長らくお待たせいたしました。
これを八月中に出すつもりだったなんて、一体誰が信じてくれるでしょうか。三ヶ月遅れとか、ドンだけ苦戦してんだ。
ともあれ、今回から少し文章の間を空けてみました。少しは読みやすくなったかな。
そして、今回は、主人公に会えて劉備達の考えを誤解させてみました。いわゆる神の視点、原作知識を持たない以上、こう言うのもあって当然かと思いまして。
書いている内に、劉備一行が殊更主人公にひどい目に遭わされました。最初にお断りしておきますが、ファンの方は不快になるでしょう。
毎度のことですが、この作品は菊地作品のキャラ、ひいてはそこで揉まれた主人公の方が恋姫キャラよりも強い場合がほとんどです。アンチと言えば、その通りです。
恋姫キャラがひどい目に遭うのが前提です。連合軍サイドが主ですが。
以上を踏まえて読んでくださると助かります。
空が高い。
真っ青な空だ。
雲一つ無い青い空が、空とはこれほどに広く高い物なのだと下界に生きる俺達に教える。そんな空だ。
頭上にのしかかるような黒い雲もなく、風もまた穏やかだ。空気もまた心地よく、そこそこの暑さで大地を温めている。
こんな日は、風を浴びて草原に寝転がっているのがいい。
渓流に、糸を垂れるのもいいだろう。
土を耕すのも捗りそうだ。
こんな日は、虎も眠りこけて目の前を通る鹿を見逃してしまうに違いない。
誰も彼もが、のどかであるのが当たり前だと信じる、そんな一日の始まりが今だ。
だが、世の中にはどこまでも例外がいる。
そんなうららかな日だというのに、大地を血で汚そうとする大馬鹿がいる。
もちろん、人間だ。
「こんな気持ちいい陽気に戦争なんてしようと考える大馬鹿は、それこそまとめて死んだ方が世の為だよな」
「まあ、そっちの方がよっぽど世の中平和にはなるよ」
へっぴり腰で馬にしがみつきながら、俺はようよう汜水関という巨大な砦門の元へと辿り着いたが、遙か彼方に人で出来た海が見えると言う薄ら寒い光景を尻目に、つい本音が漏れた。
へっぴり腰とは言ってもどうにか軽口を叩く程度の余裕は持てるようになったが、それを聞いて女性陣は揃って口も聞きたくも無いと言うほど不快そうに顔をしかめ、返してくれたのはゼムリアだけである。
彼女達にしてみれば、一族どころか国家存亡の危機。
俺の言動が不謹慎にも思えるのは無理もないんだろう。仮に連合の人間が俺のセリフに文句を言ってきたのなら鼻で笑ってやるが、彼女らにはそうもいくまい。
日本人として、戦争その物に脊椎反射的な嫌悪を感じてやまないので謝罪する気にもならないが、少し口は閉じている事にしよう。
戦争に行こうとする人間も、それ以上に行かせようとする人間も、頭がどうかしているとは思うけどな。自分は足を踏み入れるつもりのない危険地域に他人様の子を放り込むような政治家は屑だ。
「開門! 我らは孫家一門の者である! 開門願う!」
俺の事を殊更に無視して、甘寧が冗談のようにどでかい門扉の前でそれを振るわせるような大声を上げる。
さて、開いてくれるかなと疑問を抱いていたのだが結構あっさりと重たい音が大気を震わせる。
こっちが少人数とはいえ随分物わかりがいいなと不思議に思っていると、開放された扉の向こうには見覚えのある人影があった。
「姉様!」
なるほど、そういう事らしい。
俺とは比較にならんほど奇麗な姿勢で馬に乗った孫策が、にっこりと大輪の花のように笑って妹達を出迎える。
「よく無事でいたわね、蓮華」
俺は一歩引いて、連合へと視線を向けた。姉妹の再会に部外者は無粋だ。大体、改めて考えてみれば俺は今回の救出劇ではほとんど役に立っていないように思える。周泰一人で充分だったんじゃないのか?
事の前にはあれだけ勇んでいたというのに、これじゃピエロもいいところだ。
どの面下げてここにいられるか。お義理でも礼を言われてしまえば、恥のあまり割腹したくなるだろう。
横目で感動の再会をしている姉妹と取り巻き達を見ながら、馬を降りる。ようやく尻の痛みが消えたのですっきりした気分で前を見据えると、敵の騎兵が少しばかり近付いているのが見えた。
少しばかりと言っても、全体の数と比較しての話だ。数は三桁に届くだろう。
「偵察か」
「門を開けて迎え入れたのはどこの誰だろうか、ってな」
隣にはゼムリアがいつの間にか立っていた。気が付かなかったのを内心で悔しがりつつ、双眼鏡を取り出して敵騎兵を観察する。
「…………あいつらか」
「知っているのか?」
無言で双眼鏡を渡すと、待っていましたと顔に満面の笑みを浮かべながら覗き込んだ。言っちゃあなんだが、子供みたいだ。
「普通の騎兵だけど、鎧やなんかで見分けはつけられないからなぁ、俺……目立つのが二人いるな。どっちも若い女だ。あ、あんな格好で馬に乗っているから下着が見えている。黒くて髪が長いのと、帽子を被っているのとだ」
お気楽なスポーツ観戦のような口調で、一部どうでもいいが重要な情報を交えつつ報告する。もちろん俺もそのチェックポイントは見逃していないが、とりあえずスルーしておくのは周囲に女がいる場合の自然な対応だろう。
「黒髪は義勇軍……今は違ったか。とにかく、劉備と天の御遣いの部下で関羽だな」
「どっちの部下なんだ?」
「さあ? 両方なんじゃないかな」
「なんだい、そりゃ」
素朴な疑問だが、そう答える以外になかったしゼムリアの応えも真っ当だと思う。
「それで、もう一人は?」
「前に会った時は、公孫賛のところにいた趙雲だ。でも、天の御遣いの部下になりたがっていたから関羽と一緒にいるところを見ると今は鞍替えしたかもな」
俺が自分なりの予想も加えて語ると、ゼムリアは呆れたように嘆息する。
「なんだかはっきりしない二人だなぁ」
「まあ、そんなような二人だよ」
しかし、何の用だろうな。偵察を押しつけられたのかも知れないな。劉備が出世したらしいと言う話は耳にしたが、所詮は零からの成り上がりでしかない。もちろん成り上がれた事は評価に値するが、他より格落ちしている事は察しがつく。
下っ端としてこき使われているのだろう。
「さぁて、どうするか」
ひっ捕まえて向こう側の事情を吐かせたいところだが、下っ端の彼女らが持っている情報では精度が心配である。ついでに言うと、趙雲は飄々と笑いながら結構あっさりと口を割りそうだが、関羽はまず何も喋るまい。
深く知り合っているわけでもないが、仮に拷問にかけたところで口は割らないと確信を抱かせる。魔界都市では幾らでもいる邪神を崇拝し世界を破滅させる事に精魂を費やす信者達は、時に凍らせ屋の拷問にさえ耐え、あるいは耐えられないとみて自決してみせた。
彼女にとって、劉備か天の御遣いかはそういう相手なのだ。
どっちかにしろよと思いながら、前に出る。
「どうするんだ?」
「叩きのめして、劉貴の居所を聞き出す」
「口は堅そうだけどな」
どっちが、とは敢えて聞かない。
だが、関羽のようなタイプを相手にした経験が無いわけじゃない。少しは対応も心得ている。
「相手が自分達の場合はそうだろう。でもああいう身内に甘いのは、自分達以外は結構あっさりと切り捨てる事が多い」
仮に劉備や天の御遣いの事を聞いても、彼女は断固として口を割らずに舌を噛むかも知れない。だが、袁術の背後にいる劉貴ならばどうだろうか?
俺だって、反董卓で固まっている連中が一枚岩だなんて思っちゃいない。あいつらの前にいる俺達が明確な敵なら、周りにいるのは味方ではなく“今は敵ではない”というだけの相手だろう。
今は手を取り合っていても、隙を見せれば足を引っかけて転ばせて皇帝という賞品をかすめ取ろうとお互いの動きを監視しあっているような間柄だ。
時と場合によるだろうが、自分達以外に敵の目が集中するとなれば万々歳なのは間違いないはずだ。
「劉貴の事を聞くなら、きっと口を割る」
「そういうものかもな」
俺の言に異論は出なかった。
「さぁて、どっちとやるか……ここは、敢えて関羽だな」
劉貴とやれるかと思ったのに、肩すかしを食わせてくれた劉備の手下だ。遠慮のいらない間柄だけに、いくらでも八つ当たりが出来るのは正直ありがたい。ほとんど忘れちゃいたが、元々問答無用で斬りかかられた上に性格も馬が合わない。
虫が好かない相手に遠慮がいらないシチュエーションは、これでけっこう少ないものなのだ。聖人君子でもない身としては、せいぜい張り切らせてもらおう。
それに、仮に趙雲を倒して劉貴の居所を聞いたとしても、それこそ関羽が邪魔をしてくるだろう。だが、逆の立場になれば?
趙雲にしても、劉貴に含むところがあるはずだ。殊更に邪魔はするまい。
「只単に、それなりに知っている趙雲相手にはやりにくいだけなんじゃないのか?」
「……さあ」
わかっているなら、言わんで欲しい。
これまで何度かやり合った相手と、そうでもない相手なら前者の方がやりやすいのはおかしくないだろう。別に殊更弱腰じゃない。
「行ってくる」
「あいよ」
軽く手を上げる声援に背中を押され、俺は一気に駆けだした。通常の俺は、古代より紡がれる技法を持ってしたとしても100メートルをせいぜい9秒台ギリギリでしか走れないが、念が全身に満ちている今ならその半分ほどで駆け抜ける事が出来る。
こちらに駆けてくる騎馬を相手に、接敵はすぐだった。
「関羽様! 歩兵が一人、こちらに向かってきます!」
「歩兵? しかし、鎧も着ていないな。剣さえも持っていないようだぞ。まさか、民か?」
そんなやり取りが風に乗って届いた時には、既に肉薄していた。
「なっ……」
関羽に報告のため余所見をしていた騎兵の一騎が、振り返った瞬間には目の前に到着していた俺に目を丸くする。そこから戦闘態勢に移行するまで待ってやるほど、俺は酔狂ではなかった。
走り込む勢いのまま、ムエタイさながらの膝が兜に守られていない騎兵の顔面に突き刺さる。男は声も上げずに、馬から転げ落ちた。まるで、声の代わりのように白い歯が飛び散るのが奇妙にゆっくりと見えた。
俺はそのまま空馬の上に飛び乗ると、ゆっくりと周囲を見回した。生憎と手近に追撃をかけられそうな相手はいなかったが、肝心の黒髪との距離は比較的近い方だ。このまま突っ込めば、ひょっとすると乱戦にならずにすむかも知れない。
「貴様っ!」
「シャアッ!」
おまけに、向こうからこちらに斬りかかってくる。こいつはありがたい。俺の顔を見て驚いている趙雲の横やりが入る前にカタをつけるべく、粗末な出来の鞍を蹴る。
向こうは細腕で振れるのがおかしいくらいのどでかい得物を、相変わらずの豪速で振り下ろしてくる。それで決まると思い込んでいるのか、迷いのない、後の事など考えていないような振りきりだった。
もちろん、そんな一撃を食らってやる謂われはない。相手の一撃は俺の服を掠る事さえなく空振りに終わる。
「!?」
手応えの無さに驚いた関羽が目を見開くのが戻るよりも早く、俺は大地を蹴りつけて襲い掛かる。一度飛び上がって相手の目を眩ませた後、鉄より早く下降して馬の影に隠れた。ささやかなトリックだが、結構上手くいく物だ。
恐らくだが、関羽は俺が馬に乗ったまま戦うとでも思っていたのではないだろうか。下方への注意がかなりおざなりだった。そこへ飛び上がり様のアッパーは意表を突いたには違いない。
「下だ、愛紗!」
かわされたのは、偏に警告が間に合ってしまったからだ。趙雲のおかげで、無防備な胴体に剣道のかち上げのように柄でのすくい上げるような一撃を受けたが、あからさまに慣れていない動きだ。拙いそれは隙となり、逆に攻撃に乗って上に飛び上がってから背面に回り締め上げた。
「ぐっ!?」
甲冑も着ていない隙だらけの服装は相変わらずで、おかげで左腕を巻き込んでの片羽締めがきれいに極まった。これで終わりとほくそ笑んだのだが、ここで予想外の事態が起きた。
この女の服、布地が薄いのである。
仮にも参軍している身で甲冑さえ着ていないのだ。動きやすさを重視していると仮定しても、相応に分厚い布地の服を着るのが当たり前ではなかろうか。それがこのアマ、妙に質のいい着飾った服装をしている癖にペラペラと言っていいような布地で身を固めているのである。ふざけんな。
貧困で防具も買えずに、軍装にさえ事欠く有様なのではない。服は妙に上質だ。戦場へデートしに行くつもりか、この女。
露骨に狼狽えてこちらを見ている真っ当な格好の兵士達と見比べて奇妙な苛立ちを感じるが、まあ、この際それは置いておこう。それよりも、このまま締め続けていると服が破れて解放されかねない。それも願い下げだが、痴漢扱いされそうな最低の未来にはうんざりする。
今のところはそうならない力加減で誤魔化しちゃあいるが、怪力なこいつの事だ。暴れた拍子に破けてしまうのは時間の問題である。と、いい物が目の前にある事に気が付いた。
「は、離せ…この狼藉者……」
呻きながら切れ切れに聞こえてくる悪罵に耳を貸さず、俺は長くてしなやかで首を絞めるのにピッタリのそれを握りしめた。髪を引っ張られた事によって起こったあるかなきかの硬直を見逃さず、黒髪を縄として蛇のように絞めあげた。
昔ながらの武術にも決して多くはない髪を使った締め技は周囲の度肝を抜いたらしいが、本人は自分が何で締め上げられているのか理解できずにいるようだった。だが、それが幸いしたのか余計な混乱もなく、手に持った青竜刀を振りかざして背後の俺を打ち据えようとする。
それは悪手だった。
「得物がでかすぎだ」
関羽の青竜刀は、名前こそ同じだが中華街のチンピラが持っているのとは違い長柄だ。密着して背後から自分を締め上げている相手に効果的な一撃を加えられる道具じゃない。ましてや片腕では論外だ。彼女は短刀か何かを抜くべきだった。
もちろん、この状況下でも持ち位置を変えて握り直せば長柄を使う事が出来ないわけじゃない。本来利点となるはずの長い柄が邪魔になるが、それでも顔にでも突き立てれば充分脱出は出来る。しかし、それを思いつくほどに時間の猶予を与えるつもりはない。武術がまだまだ未熟な時代であるが故に生まれたアドバンテージを逃しはしない。
「ぐっ……なら……」
彼女はようやく自分が何で締め上げられているのかを理解したのだろう。力の入らない体勢の上、柄の部分しか当たらない状況に業を煮やして自分の髪に手をかける。
そこからどうするつもりだったのかは分からない。握り直した得物で髪を斬るつもりだったのかも知れないが、彼女はそこで一瞬以上躊躇った。
そのほんの数秒の後、彼女はいつぞやの呂布のように気絶した。
あるいは、髪を斬ろうとする事で俺の顔に刃を突き立てる手段を思いついたのかも知れないが、選択肢が生じた事で迷ってしまった時間が彼女から意識を奪った。
つまりは、髪を惜しんで負けたのだ。
散々武人だなんだと吹いていたのを知っているだけに、この体たらくかよと思ってしまう。口に出さないのはせめてもの分別だ。
戦場に洒落っ気を持ってくる辺り彼女は乙女であり、だからこそこんな物だ。女が弱いとは言わないが、乙女は弱いのだ。
「うげぇ、気色が悪い」
乙女、など思考の中でさえ許しがたい軟弱な言葉だ。そんなフレーズを思い浮かべた自分をオカマ野郎かと恥ずかしく思いながら周囲を改めて観察すると、誰もが唖然としていた。恐らく、関羽の力量を相当に当てにしていたのだろう、こちらに掛かってくる様子さえない。軟弱と言うよりも、脳天気と言うべき反応だな。
例外は、たった一人だ。
「お見事ですな、工藤殿」
「袁術軍の事が知りたい」
いつでも首をへし折ると脅しを篭めて、意識を失った関羽を相変わらず看護婦紛いの格好をして装飾過剰な槍を持った女に見せつける。
「相変わらず素っ気ない事ですな。それにしても……本気ですかな」
「なんで冗談だと思う?」
趙雲は、飄々とした態度を崩さずに悠然と俺に問いかける。それが訝しい。仮にもお仲間の命が握られている状況で、冷静と言うよりもふてぶてしい態度だ。何が彼女にそうさせている?
「あなたはお優しい御仁だ。黄巾の砦でも賊さえ殺さずにいたような貴方が、義の将たる愛紗を殺せるとは思えませんな。袁術殿の何を知りたいのかはわかりませんが、人質を取るなどと無理な事をなさらぬが……」
その場で、関羽の首をへし曲げた。
頸椎をほぼ一回転させた際にごきり、と言う感触が俺の中に響く。こちらを向いた関羽の目はいつの間にか見開かれ、信じられないと言っていた。
それは、趙雲も一緒だった。
「誰が義の将だ? 欲の皮を突っ張らせた阿婆擦れが立派な看板を掲げたところで手加減する理由になるか。舐めるな」
趙雲は目を見開き、正に絶句というタイトルの像であるかのように硬直している。四つの目が、こんな馬鹿なと言っている姿が滑稽どころか不快だった。まさか、俺がそこまで温いと本気で思っていたのか? 馬鹿にしやがって。
「後一捻りで、こいつは死ぬ。くだらない事を言っている暇があれば、とっとと俺の質問に答えろ」
それとも、まだ本当は殺さないとでも思っているのか?
そう言ってやると、趙雲は未だに躊躇っているようだが惚けていた他の騎兵達が悲鳴のように叫びだした。
「なんだ! 一体何が知りたいんだ!」
「袁術軍に、劉貴大将軍がいるのかいないのか」
騎兵にではなく、目線はあくまでも趙雲へと向いている。彼女は一瞬目を見開いた。もしや、劉貴の存在に気が付いていなかったのだろうか。
そう言えば、この女は公孫賛のところでは客将。劉備陣営に鞍替えしたとしても新参。立場は弱いのかもしれない。
「袁術? あの戦うどころか昼間は何もやっていないような穀潰し共の何が……」
当たり前だが、開戦はしているんだな。
それはさておき、どうやら袁術軍は軒並み吸血鬼で固められているらしいな。少しか人間も残していると思うんだが、こうまであからさまに言われるような状況と言う事は、人間と吸血鬼の割合は偏っていると考えて然るべきだろう。
「工藤ーっ!」
背中から騎馬が近付いてきた。俺の周りにいる連中よりも、格段に多い数を引っ張って孫策が走ってきている。
「あれは、孫策殿か」
悔しげに唇を噛み、趙雲は武器と言うよりも芸術品のような槍を振り上げた。人殺しの道具でありながら、まるで芝居の小道具のように装飾が施されたそれが趙雲にそっくりだと、侮り気味に感じた。
「引け! 引けっ!」
即決で彼女は後退を指示する。考えるよりも先に反発するよう彼女を睨んだ騎兵達も、足下に誰かが放った矢が突き刺さると悔しそうに馬を返した。迅速な対応ではあるが、こいつをどうするんだ。
腕の中にある不気味なオブジェを持て余して見下ろすと、おっつけやって来た孫策と、弓を射た黄蓋が背後から賞賛の声をかけてきた。
「驚いたわね、突然走りだしていった時には一体何がどうなるかと思ったけれど、まさか敵将を早くも討ち取るとは思ってなかったわ」
「随分と手の早い事ではないか。冥琳が聞いたら先走るなと怒り出しそうじゃが」
先走るなって、俺はお前らの指揮下に入った覚えはない。
「にしても、容赦ないわね。てっきり、あんたは人を殺さないような男かと思っていたわ。曹操から聞いたけど、賊も殺さないと聞いたけど」
「ふむ、それもそうじゃの。何というか……その滝のような清冽な雰囲気に合わん」
すげぇ過大評価だ。
俺は屑ヤクザなら笑って手足をへし折り、睾丸を蹴り潰すくらいはする。赤ん坊を食い殺した妖物を、育てる子供がいると理解した上で斬った事だってある。善人の皮を被った屑の脳天をたたき割り、善男の情けに付け込んだ子供を半殺しにした事だってある。
賊を殺していないのは、殺された方がマシだと言う目に遭わせたに過ぎない。要するに、彼女らの買いかぶりだ。俺はもっと容赦ない性格だ。
殺さないと言ったって、人を笑って打ち据えて一生物の傷を負わせているのだから充分冷酷だろう。
「それに相手は賊以下のゴミだ。容赦してやる謂われがどこにある?」
俺は至極真っ当な事を言ったつもりだが、孫策と黄蓋は面食らって目を瞬かせる。
「賊以下とは随分な扱いね」
「敵としても、なかなかの武人と思うが賊の方がマシと思うのか?」
どうやら二人はこの女に高評価を下しているらしい。俺にしてみればその方が不思議なんだが、これは育った立場の違いか、生まれた国の違いか。
「只の賊徒に落ちたとは言え、始まりは圧政に対する反抗であった黄巾党と、ただ自分の立身出世の為に治に乱を起こした連合と、どっちがマシか」
それに、何人かから話を聞いたがこのまま連合が勝てば漢という国は実質終わり、日本の戦国時代のような群雄割拠の到来は確実だという。俺が知る三国時代の先駆けでもあるだろう。
袁紹のように、董卓に成り代わって漢王朝を牛耳るという目的で動いている者も多いが明らかにそれを狙っている諸侯もまた多いと言う話だ。どちらにせよ、自分の栄達の為に戦争を起こす、あるいは尻馬に乗るなど屑の中の屑だ。生き延びる為に殺す黄巾党の方がマシじゃないのか?
巻き込まれる国民にとってはどちらも変わらないし、結局只の賊徒に成り下がったわけだが……
「まあ、この辺の考え方の違いは俺とあんたらの立場の差か」
未来から来ようが異国から来ようが、一“区民”に過ぎない俺は結局時代の流れに乗る側でしかない。流れを作る側である彼女らとは違う。
それにしても、天の御遣いの小僧は何を考えている?
こんなふざけた戦争に参戦しやがって、どれだけ人が殺されると思っているのか。あの小僧は少なくとも俺よりは三国の歴史に通じているはずだ。結局はお互いに学生のにわかにすぎないだろうが、それでも察していて当然だろう……これから、馬鹿馬鹿しいほど人が死ぬ、と。
それが狙いか?
劉備は漢の中では結局は弱小。躍進の為には戦乱が必要だと。あるいは、自称に過ぎないとはいえ皇帝となる歴史をなぞるのだと、そういう事か?
彼の知る歴史に振り回され、董卓は大悪人だと信じ込んでいるのかとも思ったが、そんな間抜けが人の上に立てるわけもない。それに、もしそうだとしても未来の歴史を知るはずの無い周囲の臣下が疑問に思うはずだ。
ならば董卓の悪政など事実無根と気が付いていないわけでもあるまい。兵を動かすのに、まさかろくに調査もしないわけがないだろう。
私欲に走ったのか、それとも時流に逆らえなかっただけか。いずれにしても、語るに値しない男だ。乱がなければ天の御遣いなど必要とされない事実を理解し、乱を歓迎しているのだろうか。
「その話はここまでにして、こいつを連れて行けよ。少しは情報が得られるだろう」
「何?」
持て余した関羽の首をねじり直してから孫策達に渡そうとするが、手が出てこない。
「持っていけよ。拷問するよりは取引した方が情報は引き出しやすいと思うぜ」
この手の輩は、拷問に逆らう自分に陶酔する傾向があるからな。そのまま死にかねん。
「いや、引き出すというても……死体から一体何を聞き出すと言うんじゃ」
死体からでも聞き出せる事は幾らでもある。まあ、鑑識的な方法ではなく文字通り死体に喋らせる方が俺は慣れているが、それを言ってしまうとろくな事にはならないだろうな。
それにそもそも、根底からして間違えている。
「こいつ、死んでないぞ」
「は?」
「え? だって、首をへし折ったでしょ」
「折っていない。外しただけだ」
危険ではあるし後遺症もあるだろうが、適切な治療をすれば後腐れ無く治る程度の話だ。ノーリスクではないが、別段珍しくもない程度の技である。
「いや、首の関節って外れるものなの? 肩とは違うのよ」
「外れたにしても、そんな簡単に嵌めたり外したり出来るのか!?」
「出来ているだろう」
証拠に関羽の頭をペシッと叩くと呻き声を上げた。震動が外れた頸部に響いたのか顔をしかめている。
「本当に生きているのね……」
「ううむ、信じがたい」
ゾンビという知識はないのかも知れないが、とにかく得体の知れないものに対する視線を俺と関羽の双方に向けている。こいつらもそこらの一般兵から見れば同じようなものだという自覚はあるのだろうか。
その後、特に何事も無く俺達は汜水関に戻る事が出来た。あるいは、トンブ辺りが横やりを挟んでくるかとも思ったのだが、それはまだのようだ。使い魔辺りで見張っているかもな、と思っていたのだが、少なくとも現時点での接触はなかった。
「さて、のっけからの大手柄やな」
そう言ったのは、この汜水関を守る董卓軍側の宿将、張遼である。その隣には、無表情ながらも俺から一度も視線を外さない呂布がいた。そして、彼女の背後に隠れるようにして威嚇の眼差しを向けてくる陳宮。
砦に入った俺達を迎えたのは、この三人だった。
「董卓側からは、これで全員か?」
「まあ、そういうこっちゃ。何かおかしいか?」
屈託が無いとは言い切れない態度で、張遼が代表する。別れ際が決して円満ではなかったからだろう、時間こそ置いたが、逆にそれがしこりとなっているようだ。ああ、面倒くさい。早く縁を切りたい。
「華雄だったか? かなり好戦的に見えたんでな。ここにいないのが意外だ」
「ずけずけ言うなぁ……まあ、確かにその通りやけど」
遠慮なんて必要としない間柄だろう、親しさとは違う理由だけれども。
「本人も、いの一番に先陣を切るつもりやったけどな。賈駆っちが、待ったをかけたんよ。今は後ろで月……董卓を守っとる」
えっらい揉めたんやで、と笑っているが……後ろで陳宮の小娘がそれで片づくような騒ぎではなかったですよ、と不平満々で愚痴を言っている。我が強そうに見えた第一印象は、それほど的外れでもなかったようだ。
「つまり、元々防衛に向いている性格じゃないって事だろう。それをもっと後ろに押し込めるのは無駄遣いじゃないか?」
「そうは言っても、守戦だろうが何だろうが構わずに突撃していくような女やから……自分が突っ込めば敵の首がすっ飛んで終わると、本気で信じとるような奴で」
防衛戦は、基本的に砦の防御力によって消耗を計る物だというのは俺でもわかる。幾ら今が古代の大昔だってそんなのが将軍なのか?
「腕っ節はあるねん。その腕っ節で何もかもが決まると、ガチで信じとんのや」
「猪武者なのですぞ!」
陳宮が嘴を挟んでくる。俺に対する嫌悪がその時だけなりを潜めていた。どんだけ愚痴を言いたかったんだ。
「そんな猪武者が、本当に引っ込んでいるのか? 途中乱入で戦場を引っかき回して敗因になったりしてな」
結局は他人事なので適当に笑ってやると、二人共にどこかうそ寒そうな顔をした。洒落になっていないのか?
「まあ、うちの主君が直々に命じた事やから、よもやそれさえ無視するほどには阿呆と違うはずや。せやけど……もし、本当にどうしようもない奴やったらウチがケリをつけたる」
「ふうん……賈駆ってのはその辺も計算に入れているのか」
口で何と言っても、張遼が乗り気でないのは明らかだ。当たり前ではあるが、そんな真似をさせる華雄と、そして賈駆にも嫌悪を感じる。
「まあ、それは苦渋の決断なんやろ」
「どうだかな。結局、そいつは何もしないだろう」
俺は苦渋の決断とか、大の虫を生かす為にはなんて言う類の話は好きじゃない。その手のセリフを使うような奴にはこれまでに何度となく出会った事があるものの、本当の意味でその言葉を使っている奴に会った事は無いからだ。
切り捨てる側の奴以外はそんな類のご立派な演説をすることはない。小の虫を殺すしか無いと言う輩は、概ねろくすっぽ考えもせずに決めつけているだけだった。
ドクター・メフィストのような反則を例にあげるつもりはないが、これしかないんだと犠牲を出す決断を下した阿呆以外の誰かが考えた場合には解決策があることが多く、以前に先走って民間人に無駄な犠牲を出した馬鹿な新米刑事は、凍らせ屋の手で殺された方がマシな目に遭わされた上で被害者の遺族にこっそり引き渡されていたものである。
俺も一緒になって手足をへし折った馬鹿の顔を思い出しながら、久しぶりにため息をついた。
犠牲を出すより他にはないと決断を下す奴は、概ね頭脳を始めとする自分の能力に自信があり、そして独りよがりな性格をしていることが多い。接触の機会が少ないはずの俺でも感じるほどに、賈駆は露骨に当てはまるキャラクターだと気が付いたからだ。
「まあ、そう怒るな。あの小娘が儂ら孫家の一門と肩を並べるはずがないとは思っておったからの。先回りして不和の種を潰しておいたと言うところか」
不快に感じている俺の肩に手を置いて、黄蓋が話に加わってくる。にやついているような口調が、顔を正面から見ていないからこそ引っ掛かった。
「後ろからいきなり襲ってはこないでしょうけど、正面から時と場を選ばずに喧嘩を売ってきそうだもんね」
「連合を相手にしている内に、横から襲い掛かられてはたまらんわ」
「どっちにしろ、痺れを切らす前にカタつけんと命令無視して突っ込んでいくやろうな」
しつけの悪い犬その物の言われように、コメントが出てこない。仮に俺がこいつらの陣営に参加していたら、何が何でもその阿呆を戦えないようにしていただろう。
「そんな奴がいるっていうのに、よく孫家と同盟が成立したな……」
「華雄一人で天秤に釣り合うほど、孫家は安くないわよ」
それもそうか。
「で、その力を当てにされて現在は前線、か」
「賈駆の狙いは、私らを矢面に立たせて自分らの兵馬を少しでも残しておきたいのでしょうけどね。その為には、対抗意識むき出しの華雄は邪魔って事よ」
「分かりやすい話だが、孫策よ。そんな事をこいつらの前で言ってどうする?」
目を向けると、会話に加わらずにひたすら俺だけを無表情に見据えている呂布、苦虫を噛み潰している陳宮、そして張遼はごく普通に笑っている。
「いいのよ、少なくとも呂布殿や張遼殿はそんなせこい真似しないから」
「まあ、確かにこんだけの敵を前にしてそんな悠長な事をやっとったら、命が幾つあっても足らんからなぁ」
二人はにやり、とよく似た笑顔で笑いあった。どうも、ウマが合っているように思える。性格が結構似ているからそのせいか。
「飲んべえの喧嘩好きが顔を合わせりゃ、そりゃ仲良くなるだろうな」
簡単にオトモダチになって、簡単に喧嘩別れしそうな組み合わせだ。
「どういう意味?」
「どういう意味や」
アメリカ人よろしく肩を竦める手もあったが、日本人らしく頭をかいた。連帯する女に勝つ芽なんて男が持てるわけ無いだろう?
「ああ、まあそれよりも先に言う事があるな」
幸い、張遼が折れたが余計なおまけもついてきた。
なんだ? もしや以前関わった騒動の件を蒸し返すつもりか、と一歩後ろに下がって間合いを外す俺から視線を外すと、彼女は後ろにいた二人を側に来るよう促してからおもむろに頭を下げた。
「改めて、あの時はすまなかった」
口調が若干違う事に真剣みを感じつつ、逆にうさんくさくも思った。
「散々世話になったちゅうのに、八つ当たりの逆恨みや。本当は頭を下げる資格もないのかもしれんが……それでも、詫びさせてほしい。許してくれ」
ここで“許してくれとは言わない”なんてお決まりのセリフを言ったら、それこそ笑ってやれるんだが……ため息をこらえるのに苦労するような事を言ってくれる。
「ごめんなさい」
「……迷惑かけたのです」
彼女が頭を下げているのは、自分の為ではなく一緒に並んでいる二人の為だろう。無表情の呂布はともかくとして、不満がありありの陳宮は苦笑いするしかない。
「母親か、あんたは」
そのまんまの構図に思わず口から飛び出た感想に、孫策達が吹き出しそうになるのをこらえていた。俺は明らかに反省していないガキンチョと、なにを考えているのかさっぱりな呂布の旋毛を見下ろし、できるだけさっぱりして聞こえるように意識して口を開いた。
「ちゃんとしつけとけよ、おっかさん」
「おおきに」
張遼はおつむを下げたままで受け取ると、勢いよく頭を上げて息をついた。
「あー、すっきりした。結構気をもんどったんやで、これでもな。全く、二度も三度も頭を下げる事になるとは思っとらんかったわ」
「三度目がありそうなのか」
「言葉の綾や、揚げ足とらんどき! それよりも、誰がおっかさんやねん!」
怒る彼女は確かに若い。花盛りの娘におっかさん呼ばわりは辛いだろう。
「子供の為に一緒に頭を下げるのは、それらしいだろう」
「……せめて、姉ちゃんにしてくれんか」
もっともだと思ってしまったのか、力ない返しが来た。失笑をこらえるのは不可能であり、せめて距離を置こうとした際、引き留めるような呻き声がした。
「う……」
兵に縛り上げられ、孫策の足下にいた関羽が意識を取り戻して声を上げたのだ。その場の全員の視線が彼女に集中する。
「くはぁっ!」
水中から飛び出してきたかのような激しい呼吸を行い、自分に集まった視線を気にかける事もなく、器用に身体を起こす。縛られた事に気が付いてもいないような様子で目を見開いたまましばらく像のよう硬直し、大きく息を吐いた。
「い、生きているのか……?」
歯の根が合っていない為に震えている声で、誰かに聞こうとしているのではなく、自分自身に聞いているようなセリフを口にしつつ身じろぎする。たぶん、首元に手をやろうとしているんだなとは思う。そこでようやく現状に気が付いたようだ。
慌てて自分を見下ろし、そして周囲を見回してからうつむく。その際の悔しげな表情が少しだけ印象に残った。
「……私を生かしているのは、尋問のためか」
「ん?」
関羽はきっ、と俺に視線を向けた。殺されかけたからかもしれないが、無名の賞金稼ぎよりも孫策や張遼と話せよ。
「貴殿は、李江の時にいた御仁だな。星より聞いた、名前は工藤殿だと」
顔覚えられていたか。ところで貴殿、殿、御仁……なんだか嫌な予感がする。
「誰の事だ? それ、真名だろ」
「……趙子龍の事だ」
「やっぱりか」
他にいないわな。ああ、トンブ叔母さんもいたか? この連中と仲良くしている姿が思い浮ばないが。
「何故だ! 何故、貴方が魔王と称される董卓などと共にいる! 貴方もご主人様と同じ、天の御遣いなのだろう! ならば、なぜ我らに力を貸さないのだ! それどころか、洛陽の民を虐げたと言われる董卓軍に力を貸す!?」
相手が縛られていなければ、蹴りをかまして口を閉じさせたいくらいの暴言である。よりにもよって、こんなのに公衆の面前で語られた日には事実として定着しかねない。真っ平御免な最悪の事態が目の前に迫っている事に真っ青になった。
「誰が天の御遣いだ、阿呆! こちとら荒事に手を染めても詐欺なんぞ働いた事はないわ! 口車で疑う事を知らない脳天気な連中を騙しているだけの癖しやがって! そんな、それこそお天道様に顔向けできないような生き方なんぞした覚えはねぇ!」
もっと苦労してこいと、閻魔に生まれ変わらせられたけどな。
「だ、誰が詐欺師だ! ご主人様は今の世を憂いる優しくも立派な方だ」
そのセリフと、何よりも表情を見て俺は馬鹿馬鹿しくなった。詐欺の片棒を担いでいる一人に詐欺師云々を突きつけてもどうにもならないだろうし、優しいだの憂いているだの、だからなんだ。それでやっている事がこれだろうが。
「ああ、そう言えば冥琳が調べたけど……詐術を用いて幽州の公孫賛の許に入り込んだ挙げ句に恩を仇で返したって聞いたわね」
孫策がひどく冷めた眼差しで関羽を見下ろして、軽蔑という言葉を形にしたような口調で話に加わった。
「ぐ……だ、誰が詐術……いや、恩を仇で返しただと!?」
「結構な数の民を義勇軍と称してかっぱらっていって、それっきりだって言う話だけど? おかげで幽州は荒れ放題、黄巾の爪痕、最も色濃き地って知らないと思っている?」
無理強いしたわけじゃないんだろうから、許可を出した方も出した方、ついていった方もついていった方だと思うけどな。まあ、孫策もその辺は承知の上で攻撃のために見て見ぬ振りをしているんだろう。
「兵を集める事は公孫賛殿より許可を頂いた上での事、他者にあれこれと口を挟まれる筋合いではない!」
「詐術は否定しなかった」
ぼそり、と呂布が会話に入り込んだ。相変わらず平坦な様子だが、関羽に対して憤りを向けているように感じる。主君に言いがかりをつけて攻めてきた事に、この食う事以外には無関心そうな娘でも思うところはあるらしい。まあ、腹心だろう部下に向かって主君を魔王だなんだと罵れば当然か。さっきから張遼や陳宮の目もかなり厳しい事に、関羽は気が付いていないようだが……
「何したの」
「公孫賛の下に潜り込むのに、金で集めた偽兵を使って騙そうとしたんだそうよ。もっとも、あっさりばれたそうだけど……訳が分からないわよ、よしんば上手くいっても、その後はどうするつもりだったの? そんな兵士をいつまでも手元に置いとけるわけでもなし、必ずばれるでしょうが。なし崩しに入れてもらう事前提なくらいに馬鹿にしていたのかしら」
……なんで捕まっていないんだ。いや、そもそも公孫賛と劉備は昔の友人だったという話だが、随分な裏切りだな。
「やっぱり、嘘つき」
やっぱり? と不思議に思ったのが顔に出ていたんだろう。張遼も話に加わってきた。
「恋の奴、天の御遣い名乗っている奴に黄巾の乱の時に出会っていてな。なんや妙にあっさりと懐いてもうたんや。ご主人様とか言っとったんや。たぶん、そこでなんかやり取りがあったんちゃうかな? それがこんな有様になって」
またご主人様かよ、気持ちわりぃ。大体、あいつが自分で築き上げた地位も財産もないヒモの癖に、何が主人だってぇの。
「あ? なんだ……くだらん。痴情のもつれかよ」
「いや、恋に限ってそれはちょっと」
「恋殿があんな貧相でだらしない男に心を預けるなどありえないのです!」
呆れと言う感情の枠を通り過ぎそうなくらいに辛辣になった俺に子犬が噛みついてくるが、それなら呂布は簡単に異性をご主人様なんて呼んですりよるのか、と聞くと黙った。
「発情期は選べよ、動物じゃねぇんだ。しっかしまあ、随分ところころあの野郎に女が転ぶな。こっちの女はどいつもこいつも尻軽なのか? それとも、女をモノにするのが天の御遣いの力なのかね」
「はつじょーきじゃない……」
モテナイ男の僻みも入っているので、さっきから殊の外辛辣になっているのは自覚しているが、俺の言い分に張遼が目一杯呆れたのはさすがに不本意だ。
「そんな天の御遣いなんているもんかい。それじゃ只のヒモやんか」
「でも、やっている事は確かにヒモのたかりなのです!」
どうやら天の御遣いが嫌いであるらしい陳宮が率直な事を言うが、俺はわりかし真面目に言っている。
「そういう奴は結構いるぞ」
「は?」
「クスリや術を併用した上で女をモノにして、その女に身体を売らせて食っていくゴミ屑はどこにでもいる。恐ろしいのは、そんな屑を屑だと知った上で貢ぐ連中の中には、その男の為になら訓練した兵士顔負けの異常な戦闘能力を発揮するのも多いんだよ」
“歌舞伎町”辺りには性の快楽をもって異性を骨抜きにし、抜いた骨の代わりに怪物を入れる色事士は多くもなければ少なくもないという頻度でいる。彼らは“区外”の麻薬など目じゃないと言う常習性のある性技で異性をとろかし、虜達はその快楽の為には売春婦となって金を貢ぎ、死をも恐れぬ兵士として武器を取る。
何もかも分かっているような開き直った女も相手にしたくないが、更にやりきれないのはそれを愛情だと自分を騙す為に歪んだ納得をしているタイプであり、昔その手のヒモを狩りにいった際につい同情して肩に銃弾を受けた事があった。
あの時はその分の借りもまとめてヒモ野郎に返したのでスッキリしたが、今回はどうなるだろう。あの時のように、せっかく手に入れた賞金を女達の更生につぎ込むような丸損だけは勘弁して欲しい。
屍刑事にもシャーリーにも、きっちり金は受け取ったドクター・メフィストにも“その程度のはした金で何が出来るか、中途半端野郎”だの“貴方が懐を痛めた事なんて彼女達の誰も知らないでしょう。何の得にもならない無駄な格好つけはやめたら?”だの“つまらない男に懐柔されたくだらない女などに身銭を費やすとは男の屑のような真似をする。もっと有意義な使い道を考えないのかね?”と袋叩きの目に遭ったのだ。
ちなみにドクターは彼女らが患者になる前にそう言ったのだが、何にしてもあの時の冷たい目を思い出すだけで魘される自信がある。
まあ、悪い事ばかりでもなく“あなたの格好つけたところを彼女らに話してあげようか”と言った若くて表情の明るい看護師に勘弁してくれ、と言ったところでご褒美と称して頬にキスされたのはまあまあいい思い出である。
もちろんそれで勘違いできるほど馬鹿にもなれずにそれっきりで終わったがな、くそう。口説くってどうするんだ。
「ご、ご主人様はそのような者では無いっ!」
顔を真っ赤にして主張するが、鵜呑みにする気は無い。もしかしたら、瓢箪から駒かも知れないからな。
「つくづく、どんな人生送ってきたのか気になるわね」
「ちょっと珍しい程度の人生だよ」
実際、前世の件も含めて魔界都市ではその程度だろう。むしろこいつらの方がよほど波瀾万丈な人生を送っているんじゃなかろうか。
「絶対嘘や」
「何故に言い切れる」
「さっきも言ったけど、天の御遣い名乗っとる北郷とは全く知らん仲でもない。けど、あんたとは違って服以外は平凡な奴やったで? 例えば世間知らずの大商人の次男坊くらいな感じか? まあ、顔だけはあんさんよりもちょこっと上やったがな」
「で? そいつが平凡だから何だよ」
嫌らしくにやける顔が意外そうになった。
「あれ? 顔の事はええの?」
「……顔で飯を食っているつもりじゃねぇんだ、挑発だったら他の事でやれ」
ヒモや役者じゃねぇんだ、顔を虚仮にされてもよほどでなけりゃ怒ったりはしない。からかおうとしている事自体は不愉快だけどな。
「ああ、いや……つまらん事言ったな、すまん。あんさん、あの男と故郷は一緒なんやろ? そこのもそう言っとったし。それで全然違うやン」
「あの北郷とか言うのがどんな人生送ってきたのかなんて知らんのだ、何も言えるわけないだろ」
「見るからに呑気で苦労知らずそうやったで」
まあ、現代日本の学生なんざ歴史上最も苦労知らずの呑気な生き物だろうけどな。
「さっきから聞いていれば……貴様ら、ご主人様に恨みでもあるのか!?」
関羽が悲壮感と怒りをこめて俺達のやり取りに噛みついてくるが、正しく何をかいわんやではなかろうか。
「言いがかりつけて攻め込んできた相手に恨みも糞もあるのか?」
「その上、うちらはともかく恋は結構仲良くやっとったみたいやし。それが戦国のならいかも知れんけど、いい気にならんのもこれまた当然や」
そう言う物だろうな。まあ、はっきり言ってその辺はどうでもいい俺は呻いて黙り込んだ関羽を見下ろした。
「言いがかり……では、やはり朱里の言っていたことは」
「それよりも、俺が天の御遣いだなんてふざけた噂は誰が広めた与太話だ? どこからどんな風に広がっているって言うんだ」
羞恥心を針でつつき回すような噂が世間に出回っているようなら、どうしてくれよう。
「……」
関羽はしばらく沈黙を選んでいたが、やがて俺の辛抱が聞くか聞かないかのギリギリの線でおもむろに話し始める。
「……あの時、李江が空を飛んだあの時からだ。今とは違う格好をしていたあなたを見たご主人様が言っていたのだ」
そう言えば、声をかけられたがいい加減に苛ついていたので無視したんだっけな。その後は、そんな話をする流れじゃなかった上に俺もあいつらと口をきくのが嫌でしょうがなかった。せめてあの時、釘でも刺しておけば……
「その後、我々の許にトンブ殿が現われた。彼女もまた、自分が天の国から来たと言われ、ご主人様と行動を共にしたいと言われた。そして、彼女から貴方の事を聞いた」
「天の国は止めろ。俺の故郷は胡散臭い予言者とやらのでっち上げた妄想じゃねぇんだ。つぅか、嘘っぱちだって分かっている俺の前でよくもまあ天だの御遣いだのと言えるもんだ」
で、趙雲もどこまでかは知らないが舌の回りをよくしたと言う事か?
まったく、トンブ叔母さんも俺の事なんざ知らんふりをしておけばいいものを。
「何故だ」
関羽の声が悲痛なものになった。俺を見上げる瞳の端に、悔し涙のようなものが見える。ただ、俺はこれと言って心が動くような事がなかった。涙の一つでころりといっていた日には、命が幾つあっても足りはしないのは別に魔界都市に限ったわけじゃないからだ。泣き落としに引っ掛かってこっちが泣きを見た回数が十回を超えた辺りで、ようやく真贋を見分ける目を手に入れた俺からして、こいつの涙は嘘ではないがそれだけだった。
「何故、あなたはそこまで天を否定する!」
「天を否定するも何も、お前らは只の騙りだろ。物珍しい外国人を担ぎ上げて、噂に乗っかってでっち上げて、未だに本物面で涙まで流すとは、大した女だ」
武将以外の生き方の方が合っていそうだな。いや、今こそ正に名ばかり武将の宗教団体幹部なのかね。政教が分離されていないとはいえ、一年も経たずによくも国家にここまで食い込んだものだ。さすがは未来の皇帝とその一派。例えるなら三国の顕如……時代を考えると逆か。
「俺は天の御遣いなんかじゃない。ついでに、以前も似たような事を言っただろう。人の上に立つような奴が人じゃないのは、いずれ致命的な破綻を持ってくるんだよ。それも、まずは自分達の周りにな」
“新宿”に幾らもいる邪教の教組なんかは、まず何よりも下っ端から死ぬ。当たり前だが、トップが先に破滅する事なんて無い。それどころか、死んだふりをして生きているのはまだマシで、死んだ後に信者の魂を生け贄にして甦ってきたりもする教祖もいるから本当に性質が悪い。大体は一月以内に“新宿”を代表する数多の魔人達に潰されているけどな。
「ううん……結局あの北郷とかは本物なんか、偽者なんか?」
「偽者に決まっているのです!」
「どっちでもいいだろ、そんなもの。なんにしても、敵なんだから」
天が相手だろうと、大人しく殺されるつもりはないだろう。だったらそんな議論は時間の無駄だ。
「まあ、確かにそうやけど士気ってものもあるんやで」
「いい加減な看板に崩されるような闘志に何の意味がある? 嫌なら、させるな。それが人の上に立つ者の役目だろう」
俺の利いた風な口に、張遼が目を見開く。いや、彼女だけではなく孫策も黄蓋もだった。呂布だけが違っていた。人の上に立つ者だという自覚の有無が、違いの理由なんだろう。
「小娘だろうと、呑兵衛だろうと、兵士の命をしょって立つ事を望んでそうしているなら、あんなのに負けるなよ」
「小娘も呑兵衛も余計や。でもまあ、発破になること言うな。嫌ならさせるな、か。そう言う骨の太い考え方は好みや」
小娘と称するには若干ならず血の気が多い顔で笑う張遼に背中を向けると、黄蓋や孫策が目に入る。どちらの笑みも、この国でなければ男らしいことだなと言ってやりたいような顔だった。
「何故だ……」
「ん?」
「どうしてそこまで我らを否定する、漢の為、民の為に立ち上がった我らの、それに力を貸してくださるご主人様の何が気に入らないと言うんだ!」
堂々巡りだな。
「さっきから言っているが、理由なんざ色々あるさ。こいつら一人一人にも、俺個人にもな。でもまあ当たり前だろ? お前ら武器を持って人を騙して、人を集めて敵を作っているんだろう? 誰かの恨みを買う為に、恨まれて当然のことをした。お前らの味方は得をするから喜ぶし、敵対しているのは損をするから嫌う。当たり前のことでしかないと思うが……何で今さらそんな顔をするんだ?」
どうして俺が率先してこいつと舌戦しているんだろうかと、疑問に思わないでもなかったが……肝心の関羽の顔が俺の方を向いている以上、俺しか返答が出来ない空気になっていた。
「大体、俺がお前らを否定しようとしまいと、どうでもいいだろう。味方でもなければ、そうなる可能性もない。邪魔なら殺してしまえばいいだけの関係だ。お前が今までに散々やって来たことで、今度も変わらない」
どうしてこう言う宗教家タイプは誰からも賞賛を求め、それをしない相手を可哀想な奴か悪党に仕立て上げたがるんだろうな。
「あー…もしかして、アレじゃない? その天の御遣いってなんだかんだ言っても余所の国で一人な訳よね。同郷の人間らしい工藤を引き入れたかったとか」
孫策がさては、と言いながら仮説を口にするが……もしも正解なら迷惑で薄気味悪い話だ。子供じゃあるまいに、あれだけ恵まれた環境にいながら男がそんな甘えたことを考えるな。
「ご冗談を。俺は北郷とかってぇのがやっている事をみっともないと思いこそすれ、同じところに堕ちるつもりなんざ更々無いね。想像するだけで薄気味悪ぃ」
天の御遣いだなんて拝まれている御輿なんて、恥があればやれるモンじゃないわ。
「それよりも、さっきからなんであんたらは捕虜の与太話につき合ってるんだよ。さっさと連れていってくれ」
「そんな事をされると困るだわさ」
唐突に、異質な声が割って入った。どこがどうとは言えない異質な訛りの入った年寄りの声だ。例えて言えば、日本語にまだ不慣れな外国人のような声だ。
「早かったな」
落ち着いているのは、声の主が来ることを予想していた俺だけだった。他の人間は、呂布でさえ呆然としている。ただ、それはあんまり唐突に現われたからと言う訳でもないだろう。
「目に見えている範囲の転移術くらいどうって事ないだわさ。ましてや、そこの関羽がいる場所なら目星がつけやすいもんよ」
この場で、それまでいた誰にも当てはまらないような中年かそれ以上の年齢の女の声である。
「魔道の理屈はよく分からん」
「似たようなことが出来る癖によく言うわ」
およそ常識外れな事をさらりと言う人物は、これまた常識外れの体型をしていた。限りなく球体に近い体型に、服でもって無理やりにメリハリをつけて人体の驚異を衆目に晒している怪人。
明らかに漢民族とは異なる容貌だが、この滅茶苦茶な漢ではこれと言って目立たない。代わりに他の部分で目立てるだけ目立っている性別、たぶん女。
貧困にあえいでいるはずの漢において一体どうすればこんな体型を維持できるのか、真逆のベクトルではあるが知人の女武将達とまとめて問い質したい気持ちがもりもり出てくるベルトの尽力が涙ぐましいプラハの第2位。
即ち、トンブ・ヌーレンブルクである。別れたときそのままの異国情緒溢れる格好をしているが、この怪人に情緒という言葉は使いたくない。
「げ」
彼女に言い寄られていたゼムリアが、犬の糞でも踏んだような顔をする。実際、そんな気分だろう。今もゼムリアの顔に視線が一直線だったからな。秋波がびんびんである。おえ。
「あんた、北郷とかはどうしたんだ? 確か、あっちに手を出すとか言っていた気がするんだが」
そろそろ気の毒になったので視線を遮りつつ言及すると、他の面々同様に呆然としていた関羽が騒ぎ出したがまあ、それはどうでもいい。問題のトンブはふん、と水中から顔を出した河馬のように鼻息を吹き出してみる。
「ありゃ駄目だわさ。いくらなんでも子供過ぎる。絵本のハッピーエンドが本当にあると思っているようなおしめの取れていないのを相手にする気は無いよ」
これは意外である。
「孔雀の雌だって、別に中身を気にして相手を選ばないだろう。見た目がよければそれでいいじゃないか」
もしかして、それ以上に深い関係になるつもりがあったんだろうかと思うと、戦慄を禁じ得ない。背筋にじんわりと嫌な汗をかく俺だったが、トンブは馬鹿を見るような目で……いや、実際に馬鹿にされている。
「それでも限度って物があるだわさ。夢見がちな坊やに現実突きつけていたぶるのは確かに面白そうだけど、魔道士が宗教に関わるモンじゃないわさ」
「魔王は別だろう?」
「与太話はそこまでにしてくれる?」
軽口をたたき合っている俺達の間に、女性陣がそれぞれ得物を構えて割って入った。陳宮はゼムリアの背後に隠れて……どちらかというと、盾にしているように見えるがともかく距離をとり、呂布の背中を見詰めている。
「さっきからの話を聞いていると、あなたは連合の側とみていいのかしら? 工藤とも知り合いのようだけど、一体何者なの? 何というか……凄く人間離れしている気がするわね」
「そら、見た目からしてそうやな」
「人の見てくれをとやかくいうのは感心せんぞ」
「……中身も凄いと思う」
それぞれ好き勝手なことを言っている。よってたかって非武装の老婆一人に光り物を突きつけているのはどこからどう見ても悪党の所行でしかないのだが、俺は止めるどころか二、三歩後ろに引いていた。決して、老婆の方が悪党の類に見えるからではない。
「ああ、お前ら、その辺にしとかないとひどい目に遭うと思うぞ」
若干うつむいてショールの影になっているトンブの顔を見るのが恐くて出来なかった。きっと、地獄の底で踊っている悪魔も裸足で逃げ出すような顔をしているに違いない。何にせよ、俺の貧弱な想像力など超えた顔をしているに違いないのだ。
「むう」
顔を上げた瞬間、俺は反射神経を最大限に使って目をそらした。ゼムリアも同様であり、お互いに賢明であると自賛したが女達はそうでもなかった。
「好き勝手に言っておくれだね、小娘共!」
何というか、見えないところで雷鳴のような効果音が鳴り響いた気がするが見ていないので分からない。わからないったらわからない。俺達傍観者に分かるのは、事の結果だけだ。
彼女らは全員、物言わぬ石像となっている。
「あ~あ」
「こりゃ凄い。イシュミールも真っ青だ」
どうやら、空中庭園の主達とは既に出会っているらしい。
出会っていない俺にしてみると、古代ギリシャに於いて見る者を石に変えたというゴルゴーン三姉妹もかくやと言うところか。確かに彼女達が悪かったかもしれないが、敵地にのこのこ入ってきた訳でもあるし、こりゃあんまりじゃなかろうか。
試しに孫策や黄蓋の頬をつついたり腕を掴んだりしてみると、本当に石になっている。容赦ねぇなぁ。
「ああ、関羽も石になっている」
「どうせやかましいだけだわさ」
それもそうだ。
「で、何しに来たのさ」
とりあえず、今は彼女らのことを横に置いておいて話を先に進めることにする。幾らトンブが根性悪でも、この程度で永遠に石にしておきはしないだろうと思うからだ。関羽まで石にしたのが証拠だ。
「とりあえず、表向きの用件はこいつの回収。本当はゼムリアを口説く、じゃないだわさ。情報交換だわさ」
ゼムリアが三歩退いた。三歩ですむだけ、凄いと思う。気の毒を通り越して不憫にさえ思えてきたので、ゼムリアを隠すように移動する。
「情報交換、ね。使い魔でも放つのかと思ったら、まさか本人登場とは思わなかったよ。いつからそんなにフットワークが軽くなったんだ」
「なんで視線がウエストにいくんだい」
ウエスト無いだろ、とは言えなかった。
「それよりも、劉貴は向こうにいるのか?」
「後で覚えておいで。魔神の名にかけて、ひどい目に遭わせてやる。チェコ第二位の魔道士をナメンじゃないよ」
食われるかも知れない、河馬の餌のように。
空想の中で、丸呑みにされそうになって藻掻いている自分があまりにも写実的すぎて勢いよく頭を振っている俺だったが、トンブは奇行に走ってしまった俺に構わず鼻息荒く語り始めた。
「まず、劉貴はいるよ。あっちの袁術とか言う連中の軍は、全部あいつを根とした吸血鬼共になっている。ぞっとしない妖気が立ちこめて、側の他軍の兵士に体調異常が続出、他にも凶暴化した鼠が兵士を食い殺したり、雑魚の死霊があっちこっちから現われたり、とある天幕の住人が誰にも知られずにいなくなる。最後のこれが結構頻繁だね。いい加減に素人共もどこが原因なのか悟れるくらいに怪現象が続いているわさ」
「気づくって、今のでどうやって特定する」
「糧食が全く減っていない、そもそも用意していない。そして、昼間には全く行動していない昼夜逆転の軍。定期的に人が消える。袁術軍以外の、特に向こうと前々から仲が悪くて人数だけは多い袁紹の軍からが一番多い。人肉を食っていると言う噂もちらほら出ているし、曹操って小娘の所からは血を吸っているかもしれないなんて、正解も出てきている。偶然かね」
「曹操の所で、劉貴の牙にかかったなりかけが暴れたのさ。それで、本人は遠目にでも見たのか?」
おおよそとんでもない事件であるはずだが、顔色も変えないトンブは間違いなく“区民”なんだろう。だが、まるで餌を取り上げられた河馬のような顔をする。苦虫を噛み潰しても平気で飲み込むような女だから、こう言う顔をした時は要注意だ。
「思いっきり近くで会ったわさ。軍議、って奴で諸侯の代表が顔を突き合わせた時に袁術軍の代表として参陣した」
「……」
俺が言葉を発せれなかったのは、唖然としたからじゃない。真っ先に見てみたいと思ったからだ。
「何というか、一人だけ世界が違ったわさ。小娘ばかりが幅を利かせる軍議の中で、劉貴だけが色が違ったわね。誰が総大将かを決める、なんて事を無駄にダラダラやっている中で別段何を言うまでもなく石みたいに黙って控えていたんだけど、明らかに物が違うのが一目瞭然だったよ。あれは吸血鬼だからと言うんじゃない。他の誰も及ばない長い時を戦に生きた、古い時代の益荒男だからさ」
これまで出会った漢の住人を劉貴の横に並べても、誰も釣り合うまい。彼を前にすれば、どこの誰であろうと武人であることは出来ずに武人気取りになるだろうと、俺には信じられた。
ふと、小物臭い意地悪さが顔を出した。曹操や手下共……特に猫耳は、あの益荒男をどんな顔をして迎えたのだろうかと聞きたくなったのだ。みっともないことはしたくないとゼムリアの視線を意識して引っ込めた。
「随分凄い奴がいるんだな」
会ってみたい、と声に出さずに主張したのは武人とは少し言い切れないが男としての格は匹敵、あるいは上回るかも知れない男だった。
「必ず逢えるよ。何しろこれから戦になるんだ」
劉貴大将軍が戦場に於いて、戦陣に立たない姿は想像がつかない。誰よりも先に戦場に立ち、誰よりも最後に戦場を去る。そんな姿が真っ先に思い浮ぶような男だった。
「勝負するのは、先約がいるからな」
「そいつは残念だ」
「心配しなくても、すぐに出番は回ってくるだわさ。へっぽこ剣士が死ぬ前に回収だけは忘れないけどね」
でぶが余計なことを言う。その表情はこの世で一番邪悪だと信じていたもう一人のでぶ情報屋とがっぷり四つに組んでも引けをとらないほどで、人面ガマガエル、なんて言葉が浮かんでくる。
「どういう意味だ」
「言わなくっても分かるだろう」
ぐぎぎ、と憎たらしさ満開の顔を睨み付けるが、ここでみっともなさを感じない気の利いたセリフを咄嗟に返すことが出来ないのが、俺が野暮天である由来だ。くそう、と涙を呑んで黙り込む。
結果で見返してやるのが男らしさだ、この極悪魔道士め。
「ま、俺は見物に回るさ。酒でも呑みながらな」
戦う剣士ならば、例え笊でも酒など断じて口にはしない。つまり、そういう事だ。
「いい肴になるくらいに、格好良く見せるさ」
に、と互いによく似た顔で笑うのをトンブがつまらないとしらけた顔で見ている。
「それでだが、戦争が本格的になる前に劉貴と勝負をつけたいんだが……」
戦争、それも内戦に首を突っ込むなど真っ平である。やりたい奴らだけ勝手にやらせて、俺のような庶民は高みの見物が一番だろう。火の粉がこっちにやってくるなら払いのけるが、どっちみちすぐに何らかの形で漢を出る俺にとってはつき合わずにすむならそうしたい所だ。
「それはあたしも同感だけど、どうするね。忍び込んだところで、あの大軍の中を劉貴一人目指して真っ直ぐにいけるのかい? よしんば会えたとしても、周りは全員敵だ。まさか劉貴と素直に一騎打ちが出来ると思っているんじゃないだろうね」
「そこまで馬鹿じゃない」
どうだかね、と言うトンブに対し俺はがりがりと頭をかいてから一つ提案した。
「前から思っていたことがある。やって損になる事じゃないし、試してみたい。明日、もう一度こっちに来てもらえるか」
「私をタダで使おうってのはいい度胸だわさ」
「この間、俺をタダでこき使っただろうが」
何進だの巨だのの時を思い出させると、舌打ちをしていかにも嫌そうに頷いた。こんな態度の上にどうせ使い魔でも送ってくるだけだろうから悪いとは全く思わない。
「んで、一体何をするんだわさ。あたしゃあんたと違って、あんな面倒な吸血鬼にはなるべく近付きたくないんだよ」
俺だって同感だ。ただ、そうできない事情があるだけだ。好んで挑んでいるような言い方はしないで欲しい。
「ああ、果たし状でも送ろうかと思って」
どってんぶう、と言う顔はいっそ記録しておきたいほどだった。
果たし状、と言う俺のアイディアを聞いた二人の反応は対照的だった。
阿呆、と氷と言うよりも冷え切った鉄のように白けた目を向けてくるトンブと、面白そうだ、どんな文面にする? と乗り気のゼムリアである。
どうも、ゼムリアの知っている文化に果たし状というものは無いようで随分と面白がっていた。少年さながらに面白がって果たし状の文面を考えている。
色々聞かれるが、まあこれといった定型文などあってないような物。適当にそれらしい文で日時と場所を書けばいいだろう。
「果たし状。
宛、劉貴大将軍。
来る明後日、逢魔が時において貴殿に挑戦する。互いの魂、どちらがより強きかを賭けて一対一の尋常なる勝負を望む。勝敗は互いのどちらかの滅びをもって決し、あらゆる武具と術理を良しとし、立会人はそれぞれ一名までとする。これらの取り決めに異存なき場合は、次の日没に汜水関と連合軍の中間地点まで来られたし。
工藤流念法 工藤冬弥」
あの後、そのまんま後始末もせずに関羽だけひっつかんで帰ろうとするトンブを引き留めて元に戻してもらった孫策から紙をもらい、墨と筆も借りて果たし状を書いた。なかなか迫力のある字に書けたと思う。
ちなみに、元に戻った時の彼女らの慌てぶりは特筆に値し、全員に超常の異能がどんなものかを知らしめる結果となり、特に最も猜疑心が強く魔界の力に接した記憶も無い陳宮はかなりわかりやすく結果が出てしきりに怯えていた。
黒い魔犬に襲われた際には真っ先に意識を絶たれたおかげで、逆に怖さを学ばなかったのだが、今回は全員意識も五感もあったようで我が身に何が起こったのかを思い知ったのである。
「人が石になるなんて、本当にあるのね……」
「自分がなりたいとは思わないが、見てみたくはあるな」
恐ろしいを通り越して呆れたように述懐する孫策をちらりと見てから、遅れて合流した周瑜が冷静に興味を示す。その目が心配を二、ざまあみろ、いい薬だを八で内心を語っているように見えるのは言わぬが花だろう。
「と、とんでもない目にあったわ。つうか、工藤もゼムリアもうちらを横に置いといて話を続けるとかあんまりやないか!」
「いい経験になっただろ」
さらっと嘯く俺に、無表情だがどこか不機嫌さを感じさせる呂布も張遼の横に並んだ。
「二人は石にならなかった。どうして?」
「あの程度の術なら対抗策は備えているさ」
「相手が本気だったらまずかったけどな」
ゼムリアの言うように、トンブも本気で術をかけたわけではない。大人げなくもあるし根性悪でもあるが、あれはちょっとした防御術か護符でもあればかからない程度のものだった。
どうしてその程度で済ませたのかは分からないが、どうせ全力は疲れるとかその程度の理由だろう。それとも、意識を残す程度の術ですませた方が効果的だとでも踏んだのか。
「それなら、相手はお前達がやればいいのです! 恋殿をあんな化け物じみた婆さんに近づけるのは反対なのです……」
生意気の塊だった陳宮が、なんだかしおれた様子で肩を落としている。しょうが無いと言えばしょうが無いが、かなり応えたらしい。
「そんなに心配しなくても、俺もあのおっかない叔母さんも劉貴さえ討てば後は引っ込んでいるよ。出る幕じゃない」
「なんですと!? お前ら、ここで逃げ出すのですか! この臆病者!」
「……そもそも、俺達が戦いに加わると思っていること自体が筋違いだろう」
仲間ではないし、間違っても臣下ではない。そもそもこの国の人間でさえない。
「ぬぐぐ……化け犬の時は頼まれもしないのに首を突っ込んできた癖に、戦となると腰が引けるですか!」
「元々、そっちが専門だ。俺は戦争屋じゃない」
「はいはい、そこまでや」
食ってかかる子供を宥めるのは母親の役目である。本当の母親役よりも先に張遼が割って入ってきてくれる。
「工藤の言っていることは間違ってはおらんよ。元々敵ではなくても味方でもない。たったそれだけの話や。敵にならんでよかっただけの話で、なじるのは筋違いや」
物わかりのいいセリフを吐かれたが、目が残念がっているように見えるのは俺の僻みというわけでもないだろう。
「……」
何か言おうとしたが、やっぱり気に聞いたセリフは出てこなかった。かといって、言い訳じみたことを言うなら無言のままで薄情者扱いされている方がよっぽどマシである。ただ、こういう時は日頃軽蔑している舌のなめらかな連中が羨ましくなるのが正直な本音だ。
結局、何も言えずにそそくさとその場を後にするしかない俺は、やっぱり野暮でしかなかった。
「世渡りが下手だな」
こそこそと鼠のように彼女らから離れ、汜水関の門の外で寝っ転がっている俺に声をかけてきたのはゼムリアだった。
「これでいいと思っているけど、上手く出来ればいいやと思う時もある」
思った端から、そんな軟派なことが出来るかとムキになる自分が易々と想像できるがな。
「それで、これからどうするんだ?」
「ん……まずは果たし状を送る。それに劉貴が応じてくれれば、そこで決着をつける。でなければ、他の方法で勝負する。まあ……あの劉貴が俺の挑戦を受けないわけが無いと思うけどな」
俺に限らず、誰が相手であってもそうだろう。力の強さではなく、無論身分の貴賤でもなく、それがどこの誰であっても挑まれれば受けるだろう。強い者であればあるほど不敵な笑みを浮かべ、弱い相手でも決しておごりも手加減もなく戦いに臨む男の背中が見えるようだ。
「それじゃあ、受けない場合を考えていないんだな」
「思いつかないって言うのもあるよ」
わかりきっているが、知性派なんて言葉とは生まれる前から縁遠い。
「じゃあ、決闘を受けてもらえるとして……それまではどうするんだ? まさかここで石みたいに寝転がっているわけでも無いだろう?」
「それもそれで楽でいいんだけれどな」
それらしく瞑想なんてしながら備えるのもありかも知れない。だが、テスト前の休み時間に悪あがきと知った上で単語帳にかぶりつく高校生のように時間ギリギリまでトレーニングに励んだ方が、よっぽど俺らしい。
生まれつきなのか、泰然自若とはほど遠いせこい性格だと自負している。変えようにも変えられない生まれついての性だ。
せっかちすぎて、僕と名乗るせつらと足して割ったらちょうどいいとはとあるバーテン兼用心棒の言だ。悠然とした態度の見本には事欠かなかったにも関わらずそんな様なので、今となってはこれも俺らしさと開き直っている。
「せっかく目の前に身体を温める練習相手が山ほどいるんだ。やらない手は無いだろう? 格上相手に汗もかかずに挑むほど、身の程知らずでもないさ」
劉貴と似たような戦い方をする奴も、あれだけ数がいればどこかにいるんじゃないだろうか。そいつと上手いことぶつかりあうなんて、普通じゃ有り得ない幸運ももしかしたらあるかも知れない。
何せ、目の前の数が正しく桁外れだからな。
「まあ、せいぜい孫策や張遼達の邪魔にならないように弁えて暴れることにする。それで死んだらいい笑い話だけどな」
「戦争は真っ平じゃないのか?」
「それはそれ、これはこれ。都合のいい言葉だよな」
決闘を挑んだ癖に試合場に辿り着く前に死ぬとか、笑い話にしても質が悪すぎるだろう。
「……だってさ」
「ん?」
俺以外の誰かと話すような言葉に、もしやドクトル・ファウスタスとの再会かと飛び起きる。これでも警戒を怠っていたつもりはないので、他に出し抜かれる相手がいるとは思っていなかった。
だが、それが自惚れに過ぎないと見せつけたのは老人でありながらもそれを超越する美貌の持ち主ではなく、垂涎ものの女性的な曲線美を、見せつけているかのような扇情的な衣装に身を包んでいるつい先ほど別れたばかりの孫策達だった。
「あんた、本当に素直さが足りないわね」
「霞達との間でこじれていたのは、こういう所が原因か……まったく、これだから男は……」
「好んで悪ぶりたいお年頃という奴か」
「無闇に和を乱しているのです、笑ってすませるべきではないでしょう」
「蓮華様の仰る通りかと」
「まあまあ、二人とも」
けちょんけちょんにこき下ろされているがそれはどうでもいい。なんでこいつらの接近に気が付かなかったんだ。
視線を原因だと思う男に向けると、してやったりと笑う。一体何をやったんだと探ってみるが、さっぱり見当もつかなかった。
「どうやったんだ?」
「さあな」
死活問題になりかねないと慌てて聞いてみるが、生憎とはぐらかされた。元々簡単に教えてもらえるはずがないとは思っていたので落胆はないが、焦りは変わらない。
まあ、自分で見つけ出す他無いだろう。
「ちょっと、それよりも私達を放っておかないでよ」
「ん?」
放っておくなと言われても、何をどうしろというのか。
「本当に野暮天ね。そんな事じゃ、一生独り身よ。どうせ恋人なんていなかったんでしょ」
「いるにはいたが」
向こうから告白され、いい気になっていたけどあっさり寝取られました。それが最初で最後です。
「え? ……見栄張るとろくな事無いわよ」
本気で言っているようで、かなりむかっ腹が立つ。そっちだって人のこと言える立場か。
「ろくな終わりじゃなかったがちゃんと相手はいたよ。そっちだってどうなんだ? 立場上、恋愛なんて出来る身の上には見えねぇぞ」
「私には冥琳がいるし」
……確か、周瑜の真名だったと思う。
「ふうん。君主が子供を産めない関係でいいのかね」
同性愛だろうと俺に関わらなければどうでもいいのだが、そこの所は少し気になる。ついでに、いい機会だから前から疑問に思っていた事もこの際聞いてみることにする。決して、向こうのペースに任せていると女達に袋叩きに遭いそうな雰囲気を感じたからこねくりだした疑問ではない。
「前から聞きたかったんだが……こっちに男の武将や君主はいるのか?」
「ん? なんでそんな事を聞くのよ」
「女がなんで君主として人の上に立てるのかなって、不思議に思っただけさ。いや、漢じゃ大して問題にならなかっただけかもしれないが……」
「……女だと何が悪いって言うのかしら?」
孫策と黄蓋は不機嫌になった上、孫権と甘寧も大いに機嫌も損ねたようだがそれ以上に不思議そうな顔をしている。
「女性が人の上に立つのが、どうおかしいって言うの?」
「むしろ男の武将などほとんど聞いたこともないわ」
こいつ何を言っているんだ、という感じの二人だが……どうも薄々察していたように漢の武人や人の上に立つ君主に男はろくにいないらしい。つくづくおかしな世界だ。
「まあ、皆落ち着け。どうも、口ぶりからして女性を馬鹿にしているわけでは無いようだ」
同性愛者の痴女という、業の深さが“新宿”でも通用しそうな女が取りなしてくれた。見た目が美人であるだけに服装と心、つまり身体以外が残念すぎると思っていたのだが素直に感謝しよう。
「……何故だか至極不快な気分になったのだが、心当たりはないか?」
「知らん」
女の勘とは、男にとっては常に理解不能だ。
「わかりやすく言うと、後継の問題か。女ってのは子供を孕むと落ち着くまでに俗に十月十日が必要で、しかもその間は安静第一だろ。加えてその上でも生死を賭ける正に一生の問題だろう、出産てぇのは。人の上に立つに君主として後継者は絶対必要だが、そんな難事をほいほい出来るものか? 一人じゃ足らないのだし。能力面や人格面、そもそも育つかどうかさえ曖昧な時代なんだから」
だからこそ、女性君主というのは平和と文化的な発展の象徴とも言えるのだ、とどこかで聞いたことがある。そして、同じ事は君主ではなく武人でも言える。もしも妊娠しちまったら一年は役に立てない軍人なんぞ、代わりがいないというほどの責任あるポストに就けるとは思えん。
未来の日本、しかも軍人などの荒仕事でなくともそれらは重要な問題だったはずだ。
「それは、まあ……男で強いのがいない、と言うのはあるわね。今まで考えたこともなかったわ」
「それに、これまで曲がりなりにも漢は平和であったのだ。油断していいものでも無いが現に家は続いている。確かに子供が無事に生まれるか、きちんと育つのかという問題は大きいが……こればかりは、生んで育てなければどうにもなるまい」
「で、あろうの。実力があれば男の将がいてもおかしくはないが、そういう傑物はほとんど聞いたこともない。大体が一兵卒よ」
甘寧、周泰、そして孫権は考えたこともなく回答を用意できないようだが、残る三人の年長者は戸惑いながらも言葉を返してきた。
だが、その答えを聞いた俺の中に、何気なく口にした疑問を発端にして少しばかり嫌な予感がしてきた。自分で言うのもなんだが、この手の予感はあまり外れない。
「……一つ確認したい。例えばそこら辺にいる男とそこら辺にいる女。殴り合いをさせたらどっちが勝つ?」
「それは……男じゃろうな」
「……それは当たり前の話か?」
頷く黄蓋だが、ゼムリアが目を丸くする。
「おかしな話だな。武将だのは女が強いのに、普通は男が強いのか? 一体どんな違いがあるって言うんだ」
実に道理の通らない話だ。
女と男の力量に、完全に上下関係があると言うのなら分かる。男として忸怩たる気持ちはあるが、敢えて目は瞑ろう。しかし、個人差ならともかく“武将とそれ以外”では男女差が逆転しているというのはどういう事だ。
「そう言えば……文官も有名どころではそうだのう」
傍らの周瑜を見詰める黄蓋だが、彼女が言うには諸葛孔明しかり、鳳士元しかり、そして目の前に立つ周瑜も含めて著名な軍師は総じて女なのだという。
「状況が異常だな。そして、それに疑問を思わない住人か……」
以前、トンブと貂蝉を名乗るゲテモノ達との会話の中で、一番気にくわない可能性が奇妙に真実みを増してくる。
「この世界の住人が、総じて天の御遣いを楽しませる為に作られた人形、か……」
思わず口走った一言を聞きとがめたのが、ゼムリア以外にはいなかったのは行幸だった。
「そいつはトンブさんが言っていたのか」
「……気にくわない話だが、その可能性はあるらしい。それを裏付けるかも知れない話が出てきて、何とも業腹で不愉快だ、な」
そう考えてみれば、ここにいる武将や軍師なんかのあざといくらいのバリエーションが成立しているのもある程度は納得がいく。“歌舞伎町”の風俗と一緒だ。
「諸葛亮とか、あんなガキンチョが堂々軍師ですって面をしているとか笑い話でもありえねぇ。曹操でも笑い話がせいぜいだろ」
俺の基準で言えば、孫策どころか黄蓋だってまだ青二才レベルだろ。いくら成人年齢が俺の生きてきた社会と比較して低いからって、こいつはあんまりじゃないか?
「……ゆりかごから墓場まで、天の御遣いのどんなニーズにでも応えますってか?」
想像しているとどんどん苛つきが溜まってきやがる。あくまでも俺の想像に過ぎないのだと自分に言い聞かせなければ、あの天の御遣い君に問答無用で唐竹割りでも食らわせてしまうかも知れない。
「あなた達、一体何の話をしているの」
「俺にもよく分からない話だ。もっと頭のいい人と相談したいところだが、ドクトル・ファウスタスはいるのか?」
「ドクトルは今、我々の依頼により汜水関に詰めてもらっている。あの方の医術があれば、最悪の事態は防げそうだからな」
「……そいつは結構」
ふと、その最悪に兵士の命は関係ないんだろうなと意地の悪いセリフが口から出てきそうになった。
「ゼムリア、気が向いたら話がしたいと伝えておいてくれ。俺は砦に入れなくなった」
「わかった」
そう言って、俺はごろりと横になった。後は日没まで休む手だからだ。どうせすぐに夜の領域に入る、忙しくなる前に少しでも休息をとりたい。
頭の上から高い声が鼓膜を刺激してくるが、俺は寝付きのいい振りをして逃げた。砦に入れるようにしてやると言われてしまい、冗談では無いと思ったからだ。
そんなみっともないことが出来るか。
日差しがそれほどきつくもなく、雨も降らず風も穏やか。
そんな心地よさは、馬蹄に踏み潰されて大地に消えていく。一人地面に大の字になっている俺を遠慮も慎みもなく揺らしてくれたのは、夕日を背負ってこちらに攻めてくる敵の行軍だった。いや、進軍か。
「おうおう、威勢のいいこと……国の頭をてめえの都合のいい鸚鵡にしようとするあさましい争い、か……足利の終わりに似ているが、こっちの方がみっともないと思うのは自国贔屓かね」
攻めてきているのは、果たして千か万か。同じ大地に足を下ろしている身としては既に判別できないほどの圧倒的多数が戦意も顕わに駆けてくる姿は正しく圧巻と言える。
これほどの大軍を前にするのはさすがに初めてであり、これこそ中華の全力かと感心さえする。伊達に人口と国土の広さで歴史上常に上位を占めてきた訳ではないのだろう。特にこの時期、文化的にも欧米など目ではない発展をしていたはずだしな。それもあって、こいつらは恥ずかしげも無く民族の優越を語り余所様を差別してきたわけだ。
「発展しているはずが、やっていることはむしろ無様だがな」
社会がどれほど発展しても、個人が経験を積んでいるわけではないので結局は変わらないのだろうか。いや、千年単位で生きていてもろくでもない事しか考えない奴がこの大陸にはいたな。
「どうにも、人って奴は馬鹿なろくでなしにしかなれないのかね」
偉そうに言って遠くに見える敵兵がどんどんと大きくなっているのを眺めながら、俺はおっとりと服を着替える事にする。そう言えば、狸寝入りを決め込んだおかげで着替える暇が無かったのである。
それはまずい。俺はこの国の滅茶苦茶な女武将達とは違うのだ。戦闘で装備をおろそかにするなど有り得ない。
ジーンズにシャツ、ジャケット。そしてタイタンマンを始めとする各種装備をがっちりと着込むと、心身が落ち着いた。
「そう言えば、こいつに着替えるのは随分久しぶりだな」
……黒犬の時には着ていなかったよな。おかげで腹をばっさりと抉られたり、全くもって油断が過ぎる結果だ。いつから俺はそんなに偉くなったのか。
「剣技はゼムリアのおかげで成長できたが、心はむしろ鈍ったな」
正直に言えば、鈍った“かも知れない”と思っている。だが、自分でさえそんな風に思うと言うことは確実に鈍っていたのだ。俺はそこで厳しい自己評価を行えるほど出来た男じゃない。
「かもしれない、は鈍りきっている証拠」
そう言い聞かせても、まだどこか甘いものが残っている。錆落としをしなければ、とても劉貴とは渡り合えまい。ひょっとしなくとも、前回よりも情けない結果に終わるという醜態その物を晒しかねない。
「死んだ方がマシだな」
劉貴の、そしてゼムリアの失望した眼差しが自分の屍に向けられているシーンを想像しただけでぞっとする。そんな未来は死に直結している負けよりも恐ろしい。
「ちょ、何をやっとるんや!」
背筋を震わせ、腹の底が凍るような感覚に震えている俺に頭上から独特の訛りが降りかかってきた。顔を上げるまでもなく、そんなセリフを吐くのは俺の知っている限り一人だけである。
「でかい声だな」
「何をのんびり見上げているんや! 門を開けるからさっさと入ってきぃ! ああ、もう……とっくに姿をくらましているかと思うとったら」
「?」
なんで俺を入れようとしているんだろうか。
「惚けとらんと、ちゃっちゃとせんかい! 距離が詰まったらあんた一人の為に門を開けるわけにはいかんのやで!」
だから、なんで俺を入れたがる。
「中に入ったら戦えんだろう!」
錆落としに、あの数は結構なものじゃないか。おあつらえ向きって奴だ。
「戦うぅ!? 何を寝ぼけたことをいっとるんや!」
頭上で叫んでいる張遼の声は耳に届いているが、それにかまけている時間も惜しい。自分が悍馬のようにいきり立っている事を自覚し、それに身を委ねようとあえて、乗ることにする。
足が自分を前に運んでいくのを、どこか他人事のように感じた。
身体が殊の外軽いと感じる。全身に念が満ち、骨と肉もまたもっともっとと叫んでいるかのようだ。これが力に溺れてあっさりと殺される阿呆の姿その物だろうかと頭の奥で誰かがぼそぼそと呟いているが、もっと深いところでこの波に乗れと自分がささやく。
どちらが正解かなど分からない、ただ今は勢いを無くしたくなかった。
それこそ正に興奮して足下をすくわれる新米その物だなと笑いが隠せない俺の目に、きらりと輝く何かが映った。
矢だ。
遠く見える敵兵がこちらに向かって矢を番えているのだ。たった一人、大勢いる騎兵の一人が殺意を持って俺に鏃を突き刺そうと構えている。たった一人。か。
「そんなに矢が勿体ないのか、それともよほどの名手か」
自分に向かって真っ直ぐに走ってくる敵に矢を射るのは、結構難しい。お試しではあるが弓道をかじった時の経験から察するに、この距離で一矢必殺はそれなりに高難易度だ。この時代の低い技術力で作られた弓矢で馬に乗ってとなると、それに輪が掛かるだろう。騎射は特殊技能だと言うからな。
ひゅうう、と風を切る音が耳に届くがそれはあっさりと外れて後方へと抜けていく。敢えて下手くそとは言わないが、当たると本気で思っていたなら俺を甘く見ていると言うよりも弓を舐めているよ。
胸中で辛辣な文句を口にする俺だが、もちろん相手も案山子じゃない。即時次の矢が俺に狙いを定める。次は、五十ほどだ。
互いの距離はどんどんと詰まっているのだから、この数で充分と向こうは踏んでいるのかも知れない。かすかに聞えてくる声は、今度こそ外すなと言っていたが最初で当てるつもりだったのか?
「冗談にしてもつまらんな」
つい声に出てしまった俺のセリフを聞いた時に、せめて本気でムキにならないような相手である事を祈ろう。
「射てーっ!」
それなりに通る声が俺の耳にも届くと風を切る音が続々と聞えてくる。半分は外れるコースだが、もう半分は当たるコースだ。
ならば、それ以外の場所へ行けばいい。
こちらに向かって飛んでくる矢は、動けば躱せる。外れる矢は気にもかけない。目に見える速度で、飛んだ後に風で流される以外の変化もない矢に当たる訳がない。俺に当てたければレーザー以上の速度で飛んでくるか、放った後に技か術で当たるようにしなければ話にもならない。
四方八方から逃げ道を塞ぐコースとタイミングで襲い来る矢、撃たれた後で自らターゲットを追い掛ける銃弾、一瞬のうちに分裂して逃げ道を塞ぐレインミサイルなどは基本である。そこから更に、一介の剣士である俺には想像もつかないような怪異な力を見せてこそ、恐るべき射となるのだ。
この何の変哲も無い、本当に只の騎射でしかない矢に当たるのはいっそ沽券に関わる程だ。もしも魔界都市で殺し合いの最中にこんな射撃を見せたら、逆に唖然とされて命中するかもしれない。
「たった一人に何をやっている! 貴様ら揃いも揃って調練を怠けていたのか!?」
太い男の声がした。
一人、少しだけ華美な甲冑を纏った男が馬の上でわめいているのが遠目に見える。飾り気のない槍を持っているが、本当に持っているだけで構えてもいない切っ先は天へと向けられている。
何とはなしに、那須与一の逸話を思い出した俺はらしからぬ稚気が出てくるのを自覚した。
「手が届かないと思っているのか?」
こっちにだって遠距離攻撃の手段は幾らでもある。止まっている的なんぞ、正に絶好の鴨だ。
久しぶりに懐から取り出したMPAを片手にニヤリと笑うと、おもむろに引き金を引いた。赤く染め上がりつつある世界を青い光が駆け抜けていくのは幻想的でさえあった。
「……? ぬおおっ!?」
狙い通りに青いレーザー光は槍の穂先をどろどろに融かして彼方へと消えていく。やったぜ、と足を止めてガッツポーズをとった俺は大間抜けだろう。
罰はすぐに目に見える形で現われた。
何やら騒いでいた連中が、こぞって得物を構え始めたのだ。その数は、既に数えられるものでは無い。
「下手な鉄砲数打ちゃ当たる……は、まだ言えないセリフだったか」
さすがに、点が集まって面になるほどの数を射掛けられては避けるもへったくれもない。どこの軍かは知らないが、たった一人を相手に大袈裟且つ大雑把なことをしてくれるものだ。
今さらながらに旗を確認しようと目をこらすが、それよりも先に矢が放たれる方が先だった。比喩抜きで雨のように降ってくる矢に隠れて旗が全く見えない。いい加減勿体ないと思うのだが、後で回収するのだろうか。
思わず俺一人に対するにはもったいなさ過ぎるぞ、と。明らかにムキになっているようにしか思えない敵側に一言もの申したくなってくるが、さすがにのんびりしている状況でもない。かといって、それほど慌てる状況でもないのだが……
「そろそろ慣れたもんだな」
この数ヶ月間、一体どれだけ矢の相手をしてきたことか。いい加減に銃器への対処を忘れるんじゃなかろうかと危機感を覚えるほどに矢に狙われてばかりいたのだ。幸いというかなんというか、黄巾の乱のおかげで相手には事欠かなかったからな。
ぐるり、と自分に襲い掛かる数多の矢を仰ぎ見るが、その中に特別な殺傷能力を感じさせる矢も、有り得ない軌跡を描く、あるいは描こうとしている矢も存在はしなかった。
ならば、恐るるに足らず。
「なんだとぉっ!?」
彼方で質の悪い詐術に引っ掛かったような声が聞こえてくる。先ほどの騎兵隊長らしき男が目を剝いているのが見えたが、どこか出目金のようでユーモラスだった。それを尻目に、俺は目の前に広がる一種壮観な光景を堪能した。
それはさながら樹形図か、あるいは網の目状に絡まり合って広がる矢の塊。軌道の結果俺から敵軍に向かってのしかかるかのようになっているそれは視界を悉く埋め尽くさんばかりの広がりだ。これが俺の手に瞬時に握られていた木刀一本によって作り上げられたとは、矢が邪魔して見えもしない事を差し引いても想像できないだろう。
果たして総数は万かそれ以上か、さすがにこれだけの量を一気に絡め取ったことはないので、俺としてもなんだか気分がますます高揚してくる。
「よ、妖術だ……あの男、妖術使いだ!」
そう言われるのも理解できないわけでもないが、それこそ何度もゲテモノ扱いされるのは遺憾である。みっともない話だが、これが天の御遣い様だと奇跡扱いされるのかと僻み根性が顔を上げた。
「人を勝手に妖術師に仕立てないで欲しいものだ」
苛つきに背中を押され、仁王を振るうと一種の前衛芸術のように空中に広がっていた全ての矢が射手へと向かってまるでビデオのように逆戻りをする。
向こう側にしてみれば悪夢のような、あるいは冗談のような光景だったろう。自分達の射た矢がそっくりそのまま返ってくる。自分達の身体を鋼鉄が抉り込む痛みを感じてもなお、信じられなかったに違いない。
「う、嘘だ……嘘だ……」
「こんな事が……化け物だ、やっぱり董卓は魔王だ。だから化け物がついているんだ……」
「畜生、矢が、俺の矢が俺に返ってくるなんて有りなのかよ」
そう思わせる顔をして、彼らは各々落馬しつつ呻き声を上げている。
その周りには狂奔して走り回る彼らの愛馬がいたが、仮にも戦場で俺を殺そうとしたのだから馬に踏みつぶされるくらいは甘んじて受けるべきだろう。わざわざ腕や足を狙って矢を返してやったんだし、とっとと立ち上がって逃げるんだな。
「吻っ!」
仁王に軽く念を篭めて振ると、狂乱の馬達が一斉に轟音を耳にしたかのように硬直する。だが、一瞬の間をおいて落ち着きを取り戻して各々の主へと鼻をすりつける。
「お主……」
同じように念の一打を精神に受け、喝を入れられたように落ち着いた兵士達が俺を見上げて何かを言おうとしたが、それを新しい馬蹄が遮った。
「待てーいっ! そこの男、工藤殿! 待ってくれ!」
「あん?」
俺を明らかに名指しで呼んでいる。一体何処の誰かと聞き覚えがあるような無いような声に記憶を刺激されて目を向けると、夕日の中を騎馬隊が新たに駆けてきているのが見えた。
先頭には二騎。
一人は今日争ったばかりの趙雲で、もう一人は顔も声も忘れかけていた公孫賛だった。共に白い馬に乗り、他の騎兵達を引き連れて一目散に駆けてくる。どうでもいいが、二人とも後ろの男達に下着が丸見えではないだろうか。戦場で恥じらいなんぞ持たれても失笑するしかないが、羞恥心以前にあの格好はどうにかならないのだろうか。
かなり真剣にミニスカで堂々騎乗している、どこの戦場に出しても恥ずかしい二人を無視するべきか考えていた俺は、そのおかげで詰められた。ああ、全く……こんなどうしようも無い事でいちいち悩んでいるから馬鹿を見る。
「間に合ったか」
「無事か、お前達!」
どうやら、こいつらは公孫賛の部下らしい。そう言えば兵装に見覚えがあるような無いような気がする。趙雲が一緒にいるのは、劉備と組んでいるからなのかまだ公孫賛の許にいるからか。後者の可能性は低そうだな。
「久しぶりだな、工藤。さっき愛紗にあんたが董卓の部下にいると聞いて驚いたけれど、どうやら本当のようだな」
公孫賛は背筋が寒くなったと言いたげな顔をして、おもむろに周囲をぐるりと見回した。
「曹操が言っていたけど、降りかかる矢を悉く天に張り付けてしまったなんて噂……本当だったんだな。噂にしても誇張が過ぎると思っていたんだけれど……」
畏怖を表情から隠し切れていない彼女は、俺が目を向けるとはっきりと萎縮する。しかし、それを振り払って真っ直ぐ俺に視線を向けたのはちょっとだけ好感を持った。対象が俺で無ければ、もっと素直に好感を抱けたのだが、惜しいもんだ。
「一つ訂正だが、俺は董卓の部下でもなければ仲間でもない。関羽とやらはどこまでも出鱈目を吹聴するのが好きらしいが、名誉毀損もいいところだ」
「相変わらず、桃香達には辛いな……」
「誰だよ、それ。神聖だとか言いながら、お前らって簡単に通じない人間の前でも真名を使うよな」
適当な軽口を叩きながら彼女らの動きを軽快するが、どうにもこちらに挑もうという意思がないように思える。趙雲も公孫賛も、そしてようやくのろのろと起き上がり始めた兵士達も、武器に手をかけてはいるが構える様子もない。
「何か言いたいことか聞きたいことでもあるのか」
「相変わらず、率直と言えば率直でござるな」
久しぶりの公孫賛ではなく、数時間ぶりの趙雲が口を開く。その目がどこか苛立ちと困惑を持って俺を見下ろしていた。
「それにしても、大したものですな。数多の矢を全て防ぎきり、あまつさえ射手当人に返す。それがどのような手段によって行われているのかさえ其には分かりかねますが、少なくとも馬にも胴にも当てずに手足を狙って返すだけと言う方がよほど難事である事は察しがつきます」
俺を見る騎兵達の目の色が変わった。大抵は何が何だか分からないという顔だが、中には手加減したのかと怒りを見せる者もいる。至極真っ当なので、俺は怒らなかった。似合いもしない傲慢な真似をしたのは俺だ。
「有無を言わさずに愛紗の首をひねった御仁とは思えぬ慈悲深さですな」
「おいおい、まさかお友達を虐めるなんて許せないわとでも言うつもりか」
勝手な憶測に過ぎないが、口に出したくとも出せない本音だろう。
彼女の中に関羽に対する友情があれば、絶命ギリギリまで首をひねった俺に対して思うところは当然あるだろうが、それを口に出せば彼女は賊以下、正しく屑の中の屑に成り下がる。
それでも何も言わずにはすませらないからこその皮肉か。女だからとは言わない、手前勝手な感情で道理を踏みつぶすのは人の常だ。
「……そうは言いませんが、先だってとは打って変わっての慈悲深さ。さて、やはり天の御遣い殿に含むところがあると考えるのは穿ちすぎでもないでしょう」
「まだ名乗っている辺りに厚顔さは感じるけどな。それはさておき、踊らせている将と踊らされている兵だったらどっちがマシだと思っているんだ?」
少なくとも、俺にとっては前者の方がよっぽどろくでなしだ。情報などろくに入ってこない兵卒一人一人にその辺の判断と責任をかぶせるのはおかしいと思っているから、殊更に命を奪おうとも黄巾のような目に遭わせようともしないが、仮に彼らが全てを知った上で攻めてきているんなら相応の目には遭わせるだろう。
「そんな議論をここでやるのも間抜けが過ぎるだろう。それよりも公孫賛。まさか、あんたまでこんな糸を引くほど腐っていそうな議論をやりたいとでも言うのか?」
「いや……まあ、言い方がきついとは思うがそんな話をしたい訳じゃない、もっと大事な話はある」
夕映えに染まった彼女の肌は自身の髪よりも赤く見えたが、それでもなお血の気が引いているようにしか見えないのは表情のせいだろう。
「劉貴……でよかったか? あんたが言っていた、星を倒した吸血鬼……それが袁術の所にいるって言うのは本当か?」
おかしな事を言う。トンブの話だと劉貴は別に身を隠していない、軍議とかにも顔を出していると話を聞いたんだが……
「トンブに聞けよ。劉備の……天の御遣いと言った方がいいのか? まあともかくあいつらの所でふてぶてしくやっているはずだぜ」
「……確かにいるよ。でも、すごく胡散臭いんだ。なんというか……うかつに信じるとひどい目に遭いそうで……」
「見た目で判断してないか?」
ちなみに、俺も同意見である。
「う……」
「まあ、その辺はどうでもいいさ。そういう事なら少しは教えてやれる。俺がトンブに聞いた話だと、劉貴はいるぞ。袁術の所はまるまる吸血鬼になっているって言う話だ。正味、どれだけ真っ当な人間がいるかどうか心配になってくるくらいにな」
噂は聞いているだろ、と振ると二人の顔は真っ青になった。俺達の会話を理解できていない他の兵士達も、両名の顔色を伺い大人しくしている。
「堂々軍議にも顔を出していたって聞くぜ? それらしいのに見覚えないのか」
「…………」
公孫賛は今度こそ青を通り越して白い色になった顔をうつむかせた。
「ああ、いたよ。袁術の代理とかで参加した将の中に今まで見た事も無いような、それこそ見るからに偉丈夫と言う男がね。名前も堂々と劉貴と名乗っていたから、もしやと思わなくもなかったが……正直まさかこんな所にとも思っていた」
なるほど、疑っていたから聞きに来るような酔狂な真似をしたのか。彼女の性格もあるようだが、陣内の噂も大きくて確かめざるを得なかったという所かな。
「これといって何か意見を言った訳でもない。何か派手な格好をしている訳でもなければ、殊更に周囲を威圧しようとしている訳じゃない。袁術の代理を名乗った後はただ座して場を見守っていただけだ。なのに、誰もが圧倒されていたよ。あれが本当の“威”ってものなんだな。ただそこにいるだけで、仮にも朝廷から任じられて万の軍の上に立つ諸侯が圧倒されていた。連合を呼びかけた麗羽……袁紹も、噂の錦馬超も、いつも皆の中心になっている桃香も天の御遣いを名乗っていた北郷も、あの曹操でさえも色褪せて見えた。本当に、皆ただの小娘にしか見えなかったな」
朝廷に牙を剥こうと、あるいは傀儡人形へと変えようとしている連中が朝廷の権威を語るのもおかしな話だが、言いたいことは分かった。
「傑作だったよ、皆が皆あの男に意識をさらわれてしまった。ろくな軍議にならなかった。あれは真っ当な男じゃない。けれどもお前の言う怪物にはとても見えなかった。まさに、彼こそ天の御遣いその物にさえ思えたよ」
「そいつは失笑ものの勘違いだな」
むしろ、あれは天に背かれ背いた男だ。
「そう言うなよ。それにしても、とんでもない話になってきたな……まさか、袁家の片方が化け物に乗っ取られて、挙げ句の果てに化け物に成り果てているなんてな……」
「そう思うんなら、あれこれ言っていないでとっとと尻に帆をかけろ。欲の皮をつっぱらかせるからこうなる。自業自得だ」
「欲とはなんだ! 私達は……」
「おためごかしなど不愉快なだけだ。董卓は袁紹が口にしているような悪政などしてはいない。そのくらい、仮にも人の上に立ち兵を動かすんなら情報は得ているはずだ。引きずり下ろして後釜に座ろう、さもなければ漢その物を滅ぼすってぇのがお前らの脚本だろう……治に乱を起こすような真似をするにも想定外の横やりが入ったんだ。火傷が致命傷になる前に大人しく引っ込め」
言ってはみるが、どうせ無理な事はわかっている。誰でも思いつく一番賢い解決方法も出来はしないのが柵の恐いところだ。ましてやそれが、集団の柵になれば輪が掛かる。どれほど馬鹿な結果が待っていようとも、これだけ大きな集団はそれだからこそ無闇に突っ走って潰れるしかない。
「……やっぱり、董卓の悪政は麗羽のでっちあげか。察しは確かについていた。でもそんな簡単に言ってくれるなよ。軽々しく出来ない事は、あんたにだって分かるだろう」
「挙兵は軽々しかったみたいだけどな」
皮肉一つだけですむ事を、いっそ驚いて欲しいもんだ。俺がこの国に骨を埋めるつもりだったら、きっと董卓軍の味方になって兵士として暴れていただろう。そのくらいこいつらはろくでもないにも程があった。
ともかく、公孫賛達はこれ以上やる気はなさそうだ。それなら他を当たるべきだろう。生憎と太陽はまだまだ沈まないが、劉貴はいつになったら出てくるだろうか。
「次が来たな」
「ん? あれは……桃香の軍か!」
視線を彼方に向けると、そこには公孫賛のそれとは若干異なる意匠の武装をした軍が、こちらは歩兵と騎兵が混ざり合って押し寄せてくる。
先頭には歩兵。その動きは砂糖に群がる蟻のようで、奇妙な不気味さを感じさせる。その後方、遙か彼方には張飛と名乗る奇妙な少女が駆けてきているのが見えたが、天の御遣いや劉備は影も見えない。恐らく、後方に控えているのだろう。ろくに内情を知らない余所者ながらもそれが妥当だとは理解しているが、男が後ろに控えて子供が前に出てこようとしている姿にはやはり忸怩たる思いがある。
「戦場に立つ男ってのは、どんな理屈があっても子供の後ろでこそこそしていちゃならない。そう考える俺は、戦場を理解していない愚か者なんだろうかな」
場違いな事を意識の片隅でつらつらと考えていると、後方から新しい歓声が上がった。
「……出てきたのか?」
ちょうど張飛とは真逆になる位置に、彼女とは見た目が対照的な色気過剰の女が手綱と剣を握っているのが見えた。言わずと知れた呉の頂点は、相当の遠距離で表情など分かるはずもないのに意気揚々としているようにしか見えなかった。全くもって不思議な話だがきっと、俺がそうに違いないと思い込んでいるからそんな風に見えるだけだろう。
どこからともなく、眼鏡をかけた痴女の罵声が聞こえてきたような気がするが双方の兵士達が挙げる鬨の声にかき消されて分からなかったし、見覚えのある露出過剰な痴女二号の二重の意味でサラシ娘がやけっぱちになったように叫んでいるのは、きっと孫策とは無関係だろう。
「どいつもこいつも勝手しくさりよってー! こうなりゃヤケじゃー!」
ご愁傷様と言ったら怒るだろう。それに、なんだかんだと言っても声がどこか笑っているから張遼も楽しいに違いない。
「あれは……袁術の所から離反した孫策! 鈴々とぶつかるつもりか!」
公孫賛がまるで観戦するかのように両者の激突を見守る体勢に入るが、その予想はあっさりと外れる。孫策とその兵士達は張飛と手勢をあっさりとかわし、大きく迂回してきたのだ。
俺達の方へと。
「って、こっちに来たー!?」
「これはまずいですな……白蓮殿、退きますぞ! 其れがしが抑えますので、早急に兵をまとめて」
俺と目が合うと、彼女は黙り込んだ。
「そう言えば、工藤殿がいましたな」
「なんだよ、いましたなって。隠れたつもりはねぇぞ、失礼な奴め」
ふん、と鼻を鳴らして孫策へと目を向ければ、飛ぶように近付いてくる彼女はみるみるうちに大きくなった。すぐに会えそうだな。
「速い! 小覇王の名は伊達ではないか」
騎乗の技を褒めている余裕があるのなら矢でも射掛ければいいんじゃないかと思ったが、持ち合わせがないようだ。槍しか見当らないのは少々軽装が過ぎないかと思ったが、そう言えばそもそも論外の格好だった。
「借りを返さないまま雌雄を決さなければならないとは、不義理で申し訳ありませんが……詫びはあの世でさせて頂く!」
槍をこちらに向けて構え今にも突いてきそうな様だった。味方でもないが、殊更に敵対する理由はないと思うんだが、既に兵を多数叩きのめした以上は当たり前に敵だ。だらだらと喋っていた今の状況が特殊だったんだ。
「まあ、劉貴相手のウォーミングアップには……なるかね」
「おーみんぐあっぷとやらが何かは分かりませんが、侮られている事は理解できましたぞ。この趙子龍の槍、おさおさ引けをとる物では無い!」
「なら、やろうか」
馬上の相手に合わせて、仁王を上段に構えた。まるで道場剣法のようだな、とどこか自分を滑稽に思いながらも他の手を取るつもりもなかった。日本古来の騎馬を相手にする剣術もないではないが、俺は不得手だったのだ。加えて、練習ばかりで実際に試合さえもした事がないという体たらく。付け焼き刃丸出しで勝負する気にはなれない。
しょうがないだろ、馬に乗っている敵と戦う機会なんてそうそうないんだよ。練習なしでどうにか出来るほど、俺は天才じゃねぇ。
だが、全く無策って訳じゃない。騎馬に乗っている有利は基本的に移動しているからこそ生まれる物で、そうでなければ馬の影から斬りかかる事も出来る。
ただし、それは得物が同じリーチをもっているからこそであり、剣と槍じゃ間合いが全く違うのは誰がどう見ても一目瞭然だ。まあ、だからといって違う得物を頼るつもりはない。確かにここで飛び道具にでも頼れば間違いなく一瞬でケリがつくだろうし、それは正しい選択だ。
だが、これはいい機会だ。劉貴も騎馬に乗ってくる可能性が高いとなれば、ここで戦うのはまたとないスキルアップのチャンス。
経験させてもらおう、騎馬の勝負って奴を。
嘗めてかかるべきではないとは百も承知だが、それを差し引いてもこの機会は逃せない。こんな事なら孫策達の誰かに相手を頼むんだったと正に後の祭りな考えをしつつも、今現在目の前にいる相手に意識を集中する。
「!」
その瞬間、偶然なのか狙っていたのか背後から二人の兵士が奇襲してきた。俺に打ち倒され、手加減された事実に憤っていた公孫賛の兵士達だ。
タイミングとしては見事だ。上から目線で恐縮だが、狙ってやったとしたら結構腕利きだったかも知れない。
「ナイス不意打ち」
「!」
もっとも、俺は視界がほとんど360度にまで達する四方目の類を欠かさないから失敗に終わったがな。
一人は左手で腕を止められ、もう一人は後ろ蹴りで迎撃されて声もなく悶絶した。いい具合に急所に入った後ろ蹴りは、俺が本来剣術家である事を差し引いても致命的である。多少の手加減はしたが、三日は飯がまずいだろう。
これも傲慢かねと笑いながら、もう一人を逃さず同じように気絶させた。その間、趙雲は決して槍を使わなかった。
「随分上品じゃないか、今の隙に突いてこないなんてな」
「片時も目を離さずに何を言われるか。それに、私は一騎討ちのつもりだったのですよ。このような横やりに付け込むつもりはない」
「そんなロマンチシズムは、味方に迷惑なだけだと思うがな」
「ろまん……?」
試合やタイマンで袋叩きは俺も遠慮するけどな。兵士にしてみれば、遊んでんじゃねぇよと言いたくなる所じゃないか。
気のせいか恨みがましそうな兵士の昏倒顔を一瞬だけ見下ろしてから、趙雲に目を向ける。口元に自然と笑みが浮かんできているのを自覚した。不敵な顔になっているのかは自信がなかった。
夕映えの残照が、槍の穂先を煌めかせる。それが瞳に飛び込んでくるが、瞬きをする訳にもいかない。顔をしかめる事もなく待ち続ける俺の耳に、どんどんと近付いてくる数多の歩兵、騎兵の足音と歓声、怒号に悲鳴が飛び込んできては通り過ぎていく。
「ふっ!」
一直線に迫る突きが、俺の喉元を狙ってくる。引きつけてから躱そうと身構えていると、わずかなしなりが狙いを変えて、顔面に向かってきた。
もちろん、その程度で当たるほど鈍くもないが、それを躱すと伸びきった瞬間を狙う間もなく一気に下がられる。タイミングを外された隙をついて、次々と連撃が襲い掛かってきた。
「はああっ!」
突き、突き、突き、と常人が一度突く瞬間に、三度突いてくる。まだまだ小手調べだが、躱したこちらによく出来ましたと言わんばかりの笑みを向けているのが、無性に癇に障った。
だが、やはり間合いの勝利だろう向こうが一手先に場を制す。再度同じ突きが襲い掛かってくるが、今度は三閃ではなく五閃が襲い掛かってくる。赤を纏う銀の輝きだが、俺の血という新しい赤色を加える事なく空しく宙を切り裂いただけで主の許へと戻っていく。
「これも躱しますか。しかも、得物を使うでもなく……お見事」
全力はまだまだ先だと言わんばかりに、彼女は槍の速度を少しずつ上げていた。最後の一閃も彼女の最速ではないだろう。
それは彼女の性分なのか、それとも騎馬と歩行、そして槍と剣の有利による物なのか。こちらを試すかのように趙雲は少しずつ槍の速度を上げて軌跡に変化を与えている。
俺に何が出来るのかを確かめ、その作業その物を楽しんでいるようだ。其れを傲慢と憤る権利は俺にはないのだが、もしもこれがいつもの事だとするなら、こいつは実に嫌みな女である。
「では……次はこれで!」
もう一度、五回の閃きが俺を襲う。喉元に一、胴に三、腕に一の順番でしなりによる変化も加えて突き込まれるが、その悉くは空を切った。速度で言えば、全てが先ほどまでの攻撃を上回っていたがかすりもしない。
「ならば!」
全て躱された趙雲が休む間もなく繰り出してきた攻撃は、これまでとは違うなぎ払いだった。斜め袈裟斬りを狙って振り下ろされたそれだが、いつか来ると予想していた俺にとって、躱すのはむしろ簡単だった。
「……読まれていたようですな」
「まあな」
殊更に突きばかり阿呆のように繰り返してきたのだ。もしもこの単調な攻めに狙いがあるなら、真っ先に思いつくのは突きに慣らして侮った隙になぎ払いで変化をつける。それがセオリーだろう。
当たり前すぎて、あまり喜べない。
「見ぃつけたー!」
「おお、白熱していたが鈴々が来たのでは時間終了ですな」
どこかわざとらしい口調で笑った。いちいち胡散臭い言動だな。
「これで、少しは修練になりましたか?」
「……何?」
「おお、驚かせる事が出来ましたか。重畳、重畳」
おもむろに肩に槍を置く女は、してやったりと笑っていた。
「気が付いていたのか」
「これで借りは返せましたかな」
どうやら既にやる気はないらしい。一体何処でばれたのかは分からないが、男と女じゃ隠し事の巧さは女が圧倒的に有利であると思いついて諦める。別に、俺個人がとびきり腹芸下手くそだと言う訳でもないはずだ。
「次は本気で勝負して欲しいものですな」
「次はないだろ」
お互いにいつ死ぬか分からない身の上で、次があるなどと考える方がどうかしている。刹那的になるつもりはないが、適当な約束はいつもするモンじゃない。
ただ、むしろこっちこそ借りを作った気になったな。
「いつかもう一度会ったらな」
背中越しに応え、相手の顔を見る事も無くそのまま駆け出す。既に張飛は目と鼻の先に迫っているのだ、悠長に話している余裕などない。
「にゃははははっ! ここで遭ったが百年目なのだー!」
脳天気が過ぎて苛つきを感じさせる声が俺を迎えた。孫策の軍と併走していた自軍の歩兵達をかき分け、張飛が餌に飛びつく犬のように俺を目掛けて馬を走らせる。
一体何が面白いのか、遊園地の門が開くのを今か今かと待ち続けている子供のようだ。いや、ガキと言ってもあれは“新宿”でもまず見ないような異常な数を惨殺してのけた生粋の殺人者。見た目通りと思うべきではないのだろう。
今も、俺と自分との間に横たわる孫策の手勢を面白いように蹴散らして突き進んでくる。人が彼女の持つ刃に引き裂かれ、あるいは馬蹄の下に踏みつぶされているが、笑い顔が全く消えていない。それでいて孫策のように血に酔っていないのはお互いの間にいる兵士達を人間ではなく、正に障害物としか見ていない証左だ。まるで子供が怪獣ごっこで人形を踏みつぶしているかのような、滑稽だがおぞましい光景に見える。
ガキだと言ってもあの小娘は人殺し、あるいはそれ以下か。
虫の羽をむしって遊ぶ子供のように、人を殺して回る怪物だ。殺人者としての自覚がないサイコパスさながらの人殺しにしか見えん。そういう人間が英雄だの武人だのともて囃されるのが戦国時代か。
「爆弾で吹き飛ばすだの、遠間から銃なんかで殺すだのじゃない。返り血を浴びて無念の表情を見詰め、悲鳴を聞く槍と剣の距離でどうしてああも“気が付かない”でいられるかね」
人が死ぬところを見れば、心に傷が出来る。それは時間をおいて忘れた振りをしても古傷のように思い出す度に痛む物だ。だと言うのに、張飛にはそれがない。慣れているだけかも知れないが、戦場、殺人という極めて異常な状況にぶつかっておきながら、そこで当たり前に生じるはずのマイナスな人間性の変化が全く感じられないのだ。
もちろん、前々より知っている訳では無い。それどころかろくに口を聞いた事もない俺に下せる判断ではないのかも知れないが……俺には表面通りの明るく無邪気な子供にしか見えない。
それが“区外”で壊れたように笑いながら子犬の腹を割いて内臓を並べていた中学生達よりも何倍もおぞましく見えてならないのだ。彼らはそれが悪事だと、醜く恐ろしい行為だと分かっていてやっていた。
だが、張飛には自分が人殺しをしているのだという自覚はあっても……それが意味するところを理解どころか認識さえしていないように見える。
分かっていてやっている者と、分かっていない者は一体どっちがろくでもないのか。畜生のランキングなどに興味はないはずだが、そんな疑問が脳裏をよぎった。
「お前をやっつければ桃香お姉ちゃんもお兄ちゃんもきっと褒めてくれるし、負けた愛紗にも威張れるのだー! だから覚悟ー!」
おもちゃの刀を振り回すように、本物の得物を尋常ではない怪力で振り回して本当に人を殺す。これが褒め称えられるのが戦場で、戦国か。
ひょっとすると、“新宿”以上にこの国その物が狂っているのかも知れない。いいや、まだまだ漢どころか“新宿”の事さえ分かっていない分際で、そんな事を考えるのは先走りが過ぎるか。
それに、考えている暇はない。
「隙有りなのだーっ!」
馬上から、間合いに入った途端に工夫も糞もなくただ真っ向から振り下ろしてくる。かつて出会った頃と何も変わっていない。
俺を忘れた訳でもないだろうが、彼女の剛力はそんじょそこらの兵士では受け止めるどころか見る事さえ適わない程だ。積み重なる作業的な勝利の記憶は、俺と対峙した時の敗北の記憶も薄れさせたんだろう。
「まぐれはもう続かないのだー!」
何ヶ月も前の二回きりの邂逅など都合のいい記憶にすげ替えるのは時間も手伝って簡単であり、寧ろ自然でさえあっただろう。
「お前は少し」
ただ、そうやって都合の悪い記憶を好き勝手に塗り替えた粗忽者が痛い目を見るのは世の常だ。
「自分の業と向き合え」
趙雲の槍捌きよりも力はあるが遅い振り下ろしは、俺にとって隙を作るだけでしかなかった。あっさりと懐に潜り込み、飛び上がって念を篭めた一閃を脳天に叩き込むと、彼女は物も言わずに昏倒する。
自分の部下を文字通り蹴散らされた孫策が、怒りとそれ以上の闘志に燃えて到着したのはすぐだった。
「あぁ、先を越されたー!」
俺が考えるのも筋違いだから何もしないが、こいつもこいつで、少し叩きのめした方がいいのかも知れない。殺人を理解して酔っている女と理解せずに繰り返すガキはどっちがマシなんだか……
呆れを感じる俺の前に現われた孫策の持つ抜き身の刀身は鋼の輝きが返り血に隠される程で、彼女自身はそれ以上に真っ赤に染まっている。相変わらず甲冑という物の存在意義を失わせる格好だったが、濡れたおかげで元々露骨に出ていた身体の線がますます顕著になり、血に酔って笑う表情から発する凄絶で被虐趣味の男が股ぐらを膨らませる類の色気は“新宿”の“歌舞伎町”でもなかなか見ないほどになっている。
「今日は工藤に美味しいのを全部持っていかれる日なのかしら?」
「あっちに歯ごたえのありそうなのがいるだろう」
張飛を助けるかどうかを迷っている趙雲および公孫賛と目が合った。
「へえ、趙子龍に公孫賛か……二人とも、久しぶりね」
「あ、ああ」
「黄巾の戦以来ですな」
振った俺を恨みがましそうに睨む公孫賛は完全に呑まれているが、趙雲は別段ダメージもなく疲労もない。きっと面白い勝負になるだろう。
それにしても、公孫賛だってさっきから見ていれば馬術は俺から見ても他より上に見えたってのに、結構気弱だな。地に足をつけてじゃなくて騎馬戦の勝負なら棄てたモンじゃないと思うんだが……
「それじゃあ、お勧めにのりましょうか」
「いや、ここは退かせて頂く」
意外な事に、趙雲が孫策の誘いを断った。だが、意外に思ったのは俺だけらしく孫策はにやりと人の悪い笑顔のままで距離を少しずつ詰めていく。
「逃がすと思う? 思わないわよね」
切っ先が馬の足下に転がっている張飛に向けられた。馬に乗っているんでさっぱり届いてないが、脅しとしちゃ充分だろう。
さて、人質を卑怯だなんだと言ってくるのかそれとも向かってくるのか。思いついた選択肢は二つだけだが、意外な事に趙雲は槍を構えなかった。
「退くと言ったはず。鈴々の兵は、彼女が討たれたせいで士気が霧散している。貴方の手勢に平らげられそうになっている以上、我々だけでは無駄死にですな」
趙雲がこちらの動きを位置取りで牽制して、その間に公孫賛とその手勢は体勢を整えている。交戦の意思は全く見えずに、ただ引く事のみを念頭に置いているように見える。それは孫策も同意見のようだ。
「本気で退くつもり? 威勢がよくて腕に自信のある武人に相応しい振る舞いには見えないわね」
「何と言われようとも、全滅に向かって突き進むほど愚かではないし、貴方と部下達を前にして単騎で勝てると考えるほどうぬぼれが強い訳でもありませんな」
「よく言うよ、黄巾党の時には自分なら一人でも大丈夫だとか言って、見境なしに突っ込んでいってやられそうになったくせに。誰に助けられたと思っているんだ、猪武者」
舌戦の間に体勢を整えた公孫賛が、手勢に指示を与えた後で話に割って入る。俺はぜひともこの飄々とした女がどうしようもない失敗をしたシーンを拝んでみたいと思ったが、何とはなしに勘でそれを察したのか趙雲が眉間にしわを寄せて俺を一瞬だけ睨んだ。
「へえ、そんな事があったんだ」
「それはさておき」
孫策にも面白がられた趙雲は、無理やりに話を切り替えて逃げようとする。彼女が生き残ることが出来たら、若気の至りと笑える日も来るのだろうか。
「話している間に白蓮殿の騎兵は退き、孫策殿の歩兵は目の前にまで迫りつつある。時間切れでしょう」
それを察していない訳でもなかったが、俺にとってはどうでもいいし孫策もまた何か思うところがあったのか趙雲と公孫賛のどちらにも斬りかかろうとはしていない。
「この娘はどうするの? お仲間なんでしょう」
「鈴々は桃香殿と北郷殿の軍における将。懇意にはしておりますが、我々が命を賭けて分の悪い、死んで元々の勝負に出る事は出来ませんな」
意外な返答をした趙雲だったが俺にとって一番意外だったのは、趙雲がまだ公孫賛の許にいた事である。
「趙子龍、一日の内に関羽に続いて張飛まで置いて帰ったら、天の御遣い様や劉備と軋轢が生じるんじゃない? 公孫賛もそれでいいの?」
それなりに忸怩たる思いはあるのだろう、趙雲は形のいい唇を一瞬だけ噛みしめた。
「……仮にも雇い主を差し置いて、最初に言ったのが星だって言うのが引っ掛かるけどな。確かに私も同意見だよ。助けられるだけ助けたいが、今は出来ない。それが許される状況じゃない」
立場が逆だったら、きっと助けようとしてくれるんだろうけどな。そう言って自嘲する公孫賛だったが、俺は正直疑念が残る。彼女、天の御遣い達にたかられているようにしか見えないから助けるかどうかは微妙だと思う。
助けようとはするんだろうけどな、一応。真剣にはなっても命がけにはならなさそうだ。それは俺が彼女らに抱いている勝手な印象に過ぎないんだが、間違っていないように感じてならない。
「まあ、構わないわ。小なりとはいえ敵将を一人早々に討てただけでも結構な収穫。これ以上は欲が過ぎる物ね。でも、いずれ袁紹か袁術の首は私がもらうわ」
できれば自分の手で討ちたかったと顔に書いてある。つくづく剣呑な女だ。
「工藤もそれでいいでしょう?」
一応俺にお伺いを立ててくるのは、お互いの立場を理解しているからだろう。もしも部下扱いしてくるような馬鹿がいたら、有無を言わさずにどつき倒していた。
「意識は失っているが、命に別状はない。俺が一喝するか、設定した条件をこなさなけりゃ目を覚まさないから暴れる心配はないぞ」
「条件?」
「傷つけ、殺した数だけ自分自身に殺されている最中だ。全員分が終われば自然と目が覚める」
そうすりゃ自分の行いがどんだけおっかないか分かるだろう。その上でまだ戦うんなら、剣を持つ資格がある。俺が上から目線で判断することじゃないけど、それでも見逃すには目に余りすぎた。そんな俺を趙雲は恐れるように見るが、彼女は以前曹操やなんかと一緒に似たような話を聞いたはずだが……
「え、えげつないですな」
「なんだ、たいした事ないじゃない」
出来るのかと疑問を挟まれる事はなく、今にも立ち去りそうな趙雲と悠然と立っている孫策の意見は真っ向から分かれた。
「普通は初めて人を殺した時に通過しておくべき儀礼でしょう。今さら数だけ多く繰り返されたからって、どれほどの物よ」
「むう……」
「趙子龍。まさか今まで殺した相手を省みなかった訳でもないでしょう。全て受け止めて呑み込んだ上で振るわずに、剣を持つ資格はないわ。どういう受け止め方をするかは人それぞれでしょうけどね。張飛は呑み込む、受け止めるどころか見えてもいないようにしか思えなかったから、工藤はこういう事をしたんでしょう。おかしな世話を焼く物ね」
口はばったいが、そういう事だ。しかし、二人揃って妙に語られてはさすがに尻が落ち着かない。
「鈴々とて黄巾の乱を駆け抜けた武人。その程度の心得がないとお思いか?」
「当然思うし、それをえげつないと言った貴方も武人か否かを判断できる器量とは思えないわね」
両者がにらみ合える余裕があるのは、それだけ孫策と張飛が先走って兵士との距離を離したからだ。どっちも将としての自覚があるとは俺にさえ思えない。それはさておき、ようよう追いつきそうな兵士に公孫賛が趙雲を急かしているんだが、彼女は何をムキになっているのか退こうとしない。
しょうがない。
「人を挟んで言い争うな。お互いに理解や共感を求める間柄じゃないだろう。敵同士で何をやっているんだ? このまま夜になるまで話し込んでいるつもりもないだろうに、いい加減さっさと退け」
「そ、そうだな! もうすっかり暗くなってきているものな! ほら、星も話をしている場合じゃないだろ、退くぞ!」
公孫賛が、救い主のような目を向ける。これまでの互いの立場やこうなった経緯を思い返すとなんだかなぁと言う気分になる。馬鹿馬鹿しささえ感じるから、さっさと行ってくれ。
「そうしてくれ、最上の大物が近付いてきているんだからな」
「……新しい馬蹄の音? これは……五百くらいか」
公孫賛が表情を変えて彼方を見据える。同じような音があちこちから聞こえてくると言うのに、よくも方向と数を当てられる。大した物だ……何というか……以前、気配を消した俺を一人だけ見つけた時といい目立たないところが有能な女だな。
「俺の客だ。真っ直ぐにこっちに来てくれるとは、ありがたい……孫策、手を出すなよ」
「…………」
彼女は無表情で沈黙を貫いた。しかし、沈黙に待ちきれなくなった俺が念を押そうと知るその瞬間を狙ったようにうなずく。
「いいわ。ちょっと惜しいけど、何となくここは出る幕じゃないって感じる。それに、言っちゃなんだけど、人じゃなくなったのは袁術ちゃん達なんでしょう? 家の妹ならともかく、邪魔だから殺してやろうと思っている連中に手を出しただけなら、そんな相手とやり合う理由はないわ」
「そりゃ結構。そこの二人、もう残っているのはお前らだけだ。さっさと行け!」
声に力を篭めて叫ぶと、二人よりもそれぞれの馬が反応していきり立った。そのまま一度大きくいななくと、背中に座った主の指示を待たずに勝手に走りだして立ち去った仲間の後を追った。悲鳴だけは堪えて首だけ後ろを振り返った彼女らだが、何を言おうとしたのかは分からない。その声が届くよりも先に馬は駆けていったからだ。
それは俺の一喝に弾かれたのではなく、これからここに来ようとしているモノから逃げようとしているのかも知れない。彼女らが沈んでいく夕日を追い掛けるように駆けているのとは逆に、消えていく夕日を背にこちらに駆けてくる騎馬団がいる。
「まだ日差しが消えた訳でもあるまいに、揃って布きれ被って勇ましいこった……」
いい加減に夕日は大地の向こうに沈み、夜の帳がゆっくりと降りてきつつある。こんな刻限を、日本では逢魔が時という。魔と逢う時。
統率者を失い、士気の下がった張飛の部下が蹂躙されているのを背景に、俺は彼方を見据える。
「張遼はどこにいる?」
「馬に乗っていないと見えない? うちの隣に劉備軍……御遣い軍かしら? がいて、その後ろに食いついているわ。横と後ろから思う存分食い荒らされているわね」
「……あっさりと潰されすぎじゃないか? 他の手勢はいないのかよ」
「劉備の武将は二枚看板。その内片方を潰したのは貴方でしょ。死んでなくても、今日のうちに出てこられるかどうか知っているのはどこの誰?」
「助けに来られないって事か」
「劉備も天の御遣いも、私の知っている限りじゃ個人の武力も将としての統率力、指揮力ともに論外。今頃おたついているんじゃないかしら。余所に助けを求めるにも面子がお互いにあるから簡単にはできない……特に劉備達は血筋だけはともかくとして実際には新興の弱小だから、手柄は喉から手が出るほど欲しい」
家も似たようなモノだけどね、と自嘲ではなくあっけらかんと笑う。
「少なくとも、私達が連中を再起不能にするには充分な時間は稼げているわよ。あなたがあんな滅茶苦茶な方法であっさりと公孫賛の先触れを無力化してくれたからね。こうなると、彼らが生き残るのに残る手段は……あんな風に誰かが率先して救援に出てくること以外にはない」
俺は、話しながら片時もこちらに近づいてくる新たな騎馬軍団から目を逸らさなかった。逸らせなかったという方が正しい。
遠目にもはっきりと漂う妖気が目を逸らす事を許さず、濃厚なそれはどんどんと小さく弱くなっていく陽光の勢力を更に弱め、彼らの側だけ夜が先に舞い降りてきているかのように闇が濃くなっている。
その異様さは殺し合いをしている兵士達にもはっきりと伝わったようで、少しずつ戦場の熱が冷めてきているらしく静かになってきている。
「とんでもないわねぇ」
孫策は飄々としたいつもの調子を意識しているようだったが、震えている。笑う事が出来ないのは気持ちが分かるからだ。ああ、全くとんでもない。
「数は……ええ、確かに五百騎。あれが全部人間じゃないのね」
「あれが人に見えるほど鈍感でもないだろう」
あんな連中が一緒にいて、よく連合側は瓦解しなかったもんだ。もちろん露骨に妖気を漂わせたりはしなかったんだろうが、それにしても限度があるだろう。連合の連中は苔石並の鈍感揃いか?
「生まれて初めてね。人じゃないものが率いる軍と戦うのは……あの赤い血の腕に捕まれた時にはどうしようもないほどおぞましい感触がして、三日は取れなかったけれど……あの時から因縁は始まっていたのかしらね。それとも、貴方と勝負した時からかしら」
「俺におかしな因果を求めるな」
強がりを言わず、しかして弱気を隠そうともしない。あの異様な敵を前にして逃げずにそれが出来る女に、俺は好感をもった。
「いずれにしても、あいつの相手は俺がする。あんたらは、他を倒せばいい」
「……さっきも言ったけど、出る幕は心得ているわ」
「目の色が、言っている事を裏切っているけどな。元々が、俺とあいつの勝負だ。お前の欲しい首は袁術だろうし、取らなければならない首は袁紹だろう? あいつは……劉貴はお前らにしてみれば大した重みのない相手だ。いらない色気を出すなよ、妹の事もある」
「なんで、ここで蓮華が出てくるのよ」
言うべきか言わざるべきか迷った。甘寧だの周泰だのは報告していなかったんかい。なんで俺がこんな種類の懸念をいちいち言ってやらなけりゃならんのだ。色が桃色の話をする柄じゃないんだ。
「それは孫権の事だろうと思うが……彼女はたぶん、劉貴に惚れたぞ」
孫策の目が筆舌しがたい、見たことも無いような形になった。二の句がつけられない様子だったが、ひょっとすれば、生まれて初めてこんな顔をするのかも知れない。
「は……? ちょっと、それ冗談かしら。ちっとも面白くないんだけれど」
「俺が冗談で、こんな口が曲がりそうな事を言うと思うのか」
大の男が色恋の話を酒に酔ってもいないのに白昼堂々できるか。そろそろ夜だが。
今しも雄敵と剣を交えようと言う時に、なんでこんな話をしなければならんのだ。自分を客観的に省みて、こっぱずかしくなってくるにも程がある。
「確かに似合わないけど、ええ-? あの子が? 堅物よ、石でも負けそうなくらいに堅物なのよ、家の妹は」
「そんな事は知らん。ただ、似合わないと言われる俺から見てもあからさまだ。あれは、下手すりゃ足を引っ張るぞ」
これが平時だったら面白がったかも知れない。だが、彼女は努めている訳でもなくごく自然と冷徹に言った。
「もしもそうなれば、この手で首を落とすわよ。心配しないで」
そうなる前に諫めろよとは思うが、それをしないのは彼女なりの妹への信頼だろうか。女も男も老いも若きも関係なく、恋か色に狂えばあっさりと家族も仲間も裏切ると言うのが俺の経験談だが、生憎と他人の経験を見てきただけであって幸か不幸か当事者になった事はないので黙秘しておく。
「ああ、わかった。それと、俺にこんな恥ずかしい話しをさせた二人には仕置きをしておいてくれ」
「そんなに恥ずかしいの?」
「気障なセリフが似合う男と似合わない男がいるんだよ。色恋なんてネタを笑い話以外で似合うのは詐欺師かヒモだけだ」
真面目に言ったのに、なんでそんな顔をする。
「はいはい、今度酒でも奢らせるわ」
「酒は不得手だ。飯を頼む」
次があれば、とは言わなかった。不吉な予感が拭いきれなかったからだ。ジンクスなんぞに影響されるなど、情けない……とは言い切れないのが迷信を笑えない街で生きてきた身の辛いところだ。
「そろそろ行けよ」
「そうね、行くわ」
孫策は未練もためらいもなく立ち去るはずだった。だと言うのに、俺の顔を馬上から見下ろしたのはどういうわけだ。顔色と目が心配しているようにしか見えなかったのはどういうわけか。
奇妙に甘い疼きが心臓の奥に生まれたが、一息をついてみっともない事を考える我が身を戒めた。
「待っていたか」
「一日千秋の心待ちだ」
いつの間にか伏せていた面を上げると、目の前には鉄のような顔があった。果たし状なんて、いらなかったかな?
「劉貴大将軍」
「工藤冬弥」
向かい合った彼の笑顔と、彼の瞳に映る俺の笑顔はどこか似通っていた。
一体どれくらいぶりになるのだろうか。
随分と時間が経っているはずなのに邂逅の記憶が鮮明なのは、忘れる事が出来ない記憶だからか、それとも暇さえあれば飽きる事なく繰り返し彼との戦いの記憶を反芻し続けたからか。
音をたてて風を切り、切っ先をぴたりと俺の心臓目掛けて矛を構えた目の前に立つ益荒男は、俺が思い描く武人像その物の姿をしている。
甲冑に身を固めて腰には剣を佩き、手には矛を持って俺を見据えながら、憎いほど決まった姿勢で纏った日よけの外套をなびかせる。
厚い皮と薄い鉄を貼り合わせた鎧は武骨で飾り気など一切なく、手に持った矛もただ、人を殺す事を目的として遊びなど一切ないフォルムを見せている。外連も遊びもない、ただ目の前の相手を全力で貫き切り裂く為の武器であり、持ち主の姿はこの世界に来てから、ふざけた武具ばかり見てきた俺にとっては嬉しくなってしまうほどだ。
ごてごてと装飾を施したおもちゃのような武器を使い、馬鹿にしているとしか思えない格好をしている癖に阿呆なほど強い女武将達にはいい加減にうんざりしている俺にとって、劉貴の勇ましい姿はそれだけで闘志を駆り立てるに値する。
何よりも、あの魔界都市でさえ甲冑もなく武器もないままで戦い抜いた偉大なる大将軍が鎧を纏っているのだ。馬に乗り、矛を持っているのだ。
俺の知っている劉貴大将軍とは全く違う戦い方をする男が目の前にいる。
自分が不利になっている事なんて、百も承知。
ハナから格負けなんざわかりきっている。
……この状況で笑っているなんて、馬鹿も丸出しだ。大体、自分が勝たなけりゃこの大地は吸血鬼に蹂躙される。だったら、剣を振るにもその責任を自覚してなけりゃならない。そんな事を俺が知るかと言うには首を突っ込みすぎた、何もかもにだ。
それが当然で、そうなるべきだ。
だと言うのに、なんてこった。口元が、弧を描いちまう。これは、この気持ちはなんだ。
ゼムリアに稽古をつけられて舞い上がっているのか、なんて浅はかな。
自分が浮かれている事を自覚し、そんな自分を戒めようとした時にようやく気が付いた。この気持ちが、ゼムリアに挑んだ時と同じだと。
腹の中に重みが生まれ、全身から不要な熱が消えていった。余分な熱が篭もった身体が冷水を浴びたように冷めていく。残ったのは理想的な心身だけだ。
入れ込みすぎとは、ケージでいきり立つ競走馬かよ。
そんな俺を静かに見詰めていた劉貴は、ゆっくりと矛を構えた。
待っていてくれてありがとうよと、俺もまた何も言わずに仁王を構えた。
なんの、ただの礼儀だと劉貴は音をたてて矛をしごいた。
対峙する俺達の周囲は劉貴の連れている吸血兵に囲まれて、直径十メートル程度の円陣が作られた。妖気漂う吸血鬼に囲まれた俺の全身は視線によって埋め尽くされている。
もしも視線に色が付いているのなら、誰にも俺を見る事は出来ないと言うほどにありとあらゆる箇所に視線を感じる。
実に薄気味悪い視線だ。どうしようもなく平坦な癖に、根っこには粘りのある熱が篭められているような視線だ。
視界の中にいる吸血鬼共め、どいつもこいつも死んだ魚のような目をしている癖に口元が牙を覗かせるくらいに弛んでいやがる。俺を、熱い血が溜め込まれた餌袋としか認識していないのだ。
主の矛が俺を切り裂いたなら、こいつらは浅ましさを隠せもしないで恍惚と俺の血を浴び、飢えた野良犬のよりも下品に俺の屍に襲い掛かるだろう。
だが、俺はそんな目にさらされながらも平常心を保っていた。
元々、“新宿”はちょっと人気のない裏通りを歩けばこんなモノだ。“危険地帯”を歩けば、妖物の視線がない方が恐ろしくなる。死霊でも妖物でもないただの人間だって、時と場合が揃えば簡単に同じような目で他人を見てくる事を思えば、この程度は全く問題でない。
むしろ、慣れ親しんだ暗い闘争の雰囲気にリラックスさえしてきている。
この国で黄巾党をぶちのめそうが、武将達と斬り合おうが感じる事の出来ない妖気の漂う陰惨な殺し合いの空気だ。おかげで真後ろに回って俺の心臓に槍を突き刺そうとしている屑の動きさえはっきりと分かる。
息を合わせたように真横から突いてこようとしているもう一人も、当たり前に気が付いている。こいつらだって人外になったんだろうに、どうしてそんな程度の拙い奇襲で俺を殺せるだなんて思うのか。
次の瞬間、血しぶきが舞った。
当然のように、二つ。
「すまんな」
「いいよ、おかげで眼福の技が見れた」
石で出来たような劉貴の表情にはなんの感慨も浮かんではおらず、矛の二振りで下僕の首を斬り飛ばした事に何も感じていないと周囲に表明している。
どん、と軽い音で落ちた雑兵の首は二つともあさましい笑みを浮べたままであり、自分が殺された事に気が付いてもいなかった。それに準じたように首から下も未だにふらつきもせず、俺に突きつけた槍も含めてその姿勢のまま像になったように硬直していた。
「主様、何をなさるのです」
「なぜ、我らの首を」
二つの生首が、声を上げて劉貴に抗議の声を上げる。今さらのセリフに失笑を堪えるのは苦労がいった。
「なぜ」
「なぜ」
その有様は、どこか李江を殺した義勇軍を思い出させる。不快だったが、俺が嘴を挟む空気じゃなかった。
「私は、貴様らにどんな命令を下した」
「それは……」
言いよどむ生首の目には血涙が溢れかえっていたが、それで追求を緩める劉貴ではなかった。
「私の命は、我らの戦いに邪魔が入らぬように壁となれとの一事のみ」
その一言を最後に、二つの喋る生首は柘榴のように弾けて消えた。言わずと知れた、魔気功の力。健在なそれに背筋が寒くなる。
「手間をとらせた」
「俺は待っていただけだ」
それを一顧だにせずに、劉貴は矛を構え直す。俺も合わせるように切っ先を彼の喉元に向ける。
相手の口元に、白い牙が見える。くだらない諍いの間に濃厚になってきた闇の中で、それだけが輝いているようだ。
ばさり、と梟が翼を広げるような音がして劉貴の纏っていたマントが風に攫われて消えていく。それが、どこか魔王に攫われる子供を謡ったオペラの一シーンを思い起こさせた。
風に攫われて消えていく外套に誘われるようにして、俺は劉貴へと一歩踏み込んだ。権勢もへったくれもない、無造作に芸のない一太刀を繰り出す。中段からの一突きで、劉貴の喉元を狙った。
それに対して劉貴もまた同じように真っ直ぐな刺突を繰り出してくる。お互いに同じ種類の攻撃だが高さも間合いも向こうが圧倒的に有利なのは見るまでも無い。
音もなく俺の胸に刺さった矛を目にした吸血兵が、それぞれに歓声を上げる。しかし劉貴はそのまま俺ごと矛を持ち上げた。
空中の俺と目が合った劉貴はこれからどうする、と問いかけているようだ。
「いくぜ」
脇に挟み込んだ矛を伝って、持ち手の元へと体重を載せた振り下ろしが襲い掛かる。必殺の念を篭めた一撃を、劉貴は何ら動揺を見せず矛を更に振る事であっさりと遠ざける。
「ぬうっ」
さすがは吸血鬼。人の領域を超えた剛力に振り回され、矛の柄を押しつけられた脇腹がきしむ。危なげなく着地したが、思わず舌打ちが出た。
今でも矛の一撃を躱した事にも気が付かない雑魚吸血鬼だったら一撃で勝負はついていただろうが、逆に痛打を与えられた。動きが鈍るほどではないが、矛の腕もやはり相当な物だ。軌道は単純ながら、これまで漢で戦ってきた誰とも動きの質が違う。
持って生まれた筋力に頼った速さではなく、修練で無駄を徹底的に削り、己の肉体を最効率で動かしている結果の速さだ。これなら、人外の吸血鬼でも斬られた事にさえ気が付かずに首を飛ばされてしまうだろう。
「今度はこちらからだ」
劉貴という最大級の魔人を背中に乗せても従順かつ勇敢な軍馬が、馬蹄を響かせ襲い掛かってくる。馬は自重のせいでスタートダッシュに限れば人間に劣るはずだが、そんな知識など机上の空論だと笑わんばかりの勢いで双方の距離を詰めてくる。
魔気功を使わないのは、未だに様子見のつもりか。だったら、こっちは本気になる前に渾身の一撃を入れさせてもらうまで。格下の自分が様子見など出来るはずもなく、ひたすらに全力で走り続けるのは当然だ。
「突きぃ!」
基本的に待つ事を許されるような身ではない。次々とあらゆる手を打ち続けるのは当然だった。泥臭くしつこく噛みつき続ける為に、まずは足を狙う。
突進をかわし様の一撃だったがこちらもかわされ、振り向きざまの一撃を見回れるも、これは余裕を持って振り向かないままに躱す。
劉貴は馬を止めずに円を描いて、もう一度襲い掛かってきた。矛を振りかぶり、躱せる物なら躱してみせよと一閃を見舞ってくる。逃げ出したくなるほどすげぇ圧力だよ。
ぎ、と歯を食いしばってそれに耐え、俺は身を低くクラウチングスタートのように劉貴に……いや、馬に向かって奔りだした。
「なんと!」
馬の足は、当たり前だが左右に並んでいる。足と足の間に人の入る余地は、あるんだよ!
「ふうっ!」
人と吸血鬼の殺し合いにあてられたのか目が血走り鼻息荒く、涎まで垂らしている悍馬の馬蹄を猫のように身を低めて潜り抜けた俺は、間髪入れずに仁王を大きく振りかぶった。
「おお!」
「ぬうっ!」
手応えがあった。
上段の構えよりも若干寝かせる形で天高く掲げた仁王の切っ先が、劉貴の脊髄を痛打して破邪の念を届かせたのを、確かに感じた。
周囲をぐるりと囲む人あらざる兵士達が悲鳴のような歓声を上げ、畏れの眼差しを向ける。しかし、その目の先にいるのは俺ではない。
馬を止めて、こちらを振り返っている彼らの主だ。
「見事だ」
「ちっとも効いていない顔をしているくせに、褒めるには早すぎるぜ」
嬉しくなった己を戒める為に憎まれ口を叩き、お見通しの様子の劉貴にもう一度仁王の切っ先を突きつける。
「馬の足を擦り抜けるような真似をしてみせたのは、俺もお主しか知らぬ。これは御国の剣術か?」
「いや、この国の拳法には人の足の間を擦り抜けて背後に回る術理がある。それを応用した。足が四本もあるが、代わりに人の足よりも長くて間も広いのでな、意外と難しくもなかった」
「それを言えるだけ、大した物だ」
あくまでも俺を褒め称え、彼はおもむろに馬から下りた。
「おい」
「今の技に、ただの馬では応じ切れん」
しっかりと大地を踏みしめ、彼は腰の高さで矛を構える。馬上だろうと地上だろうと、実に様になっている。
ここからが、本番だ。
気合を入れ直して仁王を握ると、正眼に構え直す。劉貴は石のように微動だにせず、泰然自若とはこれぞと俺を待ち受ける。望むところだ。
正中線に並ぶチャクラに働きかけ、それを精一杯回す。ゼムリアとの稽古で刺激を受けたのか胴のチャクラは殊の外スムーズに回転し、喉のチャクラまで鈍いが回り出しそうだ。
腕が上がった事がわかりやすく、調子にのってはならずと自分に言い聞かせるのが少しばかり遅れる。
全身から聖念があふれ出し、それが周囲の吸血鬼達を圧倒する。悲鳴があがり、吸血鬼達で作り上げられた輪が二回り大きくなる。劉貴だけが眉も顰めずに鉄の意志で俺に刃を突きつける。
その刃その物へと向けて、中段の振り抜きを出した。得物を破壊してやるつもりの一撃はこれまでの豪撃とは真逆の柔らかな振りにあえなく躱されてしまったが、止めずに剣は跳ね上がって顎を目指す。
「ほうっ!」
感心の声も当然と胸を張って言える会心の太刀だ。躱された太刀を止めずにあげるだけでもそれなりの技術だが、速さと強さを兼ね備えて的確に急所を狙うのはそんじょそこらの剣士気取りに出来るモノじゃない。
しかし、それも矛の柄で受け止められた。木と木がかみ合う、鉄のぶつかり合う音とは違う心地よく体内に響く共鳴がそれぞれの体内に浸透していくのを実感した。
「くあっ!?」
「ぬう」
それぞれに磁石の同極同士のように弾け合う。最後の土産に小手に入れる事は出来たが、劉貴相手にあまり意味があるとは言えないダメージだ。簡単に回復するからな。
「すっかり日は落ちたな」
「いい塩梅じゃないか」
既に周囲はすっかり夜の新色で真っ暗になっているが、かがり火はたかれていない。遙か彼方でたかれているそれが、人を誘う鬼火のようでなかなかに不気味だ。ホラー映画その物のシチュエーションに、逆に笑いがこみ上げてくる程だ。
その中で吸血鬼とやり合う事の不利は確かだが、騏鬼翁の闇の中で戦った時ほどじゃない。闇の中で戦う事その物には慣れているからな。魔界都市の住人であり、山の中で生きてきた俺にはむしろ慣れた物だ。
「俺には闇と月が味方する。工藤よ、お前の味方は一体何処にいる?」
「俺を鍛え上げてくれた全部だ」
何故だか劉貴は一瞬沈黙し、そして笑った。
「そうか、俺ばかり味方がいるようで卑怯な気がしたがお前の味方も数多いか」
そう言って、男は矛を構える。典雅さを感じさせながらも確かに精悍な顔に、ずるいなとふと思った。せつらやドクターのようになりたいとは思わないが、ゼムリアや劉貴のような顔にはなりたいとは思った。
男らしさと美しさを兼ね備えているこの男は、憧れるに足りるだろう。そして、そんな男に挑んでいるという今が誇らしい。
それが伝わったのか劉貴の瞳が笑う。俺もまた笑い……笑ったまま俺達の刃は交差した。
紫電の速さで足を払う矛を躱して、そのまま一気に踏み込んで脳天を狙う。
それに対して劉貴はなんと蹴りを使ってきた。前蹴りで押しのけるように腹を狙ってくるそれを、俺はジルガの技法で受け止める。
劉貴の蹴りは弱くもなければ下手でもないが、それでも俺は岩のように不動で受け止める。劉貴の目が驚きに見開かれたのは、受け止められた事よりも蹴りの威力をそのまま足に返されたからだろう。
弾かれた劉貴はバランスを崩すが、そのまま転ぶような無様な男ではなく危なげなく矛の柄を地面に突き立てて転倒を防ぐ、が……転ばないだけでしっかりと隙になっている!
「いいいぃえあっ!」
劉貴は矛を前面に構えた。防御のそれはいっそ冗談のような速さと正確さで彼を隠す。細い一本の矛の向こうに甲冑姿の男が完全に消えてしまったのは悪い夢のようだ。
相手の目に向かって切っ先を構える正眼の構えその物だろうが、技量の高さを物語るには充分だ。当たり前の技で異常な結果を持ってくるにはそれ相応の技量がいる。
しかし、それでも気が付かなかった事はある。
してやったり、と笑う俺が握った仁王は木刀であるにも関わらず矛の柄を中程から両断した。何ら抵抗なくすっぱりといっちまった矛は、カンナをかけたような断面を見せている。
しかし、さすがは劉貴大将軍よ。
両断された矛には未練を見せずに、予定調和のように捨て去り手の平を向けてくる。即ち、魔気功の洗礼。
予想していないどころか、いつ来るかと待ち構えていた俺は宙を舞ってそれをかわす。追撃を避ける為に牽制で撃ったレーザーが劉貴の厚い胸板を貫いたが、彼は目もくれなかった。
さすがに追撃こそされなかったが、相変わらずの理不尽ぶりだ。これなら、念を篭めた飛礫でも投げるべきだったな。念の消費を惜しむ癖はなかなか治らないらしい。
まあ、ここからが本番だ。矛の技量も恐るべきだろうが、やはり何より恐ろしいのは見えず聞こえずの魔気功だ。
それに対抗する為の気を操る技量は、この数ヶ月間でほとんど向上していない。しかし、剣と念はゼムリアのおかげでしっかりと進歩したのだ。高望みをするような贅沢は断じて出来ない。
今、彼は俺達を見ているのだろうか。
秦の大将軍と呼ばれた男を前に剣を握る俺の背中は、彼にどう見えているだろう。そして、もしも義兄と義父が今の俺を見れば、どう思うだろうか。
「…………」
彼らに恥じない剣を、とそんな言葉が俺を縛る。しかし、縄のように縛るのではない。支えるように、ともすれば逃げ出したくなるような、震えてしまいそうな自分の手足を押さえ込んでいる。
目の前に立つ劉貴は、そんな俺の内心を見透かしているのかどうなのか静かな眼差しのまま構える。“新宿”でも見た魔気功の構えだ。
あの時、彼の前にいたのはせつらでありドクター・メフィストだった。俺はかませ犬をしていたに過ぎない。だが、今劉貴は間違いなく俺と戦っている。
「嬉しいな」
「何がだ?」
「天下の劉貴大将軍が、俺を見ている。俺を戦う相手としてみている。当たり前の事なんだろうが、誇らしい」
恥ずかしい言葉を口にしているのに、恥ずかしいという気持ちにはならなかった。あんまり唐突で脈絡のない言葉なのに、そう思えなかった。
劉貴もまた、笑いもしないで聞いてくれた。
「今の俺を相手にしてそう言ってくれるのならば、俺の方こそ喜ばしい。工藤よ、返礼は全霊をもって行おう」
そう言った彼の全身から、念を圧倒する鬼気が発せられた。周囲にいる同族さえも圧倒され、膝をつくほどの鬼気。だが、俺だけは仁王を構えたまま動かない。念の力ではなく、これまでの道程を思えばこそ足に芯が入るのだ。
「最初からそうだろう」
「その通りだ」
劉貴大将軍が、戦場で手を抜くなんて有り得ない。
そして、跪いたままの吸血鬼達に囲まれて本番へと移行しようとしたその時……何かが俺達を叩いた。
それがなんだったのかは俺には分からない。ただ、空気が変わったと漠然としながらも感じた。
劉貴は俺よりもはっきりと、それを認識したようだ。彼が手を振ると、吸血鬼共は一斉に馬に乗る物は馬に乗り、歩兵達は歩兵なりに陣形を整え始める。それはどう考えても帰り支度だった。
「お、おい!」
「将軍ではないお前にはわからんか。悪いが勝負はお預けだ」
信じられない言葉だった。
一体何が起こったのか知らないが、劉貴が勝負を投げるだと? 思考が空回り、正に愕然とする俺は隙だらけもいいところで、劉貴にとっては的もいいところだっただろうに、彼は何も言わずにゆっくりと馬に乗るだけだった。
「許せ、今一度だ」
ただそれだけを言って、彼は馬首を返した。
その言い方が、どこか義兄と重なったのは俺のつまらない思い込みだろう。なんにしても、今の俺は戦っていた相手に訳も分からないまま置き去りにされた大間抜けだ。
指をさして笑われても不思議じゃない間抜け加減である。もちろん、そんな奴がいたら指をへし折って自分を指ささせるのは確定事項だが、
一体何がどうなっているのか未だにさっぱり分からない。
吸血鬼共も言わずもがな劉貴もさっさとついていってしまい、俺は一人でぽつんと立ちん坊になっている。その姿を客観的に想像すると、今にも暴れ出したくなってくるような衝動が、厭が応にもこみ上げてきてたまらない。
「……ふざけんなぁっ!」
俺の怒鳴り声は、闇の中で殊の外大きく響いた。
「果たし状だ、ぜってぇ果たし状だ。劉貴の顔面にトンブの張り手で思いっきり叩きつけてもらおうじゃねぇか!」
ぎりぎりと歯ぎしりをしながら足踏みをするのは、正に地団駄を踏むという言葉のいい見本だろう。そう思ったのは、この時の自分を思い返して恥ずかしくなるくらいに冷静になってからである。
漢の大地、それも人里離れた砦の外は真っ暗闇の典型で、月明かりがなければ一寸先も見えないほどだ。それが幸いしたくらいにみっともない興奮を人目も憚らずに披露して後、俺はようよう落ち着いた。
「…………」
しかし、一端落ち着いてみると我が身を振り返って情けなくなるのは自然な成り行きだ。そろそろ四つん這いになって落ち込むか、それとも頭をかきむしって叫び出すか、どちらにしても恥の上塗りになる事請け合いの行動をするより他にはない、と誰かに背中を押された気分になり、どんよりとした気分で足下を見た俺は、ふと少し離れたところに人影を見つけた。
と言っても、気が付かない間に誰かが俺の痴態を見物して笑っていたなどと口封じする以外にない最悪の展開になっていた訳ではない。
人一人、寝っ転がっていたのだ。
最初は劉貴に斬り滅ぼされた吸血鬼兵の亡骸かと思ったが、息をしている。吸血鬼は大半が息をしていない物だが、中には例外もいる。それでも、これは例外に入れなくともいいだろう。
転がっているのは、張飛だった。
「……あれからずっとここにいたっけか?」
すっかり忘れていたが、そう言えばそうだった。孫策が連れて行ったかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。考えてみれば、それも当たり前か。
どう見ても情報がとれるタマではないし、ろくに動けもしないこいつを殺すにしても意味がない。こう言ってはなんだが一朝一夕で目を覚ます訳がない彼女の首を取るのはあんまり安っぽいだろう。そう言う真似は彼女の好みではなく、そういう好き嫌いを持ち込むような迷惑な未熟さが彼女の中では目立っている。
「はあ」
とどめを刺すなど論外の相手をどうするか、少し考えるが俺も結局は放置する。連れて行っても捕虜になるだけなら、その方がなんぼかマシだろう。ここにいる方が味方に保護される可能性は高い。
「ん……?」
そこまで考えて、遠くからこちらを目指している一軍が目に入った。掲げている旗は見えないが、こちらに向かっているのは馬蹄の響きで間違いない。どんな相手かは知らないが、張飛の味方……つまり、敵かもしれん。
後は任せるか、と思ったが一ついらない事に気が付いた。
考えてみると、たとえあれが連合軍の誰かだろうと、真っ暗闇では張飛を保護するどころか踏みつけるか見つけられない可能性の方が高いんじゃないか?
「…………はあ」
どうせ誰も見ていないんだ、ため息の一つくらい大した話じゃない。
肺を空にするくらい大きく息をついて、その場に腰を下ろす。まあ、一言口添えをしたところで悪い話ではないだろう。
「無様な話ではある」
ぞくり、とした。
唐突に背後から降りかかった声は、数ヶ月ぶりに聞いた声であり、あるいは“姫”よりも聞く事を恐れていた声だった。
「秀蘭」
永劫の時の流れの中で、大将軍と呼ばれた男を慕う吸血妖女がそこにいた。
「あんたがここにいるのは、劉貴の面子に傷をつける事だと思うんだがな」
虚勢を張る。
座りこんだまま、声だけ応答して振り返らない。決して、驚きを顕わにして立ち上がったりしてはならない。
咄嗟にそれだけを自分に言い聞かせてから、おもむろにゆっくりと振り返る。
俺の挑発など歯牙にもかけず、夜の闇の中でも内側から輝いていそうな美貌に冷然たる表情を面のように張り付かせて秀蘭は静かに佇んでいる。
麗顔が、嘲笑に崩れた。
「それは、私がそなたに手を出すという事か」
「他に何の為に来た」
「元より、ただの見物。劉貴殿の戦なれば見守りというであろうが、これは遊びよ。ならばこその見物。貴様、よもやあれが劉貴殿の全力などとは思うまい」
とっくにわかりきっている事を、それは嬉しそうに語りやがる。恋に狂った女なんざ、どいつもこいつもくそったれだ。
「貴様の腕は、やはりこの程度。あのゼムリアという剣士なれば、あのドクトル・ファウスタスという魔道の徒なれば油断はならんが、お前程度では劉貴殿の遊びにしかならん。せいぜい奮起して、あの方を楽しませよ」
比べられるのは、相手があの二人だといっても業腹だ。腹のたつ理由が、語っているこん畜生にこそ腹を立てているからである。
「遊び相手にもならないほどには、弱くもない。脅かすほどには、強くもない。そんなお前は、このつまらない国では貴重な劉貴殿の玩具だ。姫や騏鬼翁殿の気を引くほどではない所も実に都合がいい。一体何処の国から、劉貴殿の無聊を慰める為に舞い降りた?」
「“新宿”さ」
ここまで言われて黙っているほど腐っている訳じゃない。端で見ているだけの女に笑われて、流してすませるには俺の器は小さかった。
「妄想を垂れ流して殊更に相手を挑発する辺り、千年どころか万年生きても女の業は振り払えないようだな」
「何と言った?」
「腕を見切れもしない腐った眼で、願望だけを根拠に人の剣腕を貶める。劉貴が見れば、懲罰モノの無様さだ。お前は、わざわざ劉貴に恥をかかせる為に顔を出したのだ。そんな事だから、色に狂った女は無様だという」
最後の一言で締める前に、光が飛んできた。以前も切り払った銀の櫛だが、速さが違う。きらりと煌めいた時には首に辿り着いているのは以前と同じだが、その上でなお雲泥の差があった。
それを弾く事が出来たのは、やはりあの時よりも成長した腕のおかげだ。ゼムリアに感謝だ、頭が上がらないにも程がある。
「…………」
「手加減したにしても、格好つかないな」
せいぜい笑ってやる。それにしても、やっぱりあん時ゃ手加減しまくりだったな?
「その暴言、高くつくぞ」
俺の皮で劉貴の為の鞍を作ると嘯いた時と同じような顔をしやがる。そうやって、ちょっと反撃されたくらいで目の色返る辺りは俺とどっこいの小ささだよ。やりかえされないとでも信じている訳でもあるまいに。
「貴様に手は出さぬ。それは、劉貴殿の勘気に触れる故に。だが、それが貴様を守ろうとも貴様以外の誰かを守ると思うな、小僧」
「……なんだと?」
二度と目をそらしたくないような美貌が、二目と見られる悪鬼の表情を浮かべる。
「この女、貴様がここに連れてきた娘だな」
そう言って懐から鳩を取り出すようにして掴みだしたのは、なんと孫権だった。人形かとも思ったが、間違いなく本人だ。
「……護衛もついているのに、わざわざ砦から連れてきたのか? ご苦労な事だ」
「それほど苦労はなかったぞ。この琴をつま弾けば、あのような塵芥どもなど子猫と何も変わらぬ。揃って高鼾をかいておった」
そう言って、孫権を地面に落としてからおもむろに取り出したのは俺も見覚えのある琴。かつてである未来において、劉貴がその手に収めていた“新宿”の魔人二人をまとめて陥落せしめた唯一の伝説。
「静夜」
「ほう? それを何処で聞いた」
質問には沈黙で返した。応える義理が無いと言うのもあるが、それよりも状況を覆す打開策を思いつけなかったからだ。
両手にしっかりと琴を構えて、いつでも弾けるようになっている。一度奏でられれば、俺はあっと言う間に眠りに落ちてしまう。
その大きすぎる隙にどうする。
孫権はどうなる? 悠々と血を吸われるか、魔界の術で凌辱されるか。殺された方がマシだという未来以外に待ち受けているものは無いだろう。
「何故、この娘を狙った。他にも人はいるだろうに、俺とはほとんど縁のないそいつを狙ったのは何故だ」
言いながら、俺はもう結論を出していた。
劉貴に恋をしているからだろう。要するに、嫉妬だ。真正面から聞けば、どういう答えにしても秀蘭は激発して孫権を手にかけるだろう。なら、せめて揺さぶりをかけて隙を見出すしか思いつかなかった。
「この小娘の、分不相応な恋心のせいよ」
揺さぶりも糞もない。秀蘭は何もかもを承知の上だ、背筋が凍る。嫉妬に狂った女が同性に何をやるのかだなんて想像出来る範囲にあるだけでも充分におぞましい上に、何よりおぞましいのは常に男の想像を超えてくる所だ。
「恋心とはまた、おかしな言葉を使う。夜の一族に似合わないにも程がある」
適当に皮肉を返してから、長老の一族に申し訳ない気がした。あそこには若い娘だっているのだ。
「黙れ」
秀蘭の声が冷酷という表現で追いつくほど生やさしいものではない。氷が砕け散るようなどうしようもなく冷たい声が、俺を叩いた。いや、俺はついでにすぎず本命は秀蘭の足下に横たわっている。意識があったら、一体どんな姿になっていた事か。氷柱になったとしても、何ら不思議ではない。
「劉貴様に恋をした娘。身の程知らずな娘。三千の肉塊に切り刻んでも飽き足らぬ。この品のない顔も身体も騏鬼翁の獣に存分に蹂躙させてから、殺してくれと哀願しても死ねない我らの地獄へと突き落としてくれようぞ」
あの丈夫に惚れる女なんぞ一体どれだけいると思っているのか。その度に殺していたらキリがないと思うのだが、それをやるのが秀蘭なのだ。
百も千も女達を殺し、その血を浴びて恍惚とするだろう。ひょっとすれば、これまで彼女の喉を潤してきた血は全て劉貴を慕う女達のモノであるかも知れない。
「させるかよ」
いずれにせよ、それをさせる訳にはいかないのが俺の中の取り決めだ。まったく、いちいち貧乏くじを引くな。
「自惚れるな、これっぱかしの力しか持たぬ小僧が……身の程を知れ」
「!」
やばい、と思う暇もない。静夜にばかり意識を集中していた俺は、秀蘭の目が爛々と赤く輝くのを完全に見逃してしまった。
「ほほ、我ら夜の一族の猫眼を見て囚われぬ者はおらぬ。静夜にばかり気をとられた愚か者が、我らそのものの力を見くびりおって。だから小僧と言うのだ」
嘲られても何も言えない俺を尻目に、秀蘭はゆっくりと孫権を抱き起こした。まるで壊れた人形のように、その手に抱き上げる。今にも地べたに叩きつけそうな手であったが、しかし彼女は辛うじてそれを自制した。
代わりに、牙を剥きだした。
白ではなく、紅に染まった牙だ。
美しい少女が、たったそれっぽっちの小道具で悪鬼へと変貌する。遺伝子の底の底まで達する闇の色があまりにも濃いからこそ感じるおぞましさであるのかも知れない。
「そこで、この娘が我が虜になるのを見続けよ。然るべき時を経てから、この娘は家族であろうと友であろうと喰らい尽くす悪鬼となる。我が命により、それをさせる。しかして心は後に戻してくれよう。楽しみではないか、喜んで同胞の血を呑み耽った小娘が、正気に返った時に一体どんな顔をするのか。手を下した私を憎むよりも、守れなかったお前を恨むよりも何よりもまず、突きつけられた己自身を嘆くであろう」
「まるで、自分がそんな目に遭ったかのような物言いだな」
高い笑い声を消したのは俺ではない。第三者の声が、割って入った。
何よりもまず振り返った秀蘭の美貌の脇、孫権と彼女を分ける位置を一本の木刀が通過していった。
「貴様!」
「何にしても、そう言う悪辣な事を考えるのはよくないぜ」
至極真っ当で、だからこそ彼女にとっては滑稽な事を大真面目に言ったのはもう一人の念法使い、ゼムリアだった。
「何故ここに……騏鬼翁殿の闇を見破ったのか!?」
「俺じゃなくて、芸達者な医者がだけど」
飄々と返すゼムリアのリラックスした様子に、千年を超える時を生きた吸血妖女は苛立ちを隠せない様子で歯がみする。余裕が保てないのは相手の違いだろう。
「いくらなんでも、城の中で人さらいをして誰にも気が付かれないって言うのは考えが甘過ぎだ。この国には見破れる人間はそうそういなかったから慣れたんだろうが、ちょっと続いたからって例外を普通にするとこうやって足下をすくわれる」
「ほざくな、下郎!」
秀蘭から飛んだ銀の櫛は、俺の目にも留まらぬほどに速かった。しかし、そこはさすがのゼムリア。念法使いのお約束通りに取り出した一本の棒が、恐らくは正真正銘の本気だろう秀蘭の閃きを悉く撃墜した。
「隙有りだよ」
ゼムリアの言葉は秀蘭と、俺にも向けられていた。振り返ろうとした秀蘭の目が、ゼムリアの投げた木刀によって呪縛を解かれた俺を見つけるのと俺が彼女に斬りかかるのとどちらが速かっただろうか。
女を相手に後ろから斬りかかる。無様と笑わば笑え、俺の意地よりも矜持よりも目の前の女を救わなければならん。
「秀蘭!」
ゼムリアの投げた木刀と、元より携えていた仁王の二本が二千年間も血を吸い続けた怪物の柳腰を左右から鋏のように切りつけた。ゼムリアが挑発してくれている間に練り上げた全身全霊の念を篭めた破邪の太刀は痛打に乗って、間違いなく彼女の深奥に届いた。
左右から挟み込むように送られた左右の二撃は、秀蘭を見事に弾き飛ばす。切り裂かなかったのは、偏に俺の未熟故であり手加減などではない。
宙を舞う秀蘭の姿は、打ち据えた張本人の俺から見ても儚く、羽の破れた純白の蝶を思わせた。
「助かった」
「なんのなんの」
優先して得物をゼムリアにかざして礼を言うのは、地に落ちた無惨な姿を見たくなかったからかも知れない。みっともない話だ。
「権殿ーっ!」
はあ、と息をつく間もなく三十騎ほど引き連れた黄蓋が見事な騎乗ぶりを見せて駆けてきた。
「教えていたのか」
「そこまで気が利かない訳じゃないからな」
返答に困って肩をすくめると、懐からライトを取り出して適当に点滅させる。モールスだのという信号は、俺が知っていても相手にはわからんだろうから適当にちかちかやっていると、馬蹄がこちらに近付いてきた。
「工藤か!」
「お探しのはそこだ」
馬を下りて駆け寄ってくる黄蓋に目をやる。息を急ききって、露骨に慌てている姿は珍しく感じるほどだ。その彼女は俺が指さした、地べたに仰向けで転がっている孫権を見つけて慌てて抱き起こす。様態をあれこれ調べると、肺を空にしたと信じられるほど大きく息をはき出した。
「生きておられるか……」
「正直、もうかなりまずいところまで来ていたけどな」
余計なことを言ったかなと思うほど、黄蓋の顔は変わった。鬼子母神もかくやとはこの事か。白状すると、一瞬気圧された。
「そこの女が下手人か、それとも転がっている張飛か」
「張飛には、汜水関に潜入して人知れず拐かすなんて無理だろう」
「確かに、の」
孫権を背後の部下に任せると、彼女はゆっくりと剣を抜いた。何を考えているのかは一目瞭然だが、それをさせる訳にはいかない。
「どけ」
「あれが何なのか分かっていない奴にやらせられるか。剣で切れれば世話はない」
「……あれが、お前の言っていた化生の一匹か」
無言で頷くと、黄蓋は多少冷静になったようで無理に進もうとはしなかった。下手人が普通であれば、俺を押しのけて斬っていただろうが、それなりに俺の説明を信じていたようだ。
「どうすれば死ぬ」
「わからん。だから困っている」
秀蘭は今でこそ昏倒しているが、ここでトドメを間違えば元の木阿弥だ。即座に逃げられ、奇襲は二度と通じず次に出会った時には殺されるだろう。
杭を打ち込めばいいのか? 人形娘はそうしたと聞いたが、それでも秀蘭は灰となったままで劉貴に力を貸し続けた。その恐るべき情念は、心胆寒からしめるには充分だ。
彼女が孫権を殊更に蔑み、攻撃的になったのも納得はいく。
ともかく、最後の詰めが決まらない。そもそも、こいつはここで滅ぶのか? 仮に滅んだら、未来の“新宿”で出会う秀蘭は何者だ。それに、劉貴が未来で俺と出会った時に何も言わなかったのは、おかしくないか?
二千年の間に記憶が風化しただけかも知れないが、それでは秀蘭の話に筋が通らない。“ここで彼女は滅びない”と言う結果が出来ているのではないか。そんなどうしようもない可能性が脳裏によぎる。
「ドクトル・ファウスタスに封印でもしてもらうか……?」
そんな弱気な結論が出てくるがそこまで手を煩わせるのは、日本人らしい遠慮気味の思考が出てくる。そんな場合でもないだろうに、と自分に気合を入れて仁王を握り直した。
「心臓に仁王を打ち込んでみる。それ以外に手は思いつかないな」
寝ている女にとどめを刺すのはいかにも気分が悪いが、見た目に騙されていてはあの街では三日と生きてはいけない。大人が子供の振りをして本当に三歳の幼児に化けきる事もあれば、子供を無理やりに大人へと変える狂科学者もいる。作り替えられた子供の用途は様々だが、自分そっくりに化けさせてのスケープゴートが一番だ。
我が子を誘拐した犯人だと射殺した警官が、目の前で施術が解けて息子殺しになったと自覚して発狂した例もある。もちろん、真犯人は狙ったのだ。あの時、“新宿”警察の大半が凍らせ屋になったと語り継がれた。
当時の屍刑事を知っている俺は、ンな訳あるかいと今でも背筋を振るわせるが、とにかく外見で騙されるほど馬鹿じゃない。
「これで終いだ、秀蘭」
彼女は確かに昏倒し、身動きがとれない。俺の左右から打ち込んだ念は彼女の体内で混ざりあい、より強力な痛手を与えて弾けたのだから当然だ。
「……」
どこか後ろめたく思う気持ちが消えず、言い訳の言葉が口から出てきそうになったのを噛みしめて堪えた。誰にも見られない角度だったのは幸いだったと思う。
それ以上に幸いだったのは、ここで虫の知らせが働いたことだろう。振り返った俺の腕からゼムリアの木刀がはじけ飛んだのと、劉貴が黄蓋とその手勢を単騎で突破して秀蘭を掴み挙げるのはほとんど同時だった。
「劉貴!?」
「どこから現われたか!」
完全に虚を突かれた形の俺は、いともあっさりと秀蘭を奪い返されて劉貴を見送るしかなかった。脱兎と言うには堂々とした背中は見る間に小さくなっていく。
「抜かったわ!」
「……かなり、いてぇな」
魔気功に跳ね飛ばされた木刀を拾い上げながら、苦虫を噛み潰す。秀蘭がこの後どういう行動に出るのかは火を見るよりも明らかだ。格上の敵が増えたと考えると、どうにもずっと寝こけたままの孫権の顔面を踏みつけたくなる衝動に駆られる。
さすがに本気でそれをやるほど腐っちゃいないが、苛つくのは確かだ。険しい顔をしている自覚はあるので目をそらすと、何故だか張飛を小脇に抱えているゼムリアと目が合った。
「踏み潰されそうになっていたんでな」
ちなみに劉貴にではなく、彼の突進に戦いた黄蓋の配下に、だそうだ。だからゼムリアほどの男が劉貴の突破を許したのか。
あ? つまり、遠因は俺か……
「買いかぶりだ。あの男は止められるものじゃなかったよ。あれが、冬弥の相手なんだろうが……大した大物だな」
そっと寝かせながらの言葉を素直に鵜呑みにするには、少々飄々としすぎた言動のゼムリアに苦笑いを返した。
「それでも、小手調べについていける程度には成長したさ。ゼムリアのおかげだ、ありがとうよ」
孫権を抱き起こして戦場から慌ただしく帰ろうとしている黄蓋達を尻目に、俺達は呑気に談笑している。それが我ながら場違いに思えた。
「礼を言われる事じゃない。はっきり言うが……勝てないぜ」
その声は、奇妙に響いた。遠くから聞こえてくる戦場の喚声が遠ざかったように感じた。
「実は俺もそう思っている」
に、と笑ったら音が帰ってきた。そんな気がした。
「それでもやるんだな」
「ああ、それだからやるのさ」
笑顔が自然と出てきた。無理はしていないと自覚できたことが嬉しかった。
「!?」
だが笑顔は一瞬で凍りついた。
俺は自分でもまったく自覚しない内に、仁王と持ち続けていた木刀をそれぞれ別の生き物のように振り回した。本当に気が付けば振り回していた左右の腕に重たい手応えを感じ、左右を見回して自分の手の延長に人影がある事に気が付いた。
「秀蘭……!」
秀蘭の人形が闇の中から山猫のように頸動脈を目掛けて襲い掛かってきたのだ。それを認識できたのは、自分の身体が意識を置き去りに対処してくれた後だった。無意識でなければ、いたいけな少女にしか見えない人形を打ち据えて地べたに這いつくばらせるような真似は出来なかっただろう。
「飛んだ置き土産を……」
軽口を叩こうとしたが、自分で声が震えていない自信はなかったので黙り込んだ。
全く、最悪のタイミングをきっちり狙ってくるものだ、と背筋をおぞましい虫が這い回っているような心境になっていると俺の視界の隅を、何かが駆け抜けた。
それが何かと理解するより先に、まず迎撃の構えをとった。視界の端で、ゼムリアもまた棒を握っているのが見えて背中を安心が支えてくれる。
後々思い返してみれば、男……それも剣を握って一人前と認められた男が何と情けない心得違いをしたものだと自噴ものの勘違いをしていた。何がゼムリアがいるので安心だ。俺は親に守ってもらう幼児かよ!
その情けない腑抜けのツケは、すぐに現われた。影は俺など見向きもせずに、一直線に黄蓋の元、いや、彼女に抱えられた孫権へと向かっていったのだ。
まずい、と意識している間もない。ゼムリアは位置が悪く、いかに稀代の剣士であっても届かないという絶望的な確信を抱いた。黄蓋がはね除けるかと言う期待は、彼女の失態を悟った表情で日差しに照らされた霜のように消えた。
俺は届くか? 届くものか。届く訳がない、と結論がすぐに出るような彼我の距離に諦めが胸をよぎる。
ゼムリアだって無理なんだ、お前に出来る訳がないだろう。
そんなフレーズが湧いて出てきた。
ざけんな。そんな言い訳を許されるのは子供だけだ。俺は、何が何でもやらなけりゃならないんだよ、そうでなければ、どの面下げてあの街に、あの人達の元へ戻れるものか!
「かあっ!」
自分でも何が何だか、わからなかった。ただ、理解できたのは秀蘭の人形が孫権の首元を被った俺の手首に牙を突き立てていたという目の前の光景だけだ。
認識した次の瞬間に、俺を襲ったのは圧倒的な程のおぞましさと闇の遺伝子の侵略による魂の蹂躙だった。
声を上げる事も出来ずに、陸に上げられた魚のようにのたうち回った。そんな俺の頭上でゼムリアが人形をぶち壊したようだったが、定かじゃない。
それら全てを認識の外に放り出したくなるような抗いがたい絶望と嫌悪感が肺腑を蹂躙していくのを実感する。
これが、吸血鬼になると言うことか。
自分の血液が吸い上げられ、入れ替りに何かどうしようもなく異質な物が注ぎ込まれる。
それがどうしようもないほどにおぞましく、俺の心身から活力を根刮ぎ削り取っているのがはっきりと伝わってくる。
必死に体内の念を活性化させて侵食を少しでも遅延させようと試みる俺だったが、それを突如邪魔した何かがあった。
俺が念を活性化させて抵抗した途端に、やらせはしないと言わんばかりに俺の体内から浸食を促す何かが湧き出てきたのだ。
何だ!?
何が起こっている!?
それが何であるのかはさっぱり分からない。ただ、焼け石に水であろうともなけなしの抵抗を試みたはずが、その一切合切をまるで虫を叩きつぶすように無造作に叩きつぶされた。
結果、俺はまるで素人のように為す術もなく蹂躙されてしまった。自分の魂が、どうしようもなくおぞましい何かに汚染されたと実感した。いや、思い知らされた。
地べたにのたうった俺の脳裏をよぎったのは、死にたいという強姦された生娘のような言葉だった。今、この場で脳と心臓を取り出すか手首の傷口をえぐり出して太陽の元に晒してやりたいと願ってやまない。
南風さん、あんたもこうだったのか。
恋人を殺され、ヤクザに犯され、妖魔に汚され、女の尊厳と人の魂を汚泥に叩き尽くされたあんたは、こんな気持ちだったのか。
いや、違う。
こんなモンじゃない。
彼女の味わった蹂躙は、俺の十倍はひどかったはずだ。彼女の受けた蹂躙は、こんな一瞬で終わった訳じゃないんだから、もっともっと辛かったんだろう。
そうに決まっている。
ただ気が強いだけの女に過ぎない彼女が、俺よりもひどい目に遭ったんだ。その相手に、俺は何をした?
どうか元に戻ってくれと、そんな事を願っていただろう。
ぶっ壊されて、死んだ方がマシな彼女に死なないでくれ、元に戻ってくれと願ったはずだ!
その俺が、そんな事を考えた俺が、今さらどの面を地べたに張り付けていられる。顔を向けるのは地面に向けてじゃない、劉貴と秀蘭にせいぜい真っ直ぐな目を見せつけなけりゃならないはずだ!
なによりも、一体何をうつむく必要がある。
俺は、今度こそ確かに守れただろうが!
ようやく手に入れた自負がなによりも強い力となって腹腔の奥に火を灯す。活を入れたお陰だろう、手と足に力は戻っていた。
四本のそれらで、せいぜいいつもの寝床から起き上がるように立ち上がった。
もちろんただのポーズだ。
まず感じたのは、喉の渇き。だが、幸いなことに赤くて温かい物が欲しくてたまらなかった訳じゃない。欲しいのは冷たい水だった。それが痛みに変わった。鈍い痛みは風邪を引いた時のそれよりもずっと不愉快だ。
身体そのものは消して不調ではない。だが、夜が明ければきっと寒気がするだろう。知識でも経験談でもそうだったし、何よりも闇に対する強い慣れが陽光に対する忌避感を否応なく連想させた。
「く、工藤……大丈夫なのか」
黄蓋が、おっかなびっくり声をかけてくる。誰を庇ったのか覚えているからこそ、そんな顔になってしまうのだろうが、もちろん大丈夫な訳がない。
「当然だ」
痛い時に痛いと言えたら、きっと男の人生は随分と楽になるに違いない。泣きたい時に泣けず、笑いたくなくとも笑わなければならないから生きることは辛いのだ。
「早く行け。敵が一度の奇襲で済ませてくれる訳がないだろう。確実に次があるぞ」
「し、しかし……確か、吸血鬼とやらに噛まれると己も吸血鬼になるのではないのか? あの張角達のように……」
何も言わずに、懐からとっておいた桃の果汁を傷口にかける。まるで酸をかけたように、あるいは焼けた鉄板に水をかけたような音がして白い煙が上がった。歯を食いしばったが、痛みが脳髄を直撃する。
「お、おい!」
悲鳴を上げず眉もしかめなかったのは上出来だ。その痛みが治ると同時に落ち着きも取り戻した。体内に沈殿する赤い吸血鬼の侵略者が暴れはせずとも確かに存在し続けているのは感じるが、小康状態にはなったようだ。
「行け」
声が震えないようになるまで待ってから言ったが、誤魔化せた気がしない。だが、黄蓋は多少未練こそあったようだがちらりと腕の中で眠る孫権を見た後、馬を飛ばして去っていった。
「少しいいか」
ゼムリアが断りを入れて、背骨に触る。何をしようとしているのかは察せられたので俺の方も同調して念を練り上げることにした。
頭頂から宇宙のエネルギーが導かれて体内のチャクラを駆け巡る。ゼムリアの念も途中で和合し、それらは最初から一つであったかのように混ざり合いながら爆発的に力を伸ばして俺の細胞一つ一つにまで浸透し……吸血鬼の魔力とぶつかり合った瞬間、俺の体内から再度現われた何かの横やりで消し飛ばされた。
「……あんた、何かに憑かれているのか」
「……そのようだな」
全く自覚はないが、どうやらそうらしい。今、秀蘭から差しむけられた呪いなのか、それとも騏鬼翁に術をかけられて気が付かなかったのか、あるいはトンブの呪詛なのかはさっぱりわからない。俺が鈍いのかそれとも相手が見事なのか、どちらにしても救いのない結果しか待ってはいないのが辛い所だ。
「まあ、やれる事をやれるだけやるしかないな」
開き直るにも一苦労だったが、そこでくじけてもいい事は何一つとしてない。
「こっちはそれですまないだわさ!」
物理的なそれ以外で俺達を圧倒する声が聞こえてきたのは、まさしくその時だった。背後から聞こえてきた大声、と言うよりも割れ鐘のような声に発情期のマントヒヒを何となく連想した俺は、うんざりしながら振り返って想像と一寸も違わない丸い顔を見つけて、深々ため息をついた。
「いつから覗いていたんだよ」
彼女は転がったままの張飛をめざとく見つけて杖の上に旗のように引っかけると、鼻息荒く俺を睨み付けた。なまはげに睨み付けられ子供みたいな心境になる。
「あんたが劉貴に身の程知らずの勝負を挑んだ時からだわさ」
身の程知らずとはご挨拶だが、反論の余地はない。秀蘭にしてやられた直後では尚更だ。
「まったく、これでどうあってもあんたは秀蘭を滅ぼさなけりゃならない。劉貴とやるだけでもとんでもない大事だってのに、その上難事を増やしてどうするんだい、このすっとこどっこい!」
間の抜けて聞こえる悪罵が妙に似合っているのは、もちろんキャラクターだろう。
「ぐうの音もないな」
「だったら劉貴なんて放っておいて、秀蘭だけを狙いな! それだって大層な身の丈合わずの大仕事だよ!」
「俺の所になんて、顔を出す訳ないさ。もしも、もう一度顔を合わせることがあるとすれば劉貴が倒れた時だけだ」
「こりゃお終いだ」
この河馬、一息も尽かせずに断定しやがって。
「まったく、まったく、とんでもない事になった物さ。よりにもよって、あんたが連中に噛まれちまうなんて。少しは防げなかったのかい!」
鉄皮を使えばあるいは防ぐ事が出来たのかも知れないが、それをやれば間に合わなかった。つまり、無理だった。
口にすれば馬鹿扱いされるのが関の山だけどな。
「俺にはあれが精一杯だ」
「ええい、このへっぽこ剣士め! 姉さんの言いつけじゃなけりゃ、とっくに見捨ててやった物を次から次へと面倒を増やしてからに、あたしを殺す気かい!」
確かに迷惑をかけているのだが、罪悪感がないのはトンブ相手だからだろう。これが姉の方なら一人で何もかもやらなけりゃならないところだが、こいつ相手は時に気にならない。口では何と言っても、いざとなったら一人でさっさと逃げ出すと分かっているからだ。
普通は“口では何と言っても”と言ったらもう少し別の言葉が続くはずなんだが、チェコ第二位の評価は俺の中で一定している。どっかの外谷とごちゃ混ぜになっているような気がしなくもないが、些細な話だ。
「これで一区切りつくさ」
言って懐から取り出したのは、墨痕鮮やかに書かれた果たし状である。
「本気かい!」
「もちろん」
殊更胸を張っていってやると、トンブはヒステリーを起こして髪をかきむしる。うお、白い物がぱらぱらと凄い。頭洗えよ。
まあ、しばらくどってんばったんと漫画のように地団駄を踏んでいたトンブだが、餌の前で断食を命じられた豚のような鼻息で俺を睨み付けると勢いよく手を振った。
どこからともなく、やたらと球体に近い梟が現われた。
「なんだい、そりゃ」
「あたしの使い魔だよ。こっちで見つけた即席だから、まだ姉さんのカラスのように喋れるところまでいかないけどね」
主人がもう一度手を振ると、それはよたよた若鶏のように下手くそな飛び方で俺の肩を目指してくる。不格好だが、飛べる事その物に驚いていたので何も言わないでおく。
「使い魔になって太ったのか、太っていたから使い魔に選ばれたのか」
些細な疑問はトンブには届かなかったらしい。よかった。
まあ野生動物が太っているとは思えないので、きっと前者だろうと気の毒になって梟を見詰めていると、それが気に入らなかったのか高い声を上げて威嚇してきた。
「わるかったよ、そんなにいきり立たないでくれ」
こんななりでも野生の勘は健在だという事実にちょっと感動しつつ、誤魔化す為に果たし状を放り投げる。受け止めたトンブの手がまるっきりミットだったが、触らぬ神にたたりなしだ。触れないでおこう。
「確かに届けてくれよ」
「ふん」
面白くもなさそうな顔で、トンブはぶわっと鼻息を荒くする。厚く折りたたんである果たし状が勢いよく揺れた。河馬その物である。
「そいつにはあたしの術がかけてある。遠見の受け手になっているから、それでこっちの状況を把握しな。あたしの見た物はそいつにも届く」
「騏鬼翁辺りに見付からないだろうな」
「見くびるんじゃないよ」
実力は高いが何処か一本抜けている相手だから、正直信用できない。いざとなったらドクトル・ファウスタスにお願いしよう。
「ああ、それと……そいつは汜水関の連中の前に」
「わかっているよ、見えないところでやる。ドクトル・ファウスタスとゼムリアは構わないよな」
「逆だ。あいつらにばんばん見せてやりな」
「…………」
言いたい事が理解できないほど初心じゃない。
大方、いざとなったらこっちに逃げ込むつもりだろう。その伝手作りに走りやがったな……元々そうするつもりだったのか、どっちにしても俺の提案に渡りに船で乗っかりやがった。だから油断も隙も無いと言うんだ。
「わかったよ、まったく。ちゃっかりしているもんだ」
「このぐらい当然さ、だからあんたは棒振り馬鹿なんだよ」
皮肉を言ったのに胸を張られた日には、立つ瀬がないだろう。
「誰が棒振り馬鹿だ」
「決まっているだろう? いらない敵を増やした挙げ句、あっさりと餌食になった間抜けだよ。死んでも治らないなんて、生粋の馬鹿の極みだね」
「……」
チェコの魔道士が立て板に水を地でいきやがって、畜生。母国語が一つも出ないで流れるように罵倒されたのがまた癇に障る。
ぐうの音もでないを地でいった俺は、トンブの目よりもゼムリアのそれが気になった。トンブにどういう目で見られていてもどうでもいいが、彼に失望の目で見られるのは避けたい。
ちらり、と振り返った彼の目はむしろ俺の行いを面白がるような少年じみた色をしている。何とも言えない恥ずかしさが心中に湧き出ては、波間に出来た砂の城のように崩れていく。
「言われた通りにするんだよ」
「その言い方止めろ」
まるで子供に言い聞かせる母親みたいな物言いに、思わず鳥肌がたった。あらゆる意味で母親という奴は俺にとって鬼門であるが、ましてやこれや外谷がと考えるとぞっとしないという言葉でも追いつけない。
あ、そう言えばトンブは動か知らないが外谷は息子がいたという噂をせつらから聴いた事があった。不謹慎だな、反省しよう。
「それじゃ、こいつは渡しておくからしゃきっとおし」
「ああ、よろしく」
口にはしたが、何よりも一番心配な事がある。トンブがどってんどってんといつまで経っても小さくならない雄大な背中を見せてゆっくりといなくなってから、俺は誰にという訳でもなく呟いた。
「あいつ、劉貴に果たし状を渡せるのかな」
唯一答えてくれる相手からの返答は、どこか気まずそうな沈黙だった。
せめて、明日待ちぼうけになるような間抜けな様だけは誰にも見せたくない。
それが俺の切なる願いだ。