ガイア教団施設最奥部にて、悪魔が笑う。
「あと、半月足らずか。よくも漕ぎ着けたものだな、ファントムめ」
液状化させたマグネタイトの浴槽に身を浸す、女性型悪魔。
青白いという表現を通り越して青一色に染まった人外の肉肌と、溶けた蝋にも似た白い長髪の女。液状マグネタイトに沈む艶かしい体躯の内、腹より下は具象化失敗の証である、吐き気のする緑がかった黴色に崩れていた。
半身をスライム化させた一匹の悪魔。
浴槽の縁に雄牛や犬、驢馬と女を侍らせた醜悪な化け物。
――ガイア教団の現盟主。悪魔でありながら、混沌を奉ずる人間組織のトップに立つ存在。
「……畑違いだ。俺ではなく担当部門に言え」
悪魔に向けて口を開いたのは、場に同席する一人の偉丈夫。
ファントム・ソサエティに所属する、ジョージ・バットマンという名のダークサマナー。
「この私の前に顔を出せるのか、担当とやらは?」
心底可笑しそうに歪んだ声音を漏らす女悪魔は、バットマンとは見知った仲だ。
ガイア教団とファントム・ソサエティの同盟関係。その連絡役として寄越された男の顔を見た当初は、崩れて中身の無くなった腹を捩らせ笑ったものだ。
『ははははは! コウモリめ、よりにもよってまさか貴様が来るとはな!』
『……不本意ながら、これも仕事だ』
思い出に笑みを深める悪魔を前にしたバットマンは、常と変わらぬ態度だった。
悪魔風情に気を使ってやるつもりはない。今回教団へ足を運んだのも、ただの定期連絡だ。
笑いの消えぬまま、悪魔が口を開く。
「私のくれてやった天津神はどうだった?」
「知っているだろう。使い潰した。『アレ』からは名残と呼べるだけのものも見えん」
「所詮は独自の信仰も集められぬ神話の端役か。私と似通った属性も、島国の胡乱な伝承のみではなあ」
心底つまらないといった風情で、既に消えた一柱の神を哂う。
ガイアの盟主を前にするバットマンは神への嘲弄に追従するでもなく、ただ立ち尽くした。
属する組織が同盟を結んでいるから。仕事として任されたから。此処に立つ理由はそれだけだ。目の前の出来損なった魔王の楽しみを助ける気は欠片も無く、だから中身の無い会話を切り上げるつもりで相手の名を呼んだ。
「『ヘカーテ』、話はそれだけか」
男の呼び掛けに悪魔がゆっくり口を開く。
「「「名を呼ばわる許しを与えた覚えは無いぞ、『カマソッソ』」」」
開かれた口。一つしか無いそこから、一斉に重なる三種の恫喝が漏れた。
浴槽の縁に侍る獣達と女も、主の憤激を受けて敵意の視線を晒す。
コウモリ風情が、と犬の顔が唾液を垂れ流す。驢馬もまた歯をむき出し、雄牛が後ろ足で床を蹴ると、残った女は赤土のような夜魔の両瞳でバットマンを睨み付けた。
不敬なる物言いに怒りを表す魔王とその眷属を前にしても、カマソッソと呼ばれた男は変わらぬ姿勢で視線を返す。
それは弱者が強者に対して見せるものではない。不完全な状態とはいえ、魔王を相手に見せてはならぬ、不遜にして傲慢なる振る舞いだ。本来ならば許してはならない男の態度に、魔王は辛うじて怒りを呑み込み、冷えた頭は相手の正気さえ疑った。
半身がスライムと化している己を見て侮った、などと考えない。目の前の男がヘカーテの恐ろしさを知らぬわけがないのだ。肉と霊魂に刻み込んだ長き苦しみを、忘れている筈は無い。
魔王『ヘカーテ』。
ギリシアを起源とする月と冥府と魔術の女神。
天と地と海、三相一体の神格であり、広く三つの支配領域を持つが故に神としての側面、有する権能は数多い。後に魔女や魔術師の崇める神とされ、邪教の謗りを受けつつも現代において尚、世界の裏側に関わる者達からは根強い信仰を得ていた。
ヘカーテは現代においてもその名を挙げられる真の神格だ。決して、たかがサマナー風情が軽く扱える相手ではない。
逆らえば死ぬ。逆らわずとも魔王の気紛れによって容易く摘み取られる。具象化に失敗した今でさえ、バットマンの殺害はいとも容易い事なのだ。
「……肉を得て狂ったか、凶鳥よ」
「でなければこの俺がガイアに足を踏み入れるなど有り得んだろう」
本来は『秩序』に属する悪魔、凶鳥『カマソッソ』。互いに所属する集団が異なるとはいえ、現状においてファントムとガイアは裏で共同歩調を取っている。
反発せず、争わず、などと。例え相手が己では太刀打ち出来ぬ圧倒的な格上であったとしても、属性に縛られる悪魔が本来的な敵対者たる『混沌』の怪物と手を取り合うなどまず有り得ない。
「貴様らの罪業が響いているんだろう。俺も、『アレ』も、最早 悪魔だなどと名乗れんさ」
――特に俺など、見事なまでの失敗作だからな。
笑いながら口にするバットマンには、悲壮感も怒りも無かった。今在る自己に納得している、ヘカーテの物言いに倣うなら、人としての肉体を得た事で狂って出来上がったのが『ジョージ・バットマン』だ。
魔王ヘカーテの実験。ガイア教団の研究成果、その失敗作品。
元の霊格を損なわぬよう丁重に、人としての肉を与えられ、生まれてきた元悪魔。
ジョージ・バットマンは人ではない。だが悪魔でもない。二種族を混ぜ合わせて作られた、『魔人』の出来損ないだ。
「現状に執着する理由は無い。だが貴様の創る新世界にも、殊更望むものなど無い」
全てどうでもいい。己が己のままであれば、滅ぼうが栄えようがバットマンには関係無い。
如何なる時代、如何なる世界であろうと、己の為したいように為すだけだ。魔王を前にしてのふてぶてしい笑みに、ヘカーテは不機嫌そうな顔で言う。
「つまらぬ」
「ははは、悪魔を楽しませる気など更々無いさ」
かつて悪魔であったバットマンが、悪魔という存在に気兼ねする事は無い。人間のための世界にあって、連中に公的な生存権利なぞ存在しないのだ。如何扱おうが構わない。彼自身の来歴から、悪魔という異界の生命を特別視する理由も無い。全て残らず、己の欲を満たすために利用するだけ。勝てない相手ならば放っておく。弱い相手からは奪い尽くす。
まさしくダークサマナーたるべき欲望を偽らぬ有様に、だが混沌を好むヘカーテは興醒めしたと言わんばかりだ。
その胸中は単純。――目の前のコウモリが噛み付いてくるなら、きっと面白いだろうに。
「ああ、まったく。……つまらぬな」
それはさっきも聞いた。口には出さずに胸中で呟くバットマンは、魔王の望む新しい世界を脳裏に思い描く。
其処は、きっとろくでもない世界だ。
どうしようもなく、ただ喰い合うだけで実りの無い、つまらない世界になるだろう。
出来るなら、目の前の化け物の目論見を挫いてしまいたい。だが力が無い。不完全とはいえ魔王を排するだけの力量を、この不出来な肉体では得られないと分かっているのだ。
――だが見ていろ。どうにか出し抜いてやる。
胸の内で決意を燃やすバットマンは、大切だなどとは言えないが、今在る世界が嫌いではなかった。
だから己の手で魔王を殺せずとも、その望みを叶えさせはしない。何より目の前の化け物がかつて己に与えた苦悩と苦痛を、未だ一度たりとて許してはいないのだ。
深く、深く、気取られぬよう静かに燃える敵意を秘めて、かつて悪魔だった人間が、己の欲望を理由として、世界を守るために闘っていた。
◇
国を作るにのに必要なものとは何だろうか。
人か。金か。 国土か。
メシア教団本部施設に用意された自室で腕組みをするサマナーは、ベッドに腰掛け考えていた。
スライムは自分を讃える国を作りたいと言う。成程、元神様としてはかつての栄光よもう一度、と考えているのだろう。理解は出来る、納得も出来る。
だが、どうやって国など作れというのか。これが分からない。
「うむ。我が一の眷属たるオスザルが、裏の世界において英雄もかくやという活躍を重ね、世を席巻する破格の知名度を得れば何とかなろう」
人任せかよ。
頭の足りない目論見にツッコミを入れつつ、膝を抱える。そもそも神として在った頃の詳細な記憶など持ち合わせていないスライムである。知識と頭脳に期待するのは無理があった。記憶を保持していたとしても時代が違う。霊的な統治を施していたミシャグジ神に、物質的な繋がりによって纏まる現代国家の構築が出来るものだろうか。
――諦めたら?
考えるのが面倒くさくなってついついそんな事を口にすれば、スライムが壮絶な顔で固まった。
一拍。二拍。暫く待っても固まったままのスライムを前に、サマナーが口元を押さえて謝罪する。
――ごめん、冗談だ。
「我今ちょっと焦ったではないか貴様! オスザルの分際で貴様ーっ!?」
どうやら先程の発言が冗談で済まない程度には、スライムにとって自分の国というのは重要らしい。
叶えてやれるのならば叶えてやりたい。与えられた部屋の内装に視線を巡らせて、考え込む。
国の頂点に君臨するなら、名を売るのは大事だろう。そしてこの業界、どう言葉で誤魔化した所で力がものを言う世界だ。現にメシア教団でアデプトの地位に就く男は、同組織内において最強だと言われている。
つまり自分達には力が足りない。相変わらずの結論に落ち着いた。
さてメシアンの仲魔といえば、天使以外は認められていない。
教団の秩序とは唯一神に従う事であり、その配下である天使こそがメシアンを導いてくれるとか。天使を悪魔と呼べば凄い事になるのがメシア教団であり、それ以外の悪魔は文字通り、人々を誑かす悪徳の権化とされている。
――だが実際問題、天使しか連れていないサマナーなぞ雑魚である。つまりメシアンは雑魚だ!
「極論が過ぎるが、仲魔の多様性こそが悪魔使いの強みと言える。その上で言おう」
天使以外は駄目です。
部下からの陳情に、アデプトの返答は冷たかった。
「私はメシア教団の奉ずる、神の秩序を利用して人の世の平和を築きたいと考えている」
だから、アデプトは秩序から外れる事を好まない。
天使以外は邪悪な存在だ。ゴミクズだ。――多数のメシアンがその認識で纏まっているというのに、平和を守るために組織した暗部の人間が進んで和を乱すのは許されない。
あくまでも人民の平穏こそがアデプトの望み。汚れ仕事専門の職業人は必要だが、天使以外の仲魔は絶対的に必要なものではない。だから、サマナーは己の有する戦力を天使のみで編成しなければならない。
この場合、契約者たる外道スライムは例外である。
排除すればサマナーは離反する。
アデプトも、魂を繋がれた彼等の関係を軽く見ていない。天使ではない外道族、彼のスライムの生存を見逃しているだけでも、メシアンとしては法の境界線を越え過ぎていた。
「本来ならば私から、貴方に見合った天使を喚ぶべきなのでしょうが……」
外道族悪魔と友好的に振舞える天使など居るのだろうか。加えてスライムは己のための宗教国家を作るなどと口にする、唯一神とは異なる秩序の神格から生まれた悪魔だ。
秩序に忠実といえば聞こえは良いが、その実、頭が固く融通が利かない。方針と互いの属性が重なれば心強い味方となるが、少しでもズレてしまえば内憂へと転じる。それは天使もスライムも変わらない。
短期ならともかく、長期となるとサマナーには合わない仲魔だろう。アデプトは目の前の部下に聞こえる大きな溜息を吐いた。
「なのでパワーをつけます」
――またお前か。
「よろしくお願いします、新たなる信徒よ!」
いい笑顔だった。
結局サマナーは監視役の天使『パワー』から逃れられなかった。相も変わらずパワーに勝てる位階を目指して鍛錬を重ねるしかないのだ。
教団に組み込まれた状況から脱するのは、実は簡単だ。他の組織に身売りすれば良い。
メシア教団の組織力から個人の力で逃げ切る事は実質不可能。故に組織の庇護を求める。だが『悪食』の一件が収束した今、サマナーは自身の価値を他組織に示す手段を持っていない。価値を認めてもらえなければ、メシア教団から逃げ出した人間を迎え入れる奇特な集団も見つからない。
せめて教団内で実績を積み上げ、他の組織からも目を付けられる程の活躍を。――という案も実行不可能。
何故ならば彼は新設された教団暗部、唯一の構成員なのだ。
目立ってはいけない『暗部』所属のメシアンがどうやって余所に名を売るのか。フリーのサマナーであった当時を振り返り、己は何と自由な境遇に居たのだろうかと目頭を押さえた。
一応、現状を脱する現実的な手段が無くは無いのだが。
異界でまみえた熊や半裸を思い返し、サマナーは思考を放棄した。
「そういえば」
書類の積み重なった執務机に向かうアデプトがサマナーに目を向ける。
何か問題があっただろうか。首を傾げて見つめ返した。
「貴方の登録名、『虚心』とはどのような意味を込めたのか。少々気になりまして……」
メシア教団は宗教組織である。
サマナーは現役の学生である。
――宗教に傾倒してるなんて思われて、学校で苛められるのは嫌なんですッ!!
悪魔を知る者達にとってはともかく、一般人から見ればメシア教団は居もしない神と救世主を崇める、財源豊富な謎の巨大カルト集団だ。同級生がメシア教団の信徒であると知って、果たして周囲からは如何なる反応が返ってくるのか。想像するのも恐ろしい。必死に説明する少年に、アデプトは宗教人として若干の悲しみを覚えたものだ。
本音としてはいつでも教団から抜け出せるように正確な名を残さず、それと同時にスライムの信徒である自分の名前がメシアンの名簿に記載される事態を逃れたかったが故の出任せだった。アデプトとしても表に出せない暗部の人員、その本名を資料に記載するよう強要しない。
暗部らしく本名を想起させない短い呼び名を。そう言って書類に記されたサインは『虚心』。
名前の意味など文字通りのものでしかない。
――『虚心坦懐』。
微笑みに乗せて短く語る少年に、アデプトは殊更に白々しい笑顔で応えた。
虚心とは無心。坦懐とは、こだわり無く広い心を指す。
似通った四字熟語で説明するのなら、明鏡止水という言葉がある。
己は蟠りなど持たず、心の広い人間である。胸を張ってそう語る己の部下を前に、アデプトは深く頷いた。
嗚呼。やはりこのような清々しくも腹の黒い人間こそが、暗闇に踏み込むに相応しい。
彼がこのまま教団に居座る事を願い、アデプト・ソーマの額の皺が少しだけその数を減らしていた。
■
中々話の進まない第十五話です。
しかしこのSS、女神転生ネタなのに仲魔が増えない不具合が深刻ですね。
続かない気もするのです。
※2014/12/27投稿
※2014/12/27誤字修正