神凪邸の一室。そこで優希は布団の上に寝そべり転がっていた。
退院してから三日が経ったが、ホテルを変える度に突撃してくる龍真から逃げる為には、もうこれしか方法が無いと判断した優希は、龍真の魔の手(熱烈なアプローチ)から逃げる為、不本意ながらも再び此処への居候を決めたのだ。ちなみにその際、重吾が見せた笑顔がとても癪にさわったのは、ここだけの秘密だ。
まあ、結果的には宿泊費も浮くし、和食中心とはいえ食事までついてくる良環境なのだが。残念なことに優希は、この世界に来てから自覚したのだが、お金に執着するというよりも「稼ぐのが好き」なタイプのようだった。その為、あまりそのことに感動を覚えられなかったのである。いや、それどころか、囲われているようで居心地の悪さすら覚えている。
「ある意味、恩知らずな奴だよねぇ」
優希はベッドの上で苦笑する。ただで居候させてもらっておいてのこの感想。我ながら性格が悪い、と優希は思う。
それというのも、優希の見る目が変わったからだ。始めは神凪に対して悪いイメージしか持っていなかった。小説の中の粗暴な彼らが、優希の知る彼らだったからだ。だが、何度かここの住人と話して、こうして居候させてもらって気づく。
彼らは別に悪人ではないという、当たり前の事実を。
戦闘や救助を手伝ったという実績があったから、そういう理由は勿論あるだろう。自分がその、何だ、認めるのは少し癪だが「女だから」というのも理由にあるだろう。だけど多分、優希が邪険にされない一番の理由は、優希が和麻じゃないから、ということなのだ。
彼らには誇りがある。炎の精霊王に選ばれた一族としての誇りが。そして神凪の大多数である分家の彼らには、嫉妬がある。宗家への嫉妬が。
そして、和麻は宗家でありながら炎が使えず、親に守られているともいえない存在だった。けれど彼は各方面での努力を続けており、プライドは決して低くなかった。
そして、彼には明確な庇護者がいなかった。両親よりも重梧の方が和麻のことを考えているといわれた位だ。
彼らにとって和麻は、才能が無いくせに高慢で生意気な、目障りな男だったのだ。
だから、和麻は苛められた。人の良識を飛び越える行為が、和麻に対しては許されるような、そんな錯覚に陥ってしまった。そういうことなのだろう。
それにそもそも、過激な虐めをしていた人物は、原作でも数人しか描写されていなかった。それで神凪全体を高慢な悪だと判断するのは、早計だというものだろう。
優希はそう考えると気分を変える為にノートパソコンを取り出した。そして立ち上げて「ネットサーフィンでも楽しむか」とマウスを握ったところで。
「あの、優希さん。ちょっといいでしょうか?」
襖越しに、少年の声が響いた。
優希は一瞬硬直し、溜め息を一つ吐くと「どうぞ」と声を出す。
「突然すみません。折角ですし、僕も優希さんと色々お話してみたくて」
申し訳無さそうに笑う少年は、その名を神凪煉といった。彼は和麻の弟であり、才能溢れる宗家の炎術師である。年の頃はまだ小学生ぐらいだろうか、テレビに出ているタレントが霞んで見える程の美少年だった。というか実際、一見しただけでは少女にしか見えない。声変わりもまだ始まっていないだろうし、彼なら女風呂に入っても悲鳴は上がらないだろう。
「いえ、そういえば煉さんとは前に少しお話しただけでしたし、構いませんよ。私も暇を持て余していた所ですから」
「ありがとうございます。あっ、あとそんなに硬くならなくてもいいですよ。僕の方が年下ですし、気楽にしてください」
煉はそう言うと、優しく微笑んだ。とても魅力的な表情だ。同時に「こんな子の前で醜態をさらしていたのか」と、優希は和麻にビルで虐められていたことを思い出して赤面する。
「あー、分かりました。んー、……じゃあこれでいいかな。僕もこの方が楽だし、似非敬語もなれてはいるんだけどね。基本的に僕、話し方こうだから」
「ええ、構いません。というか、なんか親しくなった気がして嬉しいです」
えへへ、と照れたように煉は笑う。その余りの可愛さに、優希の中の何かが刺激された。ショタの素晴らしさを垣間見た、とでもいうべきか。
彼にはずっとそのままでいて欲しい、等と優希はさりげなく思う。それが本人の望みからは離れていることを知りながら。
煉との会話は楽しかった。年の割りに聡明で控えめ、加えて最近不足していた常識人である煉との会話は、ネットサーフィンなどよりもよほど実になるものだ。
だがしばらくして、話が煉の学校から綾乃の話題に移ってきた辺りから、優希は彼の表情が冴えないことに気づいた。
「んーと、何か話したいことがあるんだったら、聞いてもいいけど?」
「えっと、……分かっちゃいましたか」
煉は情けない、といった風な微笑みを浮かべた。
「実は僕、最近ずっと悩んでいて。兄様が帰ってきてから、風牙衆の事件があって、この前もうちの人間がさらわれて。その時、僕は何も出来なかったんですよね。いや、分かっているんです。僕は子供で、皆とは修行してきた時間が違うんだからしょうがないんだ、って。でも、僕は強くなりたい。兄様は風の契約者だし、姉様は炎雷覇の後継者。父様も当主も神炎使いです。皆と比べれば僕は、一人の人間としても術者としても、あまりにも中途半端なんです……」
泣きそうな顔で煉はそう言う。だが、優希としてはコメントのしようが無かった。
実際どう客観的に見ても、煉には才能があるのだ。それは優希と違って「未来」を知らない他の人間に聞いてみたところで変わらない評価だろう。にも関わらず、周囲の人間と比べて自身を喪失している人間に対して、何を言えばいいのか。まだコミュニケーション能力に若干の不安がある優希には、思いつかない。
「それで、凄い魔術師の優希さんに相談してみようと思ったんです。何も出来ない僕とは違って、魔術師であり力と知恵のある優希さんからなら、何かいいアドバイスが貰えるんじゃないかと思って」
「随分と過大評価してくれてるけど、普通に戦ったら君の方が強いと思うよ。ていうか、瞬殺されると思う」
「そんなことないです。風牙衆に使っていたあの符術も凄かったですし、僕が勝っている所なんて単純なパワーだけです」
煉は意見を変えなかった。真剣な瞳で優希を見据えている。それを見て優希は戸惑った。こんなに真っ直ぐで人の言葉を聞かない子供相手に、どうすればいいのだろう。
「優希さん、僕はどうすればいいのでしょうか。良い修行法があるなら、教えてください。お願いします」
「どうしたらって、……僕は炎術師じゃないし、そんなの分からないよ」
「……そう、ですよね。あはは、すみません。気にしないでください」
望んだ答えを与えられなかったからだろう。煉は目に見えて落ち込んだ。
けど、だからこそ、優希には思う所があった。
「そもそも君、何で強くなりたいの?」
「えっ?」
「だって、急ぐ必要ないじゃない。炎雷覇の正当後継者は決まっているんだし、ライバルがいるわけでもない。復讐したい相手だっていない。今までの修行は君を確実に強くしてきた。ほら、急ぐ必要が全く無い。どうして君は、慌てて強くなろうとしているの?」
「っ! だって、今のままじゃ僕は役立たずじゃないですか! 皆が前で戦っているのに、自分だけ後ろで応援してるだけなんて、そんなの嫌です! 僕だって戦いたい、皆と肩を並べたいっ。そう思っちゃいけないんですかっ!」
「いけなくないけど、理解できないだけだよ。『皆と肩を並べたい』、うん。その気持ちは分からないわけじゃない。けどさ、それって君らしい望みじゃなくない? 会って数分だけど、君はプライドの為に強くなりたいの? これまでの発言からすると、僕はそう思っちゃうんだけど。大体冷静に考えて、君の今の実力で足手まといになるような事件が、ほんとにそうそうあると思う?」
「それはっ……」
「いいんだよ。向上心があることは。たださ、世の中には楽しいことが一杯あって、だから僕は、問題にぶち当たってからそれを解決するために魔術の腕を磨いたような物だからさ。来るかどうかも分からない事件の為に、性急な強さを求める気持ちが分からなくて。ちょっと気になっただけ」
優希は魔術が嫌いじゃない。けれど、それと同じような感覚で日常を生きることが嫌いじゃない。パソコンがあれば一日の娯楽には事欠かないと思っている位だ。
だから、優希には煉の焦燥が理解できなかった。少し話しただけでも優しさを感じさせるこの少年が、何故こんなに焦っているのか。優希は気になったのだ。
「優希さんには、分からないかもしれませんね。……大声出して、すみませんでした。ただ、強くなることは僕らの義務のような物なんです。僕ら精霊術師は、妖魔を討つ為に力を与えられています。それは歴史ある神凪も同じこと。いえ、歴史と力のある僕ら神凪は、より大きくその義務を背負っています。だから――」
「真面目なんだねぇ」
茶化すつもりはなかった。けれど思わずといった風に、優希はそんな言葉を漏らす。
「からかってますか?」
「いや、からかってないけど。そうだね。でも、真面目だとは思う。ていうか、ちょっと硬いのかな。肩に力が入っているって言うか。精霊だって、そんなにがちがちになって欲しいとは思ってないだろうに」
「……精霊の声なんて、聞こえないくせに」
煉は彼にしては珍しく、不満げな声で軽い態度の優希をねめつける。だが、優希はその程度で怯まなかった。というか、煉のその態度が酷く可愛らしく思える。
「声なんて聞こえないよ。だけどさ、君には声が聞こえるんでしょう。聞いてみればいいのに。その中に『早く強くなれ』なんて怒る精霊はいるの。いないんじゃない?」
精霊にどれほどの自我があるのかは知らないけど。そう心の中でだけ優希は呟く。
煉はというと、優希の言葉を聞いて一瞬驚いたかのような表情をすると、耳を澄ますようにして目を瞑った。
「精霊、怒ってるの?」
「……いえ。怒ってないようですよ。みんな笑ってます」
「ならいいんじゃないの?」
「あはは、そうかもしれません」
適当に答える優希に、煉は明るく笑った。けれど快活なその姿は、先ほどまでの悩みこんだような表情の何倍も素晴らしい。
「ちょっと悩みすぎていたのかもしれませんね。正直問題は解決してませんが、気持ちは楽になりました」
「そうそう。気楽にいけばいいよ。愚痴くらいなら聞いてあげるからさ」
「聞いてくれるんですか、何だか似合いませんね。お金でも取られそうです。あはは、嘘です。ありがとうございます。あっ、そろそろ稽古の時間なので、失礼しますね。今日は本当にありがとうございました」
「いいよ、気にしなくて。それじゃあまあ、頑張りなよ」
はい、といって、煉は部屋を出て行く。優希はそれを適当に見送ると、布団の上に再び横になる。
「偉そーに。何を言ってるんだか」
優希には何の責任もない。けれど、少年に訪れるであろう苦難を知っている癖に、何もしていない自分が情けなく感じられる。
優希は部屋の隅に置かれた、二つのアタッシュケースの内の一つに目をやる。あの中には報酬として手に入れた幾つかの触媒と、優希と相性の良いそれなりの質の琥珀が入っている。
そして、それをどう使うかは優希の意思一つで変わるのだ。
――少しだけ、練習でもしてみようかな。
小説のキャラクターではない「神凪煉」との会話を終えて、優希は小さく呟いた。