都内某所に存在する、とあるビジネスホテル。高すぎず、そしてそれなりに質が高い事で通に有名なこのホテルの一室では、このホテルの客としては似つかわしくない、高校生位の年齢だと推測できる一人の少女が、現状では最高級の性能と値段を誇るノートパソコンをベッドの上で使用しながら、奇妙な歌を口ずさんでいた。
凛とした印象を受ける、少し目つきの鋭い少女だ。それでいて動作のあちこちから、育ちのよさが伺える。
「――ドーマンセーマンドーマンセーマン、助けても○おう陰陽師ー」
歌のタイトルは「笑顔の擬音でお馴染みの合唱曲」。はっきり言って美少女だと形容できるその少女には、似つかわしくないようなオタクな曲だ。一般人が見れば何か残念な気持ちが沸いてきそうだが、当人は幸せそうなのだから、問題はないのだろう。(ちなみに予断だが、少女の背筋と腹筋はベッド上でのパソコンの使用により、鍛えられている為、筋肉は意外とついている)。
少女の名は優希といった。異世界における日本の呪術集団の中でも、名家である「宿神」家の宗家の一人であり、宗家が謎の組織に奇襲を受けた現在では、恐らくそのたった一人の生き残りでもある。
流れるような黒髪に、白くきめ細かい肌。少し中性的な雰囲気を感じさせる、現在16歳の少女である。病院から退院したあと、住処を亡くした優希は神凪家の誘いを断りこのホテルに泊まっていた。
「――ああ、幸せぇ」
パソコンの前で体を揺らしながらノリノリで歌っていた優希は、曲が終わると共に満足そうに呟いた。
「誰にも命を狙われない。血も暴力も見ない。発火もしないし、風も起きないし、スライムも現れない。無茶な魔術を組み立てる必要もない。……何より、ベッドの上でごろごろできる! これを幸せと言わずなんと言おうか!」
優希はパソコンを閉じ、ごろんとベッドに身体を預けると、手の平でシーツの感触を存分に味わう。
(ああ、幸せだぁ)
優希が今着ているのは、新しく買った着流しだ。男性物の、藍色で無地。安くはないが、高級品と言えるほどの物でもないそれは、普通の少女が着ていたのならば、まるでコスプレをしているかのような違和感を抱かせただろう。だが、優希にはそれがない。あまりにも自然に着こなしているその姿からは、着慣れている事実がよくわかった。
しかしそれも、室内での着用と言うことで随分と着崩れていて、優希は半分、素肌でシーツの感触を味わっているような状態だった。本人に自覚はないが、男性に性的興奮を覚えさせるには十分な光景である。どこかの龍真が見たのなら、間違いなく鼻血を出しそうな姿だった。
だが、そんなことは露とも思わず。幸せそうにゴロゴロとしていた優希は、あることを思い出して唐突に顔を曇らした。
「――確か、年が明けたら数日で『三巻』の内容が始まるはず。関わらないのが自分にとっては一番、だけど……。そしたら、石蕗(つわぶき)によって生まれた人造の少女『石蕗あゆみ』は間違いなく死ぬ、かぁ」
(あーあ、どうしよ)
優希はパソコンを地面に下ろすと『ぼふん』と枕に頭を落とし、考える。自分は一体、どうすればいいのかと。
戦闘に参加して、助ける? 言うのは簡単だ。だが、自分が参加したところで何ができるというのだろうか?
優希は今までに何度もしてきたように、冷静に、そして客観的な視点から自分を見つめて、それは無理だと結論付けた。才能の有無を問われれば、『ある』と断言できる。魔術の才能。魔力量。自身の、そして一族の特性。優希はそれらを理解しているし、これから先もっと高みに至れる魔術師だと、自分を評価している。
だが、優希の才能とは、言ってしまえばそれだけだ。
優希は魔術師、つまり「学者」としては優秀かもしれないが、戦闘においては初心者。つい一月程前までは、血すら碌に見たこともない人間なのだ。魔術師としての精神修練によって、確かにこれまでの惨劇にも、暴力にも耐えることはできた。だが肉体的なスペックは、一般的な女子の中では身体能力が高い程度。しかも武術の経験はなく、あるのは演舞の経験だけという有様だ。
そんな人間がこの世界に来てから生き残れたのは、今までの戦いでは綾乃がいて、和麻がいて。戦闘に参加したとはいっても、安全な場所から攻撃をするだけの役割でいて良かったからである。だが、これからはそうはいかない。
三巻の敵は、巨大な山の精。日本でも最も高名な山であろう「富士山」の精なのである。それは正しく圧倒的な存在で、神を相手にするに等しい無謀。「風の聖痕」の内容を思い返しても、ただでさえ強力な山の精「ゼノン」に加えて、その僕であろう沢山の「光線を放つ石蛇」が出現し、絶望的な状況が描写されていたように思えた。
「軟禁生活をずっと行ってた『引きこもりニート』な僕に、山の中で神様相手に暴れろって? ……いやいや、無理だってば」
ふて腐れたように、優希はベッドを軽く叩く。
そもそも、仮に戦闘に参加したとして。原作よりも石蕗あゆみの消耗が軽くなったとする。だが、それでどうするというのだ。
自分が死ぬ思いをしても、少女の延命できる時間は精々、数ヶ月。それ以上の延命など、少女が特殊であるとはいえクローン人間であり、無理な成長をさせたせいで遺伝子から崩壊が起きていることを考えると、不可能ではないかと思える。
「そもそも、難易度を無視して考えるなら、この世界の不老長寿へのアプローチは『自身を霊的存在にシフトする』か『テロメア等を物理的に劣化させないようにする』かのほぼ二択。もしくは、その混合。それ以外の方法は、ていうか詳細な方法すら、魔術書にもあまり乗ってなかった。……そういえば、老化を抑えて若返るっていう『回春術』の方法なら、比較的詳しく乗っていたけど」
優希は数多の知識の中から、回春術に関する事柄を思い返す。
(でも、これから一ヶ月で回春術を覚えるにしても、あの子を救うことは出来るとは限らない、かぁ)
「――ああ、本当(マジ)でどうしよ」
戦闘に参加するかも、少女を救うかどうかにも、答えは出ない。
実を言うと、自身の強化案も幾つかあるにはあるのだが「出来るならしたくない」というのが本音だ。
「ていうか、事件が多すぎるんだよぉ……」
疲れたような優希の嘆きは、ホテルの壁に遮られて、誰に届くこともなく消えていった。
――かに思えた。
「どうした優希っ!?」
唐突にドアを蹴破り現れた龍真の姿に絶句する。
「ゆっ、優希! どうしたんだその格好はっ! まっ、まさか俺を誘って……。すっ、すまない。お前の思いに気づかな――」
「――死ねぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「ぐぁぁぁぁぁー!」
はだけた優希の艶姿に興奮したせいだろう。明後日の方向に向いた、意味不明の言動を繰り広げる龍真に対し、優希の咆哮が轟く。
「……あーあ、チェックアウトしなきゃ」
それから数分後。アタッシュケースを引きずりながら、のんびりと町を歩く優希の姿がそこにあった。
予断だが、崩壊したホテルの一室には、幸せそうな表情のまま気絶した男が一人取り残されたという。