急激な頭痛とともに意識は浮上した。締め付けるような痛みにうめき声を上げ状態を起こす。
肉体は汗にまみれていた。体に服が張り付いていて気持ちが悪い。
――シャワーでも浴びるか……。
立ち上がろうとして、しかし崩れた。
音を立て床に伏せる。声が出ない。まるで自分の肉体ではないかのように体のコントロールが覚束ない。
吐きそうになる感覚を抑え、息を整え、力を入れて立ち上がる。
「うぅ……あ」
うめき声、そこからさらに深呼吸。
そして、ようやく男は違和感に気づいた。
「ここ、どこだよ」
そこは見慣れた部屋ではなかった。
鏡があった。
顔を見る。それは見慣れた顔ではなく、誰か別の物だった。
肌は艶がなく、青白い。目には生気がなく唇は乾燥しており、目元の隈がひどい。髪は乱雑に伸ばされているが手入れされた様子はない。
総じて、不健康と言える。
はは、と乾いた笑いが漏れた。
「なんだよ、これ」
頭が回るまでは、数十分の時間を要した。
〇
部屋はこぎれいに片付いていた。おおよそにして八畳程度の広さの部屋だ。
窓側に机が配置され、ドアの横に本棚がありその隣に服をかけるラックと箪笥があった。テレビ等はない代わりに、机の上に存在感を放つようにPCがある。私物や無駄なものが少なく簡素と言えば聞こえがいいが、どうにも生活感がなく不気味に思えた。
脇には小さな目覚まし時計があった。時計はデジタル式で月と日付を表していた。時計は二000年六月二日金曜日、時間は十二時を示している。学生や社会人なら特別なこともない限り遅刻と言ってよい。
制服には皺がなく、きれいなままハンガーに掛けられ、机の脇には埃のかぶった鞄がある。机の中はきれいに整頓されていたが、無造作に置かれた封筒には二十万ほどがない風されていた。すぐに戻し、見なかったことにする。
そして、最後、目に付くPCがレトロな一品で九十年から二千年代最初期あたりに存在したであろう古い型のノートPCだった。
男は、悪いと思いつつもノートPCの電源を起動させた。
起動には五~六分程度の時間がかかったが、いくつかの情報もその間に手に入れることができた。
この少年の本来の肉体の持ち主は浅木・湊(アサギ・ミナト)と言う。証明写真に写る写真は、鏡で見たよりも血色は良かったが、それでもあまり積極性のある顔には見えない。どちらかと言えば内向的な性格だと推測できる。
年齢は十六、高校一年生。制服の胸ポケットから出てきた。家族構成は両親と妹及び姉が生徒手帳の家族覧に記載されていた。
鞄の中には真新しいまま数ページ使われて放置されたノートがある。
そして本来は学生であるはずの少年がこの時間帯に学校へ行っていないということはつまるところ、
「ひきこもり、ね」
結局はそういうことだろう。
――何か事情があるのは確かだが。
その事情までは特定できなかった。
いくつか推測することはできる。
まずは虐めが頭に浮かんだ。なんとなくだが、学生が学校に行かなくなる原因としてはもっとも考えやすい。
次は湊少年の頭が残念で、勉強について行けなくなってドロップアウトしたという線。あまり、考えたいことではないが。
と、音がした。PCの起動を認知させる音だ。
ようやくか、と頭を掻きつつ、マウスに手を伸ばす。
「古っ!?」
いわゆるそのOSは窓の2000。骨董品と言っても良いようなOSだ。
息を吐き、手を動かす。
何か手がかりになるファイルはないかと、手当たり次第に漁っていく。
ほとんどがゴミのようなデータの中で、一つのファイルを男は見つけた。
OS備え付けのメモ帳のあつまりで、内容は日記だ。
「ビンゴ」
軽い手つきでファイルを展開していく。
画面を埋めるようにいくつものウィンドウが開かれていく。最も古いファイルから読み進めていく。
もっとも古いファイルは四月四日。最初のうちはただの日記だった。
しかし、四月の十七日を境に内容は豹変していく。
〇
――悪魔が、悪魔が僕を狙っている。
〇
そんな、不可解な、もしくは奇天烈とも言える内容。幻覚でも見てしまったのかと言うような妄言が日記の内容を支配するようになっていく。
そして湊少年がひきこもり始めたのは四月の二十日。十七日からわずか三日後の話だった。
「悪魔、ね」
湊少年の言う悪魔が何かは理解できないが、しかしそれが重要なキーであることはなんとなく理解できる。
そして最後。一番新しい五月の最後、つまり一昨日の日記は既に何かをあきらめたかのようで、内容は遺書のようにも見えた。
――父さん、母さん、育ててくれてありがとう。僕は悪魔に食われて死んでしまいます。
そんな内容。
「あまり、有用な情報ではないな」
私見が多すぎて客観性にかけている。何が起きたかよくできないものを情報とする気にはなれなかった。
とはいえ、いくつか推測できる情報はあった。
まず、湊少年はおそらくバカな方の部類ではない、はずだ。入学して一週間と少し程度の時間なら、まだ慣らしとして中学の復習をしている時期だ。よほど頭のいい進学校なら別だろうが。
虐めという線も考えづらい。制服はきれいで、傷がない。ノートや筆記用具を改めて確認しても壊された形跡がない。
「……」
もしやと思い、服をまくる。アバラの浮き出た細い肉体には傷がない。痣や火傷跡、切り傷等も見受けられない。鏡を使って背中も確認したがその手の傷は一切確認できなかった。下半身も、その手の痕跡はない。
「さて、あとは何か有用な情報は――、そうだ」
マウスを動かし、ふと思い出す。
そういえば、まだ隠しフォルダを探していない。隠しフォルダを使っているかどうかは怪しいとしても、一応探しておくのもありだろう。
先程まで消していたフォルダを再度立ち上げ、隠しフォルダを探していく。
「――!?」
それは異質なフォルダだった。
『悪魔召喚プログラム』
それが、隠しフォルダの一つに存在していた。
「――め、メガテン!?」
よくプレイしたゲームを思い出す。一般的によくある現代ファンタジーではなく、ダークな雰囲気と設定からコアなファン層が多いRPG。
そのゲームに出てくる用語の一つ。
魔階に存在する悪魔を呼び出す儀式を簡略化させ、コンピュータの知識があれば魔術的素養及び生贄エトセトラがなくとも悪魔を召喚できるようになる。
「おいおい、なんでこんなものが……」
薄ら寒いものが背に走った。
「まさか、まさか、な」
日記に書かれている悪魔がこのプログラムによって"本当に"呼び出されたものだとしたら?
そして意図してかせずしてかはおいておき、召喚した悪魔に喰われたとしたら?
「悪魔は――実在する……?」
ひどい冗談だ。
三文パルプにしても出来がひどすぎる。
「ああ、糞、冗談が過ぎる」
乱雑に伸びた神をかきあげながら息を吐く。
なんの因果で自分が、と悪態をつきつつ、しかし現実は変わらないと理解する。
そうしなければ自分の心が壊れてしまいそうだからだ。
「とりあえず俺は『湊少年』になりきって情報収集かな」
悪魔召喚プログラムの入った隠しフォルダを解除し、パソコンをシャットダウンさせた。
○
リビングはかんさんとしていて、人はだれもいなかった。両親は共働きらしい。
入ってすぐ、そこには台所があり洗われた食器や調味料が見える。そこからすぐ横にある居間自体はそれほど大きくなく、しかし小さいわけでもない。長方形のテーブルにござがしかれていて、座るときはあぐらか星座をする形らしい。テレビは懐かしい厚みを持ち、小さな観葉植物が置かれている。
窓には白く薄いカーテンが柔らかく光を遮っていた。
目当ての物はリビングの一角にあった。ダンボールの中につまれた新聞だ。まだインターネットが未発達の時代に多くの情報を得ることができる情報媒体だ。
ここ数日の新聞を引っ張りだし、記事を探す。
その新聞は一般的な地方新聞で、メジャーなものではなかったが地域ゆかりの情報も多く存在する。
「殺人事件多発、不可解な死因、悪魔絡みか?」
多量の血痕は存在するが死体はなく、服は落ちているが血の跡はない。
「きな臭い、な」
とは言え、まだ悪魔のやっていることとは断定できない。
バラバラになった死体が何処かから出てきてもおかしくはないだろう。
「さて」
気を取り直して記事を読み進める。
「多いな、殺人事件」
数日前の記事だが、猟奇殺人やカルトによるリンチ、他にもいくつかの事件が掲載されている。
この日本の治安はあまり良くないのかもしれない。
「ふう」
息をつき、新聞を置いた。
「まだ、東京大破壊は起きていない」
事件原因となった人物、ゴトウのことは記事には書かれていない。
トールマンのことも。
時間軸的に考えれば、デビルサマナーの時間軸と考えれるかもしれないが。
「そもそもまだ起きていない、という可能性も考慮できる」
ならば、ならば、どうするか。
「方針を考えて、身の振り方を考える」
それが、現在できる最善手。
元の世界に戻ると考えても、死んでしまっては元も子もない。
そして、
「悪魔に関して、だ」
もしも悪魔が野放しにされているのならば、自らはどうすればいいのか。モラルとか、そういう次元の話ではなく、つまり、死なないために。
家族と思わしき人物はまだ死んでいない。
現れた食器や、パソコンの電源がついたこと、いくつかを総合してもそれが理解できた。だが、これからどうなるかはわからない。
見ず知らずの人間が死んでも、きっと何も感じないとは思う。
「だけど、この肉体は高校生のもので」
親がいないと、何もできない。社会的な信用、地位は未だに親へ依存する立場だ。悪い言い方をすれば、隠れ蓑として利用することになるだろう人間を見殺しにするのは分が悪い。
「まあ、高校生をやり直したいと、思わなかったといえば嘘になるし」
それが他人のものとはいえ、青春を再度やり直せる。それが幾億の価値なるかは推して知るべしと言えた。
不純な動機だ、と思うがこれくらいでなければやっていけない、とも思う。
「なんにせよ、情報が足りなさすぎる、か」
主要企業、政治家といった一般的知識、地元付近についての知識、人間関係について、と不足している知識が多すぎる。
まあ高校生だから政治だとかはおいておいても、この周囲一帯の地理すら知らないのはまずい。
「また、ネットだな」
起動時間が長いパソコンに辟易する、溜息が漏れた。
○
梓馬市(あずまし)。北に山、南に海が存在する地方都市。どちらかと言えば賑わっているほうで未だ過疎化の波は小さい。かげりは見えているが。
北側に小学校から高校までが固まるように位置し、それゆえに交流も多くなるようなイベントも学校では多く行われている。
駅、及び主要な施設は市街地のだいたい中央を通るように位置し、学生の多くはそこで時間を過ごすことも多い。
浅木家は南側の駅寄りにあり、高校までは自転車で二十分程度の距離にある。
梓馬高校は昭和初期から存在し、意外と由緒正しき高校らしい。有名人も幾人か排出している。校舎は古いが、無理矢理補強して使っている。格式の高さを表したいのだろう。
地域密着型の企業も多数存在し、どちらかと言えば恵まれた都市、というのが表面上の情報だった。
しかし、最近は殺人事件等の事件や、危険な噂も多く活気が薄れているという声もチラホラと存在していた。
「事件に関しては追々としても、まずは高校には行けそうだ」
あとは、違和感なく振る舞えるかどうかだ。
かつて明るかったとしても、引きこもっている間に性格が変わったとでも見てもらえるように動けば良かろう。
「交友関係がきになるけど、まあ、行ってみなければ分からないな」
携帯電話があればアドレス帳で確認できたのだろうけれど、ないものは確認のしようがない。
とはいえ友人なんているのか疑問だ。一週間と少しで学校から姿をくらましたのだから。
「さて、とりあえずは夜に家族の反応を確かめて、だ、情報があれば引き出そう。引きこもりが外に出ようと努力してると思えば、多少は会話も弾むよ、な?」
そう思い、情報をまとめたメモ帳を保存して閉じ、パソコンをシャットダウン。
ベッドに身を預けた。思った以上に体力は、なかった。
○
夕食時、家族全員がリビングに揃っていた。そこに湊が降りてくると、何か珍しいものを見たかのごとく、目を丸くして、それから家族は予想以上の喜びようで湊を受け入れた。
引きこもりの社会復帰は歓迎されるということか。
「湊、明日は学校行くの?」
食事中に言われ、ぼそりと一言うん、と頷いた時は歓声すら起きるかと思うほどに喜色の笑みを浮かべていた。
そういえば、と思い出したように、
「殺人事件って、今どうなってる?」
問い方がわざとらしかっただろうか、と思うが、会話ができるというのが嬉しいのか、父親は知っているだろう情報を惜しげも無く吐き出してくる。
「ああ、殺人事件か。
まあ今のところ学校の方に被害はないみたいだけれど、結構いろんな人が狙われてるみたいだねえ。うちの会社の後輩も一度襲われかけたみたいだし。
警察も動いてはいるみたいだけど、足あとも指紋も残ってないから後手後手に回らざるを得ない感じかね」
ふうん、と頷いて湊は食事を続けた。一気に飯を書き込んで、味噌汁をすすり、食器を流し台に持って行き、
「わ、俺、もう寝るから」
社会人になり、頻繁に使うようになった私、という一人称を抑え、俺に言い換える。本来の一人称は僕、のはずだが、僕よりは使い慣れた俺という一人称に自然と変わってしまう。
とはいえ、まだこの程度の口調の変化は問題のない範囲であろう、とあたりをつける。
案の定、気にされることもなかった。
「ええ、お休み」
嬉しそうにその後姿を家族は見ていた。
○
部屋の扉を閉めて、ベッドに横たわる。
「本当にメガテン的な解釈をするなら、マグネタイトを奪おうとして人を襲うが、失敗。急いで補充したいが行動するためのマグネタイトの必要量をとれていないために、行動がままならない。さらに言えば、それゆえに人間を襲ってもうまく捕食できずに更に弱るという悪循環のループをしているといえる、かな?」
とはいえ、それではすでに死亡している人間の説明がつかないので、悪魔が複数出現していることを念頭に置き、
「さて、寝るか」
湊は、瞳を閉じた。
すでに二回目の睡眠だというのに、やけに闇を心地よく思えた。
○
未だ自らのみに起きうる変化に気づかずに、だ。