ピーン! 親指の爪に弾かれたコインが宙に舞い、表裏を高速で入れ替えながら上昇。ややあって重力に従い落下を始めたそれは、男の手の甲と掌に見事収まった。男の手はゴツゴツとしており、持ち主の人生の深みともいうべきシワが荒れ地の谷のようにキッチリ刻まれていた。だが顔は違う。鷲鼻の顔には瑞々しくハリがあり、宿った覇気は若年者と見間違えるほどの生命力にあふれている。
「……クク――――」
手で隠れていたコインを一瞥し、含み笑いがあふれる。喉で鳴らしたくぐもった声が潮騒の音に負けず、闇ににじむインクのように周囲を染める。
「そうかい。まあいいか、それはそれで――――」
「そこにいるのは……おや、ワシントン将軍ですか!」
甲板に広がる夜の暗がりを割き、ハツラツとした声と共に現れた青年。やあやあと言いながら鷲鼻の男改め、ジョージ・ワシントンへと近寄っていく。
「むむ? それは何で?」
「……なに……ちょいとした余興だ――」
「ははそうか! しかし夜明け前故まだ風は冷たい! 船内に戻られた方がいいと思いますぞ!」
ワシントンは目の前の青年を一瞥して、言外に断る。確かに今、艦の甲板の上には大西洋を渡る冷たい風が吹いていた。しかしそれでも、男には見ておかなければならないものがあったのだ。
「ふん……見えてきた……!」
「おお! 新大陸ですな初めて見ましたぞ!」
西の水平線の向こうに、うっすらと陸地が顔をのぞかせている。背後から差し込む朝日に照らされた異国に支配された新天地。彼らヨーロッパ人にとっての未知なる大陸が、広大な海の向こうに姿を見せていた。
「新大陸を発見した最初のヨーロッパ人は、これをインドであると誤認したんでしたかな、確か」
「ククッらしいな……そんで現地の人間をインディアンなんて呼んだとか……まさに間抜けっ……トンマ……!」
「あ、そういえばワシントン将軍は若い時にインドへ行ったことがおありでしたな!」
「まあ……な」
「いかがでしたかな? インドは」
「あん?」
問われたワシントンはしばし考えにふける様にした後、懐から取り出した一枚の葉っぱと羊皮紙を取り出した。
「それは?」
「現地の……占い師の婆さんが寄越したもんだ……大昔の預言者が葉っぱに書き残した……俺の運命なんだとさ」
ワシントンが艦長に向けて件の物を手渡した。今にも崩れ落ちそうになっている見知らぬ言語で文字が記述されている葉っぱ。と、それを翻訳したものらしき羊皮紙を。
「ハハハ! おお、これはなかなか!」
古代の仙人が残した、いずれ訪れるべき人間のためにその人間が送る一生が書き記されている――と言われる葉。だが、ハッキリ言えば大言壮語。あるいは詐欺師が適当におだてる為に書いたと言われればそう納得するような派手なことがつらつらと書かれている。
「指導者になる……だとさ……ククッ笑っちまうぜ……!」
ワシントンは、忍び笑いを漏らす。だが、それに相対する青年はそれを笑おうとはしなかった。
「ふむ! しかしあながち迷信であると断言できんでしょう! 特にあなたの場合は!」
「は……まあ、かもしれんな……」
「なにせこれより我々はあなたの指揮のもとで、強大なるアステカ帝国に国盗りをしかけるのですからな!」
艦長が獰猛な笑みを浮かべて声を張り上げる。そして、背後に控えた整然と直進する艦隊を指し示す。そして今はここからでは見えぬが、陸上戦力を満載した輸送船もその更に後方に控えている。文字通りの意味で、国を奪える戦力が大西洋を西進しているのだ。
ここまでを踏まえて改めて予言を見ればどうか。単なる調子のいい詐欺、と言い切れないのがこのワシントンという男の現状であった。
「ククッ……橋頭保の確保は任せるぜ……!」
「任された! 勝利の栄光を我らが祖国に捧げようではないか! ワシントン将軍!」
青年は少年のように紅潮した顔に獰猛な笑みを張り付け声を張る。ワシントンはそれに、意味深な笑みを浮かべるだけでそれ以上は語らなかった。ただただ黙って、ゆっくりと近づく陸地に視線を向ける。
ジョージ・ワシントン。ロンドンにある貧民街で生まれ育ち、食うために軍へ入隊したという経歴を持つ。同じような経歴の者ならば捨てる程いると言ってもいいくらい平凡な動機で兵士になるも、武功に恵まれ平民でありながらついには大規模遠征軍の総司令官に抜擢されるという功名物語の体現者であった。多くの者が、これが終着であると考える。ほとんどの者が、今が栄達の限界でそれ以上は望めないと。だが、この鷲鼻の男は違った。
別に運命なんざ信じちゃいない……! だが……俺の限界を俺自身で決めるなんざ……死人の発想……愚かな思考……とどのつまり……人は死ぬまで死ぬことを許されない……!
「ああ! ところで、将軍!」
「あ? なんだ……?」
危険な思考をしているとは梅雨とも知らず、若い艦長は思い出したように言った。
「さきほどコイントスをされていたようですが、何を決めてたんですか?」
「あ? 別にたいしたことじゃあねえさ……」
ワシントンは返してもらった葉と羊皮紙を懐に仕舞いつつ、答えた。
「最初に攻め落とした都市に、なんて名前を付けようかと思ってな……二択にまで絞って、コインで決めてたんだよ……」
「ほお! それでどうするのですかな!」
「大口出資者のヨーク公からとって……ニューヨークってことにした――」
――――もうひとつの候補は「ワシントン」だがな……!
すぐそばで「なかなかよい名ですなぁ!」と暢気な声を上げる艦長に聞こえないよう、こっそりと後を付け足すワシントン。
「そんじゃあ、頼むぜ『ネルソン艦長』さんよ……!
「任された! よーしそろそろ総員起こしとしよう! 甲板長ぉどこか!!」
ブリタニア王国が発した野心の刃は、内に猛毒を含ませつつ新大陸へと到達しつつあった。
☆
数多の兵数をそろえ、一気呵成に攻め込み敵首都を制圧する。その目論見はいったいどこで狂い始めたのか。近衛元帥は椅子の背もたれに身を預け、熱病に侵された頭で考える。
「報告します。偵察隊、半数が未帰還。帰還した隊の者たちも使い物になりません」
「うーん……敵部隊は東部に集中していると見て間違いない。完全武装の一個小隊を密な等間隔で前進させてこの高台に――――」
連れてきたパナマ公王が自分に代わって報告を受け取る。そして、苦い顔をしながら指示を出していく。
なぜこうなったのだろう――――
元帥は自問する。
「遠回りになりますが一度手薄な西に進んで、そこから南下するしかありません。それと――――」
栄光が遠のく。それを阻止できない。なんと口惜しいことかと、歯噛みする。
今から出撃当時のあの日に戻りたい。上り坂しか見えなかった先が、まさか断崖に続いているなど誰が思おうか。そして、そして……
「海から迂回して北上すれば……」
思わず口から洩れた言葉は、思いのほかに大きかった。元帥の目の前で地図を眺めていたパナマ公王もその秘書も一瞬だけ元帥に目を配り、作業に戻る。そこに込められていた意図は、近衛元帥に対する同情か、それとも非難か。
まだだ、まだ……
脳裏で、泣き言はやめろと警告。しかし止まらない。もしもあの時の選択をやり直せればと。
都市パナマより敵首都への道はなんと近くて遠いことか。それを実感することになるまでに支払った血の量は幾ばくか。消耗した命のどれほどが、密林に潜む狡猾な猛獣の胃に落ちただろうか。
「ジャガーを確認しました! 本陣より北へ距離5! ただ――進路は北とのことです!」
「北ぁ?!」
「追加報告です! 東側面を並走していた敵ジャガーが突如停止! そのまま引き返していきます!」
「な、何が……ええい、罠の可能性もあるがこの隙に南に撤退するぞ!」
にわかに騒がしくなるテント内。いままで執拗に追撃を仕掛けていた敵の手が、急に緩くなった。しかしそれでも、逆襲を仕掛けようという強気な意見はどこからも出なかった。
ジャガー。それこそがこの無様な敗退の元凶。と言っても、獣のジャガーではない。
ジャガー戦士か……まさかこれほどとは……
アステカ帝国の牙、密林に潜む絶対強者等々、その異名は都市パナマではいくらでも聞けた。ジャングル戦において無類の強さを誇り、特に移動速度は通常の倍。戦いながら狩りを行い、場合によれば敵兵をも貪り食うことで補給を必要としない――アステカ帝国による宣伝工作と切って捨てた情報はすべて正しかった。
一週間前。意気揚々と都市パナマを出撃した攻略軍はその大兵力を以て途中の妨害を次々に撃破。鎧袖一触とばかりにユカタン半島を北上した。そしていよいよ明日には敵首都を射程距離に収められようかというところまで進んだところで、突如として後続部隊との連絡が取れなくなった。
『所詮はにわか仕込みか……』
当初の近衛元帥は、この状況を練度不足と判断していた。アステカ帝国攻略軍を構成する多くの連隊は新造部隊であり、しかも指揮官不足対策として通常の定数より多くの兵を一人の指揮官につけていた。士官の数は従来通り、しかしその下につける兵の数だけは多いという構図であった。仮にも首都を攻めるというのにこの陣容ではという反対意見もあるにはあったが、立場と実績で黙らせた。規模だけ大きい連隊を増強連隊と呼称させて。
――新兵が多いというが、ならいつ攻めればいいとのたまうのか。兵が育ったらか? 敵も戦力を立て直してくるだろうというのに暢気なことを言うな。それに、そんなことをしていれば遠征を支持する民衆の熱も下がってしまうだろう。
と、そのような理屈も併せて。もちろん、元帥自体も憂慮すべき点であるとは認識していた。ゆえに元々存在した、ベテランが多い従来型連隊を先鋒にし、新兵が多い増強連隊は後方へ配置した。少しでも戦場の空気を吸わせ、多少なりとも初陣への不安を解消させようとしたのだ。
だが結果的に言えばその判断が裏目に出る。軍の主力は先鋒のいくつかの連隊であると思っていた元帥はここに本部を設置し、まるで内心を表すように前へ前へと進撃を繰り返した。ジャングルの行軍は歩くことすら困難な道なき道を行く苦行である。熟練者が多い先鋒はどんどん進み、未熟者が多い上に規模も大きい後続部隊はどんどん遅れる。そうなれば自然、最初はわずかであった部隊間の距離は大きく開き、隙間ができる。それこそ――――敵が入り込んで余りあるスキが。
後続の合流を待っていれば――
事態の深刻さに気付いた頃には、本部含む先鋒はすっかり包囲されていた。そこから先はもはや敵首都をどう攻略するかなどという次元ではなく、いかにして包囲を解いてパナマへ撤退するかが焦点となった。つまりは最初から、アステカ帝国はこのジャングルを巨大な狩場として哀れな獲物が罠にかかるのを待っていたのだ。そして満を持して、仕留めにかかった。そうとも知らぬ近衛元帥は敵の罠の奥深くへと意気揚々とはまり込み、絶体絶命のピンチへと陥る。
――――電撃的な首都攻略という計画は、こうして破綻した。
後年。神聖オリーシュ帝国は都市パナマ陥落からアステカ帝国首都攻略の失敗、およびそれに関連する関係各国の動きをまとめた歴史書を出版した。以下に、その内容を一部抜粋する。
1 攻略軍の撤退。
近衛元帥率いるアステカ帝国攻略軍10万人(内訳:三個歩兵連隊、五個増強歩兵連隊、二個砲兵連隊およびその補助)は敵首都南方に広がる密林地帯において敵防衛部隊(推定四個歩兵連隊規模)による迎撃を受け敗北。突出した先鋒部隊(本部含む)が包囲されたことが直接の原因と判断される。撤退中、同軍の最高指揮権保有者であった近衛元帥は急病により指揮統制能力を喪失。同行していたパナマ公王に指揮権が移り、以降は都市パナマまでの撤退を代行する。被害人員は六万人を超えた。
2 ガリア王国のカリブ海侵攻
攻略軍の進軍・撤退と時を同じくして、カリブ海の折杖諸島においてガリア王国軍と現地部隊が交戦を開始する。同地に派遣されていたのは第501独立志願兵連隊であったが、連隊長諸田歩喪伯爵は交戦初期に戦死。以降は現場の最上位であった煉獄院朱雀少尉(当時)が同連隊の指揮を代行する。ガリア軍戦力(内訳:二個歩兵連隊規模およびフリゲート艦一隻)に対して防衛戦を展開、独力にて敵一個歩兵連隊を壊滅し多数の捕虜をとるに至る。その後、派遣されたオリーシュ軍艦隊により同志願連隊は救出され、同時に敵残存兵力の捕縛・無力化に成功する。
3 ブリタニア王国による大陸東海岸占領
アステカ帝国の友好国であったブリタニア王国は、友好宣言の失効と共に突如としてアステカ帝国へ宣戦布告。大陸東海岸にて上陸作戦を開始した。相当数の兵力を動員したと思われるが詳細は不明。この上陸作戦の結果として、ブリタニア王国は大陸東側沿岸部の都市ニューヨークをはじめとする十三の都市を獲得する。アステカ帝国はブリタニア王国に対する領土割譲を含めた諸条件を受け入れて和平を成立させるも、これによりアステカ帝国は大陸の東半分を喪失した。
なお、ガリア王国の突然の参戦は、我が国と交戦状態であったアステカ帝国への援護を通して、戦中のブリタニア王国に負担を強いる目論見があった可能性をここに別記する。
――――――神聖オリーシュ帝国の戦歴(西方の巻)より抜粋
あとがき
少し短いですがご容赦を。その代わりと言ってはなんですが、できるだけ間を置かず(四月中)に次を投稿しようと思います。