田豊…凍空雪崩がこの世界に来たのは、まだ、年が6つ数えた時のことだった。
隣に住むお友達のおねえちゃんが散歩から帰ってくるのを、家で雪崩が待っていた時、突然、大人達の叫び声が上がった。
僅かな隙間から外の様子をうかがうと、顔の知らないやせっぽっちのおねえちゃんが、村の大人達を、次々に、圧倒的に、一方的に薙ぎ払い、叩き潰していた。
そこから先の記憶はなかった―――ただ、気が付いたら、雪一つない見知らぬ場所で、自分一人だけで蹲り、近くに母がくれた古い鏡が砕けた破片が散らばっていた。
その後、雪崩は、泣きじゃくりながら、あたりを彷徨っていると、たまたま近くを通りがかった袁家の行列に出くわした。
雪崩が、つたない口調で事情を話すと、先代の袁家当主は、多少いぶかしんだものの、通りがかった縁もあり、雪崩を連れて帰ると、後継ぎがいなかった配下である田家の養女とした。
最初は、慣れない生活に戸惑った雪崩だったが、田家の義父母にこの地での生活や慣習などを教えられながら、すくすくと成長していった。
やがて、雪崩は、養父から、田豊の名をもらい、15の頃に、袁家の次期当主である袁紹に仕えた。
年は雪崩とは3歳年下で、自分を姉のように慕う袁紹に、雪崩も袁紹を自分の妹のようにいろいろと世話を焼いた。
主君の娘と配下の娘とはいえ、本当の姉妹のように過ごした―――あの事件が起こるまでは―――。
田豊もとい雪崩の過去話から、恋姫語、はじまり、はじまりv
第20話<殺人定義>
現在、戦場の真っただ中、鑢軍と袁紹軍の兵らは、「き、来たぞぉおおお!!」、「全力で逃げるんだよぉおおお!!!」、「しっかりしろ!!諦めんな!!」、「おい、大丈夫か!?」などの叫び声を上げながら、敵味方入り乱れ、時には助け合いながら、逃げまどっていた。
敵であるはずの両兵であったが、そんなことに構う余裕などなかった。
なにしろ…
「うりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!!」
「むんっ!!」
二人の怪力無双―――突き出される巨大な丸太を、猫のような身軽さでかわし、得物である蛇矛で斬りかかる鈴々と迫る蛇矛の刃を丸太で受け流し、お返しと言わんばかりに小細工など一切ない全力全壊の一撃を繰り出す田豊、そんな人外共の一騎打ちに、一般兵らは、巻き込まれないように逃げるしかなかった。
「んにゃあ、驚いたのだ…見かけ以上に中々強いのだ…」
「それは、こちらの台詞です。私と真っ向から挑んできて、未だに叩き潰されないのは賞賛に値します。お見事です」
埒が明かないと思ったのか、互いに距離を取り、反撃の機会を窺う鈴々と田豊―――二人の、攻めの応酬は、既に数十手にも及んでいた。
お互いの攻撃を寄せ付けない、両者譲らぬ互角の一騎打ち―――ではなかった。
実際には、肉体的にも、精神的にも、鈴々は苦戦を強いられていた。
「へへぇん!!当然なのだ!!楽勝なのだ!!」
「…ですが、一撃でも当れば、致命傷ですよ。そして、あなたは、いつまで、休む間もなく、避け続けられますか?」
「にゃ!!」
軽口を叩いていた鈴々だったが、不敵に笑みを浮かべる田豊の指摘に、思わず声を上げて、息をのんだ。
これまで、鈴々は、一度も、田豊の攻撃に当ることなくかわし続けていた。
否、そうしなければならなかった。
一撃一撃が必殺ともいえる田豊の力と大重量を誇る巨大丸太という武器―――もし、一撃でもかわし損ねたなら、一撃でも受け止めたなら―――間違いなく致命傷になる。
最初に鈴々が、受け止めた攻撃は、田豊が、一般兵士を相手取っていたため全力ではない分、まだ受け止められる余裕があった。
だが、今度は、文字通りの一撃が必殺である田豊の攻撃を受け止めるなど自殺行為であり、鈴々は、全ての攻撃を回避するしかなかったのだ。
「全力回避による体力の消耗と一撃でも当ったらという精神的負担…この枷は軽くないですよ」
「…嫌なやつなのだ。でも、鈴々は負けないのだ!!」
意を決し、武器を構えた鈴々は、田豊にむかって駆け出し、一気に急速接近した。
時間がたてばたつほど不利となる鈴々が狙うのは、同じく一撃必殺の超短期決着だった。
幸い、これまでの田豊の攻撃は、丸太というかなりの重量のある武器を使っているため、渾身の力で振り降ろすか、槍のように突き出すといった2種類のみと些か単調だった。
速さはあるが、交わせないほどではない―――ならば、田豊の攻撃をかわしながら、掻い潜り、一気に間合いにつめよれば、勝機はある!!
「なるほど…思ったより勝負の駆け引きができるようですね」
「余計なお世話っと!!まずは、一つなのだ!!」
田豊の初撃である丸太の突きを、意識を集中させ、感覚を研ぎ澄ませた鈴々は態勢をずらして、横にそらすように回避し…
「しかし、これならば…!!」
「にゃ、よ、ん、よいしょ、たぁ!!」
続けて迫る振り下ろしと突き出しの波状攻撃を紙一重で次々と潜り抜け…
「見えるのだっ!!はぁっ―――!!」
「全て避けられましたか…」
ついに、鈴々は、蛇矛の間合いに、田豊を捉え、そのまま一気に斬りかかった。
この距離ならば、例え丸太を使おうとも、防御には間に合わない。
実際、鈴々の判断は正しかった。
ただ…
「そして、狙い通り引っかかりましたね!!」
「にゃ!?」
これまでの攻撃が全て鈴々を誘う為の、田豊の罠だという前提条件がなければだが。
蛇矛を振り下ろさんと向かってくる鈴々に対して、田豊は武器である丸太を手から離すと、一気に間合いに詰め、さらに、鈴々の懐に飛び込み、そのまま渾身の力を込めて―――。
「だぁらぁしゃああああああああああああ!!」
「にゃあああああああ――――!!」
無防備だった鈴々の腹を、容赦なく凍空一族が誇る怪力で殴りつけた!!
丸太に劣りはするも、必殺の威力があるであろう、鈴々に撃ちこまれた拳は、小柄な鈴々の体を軽々とふっ飛ばし、やがて、引力の法則に従い、鈴々は勢いよく地面に叩きつけられた。
「・・・っ!!―――っ!!」
「いつ、見ても、嫌なものですね」
呼吸がまともにできず、しゃべる余裕もなく、苦しみのあまり、もがく鈴々の腹には、田豊の撃ちこんだ拳の痕が紫色の痣となって、くっきりと残っていた。
だが、当の田豊にしてみれば、自分は普通の人間と違うという事を、再確認する事実を否応なしに見せつけられ、苦々しい感情しかなかった。
「…では、御覚悟を」
そして、動けなくなった鈴々に止めをささんと、その場に捨てた丸太を拾うと、一歩、一歩、鈴々に近づいて行った。
同時刻、背後から襲いかかってきた張郃の奇襲から、もう一つの一騎打ちは始まっていた。
「へえ、さすがっちゃ。手加減はしなかったちゃのに…女ながら、やるもんちゃ」
「…くっ、貴様!!」
張郃が振り下ろした無数の釘が刺さった鉄の棒―――釘バットを、青龍堰月刀の柄で、なんとか受け止めた愛紗は、軽口をたたく張郃を睨みつけた。
何かが分からないが、この男―――張郃に関して、愛紗は不快感しか抱けなかった。
この決して相容れない雰囲気はどこかで…
「さて、じゃあ、ここは俺に任せるちゃよ、二人とも」
「へ、あ、はい!!張郃さん、ありがとうございます!!文ちゃん、行くよ!!」
「くそー、大将!!後は任せたからな―――!!」
「あ、待て…!!」
一方、愛紗と対峙する張郃は、愛紗の後ろにいる顔良と文醜に、急いで、ここから離れるよう促すと、それに気付いた顔良は、無念そうな文醜をむりやり立たせると、退却を始めた。
これに気付いた愛紗が、慌てて追いかけようとするが、顔良の一言で、愕然とすることとなった。
「無事逃げ延びられたら、また、会いましょうね、張郃―――零崎さん!!」
「なん…だとっ…!!」
零崎―――恐らく、張郃の真名であろうが、愛紗にとっては、より因縁深い、忌まわしき言葉だった。
以前、洛陽にて相まみえ、洛陽の民を、人形へと造り替えた殺人鬼・李儒―――零崎儒識と同じ姓ならば―――!!
「貴様、まさか…!!」
「言いたいことはわかるちゃよ。張郃はこっちに来た時に思いついた偽名ちゃ。本当の名前は―――」
予想外の展開に驚く愛紗に対し、張郃は、鎧の懐から取り出した麦わら帽子を被り、首に白い布を巻きつけ、簡易的ではあるが、<報復>のための、彼なりの戦装束を身にまとった。
もし、この段階で、張郃と同じ時代から来た人間―――裏事情に詳しい者がいたならば、恐れおののいたであろう。
麦わら帽子に、金属製釘バット…そして、零崎一賊の一員であるならば、思いつくのは、ただ、一人。
零崎三天王の一人にして、<愚神礼賛>の通り名を持ち、最も荒々しく、最も容赦なく、最も多くの人間を殺し、零崎一賊史上もっとも長生きをした殺人鬼―――。
「零崎一賊が一人、零崎軋識ちゃよ。んーじゃま、かるーく零崎を始めるちゃ」
「くっ、己ぇ!!」
言うが早いか、張郃―――否、軋識は、愛用の得物である金属バット<愚神礼賛>を振りかぶり、対する愛紗も否応なしに、青龍堰月刀を構え、軋識に斬りかかった。
表の歴史に名を残すことになる武将と裏の世界で名を轟かせた殺人鬼との一騎打ちが始まった。
一歩が踏み出されるたびに、腹を殴られ、まともに動けなくなった鈴々は初めて怯えていた。
これでも、鈴々は普通の人間よりか大分強いと思っていた。
七花や義姉である愛紗、元天下無双の恋には敵わないかもしれないが、それでも自身の武には、それなりの誇りを持ち、誰であろうと負けない自信はあった。
だが、そんなちっぽけな自信は、田豊が繰り出した一撃でたたき壊された。
「悔しいのだ…ずるいのだ…」
理不尽なまでに圧倒的な暴力の前に、全てを打ち砕かれた鈴々は、将としてもなにもできず、どこにでもいる普通の子供のように、ただ涙を流すしかなかった。
そんな泣き言を呟いた鈴々に、田豊は不意に歩みをとめた。
「…ずるいですか。私にしてみれば、あなた達の方がうらやましい」
「え?」
田豊の呟いた言葉に、ただ泣き続けるしかなかった鈴々は思わず声を上げた。
俯きながら喋る田豊の言葉には、鈴々―――否、普通の人間に対する嫉妬の感情が込められていた。
「私のように化け物じみた怪力もなく、普通に接することのできるあなた達が恨めしい。かつて、私は、お嬢様を守るために、やむなく、この力で、狼藉共をなぎ倒した。だが、事が終え、お嬢様の無事を確認した時、お嬢様は泣いていた!!当然だ…岩を砕き、人間を簡単に破壊できる力を持った怪物に恐怖しないわけがない。そんな化け物を忌々しく思うのは当然でしょう。」
忘れられない―――恐怖に顔をゆがめた袁紹の表情を。
故に、私は、もう力を使わないと誓ったのに…。
せきを切ったかのように自身の胸の内をぶちまける田豊に、鈴々は腹の痛みを忘れ、息を整え、黙って聞いていた。
「だから、私は、あなたが恨めしい!!もし、私が、あなたのように人間の範疇にある強さを持った人間ならば、こんな思いなど持ったなかったはずなのに!!こんな、こんな力さえなければ…私は普通に生きられたはずなのに!!」
人外の力を持つ者―――田豊の、凍空雪崩の、咆えるように、泣くように悲痛な叫びに対し、鈴々は―――
「うるさいのだ…」
蛇矛を支えに立ち上がり、静かに、しかし、はっきりと断言した。
もし、田豊がただの怪物であったのならば、殺人狂であったならば、鈴々は立つことはできなかっただろう。
だが、今ので確信した―――こいつは怪物じゃない。
ただの―――
「自分が傷つきたくないから、相手から逃げ出すような臆病者なんかに、絶対に負けないのだ―――!!」
「っ!!」
負けてなんかやらない。
もし、こんな奴に負けたなら、七花や愛紗、他の皆に合わす顔がない。
まともに戦える筈のない体を、鈴々は、気力で無理やり動かし、再び武器を構えた。
鈴々が未だ戦いを放棄しなかったことに、力の行使を早めに切り上げたかった田豊は普段の彼女にはありないほど、一気に感情を爆発させ、一直線に鈴々に襲いかかった。
「なにも知らない、なんの苦悩もない、ただの人間に、何が、何が分かる!!」
「そんなの分かってやるもんかなのだぁああああ!!」
鈴々の怒号とともに唸りを上げ一気に振り下ろされる蛇矛に対し、田豊も丸太を渾身の力を込めて振り下ろした。
互いの武器が激しくぶつかり合う音が―――。
「よっと!!」
「っ!!味なまねを!!」
―――しなかった。
ぶつかり合う寸前、鈴々はすばやく蛇矛を地面に突き刺し、一気に左に体重をかけ、強引に軌道を修正し、蛇矛を手放したものの、田豊の一撃を回避した。
対する田豊は、これが先ほど田豊が仕掛けた罠の焼き増しと考え、すぐさま腹に力を込めて、防御を固めた。
故に、砂埃が舞う中で、前から向かってくるであろう鈴々を待ち構えていた田豊は気付けなかった。
「もらったのだぁ!!」
「なぁっ―――――!!」
砂埃にまぎれて、鈴々が背後から忍び寄り、田豊の首を羽交い絞めにするまで!!
完全に首を羽交い絞めにされた田豊は、まともに呼吸ができないまま、なんとか鈴々を振り払おうとするが、負けじと鈴々も、田豊の首を締め付ける腕に、持ち前の馬鹿力を発揮させ、さらにきつく締め付けた。
「―――!!―――――!!」
「例え、化け物みたいな力を持った人間でも、人間は人間なのだ…だったら、こうやって、首を締め付ければ―――!!」
いかに頑強な人間でも耐えられない―――!!
脳への血行を止められ、意識が薄れていく直前、田豊は、自分を倒した小さな猛将の言葉を聞いた。
「どんな怪物でも生身で、人間の姿をしているなら、弱点だって人間と同じなのだ!!普通の人間だって、怪物じみた人間に、負けたりしないのだ!!」
ああ、見事―――
それが、意識がおちる直前、田豊が、自分を見事打ち負かした小さな猛将―――鈴々に対する賛辞だった。
「…無様っちゃね」
「…っ!!」
何気なく呟いた軋識の言葉に、愛紗は、悔しさのあまり思わず歯を噛み締めた。
だが、軋識の言葉もまた、事実だった。
既に打ちあって、数十回―――だが、愛紗の攻撃、その全てが防がれていた。
愛紗自身も致命傷には至らないまでも、あちこちに引っかき傷や打撲の跡が残り、満身創痍の状態であった。
そして、愛紗の得物である青龍堰月刀に至っては、既に歯毀れがところどころに見受けられ、とても武器としてつける状態ではなかった。
「私を、愚弄するか!!」
「そうせざる得ないっちゃ。」
自身の武に誇りを持つ愛紗にとって、たかが一介の軋識の言葉は、その誇りを傷つけられることに等しく、到底、受け入れられるものではなかった。
しかし、軋識の言葉も、また事実だった。
軋識の武器である釘バット―――<愚神礼賛>は、通常の釘バットと違い、全てが鉛で出来た相手を殴殺することを目的とした武器だが、刀や剣などの武器で打ち合った場合、本体部分の強度もさることながら、無数に突き刺さった釘の部分が、刃を受け止め、からめ捕り、ひねりを入れれば、からめ捕った部分の刃に歯毀れを作ることが出るのだ。
故に、愛紗の武器である青龍堰月刀は、軋識の<愚神礼賛>からすれば、格好の武器破壊対象なのだ。
普段の愛紗ならば、すぐに気付くようなことさえ気付けないほど、焦っていたがゆえに。
「それに、あんた、殺しあいの最中に、心、ここにあらずで、余所見ばっかしてるちゃ。それで、俺を殺そうなんて、甘いちゃよ」
「なっ…!!」
何をふざけた事を…!!―――普段の愛紗ならば、そう言い捨てるだろうが、事実を突かれた愛紗に軋識の指摘を言い返すなどできるはずもなかった。
事実、袁紹との合戦を通してみれば、どこか浮ついたものがあった。
先ほどの、顔良と文醜とのやり取りにしても、降伏を促しながらも、相手に対し高圧的な態度で促し、まるで相手が降伏を拒否するよう仕向け、手っ取り早く、さっさと斬り捨てたいという武人らしからぬ行動さえ見受けられた。
一刻も早く、恋と共にいるであろうご主人様―――七花の元へ駆け付けたいがゆえに―――!!
「…違う。…違う!!わ、私は、そんな感情で闘ってなど…!!」
「どう言おうと、お前の勝手ちゃ。俺は、ただ、家族を殺した連中に報復するだけっちゃ」
青ざめながら必死に否定する愛紗に構うことなく、軋識は容赦なく<愚神礼賛>を愛紗に打ち込まんと、莫大な重力から生じる遠心力をも利用し、次々に、防戦一方となった愛紗に、攻撃を仕掛けた。
家族の為に―――殺人鬼集団である零崎一賊の持つただ一つの結びつきが、家族のきずなだった。
もし、家族に危害を加える者、ましてや、家族を殺した者がいたならば、全力でもって殺し、全力でもって、一族郎党はては、近隣住人、生息動物にいたるまで、殺しつくすほどの零崎一賊総出で報復が待っている。
故に、<愚神礼賛>を振るいながら一方的にせめたてる軋識に、愛紗が勝つことなど万に一つありえなかった。
殺し合いに於ける経験や実力、そして想いさえも―――愛紗は軋識に負けているのだから!!
「これで、終わりちゃ!!」
「しまっ…!!」
自身の弱い心を見抜かれ、動揺する愛紗の隙をつき、渾身の力を込めて、軋識は一撃必殺を信じて、<愚神礼賛>を振り下ろ―――
「生憎だが、そこまでにしてもらうぜ」
「何者ちゃ…!!」
「お前は…蝙蝠!!」
―――そうとした直前、軋識は、背後から迫る殺気を感じ取り、咄嗟に背後を振り返り、<愚神礼賛>を振り下ろした。
瞬間、飛来してきた無数の苦無や手裏剣が次々に打ち払われた。
そこには、袁紹軍の鎧を着た一人の兵士―――袁紹軍に潜り込んでいた真庭蝙蝠が立っていた。
「忍びちゃか…本当に何でもありちゃね、ここは」
「…確かにな。で、どうする?このまま、やりあうのか?」
「…」
蝙蝠の促しに、目の前にいる強敵に気を抜かず軋識は、改めて周りを確認した。
怪力従者:田豊の反撃により、一時は包囲網の一部が崩れたが、田豊の敗北や否定姫ら鑢軍の軍師らの指揮によって、鑢軍は再び態勢を立て直し、再び包囲した袁紹軍を全滅させにかかっていた。
既に総大将の袁紹が逃げ出した今となっては、士気ががた落ちになった袁紹軍に勝ち目など無い。
故に、状況の不利を悟った軋識は、零崎として苦渋の決断を下すしかなかった。
「…いずれ、この国丸ごと殺すちゃ。それまで、首洗って待ってるちゃ」
「…やれやれ行ってくれたか」
そう言い残し、戦場から離脱した軋識を見送った蝙蝠は、やれやれといった表情でため息をついた。
暗殺専門忍者集団である真庭忍軍に所属する蝙蝠でも、一目見ただけで零崎軋識の実力と破綻した異常性はすぐに分かった。
依頼を受けて相手を殺すか無差別に相手を殺すかの違いはあれど、どちらも人殺しを生業とする同類故に…。
「まあ、とりあえず、危なかったな。正直、俺でも勝てるかどうか…」
「―――負けた」
ひとまず、危機を乗り切れたと安堵する蝙蝠の言葉は、呆然とする愛紗の耳には届かなかった。
負けた―――愛紗にとって、それは許容できるものではなかった。
完膚なきまでに、容赦なく、一介の弁解も許されない敗北。
しかも、相手は、誇り高い武人ではなく、犬畜生にも劣るであろう一介の殺人鬼。
それは、愛紗の誇りと自信を打ち砕くには十分すぎるほどのものであった。
「…戦には勝った。それで良しとしとけ」
「ふざけるなぁ!!なぜ、邪魔立てした!!私は負けるわけにはいかなかった!!あの男は人を殺すことを目的とする殺人鬼だ!!決して、信念と誇りをもった武人たる私が負けていい相手ではない!!負けるわけにはいかないんだ!!」
「だったら、あの場で殺されてたら、良かった?それこそ、無駄死にだ。それに、どんなに言い返したところで、李儒の理屈は、ある意味じゃ正しいんだよ」
<他人の命を奪う事は許されない>―――道徳的、生物的など様々な理由はあれど、一番の理由としては、<人が人としてこの世に生きていくため>であろう。
例えば、もし、ある聖職者が、神の言葉である聖書を破り捨てた後、聖書は大切ですばらしいという話をしたとしても、人々は納得しないであろう。
なぜならば、聖書を破り捨てた人間は、その存在価値を否定したのだから、その大切さや素晴らしさを語り、感じる資格など無いのだ。
それは、人間の命も同じだ。
思う事を、感じることを人間自身の作り出す感覚が素晴らしいとするならば、その根幹たる人間を否定(ころ)してしまった存在は、人間の世では誰とも疎通できない亡霊なのだ。
一切の思考も感情も許されない―――それは、信念や想い、そして、懺悔さえも許されないという苛烈なまでの潔さ。
「俺としては、心底、認めなくない話だがな―――それでも、俺達は、人殺しなんだよ。そいつは、否定できないことだ」
「…」
「っと、狼煙が上がったみたいだな。どうやら、決着はついたみたいだな。先に行くぜ。狂犬が、顔良と文醜を追っているようだし」
呆然とする愛紗をその場に残し、蝙蝠は急いで、狂犬の向かった先へと駆け出して行った。
戦は終わった―――だが、愛紗には、勝利の喜びも興奮もなかった。
あるのは、敗北感と後悔だけだった。
「う、あ、あ、うわあああああああああああああああああああ!!」
武器を投げ捨て、その場にうずくまりながら、愛紗は、叫ぶように泣いた。
敗北の事実を受け入れられずに、自分が軋識や李儒と同類であることを認められずに。
武人である愛紗の姿は、そこにはなかった―――自身の弱さを知った一人の少女として、愛紗はひたすら泣き叫んだ。
こうして、鑢軍と袁紹軍の一大会戦は、袁紹軍本隊を包囲殲滅と伏兵部隊を2人と1体で足止めした鑢軍の勝利で幕を閉じた。
この大勝利により、少数で大軍を打ち破るという分かりやすい勝利の結果をだした鑢軍は諸侯の君主らに、一目おかれるほどの名声を得ることになった。
その勝利の陰で、一人の少女が打ちのめされていた事実に気付く者はいなかった…