花の都パリとは、いったいいつごろから言われ始めたのか。少なくとも今この時代のパリは、衛生観念上から考えれば工事現場の簡易トイレ並みの清潔度であった。
「いやー無理だわ!」
引っ越しの日の翌朝。まだ日が昇って久しい時間帯にさっそくパリ市内へと観光がてら繰り出したオリ主は、早々にUターンに追い込まれた。「マジかぁ……パリってこんなんなのかぁ……」とぶつぶつ言いながら廃教会改め在ガリアオリーシュ大使館へと引き返していた。そして、眼前の川にてせっせと服を洗い始める。冬の朝の、冷え切った空気と水が身に染みた。
「寒っ冷たっ汚っ臭い……ああもう!!」
衣服に付着した茶色くて黄色い汚物が川に広がって流れていく。
この時代のパリには各家庭にトイレが存在せず、みな汚物を桶に入れて溜まったら窓から放り投げるという方式であった。このあたりの事情を知らない地方出身者や外国人は、空から飛来する糞尿のシャワーを被ることになる。いわば手荒い歓迎ならぬ「手洗い歓迎」であった。
道を歩いていたら頭に鳥の糞が、というアクシデントは未来の世界でもたびたび見られるが、ここまでのインパクトはないだろう。鳥の糞は許せても人の糞は許せない。オリ主は「はぁ……何やってんだろう俺」と気落ちしながら上着を絞っている。すると、土手の上から声がかかる。
「もしもしそこのおにーさん! もしかしてこれからパリ市内に入るの? だったらいいこと教えてあげよっか?」
「あん?」
いったん手を止めて上を見上げれば、そこには10歳くらいのエプロンドレスを身に着けた少女が立っていた。すこしくすんだ金髪と、賢そうでありつつも少し生意気な顔つきが印象的であった。
「…………いま行ってきたところだよ」
「知ってるよ。初めての人は大体そんな風になるもん」
と、少女はクスクスと笑った。
「今度からは、帽子か傘をもって行ったほうがいいよ! じゃあまたね、おにーさん! あ、みんなぁ!」
少女は、遠くに遊び仲間らしき少年少女たちの姿を見て駆けて行った。合流した少年少女たちは皆一様に、川で着衣を洗濯するオリ主の姿を見て先ほどの少女と同じくクスクス、あるいはゲラゲラと笑いながらどこかへ行ってしまった。
「――あれ、どうしたんだ? パリ市内に行くとか言っていたと思ったんだが? って、なんで川の中に入って泣いているんだ?」
「――――あ、なんか死にたくなってきた……」
大使館から出てきたユウに尋ねられ、オリ主は割と本気でベソをかいた。冷たさ以上に身に染みる悲しみが流した涙は、洗濯物からこぼれる雫に紛れて落ちていったのだった。
近代編 処刑人と医者~死と生が両方そなわり最強に見える~
数度の挑戦の果てに、糞尿シャワーは防げても地面に落ちている汚水の水たまりは避けようがないことを察したオリ主は、もうパリ市内に入ることを諦めた。そして無駄に発生した余暇を潰すべく、遠い昔に林間学校かどこかで習った簡単なおもちゃ作りに手を出した。この男、暇で暇で仕方がないのだった。
「本当は竹があればいいんだけどなぁ、木しかねぇや」
大使館前に椅子を出して座り、借りたナイフを駆使してプロペラ部分に角度を付けていく。手にもって回す部分は可能な限りまっすぐかつ細く、木を丁寧に削って軽量化を図る。出た木クズが足元にこぼれていく。
「ねーねー」
「あ?」
親指でナイフの背を押すようにして細かい作業に精を出していると、以前にパリ市内に入るなら帽子か傘を用意するようにと忠告した少女がいつの間にやら隣にしゃがんでいた。少女は好奇心に目を輝かせてオリ主の手元を見つめている。
「なにそれ?」
「あ、これか? これは竹とんぼ――じゃないや、木トンボだな」
少女の顔に浮かぶ「で、何に使うの?」という感情を読み取って、補足説明する。
「俺の地元のおもちゃで、飛ぶんだよ」
「うっそだあ!」
「はあ、これだから科学技術を知らぬ時代のキッズは困るぜ。見てろよ見てろよぉ……ほ!」
異世界オリ主三大義務の一つ、「現代知識無双」である。小学生くらいの女の子を相手に竹とんぼもどきで何を……と思いたくなるかもしれないが、本人は結構ノリノリで手のひらを擦り合わせ、竹とんぼもどきを飛ばした。
「わっ! え、翼もないのに!」
「回転することでも飛ぶんだなぁこれが!」
「すごいすごい! ねぇ! 私のも作ってよおにーさん!」
「はっはっは! まあ? 乞われたのならば吝かでもないな!」
大きな瞳でせがまれて、子供相手に鼻高々である。さっそく一つ作って手渡し、受け取った少女は駆けてゆく。
そしてどうせならばよりいいものをと考えれば、もっと角度かいやそれとも軽量化かと試行錯誤を行い始める。そしてそうしていれば時間はあっというまに経過して、いつの間にやら夕暮れ。
「ああああああああああ、なんか脳みそが馬鹿になる! これあれだ! 夏休みの暇で暇でしょうがなくなるヤツと同じだ!」
最後にようやく完成した最優秀竹とんぼもどきを掲げたオリ主は、正気に戻った。これが暇の魔力かと頭を抱えてうなる。
陽光は陰りを見せ、あたりは段々と藍色に染まっていく。黄昏時、すれ違う相手の顔すら判別できないような時間帯は、当然の如く自身の足元を見えにくくする。
――――突如として甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあああ!!」
そしてにわかに響く、質量があるものが水中に落下するときの音。
「え?」
とっさに声と音の方向を見れば、100メートル程度先の川にかかる橋の上で子供たちが騒いでいた。作っていたものを放り出し、慌てて駆けつける。
「お、おいおいどうした!?」
「空飛ぶオモチャを追いかけてたら川に! お、溺れて! それで……!」
「!?」
眼下4メートル下の川の中、そこにはピクリとも動かない子供の背中らしき部分が浮かんで流れていく様が目に映った。そして何よりのオリ主の目を引いたのは、頭部付近から流れる血のような赤。落下時に頭を打ったのは明白であった。
「誰か大人呼んで来い!」
その場で上着とズボンを脱ぎ捨て、川に飛び込む。浅くて腰、所によって頭までどっぷりつかるほどの水嵩。凍えるような温度の水は秒刻みで体温を奪い、水をかき分けて進めば水草がまとわりついて身体を重くする。しかしそれでも懸命に手足を動かして前進する。水流で流れていく背中を追うが、じわりじわりとしか近づけないことに苛立つ。
だが、オリ主本人は預かり知らぬことであるが、ここしばらく雨が降っておらず水流が急でなかったのは大きな幸運と言えた。
「――--とどいたああ!」
オリ主か、それとも少女に運があったのか。オリ主の突き出した右手が少女の服を掴んだ。そして寒さに震える手に活を入れて、小さな肢体を強引に岸へと引っ張り上げる。
「はぁ……さ、寒い……! 火を、たいて……」
「大丈夫だ! 待ってろ直ぐに用意してやるからな!」
子供に呼ばれたらしきユウが、手にもっていた火鉢を下ろして火をおこそうとしていた。事情を聴いて、直ぐに用意して駆けつけてくれたのだろう。肩で息をしながら火薬で着火する。
「い、息が……そんな……!」
子供の誰かが悲痛な声を出した。そして、泣き崩れる。騒ぎを聞きつけて来たのだろう帽子姿の紳士が、「主よ、いま御許に少女の魂が――」と祈りの言葉を口にしていた。
「バカ! まだあきらめるんじゃない! で――――ええっと、まずは意識確認……? 次に呼吸の確認で――――顎を持ち上げて……?」
「お、おい?」
「人工呼吸すんだよ! ってもしかして知らない? いやまだ無いのか?! なら俺が……! ふーー! ふーー!」
少女の顎を持ち上げ、鼻をつまんで息を二回大きく吹き込む。そして次に胸の部分を重ねた両手で力強く何回も押し込む。これを何度も何度も繰り返す。周囲からみれば奇怪な行動であった。
「いち! に! さん! し!……」
息を吹き込み、終われば即座に体制を整えて力いっぱい胸を押すを繰り返す――単純作業ではあるが軽くはない運動量であった。心肺蘇生法は複数人で行うのが望ましい。それは、行う側の体力の消耗が激しく、交互でなければ長時間行えないからである。だが、行えるものが一人である以上、単独でやり続ける必要がある。
「いち! に! さん! し!…………フー! フー!…………いち! に! さん! し!…………フー! フー!…………(つ、疲れてきた……いつまでやればいいんだこれ?!)」
もはや自分が酸素を欲しいという状況であった。だが、息も絶え絶えながらも行った素早い心肺蘇生法は、ついに実を結ぶ。
「っけほ! ごほっ!」
「そんな、生き返った?!」
周囲で心配そうに事の成り行きを見守っていた少年少女、ユウ、そして謎の紳士からどよめきが起こる。とりわけ、紳士の驚きっぷりは大きかった。
「しょ、少年。いまのはいったい……?」
「はぁ――はぁ――じ、人工呼吸って言って、ああいう風に、呼吸や心臓が動かなくなった人にやる応急処置……みたいなやつだよ。はぁ、すぐにやれば結構な確率で助かる……とか」
「……君はもしや、医者なのか?」
「まさか! 昔、学校の授業で習ったんだよ」
紳士はむむむと考え込む。そうこうしていると、少女の両親らしき男女が駆け寄ってくる。両親はオリ主たちに何度も感謝の言葉を送り、少女を背負って帰っていった。幸いなことに、頭の傷は大したことはなかったらしい。もっとも、脳の怪我までいくと素人では対処できないが。
その晩。ユウはまるでオリ主の労をねぎらうかのように、ガリアに来て以来で一番豪勢な夕食をふるまってくれた。
「まさかこんな特技があったとはな。言ってくれればよかったのに」
「別に、未来じゃ大体の奴が知ってる技術だからなぁ……特技ってほどじゃないし何ならすぐにできるようになるぜ」
「……なんというか、出会ってから助けられたり驚かされてばかりだ。君と知り合えたのが私の人生最大の幸運なんだろうな、きっと」
「いや、そんなしみじみ言われるとなんか照れるな……」
流石っス! マジリスペクトっす! キャア素敵! みたいな感じの称賛なら「まあ? それほどでも……あるかなぁ!」と鼻高々になれるオリ主であったが、こうも感慨深く言われると返しに困り、結局、目の前の食事を掻っ込むことしかできなくなった。そんなオリ主の様子を、ユウが優しいまなざしで見つめていた。
翌朝。
「こんにちは」
「君は、昨日の。体は大丈夫なのか?」
「あ。お前、寝てなくていいのか?」
朝食時、オリ主から送られた竹とんぼもどきを追いかけて溺れてしまった少女が尋ねて来た。頭には包帯が巻かれていて、昨日の事件を思い起こす痛々しい姿であった。
「まだお礼言ってなかったから」
「ああうん、俺の責任でもあるし……」
ちょっと後ろめたい気持ちになるオリ主は、視線を少しずらす。少女は両手をいじりつつもじもじするが、すぐに意を決したのか大きく一歩踏み出す。正面には椅子に座ったままのオリ主がいて。
――――チュッ
「あ」
「!」
「へへ、ありがとう! おにーさん! わたし、シャルロット!」
少女――シャルロットは顔を朱に染めながら名乗る。そして頬に走った柔らかい衝撃に唖然としているオリ主を後ろにして、エプロンドレスを翻して駆けていった。
「海外は進んでるって、マジだったのか……」
最強オリ主(笑)は、ただただ突然の事態に放心するしかなかった。ユウはしばし呆けたままであった。
――――さて、この件をきっかけにオリ主たちは近所のガリア人たちに溶け込んでいく。そしてオリーシュ本国へと本件が美談として尾ひれがついて伝わり、後年恥ずかしい思いをするのであるが、実はこの話には、後日談的な話がくっついていた。
シャルロットからお礼のキスを貰ったその日の昼。なぜか機嫌が悪いユウから逃げるようにして外出したオリ主が、今日は何をしようかと考えながら近所の道を歩いている時だった。
「ちょっと、よろしいですか?」
「??――――あ、もしかして。あの時の人?」
オリ主はその人物が、シャルロットがおぼれていた時に自分を医者と間違えた紳士であると気づく。
「私はサンソン……その、副業で医者をやっているものです」
「はあ」
「近くに私の家がありますので、もしよろしければあの時少女に施した処置についてお教え頂きたく……」
「あ、全然ダイジョブです、はい」
帽子を胸に当て、真摯な顔つきで相対するサンソン氏。馴染みのないタイプの人間かつ丁寧な招きに、オリ主はとっさに是と答えた。まさに、雰囲気に流されるとNOと言えない日本人である。そうしてサンソン氏についていった先は、庭付きの立派な邸宅であった。
「こちらです」
「えっと、個性的な色ですね……シャア専よ……いえ何でもないです」
植木があり、立派な門があり、パーティーでも出来そうなくらいの大きな屋敷である。だがそれも、血をぶちまけたような赤く染められた外壁があらゆる印象を「不気味」の三文字に変換させてしまう。動揺のあまり変なことを口走るオリ主であった。
「あ、首切りサンソンだ!」
「しっ! ダメでしょ!」
道行く親子が、サンソン氏を見てそんなようなやりとりをする。
ああ、子供ってよくああいう事言うよなぁ……
近所に住んでいるキャラの濃いおじさんにキツイあだ名を付けるというのは、オリ主の周りでもよく見られた。時代も場所も違えど、子供のこういう無邪気な残酷さは変わらないらしい、と納得する。
でも、首切りって物騒だなぁ。
「……申し訳ありません。あなたまで不愉快な気分にさせてしまいましたか?」
「ああいえ、ああいうのはどこでもあるもんですから」
「しかし、真実でもあります」
「……え?」
「…………ああ、まだ私のことを知らなかったのですか。てっきり知っているものかと……申し訳ありません。決して騙そうというつもりはなかったのです。では改めて自己紹介を――――」
――――私の名前はシャルル=アンリ・サンソン。医者は副業、本業はパリで処刑人をやっております。
門をくぐり宅内へ。屋敷内はよく整理されているとは言いにくいが、決して汚いという程ではない。言ってみれば、掃除されている男所帯、といった風情である。
「薄暗いですがご勘弁を。日光に当ててしまうと本の痛みが早くなってしまうので」
促されて入った部屋は、十畳程度の広さがある書斎であった。ぎっしりと本が詰め込まれた本棚がすべての壁にあるため、そして窓が締め切られているためにどうにも窮屈に思えてしまう。
「それで、さっそくで恐縮ですが例の処置について……」
「ああ、いいですよ」
「確か最初に息を吹き込んでいたようですが――――」
処刑人を名乗ったサンソン氏。だが、その落ち着いた物腰と瞳からは、決しておどろおどろしい印象を受けなかった。ゆえに約束通り、オリ主は学校で教わったことを何とか頭から掘り起こし、説明していった。サンソン氏はつたない説明を熱心に聞き取る。
「ええ、胸を押すのは一分で百回? くらいです。でも大切なのは間断なくやること……です、はい。出来れば二人以上で分担するのも」
「ふむ……息を吹き込む処置については、スイスのパラケルスス医師がふいごを使って空気を送り込んでいたという記述がありましたが……それを口でおこなうと」
「あ、昔からそういう技術はあったんですか?」
「残念ながら廃れてしまったようです。ふいごがすぐそばにあるという場合もなかなか……」
「すぐにやる、が大事ですからねえ……」
「ですが、ムッシュー.レンゴクインに教えていただいたこの方法は誰でもすぐに行えます。これは、とても素晴らしい技術です。このような技を広く教えているとは、オリーシュ帝国という国はずいぶんと医術が進んでいるようです」
「は、はは……」
本当は未来の日本で学んだ技術なんだけど……
蘇生法という知識チートであるのだが、こういう立派そうな人に普通に褒められるとなんだか言い知れぬむずがゆさを感じるオリ主であった。昨晩のユウの時といい今回といい、相手が美少女ではなかったのもあるんだろうきっと――と勝手に納得する。
サンソン氏は、聞き取った内容を紙に書とめていく。後々、本にまとめて保存するらしい。
「もしかして、これ全部、ですか?」
「私だけのではありませんが、はい。代々の蓄積というものです」
サンソン氏は憂いを含んだ目で本棚を見る。それは水底のような、穏やかながらも熟成した諦観を感じさせる瞳であった。
苦しそうだ。でも、じゃあこの人は、なんで?
「処刑人がなんでそこまで、ですか」
「あ、いえ……」
「処刑人は引き取り手のない死体を引き取ります。ですので、解剖して人体の構造を学ぶ機会には事欠きません。また、長年の所見から人体のどこの部分をどのように傷つければ後遺症が出るのか、または出さずに済むのかということも知ることができます。もちろん、医者をしているのは生活の糧を得るためでもありますが」
サンソン氏は、落ちくぼんだ目で淡々と語る。いつしかその語りは、氏の歩んできた人生に及んだ。オリ主はしばし、その事情に耳を傾ける。決して気分のいい話ではなかったが、粗略に扱っていいとは到底思えなかった。処刑人の子であることを理由に学校をやめさせられた話、初めて処刑に立ち合った日の話、職業が分かるように目印を付けろと裁判を起こされた話……色々であった。オリ主は、じっと話を聞き続けた。
気づけば、陽が落ちる時間であった。
「――――おや、もうこんな時間ですか。すいません、書斎に入ってしまうと日の様子もわからなくなってしまうものですから」
「まあ、別に暇なんでいいですよ」
時計を確認し、そろそろお暇するということになった。玄関に出てみれば、空は茜色を通り越して藍色になっていた。
玄関に足をかけた瞬間、なぜか聞いておかなければ後悔するという確信めいた予感が背を押した。その衝動が、口を開かせる。
「あの……最後に良いですか?」
「はい、なんでしょうか?」
「その、あなたの本業を聞いても、なんというかシックリこないというか……」
「もっと恐ろし気な人間のほうがらしい、と思っていたからですか?」
「明確な処刑人のイメージを持っていたわけじゃないですけど、多分、あなたがおっかない顔つきをしてたら、ああなるほど、って思えたと思います」
「私は、家業として今の仕事を受け継ぎました。決して自ら望んでいたわけではありません」
自ら望んだわけではない――それは、先ほどの話からも、明言していなかったがひしひしと伝わる感情であった。
「辞めたいと思ったことは?」
「あります。何度も」
「なら、どこか別の町で医者として働いては?」
「一族の中でも、かつては別の職につく者もいました。ですがどこからか前職のことが漏れ伝わり、結局は廃業においこまれてしまったのです」
「そんなことが……」
「世に死刑制度がある限り、それを行う人間が必要です。社会がそれを望んでいる限り、私が逃げても他の誰かがやらなければなりません。今いる者たちがすべて逃げてしまえば……きっと最後には知識も技術も未熟な者が金に困ってやらされるのでしょう。処刑人の家に生まれた者は、処刑人として生きて死ぬしかないのです……」
諦めがにじんだ声を聞き、オリ主がふと頭上を見る。玄関の上に彫り込まれた、壊れた鐘とそれを見る犬のマークがあった。伝えるべき音を伝えられない鐘は、いったい何を意味しているのか。
「……」
オリ主は何も言えず、静かに一礼して立ち去るしかなかった。サンソン氏は自宅の前で、オリ主を見送るように立っていた。
「なに聞いてんだよ、俺……」
自己嫌悪と共にかすれたような小声で吐き出す。
「……社会が望んでいる――――」
社会が望み、逃げることができない。それではまるで機械の部品だ。本人の意思も何も無視して、ただ昔からそういう役目を担っていた家の出であるからやれと求められて。文句もある、逃げ出したくもある。
「……」
でもきっと、サンソン氏は死ぬまで役割を全うするだろう。逃げず、投げ出さず……ただ
悲痛な軋み音を響かせて。
じゃあ――――自分は? トリップした俺にも何か役割があるのか?
ふと浮かんだ疑問はいつ以来か。その根本的な疑問に、答えられるものはいない。少なくとも、この場には……
シャルル=アンリ・サンソン。死刑執行人でありながら死刑反対者として知られる男であったが、運命はそんな彼の考えなど一切考慮せずに回り始める。おそらくは心安らかに医学を語り合える最後の機会となる事を、オリ主もサンソンもこの時はまだ気づいていない。
西の空に、日が落ちる。そして朝にはまた新しい日が昇り、一日が始まる。ゆっくりと、だが確実に時は進む。
寒さ厳しい年末。運命の1789年は、もう目前だった。
あとがき
1789年って覚えやすいなって受験の時に思いました。次回の更新時期はちょっと未定です、ごめんなさい。
追記
超大事な年号を間違えてしまっていました。感想版で指摘して頂いた方に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。