薄れている残留マグネタイトの香りを嗅いで、黒猫が鼻筋に皺を寄せた。
「……また、逃げられているな」
苦々しい声で呟くゴウトの傍ら、刀を振るって雫を落とすライドウが立つ。
周囲には、女の身体の腰から下を芋虫に変じさせたおぞましい妖虫『オキクムシ』が無数に倒れ伏し、やがて絶命した順に次々とマグネタイトへ還っていく。
ライドウの目の前にも金属質の人型悪魔が立ち尽くしていたが、それもまた全ての妖虫が消えた後に消滅した。最後まで名前の分からぬ正体不明の存在だったが、ライドウとの一騎打ち、勝てる要素は一つも無かった。
「お疲れ様でした。戻って下さい、――『フロストファイブ』」
「「「「「ヒー! ホー!」」」」」
それぞれ色違いのジャックフロスト五体一組。声を揃えて勝鬨を上げると、ライドウが左手に持つ携帯用小型COMPに帰還する。
属性耐性が優秀過ぎる彼等の戦闘結果に満足すると、前を歩く黒猫、ゴウトの後に続いた。
そこは何も置かれていない倉庫の一角。
あるのは広々とした空間だけで、天井に備え付けられた照明が無機質な色で床や壁を照らしていた。
「見事に何も無いな」
倉庫内の床をよく観察すれば、大きな何かの置かれた痕跡を見て取れる。一つや二つではない、だが今は目に映る機材が一つも見当たらなかった。
大型の機材、またはそれに類する何かが複数。此処に設置されていただろう全てを、ライドウ一行がこの場に辿り着く僅かな時間で運び出せたとは思えない。手段があるとすれば、どこぞで開発された容易に機材の運搬を行える魔術か道具、そんな所だろうとゴウトは当たりを付けた。
もっとも空振りに終わった現状を見れば、そんな推察に大した意味が無いと分かってはいたが。
「物が無い。居る筈の『歌姫』も居ない。……また、届かなかったか」
「落ち込まないで下さいゴウト。ライドウも、もっと頑張ります」
ライドウの慰めに軽く尻尾を振り、踵を返す。
ファントム・ソサエティとその関連企業が出資する事で建設された多数の商業・娯楽施設。
丁度、ファントムがヤタガラスに敗北した一年程後から新規に経営を始めた店舗群。ここ数年の内に少しずつ、他組織に怪しまれない程度のペースで増えていく内の、市内で新規出店していた一軒のゲームセンター。その倉庫内にファントムの構成員が出入りしているという情報を手に、足を踏み入れたのだが。
結果は空振り。正確には、また何も掴めずに終わった、だ。こういった失敗は今回が初めてではない。
ライドウ一行の行く手を阻まんと現れた悪魔の群れを駆逐する、本当に短い時間で逃げられてしまった。
今度こそは。そう思っていただけに少々落胆が大きい。
「此処は多数ある内の一つ。まだ手はあります、ゴウト」
「ああ、そうとも。諦めるわけにはいかん」
悪魔関係者に対する隠れ蓑か、国中に乱立するファントム関連の一般施設群。いくつあるかも分からないそれらの内奥、一般の人目に触れない区画で行われている何らかの計画の一端。――この国由来の悪魔の召喚儀式。
つい二日前にも鬼女『ヨモツシコメ』を倒し、それ以前にも何件も。繰り返すがファントムの用意した商業・娯楽施設群は国中に点在しているのだ。隠れ蓑と本当の一般用施設、総計すれば余りにも数が多過ぎるせいで、ここ一、二年程はヤタガラスの戦闘員全てが日本中で戦っている。
何のための儀式かさえ判然としないままだが、それでも放置するわけにはいかない。
計画とやらの詳細も不明。今度こそはと思っても、今回含めて全てが空振り。
現状は完全に後手に回っている。明らかに、相手が先手を取り過ぎていた。
一体いつから事の準備を始めていたのか。ファントムが一度事実上の崩壊を迎える以前からだとすればそれは、数年前にヤタガラスが受けた被害全てが奴らの企む異変の収束に役立てなかったという事にもなる。
もしもあの時の敗北さえもがあちらの思惑に沿って『演出』されたものだったのなら。
老若男女を問わず、犠牲になった者達に顔向けが出来ない。
小さく歯噛みする黒猫を余所に、少女ライドウもまた考えていた。
ファントムとガイアの秘密同盟。彼等によって行われている何らかの計画。その要たる『歌姫』という存在。
怪しい。胡散臭い。意味不明。ライドウ自身、もう数ヶ月の間 嗅ぎ回っているのに、得られたものは断片的な単語だけで計画の内情が見えて来ない。これは少々おかしい。どんな機密もやがては漏れるもの。情報を完全に隠匿出来るという事は、漏れる以前に知っている者が少な過ぎるのではないか。誰もがそう考えてはいるのだが、こうして端緒を掴める寸前までは行く事が出来る。だが掴めない。化かされているような気分にもなる。
まさか泳がされているのか。
わざと情報を流して、喰い付くこちらを観察し、確かな成果を掴めない焦燥感で動きを鈍らせる?
わざと情報を流して、それが実は偽情報で、何かがあったと見える先程の倉庫も実際はそれらしい細工をしていただけ?
わざと情報を、わざと――どうやって?
ヤタガラスの情報部は優秀だ。数年前、今代ライドウが襲名する以前に起きたファントム騒動で人数を減らし、だからこそ数の補填と質の維持に努めている。情報部は間違いなく優秀だ。なのにそこから渡される情報がファントム・ガイア同盟の望む、こちらを躍らせる為の見せ札として機能するのだろうか。
するのなら、そんな事が有り得るのなら。
もしも出来るのだとしたら、それは――。
「ヤタガラスが、敵に回っている……?」
根拠も何も無い、戦闘以外の経験が不足している未熟なライドウが偶然に弾き出した推察だ。間違っている可能性は高い。
だがもしも、相手の居場所を察知した上で何の手応えも得られない不気味な戦果の連続が、誰かにそう望まれて作られたのならば。ヤタガラスから渡される『情報』という、自分達の行動の根本要因からして徹底的に仕組まれたものだとすれば、ライドウ達が何も成せず、召喚された悪魔の討伐以外成功していない現状にも説明がつかないだろうか。
ゴウトもライドウも共に祖国を守るヤタガラスとその構成員全てを仲間と思い、彼等を疑うなど欠片も想像していなかった。だからこそ、本来この思考は盲点となり得る。もしもライドウの推察が当たっていれば、今までの全てに納得出来る。出来てしまう。
否定したい。間違っていて欲しい。そう思って口を開く。
「ゴウト、ライドウは怖い事に気が付きました」
「むっ、どうした?」
これから自身が口にする言葉の一切が、ゴウトによって否定されれば良い。
そう思いつつも、ライドウの右手は緊張したまま、握った刀を鞘に納める事さえ出来なかった。
◇
不意に少女から聞かされた言葉に、彼女の髪を整えていた女性が動きを止める。
「え?」
日常生活において少女の世話をする役目を押し付けられたサマナー兼 芸能マネージャー、鏡という苗字の女は呆けたように口を開く。開いたまま、まともな返しなど出来なかった。
芳しくない反応を検知して、少女はもう一度同じ言葉を繰り返す。
「チケット、あげちゃいました」
「あげちゃったの、……そう。……そう」
自身の物言いに色の無い声で相槌を打ち返す鏡に対して、常の笑顔を浮かべた少女は何の反応も返さない。
いつもそうだ。少女『ツクヨミ』は、初めて出会った時から鏡に対して興味を示した事がない。なにくれと世話を焼いてあげても、まるで出来の良い人形のように、賛意も反意も見せる事無く、流されているだけ。
そういう風に出来ている。
そんなツクヨミに対して乏しい善意を振り絞り、まるで姉のように接してみたが、やはり少女は変わらない。自分は等身大の人形遊びでもやっているのか、と仄暗い想いを抱いても、任されたマネージャーとしての仕事から逃げる事は出来ず、接している内に次々と湧いてくる身勝手な哀れみから再度少女に構ってしまう。いつもその繰り返しだ。
所属組織ファントム・ソサエティの意向によってアイドル活動を行っているツクヨミ――『MIKOTO』のライブチケット。人気絶頂と言っても差し支えない彼女の晴れ舞台、たかがチケット一枚と軽く扱えない高額で取引されているその紙切れを以前、鏡から彼女に渡していた。
『お友達にでもあげなさい』
口にしたその時さえ思ったものだが、我ながらなんと酷い台詞だろう。
生まれた時からファントムの駒で在り続けた彼女が個人として関われる相手なぞ、組織に属する者達に限られる。何を考えているのか、ファントムからはアイドルとしての価値を貶めないように、と万全の警護と恵まれた私生活を許されているが、出生以降、真っ当な対人関係を築いた事の無い彼女に本当の意味で私生活などあるわけがない。
友人を欲しいと望む当たり前の情動さえ、――『造魔』であるツクヨミには存在しないのに。
「ど、どんな子なの?」
彼女に対して優しく接する行為の全てが、鏡のつまらない自慰行為だった。
善意を施す事で何らかの利益を得られるわけでもないのに、それでもやらずにはいられない、己が弱さの発露に過ぎない。
右足に嵌められた足枷型COMPを苦々しく思う。
所詮は組織に縛られた奴隷の分際で、感情を持たない人工生命を相手に姉妹ごっこ。まったくもって笑えない。ツクヨミは自分の事なぞ己の所有権を持つファントムの一員としか思っていないだろうと分かっているのに。分かっているというのに。
「……ニコニコしていました」
両目を表す二つの黒点と、下弦の曲線。
チケットを渡した相手。彼の顔を隠す仮面に描かれたニコマークを思い返し、ツクヨミは目にしたままの印象を語る。
「そ、そうなの……?」
造魔は素直だ。
ツクヨミは与えられた言葉に従順だ。
心を持たぬ『虚心』の性質。所有者の命令に従うだけの、逆らう理由を持てない人造悪魔。
友達に渡せ、と言われればそうするだろう。つまりは、ツクヨミの認識の中で、チケットを渡した相手は『お友達』のカテゴリに属するだけの理由がある筈。
聞きたい。だが聞きたくない。矛盾した気持ちに頭を悩ませたが、結局は会話を続けてしまった。
「どういう出会いだったのかなー、って?」
「普通です」
普通とは何だ。
鏡は頭痛を堪えて考える。造魔である少女にとっての普通とは何か。
ファントムの研究部で製造された造魔『ツクヨミ』。必要な知識を与えられ、鏡というマネージャーと各種必要なスタッフを取り揃えた上でのアイドル活動。必要最低限の指示や命令以外に会話と呼べるものなど、鏡から一方的に行われる不器用な対話だけ。
ああ、普通とは一体何なのだろう。どういう形をしていただろうか。
自分の中の認識が崩れていく不安を覚えて、鏡は何と言えば良いのか分からなくなってしまった。
悶える専属マネージャーを放置して、ツクヨミは目の前の大きな化粧鏡を見つめる。
生まれた時、――製造された時から変わらない自身の姿。
生後僅か二年程度の、人間と形状違わぬ『完全造魔』。ファントム・ソサエティとガイア教団が同盟を結んで推進する計画の要。
ファントム関連企業からの出資によって出店しているCDショップ、その隠された裏側に通じる一本道で出会った相手を思い出す。
『虚心』。
無心の意。心の無い事。完全造魔たるツクヨミと同じ――?
薄く笑う、表情が消えた。
「……本当に、来ないと良いのですが」
お友達にあげなさい、と言われても。
ツクヨミは困ってしまう。
告げられた単語一つだけど、自分と共通点を持った、初対面の正体不明。変なお面を被って顔を隠す、可笑しな格好の、いわゆる不審人物。
そんな相手はきっと、お友達とは呼べない。だけど、手持ちの小さなポーチに仕舞っておかれたチケットを渡すのならば、きっと目の前の人が良い。ツクヨミはそう思って差し出した。
言葉で二度促せば、ようやく受け取ってもらえた。
でも来て欲しくない。
――『其処』はきっと、世界を終わらせる場所だから。
「きょしんさん」
自分はきっと、生まれて初めて他人に、『人間』に興味を持ったのだ。
あの可笑しな人間を切欠として、造魔ツクヨミは初めて情動らしき何かを芽生えさせた。
大きく描かれたニコマークが良かったのかもしれない。そんな他愛の無い思考さえ生まれてくる。
もしも次に会えたなら、あのお面の下を見てみよう。
叶わない未来だと知っていたが、それでも良い。
生まれて初めて抱いた小さな願い事を、人と寸分違わぬ形をした一人の悪魔が諦めた。
その表情がいつもの作り物とは違う不器用な笑顔を浮かべていた事に、気付いた者は誰も居ない。
世界が終わるまで残り七日。
残り僅かの平穏な日常。聖者降誕を祝う 目出度きこの日に、作られた命が作らぬ笑みを頬に刻む。
抱いた願いが叶う日を思い描く事も無く、一人の少女が笑っていた。
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もう少し虚心っぽくしておくべきだったかと頭を悩ませる第十八話です。
カップ麺にご飯を入れるライドウ。主人公にはじめてをあげるアイドル。どこで差がついたのでしょうか。
とりあえずヒロイン関連は難しく考えずに書いていこうと吹っ切りました。
続く気がするのですか。
※2014/12/30投稿
※2015/01/03脱字修正