塔矢と子ども名人の対局を見て少しばかり目を見開く。
(へぇ……意外とやるんだ)
(ヒカル、あの……先ほどの話ですが――)
(うっさい、今対局見てるんだからちょっと黙ってて)
(うっ――わかりました……)
子ども名人はやたら目つきの悪い奴だった。 歳は塔矢や今のオレと同じくらいかな。
頭が凄い天パでわかめみたいだ。 三白眼って言うんだっけ、ぎょろりとした目が爬虫類を連想させる。
で、肝心な棋力だけど――思っていたよりもずっと強い。 子ども名人とは言え所詮アマの小学生……と思っていたけれど、小学生でこれだけ打てるなら師匠次第で将来的には十分プロ入りを狙えるんじゃないか? 院生試験なら余裕で受かるだろう。
少なくとも、オレが院生試験受けた頃と比べれば全然この子ども名人の方が強い。
(――ふむ。 まだまだ未熟ですが、この子も中々素直で良い手を打ちますね。 残念ながらトーヤの敵では無いようですが――)
(素直な手ってそれ褒め言葉?)
(もちろんです! 勝ちたいという真っ直ぐな気持ちが伝わってくる気持ちの良い打ち筋です。 この子が『子ども名人』なのですね)
(塔矢と打ってるってことはそうなんだろうな。 ……思ってたよりかは強いけど、何と言うか……惜しいんだよなぁ)
なんというか、打ち方が慎重すぎるのだ。 堅実に地を作っていきたいのは分かるし、混戦を避けたくなる気持ちだって分からなくもない。
だからって、塔矢相手にこんなチマチマした打ち方したらあっという間に盤面を支配されてしまう。
というか、もう盤上の大半が塔矢の白地だ。 これ以上続けるとなるともう白地に打ち込むしか無いわけだけど、ここまで実力差を突き付けられた後じゃあシノギ勝負なんてとても無理だろう。
子ども名人の表情を伺うと、焦りと悔しさ、そしてやはりと言うべきか諦めの感情が色濃く浮かび上がってっていた。
(投了か――。 まあ、塔矢が相手じゃなぁ)
塔矢に挑戦するくらいだ、きっと自信はあったのだろう。 実際、決して弱くは無い。
――でも、塔矢の実力は現段階でも下手なプロなんかよりずっと上だ。
勉強のつもりで塔矢と打つんなら問題ないけど、同じ小学生だと思って勝負を挑んだんなら結構ショックだろうな……。
塔矢の反応を伺えば、もう半ば子ども名人に対する興味を失っている様だった。
その碁盤を見つめる気の抜けた視線が露骨に『期待外れ』と物語っている。
――何か腹立つ目だ。
勝手に期待して、失望して。 オレの時は佐為のことあったから仕方ないけど、この子は違うだろ。
この小さな名人の碁は佐為の言葉を借りれば『未熟ながらも勝ちたいという真っ直ぐな思いが伝わってくる気持ちの良い碁』だ。 ただの遊び感覚で碁をやっていたのではここまで打てるようにはならない。
その目は真剣に頑張ってる子に向けて良い目じゃない――と、思う。
自分で打つことを放棄しようとしてる俺が言えたことじゃないかもしれないけど、さ。
……分かってる。
塔矢もまだ子どもなんだ。 同年代のライバルが欲しくて、『子ども名人』なんていう肩書を背負った小学生の挑戦者相手に舞い上がってしまったのだろう。 父親も名人だしな。
それが全くの期待外れじゃ、がっかりくるのも分からなくはない。
(でも、そういうの隠せないからコイツ和谷に毛嫌いされてんだろーなぁ)
(ワヤ? 誰ですか?)
(んーと院生の時からの友達……だった奴。 ……今度も仲良くなれると良いんだけど)
「あ、えーと……進藤君、だっけ? もう体調は良いののかい?」
「葦原さん」
塔矢の様子を見に来たらしい葦原さんがオレに気付き小声で話しかけてきた。 オレもへらりと愛想笑いを浮かべ、対局を邪魔しないように小さく返事を返した。
「おかげさまで。 ご心配おかけしました」
「無理はしない方が良いよ? 元気になったなら何よりだけど。 君がどんな碁を打つのか気になるし……アキラは大抵ここにいるけど、僕はたまにしか来られないからね」
「あはは……まぁ今の塔矢に負ける気はしないから楽しみにしててよ」
「おお、相変わらずの凄い自信。 口だけじゃないのを祈ってるよ。 で、こっちの対局は――」
葦原さんが更に声を低くしてオレの耳元にこっそりと囁く。
「――もうすぐ終わりそうだね」
「うん……」
「思ってたよりは打てる子みたいだけど、院生じゃあ無いよね?」
「子ども名人だってさ」
「ははあ、なるほど」
そんなことを話していると、不意に子ども名人が頭を下げ投了を宣言した。
「………………負けました」
その表情は陰になっていて見えないが、見るからに意気消沈しているのが分かる。
そんな子ども名人に葦原さんが嬉々として話しかける。
「キミの、あくまで地にこだわるような発想はアキラには通用しないよ」
葦原さん……悪気は無いんだろうけど、負けて落ち込んでる子相手にそれは――思わず子ども名人に同情的な視線を送ってしまう。
「葦原さん。 それに……進藤君」
葦原さんが声をかけたことで初めてオレ達の存在に気付いたらしい塔矢が目を丸くした。
そこに先ほどまでのオレに対して送っていたような熱は無い。
子ども名人と戦ってちょっと頭が冷えて現実を見たってところか。
――完全に冷め切っては居ないから、まだ諦めきれない期待が燻ってはいるのだろうけれど。
「どのみち、白模様にドカンと打ち込んでシノギ勝負にもっていくしかなかったようだね。 ――いやあ、それでも君十分強いよ、うん。 ただ相手が悪かったね」
「進藤君、もう大丈夫なの? ごめん、待たせちゃったかな。 すぐに片付けるね!」
塔矢が慌ててガシャガシャと碁石を片付け始めた。
そこで塔矢と葦原さんに打ちのめされた子ども名人が弱々しく視線を上げてオレの方を見た。
途端、カッと頬を染める。 そりゃ、ボロ負けした所を同年代の奴に見られたら恥ずかしいよなぁ……。
気まずい……何か気の利いた事――
「えーと、な、ナイスファイト!」
咄嗟に無駄に良い笑顔で親指を立てて励ますと、子ども名人がガタリと椅子から立ち上がり憤慨したように声を荒げた。
「っ! 何だよそれっ、嫌味のつもり? 余計なお世話だよっ!」
「あ、いやっ……そんなつもりじゃ」
こちらをきつく睨みつけてくる子ども名人に、手と頭を横に振って慌てて否定する。
……何やってんだオレ……数秒前の自分を殴りたい。 負けて落ち込んでる相手に『ナイスファイト』は無いだろ!
(やばい、怒らせたか――あーもうオレの馬鹿っ!)
(ヒカル……流石に今のは無いですよ)
(うるさいっ! 分かってるよ!)
「どうしたの? 進藤君、対局の用意できたけど――えーと、子ども名人の……」
「――っ磯部秀樹! ……ハッ、もう名前忘れたんだ。 そりゃそうかボク程度の奴の名前なんて――おまえも塔矢アキラと打つのか?」
『名前忘れたんだ』のくだりで塔矢が申し訳なさそうに苦笑してる。 よくこの状況で笑えるな……もう塔矢の頭の中はオレとの対局のことしかなくて、このイソベヒデアキ君のことは眼中に無いんだろう。 ああ、オマエはそういう奴だよな。
とりあえず、イソベの言葉に俺は頷いた。
「……そーだけど」
「ふーん! 力試しか何か? 自分に自信あるのか知らないけど、どうせ無駄だよ。 子ども名人のボクが全然敵わなかったんだ、おまえも大して歳変わらないだろ。 同年代の奴が勝てる相手じゃない。 恥かくのが嫌ならやめといた方が良いと思うよ」
(うーん……何か精神的に追い詰められすぎて妙なスイッチはいっちゃってるな……)
(どうするのですか?)
(どうするって……どうしようもないだろ)
「ご忠告どうも。 でもオレは負けないから」
「なっ……! こ、こいつは全然レベルが違うんだ! さっきの対局、おまえ見てたなら分かるだろ!」
「見てたけど――」
「ええと、磯部君。 ボク達そろそろ打ち始めたいんだ……悪いけど、席空けて貰えるかな? ――あ、気になるなら見ていく?」
「っ――!」
オレは塔矢の困ったような笑顔に戦慄した。 コイツもう本当に子ども名人に対して興味無いんだな。 オレも最初に佐為に打たせてなかったら、あの囲碁部の大会で完全に見限られていたのだろう。
いや、そもそも佐為に打たせてなかったら大会で打つことも無かったか。 最初の対局でもう興味無くされてただろうな。
今回、塔矢との初対局は佐為じゃなくてオレだ。 ここでボロ負けしようものならオレもイソベ君と同じようにあっさりと忘れられて、そして今度こそ塔矢は同年代のライバルを完全に諦めるのだろう。
――負けられない。
ここで負けたら佐為に塔矢先生と打たせてやれなくなるし、コイツにこの露骨に無関心な目を向けられるのは腹が立つ。 初めて心の底から和谷の気持ちが分かった。
それに……何より、昔の塔矢なんかに負けていられるか!
(ぜってー勝つ! 圧勝してへこます!)
(な、何やら燃えていますね――あの、本当に良いのですか?)
(オレに打てっていったのは佐為だろ! 心配すんな、佐為のためにも絶対に勝ってみせるから!)
(ヒカル――はい! 頑張って下さいねっ!)
(おう、任せろっ!)
「――分かった、それならボクもこの対局見させてもらうよ。 塔矢アキラに負けないってことはボクなんかより圧倒的に強いってことだろ。 それが本当かどうか確かめてやる……! 結果は分かり切ってるけどね!」
どうやらイソベもここに留まるようだ。 席をオレに譲り、腕を組んで鋭い視線でオレを睨んでいる。
いや何でオレを睨むんだよ――とんだとばっちりがあった物だ。
イソベの権幕に周りで打ってた人達もわらわらと集まってきた。 思わぬギャラリーを背負うことになっちゃったけど、大勢の前で打つことにビビっていた昔のオレと今のオレは違う。
どうせ打ち始めれば気にならなくなるのは分かってるから、もうさっさと初めてしまうことにしよう。
「なんだか人集まってきちゃったけど、進藤君平気? 集中できない様なら離れてて貰おうか?」
「葦原さんありがと。 でもへーきだよ。 慣れてるから――それじゃ、いい加減始めようか」
そう言ってニッと笑いかけると、塔矢はパッと顔を輝かせた。
「うん! ボクはいつでも良いよ!」
「約束、忘れんなよ?」
「父さんのことだよね、もちろん! じゃあ――」
「「お願いします!」」