一般的な人としての良識を持っているのは、ひとえに母親のお陰だった。
正確に言うなら、母親の死後も色褪せることのなかった、母と過ごした記憶のお陰だった。
たとえマザコンといわれても構わない。それ程に優希は母親を愛していた。
それなのに。
「ざけんな!」
騒がしい、地獄絵図と化した広間。立ち竦む優希の前には、年頃の娘が持つには少々おかしな、少年向けの可愛らしいデザインの鞄が、ボロボロの、無残な姿で転がっていた。
それは、母親が生前に作ってくれたものだった。そしてこれが、優希を憤怒させている原因だった。
優希は思い出す。
――当時の優希は「こんなに凄いものを作れるなんて、お母さんはなんて凄いんだろう」と鞄を作ってくれた母親を、ひたすらに尊敬した物だった。それは優希の中に残る、大切な記憶だった。
そして、その鞄はそんな、たくさんの思い出がある、大切な鞄だった。
――それが、壊された。
思い出の詰まった鞄は、さしたる理由も無く壊された。
優希の顔は、先程から歪んでいる。あえて自分を誤魔化さずに言うのなら、優希の心には怒りだけではなく、悲しみも同じくらい存在したのだ。優希の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
しかし、泣いて終わる訳にはいかなかった。そんな事は許されなかった。
(右の頬を殴られたのなら、左の頬を殴り返せ)
大人しく殴られてやるなんて冗談じゃない。優希はキリスト教に興味など無い。罪に与えるのは温情では無く罰なのだ。
だから、優希の心に宿る悲しみは、静かに怒りへと変換されていく。
それは自分の心を守る為の手段だったのかもしれないし、そうじゃないのかも知れない。そんなことは、今の優希には意味の無いことだ。だって、優希の心は叫んでいる。
(許せない。いや、許すことなどできる訳がない!)
そんな状態でも、理性は言っていた。「だったらどうする? このままだと死んでしまうぞ」と。
後ろには重悟たちが集まって、結界の構築をしている。このまま彼らの元へと歩むのならば、優希の生存確率は大幅に上がるのだろう。
(だけど、それがなんなのさ)
優希は前へと進んだ。鋭い眼差しで前を睨み、戦場への一歩を踏み出した。
死んでやるつもりなどない。
そんな危険性など、今の優希は考えない。
だから、優希はありったけの思いを込めて叫んだ。
「――フルボッコにしてやんよっ!」
戦場に、悪鬼が降臨した。
綾乃は悔しさの余り顔を歪ませていた。次代の宗主として、そして父親の信頼に応える為に勇んで飛び込んだ戦場にて、綾乃が出来ることは精々がアシスト。言い方を悪くすれば「猫の手」程の活躍しか出来ていなかった。
その事実が、これまで才能に恵まれすぎていた綾乃のプライドを傷つけていたのだ。
しかし、これは別に「綾乃が弱い」のが理由では無かった。力量で言えば宗主や数麻には及ばないものも、綾乃は既に一流などという段階は軽く超えていた。
問題は、綾乃の戦闘スタイルにあったのだ。
炎雷覇は刀剣状の神器である。ならば当然、その最も効率の良い扱いは敵を「斬る」ことになる。と言う訳で、当然それを扱う綾乃の戦闘スタイルは接近戦となっていたのだが。
「降りて来い! この卑怯者ぉっ!」
流也に憑いた妖魔は、空中戦が可能だという、自らのアドバンテージを手放そうとはしなかったのだ。その大妖は、中に浮いたままその無尽蔵ともいえる再生力と、驚異的な速さを生かして、綾乃と和麻の二人を休み無く攻撃していた。
その結果、人として当然、空を飛ぶ手段を持たない綾乃は、本来の力を発揮できないでいたのだった。
「このぉっ!」
だが、綾乃も列記とした戦士である。何もせず、手をこまねいていた訳ではなかった。
時折自らを目指して飛んでくる風の刃は、全て防ぎ、その後に本体から分かれて攻撃してきた流也の右腕は、燃やし尽くしてやった。
無謀にも自分達の邪魔をしてくる雑魚妖魔や、風牙衆の人間はもう、何度も消滅させているし、流也に対しては極大のプラズマと化した、炎の塊を幾度と無く放っていた。……その結果は、殆んどが避けられてしまうという物だったが。
だが、それでも和麻からしたら、綾乃の存在は予想以上に役に立っていたのだ。少なくても、綾乃が存在することで和麻には随分と余裕が出来ていた。ちなみに和麻自身、流也の相手だけではなく、相当な数の敵を斬滅させていた。
しかし、それでも圧倒的に状況は不利だった。どんなに強大な力を有していても、人間の体力には限界がある。そして、それは二人にも例外なく訪れようとしていた。
「和麻さん、まだいける!?」
『悪いが、このままだとあと二十分持たねえ、といった所だな』
「……そっか。なんか方法あります?」
呼霊法と呼ばれる、風を使った和麻の声が、綾乃に届けられる。
和麻から返ってきた言葉は、綾乃にとって理想的なものとは言えなかったが、綾乃にしても和麻が十分以上に奮戦しているのは分かるので、その口から罵りの言葉が出ることは勿論無かった。
優希の意図しない所で、和麻と綾乃。二人の関係は原作よりも良好な地点から始まっていた。
『時間が足りねぇな。決め技出す時間が作れねぇ。決め技出そうとしたら、向こうに先に殺られるしな』
「……責めてあいつが地面に降りてくれれば、私が一撃入れられるのに」
『確かに、お前がフォワードに専念してくれれば、俺が勝負をつけられるんだがな。まあ、無いものねだりはしてもしょうが……』
そこまで言いかけて、和麻の言葉が止まった。その表情も不敵な笑みを浮かべている。それを見た綾乃は、思わず和麻に問いかけた。
「和麻さん? どうし『やみくもな援護は止めて、力を蓄えておけ。どうやら援軍が来たようだぞ』」
綾乃の言葉は和麻に遮られる。訝しげに思いながらも襲ってくる雑魚妖魔を燃やし、綾乃は和麻の顔の示す方を見た。
意識は大妖に向けているが、それでも綾乃には分かった。
――そこにいたのは鬼だったのだ。
そこに数分前までの面影は、あまりない。
手入れもされていないのに艶やかだった長い黒髪は、所々血に塗れカピカピになっていた。それ以前の問題として、般若のような表情で髪を振り乱しながら歩くその姿は、見るものに凄絶な恐怖心を植えつける物となっていた。
般若の正体は優希だった。
(……ぶっころす)
切れていた。優希はこれ以上無いほどに、ぶち切れていた。そしてその怒りのままに、自分の敵を全て滅ぼしてやろうと行動していたのだ。
大事な事なので繰り返し言うが、今の優希は切れていた。
現状を気分的に表すなら、史上最強。端的に言うならそれは、最高にハイってやつである。
そんな状態の優希に、無謀にも向かっていく影があった。鮫に似た姿をした妖魔だった。
その妖魔は、愚かにも怒れる優希を喰らおうと、口を大きく広げて優希に齧り付こうとして。
「邪魔!」
優希の一喝と共に指から放たれた、三枚の破魔符によって、光り輝いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」
瞬間。断末魔の叫びを上げて妖魔は弾け飛ぶ。
だが、その光景を作り出した優希は、そんな事には欠片も意識を向けずに前へと進んだ。
そして、その手には新たな破魔符が握られていた。
「死ねぇ!」
そう叫びながら優希に向かい、風牙衆の男が一人飛び掛ってきた。だが、優希は男になど視線を向けない。
優希の手から破魔符が二枚飛ぶ。一枚は男が放った、されど男とは逆方向から飛んでくる風の刃を消滅させ、もう一枚は直接男に張り付き、軽い衝撃音と共に男の意識を刈り取った。
優希は再び、新たな符を握っていた。
「――なんていうか、凄い」
その光景を見た綾乃は呟いた。戦力的には自分の方が、彼女の何倍も強いと思う。しかし今の優希には、綾乃ですらちょっぴり引いてしまう程の、ある種の迫力があったのだ。
そんな風に、綾乃が場を静観している間にも、敵の被害は優希によって着実に増えていた。
優希の戦闘スタイルは簡単な物だ。今までに作り続け、溜め込んだ破魔符によって目に映る障害を排除する。それだけである。
しかし、単純なだけにその攻撃は早く、戸惑いが無い。
一人。一体。また一人。優希はひたすらに目の前の敵を殲滅していく。
しかしその途中で優希は少し冷静になった。
敵の数が多すぎるのだ。このままだと破魔符のストックが無くなってしまう。盛大に使われた破魔符は、元はキリ良く百枚あったにも関わらず、今はその残りを、半分以下の四十六枚にまで減らしていた。
風牙衆は「風の聖痕」では50人前後の集団だという設定だったはずだが、どう見積もっても和麻と綾乃の手によって、それくらいの数は倒されている筈だ。
それなのに、戦場にはまだ多くの敵が存在する。さてさて、傭兵でも雇ったのだろうか?
(まあいいか)
そこまで考えて、優希は思考を放棄した。考えてもしょうがないことだ。答えが分かったとしても、この状況は変わらない。
(けど、どうしようかな?)
怒りをぶつける対象が多い事は喜ばしい事かもしれないが、それにしてもいかんせん、数が多すぎる。
そこまで考えた所で、優希は格好の獲物を見つけた。それは、敵の切り札にして最強の存在だった。
「風巻流也……。あんたを殺せば、風牙衆はバッドエンド確定だよね」
こいつを滅ぼせば自分の勝利だ。優希は若干短絡的になっている思考でそう結論づけると、口を大きく吊り上げてにたりと笑った。
そして、拍手で小気味良い音を打ち鳴らすと、精神を深く集中させ呪文をつむぎ始めた。
「カケマクモカシコキ、イザナギノオオカミ」
優希の周りを囲むように、符が浮かびあがる。優希は目を瞑った。
残念ながら、優希単体では自身の最強の術を使った所で、流也を倒す事など出来ないだろう。
雑魚妖魔を打ち払うだけでも、三枚から四枚の符が必要なのだ。それなのに、和麻たちが冷や汗を流すほどの妖魔を、彼らと比べれば格段に戦闘力に欠ける優希が倒す事など、不可能だ。
しかし今、流也が相手をしているのは「風の聖痕」では自らを打ち滅ぼした相手である。和麻たちは、能力的には十分勝利可能な二人組みなのだ。それなのに何故、彼らは責めあぐねているのか?
「チクシノヒムカノタチバナノ、オドノアワギハラニミソギタマイシトキニ」
呪文が進むと共に、浮かび上がった符はゆっくりと優希から離れ、円陣を作り上げた。円陣は白く発光し形を変え、魔法陣を描いていく。
「ナリマセルハラエドノオオカミ」
それは、綾乃が参戦できていない事。流也が空中にいる事が原因なのだ。
「モロモロノマガゴト、ツミケガレヲアランヲバ」
それが分かれば、流也を滅ぼすのは簡単な話である。つまり、……届かぬなら、落とせば良いのだホトドギス。
「ハライタマエ、キヨメタマエトモウスコトヲー 」
魔法陣の中心となる優希の頭上に、エネルギーが集まっていく。優希は歯を食いしばった。
優希の身体からごっそりと気が抜け落ちていった。
(ぐっ、ちょっとキツイ。かも)
凄まじい疲労感が優希の意識を奪おうと襲い掛かってくるのだ。だが、ここで気絶するわけには行かない。
なぜならば。
なぜならばっ。
(――まだこの怒りは晴らされていないのだから!)
「キコシメセト! カシコミ! カシコミモウス!!!」
優希の声が一段張りあがり、呪文を紡ぎ終える。ようやく訪れた呪文の終わりと共に、優希の術は完成した。
(あー、やっぱ、これきついかもー)
意識が朦朧とする。それなのに頭痛がする。
痛い。眠い。
それらを必死に堪えて、優希は標的を探す。視界は霞んでいた。完成した術を維持するだけで、かなりの負担が優希を襲っている。
だが、そんな視界の中で優希はようやく風巻流也を見つけ、そして顔をゆがめて笑った。
(み・つ・け・た!)
それは、きっと声に出していたのなら、おぞましい物を感じさせるような、声だった。
けれど、思念は相手に伝わらない。優希の準備は、完全に整っていた。
今から放つ術は宿神一族の人間が見たら、完璧に優希のオリジナルだと勘違いする術だ。それは、残りの破魔符に込められた霊力を、全て一撃に収束させるという術だった。
その原点は、某魔法少女の放つ、桜色の砲撃にある。だから、オタクでもない限りきっと、元ネタは分からないだろう。
優希は指で刀印を作ると、ゆっくりと流也に向ける。
その頭上で、白い星が一際強く瞬いた。そして、狙いを完全につけ終わると、優希は全力を持ってこう叫んだ。
「――スターライト、ブレイカーぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
――星は、白い流星となって、流也を貫いた。
その一撃の余りの苛烈さに、強く身を流也は身をよじる。だが、流星は触れた物全てを、問答無用に浄化していった。
生半可な一撃ならともかく、浄化の概念の篭ったこの砲撃は、流也にとっても無視できないダメージを与えたようだ。優希の一撃によって、身体に大穴の開いた流也は墜落しかけた。しかし大妖は、尋常ではない再生力の賜物か、地面に衝突する事こそぎりぎりの所で免れ、空中で静止した。
だが、今までずっとタイミングを見計らっていた綾乃にとっては、それで十分だった。
「今だ綾乃ぉ!」
「はいっ!」
和麻の双眸が蒼く染まった。
和麻に言われてから、綾乃はずっと力を溜め込んでいた。自らの気を、最大限の集中力を持って練り上げていた。
そうして生み出されたのは朱金の炎。神炎と呼ばれる最高位の浄化の炎だった。
――綾乃の神炎が、炎雷覇に注ぎ込こまれていく。
「だぁぁりゃぁぁぁっ!!!」
次の瞬間。綾乃は残像さえ残さない神速の踏み込みをもって流也の前に出現し、裂帛の気合と共に渾身の斬撃を叩き込んだ。
流也は凄まじい反射神経によってその斬撃に反応するが、無駄だった。朱金の輝きを宿した炎雷覇は、防御に使われた両腕ごと、容赦なく流也を真っ二つに切断する。溜まらず距離を取ろうとした流也だったが、綾乃はそれを許さず更に肉薄すると流也の胸に炎雷覇を突き立て――。
「滅! 」
――爆散させた。
しかし、そこまでの攻撃を食らっても、まだ流也は滅びなかった。粉々に飛び散り原型を留めなくなった肉片は、まるで粘土のような物に変化したが、その内に秘める妖気は些かも衰えていない。
「……嘘でしょう?」
その様子を見て、綾乃の身体は緊張に強張った。間違いなく自身の最大最高の力を発揮したにも拘らず、凶悪にその存在を主張する妖魔。
それじゃあ、自分のしたことは無駄だったのだろうか?
「そんなことないっ!」
綾乃の心は一瞬絶望に囚われた。しかし、綾乃は即座にその感情を否定する。
どんな物にだって終わりはある。そして何より、綾乃は精霊魔術師なのだ。精霊魔術の力。精霊と交信する力とは、世界の歪みである妖魔を討つ為に与えられた力なのだ。
それならば、精霊魔術師である綾乃は妖魔相手に怯むことは許されない。綾乃は炎雷覇を握る手に力を込めた。身体は緊張で強張ったままだ。
――ぽすん。
「ふぇ!?」
だが、そこで綾乃の身体は、温かい何かに包まれた。不意打ちだったので、綾乃の口からは、奇妙な声が漏れ出てしまう。「暖かい何か」とは和麻の身体だった。
それに気が付いた綾乃は、顔を赤くして和麻に抗議をしようとした。だが。
和麻の双眸を見て声を失くす。澄み切った青空のような輝きを宿す、その瞳に綾乃は目を奪われていた。
「よくやったな。後は俺に任せておけ」
声が出なかった。理由は分からない。けれど、和麻の腕の中にいるという事実は、綾乃に深い安らぎを与えた。
ただ、ただ心が暖かかった。
和麻の周囲を流れる風が、薄蒼い輝きで染まっている。
その蒼い気流は、流れこそ緩やかな物の、そのうちに莫大なエネルギーを秘めていた。それには神凪一族にのみ与えられた筈の浄化の力が宿っている。
「さぁ、終わりにしようか。そろそろおやすみの時間だぜ?」
――蒼の奔流が全てを浄化する。
和麻の宣言と共に、蒼い風が流也を、そして神凪邸全てを包み込んだ。
数秒後、神凪邸で起こった戦闘は完全に停止した。哀れな老人とその息子の存在は、この世から消滅していた。