深夜。人気のない道を、長い黒髪の少女が一人で歩いていた。道沿いの街灯は少なく、月明かりの存在によりかろうじて明るさが保たれている状態だ。
だが、少女はそんな不気味な道を、怖さなど感じていないように淀みなく歩いていた。
「へくちゅっ」
けれど、可哀想に。流石に寒いのだろう。凛々しい歩き方とは裏腹に、少女はくしゃみを一つつき、鼻を啜った。
気温は随分と低く、少女の吐く息は白く染まっている。吹き付ける風は少し冷たかった。
少女のチャコール色のストライプシャツワンピースは、股下までを完璧に隠していて、ネイビーカラーのジーンズに動きやすそうなブーツを履いている。胸元には赤い宝珠。ユニセックスな小さめのメッセンジャーバックには、多くの物が詰められている事が見て取れた。
昼間だったらまだ良かったのかもしれないが、現在の気温を考えると少し心細い服装だ。少女は内心で溜め息をつく。
(マフラー、持ってくれば良かったな)
色々と考慮した上での服装だったのだが、少しまずかったかもしれない。
そうは思うが、まあ、済んだことを考えてもしょうがない。そのまま歩き続ける。と、そこで気づいた。
(街灯の明りが消えている)
少ないとは言っても、つい先程までは確かにその存在を主張していた筈の街灯が、消えていた。
そこで少女は異常に気づいた。
(街灯だけじゃ、ない)
先程とは、空気が明らかに変わっていた。人気の少ない道だとはいえ、住宅街にも関わらず周りの家々から物音一つ聞こえてこないというのは、流石におかしい。
「きゃあ」
それだけではない。ぱりん、ぱりんと、明りの消えた街灯が、次々に割れていった。
同時に全方位から聞こえてくる同じような破砕音。周囲の家々から漏れていた明りも消える。
後に残されたのは、自然の闇。残る明りは、空に浮かぶ月だけとなってしまった。少女は辺りを警戒しながら身構える。そして次の瞬間ついに。
月が、隠れた。
最後の明りが消えた。
訪れたのは、突然の闇。ざわざわと風がざわめく。辺りの木々が揺れていた。少女は一人、怯えた表情できょろきょろと辺りを見回す。そして上を見て驚愕した。
鮫のような姿のもの、虎のような姿のもの、言葉では言い表しがたいぐにゃぐにゃとした姿のもの。そんな異形によって空全体が覆われていたのだ。月さえも隠す数の異形が。
この世のものとは思えないような光景に、呆ける少女。そんな姿を嘲笑うように、空から異形の一部が群れを成し、雪崩のように襲い掛かった。魍魎、妖怪。そんな異形の存在たち。それらは闇を切り裂くように、あるいは闇そのものが襲い掛かるように、無力な少女を食い殺そうと飛来する。
「きゃぁぁぁぁぁ」
その存在に気づいた少女の悲鳴が、町中に響き渡る。けれどここはもう、結界の中。常識から切り離された、異形たちの狩場だ。
少女は既にこの世界に取り込まれていた。だから、助けなど入る筈がない。異形の群れが顎を開く。餌はもうすぐ其処だ。
けれど。
「――ぁぁぁっ、なんてね?」
少女は怯えたふりを止めて、にやりと笑った。やっと現れたと、獲物を見つけたという感情の篭った、捕食者の笑みだった。
それに気づくだけの知能を持った者も、異形たちの中にはいたのだろう。若干だが、群れの統率が乱れたように見えた。だが勢いの付いた群れは急には止まらず、少女へと近づいていく。
そして、それは致命的な間違いだった。
少女が舞うようにその場で腕を広げ、指で円の軌道を描く。その指がなぞった軌跡は緑色に輝き、輝く輪となると、そのまま少女の身を守る光の壁と変じて異形の群れを阻んだ。
「「GruuuuuuuuuuuurrrRrraaaaaaAaaaaaaa!!!」」
壁を避けられた者、被害の少なかった者は、勢いのまま再び上昇し空へと上った。だが自ら壁へとぶち当たった者は、ある者は光の壁と後ろから訪れる異形の圧力によって潰れ、ある者は避けようとして地面へと激突していった。
「ちょっと、邪魔かな」
そういうと、少女は輝く壁を消し、シャツで隠れたジーンズに取り付けられたポーチから短剣を取り出した。
柄は瑠璃で出来ていて、黄金の蔦で装飾されている。刀身は蜂蜜色の琥珀で出来ていて、一切の曇りなど無かった。よくよく見ると随所に細かい彫金が施しており、美しいが普通に考えたら実用には耐えそうに無いような短剣だ。
だが、少女は居合いの体勢を真似るように重心を落とすと、力強く短剣を一閃した。
「「GYRAAaaaaaaaa!!!」」
一閃した短剣からは、緑色の光線が斬撃のように放たれ、地に落ちていた息のある異形を消し飛ばす。
少女は笑う。そしてお腹に力を込め、大きな声で宣言した。
「わが名は優希っ。宿神優希! ……雑魚なんかに用はない。僕を殺したいなら、全力で来なっ!!!」
狩る側と狩られる側が逆転する。少女は無力では決してなかった。少し前の事件から成長した優希の姿が、そこにはあった。
けれど、そこに絡みつくような女性の声が響く。
『――威勢のいい事子供ネェ。とォっても生意気。だけど、随分と美味しそうねェ』
再び月が現れる。異形がその女性を敬うように道を明けた結果だった。月を背にして浮かぶ女は、足元まで伸びた長い黒髪の妖艶な女性の姿をしていた。
但し、街中であっても男は決して声をかけなかっただろう。その女の頭部には二本の角が生えていて、目は赤く爛々と輝いていたのだから。
『溢れる霊力。若さ、嗚呼妬ましい。けど素敵。……本当に美味しソウ』
舌なめずりをする紅葉。けれど優希はそんな女の姿に怯えず、軽い調子で声をかけた。
「貴女が紅葉さん、だね。散々やらかしてくれたみたいだから、神凪の家に退治の依頼が入ったんですよー。……という訳で、大人しく滅せられてくれない? 面倒ごとって僕、嫌いなんだよね。一撃で済ませてあげるからさぁ」
『ほほほ。愚か、愚か。全くもって、……この愚か者がぁ。お主ごときガ、我を滅すると? 笑わせてくれるワ!!!』
交渉が決裂するのは早かった。荒々しい第六天魔王の影響を受けているせいもあるのだろう、安い挑発に紅葉が早々と本性を出す。
口が裂け、美しい女性の顔から般若の相へと変貌すると、紅葉は腕を空に掲げ、振り下ろした。異形、百鬼夜行が優希へと襲い掛かる。
「うわー、これ位で怒るとか、マジ更年期障害なんじゃないですか?」
優希は更に火に油を注ぎながらも、素早く地面に短刀を突き刺す。本来頑丈とは言い難いはずの琥珀の刀身は、コンクリートの地面に深々と突き刺さった。
更に襲い掛かる百鬼夜行を足止めするために、優希はバックの中一杯に詰まった琥珀の数々から、両手で掴めるだけの琥珀を取り出すと、自身を中心に円を形作るように琥珀を放り投げる。
そしてそれらを触媒に、先程生み出したものよりも遥かに強固な結界を作り出した。
「GYRrraaaaaaaraaaaaaaaaaarartatAaAsaaa!!!」
『小賢しいッ!』
再び壁へと激突した百鬼夜行が悲鳴をあげ、その光景を見下ろしている紅葉が悔しそうな声を上げた。だが、優希は不適な笑みを浮かべる。
「謝るなら今のうちですよー。消滅か封印か、今なら二択を選ばせて上げます。ちなみにお薦めは消滅です」
『黙れィィッ!!!』
「HiiGYYYYyyyyyyiiiiiiiiii」
優希の挑発を受けて更に激昂した紅葉は、百鬼夜行の群れを掴むと潰し、混ぜ合わせ、返成させ、闇色の弾丸を放ち始めた。
「くっ、ちょっとまずいかも」
空が次々と晴れていく代わりに、異形が弾丸となって優希の結界に突き刺さる。紅葉は狂笑を上げながらその数を増やしていった。
緑色に輝く結界に、皹が入っていく。
優希は結界を新たな琥珀で補強しながら考える。もしもこの結界が解けたのなら、優希は結界全面に張り付くようにして圧力を与えている妖魔に食い殺されるだろう。いや、その前に、闇色の弾丸に貫かれるのが早いかもしれない。どちらにしても、その瞬間が優希にとって最期になるに違いない。
まだだろうか。あと何秒ほど掛かる? 優希の心に焦りが生まれる。
「GHURYyyyyyyyyyeeeeeeeeeiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii」
『ほほほほホッ! こんなものかェ、威勢がいいのも最初だけかェ!』
百鬼夜行が結界に更なる圧力を加える。闇色の弾丸が更に数を増やす。
予め霊力を込めておいた琥珀を結界の補強に使うが、障壁の亀裂は治まるどころかどんどんと広がっていく。
だけど、その圧倒的に不利な状況の中で。
「――きたぁっっっ!!!」
『なっ、何じゃァ!?』
待ち望んでいた「繋がる」感覚。その時の訪れに、優希は歓声を上げる。
胸元の宝珠が輝いた。
「『……王者の剣を持ってこの地を征服する。今より此処は我が領地なり。為らばその全ては我の物であり、その力は我が為にのみ使われる』!」
詠唱と共に輝く宝珠がペンダントから外れ、優希の目の前に浮く。優希はそこに右手を伸ばすと呟いた。
「Set up」
右手から大量の魔力が流れ、宝珠が魔力を実体化した事で、先に赤い宝珠の付いた透き通った緑色の杖が生まれた。
その杖を手に取り、優希は試しにぶんっ、と振る。
(上出来っ)
手に馴染む感覚に、優希はにやりと笑う。
意志の強そうな眼差しが、意地悪く歪められた。
『何をするつもりかは知らんガ、これで終わりじゃァッッ!!!』
極大サイズの闇色の弾丸、直径10メートル程のそれが、紅葉の絶叫と共に結界へと振りかぶられる。
ぱりぃぃんっ、と、硝子が割れるような音と共に結界が破られた。
次いで、大きく口を開いた妖魔たちがその牙を、爪を振りかぶり優希に襲い掛かった。だが、もう遅い。
「悪いけど、『ここから先は一方通行だ』!」
優希が杖を軽く振るう。その一振りで、一つが直径1メートルを超える緑色の光線が、優希を中心とした全方位に放たれた。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。鳴り響く破砕音に、響き渡る怨嗟の声。しかしそれも、浄化の概念が組み込まれた優希の砲撃によって、微塵も残さずかき消されていく。
圧倒的な光景だった。今の攻撃で空を埋め尽くすほどの数がいた百鬼夜行は、翡翠の奔流によってその半分を黄泉へと送られていた。
『貴様、何ダ、何ダその異常な力はァァ! そのような力、人に許される領域を超えているァッ!!!』
「いやいや、本番前の試作品なんですけどね。上手く機能してくれたみたいで何よりです。王権の象徴である黄金と瑠璃(ラピスラズリ)を柄に、僕と一番相性の良い琥珀を使った刀身を大地に指すことで、王の伝承と権威を借りた『空間支配系魔術』。――王や貴族といったものは、時代において神そのものでした。そしてこの魔術を使用している今このとき、僕は紛れも無くこの地の領主であり、この全てのマナは僕の物です」
『馬鹿なッ、人ごときがそのような魔力の制御に耐えうる訳が無い!』
「嫌だなぁ。だからこそ『力の器』と『力の制御』用にもう一つ、『空間支配系魔術対応制御補助魔道具』であるこの杖を使っているんじゃないですか。……それに僕、こうみえても天才ですし血筋もいいんでね。利用する伝承とも相性が良かったんです。いやいやこの時ばかりは自分の生まれに感謝しましたね。ていうか、大体この短剣一本と杖の作成に、幾ら掛かっていると思ってるんですか。一軒家がポンと買えちゃう金額ですよ。これ位の結果を出してくれなきゃ困るってもんですよ」
優希は軽口を叩きながらも杖を構え、襲い掛かる妖魔たちを次々に屠っていく。
命の輝きを連想させるような力強い光線は、その反対のベクトルに位置するような百鬼たちに暴虐を知らしめていた。
けれど、紅葉はその光景に焦りを抱くよりも怒りを覚えたようだった。光線を交わしながらも闇色の衣に包まれ、更に力を高めながら空を飛び回る。
『許せん、許せんッ! 我は人を捨てたというのにッ、我はこうまで捨ててきたというのにッ、何故お主はそうして笑っている。あの男もそうだった。あの女もそうだった。……ああ妬ましい。嗚呼、恨めしイ。我は憎い。彼奴らが、汝が、全てが憎い憎いニクイニクyeeeeniukeeueieeeeeeeeeeeeiii!』
「……誰のこと言ってるかはどうでもいいですけど。僕は僕です。努力も辛い思いもしてきましたけど、それでもこうして生きてます。あんたみたいな庶民生まれの嫉妬深い鬼女とは色々と違うんですよ」
醜いと思った。汚いと思った。ああはなりたくないと思った。でも、人の心にはきっとあの醜さがある。実を言えば優希にだって、あの醜さはあるのだと知っていた。
でも、だからこそ優希は気に入らない。神様の横槍があったからといっても、そんな物に負けて、嫉妬して妬んで怨念を撒き散らす鬼女となった紅葉が気に入らない。
「――という訳で、さっさとご退場願いましょうか」
杖を強く握り締め、先端を空の紅葉へと向ける。短剣を基点に大地から、世界から、更なる魔力を収束した。
願いの先はきっと暴虐。でもそこにほんの少しの「おやすみ」という気持ちを込めて。
「――術式確認、魔力収束開始、構成完了、標的補足、発射用意完了『ジェードブレイカーEX』、マキシマムシュートッッッ!!!」
翡翠のごとき浄化の奔流が空を埋め尽くす。閃光が止んだ後には、空に浮かぶものは雲ひとつありはしなかった。