メシア教団施設 正門前には何処から盗難してきたのか、一台の選挙カーが停車していた。
「貴方がアデプトの部下であるというのならば、先の神に対する侮辱、如何なる弁明をもって罪を雪ぐおつもりですか」
眉間に僅かな皺を寄せたまま一見理性的な言葉を並べ立てるウリエルであるが、叶うなら今すぐに目の前の怪人を斬り捨ててしまいたかった。
大天使の耳に届く位置での、唯一神に対する盛大な罵倒。
自殺同然としか言いようが無い。咎人に対する審判を生来の役目とする懺悔の天使ウリエル。もっとも罪穢れに対する忌避と嫌悪の強い大天使だ。視界に映ると同時に殺されても言い訳のしようが無い。
街宣車の屋根に上って仁王立ちする一人の人間。アデプト麾下の執行者(エグゼクター)、『虚心』と名乗った笑う仮面の怪人の傍らに、天使ソロネの気配を感じる。
アデプトを殺害する直前、確かに「『虚心』の指示に従え」という言葉と共に何処かへと送られて行ったソロネ。
ならば目の前の人間がその『虚心』であり、アデプトの遺志を継ぐ者。護衛に高位天使が居ようとも殺害は可能だ。だがそれは、――『正しく』ない。
天使とは善良なる存在なのだ。
アデプトの命を奪ったのは、神の秩序に沿わぬ俗人が、この混沌とした世界において更なる罪科を重ねないためのウリエルの温情である。この月世界で新たに背負う筈だった数多の穢れを最小限に抑えられた彼は、きっと正しき信徒として、主の御許で無上の幸福を得られるだろう。
市街地への救援を制止したのは、神に従う愛すべき信徒達が無用に傷付かぬためである。神に従わぬ有象無象は『秩序』の下においては民ではなく、人の範疇にも入っていない。散っていく生命の嘆きに悲しみを覚えても、神の意思を体現する大天使がつまらぬ感情に囚われて進むべき道を間違うわけにはいかない。
大天使ウリエルは、己の正しさを確信している。
罪には裁きを。踏まえるべき手順を無視して命を奪うなど、『秩序』に従う大天使に出来よう筈が無かった。
――偉大なる主に対する不敬を働いたのは、私ではありません! 正しき天使ウリエルよ、どうかっ、どうか私の言葉をお聞き入れ下さい!!
仮面で隠された彼の表情が笑っていると考えるのは、穿ち過ぎであろうか。
大袈裟な身振り手振りで語りかける人間を、殺す事は酷く簡単なのだ。本当に、どれだけ可能性を論じたとしても、目の前の痴れ者にはウリエルに殺される以外の道が無い。
自分が言ったわけではないから大丈夫。そんな言い訳は通用しない。当たり前の理屈だ。だというのに、こうしてウリエルの前に姿を晒す『虚心』は何を考えているのか。まさか本気で自分が罰せられるわけがないと、己の言葉に揺るぎ無き確信があるのか?
「ならば罪人を此処へ。貴方の処遇はその後に――」
――清廉なる天使ウリエルよ! 勇ましき聖堂騎士テンプルナイトよ! どうか、市街にて助けを求める人々をお救い下さいっ!!!
ウリエルの発言を遮って、唐突な話題転換を行う『虚心』。大天使の眉間に力が入る。
いや、先の発言からすればこれこそが聞き入れて欲しい言葉とやらか。だがそれは不味い。今ウリエルが聞き入れるわけには行かない申し出だ。まだ犠牲が足りていない。巨大異界に迷い込んだ悪魔達が一頻り腹を満たし、月に狂ったその凶暴性を多少なりとも治めてからの出陣でなければ、悪戯に教団勢力の被害を増すだけなのだ。
そう冷静に思考する大天使の背後には、遅れて駆けつけたテンプルナイト達が立っている。
続々と急ごしらえの演説会場へと集まりつつあるメシアンを視界に収め、ニコマークの眩しい仮面が偽りの月光を反射させた。
まるで仮面に隠された真の感情を曝け出すかのように。
「エグゼクター! 貴方の物言いには一定の正当性を認めます、ですがそれは――」
――私の、私の妹も! 悪魔達の手に掛かって!!!
泣き濡れた声で仮面を手で押さえる『虚心』。俯き前方へと乗り出した姿勢は今にも車の屋根から転げ落ちてしまいそうだ。だが絶叫する彼はそんな自身を顧みる事無く、更に更にと言葉を重ねていく。
――大丈夫だ、って。きっと教団の人達が助けてくれるって! そう言っていたのに! 私はっ、俺はあッ!!
がつん、と音をたてて街宣車の屋根に据え付けられたスピーカーを殴り付ける。
殴った拳の皮が不自然なほど綺麗に裂けて、月明かりの下でさえ鮮やかな赤色を魅せ付けた。だがやはりその程度で『虚心』の嘆きは止まらない。こんなもので妹の受けた痛みに釣り合うわけが無いと、我が身を襲う痛苦に目を向ける事なく、大天使の背後に立ち尽くすテンプルナイト達へと訴えかける!
――お願いだっ、助けてくれよっ! もうっ、アイツは居ないけど! でもっ、でもさ! 待ってる奴らが居るんだ! アンタ達なら助けられる人達が、沢山居るんだよぉ!! お願いだあ!!!!
止まらない熱情に押されて、半ば呂律さえ回らなくなって。
響き渡った悲痛な叫びに顔を青褪めさせるメシアン達に対し、仮面の男が全霊をもって訴えかける。
きっと、あの笑顔を刻まれた仮面は彼の最後の砦なのだ。
涙に濡れて、悲劇に絶望して。それでも生きている限り前へ進まければならない。犠牲になった家族への執着を捨てられないまま、まだ間に合わせる事の出来るどこかの誰かのために。メシア教団へ助けを求めて駆け出すための、全身を縛る悲しみを封じ込める、悲壮な決意の秘められた硬い城砦なのだ。
ここまで来ればウリエルにも理解出来た。
目の前の恥知らずは、情に訴えかけてメシアン達を動かそうとしている。
社会守護を最善と謳うアデプトの後継。成程、ならば目論みそのものは理解し易い。今も苦しむ民間人の救助こそが彼の望みだ。だが今メシアンを動かすわけにはいかない。大した能力を持たない者達でさえ、この月世界では貴重な手駒なのだ。万全に万全を重ねても損耗は避けられない状況、救助活動によって結果的に得られる利益を考えても頷ける筈が無い。
「ええ、貴方の悲しみはよく分かりました。ですがこの絶望の淵にあって尚 最後まで教団を信じ続けた貴方の家族は、きっと主の御許へと迎えられた事でしょう」
嘆く必要は無い。そう、嘆く理由など何も無いのだ。
敬虔な信徒であったのならば、死した後にこそ幸福が約束されている。どれほどの苦痛に泣き叫んでも、その先にあるものは間違いなく痛みと嘆きを帳消しにしてしまうほどの暖かな楽園。
目の前の『虚心』もまた正しく神の信徒であるならば、死した後に愛する妹との再会が果たされる。
しかしまあ当然ながら、仮面の怪人には妹など居ないわけだが。
――じゃあ、見捨てるっていうのか! 街の人達をっ!?
「そうではありません。ですが全能足り得ない未熟なる私達にはきっと――」
――アデプトなら、きっと真っ先に駆けつけてくれたッッ!!!
自身が殺害した人間の名を聞いて、ウリエルの顔が僅かに歪んだ。
大天使の表情の変化になど一切反応せず、目もくれず。叫ぶ『虚心』は言葉を止める事なく、更に大きく、声を張り上げる。
――そうだろう!? なあ、あんた達はどうしてこんな所に居るんだよ! 街には沢山の悪魔が居て、沢山の人達が助けを必要としているのに!!
あんた達、というのはウリエルではない。
その背後に立つ者達。アデプトの方針によって訓練設備を整えられ、血と汗を流してまで自身を鍛え、この場に居る者に限れば例外なくその能力を認められて天使を賜ったメシアンばかり。
力有る者達だ。それが必要だから研鑽を重ねた者達が居て、その強さ故にテンプルナイトの称号を与えられた者達が居る。
全ては人々を助けるために。
赤の他人にその手を差し伸ばすためだけに。
「……黙りなさい。貴方は彼等の想いなど何も知らずに」
――言ってみろ!! お前達は何で『其処』に居るッ!!!
言葉を叩きつけられたメシアンは皆が皆、一人の例外も無く聞き入っていた。
各人、教団に足を踏み入れた理由は違っている。心の底から、他者を助ける善行に心を奪われているわけではないだろう。だが『それ』を無価値だと断じる人間など、今のメシア教団にはきっと存在しなかった。
何故ならば、アデプト・ソーマがそう望んだからだ。
ただただ人を助ける為に奮戦し、苦痛に耐える表情が顔に張り付いてしまうほど働き通して、教団の内外において信徒か否かを区別する事無く手を差し伸べ続けた一人のメシアンを知っている者達なのだ。
どれほどの善人であろうと、全ての人間から認められる者など存在しない。
だが、自身の生涯を人の世のために捧げ切ったアデプトを否定出来る者が、こんなにも健全な形を保つ宗教組織に属していられるわけがない。
――あのオッサンならっ! 真っ先に走り出すだろうが! 「外は危ないから引き篭もってろ」なんて、言うわけ無いだろうが、あのお人好しがさあッッッ!!!!!
その通りだ。
この場に限り、どこまでも『虚心』の言葉は正しかった。
「テンプルナイト、第一、部隊……っ」
大天使の背後に立つ者達の中から、小さな声が漏れ聞こえる。
『虚心』の叫びの途中からは俯いて拳を握り締める事しか出来なかったテンプルナイトが顔を上げ、決然とした表情で地に足を叩き付けた。叙勲後に教団から厳しく教え込まれた、正規テンプルナイトの、騎士の剣礼。
「テンプルナイト、第一部隊! ――号令ェ!!」
「テンプルナイト、第二部隊っ、――号令!!」
「テンプルナイト、第三部隊!」
何か異様なものを目にしてしまった。そう言いたげな表情で、大天使ウリエルがゆっくりとメシアン達を振り返る。
大きく手を振って彼等を制止しようとしたが、そんなものでは最早誰一人として止まらない。
「『メイガス』第一部隊! 訓練通りにっ、指定のテンプルナイト部隊へ順次合流せよ!」
「部隊未配属のメシアンは、中庭に整列! 運び込まれてくる負傷者の治療準備だっ! 待機しろ!!」
呆けたままの大天使を放置して、その場に揃った全てのメシアンが行動を開始する。
街宣車の上で仁王立ちの『虚心』は乱れた呼吸を整え、走り回る彼等を見下ろしながら仮面の下で笑っていた。
「ばかな、なにをしている。違う、なぜこのような人間の言葉に従う。……なぜ私に指示を仰がないっ」
――簡単な事だ、大天使。
この場の誰も知らない事ではあるが。
ウリエルの断罪の剣を受けたアデプト・ソーマは、自身と大天使を旗頭とした二大派閥による内部抗争を防ぐ為に、自ら進んでその命を捨てた。
だが霊的存在に依存せずとも人生を謳歌できる今の時代において、本当に神や天使に対する根強い信仰心が芽生えるものだろうか?
敬虔な信徒であろうと、本当に心の底から天に座す主のために己の生命を捧げられるのだろうか?
大天使の威光とは、個人としての幸福を捨てて社会に貢献し続けた一人の男の、苦痛に塗れた生涯よりも尚 価値の有るものだろうか?
――みんな、神様よりもアデプト・ソーマが好きなんだよ。
この『虚心』が、上述の全てを否定しよう。
人類全てが追い詰められつつある極限状況下において、自身の意思で、見知らぬ誰かを助ける為に声を挙げられる多数の勇気あるメシアンが此処に居る。
神でも天使でもなく、人間が人間のために力を振り絞ろうと動いている。
彼等全て、遡ればたった一人の男が育て上げたもの。
何十年と時間を掛けて、必死になって築き上げてきたもの達だった。
今この場に居なくとも、彼等の背を押すものは最高幹部たるアデプトの存在だ。決して調子良く寸劇を演じた『虚心』ではない。ましてや誰も救わぬ神や大天使の威光などでは有り得ない。
メシア教団は苦難の世に現れるという救世主を信仰の柱とする怪しげな巨大カルト集団だが、そこに所属するとある男の献身を知らぬ者など、この街にどれほどの数が存在するだろうか。
数時間前まで確かに存在していた平和な時代。平穏の世に必要無き救世主を信じない者は数多く、しかしメシア教団最高幹部の為した数々の社会貢献を讃える者もまた同等以上の数に上る。
本当は、アデプトにさえその気があれば。ほんの少しの野心と欲がありさえすれば。
大天使を敵に回して多くの流血を強いられようと、メシアン全てが望んで彼に付いて来ただろうに。
それが出来ないくらいに不器用で向こう見ずな人間だったからこそ、沢山の人々が彼を慕っていたのだと、『虚心』を名乗る少年とて分かってはいたが。それでも。
この世界からたった一人が居なくなってしまっただけで、どうしてこんなにも、胸が苦しいのだろうか。
――おら。テメエの手駒、残らず剥ぎ取ってやったぞ、クソ天使。
「きさ、きさまっ、きさまキサマ貴様……、このっ背信者があッ! 貴様ァアアア゛――ッ!!!!?」
一連の事態の元凶に見えていても、『虚心』は特別な事など何もやっていない。事を起こす為に必要な仕込みは、その気など欠片も無かったアデプトが、何十年も掛けて既に終えていた。
ただ突き付けてやれば良い。
彼等メシアンの上に立つ者が誰か。自らが従うべき男は、どんな人間だったのか。
ただ当たり前の事実を。この異常事態に関わらずいつも通り、誤魔化す事無く真っ直ぐに教えてやればそれで良かったのだ。
この国におけるメシア教団は世間一般の認識とは全く違う至極健全な宗教組織であり、そこに属する人間は例え表面上どう見えていても、例え『混沌』の側に落ちても人助けに走ってしまう者が居るくらい、きっと一人残らず『いい人』揃いなのだ。そういう風に、育ったのだ。――育てた親が、そうだったから。
だから負けてなどやらない。
盤上に並ぶ敵が最高位に位置する化け物揃いであろうと、勝ちを譲ってやる気など欠片も無い。
仮面で素顔を隠して『虚心』と名乗るこの少年も、アデプトの死に何も感じていないわけではないのだ。
ましてや相手は殺しの下手人。
戦えば負けると知っていても、一撃くらいは見舞ってやりたいと思うのは、何もおかしな事ではない。
――出番だぞ『ソロネ』、来いっ!!
『SUMMON DEVIL』
「御意!!」
満を持しての天使召喚。
巨大な車輪に灯した炎が強く燃え上がる。双方の位階を比べれば、天使が大天使に勝つ事は不可能だ。だがこうして対峙させないわけにもいかなかった。案の一つとして想定していた、アデプトの仲魔を利用したメシアンの思考誘導などというつまらない仕事ではなく、仇敵との戦いというこの一大事に限っては、ソロネの想いを尊重してやりたい。
「我が怒り、我が主アデプトの無念。――その魂に焼き付けてくれようぞ、ウリエルゥ!!!」
平然と主替えに従った彼の天使が、本来の主を殺されて、怒りを抱かぬわけが無い。
きっと、ずっと耐えていたのだ。それがアデプトの望みだったからこそ。その望みに沿って、無用な争いを起こさないために。
「たかが能天使一匹、そして低俗なる罪人風情が。このウリエルに立ち向かえると、本気で思っているのか……?」
怒りを隠さぬ大天使を前にすれば、傍らにソロネを従えていても身体が震えてくる。
だが歪む表情は仮面が隠し、身体が震えていようとやる事は変わらない。
経過は順調。
大音量で注意を引き付け、唯一神への罵倒で大天使とメシアンを引き摺り出す第一段階。
大天使に従い踊らされようとしているメシアンが場に揃った時点で、お涙頂戴の嘘八百で良心を揺さぶり、精神的な安定を欠いたと判断した所で本命。――信徒達にとって最も大きな、アデプトの存在を突き付ける第二段階。
ウリエルの威光に目を晦まされていても間違い無く効果があると知っていた。
何故ならば人助けは間違いなく正しい行いであり、神の掲げる『秩序』の範疇から欠片もずれていないのだ。天使の洗脳光線で頭が緩くなっていようと、アデプトの長年の献身を知り、メシアンとしての正義を信じる限り、絶対に彼等を動かせる。エグゼクター『虚心』は、教団で過ごした己の経験故に確信していた。間違いなくそうなると信じていた。
ここに至るまで自分達は一切攻撃を受けず、大事な手駒であるメシアン達にウリエルが手を出す事も無かった。
だが今更、激昂するウリエルが、望んで自分から離れた彼等を気遣うだろうか。大天使の良心と自制心を信用出来ないのならば、メシアンを巻き込まないよう こちらが気を使う必要がある。
勝利条件達成の難易度が止まる事無く上昇していくが、そんなものはいつもの事だ。
目の前で怒りに震える卑しい悪魔の目論見を、一つ残らず潰してやろうではないか。
――弔い合戦なんて言わない、だが死ね。
「その魂に纏わり付く汚濁の如き罪穢れ、今此処で、このウリエルが雪いでやろう」
激昂する両陣営がぶつかり合う。
月世界における第二戦。絶対に勝てない戦いが、また一つ始まった。
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ポゲラルゴォ~!!な第二十六話です。
暗躍しない天使だから胡散臭くないのか、と目から鱗が落ちました。しかし天使が暗躍とか、胡散臭い……。普通に考えると天使の所業ではないですよね、暗躍。
続くなどと思ったですか。