生まれて初めて目にする大天使を前に、少女は言いようのない吐き気を覚えていた。
「街の者達を助けたいと願う貴方方の想いはとても尊い、きっと主もお認めになる事でしょう。ですがっ、感情に任せた行動によって貴方方が傷を負えば、教団を信じて礼拝堂に篭城する信徒達を守れなくなってしまう!」
――今は耐え忍ぶ時。どうか、ご理解下さい。
拳を握り、噛み締めるように言葉を重ねて説得する大天使ウリエル。
一般市民を助ける為に、今すぐ悪魔の溢れる街へと向かうべきだ。そう声を上げた勇気あるテンプルナイトに対し、先を見据えた広い視野で行動しろと、優しく、だが決然と言い放つその姿。
輝くような後光が見える。
大天使から放たれる、破魔の属性に等しい聖性に満ちたマグネタイトの放射光。教団の中庭に集結したメシアン達の目には、神々しくも美しい『神の炎』ウリエルの覇気が眩く映っている。
高位の悪魔であれば例外なく持ち合わせる、多量のマグネタイトによる擬似的な精神干渉。
肉体という器に納まりきらない膨大なエネルギーは、目にする者達全ての霊体を揺さぶり、その善悪も、影響の大小も問わず、生物の魂魄へ直接的な影響を与える。
教団によって厳しく鍛え上げられたとはいえ、所詮は人の枠内に納まる位階。神の傍らに昇る事を許された大天使の抑制される事無き力の放射を受ければ、現役のテンプルナイトといえど耐えられるものではない。
そして、ウリエルの発言も別に間違ってはいないのだ。この異常事態に対応するためにも戦力を一箇所に集め、元々霊地として整えられていた教団敷地内を陣地として守りを固めるのは、長期的視野に立てば正しい選択であった。
新年を迎えるために教団へと足を運んだ敬虔な信徒達は守れる。教団が纏まり、体勢を整える事でこの先の混乱を乗り切る事も出来るだろう。
結果として街中に居る人間達を守る事も出来ずに死なせてしまうが、短絡的な行動で、本来守れたであろう者達を見捨てるわけにはいかない。――もっとも、街中の犠牲に関してウリエルが意識させないような言い回しを口にしている事に気付いた者は居なかったが。
この場に居るメシアンは例外なく悪魔の存在を知り、最低限、教団から天使を賜る程の実力を認められた者達だ。
『虚心』の少年から簡易COMPを預けられたメシアンの少女も当然、そこに居た。
アデプト・ソーマが身罷られた、と。
天使ソロネはそう言っていた。
だがこうしてメシアン達の前に現れたウリエルは、美しく慈悲深い大天使の姿を見せている。
アデプトに関しては「彼は一足先に旅立った」などと言って、大天使を相手にそれ以上追及出来る我の強いメシアンは居なかったが、その言葉はつまり、そういう事なのだろうか?
少女とて、ソロネに詰め寄る少年の傍らに居たのだ。
誰がアデプトを殺したのか。それを聞いていないわけがない。
震える下顎が上手く噛み合わず、口中でかちかちと歯の打ち合う音が聞こえる。
胸元に忍ばせた小さな簡易COMPを両手で握り締める。この場において自分一人だけが抱えている秘密が、酷く重い。目の前で輝きを放つ大天使が皆の慕うアデプトを殺したなど、一体誰が信じるというのか。
何故、彼はそれを信じられたのか。
ソロネに対して最低限必要な情報だけを問い詰めて、教団の外へと駆け出した少年。
あの迷いの無い行動を見てしまえば、目の前で正論を語る天使を信じられなくなってしまう。
――お願いだっ、君にしか、頼めないんだ!
そう言って強く抱き締めてくれた少年のぬくもりが、酷く遠い。
手渡された簡易COMP。本当は色々な事を話したかったけれど、出来るだけ短く、現状をメールで送ってある。いつ自分の行いが見つかってしまうかと怯えながら、それでも好きな少年の頼み事を叶えたいと考えて。
「あっ」
小さく声が漏れた。
好きな少年、と素直に思えた事が、少女にとっては驚きだった。
少し前までは、彼が本当に好きだったのかどうか、自分で自分を疑っていたというのに。こんな理解不能な状況で、天使さえ疑って、縮こまって震えながら、それでも好きな相手が頼んだ事だから頑張れるのだと。そう思える自分を見つけた。
懐のCOMPを握り締める。それだけで頑張れる気がした。
これからどうなるのか分からない上に、メシアンとして全面的に信じるべき大天使を疑ったまま、自分達が何をさせられるのか今でも不安だけど。
「……わたし、がんばるから」
少女が決意を新たに、小さく呟いた。
そして中庭に集合したメシアン全員の耳に届く、大音量の軍艦マーチ。
『あー、テステステス。偉大なる我の美声が聞こえるかー、貴様らーっ!!』
拡声器を通して大きく広がり周囲に響く、汚らしい声が聞こえる。
まるで不健康な中年男性が口の半分を水面に浸した上で無理矢理 声を張り上げたような、そんな水っぽい低音声だった。
『えーっと、山神の【検閲】! 欧州では【検閲】! 大規模【検閲】! ――ぉおおい! 俺これでもちょっと前までメシアンだったんだけどおっ!?』
続いて、酷く頼りない男性の声が、酷い単語を羅列する。
少女には半分以上理解できない言葉ばかりだったが、視界の端でウリエルの顔が凄まじい形相へと変貌していた。
怒りに震える大天使が何か言う暇も待たずに上空へと舞い上がり、声の発生源らしき方角へ向けて飛び立つ。
突然の状況に目を回す者が殆どだったが、正規のテンプルナイト達が逸早く大天使の後を追って走る。
自分は如何するべきか。迷いながら、それでも少女は急な状況の変化を逸早く少年に伝えようと簡易COMPを取り出した、が。
――始めまして、大天使ウリエルっ。私はアデプト・ソーマ麾下の、アデプトっ! ソーマァっ!! 麾下のォオ!!! エグゼクターァア! 『虚心』とっ! 申しまあああああっっっす!!!!!
大袈裟に大袈裟を重ね抜いたような、自己顕示以外の一切に興味を持たぬと言わんばかりの酷く楽しげで大きな声音。
少女が今まで一度も聞いた事が無いような、桁外れのやる気に満ち溢れた誰かの自己紹介が、周辺一帯の生きている人魔全ての耳朶を打った。
◇
ここ数年 本名で呼ばれた憶えのない『緋熊』という女は、二十数年の人生で初めて恋をしていた。
始めは想定外の驚きから、きっと戸惑っていただけだろう。
初対面で、年下の少年からプロポーズ。
殺す以外に何も出来ない、人型の殺傷機械。同じガイアーズからさえそう評される猛獣が、色恋沙汰に縁を持つわけがない。――悪魔など知らなかった幼い頃より、彼女は異性に好意を向けられた事など無かったのだから尚更だ。
特に目に付く問題も無く、しかし恵まれてもいない、平凡な出生。
学生時代。生まれて初めて悪魔と出会い、そのまま化け物の餌となるしかない絶望的な状況で、緋熊は逆に相手を殺し返した。
命の対価は右腕一本。
只の人間が、己の命を狙う悪魔相手に勝利するには、些細な犠牲だ。そう笑う少女を受け入れてくれたのは周囲に居た人間ではなく、後に仲魔となった龍王のみ。
現代社会と適合し得ないその感性は、悪魔には好かれるが、人間からは好かれない。しかし緋熊はどうしようもなく『そういう』女だった。
面と向かって好意を告げられれば嬉しい。何を言っても素直に応える年下の少年という存在に、女盛りでは良からぬ感情も抱こう。緋熊という名の女傑は、生まれ付き殺す事に長けており、殺す事を楽しめる戦場の獣であるが、人としての情や欲を持たぬ機械でもないのだ。
ヴィーヴルにからかわれつつ。知らぬ間に、企み有っての後押しさえ受けて。
血染めの猛獣らしからぬ振る舞いで、少年の好意を得ようなどと空回りつつも頑張ってはみたが、その内実、自覚無き真実を述べるなら。こんなものは恋を知らぬ乙女が、恋を与えてくれた好機に舞い上がっていただけの事。
要するに、彼女は恋され恋をするという状況に酔っていたのだ。
最後までそのまま時が過ぎたなら、きっと遠からず初恋の熱も冷めていた。
幸か不幸か。それを論ずる機会は遠き未来まで待たねばならないが――。
――結婚してください。
――是非も無い。一匹残らず、潰してやる。
気弱で、素直で、今までは猛獣扱いが関の山であった女としての自分を慕ってくれる、年下の可愛い少年。
想像もしなかった荒々しい笑みを浮かべ、圧倒的強者たる魔王と大天使を残らず平らげると口にした、一人の男。
緋熊は殺しに長けた生粋の戦士であり、どう取り繕った所で、血で血を洗う戦場こそが彼女本来の居場所だ。
人も、悪魔も、そこが戦場であれば彼女は見境無く殺してきた。
弱肉強食を体現する、ガイアーズの古参。戦いこそが緋熊の生き様。――力でもって蹂躙し、敵わぬならば朽ち果てる、自由と混沌の徒だ。
勝機など有る筈の無い戦場へと笑って踏み出せる益荒男が居れば。その男が緋熊には縁の無かった筈の恋を教えた相手であれば。弱弱しくも優しい少年だと好意を抱いていた彼が、自身の血塗れた獣性さえ笑って受け入れられるだろう、狂った大器の持ち主であったなら――。
不覚にも再度 抱いてしまったこの恋情に、一体 何の偽りがあろうか。
「――ッごおおおおおおおっがあああああああああっッッ!!!!」
緋色の凶獣が雄叫びを上げる。
強く、もっと強く。誰よりも何よりも大きな声で。遠い何処かで勝利の一手を打ち出さんと奮戦する愛しい男に届けとばかりに激しく吼え猛った。
咆哮と共に全身へと行き渡った魔力が『チャージ』され、次なる一撃への大きな後押しとなる。
必殺の右拳が一直線に振るわれ。
轟音が、空気の壁さえ破壊した。
「ゥ『金剛』ォオ――ッ!!!」
向かう先には雲霞の如き悪魔の群れ。単体においては緋熊に勝利し得ない弱兵揃いであっても、数を集め群れをなせば容易く殺し得るだろう総力値。真っ向勝負では分が悪いと判断すべき明確な戦力差。しかし微塵の躊躇も見せぬ獣の一撃が、凡夫の道理を打ち砕く。
「――『発破』ァアアアアアッ!!!!!!」
熱風さえ伴った只の拳撃をもって無数の悪魔を吹き飛ばす。
悪魔の群れが構成する天然の城塞に、人間の拳一つで穴を穿った。
「あ、あくまだあぁあ……っ」
見当違いな震え声が耳朶を叩けば、相手が誰か、属性相性は噛み合うか、彼我の戦力差は如何ほどか、判断する間も待たずに再度振るわれた拳が、怯える悪魔を新たに一匹葬った。
「うちのサマナーが絶好調過ぎる……っと、『鬼神楽』ァ!!」
「うん、私もあれは予想外だわ。はーい、『ベノンザッパー』よーっ!」
「サマナーが嬉しそうで何よりだよー、僕はー。あっ、『テトラカーン』で良ーい?」
群れの合間に穿たれた間隙を、緋熊の仲魔達が更に広げていく。
乱戦に縺れ込ませた上で、戦域を拡大していく。血生臭い戦いの匂いに惹かれ、更に周辺地域からも多くの悪魔達が現れる。
「ちょっ、ちょっと待って! あなたサマナーでしょ! 悪魔を殺して、平気なの!?」
「――実は人間殺しても全ッ然平気だったぜええええッ!?」
「ひぃいいいいいいっ!! もういや何なのこいつぅうううう!! ――メボっ」
攻撃は全て機械仕掛けの右腕と仲魔に任せ、左手に握る拳銃型COMPを操作する。
起動アプリは『エネミーサーチ』。知りたい情報は唯一つ、――魔王ヘカーテの所在だ。
継戦可能時間を無視した後先を考えない全力戦闘も、長期的に見れば勝ち目の無いと分かる寡兵による奮戦も、全ては『混沌』に属する高位悪魔を飛び寄せるための誘いに過ぎない。
これで目当ての相手が『秩序』に属する悪魔ならば、この戦場を無視する可能性もある。だが『混沌』に属し、更にその中でも上位に位置する魔王族が、派手に殺し合う緋熊一行と悪魔共を見逃す筈が無い。
魔王としての誇りがある。『混沌』の陣営に属するに足る欲がある。こんなにも楽しい殺し合いを、強大なる力をもって魔界に君臨する魔王ヘカーテが無視する事など有り得ない。
そう。有り得ない。
だからこうして現れるのは当然の事で、まさしく自分達の目論み通り。
「――随分と、楽しげだなあ、貴様ら」
「だったらテメエも混ざっていかねえか、魔王様よおお……っ?」
手近な悪魔の頭部を齧り潰し、血とマグネタイトの滴る歯列を剥き出しにした三つ首の魔王が笑った。
多量の悪魔の血液と揮発するマグネタイトを総身に纏わせながら、腕一本で戦場を踏破する緋色の獣が笑い返す。
ようやく釣れた。
緋熊とてヘカーテと戦えば勝ち目など無いと分かっている。此処が己一人の戦場であれば、仲魔を地獄への道連れに、かつて無い強者の手で殺されてやっても良いだろう。だがそれではせっかく惚れ直した愛しい男の望みが叶わない。
緋熊達に任された仕事は、目の前の魔王を大天使の元まで確実に引きずり出す事。
「じゃあ、さっそくだが一戦願うぜ、ヘカーテちゃあん?」
「ははははは! 我に挑むか、面白い。ならば精々楽しませてみせろよ、人間めがっ!!」
引き絞った右腕が甲高い駆動音を鳴らし、魔王へ向けて撃ち出される。
偽りの満月を背にした魔王は、それを笑いながら迎え撃った。
そうして命懸けの魔王釣りが始まった。
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ゲームみたいなナチュラルに胡散臭い天使の描写が難しすぎる、第二十五話です。
そして熊も少しだけパワーアップしました。きっと愛の力です。きっと。
続いてくれるのですか。
※2015/01/06投稿
※2015/01/11誤字修正