―――鑢七花ら襲撃直後に遡る
「侵入者ですか…思ったより早く動いてきましたね」
「どうするっす、劉豹様?」
「うーん…」
ちょうど、劉豹が、桃香の宣戦布告を受け取った直後、伝令を受け取った郭淮が、部屋に飛び込んできた。
郭淮の話では、許昌に乗り込んできた襲撃者―――七花達が、白装束らを蹴散らし、暴れているとのことだった。
郭淮から支持を求められた劉豹は、少しばかり考えた後、桃香らに向き直った。
「な、何ですか…? 」
「ああ、そんなに怯えないでください。今から、僕達は、襲撃者を迎え討ちに行きます。部屋の鍵は開けておきますから、いつでも、出ていっていいですよ。双識さんは、きちんと二人を鑢軍あたりに送ってあげてくださいね」
「え、でも、それって、見張りの人は…? 」
先ほどの宣戦布告の一件もあったため、桃香は、劉豹を警戒してか、無意識の内に身構えた。
対する劉豹は、苦笑いをしながら、宥めるように桃香を落ち着かせると、まるで、ここからの脱走を促すような発言と共に、部屋から出ていこうとした。
劉豹の行動に呆気にとられた桃香は、思わず、出ていこうとする劉豹を呼び止めた。
「見張り? 帰っていく客人に対して、そんな人必要ないじゃないですか」
「客人って…あなた達は、私達を捕虜にしたはずじゃなかったの」
「うーん、なんか勘違いしていませんか? 私は、あなた方を捕虜だと思っていませんよ。まぁ、ちょっと強引に招待させてもらったお客人というところですかね」
一方、呼び止められた劉豹は、とぼけるような口調で、桃香に、見張りを付けない理由を返した。
これには、曹操も首を傾げ、非合理的ともいえる劉豹の言葉に納得できなかった。
もっとも、劉豹は、桃香達を、敵と見做しておらず、あくまで客人として接していたのだと語った。
「じゃ、僕はこれで!! 次に会う時までに、良い答えを期待してますからーv」
「…出て行っちゃった」
そう言い残すと、劉豹は、郭淮と共に、再び会う事を楽しみつつ、何処かへ走り去って行った。
さすがの桃香も、これにはただ、劉豹の後ろ姿を見送るだけしかなかった。
鍵をかけらていない部屋に残っているのは、桃香と曹操、そして、双識だけとなった。
「どうしよう、曹操さん? 」
「どうもこうもないわよ…春蘭達の方も心配しているだろうし、劉豹の御言葉に甘えるとしようかしら」
「僕としても、その意見に賛成だね。それじゃあ、劉備さん、華り―――ドスっ!!―――そ、曹操ちゃん、ここから、逃げだすといきますか」
とりあえず、桃香は、この状況を飲み込めず、どうしたものかと、曹操に尋ねた。
対する、曹操は溜息をつきつつ、春蘭達と合流する為に、許昌から逃げだす事にした。
ひとまず、どさくさにまぎれて、真名を呼ぼうとした双識のわき腹を、殴りつつ―――。
桃香達が脱走するまでの経緯を語りつつ、恋姫語、はじまり、はじまり…
第34話<策謀暗躍>
―――七花達が許昌を強襲した同時刻
「はうぅ…どうしましょう…やっぱり、ご主人様達が、何処にもいません…!!」
「こちらは、春蘭と軋識の姿が見えません…昨晩の内に、いなくなったと考えるべきでしょうね…」
慌てふためく朱里と顔を曇らせる郭嘉―――晋軍に対抗する為に手を結んだ鑢軍と曹操軍の面子は、二人の軍師と同じように、頭を抱えていた。
その原因は、再び、本陣を抜け出していった七花達の事だった。
今朝がた、晋軍に対する軍議を開こうとした時、鈴々が、七花達が居ない事に気付いた。
まさかと思った愛紗が、動かせる兵士らを使って、七花達を探させたのだ。
結局、七花達は見つからず、本陣の何処にもいない事が分かったのだ。
「まさか、ご主人様達…許昌に乗り込んでいったんじゃないの? 」
「あり得るわね…ご主人様も相当堪えていたようだから…」
「春蘭さんや軋識さんについても、そうですねぇ~ちょっと、先走りしすぎのような気もしますが」
七花達が、桃香達を助けに向かったのではと言う蒲公英に対し、顔を曇らせた紫苑も心当たりを口にしながら、頷いた。
それに対し、けだるそうにしていた程昱も、蒲公英と紫苑の意見に賛成した。
春蘭と軋識と同僚である程昱は、二人が曹操達を守れなかった事に、責任を感じていたのを知っていた。
その為、程昱は、春蘭と軋識が、七花達と共に、曹操達を助けに行ったであろうと考えていた。
七花達がいなくなったのは、桃香達を助ける為の行動である事は、この場にいる誰もが分かっていた。
「でも、ご主人様達だけで、攻め込むなんて、無茶し過ぎなのだ!! 」
「春蘭様にしたって、そうだよー!! 僕達に内緒にして、勝手に出ていくなんて!! 」
「うん…さすがに、ちょっとひどいよ」
とはいえ、頬を膨らませ、声を荒げて怒る鈴々や許緒、典韋のように、置いてけぼりを喰らう事になった将達にとっては、納得できるものではなかった。
鈴々らとしても、今すぐ、桃香を助けに行きたいのは、同じなのだ。
「…どうせ、七花殿の事だ。私達がいなくても、大丈夫だと思ったのでしょう。恋さえいれば、何にも問題ないのだ」
「ふむ…随分と、やさぐれている、愛紗。自分じゃなく、恋を連れていった主殿に不満なのか?」
「…っ!! そのような事など、断じてない!! 私は、そのような不純な動機で…!! 」
そんな憤りを感じる鈴々らに対し、鑢軍の将の中で、最も不満に思っているであろう愛紗は、不貞腐れた表情で、投げやりな口調で呟いた。
ただ、愛紗の不満は、自分達に何も告げず、七花達だけで、桃香を助けに行ったことだけでなかった。
自分ではなく、この事態を招いた恋を連れていった事に、不満を感じていたのだ。
そんな愛紗の心境を見抜いた星は、からかうように愛紗を挑発した。
図星を突かれた愛紗は、捲し立てるように否定し、うなだれるように、星から顔を背けた。
「それで、軍師殿達は、どう動くつもりじゃ? 」
「…すぐに、軍の編成をして、許昌へ向かいます」
「正直、今の戦力じゃ、許昌を攻め込むなんて、無理よ。兵力差から見ても、かなり厳しいわね」
「攻城兵器にしたって、昨日の戦で、ほとんど壊されているし…ほんっとうに抜け目ないわよ、あいつら…」
ひとまず、愛紗と星のやり取りに頭を抱えながら、桔梗は、軍師らに今後の動きを尋ねた。
桔梗の問いに、雛里は、孤軍奮闘しているであろう七花達を助ける為に、鑢軍と曹操軍の残存兵を纏めて、許昌を攻め込む算段を立てていた。
だが、晋軍との戦での痛手は大きく、詠の言うとおり、戦力はかなり不足していた。
しかも、城攻兵器のほとんどを破壊され、兵力任せの純粋な力押しという最悪の選択しか残されていなかった。
この晋軍の手際の良さに、筍彧は忌々しげに、皮肉を交えながら、賞賛した。
「た、大変なのー!! 皆、大変なのー!! 」
「ちょいやばい事になるかもしれんで!! 」
「どうしたんだ、二人とも? 何かあったのか? 」
とその時、周辺の偵察に出かけていたはずの李典、于禁の二人が、慌てた様子で、陣幕に飛び込んできた。
李典と于禁の慌てぶりに、首をひねる夏侯淵に、後からやってきた楽進が、冷静に答えた。
「…現在、我らの陣の後方に、2,3万ほどの軍勢が陣取っています」
「何? 」
「まさか、晋軍が動いたの? 」
「くっ、おのれ!! 桃香様を捕らえた仕返しに、返り討ちにしてやる!! 」
楽進の報告―――正体不明の軍勢が陣取っているという事に、夏侯淵だけでなく、この場にいる全員に緊張が走った。
もし、青ざめた詠の言うとおり、晋軍が襲撃を仕掛けてきたなら、両軍の編成を終えていないため、かなり危険な状態であった。
もっとも、桃香に好意を抱いている焔耶にとっては、憎い仇がやってきたという事であった。
すぐさま、焔耶は、得物である金棒を手に、外に飛び出していった。
「さぁ、どっからでも―――って、あれ? 」
「どうした、焔耶!! ん?」
そして、いざ突撃しようとした瞬間、焔耶は、間の抜けた声を出して、その場に立ち止まった。
焔耶の様子に首を傾げる愛紗であったが、すぐさまその理由は判明することとなった。
「やっほーv 久しぶりね、皆。結構、コテンパンにやられたみたいじゃないの」
「「「「「「「「ひ、否定姫(さん、殿)!! 」」」」」」」
金色の短髪。
青い目。
透き通るように白い肌。
そして、不忍と書かれた仮面。
鑢軍の誰もがよく知るその人物―――否定姫は、心配しているのか、おちょくっているのか分からない事を言いながら、現れた。
―――許昌・市街地東地区
「おらぁああああああああ!!」
『かっかっかっかかっかあああああああああああああ!!』
愛用の得物である<愚神礼讃>を振るいながら、周りのものごと粉砕しようとする軋識。
両腕のバネを伸ばしながら、両手に備えた鋭い鉤爪で切り刻もうとする李儒。
一進一退の攻防線を続ける二人の零崎は、誰もいない市街地の中で、兄弟喧嘩という殺し合いを続けていた。
『そこっ!! 』
バネ足で高く舞い上がった李儒は、軋識に向かって、鞭を振り下ろす様に、左のバネ腕を投げつけた。
バネ腕は唸りをあげて、迫ってきた鉤爪付きの手を広げて、軋識の頭を掴まんとした。
「んなもん、喰らうちゃっか!! 」
『っ!? 』
だが、軋識は、<愚神礼讃>を構えると、襲いかかってきた李儒の左手をそのまま、フルスイングで撃ち返した。
たった一撃―――軋識が振るった<愚神礼讃>の一撃は、李儒の左手をグシャグシャに叩き潰した。
だが、左手を潰された李儒は、人形の体ゆえに、痛みを感じる事のないまま、喜悦の声を上げた。
『さすが、軋兄!! こんなに殺しづらい相手は初めてですよ!! 』
「当然ちゃ!! 零崎の殺人鬼が、そう簡単に殺されるわけねーちゃよ!! 」
『それも、そうですね!! だからこそ、軋兄を殺す必要がある―――そう、私が、零崎一賊であるのかを知る為に!! 』
もし、李儒―――<堕落錯誤>に、表情を変えられる機能があれば、間違いなく、その顔は笑顔を浮かんでいたであろう。
裏切り者の制裁とはいえ、不本意な家族同士の殺し合いに、軋識は、苛立ちを隠せないでいた。
だが、李儒は、其れに構うことなく、機能された感情に身を任せながら、自身の目的を高らかに宣言した。
「…聞き捨てならないちゃね。零崎一賊である事を知る為って、どういうことちゃ? 」
『…私が、生身の人間だった頃、ずっと考えていた事がありましてね。もしかしたら、自分は、零崎一賊のような殺人鬼を演じているだけじゃないかって…』
生前からは考えられない李儒の変貌を見て、落ち着きを取り戻した軋識は、いぶかしむ様に問うた。
対する李儒は、興奮を抑えるように、生きていた頃の自分が―――儒識が、抱いていた歪みを語り始めた。
元々、零崎一賊の一員になる前、儒識は、匂宮などの<殺し名>や、対極に位置する<呪い名>、玖渚機関、四神一鏡の各組織を渡り歩いていた。
ふらりとその組織に這入り込んでは、居心地が悪くなれば、後腐れの無い様に出ていく―――儒識は、その組織の人間を演じながら、根なし草のような生活をしていた。
最初は、零崎一賊も、他の組織と同じように出ていくつもりだった。
だけれども、家族として迎えられた儒識は、初めて、家族と言うモノを知り、居心地の良さを感じた。
ここで、一生を終えようとも考えた。
その後も、儒識は、他の家族とともに、一賊の一員として、活動していた。
―――ある存在と出会うまでは。
『だけれど、彼を―――人識を見るたびに、不安になったのです』
零崎人識―――零崎一賊の鬼子にして、一賊同士の間で生まれた血統書付きの零崎。
だが、これまで各組織を渡り歩いていた儒識にとっては、人識の存在は、あまりに異質だった。
資質や素質云々を差し引いても、零崎らしくなかった。
そんな人識を見て、儒識は、不安にかられ始めた―――自分は、これまでと同じように、零崎一賊の殺人鬼を演じていただけなのではないかと!!
『故に、私は知らなければならない…!! はたして、私は、李儒は、零崎儒識は、正真正銘の零崎一賊の人間であるのか!! 或いは、ただ、これまでのように、そう思い込んで、演じているだけなのかを!! 』
「その為に、レンを売ったのかちゃ…家族を裏切ったかちゃ…」
『是非もなしです…双兄では、私を殺せませんからね。私が、一方的に殺すだけでは、意味がない。家族同士で、全力で殺し合うからこそ、意味があるのですから』
自己の再確認のために裏切った儒識―――否、李儒を、軋識は静かに、見据えた。
もはや、軋識には、李儒と言う名の人形を、零崎儒識と見做していなかった。
あそこにいるのは、儒識だったころの妄執だけが再現されただけの自動人形だった。
「…そりゃ、良かったちゃな。俺は、レンとは、あんな変態とは違って、甘くない。家族に害をなすなら、遠慮なく殺すちゃ」
『…だからこそ、軋兄を選んだんです』
「そうか…なら―――」
本気で自分を殺さんとする軋識を前にしても、李儒は揺らぐことなかった。
破壊された左腕をもぎ取った李儒は、右手の鉤爪を伸ばしながら、自分を殺しにくる軋識を迎え撃たんとした。
そして、軋識は、<愚神礼讃>を上段から振り構えると、李儒に叩き込まんとした。
「―――かるーく零崎を始めるちゃ」
―――この場に、双識が居ない事を幸いに思いながら。
―――許昌・市街地西地区
「ぜーぜー…ようやく、背に乗れたぞ…し、死ぬかと思った」
「チッ…」
「おい、今、舌うちしなかったか? 舌打ちしたよな!? 」
半泣きになりながら、首にしがみついていた春蘭は、どうにか的櫨の背中に辿り着いた。
的櫨としては、主以外の人間に乗せるのが嫌なのか、うっとしそうに舌打ちした。
そんな的櫨に喰ってかかる春蘭であったが、すぐさま、周囲の異変を感じた。
街の建物から、次々と、辺りを覆い付くほどの、白い煙が漂ってきたのだ。
「何だ…焼き打ちでも、始めたのか? 」
顔をしかめた春蘭は、敬愛する華琳様の城を乗っ取った挙句、火を放った晋軍に苛立ちを隠せないでいた。
その直後、放たれた一本の矢が、深く漂う煙を吹き飛ばしながら、春蘭の頬を掠めた。
「…っ!! 今度は、こっちを狙ってきたか!! 射手は…あそこか!! 」
敵の弓兵が、自分に狙っている事を知った春蘭は、すぐさま臨戦態勢に入った。
剣を手にした春蘭は、次々と放たれくる矢を切り払いながら、的櫨をさらに走らせた。
煙を吹き飛ばすほどの矢が放たれたのならば、敵との距離はそう遠くない筈だ。
ならば、このまま、一気に接近戦に持ち込めば、分はこちらにある!!
「よし…このまま―――キンゥ!!―――何!? 」
半ば、勝利を確信していた春蘭は、不意に放たれた一本の矢に驚きを隠せなかった。
剣で矢を受け流した春蘭が、驚いたのは、不意を突かれた事ではなく、放たれた矢の向かってきた方向だった。
その矢は、これまで放たれた矢とは違い、狙える筈の無い春蘭の背後から迫ってきたのだ。
「ば、馬鹿な!! 逆方向から撃ってきただと!! そんな馬鹿な―――ヒュン!!―――今度は、左からって!! どうなっているんだ!! 」
予想外の事に戸惑うしかない春蘭であったが、またもや、矢は別方向から射られた。
如何に距離があるとはいえ、敵の弓兵が、僅か数秒の間に後方に回りこむ事など不可能である。
そして、春蘭にとって、何より問題なのは―――
「くっ!! いったい、敵は、どこにいるんだ!!」
―――次々に別方向から射られてくる矢によって、敵の弓兵の居場所を、完全に見失ってしまったという事だ。
図らずも、春蘭は、抜け道の無い消耗戦を強いられようとしていた。
「おーおー混乱してるッすね。そりゃ、まぁ、どこから撃ってくるのか分からなければ、仕方がないっすけど」
一方、射手である郭淮は、慌てふためく春蘭の姿を見ながら、軽口を叩いていた。
予定通り、郭淮が仕込んだ狩り場へと、獲物である春蘭を誘い込むことが出来た。
後は、確実に仕留める為に、じっくりと、獲物を消耗させていけばいい。
卑怯とも思われるかもしれないが、弓を番えた郭淮にとっては、関係の無い事だった。
「盲夏侯…あたしの、あたし達の矢は、狙った獲物を逃しはしないっすよ―――ハリネズミは覚悟してくださいっす」
―――狩人が、獲物を仕留めるのに、正々堂々やる道理はないっすからね。
なぜなら、郭淮にとって、春蘭は戦うべき敵ではなく、単なる獲物としか映っていなかったのだから。
同時刻、桃香らを救出にきた七花は、桃香らが囚われている筈の、曹操の居城に潜入していた。
「…しかし、門が開けっぱなしで、守る兵もいない。随分と不用心なんだな」
ただし、七花は、開かれたままの表門から、堂々と入っただけなのだが。
さらに、七花が城に入って気付いたのは、晋軍の兵士が、城の何処にも見当たらない事だった。
普通なら、侵入者である七花らを捕らえる為に、もっと多くの兵が居る筈なのだが…
「ま、いっか。さて、桃香達は、どこにいるんだ…? 」
もっとも、七花が考えたのは、そこまでだった。
元々、考えるという事をあまりしない七花は、城に兵が居ない理由を考えるより、桃香達を助ける事を優先する事にした。
とりあえず、七花は、囚われた桃香達を探そうと、兵のいない城の中を手当たり次第に回ろうとした。
「ここに、最初に来たのは、天下無双の虚刀流みたいね」
「えっ? 」
と次の瞬間、何時からそこにいたのか、七花の背後に現れた何者かが、声をかけてきた。
思わず、七花は、驚きを隠せないまま、とっさに後ろを振り返った。
それは、いつの間にか背後を取られていたからではなく、その声の主が、七花の良く知る人物のものだったからだ。
「裏切り同盟が一人―――時宮時雨」
そして、現れた。
誰もいない城の、回廊の奥から、現れた。
―――透き通るように白い肌
―――触れただけで壊れてしまいそうな細い体
―――邪悪な微笑みを浮かべながら、こちらを見つめる冷たい目
時宮時雨を名乗る、七花の良く知る人物がそこにいた―――
「ね、姉ちゃん…!? 」
―――鑢七花の姉にして、前日本最強である鑢七実(ななみ)その人が!!
これには、七花が、驚くのも無理はなかった。
なぜなら、七実は、完成型変体刀蒐集の際に、弟である七花との闘いで、七花が殺した筈なのだ。
「何で、姉ちゃんが、ここに…!!」
「姉ちゃん? 違うわ…言ったでしょ―――私は、裏切り同盟が一人、時宮時雨よ。そう、あなたには、私が姉に見えるという事ね。意外ね。まさか、虚刀流の身内に偽装するとは思わなかったわ」
死んだはずの七実が現れ、たじろぐ七花に対し、その『鑢七実』はあっさりと否定した。
そして、『鑢七実』は、自身を時宮時雨と名乗りながら、七花の前で、種明かしを始めた。
「想操術―――簡単に言うなら、相手の精神に干渉し幻覚を見せる技よ。時宮は、その専門家なの。そして、私は今、あなたの知る限り、絶対に勝てない敵を―――再現しているはずよ」
「ああ、なるほどな…そういや、軋識が言ってたな」
時雨は、敵である七花の前で、ペラペラと手の内を明かした。
その時、七花は、許昌への奇襲を仕掛ける道中で、軋識から聞いた話を思い出した。
軋識曰く、桃香らを襲った時宮時雨は、戦わない事に長けた非戦闘集団<呪い名>である事。
その中で、時雨が、他者の精神に侵入し、幻覚を見せる術―――想操術の使い手の集団<時宮病院>に所属している事。
そして、七花が、もっとも戦闘を避けなければならない相手であるという事を!!
初めは、さすがの七花も、軋識の話をなかなか信じられなかった。
しかし、現に、自分の目の前にいる時雨を、偽物と分かっていても、七実としか認識できない以上、事実を認めるしかなかった。
「けど、良いのかよ。そんな簡単に手の内を明かしてもさ? 」
「構わないわ。いえ、正確には、良いと言った方が良いのかしらね」
あっさりと手の内を明かす時雨を、七花は、不審に思いつつ、その事を指摘した。
だが、手の内を明かすという事は、時雨にとって、不利でもなんでもなかった。
時雨にとって手の内を明かすという事は―――暗示の更なる強化を意味するからだ。
より深く、深みに追い込むために―――その為に、時雨は、あえて、七花の前で語ったのだ。
「ついでに、教えてあげるわ。今、劉備達が脱走中なの。私を早く倒せば、あいつらに見つかる前に、合流できるかもしれないわ…。多分そんな事を聞いたら、あなたはより強く、私を倒そうと思うでしょ。なんたって、劉備達が逃げだしている絶好の機会を逃すわけにはいかない。絶対に私を倒そうとするわね」
「そうなのか? まぁ、あんたの言うとおり、あんたを倒すつもりだったけど…」
そして、時雨はさらに手を明かしてく。
戦略として―――桃香達が、逃げている事を暴露した。
桃香達が逃げだした事を知った七花は、驚きつつも、時雨を倒さなければならない理由が出来た。
「けれど、あなたがそう思えば、思うほど、私を倒す事は不可能なの。なぜなら、そういう暗示を仕掛けたのだから。達成不可能な目標としての私なの。あがけばあがくほど、聳え立つ壁なのよ」
だが、そんな七花を前にしても、時雨は―――七実のように邪悪な笑みを浮かべていた。
あくまでも、七花には、そう見えた。
押すなといわれたら、人間、逆にもっと押したくなるように―――七花が倒そうとしても、七実の幻覚を見せる時雨に倒す事は出来ないのだ。
なぜなら、七花が絶対に勝てないという暗示を掛けられているからこそ、目の前の時雨を、七実としか認識できないのだから!!
「非戦闘集団である呪い名が、天下無双の称号を手に入れるなんて、皮肉だと思わない。せめてもの、情よ。全力で殺してあげるわ。―――さぁ、あなたの幻想に殺されなさい!! 」
邪悪な笑みを浮かべながら、時雨は一歩を踏み出した。
戦う為に。
戦わない為に。
七花に―――全力で襲いかかった。
「ああ、そうかよ。ただし、その頃には―――」
全力で迫りくる七実の姿をした時雨を前に、七花は―――
そして、曹操の居城では、劉豹から話を聞いた左慈と于吉が、逃亡した桃香達を探していた。
「ちぃ!! たった5人程度の相手に、ここまで手こずるだと!! そんな馬鹿な事があってたまるか!! 」
「まったくです。それに、劉備達に逃げられたのが、一番の痛手でしたね」
だが、桃香達が見つからないだけでなく、侵入した七花達を討ち取れない事に、左慈は、苛立ちを隠せないでいた。
これには、于吉も、左慈の言葉に、同意せざるを得なかった。
もし、桃香達が逃げだしていなければ、暗示をかけて、七花らに対する人質にするなどの手段があった。
「それもこれも、劉豹の責任だ!! あいつが、あんな温いやり方をしなければ、こんな事にはならなかったんだ!! 」
「ふぅ…左慈、少しは落ち着いて…ん!? 」
劉豹のやり方に不満を爆発させる左慈を、溜息をつきながら、于吉は宥めようとした。
その時、于吉の中で、電流が走った!!
もし、劉豹が、わざと桃香達を逃がしたのだとしたら?
もし、それが、于吉達の眼を、劉豹から逸らす為の策だとしたら?
そもそも、なぜ、城の中が、これほどまでに静かなのか?
そして、なぜ、七花達を迎え撃つために用意するであろう、晋軍の秘密兵器である火縄銃の銃声が、何処からも聞こえないのか?
于吉にとって、この七花達の奇襲において、偶然だけでは説明できない不審な点が、あまりにも多過ぎた。
「まさか…いえ、しかし、或いは…左慈、劉豹は何処に行ったのですか? 」
「何処にだと? そういえば、いつの間にかいなくなっていたが…」
嫌な予感を感じ取った于吉は、劉豹が何処にいるのか、左慈に尋ねた。
于吉の問いに、左慈は、怪訝な表情を浮かべながら、劉豹が居なくなっている事に気付いた。
「左慈…もう一つ聞きます―――今まで、鑢七花達に、晋軍の兵士が倒されたという報告は入ってきていますか? 」
「…いきなり、何を言い出すんだ? そんな報告は一度も―――!! 」
そして、ある事実を予感しつつ、于吉は、予感を確信へと変える事になる問いを、左慈に尋ねた。
訳のわからない事を聞かれた左慈は、うんざりしながら答えようとして、ありえない事に気付いたのか、顔を強張らせた。
これまで、七花らが倒したのは、左慈らの配下である白装束達だけ―――劉豹の従える晋軍の兵士が倒されたという報告は一つも入っていないという事に!!
あれだけ、襲撃を仕掛けてきた白装束達を蹴散らしたのにもかかわらず、晋軍の兵士がやられていないなど、あり得ない事だった。
「なん…だと…? 何がどうなっているんだ、于吉!! 」
「簡単な事ですよ、左慈―――」
この事実を突きつけられた左慈は、動揺を隠すことなく、怒鳴る様に、于吉を問い詰めた。
そんな左慈に対し、于吉は、自分達をはめた男を忌々しげに思いながら、事実だけを告げた。
許昌を占拠していたはずの劉豹らを含む晋軍のほぼ全てが―――
「私達は、劉豹に嵌められたという事です…」
―――既に、許昌から撤退しているという事に!!