張り詰めた雰囲気が、狭い廊下を満たす。其れは人間から放たれた物だ。
トウビョウ――蛇の形をした悪魔は背筋を凍らせた。
其れはおおよそ人間の出してよいものではなかった。
何だこれは、と逡巡する。殺気ではない、敵意でもない。ただ殺す、とその意思だけを向けてくる。
トウビョウは改めて目の前の人間を見やる。顔立ちからしてもまだ二十を越えているとは思えない、子供。そんな存在が純粋な殺意をぶつけてくる。
まるでこういっているようだ。お前は死ななければ成らない、と。
(コレハ――)
感じているのだろうか、恐怖と言うものを。
悪魔が、人間に向けられたさっきで、己が死ぬと、そう思って恐怖しているのか。
(アリエヌ)
否、ありえては成らない。其れは摂理に反する行為。
故にトウビョウは鎌首を上げる。
殺さねば成らない。
だが――、と、トウビョウは逡巡した。
体が動かない。
〈ナゼ、ウゴカヌ〉
――心の隙間には彼は己の有様を理解していた。
己は殺気におびえているのだ、と。しかしソレを認めることは悪魔の、強者のあり方が許さない。
だからこそ、起きる齟齬だ。恐怖から逃れえたいと言う生命体の本能、強者が弱者に背を向けては成らないと言う思考。ぶつかり合い、そして肉体が混乱し、停止する。
端的に言えばトウビョウは不幸だ。
眼前の存在と己の力量差を比べ、自分を弱者と理解し、そして逃げることができないのだから。
死ねば終わり、ただそれだけの理屈を理解し得なかったのだ。
故に、
「どうした? 動かないのか? 動かないならソレも良い。だが、私はお前を殺す」
底冷えするほどの、悪魔を凍らせるほどの殺気。
あ、と、呻きがトウビョウから漏れる。
理解したからだ。己が終わるのだ、と。
「ではさようなら」
青い光が周囲を包む、極光。物理的な力は何も持たないはずの光が、浸食するように拡散していく。
トウビョウは融けていくことを理解した。己が終わる瞬間を、ただのたうつ隙もなく。
〇
何故、『鍵』を使うことが出来るのか、そのことを湊はわからない。だが一ついえるのは本能で理解したということだけだった。この『鍵』は本来人の手にあるべきものではないのだ、と。
(無闇に使えば私が駄目になるな)
そもそもこの鍵を使ったのは原作デビルチルドレンにおいて悪魔と人間の血を引くハーフであり、タイトルと同名の存在、デビルチルドレン。
で、あるならばただの人間である湊に使える道理がない。では、何故己がこの『鍵』を使えるのか、其れは謎のままだった。
(元々鍵は七、だがゲームと漫画では設定に差異があったはず――、駄目だ、思い出せない)
思考の奥底、嘗ての記憶を探るが思い出すことは出来ない。
(そもそもこんな物を渡してくるあの男、ヴァイス、ロートと同じ存在? のアイツは――)
考察の海に沈む。
それを引き戻したのは声だった。
「み、湊……?」
秋乃の声を聞き、意識を現実に向ける。
湊は秋乃を見た。
湊のような例外を覗けば同年代にしては、大人びて見えるはずの顔に不安を貼り付け、体を震わせている。その姿は、親に咎めを受けるのを恐れる子供に見えた。
「あ、あの」
「何故」
「……」
湊は問う。
「いや、説明を怠った私が悪かったか、済まない」
「それは……」
秋乃が更に俯く。客観的に見ればどちらも非があり主張はある。しかし先手を打って湊が謝罪した故に、秋乃の罪悪感だけが煽られた。
「そもそもまとめ役に君の面倒を見るように言われている以上、説明を省けばどうなるか位は予想するべきだった。此方の落ち度だ、申し訳ない」
湊は忘れていた、と思う。十代の行動力を。気になれば動き出してしまうエネルギー、どこからか溢れてくる気力。何より、魔法などと言う非現実に触れ、そして行使できるとなればいてもたってもいられないのは明白であり、其れは考慮しうるものであった。それが出来なかったのは一重に経験がそれを忘れさせていた。湊は厳密に言えば『浅木・湊』ではなく『浅木・湊の中にいる男』と言うのが正しい。中の男は既に成人であり、それ相応の視点を有している。十代の視点は当に失われていた。
(浅はかだったな)
湊は己の短慮を恥じた。思考の差異、視点の差異、それらを理解できなかったこと。考え付かなかったことに。
しかし、其れはそれであり、これはこれ。昔から小賢しい大人の理論であり、その代表を振りかざす。
「とは言え、此方にも事情がある。二度三度も奇蹟などは起きない――、今日のところは帰ってくれ」
俯いたままの秋乃が、再度体を震わせた。
「なんなら入り口まで送るから――」
「嫌――」
秋乃の口から出たのは拒絶の言葉、湊は頭を抱える。強情だ。
「いや、だから」
「分かってる、分かってるけど!!」
「ならば!」
「でも蚊帳の外にされるのは嫌だ! 自分の身の回りでワケのわかんないことが起きて! それを如何にかできるはずの力があって! でもそれに関わらないでとか! 出来るわけないだろ!」
「その考え方は早死にするぞ、そもそも知らなくていいこともだな」
「そうやってすぐにワケの分からない理論を振りかざして!! お前は私と同い年じゃないか! それなのに一人訳知り顔で! そりゃ私より先に関わってるし、何か凄い戦えるし!」
「いや、あのだな」
「私程度の力なんか、なんか? 必要ないかもしれないけど!? でもじゃあ、後でやるから、とか言われても結局期限も決めずに口で言われても動かないわけないだろ!!」
「あの」
「そうだよ! 子供の理屈さ! でも仕方ないだろ! 子供なんだよ! 周りが大人っぽいとか言うけどこっちは子供なんだよ! 理屈なんかで黙っていられるわけないだろ!!」
一通り叫んで、そしていきなり泣き出す。
「うう、ひぐ、グス……、ああああああああああああああ!! なんなんだよなんなんだよ! 普通に過ごしてたら虐められて! ワケわかんない存在がいること知っちゃって! 実は世界が危険で! ああああああもう! ああああああ!!」
「何故泣くんだよ……、勘弁してくれ」
女性経験は人生経験には比例しない。湊には泣いている女性を宥めるようなスキルを持ちえていなかった。
「ふ、ふふふふふ、ああもういい。分かった泣き止むまで待つ、それでいいんだ」
何もかも諦めた体で湊は座り込み、壁にもたれかかる。普段の警戒心はどこかに捨て去った。
結局、秋乃が泣き止むまで湊は途方にくれていた。
○
「ごめん……」
泣き止み、涙跡を残しながら秋乃は言った。
「まあ、いいさ」
湊がぶっきらぼうに返す。
「怒ってる?」
「怒ってない」
そもそも怒る以前の問題だ。この手における男女の機微を経験し得ない湊には、とにかく現状の打破にのみ思考が費やされていた。実を結びはしなかったが。
「その、何だ、私に落ち度がある、否、あったのは認めるからもう泣かないでください」
「うう……、そんな別に私だってそう簡単には泣かな――、え、あ、でもこれで二回目……、な、なんだか情けなくなってきた……」
「人間なんてそんなものさ……、ま、いいさ、今日はもう帰ろう。私も戦える気分ではなくなった」
湊が緩慢な動作で立ち上がる。
「うん」
秋乃がそれに追随しようとし、
「おや、帰っちゃうんですか?」
それを声が引きとめた。
男がいる。白い男。闇に立つ、純白の男
「ヴァイス」
湊に『鍵』を渡した男が、そこにいた。