――知ってるか? 最近ここらの異界に乳母車を押し歩く謎の凄腕デビルバスターがうろついているそうだ。
馬鹿らしい噂だと顔を歪めたガイアーズの男は、己の右足首に嵌められた足枷型COMPを操作してエネミーソナーを起動させる 。
ここは一定周期で悪魔の湧き出す、近場にある馴染みの異界の一つ。
正直に言えば、行きたくは無い。どれだけ努力しようとも悪魔を相手にするサマナーの死亡率は高い。しかし最低でも週に二、三度は異界に潜って今月の返済予定額を用意しなければ、ようやく中堅といった能力しか持たない彼は所属する教団の上司から暴力を伴う説教という名の罰を受ける破目に陥る。
己の境遇を思い返して溜息を吐く。
両親の残した借金を返す為に流れ流され、気が付けば世界の裏側。諸行無常を謳う『ガイア教団』所属の中堅悪魔使い、しがないデビルサマナーをやっている。
右足首のCOMP、奴隷の足枷にも見えるそれは、文字通りの意味で奴隷を縛る拘束具に他ならない。
借金を返済するまで彼という人間の所有権限はガイア教団に預けられ、今この瞬間も彼の生体情報はガイア教団支部へと送信され続けているのだ。彼が死ねば教団にはそれが知られるし、勝手に足枷を外しても同じ事。
「くそっ」
サマナーとしての年季も既に十年近い。だというのに未だ現状に不満を抱き続けている。だがそんな自分を変えられるとも思えない。彼にはそういった積極性、あるいは力こそ全てとさえ言われるガイア教団内で成り上がるための、熱持つ野心に乏しかった。
十年の時をかけても中堅止まりである事実とて、才能以上に彼の怠慢に原因がある。
自覚するべき浅ましき事実から目を逸らし、今日も彼は死にたくないと呟きながら魑魅魍魎の渦巻く異界へと足を踏み入れていた。
踏み入れて、出会った。
「おっほほほ、その調子で励めよオスザル。貴様の一歩は蛆虫のそれにも等しき卑小な一歩だが、偉大なる我に捧げられる価値ある一歩であるからな」
宙空に舞うマグネタイトの飛沫を浴びて、暗がりにて両目を輝かせるナニカが哂う。
酷くくぐもった声だ。まるで水面に下顎を浸して喋っているかのように汚らしく、だが最低限、音としての意味を拾える話し声。
そこに居たのは人間だった。
真っ黒なハンチング帽を目深に被り、加えてマフラーで口元が隠れているため顔が見えない。着ているハーフコートも褪せた黒色で、ところどころが擦り切れている。細身の男、だと思った。服装は男性用、それなりに身長もある。
恐らくは、という言葉が必要だが、恐らくは人間であろう彼の両手の先には、――何故か真っ黒な乳母車があった。
両手で拳銃を構えながら、ガイアーズの男は異界に入る前に耳にした馬鹿らしい噂を思い返す。
乳母車。謎の凄腕デビルバスター。
こいつがそうなのか。声に出さず呟くと、緊張から心臓が少しずつ回転速度を上げていく。
「むむ、こそこそと隠れ潜み、偉大なる我の威光を仰がんとする卑しい鼠が居るな」
仲魔の召喚を終える間もなく、存在を気取られた。
早過ぎる。気付かれる理由など思い付かず、息が止まる。異界に潜るデビルバスターならば自分とほとんど変わらぬ立場だから敵対の可能性は低いだろう、と胸中にて気を落ち着ける言い訳を並べ立て。
「獲物だぞオスザル」
黒い乳母車に寝かされた、不定形のナニカが言った。
「っは、え?」
予想外の言葉だった。
考えもしない、危機の訪れである。
悪魔を相手にするために異界に潜る、同業に敵意を向ける人間が居ないわけではないが、そんな事をしていればやがて周囲から排斥される。当然だ。割に合わない。だからやらないだろう。そう思ったのに。
帽子とマフラーで顔の窺えない男であろう誰かが、軽く、気安い相手とのキャッチボールよりも緩やかに何かを放り投げてきた。
武器か、陽動か、せめて派手な攻撃用の魔石の類だとは思いたくない。奥歯を強く噛み締め、ガイアーズの男は右足を地面に叩き付ける。
『SUMMON DEVIL』
「召喚(コール)! ジャックフロスト!」
足枷に指示を送るための一挙動と、音声認識。
自分にしては素早い行動だと鼻で大きく息を吐き出しながら、小さく自画自賛。サマナーとして活動し始めた最初期からの付き合いである妖精『ジャックフロスト』は戦闘経験だけなら己と並ぶ。同時召喚の出来ない奴隷用COMPによる、咄嗟の選択としては悪くない。
勿論、悪くない、だけだった。
『わたしミカちゃーん』
それは謎の人物が投げた物体X。
召喚したジャックフロストの目の前に、酷く不細工な人形が落ちてきた。
てるてる坊主寸前の適当な頭部とマジックで描かれた雑な 目鼻、色付きのビニール袋を破って巻いただけではないかと疑ってしまう粗末なドレス。極め付けに鼻声で自己紹介。
『わたしミカちゃ、……うえぇぇえ、もう嫌よぉお!』
「ヒーホー! ブッ細工な人形だホー! サマナーも見るホー!」
『どだっ、誰が不細工よぉ! 私はこれでも近所でも美人と評判のピク』
――奥義。
意味不明な人形と、突如始まった謎の口喧嘩。呆けてしまった男の耳朶を、低い声音が静かに叩いた。
ついつい気を抜いていた男の肩が驚きに跳ね上がり、握った拳銃を謎の人物へと向ける。何を呆けていたのか、中堅を名乗れるだけの経験を積んだサマナーが、不測の事態の一つや二つで敵対者から目を離すなどあってはならないというのに!
自責を呑みこみ真っ直ぐ構えられた銃口の先には、宙空を舞う真っ黒な乳母車があった。
「は?」
「貴様覚えておれよオスザル貴様この偉大なる我ギャー!!」
「ぎゃーっ!?」
己の胴体よりも大きな乳母車が重力と同盟を結びつつ圧し掛かってくる。何より恐ろしいのが、乳母車に乗せられていたらしき謎の生命体が両目を爛々と発光させながら顔面に飛び込んできた事だ。
ぬめっとした。
そしてどろっとしていた。
だけどちょっと良い匂いがする。
全身が痛い。何が起きたのか分からない。自分の視界を埋め尽くす生暖かい不定形の物体は悪魔なのか。何故乳母車が空を飛んできたのか。喋る人形の謎もある。このまま隙を晒していては不味いのに。
脳内を駆け巡る思考はきっと走馬灯だったのだろう。
鋭く、激しく、臓腑を貫くような気迫を感じた。
――ゴールデン・クラッシュ・改!
裂帛の気合と同時、股座に打ち込まれる渾身の右ストレートを余すこと無く味わいながら、ジャックフロストは無事だろうかと虚ろな視線を巡らせる。
「ヒーホー! ブッ細工な人形からピクシーが出てきたホー!」
「ああもう引っ張らないでよ! ちょっとスライムサマナー! 私もう行って良いわよね!? 勝手に食べちゃったチョコレート分は働いたでしょ、……ねえ、なんでそんな物騒な武器なんて構えて――」
殴打音と共に散り輝く二匹分のマグネタイトを視界に映し、男の意識が激痛のために閉ざされていく。
まったくもって、なにがなんだか分からない。
しかしもしも自分に次の機会があれば、噂といえど馬鹿にできないというこの貴重な経験を生かしたいと切に思う。
これはとあるガイアーズの男が病院で目覚める二日前、人も悪魔も見境無く襲って回る外道デビルバスターの噂が出回る、三日前の事。
世界が終わるまで、残り二十五日。
道理を弁えぬ愚者と外道の、止まる事のない暴走は既に始まっていた。
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主人公は乳母車型COMP。登録されているのはスライムのみ。ピクシーは拾った(そして使い捨てた)。
続かないですよ。