まず湊は頭痛を覚えた。何故、目の前に秋乃が居るのか理解できなかったからだ。自分がここに来ることなど一度も伝えていないはずだ。故に、
「何故、君がここに居る」
問う。
「それは……」
目の前の少女、秋乃は顔をうつむかせ、声を詰まらせた。湊は額を押さえ天井を向く。呆れた体を隠さずに息を吐いて、
「まあ、良い」
「何が」
「ここは三階だが、一階までのワープポイントがある。連れて行ってやるから、今日はもう帰るんだ」
秋乃は頬を膨らませ、
「嫌」
何故だ、と言う疑問と同時に苛立ちが起きる。ああ、面倒くさい。
「嫌も何もない、面倒だから言うが邪魔なんだ、帰れ」
「嫌だ!」
まったく、
「何がここまで君を駆り立てる。態々危険な場所に来る必要もないだろう。此方に他者を守りながら進む余裕なんてないんだ」
「わ、私には魔法があるから――」
「大丈夫だと? ろくな訓練もしていないだろう?」
正確に言うのなら、未ださせていないだけだ。無論、会合の長が言うことである以上面倒を見る積りはある。だが、今は駄目だ。
――皮肉だな。
湊は内心で己を嘲笑した。自分だって訓練は実践以外では行っていないのに、相手には訓練を行っていることを求めるなんて。
「ともかく今回は無理だ。他人を同行させてはいけない依頼なんだ。約束を破るのは良くない」
約束を破ればこの地帯は軒並み全滅と言う悪夢だ。嫌になる。
そこまで聞いた秋乃は不満げに口を結んだ。
「馬鹿ッ……!!!」
湊は頭を抱えた。どうして今自分が罵倒されているんだ、
「湊の、湊の、湊の大馬鹿野郎!!」
眼前の秋乃がそうはき捨てて脱兎のごとく駆け出していく。あ、と、湊は手を伸ばす。
「そっちは逆だ、戻る先はこっちだ!!」
ああもう、と、湊は駆け出した。
〇
秋乃も分かってはいた。湊の言うことが。自分よりよほどこの手のことをこなしている湊が駄目だというのなら本来は駄目なのだ。
だからといってそれを納得できるかどうかはまた別問題の話だろう。秋乃にしたならば一つ礼をしたくて危険な中踏み込んできたのに、にべもなく帰れと言われただけだ。
客観視すれば秋乃の方が無茶苦茶で、筋が通らない。だがその感情を納得して飲み込むには十代の少女にはまだ無理であるのも当然の話。良くも悪くもまだ視野が狭いのだ。
――あそこまで強く言わなくたっていいじゃないか……!!
故に秋乃が行ったのは自己弁護だ。多少の非は認めつつも、自分は悪くない、と。
「っ……あう」
唐突に衝撃。足元が不安定になり、転倒。まともな体裁きを学んでいるはずもなく、派手な音を出して倒れこむ。
「痛……い」
小さく、声が出る。
――何やってるんだろう。
痛みが思考を狂わせる。
――勝手にへんなことして怒られて――
考えても考えても思考は纏まらない。
――馬鹿みたい……。
「う、うぅ」
双眸に熱いものが伝ってくる。処理し切れなかった感情、行き場を失ったそれが涙として外界に排出されている。
「ぅぅぅううううう」
子供みたいだ。もう高校生にもなってないてしまうなんて、でも、でも、
――仕方ないだろう。
ここ数日張り詰めていた何かが切れかけている。普通の高校生が本来経験することもないことを経験して、それを共有できる人物には邪険にされ、自分の中だけで完結させることなんて出来ないし、それを行うだけの経験もないのだ。
嗚咽。
もうどうにもならなかった。決壊した堤防が水を堰き止められないように、涙と声が流れ出す。
感情の、発露。
〇
新鮮な獲物がある、と一体の悪魔が思った。
通常魔界ではなく現世において悪魔が肉体を持ち続けるためには生体マグネタイト――通称MAGと呼ばれる物質が必要になってくる。
ならばMAGとはどのような物か、曰く感情が起きる際にできるエネルギーだと言う。喜怒哀楽だとか愛憎だとか、そういった感情から作り出される。
悪魔にもMAGの好みと言うものはあるらしい。楽しいMAGが好きな者だとか、その逆であるとか。
では人の恐れを好む悪魔にとって悲哀の感情はどう見えるだろう。
――ウマソウナ、エサダ、
曰く、悪魔がもっとも手軽にMAGを回収する方法は――人を殺し、恐怖の感情を絞ることらしい。
だから、と悪魔は思った。
泣かせて、泣かせて、泣かせ続けた果てに殺せば、きっと上質なMAGが手に入るだろう、と。
〇
「糞、どうしてこういうときだけ足が速いんだ」
湊は走りながら悪態をはいた。
秋乃が逃げるようにどこかに行き、それを湊が追いかける形になっているがどうにも追いつくことができないで居た。
――どういうことなんだよ。
控えめに言おうとも、足の速さで言えば湊のほうが速い。悪魔を殺したときに奪取する不活性MAGの摂取量の違いのほか、男女の性差を含め、湊が秋乃に追いつけないということはまずありえない。
「まさか」
故に一つの思考が湊の頭に浮かんだ。
「異界そのものが変化している……?」
馬鹿馬鹿しい、と断じようとして、戸惑う。湊にとっての異界や悪魔についての知識は基本的にゲーム情報だ。
薄れ掛けた記憶では絶えず変化する異界と言うのものはありえなかった。
だが、今、ここは、
――現実、だ。
荒唐無稽と切り捨てることなど到底できるはずがなかった。
無論それ以外の考え方もある。だが、少なくとも現状においてそれ以外を考える余裕がなかった。
「ならどうする」
その思考が正鵠を得ていたとして、ならばどう行動するのがよいか。
「考えろ」
最悪のパターンは悪魔が出たときのことだ。
自分はどうにでもなる。だが、秋乃はどうなる。まず生きられないだろう。魔法がどうとかではなく精神的な面での覚悟とでもいうもの。内面において確定付けられなければならない行動指針が未だ秋乃にはない。
もともと巻き込まれただけの少女に戦う覚悟を決めろなどといえるはずもないし、そんなことをいえるほどたいそれた存在でも湊はない。
しかし少なくとも湊には行動の指針が合った。基本的に殲滅、それが湊の悪魔に対しての行動指針だ。例外を除き、NeutraもLawもDarkも関係なくすべて敵として排除することが第一項に存在する。故に湊は迷わないし戦えるのだ。
だが少なく見積もって、秋乃にそういった思考形態があるか考えたときそんなものはあるはずがないしあるほうがおかしい。
故に現状で秋乃が悪魔と対峙したとき戦えるか否かで言えば、
――まず無理だな。
戦えるような状態ではないはずだ。
「急がないと」
湊は、走る。
〇
湊の思考には一つ抜け落ちているものがあった。行動指針ではない。思想の根幹、それがなかった。
つまり芯がないのだ。機械人形をプログラムで動かしているのと大差がない。極論、歯車で構成された絡繰人形と同じといえた。
本来人が己の大黒柱として持つ主体性がそこにはないのだ。
人によっては悪魔を殲滅するという行為が湊の主体に見えるだろうが、否だ。例えば車を動かすとする。ハンドルを右に切れば車は車体は右に、左なら左に動く。だが、湊には何故車を右に動かすか、とそういった思考が抜けているのだ。信号があるから止まるとか、行き先が右方向だから右に動くとか、そういったものがまったくない状態で車を動かしている。故に現状湊はただなんとなくアクセルを踏んでいるだけの車と大差がないのだ。
そしてそれに気付くのは――、
〇
「は、は、は――」
秋乃は駆けていた。もと来た道をただ真っ直ぐに。
だが、その道筋に出口は見当たらない。
後方からは怖い物が迫っていた。人は通称それを『死』と言う。恐怖の行き着く果て、終着点。
人、否、生命を持つ存在は本能的に死を忌避する。もしも死を逃れようとしないならば、生き物は毒を平気で喰らうだろうし、怪我でもどうと言うこともなかったであろうし、そもそも恐怖と言う感情とは無縁だったろう。
だが、生命は恐怖する。死を、終焉を。
其れは暴力だった。圧倒的な力を持って秋乃を殺そうとする、純粋な暴力の塊だ。
秋乃はそれを直視する余裕もなかったが、それでも少しだけ見えたのは、蛇の頭だ。一つではない、複数の蛇の頭。鈍く光る眼光が、唾液で光る牙が、秋乃を『死』に引きずり込もうと追い掛け回している。
――嫌だ、
秋乃は思う。強く。
――死にたくない、死にたくないよ。
もしかすれば、本来秋乃は死んでいた人間だったかもしれない。だが、今は生きている。
折角つかんだ命を手放したいと思う者がどこにいるものか、
――誰か、
「助けて」
〇
悪魔の目論見は結果として正しく機能した。目の前の小娘は追い立てるだけで上質なMAGを放出している。
――ム……。
だが、枯渇しない資源など存在しない。たとえそれが人の感情でも。小娘から悪魔の好きな感情の放出が少なくなってきている。
――シオドキ、か。
もう少しだけ搾り取りたかったが、絞りすぎて滓になられても困る。諦めの果て死の恐怖すら捨てられても悪魔にとって良いことではない。
何だかんだで一番なのは美味いところだけを食べつくす。これが最上だ。
それにしても、と悪魔は思い返す。あの男は一体なんだったのだろう。この異界に存在する異物の片割れ、男の気配。
正確に言うならば気配は男だが人と言うにははばかられる存在。
ただ淡々と悪魔を狩り続けた気狂いとも言える存在。入り口付近で悪魔を嗾けさせたが、その感情に轍一つ起きない水平なままに異界を踏破せんと差し迫ってくる。悪魔にとって理解の埒外にある何か。
――ソレト、
この力をよこしてきた存在も少しだけ気になるといえば気になる。
異界への干渉とは難しい。そもそも異界化とは意図して起こる現象ではない。幾つかの条件が折り重なり、初めて異界は現れる。無論儀式等で異界化を促進する要素にはなりえることはなりえるが、異界へ干渉できるかどうかで言えば其れはほぼありえない。一部の上級悪魔ができるかできないかだろう。
だが悪魔に渡された力はそれを可能にする力だった。異界そのものを作り変える力、とでも言い換えようそんな不可思議ではあるが、便利な力。それを簡単に渡せるほどの存在ともなれば気にはなるが、
――マア、ドウデモイイカ。
結局のところ其れは思考を占めるほどの存在ではない。
今は目の前の餌が重要だ。
もう悪魔にとって小娘はほとんど好きMAGを吐き出さなくなっている。おそらくは疲れによる思考の麻痺、あとはだんだんと諦観が生じているか、だ。
――ソウダ!
もう殺してしまってもいいだろう、と鎌首を擡げたところで悪魔は面白い事を思いついた。
――セッカクダ、サイゴマデオイシク。
ほんの少しだけ希望を見せてやろう、と悪魔は笑った。
〇
――これは!?
湊は確かに感じた。世界が変革する感覚だ。
――異界が変貌した、のか……!?
〇
秋乃は疲労で頭が鈍りながらも、なんとなく体感した。其れは魔力を操る力を持っているからだろう。
肌で、何かが揺らいで、消えた。
〇
悪魔の策は簡単だった。小娘にとって生存の希望を見出させ、それを奪うことで最後の仕上げと使用とした。
故意的に引き合わせ、引き離す。単純で悪辣なやり口だ。
――アア、イイゾ。
悪魔は策が成ったことを思い、喜悦を浮かべる。
〇
「秋乃ォ!!」
湊は叫び、手を伸ばした。眼前の少女に。
「え、あ――」
少女――秋乃はそれに気付き手を伸ばす。
そして――、その手の距離が遠ざかっていく。
――何が!?
物理的に離れていく距離、顔が見えた。秋乃の顔だ。何もかもが無くなり絶望を浮かべている。
声、
「湊――」
かすれた声で、鳴くように、
「――助けて」
小さく、声を上げた。
――分かっている。
湊は思う。ふざけるな、と。
極めて悪辣なやり方だ。卑怯と罵る積りは欠片もないが、秋乃が死ぬと困るのだ。約束を違えてしまうから。
だから絶対に助け出さなければならない。
――畜生。
だが、どうにもならない。慈悲もなく距離だけは離れていく。
――畜生。
思考が廻る。ある種のトリップ状態。その思考の行き着いた果てに、思い出す。
――ノルンの鍵!!
どうにか成るとしたもう、これしかなかった。悪あがきだ何て考えなくても分かることだった。だが困ったときの神頼みともいう。ならば運命の女神の名を関す鍵にすがるのは自暴自棄の行動として正しいのだろう。
だから、叫ぶ。
「世界を救う鍵なら――、この程度の異界どうにかして見せろ!!」
其れは無理難題だった。文章として曖昧で支離滅裂。それでももう湊にはそう叫ぶほか、思考を割く余裕などありはしなかった。
〇
本来悪魔と人間のハーフが持つべき道具の其れは、ただの人間でしかない存在の声に、確かに応えた。
もともと人間の世界と魔界を繋ぐ力を持つ鍵、世界と世界の狭間を潜り抜ける力は限定的にだが、その力を発揮する。
サークルゲート――、世界を繋ぐ門は存在せず魔界に通じる穴は開かないが、現時点でおきている空間の解れを正すことは出来る。
――世界を正しく――
回さなければ成らない、と。それが世界の正しい在り方ならばこの世界を正しく書き換えなければならない。
無論異界を元の世界に戻すことは出来ない、だが本来の異界の姿に戻すことは出来る。
異界の上に書き上げられた異分子を解除、
――世界は正しく――
回りだす。
〇
湊のCOMPが青白く光りだす。強く強く、世界を覆うほどに。湊は目をつぶる。
〇
「ああ、選ばれてしまいましたか」
白い男は虚空に呟く。普通ならば感じることもままならない波動を、肌で感じて。
「成程成程」
ただ小さく、呟く。
〇
目を覆うほどの光、それが引く。湊は目を開いた。
眼前に、
「秋乃!!」
そこには座り込む秋乃が居た。
「み、な、と――」
心底の恐怖と、それで歪んだ表情がほどけていくのを確かに湊は見た。
だがそれとは逆に、
『ナニガ――』
戸惑いを見せる存在がそこには居た。悪魔だ。黄色い瓢箪のような体躯から青い蛇が這い出ている。『邪龍』トウビョウ、そう呼ばれる悪魔だった。
「種は割れたみたいだな、悪魔」
湊はトウビョウに殺意を向けた。ここまで梃子摺らせた礼はしなければならない。
「殺す」
そう宣言した。