「たっ、高い。怖い!」
「にっ、兄様っ。もうちょっとゆっくり低い高度で飛べませんかっ? 」
優希は少年と共に、青年の作り出した風の結界に、青年に縋るような形で包まれ、東京都の上空を高速で飛行していた。
慣れない空のフライトに、優希と少年は瞼をぎゅっと閉じて怯えていたが、結界内には風圧どころか日差しすらも感じさせない。こんな所に、結界を作り出した青年の、術者としての技量の高さが見られていた。
「安心しろ。落ちることは無い。それに狙われる可能性があるからわざわざこうしてるのに、のんびりいったら何の意味もねぇだろうが」
青年が若干の呆れ声で言った。優希たちも、そう言われてしまえば納得する他に無かった。よくよく考えてみれば、それももっともな話なのだ。
しかし、空を飛ぶという事に慣れていない二人には、頭では分かっていても、自然と浮かんでくる恐怖の感情を抑えることは難しかった。二人の青年を掴む力が更に強くなった。
さて。優希が「この世界は自分にとって異世界である」と判断し、平静を保とうとしてから数分後。少年は優希の心情など知らずに、笑顔で帰ってきた。始めは少年の自宅である神凪家に事情の説明をするも、随分と話が混迷していたようだが、どうやら無事に用件は伝わったらしい。少年曰く、神凪陣は「歓迎の用意をして待っている」そうだ。
「風の聖痕」の内容を知っている優希としては、正直「歓迎」という言葉の意味する物が不気味に思えてしょうがない。「風の聖痕」の話の中では青年――「八神和麻」が神凪邸を訪れた時、彼は神凪の術者たちに問答無用で攻撃されたのだ。これは、和麻の態度が多分に挑発的だったというのも原因だと言えるが「もし自分が攻撃されたら」と考えると、とても恐ろしい。
優希は現状無力なのだ。万が一攻撃された場合、それを防ぐ手立てが優希にはない。一応魔術が使えるからといっても、元々魔術は実戦で使うような物じゃない。……平然と空間転移だなんて荒業をこなす、この世界の一部の魔術師と比べないで欲しいのだ。
本来の「風の聖痕」の話の流れと違い、優希と同じ様に青年にしがみつく少年――「神凪煉」が無事で、なおかつ事前に話を通してあるので、いきなり戦闘にはならないと思う。だがそれでも、優希の不安は消えなかった。
「おい、着いたぞ」
思考に没頭していた優希に、和麻から声が掛けられた。気が付くと目の前には巨大な屋敷が立っていた。どしりと居を構えるその光景は、優希の自宅である宿神家の屋敷を連想させたが、それよりも随分と大きい。誰に向けるでもなく、優希は思わず言葉を漏らした。
「立派なお屋敷ですね。家よりも大きいです」
「ありがとうございます」
煉は照れくさそうに微笑みながら、優希の漏らした声に答えた。自分の家が褒められるというのは、やはり嬉しい物なのだろう。優希からみても、どうみても美少女にしか思えないほどに、その笑みは可愛らしかった。「花が綻んだような」とはこのような笑みを指すに違いないと、優希はそう思った。
「どうでもいいが、もう出迎えが来てるぞ」
しかし、優希がその笑みに癒されていると、邪魔するかのように和麻の声が届く。良く見てみると門は既に開き、数人の女性達が礼をしてこちらを伺っていた。あの体勢で待たせる訳にもいかないし、急ぐべきだろう。
「あっ、はい。それじゃあ行きましょうか」
慌てたような煉の声に従って、優希達は神凪邸へと入っていった。
「失礼いたします。客人を連れて参りました」
「入りなさい」
優希達が案内された部屋に入ると、そこには静かな風格を漂わせる初老の男性がいた。この人物こそ神凪宗家が宗主。神凪重悟である。
各々が一礼と共に腰を下ろしていくなか、優希も緊張しながらも姿勢正しく畳に腰を下ろす。しかし一同のその様子を見て重悟は気さくに声を掛けた。
「そう畏まらなくて構わんよ。無事で何よりだ、煉。それと、今日はよく来てくれたな。和麻。……そちらのお嬢さんも、大体の事情は聞いておるよ。皆、楽にしなさい」
その落ち着いた声によって、場の空気が和らいだ。重悟は一つ微笑むと、先ずは和麻に対して話しかけた。
「一応、この場はお前が釈明する為に設けられた物だ。私個人に言わせれば、お前が一連の事件の犯人だと疑うなんて馬鹿馬鹿しい事だが。これも面倒ごとを避ける為だ。……という訳で、聞くぞ和麻。お前は犯人か? 」
「違う。以上」
あっさりと和麻は答えた。人によっては馬鹿にしているのかと思う態度だが、重悟は気にしていないようだ。言葉を続ける。
「ならよい。こんな時期に行うのもどうかと思っているのだが、夜には広間で宴会がある。それまで二人で話さんか? 積もる話もあるだろう」
「いいぜ。俺も、一度ゆっくり話してみたいと思ってたしな」
この男にしては珍しく、和麻は穏やかに微笑んだ。それを見た重悟も微笑む。そして、とてもすまなそうな顔をして優希と煉に顔を向け、謝罪した。
「煉もお嬢さんも、わざわざ付いてきて貰ったのに大変申し訳ないのだが、……席を外して貰えないだろうか? 頼む」
常識で考えればそれはとても失礼な事だったが、重悟の態度には謝罪の意思と誠意が溢れていたので、別段優希が気分を害すことは無かった。それに優希自身、色々と考える時間が欲しかったので、重悟のこの申し込みは寧ろ都合が良いと言えるだろう。
そう考えると、優希は重悟に話を切り出した。
「私は構いません。ですが、出来ればこの屋敷内での行動をある程度認めて頂けるとありがたいのですが……」
「ありがたい。勿論、客人として貴女が不自由ないように手配しましょう。――周防」
「失礼します」
優希の言葉に安心したような重悟の声と共に、襖を開けて一人の男が入ってきた。意図的に個性という物を薄めているかのような、存在感の薄い男だ。
「客人に持て成しを頼む」
「畏まりました」
周防と呼ばれたその男は、重悟に一礼すると優希に身体を向けた。
「それでは、これから女中をお付けいたします。なんなりとお申し付けください」
それは聞き取りやすく、静かな声だった。優希は少し考えると、周防の言葉に頷いた。
「じゃあ、行きましょうか、優希さん」
そこで、今までずっと静かに話を聞いていた煉が優希に話しかけ、エスコートするようにその手を取った。煉の手に引かれて、優希達は重悟の私室を出る。
襖が閉められる前にちらりと見た和麻の目は、感傷に細められていた。
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リアルが不幸すぎて困ってます。
けど、頑張る。