友人の綾乃が見知らぬ少女と、なにやら真剣に話をしている間。
そこから少し離れた場所で、由香里と七瀬の二人は、のんびりとお茶を啜っていた。
「やっぱり、迷惑だったかなぁ」
「だろうね。なんか、相手は不機嫌なようだし」
二人はそう呟くと、偶然、ほぼ同時にコップをテーブルに置いた。
元々この二人は、随分と前からこの日、綾乃と遊ぶ約束を入れていたのだ。だが、それにも拘らず突然「急用ができた」と予定をキャンセルしようとした綾乃に不満を感じた彼女達は、必死に説得する綾乃をやりこめ、半ば強引にその「急用」とやらに付いてきたのだった。だが。
(……まずかった、かなー)
微笑みすら浮かべている由香里の顔に、一筋の汗が流れる。どうやら、この「急用」とは、なにやら綾乃の実家関係の大事な話らしい。思っていたよりも重々しい事態が展開されていることを感じ、由香里は不機嫌そうに綾乃と対話している、中性的な釣り目の美少女を見て、もう一度溜息をついた。
「綾乃ちゃん。怒ってないかなぁ」
「怒ってはいないだろうけど、後で謝るべきだろうね」
不安そうに呟いた由香里に対し、重々しく七瀬が頷いた。
何せ、由香里達は綾乃の事が大好きなのである。綾乃をからかう事は大好きだが、もしも本当に嫌われてしまったのなら、由香里たちはこれ以上ないくらいの悲しみに陥るだろう。
そう。黙っていれば、どこからどう見ても深層のご令嬢と呼べるような、たおやかで美しい外見をしているにも拘らず、その実。烈火のような気性の激しさと、身体能力を含めた(由香里たちの見ているだけでも、綾乃が病院送りにしたナンパ男どもの数は数十に及ぶ)圧倒的な強さを持つ綾乃という存在は、その輝きを持って由香里たちの心を離さないのである。
由香里は自分に「運命の赤い糸」とやらが存在するとしたら、綾乃たちと繋がっていれば良いのに。と思うぐらいに、親友二人との絆に価値を見出していた。
(綾乃ちゃんの実家って、多分ヤ○ザさんだよねー。実家関係だっていうなら、あの子もヤ○ザさん家の娘なのかなー)
由香里は綾乃が聞いてい場合、顔を真っ赤にして怒りそうな誤解をしながらも、七瀬との他愛もない話を進めていく。
「でもでも、このホテル。ビジネスホテルの割には大きいよねー。都心から離れてるし、土地代が安いのかな」
「いやいや。もしかしたら、曰く付きの土地を安く買い叩いて作ったのかもしれないぞ」
「キャー、コワーイ」
「見事なまでの棒読みをありがとう」
そうして、学校内のあらゆる情報を把握し、教頭の不祥事から用務員の昼食の内容まで幅広く掌握している由香里は、一つの決意した。
(もしも私たちが原因で、この会談が決裂しちゃったら。……結構危なそうだけど、あの子の弱み探らなくっちゃー)
どこからどう見ても人畜無害だと思われるような、ふわふわの髪をした少女の思考はその実、常識からは遠くかけ離れていた。由香里の頭の中は、既に「どうやってあの子の情報を集めるか」という思考に覆われていく。
そして、なんとなくだがその思考パターンを把握している少女、七瀬は。
(さて、どのタイミングで止めるべきだろうか)
ある意味毎度の展開に、特に慌てる事もなく、落ち着いた表情でお茶を飲みながら、由香里との会話を続ける事にした。二人とも、傍から見てはその内心を全く感じさせ所が恐ろしい。
――結局の所、この二人は綾乃の一番の友人。親友である。
たとえ本人達が否定しようと、普通からは逸脱しているのは、ある意味当然の事だった。
さて、それから数分後。
由香里は、奇妙な胸騒ぎを感じてあたりを見回した。七瀬を見ると、彼女もまた、同じ様に辺りを見回している。
(……なにこれ?)
具体的に説明しろと言われても難しいのだが、確かに気のせいではない違和感を由香里たちは感じていた。
「……ねぇ、七瀬ちゃん」
由香里は目を細めて、周囲をよく観察する。どうやら異変を感じている者と、感じていない者。どちらが多いかというと、感じていないものが多いようだ。しかし、向こうに座る綾乃と少女は、この異変に気づいているらしい。
(地震、かな。無意識に振動を感じているから、こんな状況に陥っている?)
由香里の頭に一瞬、そんな考えが浮かぶ。だが、彼女はそれを即座に否定した。これはそんな物ではない。
(違う。これは)
平穏を生きる者には、決して向けられる事がない筈の、強大な悪意。隠す事すらしない。此方の様子を楽しむような、残酷な感情。
「悪意だ」
由香里を守るように立ち上がった七瀬が、由香里の心の声に応えるように、呆然とした様子で呟く。
――世界が、悪意に覆われた。
綾乃は結界がホテルを覆った瞬間。目の前の優希のことも忘れて由香里たちの下へと飛び出した。結界が明確に展開された瞬間、おぞましい、妖魔の気配がそこら中から放たれたからだ。
(ちっ、冗談じゃないわ!)
舌打ちを一つする。オリンピック選手の世界記録さえ塗り替えて、綾乃は友人達の下へと跳躍した。勿論全力である。
由香里たちはそのあまりの速さに驚いているようだが、残念ながら今は、そのアフターケアをしている余裕はなさそうだ。
「ぎゃああぁぁっっ!」
そして、その予想は的中した。
無色透明の身体を持つ妖魔。スライム。おぞましく、全てのまっとうな生命に生理的嫌悪を感じさせるような、それは。
「たっ、助け! 誰か助け」
偶々玄関の傍に立っていた従業員の男の、半身を取り込むという形で、観客達にその脅威を見せ付けたのだ。
男の全身がずぶずぶとスライムに埋まっていき、遂には頭部までもがそれに包まれ、言葉を発する事さえ出来なくなっていく。
そして、見る見るうちに男は干からびていき、遂にはミイラとなって。
――溶けた。
「きゃぁっー!」
その衝撃的で、グロテスクな光景を見てしまった周囲から、次々に悲鳴が上がった。しかし、そんな餌の感情など意に介さないと言うように、入り口からはスライムが続々と、滲み出るように出現していた。
そこで、綾乃は友人達を見た。
「二人とも、大丈夫?」
「……なに? なんなのっ、あれ!?」
「……落ち着いて、由香里!」
由香里はあまりの光景に最初、地面に座り込み呆然としていたが、動揺し感情を爆発させるだけの余裕はあるらしい。
珍しく声を荒げた七瀬の方は、顔色こそ随分と悪いものの、冷静さは失っていないようだった。
行幸だ。これなら、何とか走る事は出来そうだ。
(とはいっても、ここは狭いホテルの中。それも、かなり強い結界の中だ。走って逃げても、安全な場所なんてある筈がないっ)
状況は、絶望的といえた。そこで、綾乃は決断を迫られる。
即ち。自分が異端であると言う事を、大切な友人二人に知られながらも状況打開の為に全力を尽くすか。
それとも、なんとかばれないように消極的に行動して、事なきを得ようとするかを。
しかし、綾乃には直ぐにその答えを出す事が出来なかった。何故なら、綾乃の心は珍しく、恐怖と言う名の感情に怯えていたからだった。
(恐い、怖い、恐いよ。……もしも、もしも二人が、私をあんな目で見たら)
そうして、綾乃は思い出す。
神凪として仕事をこなした綾乃に、依頼主たちが向けてきた、あの眼差しを。
(嫌悪、畏怖、憧憬、拒絶)
あまりに強大な力は、それがたとえ、己に対して向けられた物では無くても、人に脅威を感じさせる。それゆえに、依頼を受けた立場の綾乃でさえ、人々から嫌悪や怯えの視線を向けられる事はしょっちゅうだった。だが、綾乃はこれまで、それらの感情に押しつぶされる事なく生きてきた。
確かに、その視線が気にならないといえば嘘になった。だけど、彼らの感情は綾乃も理解できたし、ならばその視線とは「そういう物」なのだろうと、既に綾乃は結論付けていたのだ。
しかし、その視線を向けるのがもしも、由香里と七瀬だったとしたら?
綾乃が怯えている物の正体。それは「絆の喪失」だったのだ。
(どうすればっ。どうすればいいのよっ!)
決断のつかない綾乃。スライムは、まるでこちらを怯えさせるように、ゆっくりと増殖し、逃げ場を塞いでいた。時間は無い。今すぐにでも動かなければならなかった。けれど、何時までたっても綾乃の身体は動こうとはしない。動く事が、出来なかった。
――そんな時、綾乃の迷いを断ち切るかのように、ロビーに凛とした少女の声が響いた。
「――汝、精霊の加護を受けし者よ! その力は誰が為に!?」
「っ!」
凛とした声。その言葉が耳に入ると共に、綾乃の鼓動が、どくん、と大きく跳ねた。
綾乃の耳に、炎の精霊たちの声が聞こえた。世界に満ちる、同胞の存在を綾乃は全身で感じとっていた。
綾乃には炎術師として。そして友として、果たすべき責任がある。優希の声は、そのことを綾乃に思い出させたのだ。
(私はっ。私は『神凪』綾乃として――)
増殖に増殖を重ねたスライムたちが、壁という壁を伝い世界を自分達で染めていく。その結果、人々は追いやられるようにロビーの中心へと集まっていった。
そして、まるでその時を狙っていたかのように、充分な量を揃えたスライム達は、遂に上下左右から獲物を貪る為に、一斉に綾乃たちの下へと跳躍した。
「きゃぁー!」
悲鳴が響く。だが。今の綾乃にもう、迷いはない。
「――我が力は護る為に!!!」
世界が一瞬、輝いた。
ばんっ、と、凄まじい衝撃音とともに、綾乃から湧き出た黄金の炎の波が、襲い掛かるスライムを一瞬にして消滅させたのだった。
「あや、の……?」
綾乃の衝撃波は一人として傷つけることなく、正確にスライムを打ち払った。その為、怪我人は一切出ていない。
七瀬の呆然とするような声が聞こえたが、流石に今の綾乃には振り返る勇気が無かった。だから、綾乃はただ、今この場で一番、自分を睨みつけている少女に返す言葉を続けた。
――貴女の言葉は、確かに届いたのだと。
「――精霊の協力者として世の歪みたる妖魔を討ち、理を護るが我らの務め。しかして人たることも忘れず……」
綾乃は堂々とした態度で、言葉を続けた。
更に吹き上がる黄金の炎。それは、綾乃の手で凝縮され、降魔の神剣。炎雷覇が出現する。
しかし、それでも吹き上がる黄金は、その勢いを衰えさせる事無く綾乃の下へと集束していった。限界など無いかのように、綾乃から湧き出る力は上昇を続けた。
そして、綾乃はようやく二人の友人の顔を見た。
「二人とも、恐がっても良い。怯えられても良い。だけど――護るから。絶対に、護るから」
呆けたような表情をする友人に、綾乃は優しく語り掛ける。自分の声が、頭に届いているかは関係ない。ただ、少しでも荒れた精神が和らげば良いと、綾乃はそう思って微笑んだ。
――黄金が更にその輝きを増し、遂に炎雷覇が朱金の輝きを纏う。
そして少しの間、二人の顔を見つめていた綾乃は、正面を見据え、炎雷覇を強く握り締めると。
「だから。だからこの力は! ――大切な人を護る為にっ!!!」
点を突くように、その全ての力を解放した。轟音と共にホテルに炎柱が立ち上る。
一切の歪みを認めない強大な力は、完全に結界を消滅させ、世界はあるべき姿へと戻っていった。軽々と結界を打ち破り、現実世界のホテルすら打ち抜いて、それは余波だけで周囲の妖魔を殲滅していった。
――その後。自分の発言の痛さに転げまわる一人の少女と、空からにやにやと現場を見下ろす青年がいたという事実があるのだが、それは全くの余談である。