メシア教団の施設内を、一組の男女が歩いていた。
「教団の敷地内は一種の聖域になっていて、天使様達は此処でなら外よりももっと大きな力を発揮出来るらしいわ」
揚々と語る少女の言葉に、少年が質問を返す。
――ならばメシア教団の敷地内における天使は無敵なのか。
当然、そんな事は無い。
各々の持ち合わせる力量を最大限発揮し、本来召喚や維持に消費するマグネタイトを霊的に整えられた土地から受け取る事でサマナーの負うべき負担を取り払ってはくれるが、聖域とやらの齎す利益はそれだけだ。
個々の天使に不相応な能力を与えるわけではない。肉体を破壊されても死亡しないという度を外れた不死性が具わる事も無い。実力は変わらず弱い天使も弱いまま、死ねばCOMPや召喚元に帰還して外的要因による復活を待たねばならない。
あくまで現世に降臨する際の負担、つまりマグネタイトの消耗を抑える。言葉にすれば地味な地形効果だった。
「……意地悪な言い方」
少年による矢継ぎ早の指摘に、少女が小さくむくれる。
メシアンとして、あんなに綺麗で優しい天使様達がどれだけ凄いものかを語りたかったというのに、少年の知りたかった事はもっと実利的な、少女からすれば酷くつまらない実態だった。
分かりやすく怒りの表情を見せる少女を目にして、少年は慌てたように言い訳を重ねる。
最後には平謝りになって俯いてしまう少年を前に、少女はまるで自分が悪い事をしているような錯覚を覚えた。別に彼を責めたかったわけでもないのに、これではせっかくの機会が台無しになってしまう。
「も、もういいから! ……ごめんね、私も悪かったよね」
謝って、謝り返して。居た堪れない空気がようやく和らいだ。
つい数日前にメシアンの訓練施設に入所した彼。自分と同い年で、いつでも一生懸命で、少しだけ間が抜けている。きっと先程の質問も、彼の頑張り屋なところが出過ぎてしまったのだ。ならばそれに対して勝手に気を悪くした自分が悪い。聖域だなどと、己の業績でもないのに自慢気に語った自分を、彼は嫌っていないだろうか。
乙女の心配とは裏腹に和らいだ空気の中で笑みを浮かべる少年の顔を見て、少女は大きく安堵した。
――ああ、きっと自分は彼が好きなのだ。
淡い想いである。出会って数日で人を好きになるなんて、なんと安い女であろう。そう自分を笑ってみても、こうして二人きりで過ごす時間がとても嬉しい。
いつもは沢山の人の中に居る彼を、独り占めしている。言葉にならない喜びが溢れる。
立派なメシアンを目指して訓練に励む見習い風情が、恋愛に現を抜かすのはきっと良くない事だろう。それでも気持ちを抑える事は難しい。叶うのなら、今のように楽しい時間を過ごしながら、いつか彼と一緒にテンプルナイトになれたら良い。
虫の良い話だ。そんなに人生は甘くない。けれど、それでも夢を見たいと思う。
一人思考に没頭していれば、傍らの彼はどこか遠くに視線を向けていた。
視線の先には眼鏡を掛けた壮年の男性。メシアンの正装に、立場を表す装飾を施された立ち姿。
「アデプト・ソーマ?」
メシア教団随一の武断派。天使『ソロネ』を従えた、組織における最高幹部の一人。
十代の頃からメシア教団に所属し、数多の敵を葬ってきたとされる教団最強の戦士。
少女にとっては風評だけでも恐ろしい。上級天使を守護者として傍に置くのではなく、「従わせる」という上下関係を含んだ言葉を用いるのはつまり、あの男は人間でありながら高位の天使よりも強いのだ。どれだけの血を流してそこまでの位階に到達したのか、想像出来ないし、したく無い。
素晴らしい人格者であると聞いている。教団で高い位置に在りながら無辜の民を虐げていた罪深き元メシアン達を単独で一人残らず討伐し、その結果、今この国のメシア教団はかつて無いほどに組織としての健全性を保っている。
少女達の所属する施設にしてもそうだ。未来ある信徒達のためにと、広い敷地と質の高い設備を用意されている。研鑽に適した環境を与えて貰い、本当に有り難い話だと思う。
だがやはり恐い。
少女にとっては、大人の男性が武力で偉業を成し遂げたなどと言われれば、どうしても血生臭くて凄惨な光景が脳裏に浮かんでしまうのだ。人格者だと言われても、恐い一面が無いという保証にはならない。ついつい腰が引けてしまう。
いけない事だ。尊敬すべき先達を素直に尊敬できない自分を、少女は内心で叱り付けた。
傍らの少年に目を向ければ、彼は未だにアデプトの横顔に視線を向けている。
男性の価値観から計れば、力で語る人間とは敬うに足る相手なのだろうか。浮かんだ思考に眉根を寄せる。自分と噛み合わない価値観を持って欲しくないという身勝手な感情から、少年の袖を掴んで注意を引いた。
「ね、そろそろ次に行こうか」
熱心な知りたがりである彼のために、教団施設の案内をする。そういう名分で作った二人きりの時間だ。まだまだ回れる場所は多く、共に居られる時間は残っていた。
笑顔で聞き入れてくれた彼の様子にほっとして、二人並んで歩を進める。
その歩き去る背を見つめるアデプトの視線に気付けたのは、少年と、その胸元のCOMPに納まる天使と悪魔。少女だけは欠片も気付かず、次の施設に関する説明文を脳内で捏ね回していた。
少女の中にあるのは淡い感情だった。
好きだと思っていても相手への具体的な配慮が欠けていて、叶えば良いと思いながら実際に口に出す事はない。
彼女が新たな転機を迎えたのは、翌日の話だ。
「――ならば君を私直属の『執行者(エグゼクター)』に任命する」
訓練施設内にて目にする筈の無いアデプト・ソーマと、その眼前に立つ少年。
盗み聞いた彼らの会話によって、一人の少女の未来もまた僅かながらに変えられていく事となるのだった。
◇
結論として、天使『パワー』に勝つのは不可能だ。
己の実力と経験、悪魔使いとしての特権である仲魔の数。有する手札を一つ一つ並べて、もうこれしかないなと頷いたサマナーが出した答えは、全面降伏であった。
――だって勝てないし。
自室で逆立ちしながら変顔を繰り返す少年の奇行を見て、生真面目なパワーは混乱していた。
勝てないというか、そもそも組織と個人で戦いになると考えるゲーム脳がまず有り得ない。
訓練施設内では基礎体力や基礎知識、本来悪魔と戦う者達が必要とする多くのものを得られた。だがメシア教団で学んだという事はつまり、世のメシアン達は一人残らず、自分が現在進行形で学び取っている数々の知識と技量を既に持ち合わせているという事だ。
強くなれると喜んでいた自分が馬鹿みたいだった。いや、学び取ったもの達は有用であるのだから喜ぶのは問題無いが、それら全てが教団から抜け出すためのアドバンテージになり得ない事実を、サマナーは今更理解してしまった。
だから考えて、その末に結論を出す。
――パワー、お願いがあります。
「!?」
自発的に声を掛けてきた少年の姿に、赤鎧の天使が瞠目した。
すわ何かの前触れか。ふっ、ふっ、と不規則に呼吸が乱れ、目の前の虜囚へと返答を返すただ一挙動のためだけに、一人の天使が必死に動揺を抑え込もうと頑張っていた。
「な、何でしょうか、咎人よ!」
声が上擦ってしまった。
真面目すぎるパワーの欠点は、真面目である事だ。
メシア教団内において天使族悪魔は畏敬の対象である。メシアンからは恐れ多いと距離を取られる事はあれど、無価値なものを見るように扱われた記憶は全く無かった。有ったら大問題だ。
激しい二面性を見せる虜囚の少年。最近は自分の言葉に全く答えなくなった若き罪人。皆に笑顔を齎す先行き楽しみな見習いメシアン。邪教の古き悪魔と不可思議な絆を結ぶダークサマナー。
パワーにとって接した事の無い相手だ。接する必要の無かった相手だ。面と向かうその時には既に相手は敵であり、それを切り捨てるだけで全てが終わっていた。だから、敵対してはいけない、真摯に教え導かなくてはいけない一人の人間として、彼のような人物と関わるなど今までのパワーでは考えもしなかった。
初めての経験である。
天使にあるまじき事かもしれない。知らなかったから出来ないなどと、そんな弱音を吐けよう筈も無い。
それ故に今、パワーは己の経験の浅さに足を引っ張られながら、未知の事態と向き合う事になっていた。
混乱する天使の様子をつぶさに観察しながら、少年は口を開く。
こいつちょっとチョロ過ぎるんじゃないですかね、とか自分のやった事を棚に上げて。
さて次の日の事である。
訓練教官が「今日は特別な実習を行う」と言っていたが、少年は余裕で聞き流していた。
どうでもいい。いつも通り真面目だがちょっと抜けている真摯な紳士として振舞うが、彼にとっての本命はその後にしかない。
施設での訓練も今日で切り上げるつもりだ。上手くいくかは分からないが、多分上手くいくだろう。上手くいけば見習いとしての今の立場も消えてなくなる。よし、とりあえずやってみよう。その程度の軽い気持ちで場の流れを見守った。
訓練場に現れた赤鎧の天使の姿に、訓練生たちがどよめいた。
「天使『パワー』と申します、有望たる信徒達よ。本日はよろしくお願い致します」
昨夜パワーに頼んだ事は、単純だ。
――明日の訓練を手伝って欲しいのです。俺も皆も、パワーのような実力ある天使との実践訓練は、きっと後々のためになる筈です。だから、どうかお願いします。
冷たくしていた人間が、自分に優しくなった。今までの対応とのギャップから、きっと好印象を与えるだろう。――という浅はかな目論みから出た台詞ではない。
アデプトから監視役として遣わされた天使が、若きメシアン達のためとはいえ己の役目を放り投げるわけが無い。確かにパワーは監視対象である少年に頼ってもらえた椿事を喜び、訓練施設の見習い達のためになるだろうこの頼み事を聞き入れたいと思った。だがそれとこれとは別である。
だからこう囁くのだ。
――アデプトにお伺いして許可を頂けたなら、その時はお願いできますか?
これにパワーは頷いた。
困った時は上司にお伺いを立てる。社会人として、報告・連絡・相談は大事だ。ほうれんそうの心得だ。
許可は取れた、らしい。こうして目の前に立つ天使を見れば、結果を耳にする必要は無い。会話の後 十字架型COMPに帰還して以降今まで一切動きの無かったパワーがどうやって連絡を取ったのか、とても大きな疑問が残ってしまったが、今考えるべき事ではない。
見習いメシアンでは本来姿を見る事さえ叶わないだろう強力な天使。その登場に萎縮する者達が大半だったが、今日の特別訓練である集団でのパワーとの模擬戦闘、少年が率先して参加を希望すれば、引き摺られるようにして周囲からも声が上がる。
教団を脱出する助けにはならないが、此処で行う強者との戦闘経験、更に集団での戦闘経験は得難いものだ。死ぬ事など有り得ない環境、治療体制の整った訓練施設内。本命の相手をする前に、将来のためにも一汗かこうと一歩踏み出した。
結果は推して知るべし。
この日 訓練施設から一人の見習いメシアンが籍を外し、教団の重鎮アデプト・ソーマ麾下へと『虚心』と呼ばれる謎の男が新たにその名を連ねる事となる。
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仕込むだけ仕込んでぶん投げる第十二話です。
一応真正面から逃げ出す案も考えていましたが、こちらの方が教団編っぽいのでこんな展開でいきます。
続かないのかもしれないです。
※2014/12/24投稿
※2014/12/24誤字・脱字の修正