大人から叱責を受ける直前の子どものようになっている佐為に、オレは小さく溜め息をついた。
(ったく……で? まずは佐為の言い分を聞こうじゃないか。 何であんな未練たらたらの癖に、オレに塔矢と打たせようとするわけ?)
『未練たらたらの癖に』というところを強く強調すると、佐為の眉が申し訳なさそうに垂れた。
佐為が悲しみの感情を抱いたのはあの時の佐為の様子を見るに塔矢と打ちたいのを我慢しようとしたからだろう。
現世に蘇って二日。 オレとじーちゃんとしか打ってないんだからまだ全然打ち足り無いはず。 そんな状態の佐為が魅力的な打ち手との対局を自ら諦めるんだ。 伝わってきた感情だけであれほど気持ち悪くなったんだから、佐為の辛さはきっとそれ以上だ。
まったく……そんなに打ちたいなら打てば良いのにさ。 佐為がそんな辛い思いする必要は無いんだし、俺だって無駄に苦しい思いすることになった。 本気で吐くかと思ったぜ。
(確かに、トーヤは非常に先が楽しみな魅力的な打ち手でした。 つい無意識にヒカルへ負荷をかけてしまう程に……そのせいでヒカルには苦しい思いをさせてしまいましたね)
(それはもう良いって。 それより本題本題。 塔矢が待ってるから早く戻んないと)
オレの門限までにはまだ時間は十分にあるが、塔矢も同様であるとは限らない。 できるだけ早く戻らないと。
そう佐為を急かすと、佐為はゆっくり頷き、先ほどとは打って変わった強い眼差しをオレに向けた。
(……わかりました。 本題に入りましょう――私がヒカルに打ちなさいと言ったわけは、あなたとあのトーヤがまごうこと無き理想的な好敵手であると分かったからです)
(は? ……オレと、塔矢が?)
(はい。 先ほどの対局を見ていて、あの子はどちらかというと搦め手よりも正面から敵を打ち砕く攻撃的な手を好むことが分かりました。 それに対してヒカルは用意周到に罠を張り巡らす搦め手を好みますね)
(んー、まぁ、そうかな……)
自分の碁をそんな風に考えたことが無かったから何となく気恥ずかしさを感じる。
オレが曖昧に頷くと佐為は軽く目を伏せ、続けた。
(トーヤとヒカルの棋風はほぼ真逆と言っても差支えないでしょう。 だからこそ、相性が良い)
(そうかな)
(そうですとも。 ヒカルの罠は攻撃を受けてこそ初めて生きます。 トーヤはヒカルの碁から攻めるだけでは通用しないことを学び新たなる手を考えざるを得なくなるでしょう。 また、ヒカルの罠ももろ刃の剣、看破されてしまえば逆に窮地に立つのはヒカルです。 傾いた形勢を立て直すのは塔矢のような攻撃力のある打ち手相手には難しい。 トーヤと打つことで、ヒカルは悪手に見せかけた物以外の多様な罠を生み出しざるを得なくなり、また看破されたとしても持ち直せるだけの粘り強さを学ぶでしょう)
(なるほど)
(まったく棋風の違う相手だからこそ学ぶことは多い。 棋力に関しては、まだあの子の本気の対局を見ていませんがおそらくヒカルの方が上でしょう。 しかし、その差は決して大差という程ではありません。 同じ時代、それも同世代にこれ程相性が良く実力の拮抗した好敵手がいる。 それがどれほど幸運なことか。 その運命的なライバルとなるであろう二人の初対局を私が打つなど――)
(あー、もう良い。 分かった)
(っ! では――)
佐為が期待を込めた視線でオレの顔を見上げ、次の瞬間固まる。
……そんな酷い顔してるかな、オレ。 かなり冷めた視線送ってる自覚はあるけど。
(佐為がオレのことを思ってトーヤと打てって言ってくれてることは分かった。 でも――結論から言って、お・こ・と・わ・りだ!)
○ ● ○
(な……何故ですか!?)
(何故も何も……)
オレの視線と言葉に固まっていた佐為は、主張をざっくり切り捨てられてなお、納得できないというように涙目で食い下がってきた。
佐為は何もわかってない。 碁が上達することこそが誰にとっても至上の幸せなのだという自分の思いを押し付けてるだけだ。
オレが打つってことがどういうことなのかも考えてないし、自分が消える可能性があるという危機感すら無い。
……でも、それでも、佐為を泣かせたいわけじゃないんだ。
オレは息を大きく吸って、吐き出し、心に湧きあがった苛立ちを消し去った。
とにかくオレはこの問題で折れるつもりは断固無い。 場所をトイレの個室にしたのだって、佐為のせいで体調最悪になった時のために備えてだからな。 ここでなら何度吐き散らかしたって大丈夫だ。 そうならないに越したことは無いけど。
(佐為。 オマエの目的って、何なわけ?)
(それは……神の一手を極めることです)
(だよな。 じゃあ、オレの目的は何だと思う?)
(……ヒカルの目的――やはり神の一手を極めることなのでは)
(残念。 不正解)
あー、佐為の奴オレの目的をそう解釈してたのか……こんだけ佐為のことばっか言ってんのにどうしてそうなっちゃうかなー?
ま、神の一手ってすべての碁打ちの夢みたいなもんだもんな。 人一倍強い夢抱えてる佐為がそういう幻想抱いててもしかたないか。
(オレの目的はさ、佐為に神の一手を極めさせることなんだよ)
(私に?)
(そう! 今まで誰も極めることのできなかった神の一手だけど、オマエならきっと極められる。 ……オレは佐為が神の一手を極める所が見たいんだ!)
オレだって碁打ちだ。 神の一手に対する憧れのような物は当然ある。 自分が極めるのは現実味ないけど、でも、佐為なら――脳裏に今までの佐為の棋譜と棋院で見た秀策の棋譜を思い浮かべる――うん、佐為なら絶対に極められる!
(オレ、佐為の碁が好きだよ)
(――っ)
(ファン心理っていうのかな? 自分が打つのと同じくらい――いや、それ以上に佐為が打ってるところを見るのが楽しいんだ。 オレとは全然次元の違う、佐為の綺麗で力強い碁に完全に魅了されちゃってるんだよ。 そんな佐為の碁を、オレが、オレだけが現世に蘇らせることができる。 ――この気持ち、オマエには分からないだろうなぁ)
(ヒカル……)
そう、佐為には分からない。 自分の遥か高みに存在するような碁を見たとしても、戦いたいっていう欲求しか湧かないだろう佐為には。
その証拠に、まだ佐為は困惑気味に眉を八の地に垂らしている。
そう悪いもんじゃないんだけどな。 佐為の凄い碁を現世に蘇らせられるのがはオレだけ――そう思うだけで胸が熱くなる。 しかも常に一緒にいるから打ち放題だろ? それがどんなに贅沢なことか、今のオレには良く分かる。
(……オレは、オレの大好きな佐為の碁が神の一手を極める瞬間を一番近い所で見たいんだ。 これがオレの夢で、目的)
オレの気持ちが少しでも伝わるように佐為の目を真っ直ぐ見据える。
(佐為は何か勘違いしてるみたいだけど、オレはもうオマエに引け目とか、罪悪感とかは持ってないぜ。 佐為が消えちゃって、オマエの過去の棋譜とかも見て、初めて佐為がどんなに凄いやつだったか分かってさ――失って初めて価値が分かるっていうのは良く聞くけど、そこからやり直せるなんてのはなかなか無いラッキーだよな。 オレはもう、心の底から佐為の碁のファンなんだよ。 オマエの碁を代わりに打つことができるってのに凄くやりがいを感じてるんだ。 だから、オマエもオレに妙な引け目を感じるのはもうやめろよな)
(――分かり、ました)
佐為の言葉に安堵し、いつの間にか詰まっていたらしい息をハァーと吐き出した。 まだ一局も打ってないのに疲れた……こういうのはこれっきりにして欲しいよな。
やっと肩の力が抜けて、やれやれと肩を回して身体を解そうとしたオレは、続けて発せられた佐為の言葉にズルッと便座から落ちそうになった。
(それでも今日の対局、私は打てません)
「何でだよっ!」
「進藤君?」
「……っ!?」
思わず大きい声が出してしまい、慌てて口を押えようとしたら個室の外から塔矢の声がして文字通り飛び上がった。
「と、塔矢!? まだそこにいたのか!?」
「う、ううん。 棋譜並べして待ってたんだけど……僕と打ちたいって子が今来ていて、もしかしたら時間が掛かる対局になるかもしれないから――先約は君だし、どうしようかなと」
「……な、なんだぁ。 そういうことか」
カチャリとドアのカギを開けてトイレの個室から出た。
いつまでもドア越しにしゃべってんのも落ち着かないからな。
「進藤君。 大丈夫? まだ顔色あまり良くないけど――」
「大丈夫大丈夫。 ……で、その対局希望の奴、強そうなのか?」
「多分……子ども名人戦優勝だって」
「子ども名人戦、ねぇ。 ……オレはもう少し時間かかりそうだから、先に打っててもいいぜ」
「そう? それじゃあ――」
「どうせすぐ終わるだろうし」
何気なく言葉を続けると、塔矢は驚いたように目を見開き、次いで少しムッとしたような表情を浮かべた。
「……子ども名人戦優勝者だよ? 全国の小学生で一番ってことだ。 大会参加者の中でだけど……すぐ終わるとは思わないな」
「オマエ……自分の実力が分からないのか? 小学生で全国一位って言ったって――」
ふと、葦原さんの言葉を思い出した。
そういえばコイツ、同年代のライバルを求めてるんだっけ。
――期待しちゃってるってわけか。 プロで十分通用する実力を持ってる奴が、アマチュアの小学生の中で一位の奴と対等なわけ無いのに、そんなことも分からなくなるくらいにライバルが欲しいと。
傲慢、だとは思わなかった。 ただ、一抹の憐憫を感じ、オレは口を閉ざす。
嘗て、佐為と初めて打った時、塔矢はどんな気持ちだったんだろう。 オレがヘボな碁を打った後もずっとオレに拘り続けて……プロ試験の時なんかは越智を使ってまでオレの実力測ろうとしてたっけ。
今なら、オレが本当の意味でライバルになれる。 佐為のお墨付きの、理想的なライバルに。 でもオレは、塔矢のライバルにはもうならない。
佐為は塔矢の父親のライバルであって塔矢のライバルでは無いし――。
求めて止まない本当の意味での同年代のライバルというものを塔矢は一生手に入れられないわけだ。 オレのせいで。
――ちょっとだけ、可哀そうかもしれない。
「進藤君?」
「……やっぱり何でもない。 そうだな。 まあそいつの実力は打ってみれば分かるさ」
「……うん。 それで、もし遅い時間になっちゃったら、君との対局はまた後日都合の良い日に改めて、ということで良いかな?」
「わかった。 そうして貰えるとオレも助かる」
「うん――じゃあ、僕戻るね」
トイレから出て行った塔矢を見送った後、再び便器の蓋に座り、佐為と向かい合う。
(ヒカル……子ども名人というのは何ですか……!?)
(早く話が終われば見られるよ。 塔矢VS子ども名人)
(ふぐっ……! もう! ヒカルが打ってくれればすぐ解決するのに!)
(それはこっちのセリフ! 佐為が打つって言えば今すぐにでも向こうに戻れるんだぞ!)
腕を振り回して子どものようにポカポカ叩く真似をしてくる佐為の拳からわが身を守りながらも(で? 今度は何が不満なんだよ!)と本題に戻す。
(むぅう……良いですか? 碁という物は一人では打てない。 それは分かりますね? 人の数だけ棋風があり、無意味な対局というものは存在しません。 神の一手とは他に人がいて初めて成立する物なのです。 ですから、ヒカルという一人の魅力的な打ち手を犠牲にして生み出されるとは思えません!)
(だから、犠牲じゃないって言ってるだろ!)
(私にとっては犠牲も同然です!)
(じゃあ虎次郎はどうなんだよ! 全部佐為に打たせたんだろ!)
(――虎次郎には、ヒカルにとっての塔矢のような理想的なライバルは居ませんでした。 彼にとっての理想的な打ち手は私だったのです)
ぐ……虎次郎がどんな奴だったか知らないから言い返しようが無い。 思わず口ごもると、佐為がキッとオレを睨み、その迫力に身体がビクリと震える。
(先ほどヒカルは私に、ヒカルに対する引け目を捨てろと言いましたね。 確かに私はあなたに対して引け目を持っていました。 今もあなたが未来に生きているようには思えません。 そのことに私は責任を感じています。 しかし、その罪悪感を、今ここで捨てることにします)
(――だったら!)
(だから! 今私がヒカルに打てと言っているのはヒカルのためではありません。 私が神の一手を極めるためです!)
(は、はぁ?)
佐為の言っている意味がわからず間抜けな声を出してしまった。 佐為は人差し指を立て、したり顔で言葉を続ける。
(ヒカルの言うトーヤ名人なる者。 ヒカルが私のライバルと言う程ですから、おそらく素晴らしい打ち手なのでしょう。 しかし、私は永遠の命を持っているに等しい状態で、少なくともトーヤの父親だというその者は、順当にいけばヒカルやトーヤより先に別れざるを得なくなることでしょう。 その者が私のように霊魂と化する保証はどこにも無いのですから)
(う……)
何となく佐為の言いたいことを察し、オレは自分の敗北を悟った。
(ヒカルもトーヤも素晴らしい打ち手です。 何より素晴らしいのはその将来性です。 私の極めんとしている神の一手はあなたやトーヤとの対局から生まれる物である可能性もあるのですよ!)
(でも……オレが打ったら――!)
(ヒカルが打つことで私が消えるとは思えません。 現に、未来で私が消えるのは約三年後なのでしょう? それまで散々打っていて消えていなかったのですから、おそらくは他の要因が絡んでいるのだと思いますよ)
(……っ)
何も言うことができないオレに、佐為が悲しげに目を細めた。
(ヒカルが神の一手を極める夢を私に託すというのならば――私はあなたの夢を引き受けましょう。 強くなったヒカルと打てなくなるのは残念ですが……。 そのかわり、トーヤとだけはヒカルにも打って欲しいのです。 未来で、私のライバルとなるかもしれないトーヤを育てるために――お願いします)
トイレの床に膝を付き、頭を下げた佐為に、何とも言えない思いがこみ上げる。
(分かったよ――佐為がそこまで言うなら、打つ。 だけどな、オマエ、やっぱり何もわかってないよ――)
(ヒカル?)
オレは便器の蓋から立ち上がり、バンッと乱暴にトイレのドアを押し開いた。
(オレは今後佐為の碁をオレの碁だと語って生きていく。 そんな中、オレが本来の実力で対局したら、その碁は人からどういう目で見られることになる? 塔矢はオレの碁をどう思うと思う? ――オレは、自分の碁を周囲の人へどういう風に言い訳しなくちゃならなくなると思う?)
(――あ)
ああ、今日はオレが打つさ。 トイレの床で土下座してまで打って欲しいと頼まれたんだ。 佐為の言う通り一度や二度塔矢と打ったくらいで佐為が消えるとはオレも思わないし。
だけど――いくら佐為の碁が大好きだと言ったって、オレだって自分の碁にプライドが無いってわけじゃないんだぜ、佐為――。
トイレから出ると塔矢と見知らぬ子どもがまだ対局中だった。 こいつが子ども名人ね。 流石に瞬殺はされない程度の実力はあったか。 いや、それとも塔矢が無駄に警戒でもしたのかな。
オレの後ろで今更ながらにオロオロし始めた佐為を無視して、対局を覗き込んだ。