ずるずると音を立てながらカップ麺を啜っていると、黒猫が卓上の書類を前足で弾いた。
「高騰していた『トラフーリ』の魔石がここ数日で値下がりしているな。ファントムの広報による影響か」
ずるん。と麺を口中まで啜り上げると、跳ね飛んだスープの飛沫が黒猫を襲う。宙を駆ける一滴のラーメン汁に対し、首を傾げるだけで回避してしまった黒猫のスタイリッシュな挙動に新たな畏敬の念を抱きつつ、カップ麺の容器を片手に持つ少女も、ちゃぶ台に乗せられた書類の内容へ目を落とした。
猫が避けた代わりにスープの染みを増やした書類に書かれていたのは、つい最近起きた事件とその顛末。
それによる各組織への影響が、時系列に沿って記載されている。
『メシア教団によって討伐されたマンハンター『悪食』の起こした強奪事件、二十一件目の被害者に関する項目――』
ぐいっと勢いよく容器を傾けて、熱々のスープを喉に通す。
書類には既に終わってしまった事件に関する情報が詳細に並べられていた。
気にするべきは通り魔的犯行に及んだ新参デビルバスターの手口よりも強奪品の処分に使われた流通ルートと、事態の最終局面に携わりながらも人的被害を出すだけ出して良いとこ無しのまま終わったガイア教団の今後の動向くらいだろうか。
或いは、事態の収束と同時に多数の情報網へと『悪食』討伐完了の報を積極的に流して回った『ファントム・ソサエティ』の思惑こそが、一番重要かもしれない。
数年前に組織の上層陣が軒並み排除されたばかりで勢いを落としている筈のファントムは、今回の事件で何を得たのだろうか。
討伐したとされるメシア教団との繋がり? メシア・ガイア両教団の僅かな人的被害を発端とした、相対的な影響力の上昇? しかし今回の死傷者数など本当に微々たるものだ、勢力図を塗り替えるには数の変動が控えめ過ぎる。討伐したメシア教団ではなく、居合わせただけのファントムがわざわざ多方面へと情報を流した理由が分からない。そもそも今のあの組織は誰が動かしているのか?
考えてみたが、頼り無い憶測ばかりで全く分からない。ずるりずるりと麺を啜り、黒髪の少女は後の楽しみにと食べずに取っておいた薄切りのチャーシューを箸先でつついて遊ばせる。
カップ麺を食べて上昇した体温が、額から細かな汗を落とした。
汗の雫を指先で拾い上げると、もう一度スープを飲み込んでから、ちゃぶ台の上に座る黒猫へと視線を向ける。箸をカップ麺の器に残し、横に置いてある茶碗を掴んでひっくり返すと少量の白米がスープに沈み、少女は満足気に食事を再開した。
獣面を顰めながらその様子を見つめる黒猫の様子に気付いてはいたが、少女はラーメンにご飯を入れて食べるのが大好きだった。
「ライドウ、その食べ方はどうなのだ……?」
黙っていられなかったのか、黒猫は言葉を濁して苦言を呈した。
どうなのだ、と問われれば少女は胸を張って答える。おいしいです。些かの躊躇いも見えない仄かな笑顔、だが口端にくっ付いた米粒が凄く目立っていた。
ぺたん、と右前脚の肉球を額に押し当て、黒猫が溜息を吐く。
サマナーなどというヤクザな仕事を任せている側が言って良い事でもないのだろうが、終日黒尽くめで過ごす目の前の少女の先行きが心配だった。人目を気にして萎縮するようではいけないが、だからといって彼女は余りに飾らなさ過ぎる。
今代のライドウに果たして嫁の貰い手があるのだろうかと真剣に悩む黒猫は、少女の初恋が己であった過去など知る由も無いまま ちゃぶ台の上で丸まった。
「――ゴウト、ファントムの調査はどうしますか」
カップ麺を食べ終えた少女が口を開く。
ゴウトと呼ばれる喋る黒猫も、少女の質問に気を持ち直す。
「そちらはヤタガラスの調査員に任せる。我らは再度、ガイア側から件の『歌姫』を調査しよう」
経験の浅い少女に対して黒猫が今後の指示を行う。
叶うならばもう二、三年、この少女には葛葉の里にて研鑽を積んで欲しかった。だが数年前に起こったファントム・ソサエティとの決戦でヤタガラスも組織として疲弊し、前線に立つべき戦力も、後方にて情報を掻き集める人員も、全くもって足りていない。
将来性のある若者を前に立たせる時代ではないのだと言い張る力が己らには無く、葛葉宗家も何やら政府筋との間で揉め事が起きていると聞く。ここで持ち堪えねば、組織の衰退程度では済まなくなるだろう。
「……ライドウ、すまんな。苦労を掛ける」
らしくも無く、弱音のようなものを吐いた。
年を取ったかと髭をそよがせた黒猫を見つめる少女は、暫しの熟考の末にカタカタ小さく頷いた。
「大丈夫です、ゴウト」
黒く静かな眼差しが、黒猫の緑に輝く猫目と向き合う。
「誰にも、何にも、絶対に」
年若い少女である。見知らぬ誰かの幸福ではなく、己自身の幸せこそを追うべき若年の、未来ある若者だ。
幼き頃からの長き研鑽に裏付けられた頼もしさはある。その細身に秘められた実力も才能も、当世においては万夫不当、比類無き位階に至っていた。それはゴウトも認めている。
だが息衝く時代の流れを感じるのだ。
長く続いた平和を終わらせる大きな波を。どれほどの力を持ち合わせようと人一人では止めきれぬ何かの前兆を。――長き時代を生きたゴウトの経験が告げている。
「ライドウは負けません」
それを知ったとしても変わらぬ言葉を口にするだろう眩き少女の未来を僅かだけ憂いて、黒猫はただ真っ直ぐに彼女の視線を見つめ返した。
◇
メシア教団施設内部に用意された自身の執務室にて、壮年の男が額を押さえた。
白と青の混じった布地に地位に見合った装飾を施された衣服を身に纏う、常に苦痛を耐えるような顰め面を浮かべた人物。『アデプト』と呼ばれる、一般的にはメシアンの最高位とされる地位に立つ、教団最高幹部の一人。
先の一件にて多数のメシアンを従え異界に踏み入り、マンハンター『悪食』を捕らえ、対外的には討伐したとされている男だ。
アデプト・ソーマ。
教団内での呼び名から勘違いされる事も多いのだが純日本人であり、ソーマというのも苗字が『相馬』であるからだ。呼び名と相俟って国籍を勘違いされる原因である色素の薄い茶髪と、張り付いた顰め面を隠すため平時においては伊達眼鏡を掛ける苦労人。世界の裏側に属する者達からはメシア教団随一の武断派であると見做されている。
「……ファントムめ」
そのような大人物が、人目の無い自室にて頭を抱えていた。
マンハンター『悪食』を本人の降伏によって穏当に捕縛し、帰還した矢先。ダークサマナー組織ファントム・ソサエティによって大々的な広報活動が行われていた。過去形であり、帰還した時には既にそれは終わっていた。
触れ回った内容を要約すれば「メシア教団が恐ろしい犯罪者を討伐した」という話だが、実態は捕縛であり、討伐などしていない。だが拡散速度が速過ぎた。多企業との繋がりを持つファントムは、世界の表裏に渡って様々な伝手を持つ。事態収束から僅か数時間の内に、メシア教団は恐い犯罪者を排除してくれた『良い人』扱いだ。
間違った噂なぞ撤回させてしまえば良い。だが手間が掛かる。金も掛かる。そしてせっかく得た評判を何故撤回させるのかと文句を言う者も教団内から出てくる。
かと言ってこのまま放置しておけば、『悪食』を殺さずにメシア教団へ招こうという己の思惑が裏目に出るだろう。頃合いを見てファントムが真実を明かせば、無責任に情報をばら撒いた側ではなく、噂を放置したメシア教団が悪者扱いされてしまう。事実を隠蔽して大衆への点数稼ぎをしたのだと罵られ、評判を落とし、そこを他組織に叩かれ散々な目に遭うのが予測出来た。
情報を制する者は優位を得る。今、ファントム・ソサエティはメシア教団に対して本当に僅かながらも優位を得ていた。
アデプトとて、ファントムの狙いは分かっている。
つまり、――「手間も金も評判も惜しければ敵対するな」だ。
メシア教団内部にも、今回の討伐誤報の撤回を嫌う者は必ず出てくる。それを非難すれば、では本当に『悪食』を殺してしまえと言い返されよう。それは、アデプトとしても非常に困る。
自分の求める未来像には『悪食』のような汚れ仕事を平然と行える、だが善性を有する若者が必要だ。
ガイア教団の『緋熊』に仲魔であるスライムが殺されようとした瞬間、彼の目に浮かんだ絶望を知っている。
情を持つ若者なのだ。自身の命が懸かった状況で他者の死に囚われるだけの弱さを持った彼を、アデプトはメシア教団を支える柱の一つとしたい。
綺麗事だけでは駄目だ。己が汚れる事を了解し、その上で正しさを実行できる人間をこそ欲している。
自身が暴力によって教団内での実績と信頼を築き、教団の掲げる秩序によって多数の罪無き人々を守ろうと決意したように。
信用し、信頼し、誇りを持って汚濁に足を踏み入れられる腹心が欲しい。
人々を守れるのならば何だって構わない。信徒を迎える死後の楽園などどうでも良い。神の愛も要らぬ。メシアンであろうと決めたのも、全ては彼らの奉ずる秩序を社会平和に役立てるためだった。
――俺はどうなっても構いません。だからどうか、俺の仲魔の安全をお願いします。
拘束されても不満を見せる事無く、場の最高権力者であるアデプトの前で地に頭を擦りつけた少年。
その裏側に情と道徳を絡めた汚い計算があったのも分かっている。自身の身の安全を投げ捨てた発言も、捕縛されている状況から更に殺害に移行する可能性は低いと見た、至極常識的な判断から口にしたものだ。
目頭を揉んで、細く、息を吐き出す。
見習い用の訓練施設に放り込んではみたが、あの場所でメシアンとしての誇りに目覚める見込みは全く無い。だが彼程度の実力からすれば有益な環境であり、彼もそう判断する筈だ。仲魔の身の安全も、こちらから渡されたCOMPに押し込む事で間接的に教団に握られたまま。間接的というのが重要だ、何が仕込まれているかも分からないCOMPに入れられて、だが変わらず己の隣に居る。時間を掛けるほどに彼の中の危機感は鈍磨していくだろう。
監視役の天使は生真面目過ぎるが、逆にそれが良い。人間とは違い、一定以上の位階にある天使は特に融通が利かない。環境の有用さから率先して状況に慣れようと動き、仲魔の安全への配慮は鈍り、監視役の目を恐れて自然と行動範囲は制限される。
籠の鳥とは正にこれ。状況は全て、アデプト・ソーマの掌の上だ。
「あとは、彼自身の動機だな……」
これが一番難しい。唯々諾々と従う駒ではいけない、自発的な意思でメシアンへの道を歩いて欲しいのだ。
そのためには執着するものが必要だ。
アデプトである男にとっての、『守る』という行為に対する強い執着。それに並ぶだけの動機を、彼に与えなければいけない。メシア教団に属しているからこそ得られる動機を――。
執務室に備え付けられた小型のテレビジョンを操作し、表示されたチャンネルを入れ替える。
「こちらにも、このような人を引き寄せるための『偶像』があれば良いのか?」
映し出された画面には、薄い笑みを浮かべる少女が映っていた。
メシア教団という宗教組織において人々を纏めるには純粋な人徳を用いなければならない。でなければかつて己が排除したメシアンの幹部連中のように、教団に属しながら邪教に手を染め、無辜の民を利用して欲を満たそうなどと考える痴れ者共が権力という玩具を手にしてしまう。
敵を討つためにしか使った事は無いが『暴力』という手段しか持ち得ない不器用な自分でさえ、真摯に取り組んだ結果、多数の人々の応援によってアデプトの地位を得られたのだ。今のメシア教団は組織の膿を可能な限り吐き出した状態にある。それを捨てて、人心の掌握のためとはいえ安易な手段に頼ろうなど、恥ずべき事だった。
「……いかんな」
疲れているのかもしれない。
常に疲れているアデプトが口にすると冗句にしか聞こえない弱音を口にして、壮年の顔に張り付いた苦痛の皺が更に増えた。
「ファントムもガイアも、このような少女を使って何を考えているのか」
組織立った大々的なプロデュース活動によって日本のみならず諸外国にまで名を知られ始めた一人の少女。
新たな時代を拓く美しき『歌姫』と呼ばれ持て囃されるアイドルの軽やかな歌と踊りから視線を外し、武断派と称されながらどこまでも保守的な姿勢を崩す事のない敬虔なメシアンは、益体の無い己の思索を打ち切った。
秩序の坩堝たるメシア教団の頂点にほど近い位置に立ちながら、奉ずる秩序を守護の手段としてのみ利用する、宗教組織にそぐわぬ強烈な変り種である彼は。大衆利益のために一人の若者を組織の暗部へと引きずり込もうと企むアデプトの男性は。どれほど手を汚そうと善性を捨てられぬ、善良たる人間は。――それでもその在り方は既存の『社会』という枠組みから脱する事が出来なかった。
此処に一人の力ある者が、本当に憂慮すべき事柄を認識出来ないまま、画面から消えていく少女の笑みを意識の内から切り捨ててしまう。
世界が終わるまで残り十九日。
異なる立場に立つ人々の誇りとは関わり無く、事態は緩やかに進行していた。
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遂に現れたヒロイン! しかし次の登場は未定です。
もうライドウは(色々な意味で)駄目かもしれませんが、第十話です。
しかしこのSS今年中に終わらないかもしれません。
では次回、続きません。