塔矢アキラは強い。
初めて会った時から、アイツは常にオレの遥か上を走り続けていた。
思い返せばオレが初めて本気で囲碁をやろうと思ったきっかけも塔矢アキラだった。
オレはアイツに認められたくて、佐為じゃなくて俺を見て欲しくて、ただただ我武者羅に追いかけ続けて――
碁の面白さに気づいてから、夢中になるのに時間は掛からなかった。
囲碁部、最後はちょっと気まずかったけど楽しかったな。 院生になってからは院生仲間や友達がたくさんできたし、その友達と色んな所に行ったっけ。 大変だったプロ試験だって、辛いだけじゃなかった。
色んな出会いがあって、後ろを振り返ることを忘れるくらい毎日が充実していて、何よりも自分が強くなっていくことが楽しくて仕方なかった。
そうして散々楽しみ倒した末――オレは佐為を失った。
囲碁にまつわる全ての思い出はオレにとって宝物で、佐為を失って全てをやり直した今でもキラキラと輝き続けている。
――でも、もう十分だ。
囲碁という物に出会えたのも、本来なら絶対に出会うはずが無かったたくさんの出会いも、全部佐為が囲碁の面白さをオレに教えてくれたおかげ。
佐為に出会わなかったら囲碁なんて興味すら持つことなく一生を終えたことだろう。
だから、佐為に打たせるのは恩返しでもあるんだ。
囲碁に出会わせて貰って、より高みへ至れるよう鍛えて貰って、佐為には与えられてばかりだった。
そう、オレはもう十分に楽しんだ。 だから、今度はオレが佐為に尽くす番。
佐為が消えた理由が分からないことだけが不安だけれど、今度こそ絶対に消させやしない。
佐為の言う通り、全部佐為に打たせたとしても佐為が消えないとは限らない。
しかし、虎次郎の時に佐為が消えなかったのは紛れも無い事実だ。 少しでも可能性があるならそれに縋ろうと、そう思った。
でも――
『パチ』
碁盤に白石を置き、視線を上げて塔矢の様子を伺う。
塔矢はそんなオレの視線に気づかないようで、碁盤を射抜かんばかりの鋭い視線で局面を睨んでいる。 その表情はやや苦しそうで、オレはふと笑みを浮かべた。
――佐為は碁を愛している。
碁を打っている時が佐為にとって最も幸せな時。 これは間違いない。
でも碁を愛する『佐為の碁』は誰かの犠牲の上には成り立たないのだろう。
佐為は碁を愛しているから、自分のせいでオレという碁打ちの未来を断つことに罪悪感がある。
オレが打たないことで佐為を苦しませるなんて本末転倒も良い所だ。
佐為が望んだことなのだから、オレがこうして塔矢打つことで消えることは無いだろう。
佐為の罪悪感を消すにはオレが囲碁を楽しんで打ち、決して犠牲になどなってい無いのだと思わせる場面も必要になってくる。
全てを佐為に打たせることは出来なくなるけれど、要するに佐為が主になるようにすれば良いだけだ。
大切なのはバランスをとる事。
オレが佐為曰く『宿命のライバル』である塔矢と打ち続けることは佐為の罪悪感の良い捌け口になる。
それならオレは――塔矢(コイツ)を利用するまでだ。
『パチッ』
――長考の後に塔矢が放った思わぬ打ち込みにオレは目を見開いた。
オレに大石を狙われ攻め込まれている今、本来ならここは守らなくてはならない局面。
ここで攻め込む意味は――
(――ああ、そっか。 賭けに出たってわけだ)
仮に塔矢がこの大石を守り切ったとしても勝敗に大した影響は無い。
大石が死ねば大差でオレの勝ち。 生きれば一目半差でオレの勝ち。
でも、塔矢が攻め込んだここが混戦になれば、僅かではあるものの逆転の余地がまだ残されている。
ここでオレが二兎を追って、守りつつ大石を殺そうとすれば一手足りずに生きられてしまい、そして、2目の損をし塔矢が逆転する。
でもオレが攻めを捨てて守りに徹すれば半目差でオレが勝つ。
(……やっぱ塔矢はつえーな)
この絶望的な局面で勝利へ続く唯一の道を見つけ出した塔矢の勝利に対する執念に内心で舌を巻く。
その唯一の道というのが攻め手から生み出される物だというのがいかにも塔矢らしい。
『パチ』
オレの一手に、塔矢は再び動きを止めた。
ギャラリーすらも息を止め、身動き一つしない。 まるで時間が止まったような静寂の中、塔矢が唇を噛み締め、やがてぽつりと呟いた。
「ありま、せん」
――ひたすら塔矢を追い続けて、結局望み続けた再戦は出来ず仕舞いだった。
『どうだ、ここまで来たぞ!』と見返してやれなかった悔しさはある。 出来る事ならば追いつき追い越してやりたかった。
もうその願いが叶うことは無い。
オレは悔しさに俯く塔矢に、柔らかく微笑みかけた。
「ありがとうございました」
塔矢アキラは強い。
実際、プロになって戦った低段のプロ棋士達の誰よりも強かった。
(でも、所々に甘さがある。 守りには小さな隙があるし、踏み込みも足りない。 何より、読みが甘い)
手を抜いたわけではないが、本気で打つまでも無かった。
――この世界で、オレは塔矢より強い。
オレが追いかけた塔矢はもう存在しない。
立場が逆転した――ただそれだけのことなのに、何故だろう。
もうオレは塔矢を対等に見ることが出来そうにない。
○ ● ○
「アキラ君が負けた……!?」「そんな、まだ打てるだろう!」「互角に見えるが……本当に負けているのか?」
ざわつくギャラリーに葦原さんが興奮したように割り込んだ。
「ええ、ここからアキラがどう足掻いても半目足りませんね。 かなり細かいのに……良く読み切ったと思いますよ」
その言葉に納得したギャラリーが残念そうにしながらも少しずつ静かになっていく。
うーん、ここって塔矢のホームグラウンドみたいな物だからなぁ。 やっぱり同じ小学生に塔矢が負けたってなると良い気しない人が多いみたいだ。 殆どじーさんばっかりだし、塔矢を孫みたいに思ってそうだ。
ある程度ギャラリーが静かになると、葦原さんは碁盤の一点を指さした。
「ねぇ進藤君。 ここ、最初は悪手かと思ったけれど、後々絶好の一手に化けたよね。 最初から狙ってたの?」
俯いていた塔矢がぴくりと反応し僅かに顔を上げた。
なんかずいぶん落ち込んでるな……。 確かに圧勝してへこましてやろうとは思ったけど――
小学生の塔矢相手にあまり勝ち誇る気にはなれないし、ギャラリーを変に刺激するのも何だから控えめに答えておこう。
「えーと……うん。 まぁ、そうかな」
「へぇえ! すごいな、こんな先の展開まで読んだのか! これは嵌め手の一つなのかな? でもこんな手は見たことが無いし――」
「嵌め手?」
「あれ、知らなかった? ウソ手とか騙し手とも呼ばれるけど――簡単に言えば相手を『罠』に嵌める手だよ。 一見スキのある手を打って、相手がそれに引っかかれば大きな損害を与えることができる。 逆に正しい対応をされれば嵌め手を打った方が大損害っていうリスキーな一手だね。 定石や手筋の勉強にもなるから僕も院生の頃は結構勉強したよ。 でも難しい戦術なのに、こんな風に使いこなす小学生がいるとは――」
院生――そういえば和谷がそんなこと言ってたような。 多分会話にちらっと出た程度だったんだろうな。 森下先生は回りくどい手よりガチンコ勝負が好きだったし――
葦原さんの説明を聞きながらそんなことを考えていると、ふとギャラリーの一人が大きな声を上げた。
「嵌め手! それなら俺も知ってるぞ! ――相手を騙す、卑怯な手のことだろう! そうか、アキラ君は汚い手に陥れられて負けたのか!」
「え、ちょっと待って下さ――」
「なんだって……! 通りで、アキラ君がただの小学生に負けるはずが無いと思ったんだ」
「酷いな……まだ小さいのにそんな手を使うなんて」
「何て子だ、アキラ君に謝れ!」「そ、そうだそうだ!」
葦原さんが必死に止めようとしているが、周りを取り囲む大人たちが一斉にオレを糾弾し責め始め、初めてのことに頭が真っ白になった。
(え、何……え?)
(なっ! この者達、何て事を! こんな――! ヒカル、あなたの碁は決して汚くなんかありません! 今の対局も素晴らしい物でした!)
佐為ががなり立てるギャラリーに負けない様な酷い権幕で何かを言っているが良く聞き取れなかった。
ただ、考えの纏まらない頭でぽつりとつぶやく。
「オレの手――汚いの?」
「――っ、止めて、下さいっ!!」
ガターンッ
――椅子の倒れた大きな音が響き、俄かに辺りが静まり返った。
椅子を倒す勢いで立ち上がった塔矢は、怒りに顔を青ざめさせて周囲のギャラリーを射殺さんばかりに睨みつけ、声を荒げた。
「彼の放った一手は汚い手なんかじゃ無い! 皆さんの言っていることは彼に対してだけでなく、ボクに対しても――『碁』その物に対しても最低の侮辱です!! 訂正して下さい! 今すぐっ!!」
(その通り! よくぞ言いました! もっと言っておやりなさいっ!)
ざわつき、戸惑ったように目配せし合う大人達に対し、塔矢が「さあ!」と再度謝罪を促す。
そんな塔矢を落ち着かせるように、葦原さんが「まぁまぁ」と言いながら引きつった笑みを浮かべて割り込んだ。
「アキラ、気持ちは分かるけど……ちょっと落ち着け。 皆さんも――確かに嵌め手を好ましく思わない打ち手がいるのは確かですが、嵌め手というのはもう殆どパターン化していましてね。 この子の手はそのどれにも該当しない、新手と言っても差支えの無い手です。 僕はとても面白い手だと思いましたよ。 嵌め手自体のことだって、個人的には立派な戦術だと思っていますし」
そう言った葦原さんの笑顔は有無を言わせないような妙な迫力があって、それがダメ押しになったのかギャラリーは見るからに気落ちし、気まずそうにしながら再びオレに向き直った。
「あー……坊や、すまなかったね」「少々頭に血が上っていたようだ……」「北島さんが汚い手なんていうから……」「おいっ俺のせいか!? ……っ、悪かった……知り合いのプロの話を鵜呑みしちまって――」
「あ、いや。 俺は別に――そんな気にしないで下さい」
ずっと年上の大人たちに次々謝罪されて戸惑う。 正直多少のショックはあったけれど、怒りとかは感じてなかったから謝られて変な感じだ。
っていうか、塔矢が怖い。 主に顔が。 未だに凄い顔で周囲を睥睨している。
……対局前のにこやかな猫かぶり塔矢に慣れてる人達はギャップにビビっただろうな。 みんなオレに謝りながらもビクビクしながら塔矢のことチラ見してるし。
「もう! 皆さん子ども相手に恥ずかしくないんですかっ! この子は体調悪くてさっき倒れたんですよ! 対局はもう終わったんでしょ、ほら、散った散った! ――まったく……進藤君大丈夫?」
「あ、ありがとう。 でも本当平気だから」
いつの間にか近くに来ていた市川さんがギャラリーを追い散らし心配そうにオレの顔を覗き込んだ。
それに対してオレは苦笑することしか出来ない。
(……本当に大丈夫ですか? ――先ほどの者達の言葉はただの妄言、気にする必要などありません。 ヒカルの碁、私は大好きですからねっ)
(うん、ありがと。 ……なんか佐為と塔矢がオレの分まで怒ってくれたからさ、怒るタイミング逃したっていうか……ホントに全然気にしてないよ。 だいじょーぶ)
でも、オレの碁を『汚い』って解釈する人もいるんだ。 いや、でも今までで初めて言われたし、何より佐為が好きっていう物が汚いなんてことあるはず無い。 うん、大丈夫だ。
「進藤……君。 あの、本当にごめん。 みんな、いつもは良い人なんだけど……あんなこと言うなんて」
そう言って塔矢が頭を深々と下げた。
いつも自分を可愛がってくれる人達の言葉に塔矢自身もショックを受けたのだろう。 オレが「お前が謝ることじゃないだろ」と笑いかけても中々頭を上げない。
と、思ったら、その体勢のままぼそりと呟いた。
「でも、悔しいな」
「ん?」
「悔しい――負けてこんなに悔しいの、初めてだ……」
そう言って塔矢は頭を上げた。
「でも、変なんだ。 負けて凄く悔しいのに、嫌な気分じゃない――葦原さんの言う通り、ボクはライバルが欲しかったのかもしれない。 ――楽しい対局だった、とても」
そう言って笑った塔矢の顔は悔しそうでありながらもどこか清々しい。
ちらりと後ろを見遣れば佐為が満足気にうんうん頷いていた。
塔矢に対する思いは複雑だ。
オレは、コイツにどう対応すべきなのだろう。 ――今後のために。
頭を働かせ、今後方針を固めながら黙って塔矢の言葉に耳を傾ける。
「進藤……君。 キミがお父さんと打ちたいのは知ってるけど、良かったらこれからもボクと打ってもらえないかな。 次は、次こそは勝ってみせるから!」
「いや、無理だろ」
「――え?」
笑顔のまま固まった塔矢にオレは愛想良く笑いかけた。
「『進藤君』って呼び辛かったら呼び捨てで良いぜ? オレも塔矢って呼んでるし」
「え、あ、うん。 ありがとう」
「で、さ。 この対局がオレの本気だと思った?」
碁盤を指さして苦笑しながら首を傾げる。
「っえ……?」
「オレは、塔矢名人のライバルになる男だぜ? これがオレの本気なわけ無いじゃん。 ちょっと棋風変えて新手探し――ま、遊びみたいなものだよ。 リラックスして打てたからオレも楽しかったは楽しかったけどさ」
半分嘘で、半分本当。
本気で無かったのは事実だが、塔矢とオレはそれほど実力差があるわけでは無い。 でも、何度打とうと今の塔矢相手なら負けることは無いだろう。 そう断言できる程には明確な実力差があった。
ただ、ここで言っている『本気』は佐為の碁を指す。
(ヒカル……)
少しばかり悲しげな声が後ろから聞こえたが今は振り向かない。
待ってろよ、ちゃんとオマエが満足できる理由用意してあるから。
わざとおどけた様に肩を竦めて見せたオレに、塔矢は呆然と呟いた。
「あそ、び……? これだけ打てて……本気じゃ、無い?」
「進藤君、それは――」
「『流石に信じられない』? なんなら、今から『本気』で葦原さんと打とうか? 二子、いや三子置きしても多分オレが勝つよ。 あ、でも時間がそんなに無いから早碁になっちゃうけど……」
「それでも良い?」と困ったように眉を下げると、葦原さんは言葉を詰まらせ、信じられないというように目を見開いた。
オレの言葉が事実かどうか判断しかねているようだ。 オレの碁を見て口だけじゃないのはもう分かっただろうから、あり得ないと切って捨てることが出来ないのだろう。
少なくとも、そうさせるだけの碁は打ったつもりだ。 目数の差が実力差に結びつくような打ち回しはしなかった。 だからこその投了だ。
「そういうわけだから、約束のこと本当に頼むぜ? ほら、これオレんちの電話番号。 塔矢先生と打てそうな日あったら電話して」
そう言って、ポケットからメモを取り出す。 塔矢に渡すため、予め名前と電話番号を書いておいたのだ。
塔矢は、少しばかり皺がよりくたびれてしまったそれを震える手で受け取った。
「……ボクとは本気で打ってくれないの?」
「だって、本気で打つまでも無かっただろ? その点、葦原さんならプロだし」
「――、どうすればキミは本気で打ってくれる?」
「ん、そうだなー。 『遊び』のオレに勝てるようになれば本気で打ってやるよ」
「そうか……だったら」
くしゃりとメモを握り潰し、塔矢は強い視線でオレを射抜いた。
「必ず、ボクはキミに追いつき本気を出させて見せる――! 君のライバルはお父さんでは無くボクだと、認めさせてみせる――!!」
(塔矢――)
手の震えは武者震いだったようだ。 そうだ、コイツはこの程度の挑発で落ち込むような奴じゃない。
見た目と違って、相手が強ければ強いほど燃えるタイプ。 でもって、しつこい。
ある意味真っ直ぐ過ぎる程に真っ直ぐな――碁バカ。
その苛烈な視線に目を逸らしそうになるが、何とか受け止め、ニッと笑い返した。
「そうか。 だったら、精々追ってこいよ」
『遊び』に勝てたら、ちゃんと『本気』で打ってやる。 そうなれば『オレ』と打つことは二度と無くなるわけだけど、でもそうすればやっと塔矢に佐為と戦わせてやることができる。 佐為もこれなら納得できるだろ?
塔矢、佐為と滅茶苦茶打ちたがってたもんな。 折角やり直して佐為主体でやるんだから、今度は思う存分打たせてやろうと思ってたんだ。
佐為も塔矢のこと気に入ったし、塔矢がオレを越える時が楽しみ。
流れ的に佐為が塔矢と打つのはそれまでお預けになったわけだけど、これは佐為の我儘が撒いた種なんだからそれくらい我慢しろよ?
ただし――
(――そう簡単に負けてやるつもりは無いけど)
(……ヒカル、あなたは――)
「ハハ……井の中の蛙、か……」
不意に自嘲交じりのそんな呟きが聞こえ、視線をそちらに向ける。
「ボク、馬鹿みたいだ――」
やや俯き、表情を消したイソベがそこに居た。