<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


No.41564の一覧
[0] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 21:59)
[1] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 22:18)
[2] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 22:23)
[3] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 22:25)
[4] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 22:26)
[5] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 22:51)
[6] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/17 23:35)
[7] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/19 23:37)
[8] もし日本が勝っていたならの世界[年表屋](2015/09/20 00:50)
[9] あとがき[年表屋](2015/10/11 22:37)
[10] 添付-1 年表[年表屋](2015/10/11 22:32)
[11] 添付-2 主要国 (21世紀初頭)[年表屋](2015/10/11 22:35)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[41564] もし日本が勝っていたならの世界
Name: 年表屋◆b1872fcf ID:157921ea 次を表示する
Date: 2015/09/17 21:59
浮田幸吉 弘化四年(皇紀二五百七年、西暦一八四七年)夏。

遠雷が聞こえた。間もなく一雨来るだろう。この暑さが少しでも納まればよいのだが。とはいえその後一段と蒸すのも御免こうむりたいところだ。
齢九十を越え、どちらかというと肥満気味の身体を持て余していた幸吉は夏に弱かった。
生まれは備前、所払いを受けた後の住まいも駿府という温暖な地であり、冬の冷え込みよりも夏の暑さのほうがこたえる。今年の夏を乗り切ることができるだろうか。

半端な時間に目覚めてしまった。しばらくは寝付けまい。夏蒲団の中、蚊帳越しに天井を見上げながらとりとめもなく思いをめぐらせる。
一昨年、えげれすの蒸気船の推進器として考案されたという「すくりゅーぷろぺら」を流用して、ぜんまい仕掛けと組み合わせてカラス型に載せてみた実験では、思いのほかよい結果が出た。
考えてみれば竹とんぼを横に飛ばせるようなものなのだから、筋がよいのも当然か。

昨年は、ぷろぺらの形や大きさ、断面をさまざまに変えての実験を繰り返した。
形が同じなら、径と回転数によって後ろ向きの風の速さと流量が決まる。
早く飛ばせたいのか遠くまで飛ばせたいのかによって、適正な値は変わってくる。
うちわを手回しして風をおこす涼風器と違って、ぜんまいでは力と持ち時間が限られているので、単純な平板ではなく翼と同様に弧状の断面形とするとよい。
この予想は煙箱を使って風の流れがきれいなのを見て確認できた。付根と端とでは風の当たり方が違ってくるから、ひねり方を変えるとなおよい。
そういったことを書面にまとめて暮れに提出した。

駿府に流れ着いて間もない頃、田沼さまが、おそらくは源内さまあたりの入れ知恵で「新規珍奇にして天下の為なるもの」を
試みる者に、一定の成果と報告を義務付けるかわりにいくばくかの褒美を授けることを定めた制度は、いま阿部さまのご時世にも続いている。
田沼さまの鶴の一声なくば、わしも飛び続けること叶わず、おとなしく表具や小物造りだけの暮らしを続けていたことだろう。
この仕組みのおかげで一番潤ったのは、源内さま本人という話も聞こえたが、褒美を片端から新しい発明や事業に注ぎ込んでいた(加えてそれを講談の題材にもしていた)のが世に知られれば、
嫉妬というより、愛すべき変人として扱われたのも当然であった。

飛行具の制作を研究と呼べるものに引き上げた煙箱も、相談にうかがった折に線香の煙から思いつかれたとのことで、その幅広い発想はとても己の及ぶところではない。
親子ほども年の差のある自分を随分と引き立てていただいた。
衆道をたしなまれていた~、その方面でお前は気に入られていたのだと囃す者もいたが、濱村屋に入れあげていたからそれはあるまい~ために、
お子を設けることはなかったが、江戸に開設された絡繰りの考案と製作を旨とした学問所兼製作所に集まる若者たちは、
血のつながりはなくとも志を受け継ぐ子であり孫であろう。
それを見届けて亡くなられてから、もう三十年にもなるか。

我がせがれや孫たち、店の者も自分のやっていることを「年寄りの道楽」と見ているのは承知していたが、
定期的にお上からご褒美を――金銭的にはさほど大きなものではないが――もらっているという実績はよい宣伝となっている。
時計、入れ歯、からくり細工、表具指物、小間物よろず製造販売を生業とする浮田屋の、
腕のいい職人を手すきのたびに道楽に巻き込んでいることについては時おり文句も出るのであるが、
かつて彼がさんざん空を飛んでみせたのが宣伝になってここまで店を大きくしたことはまぎれもない事実である。
たまの文句を言われたおりには「そもそもワシの若い頃には・・・」と半刻ほども自慢まじりの回顧談をまくし立てて返すのが楽しみでもあった。

まったくもって残念なことに、身内に飛行術を継ぐ者はいない。
大型の鳥たちの飛び方を調べ、自分でも飛行を繰り返しているうちに、ところによって上空に向けてゆるやかな風の流れがあることがわかった。
これに乗れば、お城どころか文字通りちょっとした山の高さほどにまで舞い上がる。
その昔、石川五右衛門は凧に乗って空を飛んだとかいう話だが、これほどの高さを飛んだものは、神仏のたぐいはともかく、人たるものとしてはほかに例がないのではないか。
うまく昇り風から昇り風と乗り継げば、小半時ほども空を舞い、二、三里ほども飛ぶことができる。

はじめの頃の飛行具は、翼を背負ったりつかんだりの、かいな力がまずもって必要であり、
加えて翼のわずかな姿勢の変化や風の流れに応じてすばやく身体の位置や力加減を合わせるという、
軽業のごとき感覚と敏捷さが不可欠であった。
ある種の天性と経験がなくてはとうてい身に付けられまいというものであったから、他人に技を伝授できるとも思わなかった。
しかし、年とともに力も敏捷さも衰えてくるのは避けられない。

特別な技がなくとも飛べるようにと改良を続けた末に、飛行具はずいぶんと扱いやすいものになったと信じている。
翼を身体にくくりつけて、勘をたよりに手足を動かして翼を前後左右に傾けずとも、腰掛けの正面に取り付けた繰り棒を前後左右に傾ければ、
鉄線で結びつけた風切羽根や尾羽が動いて飛行具の姿勢や向きを変えることができるのだ。

ただ、扱いやすくするための数々のからくり細工により、飛行具はしだいに重く大きくなっていった。
若き日に翼一枚背負って初めて空に挑んだときのように、橋の欄干から飛び降りるのでは高さが足りない。
大工に大枚はたいて岬にこしらえた滑車台から勢いをつけて飛び立つしかなくなってしまった。
四十路も半ばを越え、浜辺に降り立ってから(店のものの人手を借りても)飛行具をかついで岬の上まで上るのは体力的に無理となってからは、
自分で飛ぶのは断念したものの、子供の時分にさんざん試した、カラスやハトほどの小型の飛行具をつかっての研究をもっぱらとするようになった。

もっと大きなぷろぺらと、軽くて強力なぜんまい仕掛けがあれば、飛行具を自力で飛びたたせることもできよう。
そうすれば、風を待たずともいつでも誰でも空を飛べるようになる。
いや、小半時ほども動かしつづけるには、ぜんまいでは無理かもしれない。
いい手立てはないものか。もともと蒸気船用に考案されたのだから、蒸気の力はどうだろう。
蒸気船に積むほどの大きさと重さでは飛行具にはとても無理だが、もっと小さなものも作れるのではないか。
いつぞやお披露目を見学にいった陸蒸気。ああいった類がもっと広まれば、
もっとずっと小さく軽い動力が得られるのではないか。

いつでも誰でも空を飛べる。いつのことになるだろう。どんな世の中だろう。
素晴らしいことのようにも、何か恐ろしいことのようにも思える。

ああ、九十まで生きてもまだまだ時間が足りない。
あと百年とは言わない。あと五十年ほどもあれば。
天下に空を飛ぶことの素晴らしさを伝えることかできたなら。
飛行具が世の中を変えるのを見ることができるかもしれないのに。いや、変えてみせることができるかもしれないのに。

若い頃であれば一瞬で済んだかも知れないが、過去から現在までの思い出を浮上させるのに一刻ほどを要した。
そして、見当もつかない将来へと思いをはせたころには再び眠りに落ちていった。


夏も終わる頃、幸吉は永眠した。大往生といえるだろう。浮田屋は時代の流れの中で消えていったが、子孫は今も健在である。

五十年後。伊予国は八幡浜生まれの一人の人物が、幸吉の遺した飛行具に関する膨大な研究資料に仰天しつつ、
新発明の――実は再発明であることを思い知らされたが――「飛行器」の改良に励んでいた。
二宮忠八が日本で最初の動力飛行に成功したのはそれから間もなくのことである。

百年後。鮮やかな黄色い実験機塗装をまとったずんぐりした機体が、奉天飛行場の上空7千メートル、白銀に輝く巨鯨から投下された。重力に従い緩降下する機体に乗り込んだ黒江保彦中佐は、先週の休暇に釣り場で転倒した骨折の痛みに内心で罵倒を繰り返しながら、手順どおり「験一号」の呂式噴進器に点火した。
強烈な加速によりG10N5―Y、富嶽改実験母機を一瞬で追い抜き、上昇を続けた。

その日、人類は音速を超えた。
わずかに遅れて、地上に遠雷が聞こえた。


次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.025563955307007