エグゼクターの朝は早い。
早朝の鐘が鳴る前に起床し、メシアン用の訓練場にて早朝訓練。教育熱心なパワーに一対一で手解きを受ける少年を見て、仲魔であるスライムが臍を曲げる。一汗流した後に拗ねたスライムを適当に宥めると、丁度 起床の鐘が鳴る時刻だ。
メシア教団施設に設けられた食堂で朝食を摂り、自分で食事を用意しなくて良い現環境に小さな喜びを覚えながらお腹を膨らませ、平日の場合は学校へと足を向ける。
学校生活は順調と言えた。
先の一件以来、クラスメイトとの会話も増えている。それなりに相手の顔と名前を憶え始めており、一般的な男子学生の一日が過ぎた放課後、パワーに急かされて教団への帰路に就く。
暗部といえど未だ正式に発足した部門ではないためそういった仕事も無い。メシアンとしての基礎教育、特に教団の掲げる『秩序』に関して徹底的に教え込もうと頑張るパワーの熱意に辟易とした思いを抑えきれず、スライムを盾に少しでも長い休息を得ようと知恵を絞るサマナーの姿があった。
日によってはアデプトの執務室にて過ごす。当たり前だが素人同然の彼に、幹部がやるべき仕事の手伝いなどはさせない。彼を放置して黙々と執務に励むアデプト。メシアンとはどうあるべきかを背中で語る上司を見て、早く教団を抜け出したいと決意を新たにする時である。
アデプト・ソーマは比喩ではなく現実として、教会一の働き者である。滅私の人と言っても良い。
端的に言うのなら、筋金入りの頑張り屋だった。
そんな『できる上司』が己を削って朝から晩まで只管に仕事に励み続ける姿を見て、平凡な一般人であったサマナーが本当にメシアンとしての使命に目覚めると考えているのなら、少しばかり人の善性を信じ過ぎではなかろうか。
自分がそのままそっくり同じ事をやれば、死ぬ。アデプトでなければ絶対に過労死している仕事量。――上司の日々の仕事振りを見守るサマナーは、教団内の労働事情を見直すべきだと至極真面目に検討したが、それが生かされる日が来るかは不明である。
休日に教団の実施したボランティアに足を運ばされる日もあった。
公共施設、敷地内のゴミ拾いや悪魔関係の巡回警備、福祉に関する施設慰問と他の細々とした行事まで。徹頭徹尾、現在のメシア教団は『社会への貢献』をこそ活動目的としている。今の立場で目を通せる限りの資料を手にとって見れば、これらの活動はアデプト・ソーマの幹部就任以降に始められたものが数多い。
己の上司は善人である。最早疑いようも無い事だ。
傍から見ても人として、メシアンとしての瑕疵が見えない。或いは目に見える振る舞いの一切が欲を持つ人間らしからぬ善行一辺倒である事こそ、かのアデプトの欠点かもしれなかった。
きっと。
――きっと、自分がスライムや他の何がしかを切欠としてこちらの世界に関わっていなければ、この善良な男の下で己の一生を使い潰すという選択肢も有り得たのだろう。
不覚ながらそう考えてしまう程度には、今の上司であるアデプトは『いい人』で、尊敬出来る大人だった。
だがそうはならないと分かっている。
自分はもう歩く道を決めている。いくつもの仮定を考えたところで、答えは変わらない。
遠からずアデプトを裏切る日が来る。サマナーは自分の方針を変える気が全く無かった。
内から湧き上がる煩悶を一人で解消しながらメシアンとして過ごす、ある日の事。
以前にも共に遊びに出掛けたクラスメイトに誘われて、サマナーは一軒のCDショップへ足を運んでいた。
カラオケボックスで下手糞な歌を披露した、アイドル好きの男子生徒。彼の誘いで出向いたのだから、その後の展開も予想が出来た。
「このデビューシングルは本当に良いぞ。きっとお前もMIKOTOの良さが分かる!」
面倒臭くなるくらいのハイテンションでサマナーを勧誘する彼に、悪気は無いのだろう。
だが、うざい。自分の好きな物を他人に勧めるのは良いが、強引過ぎれば相手が引くという事を、誰か目の前の男子に教えなかったのだろうか? 物を知らないファン未満の優しいクラスメイトを演じるサマナーは、腹の内で空気の読めない彼を罵倒した。
アイドルなど興味が無い。死ね!
そうはっきりと言えれば良いのだが、やり方はともかく自分と仲良くしようと努めるクラスメイトを無下には出来ない。サマナーとてその程度の善性は持ち合わせているのだ。しかし、だからこそ面倒臭い。
「このCDショップ、数年前に出来たばかりだけど不思議と客も少ないし、何よりMIKOTO関連の品揃えが非常に良い! 見ろよ、MIKOTOの専用コーナーと関連グッズ各種まできっちり揃えてるんだぜ!」
至極どうでも良い情報を得て、教えてくれてありがとう!などと柔らかい笑みを浮かべる演技派な自分を、そろそろ誰かが褒めてくれないだろうか。と軽く現実逃避。
新たに知り合ったクラスメイトと友好的に接するにしても、もう少し強気なキャラで行くべきだった。ここ最近 対人関係で後悔ばかりしているサマナーは、また新たな悔いを積み重ねるのだった。
「ごめっ、ちょっとトイレ行って来る!」
言うだけ言って、唐突にばたばたと走り出すクラスメイトを尻目に、勧められたCDを眺める。
近くに商品見本を試聴可能なスペースが用意されていたので良い機会かと手を伸ばした。興味自体は無かったが、あそこまで熱心に勧められれば多少は手を動かす気にもなる。音楽を楽しんで損をする事も無かろうと試聴機のヘッドホンを耳に寄せる、と――。
『オスザル』
胸元に下げられた十字架型COMP。相変わらず閉じ込められていたスライムが、契約を辿って声を投げた。
陳列棚の並べられた店内、延びた通路の先にある扉。
関係者以外立ち入り禁止、と書かれた札の下げられた先。商品の搬入用か、店員の休憩用か、少なくとも客が立ち入らないだろう場所。その奥から活性するマグネタイトの香りが漂っていた。
『この店は数年前に出来たと言っていたな。念が溜まりに溜まる古物件で無ければ、あの奥に悪魔か、或いは悪魔使いが居るな』
不思議と客の少ないショップ内。
気を逸らす五月蝿い人間が消えた途端に気付いた、マグネタイトの気配。
先程からずっと、或いは自分が来る以前からこうだったのなら、この店舗自体がそういう関係の店、なのだろうか? 自分が問題物件に誘い込まれたなどという自意識過剰な妄想は、可能性を僅かだけ残して切り捨てる。名も顔も知られていない只の学生、只のメシアン、わざわざ欲しがる奴も居ない。
手を伸ばさないほうが良い。足を向けない方が良い。
関われば関わるほど、死んでいない現状を不思議に思える、恐ろしい世界だ。此処もまた、自分如きの力量では容易く敗れる化け物が居るかもしれない。居ると仮定して行動するべきだ。
――だけど、逃げるだけで何が出来る。
これは蛮勇だ。自覚がある。
それでも未知に対して挑みかかる気概を失っては、今後二度と戦えなくなってしまう。
恐ろしいからと逃げ続ければ、向かえる道先は次々と数を減らしていく。
失敗したら死ぬかもしれない。だが逃げ続ければ望みに手を伸ばせない。
『構わぬ。行くが良いオスザル。貴様には偉大なる我がついておるぞー!』
相変わらず、無駄な自信に溢れたスライムである。異界で熊に胴体を貫かれた過去を忘れているのでは無いだろうか。
『その外道の助力はともかくとして、信徒である貴方を――』
パワーも何か言っていたが、聞き流して扉へ向かう。
何か問題が起きたなら、全て教団のせいにすれば良い。虫の良い思考、本当に叶うかも分からない些細な保険を慰めに、未熟な男の意地を張り通したいサマナーが仲魔と共に異常の発生源を目指す。
日々の鍛錬の成果だろうか。それとも常に近く在る悪魔の存在に霊体が刺激され、新しい感覚が目覚めたのか。一定量を超えたマグネタイトを、五感とは異なる何かが感じ取っていた。
――嗚呼、霊感よりも異能が欲しい。
見習いメシアンの訓練施設には魔法を使う訓練生も居たが、何故サマナーは未だ一つも魔法を使えないのか。異能者という存在は割と多いらしいのに、まさか未だに使える気配の無い自分は才能が無いのか、と実は結構気にしていた。
目撃者が居ない事を確認した上で扉を開け、照明が設置されている明るい通路を歩く。
明るい、なのに薄暗く感じるのは心理的な理由からか。緊張している自分を自覚して、衣服越しに胸元の十字架を擽った。もしも異変があれば、パワーが勝手に出てきて盾になってくれるだろう。信頼とは違う認識を新たに、更に前へ。
背負ったバッグから、こっそりエグゼクターの正装である仮面を取り出す。何故持っているのか、といえばそれはエグゼクターだからである。いつ何時であろうとも、責任の所在を『ニコマークの怪人』に押し付けられるこの仮面を、サマナーは常備していた。
使った事は無い。出来るなら、数日前に再開した緋熊の前でこそ仮面を被るべきだった。今更な話だ。日に十通以上、各一時間は執筆に時を費やして送信されてくる熊からの短文メール。毎回忘れず返信するサマナーの心的疲労は凄まじい。
溜息を吐いてそれでも前へ進む。マグネタイトは未だに匂う。進めば進むほど強くなる香りの先、曲がり角で不意打ちを受けないよう、離れた壁に沿って歩いていく。
曲がり角の先に立っていたのは、薄く笑う少女が一人。
「――こんにちは」
――こんにちは。
綺麗な少女だった。
薄く笑う顔に、どこかで見たなと記憶を刺激される。
肩に届かない程度、淡色のショートカット。細身の全身は幼い起伏がそこかしこに見て取れて、彼女を花に例えるなら蕾だろう。咲けば綺麗だ鮮やかだ、と誉めそやす俗人達が容易く想像出来る。
職人の手によって刻み込まれたかのような、動きの無い薄い微笑み。
ふわふわと泡のように軽い、甘く蕩けたような声。
「どちら様ですか?」
少女からの誰何に、仮面で顔を隠したサマナーは沈黙で返す。
すごく不気味なシチュエーションだ。
可憐な少女である。マグネタイトの香りが立ち込める道の半ば、曲がり角で出くわす状況はホラー染みている。全てが人工的な作り物めいて、余りにも出来過ぎた状況。やっぱり今回も厄介事だと今更溜息も出てこない。
僅かな間を設けて、彼女への返答は決めていた通りに返す。
――『虚心』。
「きょしん、」
鸚鵡返しの声は、少しだけ硬かった、気がする。
COMPからパワーが出てこない。目の前の少女はまず間違いなく裏側の存在だ。だが敵意など全く見えない。サマナーとて彼女の醸し出す独特な雰囲気に戸惑いがあるが、出来ればさっさと自己召喚を行って欲しい。気の利かない天使を胸中で罵倒した。
せめてパワーという名の肉盾があれば、状況を自分の都合に合わせて――。
「あなたもですか?」
――。
無垢な問い掛けに対する反応が遅れた。
サマナーへと向けられた視線。彼女の顔は、ずっと浮かべていた笑顔が消えている。
笑わない少女の問い掛けの、そこに秘められた意味を汲み取れない。
何も言えないまま、否定も肯定も返せない。思考に生まれた空白に縛られ、身動き出来ないまま見つめ返した。
見覚えのある顔。
先程まで浮かべていた固定された笑み。
どこかで見た、少女の姿。
つい数分前まで五月蝿いくらいに聞かされた、アイドルの話。
喉に石が詰まったように苦しい。時の人に出会えた喜びや緊張とは違う、何か見逃してはいけない災厄を前にしているような、耳元で囁く悪魔使いの霊感が、此処で彼女と向き合ったままではいけないと叫びを上げている。
糊で張り付いたように固くなった上下の唇をゆっくりと引き剥がし、ようやく確信した相手の正体を問い質す。
――お前の、名前は?
こいつは『MIKOTO』だ。
「わたしは、『ツクヨミ』です」
――そうか。よろしく。
返答が予測と違った事そのものはどうでもいい。
アイドルの名前に興味があったわけではないし、彼女の芸名や本名をこの場で聞き出して何を得られるとも思わない。ただ、今聞いた彼女の名前を忘れてはいけないと思った。何故かは分からないが、確実に、重要なものだと感じるのだ。
霊感などという怪しげなものにここまで信を置くなんて、先月辺りの一般人であった自分からは考えられない。
変わらずじっとこちらを見つめる少女に仮面越しの視線を返して、僅かに足を後ろへ下げた。
そろそろ帰ろう。此処でこの少女と会った、ただそれだけで良い。これ以上 謎のマグネタイトについて調べる強い意思を、サマナーは残していなかった。
「どうぞ」
唐突な呼び掛けと共に両手を差し出される。
少女の手の中にあったのは、細長い長方形の紙が一枚。
MIKOTOと書かれたそれは、ライブのチケットだった。何処かで見たような気のする見慣れない紙切れに目を留めて、もう一度ツクヨミと名乗った少女に視線を向けた。
「どうぞ」
再度の言葉にようやく察する。
つまり「どうぞお受け取り下さい」、という意味だ。こいつは言葉が足りない。
――ありがとう。
受け取りはしたが、どうせ行かないだろうな、とチケットに記載された日付を見て思う。年末の12月31日。大晦日。これは年越しライブという奴だろう。しかしその日はきっとメシア教団の仕事で動けない。
せっかく貰ったというのにこれを使う機会は来ないだろう。罪悪感など無く、そう思った。
少女がもう一度口を開く。
「――『それ』、出来れば来ないで下さい」
――じゃあ寄越すなよ。
咄嗟に言い返せば、不思議そうに見つめ返される。まるでこちらが間違っているかのような反応だ。失礼過ぎる。
来るなと言うのなら、何のために渡したのか。先程はツクヨミと名乗った癖に、こんなチケットを渡すのならやっぱりお前はMIKOTOじゃないか、といった罵倒も浮かんできた。浮かんだだけで口にしないサマナーは、目の前の少女の人間性が全く掴めない。
『あなたもですか?』
人間性が、見えてこない。
まるで無垢な、子供のような所作。
笑顔を消した少女の姿は、執拗に疑っても敵意が湧いてこない、敵には為り得ない『何か』を相手にしているかのようだった。
チケットを懐に仕舞って踵を返す。
これ以上此処に居たいとは思わない。これ以上少女と話していれば、場に滞留するマグネタイトの発生源やその元凶となる誰かが顔を見せるかもしれない。これ以上の未知の危険は、本当に対処し切れなくなるだろう。
――じゃあな、『ツクヨミ』さん。
「さようなら、『虚心』さん」
通路から店内に戻るまで、誰とも出会わなかった。
色々な曲が混ざり合って鳴り響くCDショップの片隅で、まるで白昼夢を見たような心地で十字架に触れる。
『オスザル、『アレ』は。あの小娘は……』
――変な奴だったな。
スライムの呼び掛けに一言だけ返して、会話を切り上げる。
いつの間にか姿を消していたサマナーを見つけて呼び掛けて来るクラスメイトに歩み寄り、胸中に蟠った疑念と関心を忘れないよう、もう一度だけ口を開いた。
――変な奴だったな……。
それだけではないという事は、十分理解していたが。
今は一先ず、それだけで済ませようとそう思った。
すぐにそれだけでは済まなくなると、心のどこかで理解しながら。
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見えたぞ。エンディングが!!の第十七話です。
上の文にあまり深い意味はありませんが、本当にライドウが出ない不具合。もうアイドルがメインヒロインで良いかもしれないと血迷う部分もあります。
あとパワーは男ですよと返信をしておきます。ヒロイン枠に入ると困ります(白目)。
続かないという説もあります。