「ふぅ。気持ち良い」
重悟の私室を出た後、手配された女中によって、優希は先ず風呂に案内された。優希としてはこんな状況で、しかも他人の家で入浴する気など全く無かったのだが、襲撃事件と転移後のランドマークタワー崩壊事件によって、血と埃に塗れた優希の格好を見た女中は、これを改善する事を己が使命だと受け止めたらしい。まだ二十歳そこらに見えるその女中は、微笑を浮かべながらも半ば強引に優希を浴室へと押し込めた。
その態度に、先程から直ぐにでも思案に入りたかった優希は、一瞬苛立ちを覚えるも「考えてみれば浴室は考え事をするのに最適といえるだろう」と考え直し、その細く色白な身体にタオルを巻くと、檜で出来た風呂に足だけ浸ける形で思考を始めた。
ちなみに、足を浸すというのは神凪邸の浴槽が、ユニットバスではなく銭湯の浴槽に近いからこそ出来る事だった。
心地よさに包まれながら、優希は情報を整理する。
そもそもの始まりは、宿神家が何者かに襲撃された事にある。
向こうの世界では最高峰ともいえる霊力と、それに付随する戦闘力を兼ね揃えた宿神と神裂の両家を、無傷とはいえなくも簡単に制圧してきた襲撃者達。何らかの組織であることは明白だが、一体どこの組織だったのだろう?
……しかし、これはもう、考えてもしょうがない事だ。優希は既にあの世界からこちらの世界に来ている。何者であろうがこの身を追いかけることは既に不可能だろう。もしも襲撃者達が神に俗する物の加護得ていたとしても、優希一人の為に世界を渡る事にメリットなどない。向こうとしても精々が「貴重なモルモットを逃した」程度で、残念がるだけだろう。だから優希は、もう襲撃者達に襲われる心配をする必要が無い。
そう考えると、あの「神」が仕出かした現状は悪い物ではない。優希個人としての死亡フラグは永遠に取り払われたのだから。かえって良かったのかも知れない。
だが、やはり問題はあった。それは「神」によって飛ばされたこの世界が、一般人でさえ死ぬ確立が非常に高い「風の聖痕」の世界だったという事だ。殆んどの設定がこの世界と合致する以上、この世界は「風の聖痕」。もしくはそれに準じる並行世界だという事を認めざるを得ない。そして、それを認めたなら、優希は更なる覚悟をしなければならない。それは「戦う覚悟」。そして「殺す覚悟」である。
優希は一般人と比べたら外道気味な思考回路を持っているが、それはさておき。
それは世界的に見ても平穏な国、日本に生まれた優希が、本来ならする必要が無かった覚悟だ。勿論、優希には今までに人を殺した経験など無い。だが、この世界ではそうしなければ自分の身など守れそうに無いのだ。
「この身体に宿る力。……ばれたら陵辱程度じゃ済まされないよね」
この世界は霊的な存在が大きな力を持つ世界。そしてそんな世界は、優希から見れば破格の力を持った魔術師や異能者を生み出した。それらが優希の力に気づいたならば、優希はこれまでとは比べ物にならない程の悪意ある者に狙われることになる。先程、少し試した様子だと魔術自体はこの世界でも問題なく使う事が出来た。それも、この世界では精霊の力が強いのか、生み出した魔術は元の数倍の力を発揮した。
しかし、その程度ではとても足りないのだ。今なら数刻前に和麻の言った言葉の意味がわかる。
「精々が一流」
そう、たかだか数倍、優希の戦闘力が上がった程度じゃ、この世界では生き延びられない。ただの日本の廃墟に吸血鬼が潜む世界だ。平然と空間転移をこなす魔術師が跋扈する世界だ。精霊喰いなどという、世界の敵が存在する世界なのだ。
「しかも、近日中には『風の契約者』ですら勝てない妖魔が襲ってくる事が確定事項。……ははっ、全く笑えないよ」
なんで飛ばされたのがこの世界だったのか。いや、恐らく自分が「神」の居たあの空間で「風の聖痕の続きが読みたい」などといったのが恐らく理由なのだろうが。
「どうせなら『らき☆すた』の世界がよかったなー」
温まっているはずがいつの間にか冷え切った身体を、両腕で抱くようにしながら、優希は自身を誤魔化すように軽口を叩いた。
とりあえず、生き延びられたら絶対「神殺しの槍」を作り上げて、くそったれな神様を打ち殺してやると、心に誓いながら。
優希が冷え切った身体を温めなおし脱衣所を出ると、そこには濯された優希の流し着と下着が、綺麗に折りたたまれて置かれていた。その横には入浴前と同じ様に優希の鞄が置いてある。
「自分がお風呂に入っていた時間内で、どうやって洗濯と乾燥を終えたのだろう? 」と優希は軽く驚いたが、これが名家の持て成しかと感心すると、下着を着け、流し着に袖を通した。やはり、慣れ親しんでいる服の為か、着心地が良い。軽く髪を乾かすと、優希は脱衣所の外で待機していた女中に話しかけた。
「僕の服、綺麗にしてくれてありがとうございます」
「いえ、当然のことですから」
優希の感謝の言葉は微笑みと共に受け止められた。二次創作小説では、たいてい神凪はアンチの対象になっていたし、優希自身「碌な一族じゃねぇ」と思っていたのだが、この女中を見ているとその考えも変わりそうだ。一応「お嬢様」である優希に言わせれば、女中など使用人の格というのは、その主人の格を表している事が多い。そういえば先程の周防という男も中々良い佇まいをしていたし案外、神凪は良識的な一族なのかもしれない。……もちろん本編に出てきた一部を除いての話だが。
「優希様。そろそろ宴会の用意が出来ますがもう広間に向かいますか? 優希様がお望みであればこちらで何か着物を用意させますが……」
「いえ、私はこのままで構いません。準備が出来たのなら、もう行きましょうか」
「そうですか。畏まりました。それではご案内いたします」
女中は優希に向かい礼をすると、「こちらです」と歩き出す。優希もそれに続いた。
宴会会場となる広間は、既に賑やかだった。色鮮やかな料理が並べられ、席には大勢の者がついている。この光景だけを見せられたのなら、ここが一流旅館の宴会場だといわれても、優希は全く疑わなかっただろう。それだけの光景だった。
女中に促された優希は上座に設けられた席に座る。その隣には和麻がいた。
「よぉ」
「ども」
軽く挨拶をし、することも無いので雑談に入る。そうしてしばらくすると、宴会が始まった。そこかしこから乾杯の音頭がきこえてくる。優希の視界に入る誰もが、無理やり気分を盛り上げるかのように、陽気に浮かれ騒いでいた。
隣で料理に手もつけず呆れた顔をしている和麻が言うには、この宴は謎の襲撃者に狙われ、苛立ちと不安が募っている神凪一族の憂さ晴らしとして開かれたらしい。宗主である重悟は反対したのだが、長老達の総意に押し切られ、開催が決定したようだ。それを聞いた優希も思わず呆れた。
「なんていうか。馬鹿らしいとしか思えませんね」
「全くだな。いっそのこと、長老制なんて廃止しちまえば良いのに」
和麻があっさりと言う。だが、その言葉に優希は異を唱えた。
「現実問題そんなこと出来ないでしょう? 因習というのは中々変えられないものですよ」
「いやいや、だからこそこの機会にさくっ、とだな」
とても黒い笑みを浮かべる和麻。しかし、そろそろ和麻の言葉が基本的に冗句だという事に気づいた優希は、目の前にある刺身をパクつきながら淡々と言葉を返した。
「殺っちゃまずいでしょう、流石に。それに『宗主の器じゃない』とまでは言いませんけど、あの方は人が良さそうですから、そんな手段は取れないでしょうし」
「まあな。そこがあの人の良いところでもあるんだがな」
和麻は苦笑した。それを見た優希も、咀嚼しながらも微笑む。そこで優希はふと気づいた。
特に意識したわけではないが、気が付くと和麻とは割かし良好な関係が築づかれている。まあ、そもそも八神和麻は外道であるからにして、この程度の友好では、有事にはあっさり見捨てられてしまうのだろうが。
それでもライトノベルのキャラクターとこうして会話しているという事実は、優希に不思議な感慨を起こさせた。
「『現実は小説より奇なり』か。全く、昔の人は上手い事を言ったものだよね」
「ん。何の話だ?」
「いえ、こちらの話です。お気になさらず」
「ふむ。まあいいか。それより煉がこっちにくるぞ」
和麻が顔を向けた方を見ると、そこには子犬のような雰囲気を全開にして、こちらに向かってくる煉がいた。それにしても本当に可愛らしい。これでは「『風の聖痕』の真のヒロイン」と一部で呼ばれてもしょうがないだろう。
「兄様ー!」
ぽすん、と軽い音を立てて、煉は和麻の腕の中収まった。和麻もこれを邪険には出来ないようで、困った様子を見せながらも、煉の頭を撫でてやっている。
「えへへー。兄様ー」
ぎこちなさは残る物も、それは暖かな兄弟の構図だった。思わず優希の顔も緩む。
とそこで、優希は今更ながら大事なことに気づいた。自分が現れたことで本来の「風の聖痕」の歴史から外れ、煉が攫われることは無かった。ということは、そもそも和麻と妖魔の本体が対決する事が無かったという事だ。
そうなると、風牙衆が犯人だという事が、まだ宗主に伝わっていない事になる。すなわち、神凪一族が一同に揃っているこの状況は、リスクも高いものの、襲撃の絶好の機会なのだ。
「……やばい。まじでやばい」
「突然どうしたんだ?」
「大丈夫ですか?」
優希の顔色が突然真っ青になったのを見て、先程までじゃれあっていた和麻と煉が声を掛けてきた。
優希はこの危機をどう伝えるべきか焦り、纏らない思考の中、それでも必死に口を開こうとして――。
「きゃーーーー!!!」
――そのタイミングを狙ったかのように響いた悲鳴によって、最悪の事態を迎えたことを知った。