新たな顔ぶれを加えつつ、今日も見習いメシアンの訓練施設では少年少女の笑顔が耐えない。
つい数日前に施設へと入居してきたばかりである一人の少年もまた、日々、共に汗を流す仲間達と絆を紡ぐのに忙しかった。
常に百人以上の見習い達が訓練に精を出すこの施設内で、全員とは行かなくとも多数の同輩と友誼を結び、その中心で笑っている。
誰に対しても物怖じする事無く、積極的に声を掛け。
厳しい訓練にも弱音を吐かず、教官達の受けも良い。
良く笑い、良く学び。積極的に環境に馴染もうという姿勢を絶やさぬ彼と接したメシアン達は、真摯な気持ちに触発され自らもまた一層訓練に身を入れると共に、自身へ良い影響を与えてくれた彼に声を掛ける者が増え始めた。
彼を中心とした輪が少しずつ広がっていき、強まる彼らの連帯感に引き摺られるように、訓練は熱を増していく。
施設内に、より良い循環が生まれ始めていた。
己を高める熱意に満ち溢れ、他者との交流を自ら求め、いつだって笑顔を忘れない。新しく入ってきた少年は周囲より身体能力が優れていたが完璧とは程遠く、最初の戦闘訓練では武器として手渡された木剣をうっかり対戦相手に投げ付け、生まれた隙を突いて握り拳で勝利を収めるという破天荒な一面もあった。
何のための木剣か。メシアンの基本である教会剣術を修める訓練なのだと訓練教官に叱られてしまい、仲の良い友人が増えた今ではその時の出来事を笑いの種にされて恥ずかしがる彼の姿が、周囲の人間に親しみ安さを感じさせてくれる。
傍から見ても順風満帆だった。
外から入った新しい風によって更に笑顔の増えた見習い達の姿に教官方もついつい頬が緩み、誰もが彼らの明るい未来に希望を感じていた。
「……あれを胡散臭いと思うのは俺だけなのか」
だがしかし、温かな訓練施設内の空気に馴染めぬ哀れなメシアンが此処に一人。
彼の少年の隣室に住まうメシアンの青年である。
アデプト・ソーマの計らいか、マンハンターなどと呼ばれていた過去や、あの少年が訓練施設に放り込まれる以前の情報は周囲に伏せられている。周囲の見習い達は善良である事を良しとするメシア教団の気風に加え、この訓練施設に入るに至った複雑な事情を抱える者も多い事から他者の過去を詮索せず、新たな入居者を歓迎しようと殊更に優しさを振舞う事が常だったので、誰も少年を疑わない。
青年から見ても、施設で目にするあの少年には後ろ暗い部分が見えない。むしろ模範的且つ将来性を感じさせる姿に、僅かな嫉妬さえ覚えた。
入居から僅か五日で二十人以上の友人に囲まれ、その中心で笑顔を浮かべる彼。メシアンとしての基礎知識の乏しい彼が、机に向かって僅か数分で困り顔を浮かべて見せる様子は嫌味の無い笑いを誘い、勉強が出来ないという分かり易い欠点も、周囲には彼の愛嬌ある一面として受け入れられている。
沢山の人を集め、中心に立ち、メシアンとしての先達たる教官達からも好意的に見られている新人。
誰も彼もに好かれるなど有り得ない。現に衆目を集める少年の存在を疎ましく思う者も幾人か見て取れた。だがそれは彼の作った友人達の輪の外側での事であり、メシア教団の謳う理想的なメシアン像が「善良なる人々の味方」である限り、他者への嫌悪をあからさまにしてぶつかり合う可能性も低かった。
輪の中で笑う少年を目にする度に、青年の中に渦巻く良くない感情が重さを増す。
青年には出来なかった事だ。声を張り上げ人を集め、だけどあの異界で自分以外の全てを犠牲にして何も得られなかった。そんな自分を棚上げして彼を恨んでも虚しいだけ。だが『悪食』を認められるかといえば、それも出来ない。
「……本当に、何者だよ、あいつ」
鬱屈を誤魔化すためだけの、小さな疑問。
どこにでも居るような一般人が、メシアンを志す者達の集うこの場所でああも簡単に周囲の支持を得られるわけが無い。きっとあの少年は、元々何か特別な事をしていたのだろう。
いや。――そうでなければ、自分が惨め過ぎる。
笑い声の響く訓練施設の一角。俯いたまま誰とも関われず、汗を流して訓練に励む事も無く。ただただ時間を無為に過ごす青年を一人置き去りにして、今日も陽が沈んで一日が終わる。
未だ己の挫折を乗り越えられぬ若き青年は、いつか立ち上がる日を夢見る事も出来ないまま、暗がりの中で溜息を吐いた。
◇
天使が言った。
「貴方は何を望んでいるのですか、咎人よ」
問い掛けられた少年はメシア教の聖典から目を離すことも無く、まるでパワーの声が聞こえなかったかのように口を噤んでいる。
辛抱強い天使は、答えを返さない少年を責める事も無く、傍らに立ち続けた。
消灯時間の迫る頃に自室へと帰ってきた少年も、今は黙々と聖典の記述に目を滑らせている。これは何時もの日課であり、ここから灯りを落として以降、短い時間ながらスライムを召喚して愚痴を吐くのも毎日の事。
早朝の礼拝から夜の礼拝まで、施設のカリキュラムに従事する間はパワーが手放しで褒めてあげたくなるくらい熱心な訓練生。だが就寝するまでの僅かな時間は教団に対して悪態を吐く、優しさの欠けた不真面目な人間。
四六時中監視しているパワーから見て、少年の二面性は酷過ぎた。
施設の仲間達に向ける笑顔は嘘なのだろうか。あんなにも熱心に訓練に励む姿が演技なのか。毎日を楽しそうに過ごしている彼の姿を信じたくなってしまうのに、自室の暗がりでは仲魔に対してメシアンは電波だの、訓練教官は女子訓練生を見る目が怪しいだのと、酷い言葉ばかりを並べ立てる。
或いは、と考えてしまうのはパワーの願望だ。
――或いは、彼は本当に素直で頑張り屋の少年で、仲魔である外道スライムをこそ欺こうとしているのではないか?
そうであって欲しいとパワーは思う。でなければ施設内にて日々増え続ける若者達の笑顔が、余りにも悲しいではないか。
日中における少年の振る舞いを、笑顔を、その善性を信じたいと願う真っ直ぐな天使は、己の中の優しさに心を蝕まれながら、それでも少年に言葉を投げ掛ける。
「最近は剣の握り方も様になってきましたね。良い事です。そういえば貴方と仲の良い彼女は、なんと言う名前でしたか――」
声を、掛け続ける。
最近は言葉を返してくれるどころか、パワーの物言いに対する反応さえ乏しくなっているが、それでもアデプトが『悪食』の教導役として直接派遣するほど生真面目で優しい天使は、僅かな諦めも見せずに少年から身の回りへの賛意を聞き出そうと話しかける。
アデプト・ソーマが何を思って少年をメシア教団に引き込もうと望むのか、詳しい話は聞いていない。
だがアデプトとなった彼の、長年の献身を知っている。真に人々を想う彼が、この少年を望んだのだ。ならばメシアンを手助けするべく現世を訪れた自分も精一杯 力を尽くそう。心を篭めて語り掛ければ、きっと通じる。少年の、人の善性を信じよう。
そして遂に、ひたむきな熱意によって支えられた天使の言葉が、眉を顰める少年の顔を上げさせた。
「おおっ、――咎人よ! そういえば最近」
――パワー、静かにして下さい。
指で机上の聖典を軽く二度叩き、読書の邪魔であると言外に告げられる。
ようやく自分の言葉が届いたのだと喜んだパワーだが、成程、確かに目の前の彼は先程からずっと聖典に目を落としていた。天使の声が聞こえないくらい深く集中していたというのなら、これは相手の事情を汲み取る事無く騒ぎ続けた自分が悪いのだろう。天使は持って生まれた良識に乗っ取り、そう結論付ける。
「……も、申し訳ありません、咎人よ」
生真面目に頭を下げるパワーの謝罪に、呆れたような小さな溜息が返ってきた。
それくらい言わなくても分かれよKY、などという幻聴が聞こえたのは間違い無くパワーの被害妄想である。
天使だけど、胸が痛い。悲しげに視線を床に落とすパワーはこれ以上彼の邪魔をしてはいけないと強く己を律し、少年の胸元に輝くCOMPへと帰還した。
消えたパワーに対して一切の反応を示さず、少年の視線は聖典に記された文字を追う。
その内面は、未だ誰にも伺い知れないままだった。
ただしCOMP内のスライムだけは、契約の繋がりを辿って「うわぁ……」とか言いながら理解していた。してしまっていた。
夜が更ける。
世の大多数の知らぬ間に、とあるサマナーの悪巧みが着々と進行しつつあった。
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周りに慕われる人物、というのは意外と表現し辛いものだと理解する第十一話を投稿します。
このSSの主人公は好きな人のために頑張る、とても真面目な好感の持てる人物ですけど(震え声)。
続かなかったりもします。