時はさかのぼる事、張遼襲来とともに、鑢軍と曹操軍の戦が始まった頃、この戦の勝敗を左右しないものの、もう一つの戦が始まっていた。
「…」
「―――っ!!くそっ、兵を下がらせろ!!こ奴の強さ、尋常ではない…!!」
「くっ…まさか、このような化け物がいようとは…」
肩に傷を負いつつ、兵に指示を出す黄蓋と、悪態をつきながら、間合いを測る甘寧―――呉の誇る猛将二人は、正体不明の敵に苦戦を強いられていた。
否、この場合は、こういうべきなのであろう―――鑢軍への援軍のために、赴いた孫権率いる呉の軍勢五千の兵は、たった一人に進軍を阻まれていた。
すでに何百人もの兵を斬り倒し、黄蓋と甘寧の二人でさえあしらうほどの武を持ち、向こう側が透けて見えるほど、刀身が薄く、それ故に美しい刀を持つ、虎の仮面を被った剣士によって。
「ッ…まさか、これほどとは!!」
「ま、不味いです!!このままだと、合戦終了まで足止めされちゃいます!!」
「何とかしないと…!!」
予想外の敵に、進撃をはばまれ、さすがの孫権も焦らずにはいられなかった。
軍師として同行していた陸遜や呂蒙らも、弓兵部隊を動かし、遠距離から虎仮面の剣士を討とうとした。
しかし、虎仮面の剣士は、ただ素振りをするだけで、地面を割り、天を裂き、全てを吹き飛ばす暴風を生み出し、矢を防いだ。
そして、逆に呉の軍勢は、放った矢ごと弓兵部隊を蹴散らされ、まったくなすすべがなかった。
「幸いなのは、相手が動かないという所なんですけど…」
呂蒙の言うように、圧倒的な力を振るう虎仮面の剣士であったが、どうやら、足止めさえすれば充分なのか、進撃をしない限りは、むこうも手を出す事はなかった。
だが、そうかといって、鑢軍を救援しないまま、このまま引き返す事も出来ず、呉の猛将二人を退け、立ちはだかる虎仮面の剣士を前に、呉の軍勢は手を出せないまま、動けないでいた。
ただ、二人を除いては―――。
「参りましたねぇ…あの人に勝てる気が全然しませんよ…」
「誉(よ)くて、忘腺(ぼうせん)といったところか。こいつは、独楽った、独楽った」
至極けだるそうに困りながら、呟く石凪萌太と、同じく面倒くさそうに額を掻く真庭白鷺は、虎仮面の剣士を相手に、被害を広げないように防戦に徹する事で、辛うじて、善戦していた。
ただし、それは、殺し名序列七位の死神と真庭忍軍十二頭領の一人を持ってしても、虎仮面の剣士を倒すどころか、攻めきることも、傷一つ負わせる事さえできないと言う事でもあった。
「…」
「それにしても恐ろしい相手ですね」
「そうだな。折でも、過てるか、どうか…」
「いえ、それもそうなんですけど…僕が恐ろしいと言ったのは―――」
思わぬ強敵に、同僚である狂犬らすら、見た事もない弱気な発言をする白鷺に対し、萌太は、虎仮面の剣士が、恐ろしいという本当の理由を話した。
「―――この人は、もう死んでいるはずなのに、未だに生きているという事なんです」
「なんだと…?」
いぶかしむ萌太の言葉に、思わず、白鷺は普通の口調になるくらい驚きの声をあげた。
「私は…」
「「!!」」
とここで、虎仮面の剣士が、ここにきて、初めて、言葉をしゃべりだした。
そして、虎仮面の剣士が、刀を構え、突きの体勢を取りながら、萌太と白鷺の二人に対し、静かに名乗りをあげた。
「…私は、虎翼(こよく)。称号は、涅槃樹林。ここから先は、通さない―――がお」
たった二文字の語尾によって、一気に緊張感が打ち砕かれたところで、恋姫語、はじまり、はじまり
第29話<回天流浪>
一方、一大会戦を予測されていた鑢軍と曹操軍の戦は、主力武将のほぼ全てを張遼に偽装させ、鑢軍の戦力を分散させるという曹操軍の策により、乱戦の様相を呈していた。
それは、鑢軍の本隊を守る為に、殿として残った鈴々達も同じだった。
「よくも鈴々達を騙したのだー!!このちびっ子ぉー!!」
「ちびっ子言うなぁー!!騙された、そっちが悪いんだ、ちびっ子―!!」
互いに罵りながら、鈴々と許緒は、爆音を轟かせながら、激しい攻防戦を繰り広げていた。
鈴々と同じく怪力自慢の許緒が、棘付き巨大鎖鉄球を、鈴々に目掛けて、次々に振り回しながら、攻め立てる。
対する鈴々も、いきつく間もなく、迫りくる必殺の巨大鉄球をかわしながら、許緒に対抗するように、得物である蛇矛を振るい、斬りかかろうとする。
鈴々と許緒―――二人の一騎打ちは、文字通り、大気が震え、地面が揺れるほどの一騎打ちとなっていた。
「言い訳するななのだ、ぺったんこぉー!!」
「そっちもだろう!!こんのぉつるぺたー!!」
若干、緊張感に欠ける口げんかを交えながらであるが。
もっとも、それは焔耶と典韋の一騎打ちでも同じであったのだが…
「ここから、先は一歩も通さん―――!!」
「こっちだって、負けませんからぁ―――!!」
一歩たりとも先へは進ませまいと、不退転の覚悟で挑む焔耶に対し、胸の詰め物を外した典韋は、許緒と同じく大威力を誇る巨大ヨーヨーを次から次へと、焔耶に向けて、投げつけた。
「桃香様に指一本触れさせるかああああああああ!!」
「嘘ぉ!!撃ち返したの!!なら、こっちだって!!」
それに対抗するように焔耶は、自慢の怪力と巨大な金棒を使い、唸りを上げて迫る巨大ヨーヨーを、典韋に向けて、幾度も撃ち返した。
さすがの典韋もこれには、目を丸くして驚いたが、すかさず負けじと、巨大ヨーヨーを受け止めると、再び、焔耶に向けて投げつけた。
そして、残る蒲公英と于禁は―――
「うへぇ…なんというか、勘弁してほしいよね…うう、殿なんてするんじゃなかった…」
「ちょ、危ないのー!!もうちょっと、皆、周りを見てー!!後、野郎ども、生きてるかぁー!!」
「こっちは何とか、大丈夫です!!馬岱将軍、鑢軍殿部隊の避難が終わりました!!」
「こっちも、避難完了してますー!!」
激しくぶつかり合う脳筋―――もとい怪力自慢の武将達が、無差別にまき散らす破壊の嵐から、鑢軍、曹操軍に関係なく、蒲公英と于禁は、指示を出しながら、互いの兵士達を庇いつつ、時には助け合いながら、身を守ることに専念していた。
本来なら、殺し合いをしなければいけないのだろうが、そんな余裕さえない位、味方の攻撃から巻き添えを食わないように、身を守る事しかできないくらい、精いっぱいだった。
「とりあえず、向こうが終わるまで、一時休戦でいいよね?」
「さ、賛成なの…」
どうにか、身を隠せそうな窪みに、蒲公英と于禁は、潜り込んで、鈴々達の戦闘がひと段落つくまで、一息つくことにした。
「ところで、さぁ…ちょっと気になる事があるんだけど…」
「何なの?」
とここで、蒲公英は、戦が始まってから、鑢軍の誰もが抱いていた疑問を、張遼と同じ曹操軍の将である于禁に尋ねた。
「結局、本物の張遼は、どこにいるのよ?」
「ああ、それなの?んー、秘密なんだけど…まぁ、どうせ、あなた達が、足止めされたままなら、問題ないか…張遼さんは―――」
これまで、各地に襲来した張遼は、蒲公英の知らない所を含めて、全て、張遼に変装した曹操軍の将であった。
ならば、本物の張遼は何処にいるのか?
蒲公英も駄目もとで、于禁に尋ねてみたのだが、互いに助け合った仲である事と鈴々達の戦闘が終わるまで、鑢軍の兵士達が動けない事もあり、于禁は、そばかすが残る頬を指でこすった。
そして、すこし考えた後、まぁ、形は違えども、任務が達成されている以上、大丈夫かと思い、于禁は、蒲公英に。本物の張遼が何処にいるのか教える事にした。
「ほな、失礼するでぇ!!」
「―――今、通り過ぎたところなの」
「…ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
直後、一頭の馬が、蒲公英と于禁が逃げ込んだ窪みの上を飛び越えていった。
そして、その馬に跨っていたのは、青龍堰月刀を担ぎ、黒い上着を肩にかけ、顔を隠すためなのか覆面をした女―――彼女こそが、張遼本人にだと、于禁はあっさり言った。
一瞬、于禁の言葉に、唖然とする蒲公英だったが、通り過ぎたのが、張遼であったということと、まんまと曹操軍に嵌められた事を知り、驚きの声をあげるしかなかった。
一方、曹操軍の主力部隊と衝突した鑢軍の本隊は、戦場全体を覆い尽くしていた霧が晴れた事、本隊に残った愛紗や翠達の奮戦と、龐徳の攻撃による巻き添えを恐れた曹操軍の兵士が、進撃を止めた事により、どうにか体勢を立て直しかけていた。
「未だ、背後を突いてきた別動部隊が来ない所を見ると、鈴々達がどうにか頑張ってくれているみたいね」
「はい、体勢を立て直しつつある今なら、勝負に打って出るべきです」
どうにか窮地を脱しつつある事に、安堵する詠に対し、望遠鏡にて、戦場の状況を把握していた朱里は真剣な顔つきで、頷いた。
そして、鑢軍の正軍師代理を任された朱里は、曹操軍の別動部隊が未だ、戦場に現れない事を利用し、一気に勝負をつける事にした。
「現在、御主人様と恋さんがおらず、他の皆さんも、愛紗さんを除いては、曹操軍の武将達に足止めされて、体勢を立て直しても、曹操軍の兵力に押されているのが現状です」
「うーん…まだ、不利なんだね…」
「桃香様、実を言えば、これは私達にとっても、絶好の機会でもあるんです」
桃香の不安そうな声を聞き、朱里は、桃香を安心させるように、気遣いながら、地図を広げ、曹操軍の本陣があると思しき、場所を指示した。
「今、現在、曹操軍の将は、ほぼ全て、張遼に偽装して、鈴々ちゃん達の足止めに回っています。でも、これは裏を返せば、曹操軍の主力武将がほとんど出払っているという事なんです」
「そして、僅かに残った将も、翠達のおさえに回った今、手薄となった曹操軍の本陣を付く絶好の機会です」
「…つまり、愛紗ちゃんに兵を預けてさせて、そのまま、曹操軍の本陣に斬り込んでもらうってこと?」
現在の状況を説明する朱里と雛里に対し、桃香は頭をひねらせながら、本陣に残っている愛紗に、その任を任せるのかと、不安げに言った。
しかし、朱里は、首を横に振りながら、それを否定した。
「いえ、もしもの事を考えると、愛紗さんには、本陣を守ってもらった方が無難なので、別の策を用意してみました。すでに、その策の要となる人を助ける為に、救援が、向かっている頃です」
上手くいけば、この戦争を終わらせる事ができる―――これまで、敵の策に翻弄されていた朱里は、ここにきて、勝敗を決める為に、必勝の一手を打つ事にした。
一方、戦場を一方的に蹂躙する巨大鎧武者―――龐徳との一騎打ちに挑む事になった翠は、自慢の馬術を駆使し、隙あれば、槍を振るい、奮戦していた。
「でも、こいつ…おりゃぁ!!」
「攻撃―――ガキン!!―――無駄」
「堅すぎるだろぉ!!全然、こっちの攻撃が通らないぞ!!」
翠が繰り出した槍の一撃は、分厚い鉄の鎧に阻まれ、金属がぶつかり合う音が鳴り響いた。
この一騎打ちの最中、翠が幾度も槍を突き出そうとも、分厚い鉄板のような龐徳の鎧を貫くどころか、鎧に傷一つ負わせることもできなかった。
「粉砕」
「くっ…こっちは、一撃を受けただけで終わり…向こうは、どれだけ攻撃を受けようと全然効かない…は、反則だろぉ」
「反則上等。勝利決着」
さらに、龐徳の繰り出す攻撃の一撃一撃が、当たれば死を免れない、文字通りの、一撃必殺の威力を持っていた。
その為、翠は、体に傷一つつけられない程の防御力と一撃必殺の攻撃力を持つ難敵との一騎打ちに神経をすり減らし、その重圧に押しつぶされそうになっていた。
そして、動きが鈍くなった翠の隙を、龐徳は見逃す事はなく、相手の機動力を奪う為、翠の騎乗する馬に目掛けて、狼牙棍を、抉るように、突き出した。
「うわぁっ!!し、しまった…馬が…!!」
「終結」
これまで、振り下ろすか、薙ぎ払うかの単調な攻撃しか仕掛けてこなかった龐徳の繰り出した一撃に、翠は、直感的に危険を察知し、咄嗟に馬から飛び降りた。
その直後、突き出された狼牙棍によって、翠の乗っていた馬は、四肢と頭部のみを残し、消し飛んだ。
どうにか避ける事に成功した翠であったが、機動力の要である馬を失い、ますます追い込まれた。
そして、龐徳はすぐさま、馬から飛び降りた際の衝撃で、未だ立ちあがれないでいる翠に目掛け、狼牙棍を振り下ろした。
「ぶひぁあああああああああああああああああ!!」
「っ!!」
―――その直後、龐徳と同様に分厚い鎧を着た、巨大な一頭の驢馬:的櫨が、龐徳が振り下ろさんとする狼牙棍の前に立ちはだかった。
結果、それまで一撃必殺を誇っていた龐徳の狼牙棍は、初めて、弾き飛ばされ、 その衝撃で、龐徳自身も生涯初めて、後ろにひっくり返る事になった。
「ぶひん!!」
「的櫨!!お前、どうして、ここに…ん、これは、手紙?」
桃香様の愛驢馬である的櫨が、なぜここ?―――唖然とする翠であったが、的櫨が翠に近づき、首につけてある手紙を翠に差し出した。
訳も分からず、差し出された手紙を読んだ翠は、手紙の内容を理解すると、大きく、そして、暗い笑みを浮かべた。
「なるほど…まぁ、私の主義じゃないけど…今回は、そうも言ってられないか。的櫨、頼む!!」
「ぶひひん!!」
「―――!?逃亡不許!!」
少し自嘲しながら、翠は、的櫨の背に飛び乗ると、龐徳に背を向け、事の成り行きを見守る曹操軍の兵士達―――その中央部隊にむかってすぐさま、的櫨を走らせた。
これには、さすがの龐徳も、翠の行動に、驚きを隠せなかったのか、すぐさま、重い鎧をものともせず走り出し、後を追いかけた。
「どいた、どいたぁー!!錦馬超のお通りだぁ―――!!」
槍を振り回しながら、曹操軍の中央部隊へと斬りこんだ翠は、一気に駆け抜けた。
唖然とする曹操軍の兵士であったが、相手が一人だと言う事を思い出し、すぐさま、翠を討ち取らんと、数に任せて、取り囲もうとした。
そうなるはずだった。
「に、逃げろぉおおおおお!!巻き込まれるぞ―――!!」
しかし、実際には、中央部隊にいた曹操軍の兵士達は、翠の目の前にいた一人の兵士が叫ぶと同時に、「あ、て、てめぇ、自分だけ、逃げるな!!」、「押すなぁ!!は、早くどけぇええええ!!」、「お、おい!!戦列を乱すな!!」などと、慌てふためき、制止を呼び掛ける指揮官の命令を無視し、叫びながら、少しでも、翠から離れようとした。
結果、無理矢理横に逃げようとした、曹操軍の、中央部隊の兵士達に一斉に押され、曹操軍の左翼部隊および右翼部隊の兵士はは、横合いから左右に分断した中央部隊の兵士達と次々に衝突し、一時行軍不能になるほどの、大混乱に陥った。
「よっしゃぁ―――!!的櫨、このまま、中央を一気に抜くぞぉ!!」
「ぶるひぃん!!」
「…っ!!不覚千万!!」
そして、曹操軍の中央部隊が退いたことで、中央に空いた隙間を、誰に阻まれることなくなった事を確信した翠は、的櫨に取り付けられた鎧を外す為の紐を切り解いた。
これにより、重い鎧を脱ぎ捨てた事で、的櫨は、本来の速さを取り戻し、重い鎧を着けながら普通に走る龐徳さえも追いつけない程の速さで、中央部隊の隙間を潜り抜け、曹操軍の本陣へと駆け抜けていった。
これには、さすがの龐徳も自身の迂闊さに気付かない筈がなかった。
なぜ、翠が自分に背を向けて、中央部隊に単騎駆けしたのか。
なぜ、精強な曹操軍の兵士達が、こうも容易く道を開けたのか。
そして、敵の狙いも!!
「標的、曹操!!」
もはや追いつけない程はなされ、本陣に斬り込む、翠の背中を見ながら、龐徳は仮面越しでも分かるほど、悔しさのあまり、歯ぎしりをした。
確かに、龐徳の振るう狼牙棍は、地面を打ち砕く一撃必殺の威力と見る者に痛みを連想させる形状で、敵に恐怖を与え、牽制する事が出来る。
だが、今回、龐徳は、零崎双識と零崎軋識を送り届けた時と、翠との一騎打ちの時に於いて、敵への攻撃の際に、曹操軍の兵士を巻き込んだ事で攻撃を行った事で、味方であるはずの曹操軍の兵士達にも同様の恐怖を与えてしまったのだ。
結果として、翠が中央部隊に突っ込んだ際、曹操軍の兵士達は、龐徳の攻撃に巻き込まれるのを、恐れて、あのような暴走を招くことになった。
この混乱は曹操軍にとって致命的で、既に体勢を立て直した鑢軍の反撃も始まっていた。
そして、悠々と曹操軍の本陣を目指す翠の、鑢軍の狙いは、襲撃部隊が到着する前に、主力武将のいなくなった本陣にいる曹操を討ち取る事に他ならない!!
「敵兵追撃…不可」
もはや追いつけぬと悟り、口惜しげに呟く龐徳の視線の先では、中央部隊を突破した翠が、本陣の入口まで到達しようとしていた。
「…曹操、父上の仇取らせてもらうぜ!!」
一方の翠は、父:馬騰の仇である曹操を討ち取らんと、はやる気持ちを抑えつつも、的櫨を激しく走らせ、守備兵を蹴散らしながら、曹操軍の本陣へと突入した。
的櫨に括り付けられた手紙―――朱里からの手紙によれば、曹操軍の将がほぼ全て出払ている今こそ、本陣の守りが薄く、容易く切り込めるため、曹操を討てる最大の機会だと書かれていた。
「良し…!!これなら…!!」
「遼来々!!遼来々!!」
「!?」
実際、本陣に入った翠は、慌てふためく本陣の守備兵を容易く蹴散らし、本陣の奥へと進む事が出来た。
このまま一気にと、曹操のいる本陣の奥へと向かう為、翠が進もうとした瞬間、覆面をした少女が、張遼だと名乗りをあげた。
思わず、身構える翠であったが、張遼を名乗る少女は、戦う事もなく、ただ翠のすぐ横を通り過ぎて行った。
「なんだ、あれ?張遼だって、言ってたけど…」
翠は、先ほど通り過ぎた、張遼を名乗る少女を追いかけようかと、迷ったが―――
「いや、あれは、張遼じゃなさそうだな。っと、早く、曹操を見つけけるか」
―――少女のある特徴を見た瞬間、すぐさま、張遼を名乗る偽物であると気づき、翠は、本陣にいる愛紗で充分対応できると判断した。
そして、浮足立った中央部隊が立ち直る前に、曹操を討つため、翠は、そのまま、本陣の奥へと突き進んでいった。
これが致命的な間違いであったと気づく事もなく。
―――鑢軍本陣前
一方、戦場では、朱里の仕掛けた策により、戦列を乱し、大混乱に陥った曹操軍を、体勢を立て直した鑢軍の兵士達が、お返しと言わんばかりに、攻め立て始めていた。
「全軍突き進めぇー!!曹操軍が浮足立っている今が、攻める絶好の機会だ!!」
「「「「おぉおおおおおおおおおおおお!!」」」」
声を張り上げて、本陣の前で仁王立ちする愛紗が鑢軍の兵士達に檄を飛ばすと同時に、兵士達の士気は上がり、ここぞとばかりに鑢軍は一気に攻め立てた。
もはや形勢は、鑢軍へと流れ始め、曹操軍の一部では、潰走し始めている部隊も見受けられた。
「ふぅ…どうにか、なったか…。まったく、一時はどうなる事かと…」
「で、伝令!!曹操軍の本陣から、敵兵が一騎、ちょ、張遼が向かってきています!!」
「何ぃ!?」
ようやく安堵の笑みを浮かべる愛紗であったが、伝令の兵士からの報告―――張遼の襲来に、その余裕が一瞬で消え去った。
本陣を守るのは、愛紗のみで、仮に、ここを張遼に突破され、桃香が討たれれば、鑢軍の兵士達の士気は地に落ちることは間違いない。
逆に、敵の総大将を討ち取った事により、曹操軍は息を吹き返し、鑢軍は一気に、壊滅の窮地立たされる。
遂に、この土壇場に於いて、曹操軍はとっておきの切り札を出してきたのだ。
だが、曹操軍の仕掛けた罠は、それだけではなかった。
「ほ、本陣後方より伝令!!本陣の背後に、張遼が迫ってきています!!」
「な、もう一人、張遼だと!?」
続けて、慌てながら、こちらに向かってきた一人の兵士からの報告―――本陣後方からの張遼襲来に、愛紗は驚きと共に、迷いを強いられることになった。
本陣前方と本陣後方―――恐らく、どちらかが、張遼を名乗る偽者であろうが、現在、本陣を守る武将は、愛紗ただ一人だけで、両方を相手にする事もできない。
「どうする…!?さすがに、偽者の相手をしてからでは、間に合わない…!!」
これまでの戦況の流れから、どちらが、本物の張遼であるか、愛紗は、必死になって考えた。
もっとも、最適なのは、愛紗が本物の張遼を倒す間、他の兵士達により、偽物を足止めしてもらうという遣り方だが、どちらが本物か見分けなければならない。
もし、愛紗が迎え撃った相手が偽者だった場合、本物の張遼は、守りの兵士達をものともせずに蹴散らし、本陣が蹂躙される可能性があるからだ。
自分が、曹操ならどうするのか?―――必死になって糸口を見つけようとする愛紗だったが、その間にも、前方から来る張遼は、徐々に迫ってきた。
「いや、待て…あれは…」
そして、前方から迫ってくる張遼の姿を見た瞬間、愛紗はある事に気付いた。
それは、曹操軍の本陣にて、前方から来る張遼が、隣を通り過ぎた際、翠が、すぐさま、そいつを、偽物だと見破ったのと、同じ理由だった。
一方、鑢軍本陣背後から数百メートル後方―――戦友達の援護を受け、張遼は、鑢軍の本陣後方に襲撃を仕掛けんと迫ってきていた。
「…見えたか」
ただ一人、馬を走らせる張遼は、ぽつりと呟きながら、感謝の念を抱かずにはいられなかった。
今頃、張遼に変装した夏侯淵達は、引き付けた鑢軍の武将達を足止めと、己が強さを証明する為、もっとも勝敗が明確で、もっとも勝敗を決するのに、時間の掛かる一騎討ちを挑んでいるのだろう。
全ては、手薄となった鑢軍の本陣への奇襲を成功させる為に!!
ならば…
「なら、見せたるで…うちの意地を、うちら、曹操軍の力を!!」
…どうして、勝利を目前にして、湧き上がるこの高揚感を抑える事など、できようか!!
皆の期待と信頼を一身に受けた張遼の士気は、最高潮にまで達そうとしていた
鑢軍本陣まで、残りあとわずか、目前に迫った勝利を確信し、張遼は―――
「はぁあああああああ!!」
「んな―――っ!!」
――――走らせていた馬が突然重心を崩し、そのまま宙に投げ出されてしまった。
かろうじて、宙で体勢を整えて、地面に着地した張遼が、何が起こったのか、目を巡らした瞬間、息をのんだ。
すでに、張遼が乗っていた馬は、前足の両方を切り捨てられ、出血による末期の痙攣を起こしていた。
そして、張遼の視線の先には、張遼の進撃を阻んだ相手が、堂々と鑢軍本陣の目の前に立ちはだかっていた。
「―――残念だが、最後の奇襲は不発に終わったようだな」
「あ、あんたは…」
何者にも屈さぬ凛とした瞳で張遼を見据え、濡羽烏を思わせる美しい黒髪をなびかせ、構えるは、幾多の敵を打ち倒してきた、得物である青龍堰月刀。
「―――関雲長!!」
ここに鑢軍本陣を守る最後の砦―――名は関羽、字は雲長、真名:愛紗が、張遼を迎え討たんとしていた。
ここにきて、張遼は最大の難敵によって足止めを食らう事になったのだ。
「はぁ…うちとした事が。最後の、最後で詰め誤ったなぁ」
「先ほどまでの手並みだけを言うなら、まさしく見事だっただろうな。だが、最後の罠だけは失敗だったな」
「…?」
何の事か、訳がわからない首をかしげる張遼を前に、愛紗が、鑢軍本陣の後方に迫る張遼を本物だと選んだ理由を明かした。
鑢軍本陣の前方から迫っていた張遼が偽者である決定的な証拠とは―――
「いくら、何でも、身長が小さ過ぎだ。あれでは、一見しただけで分かる。大方、雑兵で騙そうとしたのだが…侮り過ぎだ」
―――本物の張遼に比べ、明らかに身長が低すぎた事だった。
さすがに、戦場を、濃い霧が覆い尽くしていた時ならいざ知らず、霧が晴れた今、敵の体格を見定める事など、愛紗にとって造作もなかった。
ともあれ、もっとも恐れていた難敵である張遼の進撃を阻止した事は、鑢軍にとって何より大きかった。
前方から迫る張遼についても、愛紗は、雑兵相手ならば、本陣に残った兵でなんとかなると、考えていた。
「さぁ、覚悟は良いか…これより、先、鑢軍一の将、関雲長が相手だ!!」
「そうか…まぁ、あんたで、最後ちゅうわけやな…」
名乗りをあげ、張遼の行く手を阻む愛紗に対し、張遼は軽く自嘲しつつ、徐に独り言を喋り出した。
愛紗の眼には、張遼の、その姿は、最後の策を見破られ、苦境に立たされた者には見えなかった。
「ほんま、いちかばちかの賭けやったんや。みんなに内緒にしてな、双識とうちにだけ、教えてもろたんやけど…最初、聞いた時はな、ホンマ無謀すぎるぐらい、愚策っていえば、愚策ちゅうしろもんやったんや」
「…何を言っている?」
「そやけど、春蘭がおらんから、他にやる奴もおらへんかったからなぁ…ほんま、上手くいってよかったで…」
あくまで、余裕を崩さない張遼の言葉に、たじろぐ愛紗であったが、自分を奮い立たせ、不安を振り払おうと、あえて厳しい口調で、張遼を詰った。
「…見苦しいな、張遼。そのような言葉で、私の動揺を誘うなど…私も甘く見られたものだな」
「ホンマやな…ホンマ、あんたが、本陣を守っとる将で、良かったで…関羽、あんたのおかげで…」
「貴様っ!!なにを言って…!?」
それでも、余裕を崩さず、逆に愛紗を挑発してくる張遼に対し、追いつめた筈の愛紗が、まるで追いつめられたかのように、声を荒げて、調子を狂わされ、取り乱していた。
そこで、愛紗は気付いた―――ある可能性が残っていた事を。
それは、兵法を知る者からすれば、あらゆる意味で荒唐無稽で、常識から考えれば、大凡ありえない可能性だった。
だが、もし、それが事実であるならば―――そう考え、愕然とする愛紗が、改めて、張遼の顔を見た。
そして、張遼は、まんまと図られた事を知り、愕然とする愛紗に、思わずしてやったりの笑みを浮かべながら、武器を構え、愛紗に斬りかからんと斬りこみながら、宣言した。
「―――うちらの、曹操軍の勝ちや!!」
―――曹操軍の勝利宣言を!!
一方、曹操軍の本陣に単騎駆けで突撃した翠に予想外の事態が発生していた。
「曹操、覚悟…え?」
曹操がいると思しき、陣幕を打ち破り、名乗りをあげんとした翠は、思わず呆気にとられた。
陣幕にいたのは、翠を見ながら、唖然とする3人の少女―――曹操軍の軍師を務める郭嘉、筍彧、程昱の3人だけだった。
そして、思わず目を合わせた筍彧と翠は、声をそろえて、叫んだ。
「あんた、華琳様を何処にやったのよぉ―――!!」
「どうして、曹操がいねぇんだよ!?」
そこに、本陣の奥に、曹操軍の総大将である曹操の姿はなかった。