既に昼の帳は落ちかけ、夜の色が街都に差し込んでくる。境界線がある。昼と夜、二つが交わる唯一の境界線。
湊は呆然と立ち尽くしていた。ほんの数瞬まで、眼前に相対者がいたとは感じさせない。そうだ、そこには何も居なかったとすら錯覚させた。
だが、右手に握っている金属の感覚だけが否が応にも現実を理解させてくる。青。透き通るほど美しい青が、鍵の形を成して右手にある。偽物の可能性だって考えられた、だが、だと言うのに、これを偽物を思うことは不思議にも出来なかった。心の、魂の底からこれが本物であると理解してしまった。
ノルンの鍵、女神の名を持つ鍵。これはとある物語において重要な柱を担った道具だ。明星の血を半分引く子供が世界を救う――否、選択をするために使った鍵。世界を廻り、世界の命運を決定付けるための鍵。
何故、こんな、と湊は息を吐いた。どうして己がこんな大層なものを持っているのだ。
これを使って世界を救えとでもいうのか――、
「馬鹿らしい」
馬鹿の極みだ。
だが、少なくともこんな物を渡してきた以上、何らかの意図があるのは明白である。
何をさせたいのか、は理解できないとしても、何かをさせたいというのは理解ができる。ならば、
「やってやるさ」
暗闇の中で、唯足をもがかせる時間は終わった。
今、この手にあるものは浮草であるかもしれない、だが、それがどうしたという。零ではない壱ならば、やりようもあるというのだ。
湊はCOMPに手をかけ、仲魔を強制的に引き戻す。
『ドウシタサマナー』
「ああ、手がかりがつかめた、と言えるかどうかはわからないが、少なくとも一歩は前に進んだろうよ」
『ホウ』
こいつだ、と、湊はノルンの鍵をCOMPに収納してみせる。
『コレハ――』
「驚いたか? 俺もこんな物を渡されたときは驚いたよ」
『ドコデテニイレタ』
「さっき、な、ロートの仲間だそうだ。あんな破綻者に仲間がいたのも驚きだが、今はどうでもいいことだ。これを渡した男は、これを使えと言っていた」
『シンジルニハフカクテイヨウソモオオイガナ』
ああ、と頷くが、
「だが、たとえ騙されていたとしてもやらないよりはマシだ」
『マア、サマナーガソウイウノナラバ、ヤラヌホカナイ』
面倒くさそうにギャリートロットが言う。
「そう言う事だ」
『マア、ソレハイイガホウホウハドウスル?』
阿呆が、と湊は呟き、
「今からそれを考えるんだ」
『バカカキサマ』
「何を言っている。お前達も考えるんだよ」
『……』
『――』
言葉に、呆れと絶句が返答として戻ってくる。
「言いたいことがわからないでもない、が、言うだろう? 三人寄れば文殊の知恵――」
『ヒトリトニヒキノマチガイダ』
『サマナー、ヤスメ、サイキンキバリスギテアタマガクサッテイル』
散々な言われようだが、知ったことではない。
「良いか? 時間がないんだ。ならやるしかない。それだけだろう?」
『アアダメダ、ホンカクテキニノウミソガヤケテシマッタ』
煩い。
「年中顔を燃やしているお前に言われたくない、ヘルハウンド。さて、無駄口は終わったな? なら始めるぞ、『時は金なり』だ」
〇
夜、闇が光を消して、明りを灯した。ともすれば、その明りは文明の明りに他ならない。美しいか、そうではないかは人により意見が分かれるが、美しいとは思えない、秋乃はそう思った。祖母の家で空一面の星空を見たことがあるからか、それとも本質的に自然なものを好きになる気質か、其れは秋乃自身でも理解の及ばない部分だ。
「ああ、もう」
何で自分はこんな夜も更けぬ町を歩いているのだろう、秋乃は思った。
夕食を食べ、いつもなら宿題を行い、そして少しだけ美容のために部屋の中で出来る軽い運動をして一日を終えるはずだったというのに、今いるのは繁華街に程近い距離の住宅街だ。両親には散歩と言い含めてある。普段、行儀よく過ごしているから悪いことをするとは思われていないらしく、普通に了承を得ることができた。そうだ、だから何の問題もない、とは思うが、感情の面に暗いものを落としているのも確かだ。
別に疚しいことをしているわけではない。むしろ、その逆、と秋乃は自分に言い聞かせる。だってそうだろう、ただ礼を言いたいだけなんだ、どうして疚しいと思う必要があるのか。だと言うのに、自分が行っていることはひどく悪いことに思えた。
「何でこんな――」
細かいところばかりに気が向いてしまうのか。湊にあって、礼をして、終わり。それだけの簡単なことを、どうして難しく考えるのか。
「やっぱり、明日――」
考えてみれば、こんな夜に出歩いてすることではない。むしろ明るいときにあって少しだけ時間をもらって後は礼をすればいいだけだ。
そこで、見た。
男の影だ。いつもならば簡単に見失ってしまいそうな影を、秋乃は即座に視界に納めた。
「あいつ」
湊の影だ。確信する。
「何してるんだ、こんなところで」
自分のことを棚に上げて、そう思った。
腹が決まる、
「行こう」
自分の大胆さに、少しばかり驚いた。ああ、しかしこれも、自分だ。
秋乃は湊を尾行し始めた。
〇
「ここか」
湊が歩き、着いた先は市街の最北端に位置する電波塔だった。指し示すのはCOMP、と言うよりはそこに納められたノルンの鍵。理屈は分からないが、センサーの役割を示しているらしい。振動がそれを伝えた。目標の一定方向に進むと振動が大きくなっていく。
――拍子抜けだな。
あっさりとたどり着いたことにほんの少しの違和感と――、小さな失望。
「馬鹿が……」
期待をしていたとでも言うのか? 敵が出てくることに。
――言われたとおり、本格的に頭が腐ってきているのかもしれないな。
大分、荒事になれ、思考がそちら側になってしまったとは言え、無駄な争いは本来ないに限るはずだ。
まあ、いい、
「……魔のものに引き寄せられたのか?」
どうだろうか、と思考する。そもそもこの鍵自体が魔に属するものだろう。関係ない、と湊は頭を振った。魔とかどうとか、そういったものは今関係がない。
やることは唯一つ。いつもと同じだ。敵を斃す。礼をされるわけでも、褒め称えられるわけでもない、世界に理解されない場所でただ掃除をするように敵を殺すのだ。
肉体に力を入れた。
既に装備は身に纏っている。夜のための暗視スコープと、バックパックと、武器と、旧第三帝国SSの軍服。漆黒、闇を衣服にしたような、黒いコート。第1SS装甲師団の軍服。身体に良く馴染むほど、着慣れた。
「歌おうか」
気分の高揚、何故これほどまで高揚するのかは理解できないが、
どうしてこれほどまでに昂ぶるのかは理屈で説明できないが、
ただ、声を上げたい。
だから歌う。SS marschiert in Feindesland――親衛隊は敵地を進む――。
親衛隊の軍歌を高らかに、そして音高く軍靴の足音を響かせて、そして制圧するのだ。
翻るのは闇。黒いオーバーコートが、湊の後ろに闇を作り出す。
〇
「ああ、当然のように異界化している」
電波塔は有名な東京タワーのような観光資源ではないから、精々管理者が定時に入り、定時で帰るぐらいでしか人は入ってこない。とは言え、完全にコンピューター管理と言うわけではないから交代要員が存在する。
「まあ、死んでいるか」
眼前に巨大な空間がある。外観を無視し、法則を捻じ曲げた。異界と言うにふさわしい。
意識を尖らせ、一歩。
音、音、音。
「手厚い歓迎だ。実に」
闇から出でるのは、悪魔。強さはあまり感じさせないが、数はある。
「モコイ、ヒッポウ、それにオバリヨン、ペナンガルにアズミもいるか」
闇から蠢いて、形を成してくる。
馬鹿め、と湊は呟いた。
「数をそろえれば良い、と? 馬鹿みたいだ。いや、馬鹿にされているのか? どちらでも良いか」
そう、どちらでもいいんだ。
やることは唯一、
手をかけるのはボウガンだった。何度も視線を潜り抜けた相棒だ。
手に馴染んだグリップを手で包み、もう片方で矢を番える。淀みのない手際は何度も使い、使い慣れていることを証左する。
照準を合わせ、トリガーを引いた。鎧袖一触、貫いたのは頭頂部。
「流石だな」
DDS-NETで知り合った能力者に加護を与えられた、対魔の力を宿した矢は容易く悪魔を撃ち殺す。
威圧が来る。当然だ、仲間意識があるかは別として、目の前で殺しが行われたのだ。理不尽に、命を奪われた。
それをまだ行おうとしている輩がいる。生命として当然の意識。死への嫌悪。
故、反撃を行おうとするのは当然の帰結。
悪魔が湊ににじり寄る。四方八方、取り囲み、逃げられないようにして殺す。
肉を裂き、腸を貪り、魂まで吸い尽くさんと、
だが、湊はそれを意に介さない。
「阿呆、一思いに此方を殺しにかかればいいものを」
湊が胸元から取り出したのは、手のひらより少しばかり大きい球体だ。球体の上部、留め金に湊は手をかけて引き抜く。
「やるよ」
軽い調子で放り投げられたそれは死の匂いを一切感じさせないもので、――だから、悪魔達は対処が遅れた。
光が、音が溢れた。強烈な閃光と炸裂の音が目を耳を、そして頭蓋に激震を叩き込んだ。
何もが混乱する中で、影が動いた。倒れこむ、敵。おそらくはあまり光に強くない手合いが閃光に目を焼いたのだ。
一息。そして、周囲を見やった。数だけは多い、と思う。
「選り取り見取り、入れ食いだ」
機械的に、精密的に腕を動かしながら、矢を射る。芸術的にも思える動作を持って、ただ無意味に命を刈り取っていくその姿は、死神を想起させる。
いな、今、ここで、湊は悪魔にとっての死神だ。
「そら、逃げねば死ぬぞ、俺が殺すぞ」
余裕を持って敵を殺すから、声も弾み詩を韻ずるように高らかに、
「とは言え、時間もかけていられないか」
腰元、COMPに手をかける。最早見もせずにその動作をこなすことができた。
「さあ、来いよ『ヘルハウンド』『ギャリートロット』」
地に五芒星が二つ、発色する光が描かれる。暴風、円形の螺旋を描き砂塵が巻き上がる、やがて収束。また、悪魔が現れた。しかし、其れは湊を害するための存在ではない。
首から上、青白い炎を上げる妖犬がいた。
手に刺さるほど硬い毛を持つ人面の獣がいた。
湊はその姿を見もせずに、一言、
「殺しつくせ」
二つ、吼える声、ともに新たな暴力が場を荒らしだす。
妖犬が飛び上がる。本来の犬ならば有り得ないほどの跳躍で、天井に衝突するほんのわずかの距離まで飛翔。口には青白い炎が渦を巻いていた。解き放たれる。炎が、敵を焼き尽くす。逃げられるものはいなかった。たとえあたらなかったとしても其れは逃げたとはいえない。ただあたらなかっただけであり、逃げたというには語弊があるからだ。そして其れが正解といわんばかり、追撃の火炎が所狭しと巻き起こる。絨毯爆撃に等しい火炎が敵の肉を焼き、骨を焼き、魂を焼いて回る。
『タイクツ、タイクツスギル』
ヘルハウンドが吼えた。ちっとも楽しくない、と、不満を露にし、しかし湊はそういうな、と、
「いいじゃないか、MAGだってただじゃぁないんだ、こう雑魚が集まってくれるなら此方としても助かるだろう?」
『ゲンドガアルゾ、サマナー』
呆れた声を上げるのはギャリートロット。ヘルハウンドほど戦いが得意ではないからだろう、弱っている獲物の喉笛を噛み千切り、止めを刺すだけにとどまっている。
「さ、無駄口を叩いていないで殺してしまえ、此方も時間がないんだから」
数の暴力を、ただ無視して突き進む。
確かに数は怖いかもしれないが、突き詰めてしまえば質の暴力が勝てないなどと言うこともない。武器も防具もない存在に、銃を向けるのと同じだ。
だからきっと、これは戦闘とは口が裂けてもいうことは出来やしない。
故にこれは虐殺――ホロコーストと言うものなのだ。
〇
悪魔には何が起きているのか、自問自答しても、その問いに正しい答えが戻ってくることは無かった。
あるのは地獄と、痛みと、かき乱される心のみ。
「ううむ、そろそろ範囲攻撃の出来る道具を仕入れるべきか?」
『フツウニヤッテイテモ、カナリコロシテイルゾ、サマナー』
「だが、な、やはり効率的に考えれば今のままでは少し骨だ」
ここは鉄火場のはずだった。だが、それを感じさせないほどに目の前の存在は悠長に構えてる。否、悠長なのは見た目だけだろう、肉体は熟練のそれのように動き続けている。
――ナゼ、
薄れていく思考が再度、問う、
――ナゼ、オレガコンナメニ!?!?!?
そうだ、どうして自分は倒れているのだろう。
相手は、人間だ、人間のはずなのだ。脆弱である、惰弱である、脆く、儚く、そしてMAGを供給する餌でもある。そんな存在が、まるで己の上のように殺しを行うのだ。有り得ないではないか――、そうではない、『有り得てはいけない』のだ。
其れは法則への反逆で、其れは定められた定理への否定である。
だから、本来この構図はあるべきではない――、
声、
「ようやく数も減ってきたな、まったく、矢とて金がかかるんだから、もう少しわきまえて欲しいものだ」
『ドウイウコトダ』
「ベストなのは、案山子のように突っ立ってくれているのが一番だ」
『バカヲイウノハヨセ』
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
――アアソウカ、
おぼろげな思考が一つの答えを思う。
――アレハ、ニンゲンデハナイノダ。
人間ではない。ならば、あれは、なんだろう。
――バケモノ、
人の姿をした、化け物だ。
悪魔とも人間とも違う理不尽の権化。そもそも、あれからは熱を感じないのだ。感情の起伏、とでも言い換えようか、行動に伴う感情の熱量。きっと、殺すと言うことに何も感じていないか、それとも心の奥底では此方を殺しているという自覚がない。精々良くて自分達は的当ての的と同等くらいの物質程度にしか見られていないのだろう。だから淡々と此方を殺してくる。例え楽しそうに歌おうと、其れは薄っぺらい表面上のもの。歯車がかみ合ったとき生まれる摩擦熱、それと同じ。殺しに興奮しているわけでも、快楽を感じているわけでも、嫌悪しているわけでもない。当然だからそうしている。健常者が健常であることに無感動であることと同じだ。
――カテルワケガナイ、カ。
そこで思考することを止めた。もうこれ以上何かを考えたところで何も好転することはない。
――アア、デモ、
もしも次があるのなら、出来ればあれと敵対したくは無いな。
勿論次などあるわけがない。今、ここにいる悪魔は所詮コピーでしかない。異界にある本体の写し。だが、ここに居る一体の『悪魔』の意識はここで死ねばもう蘇ることはない。だから、ここでこの悪魔の生命は終わる。
――ア、
ふと、思った。悪魔の自分が、何かに祈っている、と。
最後に少しだけ笑った後、悪魔の息は無くなった。
死んだのだ。
〇
「うう、何か、いやな感じ」
湊の後をつけていた秋乃は己の身を抱いて怖気を抑えようとした。今は夏ではなかったのか。異常気象で真冬並みに温度が落ち込んだか、馬鹿なことを考えるものだ、と自嘲。気温じゃなくて心底寒気を感じているだけだ。
「やっぱり悪魔関係なのか?」
常人には一笑を持って切り捨てられるだろうし、数日前ならば自分も切り捨てる側に存在だったのに、今は笑われる側の住人になってしまったことにどこか薄い笑いを吐き出し、しかし前に進む。
そこは電波塔だった。何の変哲もないが、それゆえに普通であれば立ち入ることもない場所だ。
悪いことをしている気分になる。
――怖気。
扉を開き、中に、
――寒気。
身を入れて、
――恐慌、
「なん、なんなんだよ、これ」
立って居られなくなって、秋乃はしゃがみこむ。
吐き気を覚え、胸が苦しくなるが、我慢。無理やり押さえ込む。荒い吐息、呼吸を落ち着かせ、
「何があったって言うんだよ」
魂魄を掻き回されるような、いやな錯覚を覚え、当たりを見渡す。
まず戦闘の余波があることを確認した。床が抉れ、壁に皹が大きく出来て、今にも崩れそうに思える。焼ける匂いもまた感じた。物体が焼け焦げて隅になる独特の匂い。気分が悪くなる。
「やっぱり、湊だろうなあ」
思考の隅に帰宅すると言う項目が現れ、しかし、
「毒を喰らわば皿までだ」
気丈に、前に進むことを決定した。子供のそれだった。大人なら手に負えないことはしない、適材適所とするだろう。だが、秋乃はまだ子供で、賢者には到底程遠い。大人になれば自分の限界を知りえるそれを、若さは可能性だからと見切ることができない。
だから、無謀を承知で秋乃は進むのだ。其れはきっと意地。出来ることは何でも行おうとしてしまう可能性への挑戦で、愚かな選択肢。愚者のあり方だ。
ふと秋乃は気づく。自分も結構馬鹿だな、と。
〇
異界の部屋、悪魔を殺しつくして無理矢理平和を確保した一室に湊は居た。電波塔の異界にある部屋はどれもコントロールルームの様相だが、画面はついておらず電源が入っていない。光源は持ち込んでいた懐中電灯のみだが、ほんの休憩をするのには丁度良かった。
部屋は正面左右に画面が存在し、それに伴うように一つずつ、計三つの椅子があった。湊は椅子の一つを乱雑に動かし、扉の近くまで持っていき、乱暴に座る。
「拍子抜けだ」
矢鱈に増え、行く先を妨害する一室。屍の山を気づきながら湊はそう呟いた。
悪魔が弱いのだ。二級線の悪魔ばかりが徒党をなしてくるような、そんな感覚、
「気のせいならいいが」
あっさりしすぎていることに、罠を感じてしまう。
「主が強い、と言うこともないだろうし」
基本的に異界の悪魔の強さに突出する存在は居ない。異界の主も精々そこらの悪魔より強かったりする程度が基本だ。例外も存在するが、あくまで例外は例外でしかない。
「何が目的だ。何を考えているんだ」
ロートについて思考する。
狂人に対して考えることなど無駄の一言かもしれないが、それでも思わずには居られない。矮小な自身の枠に収めようとしているというのならば言えば良い、都合がよくてもいいから法則性の一つでもあれと思うことの何が悪いと言うのか。
ポケットに手を突っ込む。携行食を取り出し、パッケージを開いて口に運ぶ。チョコレートとキャラメル、ダメ押しにクッキーとピーナッツバターも加えて構成されたカロリー過多のチョコレート菓子は普段ならば過剰な甘さに嫌気の一つも感じるが、煮詰まったときには逆に過剰な甘さが良い塩梅で口の中で融けていく。少しばかり蓄積していた疲れも、甘味に解かされ、次に感じたのは喉の渇きだ。ゴミになったパッケージを握りつぶして、ポケットの中に放り、代わりに取り出したのはブラックの缶コーヒー。一気に喉に流し込む。現代の技術力を持って、濃縮された苦味が下を通り、下っていく。
「苦い、な」
コーヒー好きには認められないだろう、ただ苦いだけで味に深みも何もないブラックコーヒーを一息で飲み干す。しかしその苦味が心地よい。
「さて」
COMPにあるMAPアプリケーションを起動した。道順を確認し、効率的な制圧を行うためだ。
――今のところ、漏らしはないが、
とは言えここは異界であり通常法則は無視されるところだから、入りもらしかどうかはまだ分からない。
現状、異界は三階まであった。部屋は一フロアに幾十も存在。助かるのは、入り組んだ構造ではないことだ。迷路のようになっていれば時間のロスは免れない。
――そう言えば、敵も弱すぎる。
十派一絡げの雑魚が、乱雑に現れてくる程度。少し驚いたのは最初に物量押しできたことだが、それもどうとでも対処できるレベルの敵でしかない。
――何を考えているんだ、あの男は……???
思い、歯軋りした。厭味な顔の男が目に浮かんだ。あの糞愉快犯め、と心の中で詰り斃す。思考がずれた。思考を修正。悪魔の弱さに関してはまだ次のことがあるから決定は出来ない。順繰りに強くなっていく仕様かもしれない。
「……考えても無駄、か」
もう一度MAPを軽く確認して、閉じる。入り逃しがないのなら、今はそれで良い。
立ち上がり深呼吸。
小休止は、もう終わり、行こう。
意味はないが、律儀に椅子を元の場所に戻し、外に出ようとして、足音。
――人!?
悪魔が地を踏みしめる音ではない。
――能力者が調査に来たか……?
会合に休暇を伝えているから、別の誰かがここを調査士に来てもおかしくはない。
――どうにかして帰ってもらうか。
今、この状況でしゃしゃり出てこられても、困る。多少手荒になっても『誠意』を尽くして帰ってもらうほかない、と決定し。
息を呑む、まず、呼吸を整えた。
――三、
足元はどうにも素人くさい。戦闘をしているわけでもないのに気配を消す努力をしていない。強く言えば帰ってもらえる輩か、
――二、
ならば、ボウガンを突きつければ問題はないか?
――一、
多少、己の評判は落ちるだろうが、それを気にする余地はありはしない、殺せないほどの敵に跋扈されるよりはましであろう。
――零、
思考はまとまった。
ドアを蹴り飛ばし、外に出る。
「止まれッッッ! 動くと殺すッッッ!!!」
一息に、吐き出す。
だが、湊は即座に呆けた。目を疑い、相手が自分の知っている存在だと認識していた。
「お前は――、何故、ここに居るんだ!!」
居たのは、女。
自分が裏の仕事を教えるために預けられた、少女。
「秋乃ッッッ!!」
情けなくも、半泣きの少女がそこに居た。