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No.37734の一覧
[0] 〈習作〉よりにもよって、魔界都市  恋姫編追加![北国](2015/05/16 22:20)
[1] 魔界都市から恋姫に……って何さ、それ[北国](2014/10/02 15:43)
[2] 嗤う妖姫[北国](2014/12/30 00:38)
[3] 劉貴大将軍(加筆修正)[北国](2014/09/01 13:29)
[4] 黄巾の終わり[北国](2014/03/04 15:24)
[5] でぶとおかま[北国](2014/03/06 16:03)
[6] 暗闇の猟犬[北国](2014/05/12 07:01)
[7] 呉の姫[北国](2014/07/10 09:15)
[8] 果たし状[北国](2014/12/06 22:37)
[9] 念法二閃[北国](2015/06/17 09:26)
[10] 末世、そして新生[北国](2015/07/03 06:53)
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[37734] 呉の姫
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:e70371ba 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/07/10 09:15
 申し訳ない、遅れに遅れました。色々ありますが、結局は書くのが難しかった、アイディアが出てこなかった。それだけです。
 いろいろと、他の妄想なら出てきたのですけど……キングダムと恋姫のクロスとか、モンハンと恋姫のクロスとか。
 今回は完全に幕間です。戦闘らしい戦闘はほとんどありません。
 幕間って言うのは、必要な事だけど正直筆が乗らなかったなぁ……最終投稿から何ヶ月経ったんだろう。
 早く劉貴と姫が書きたいなぁ。
 反董卓連合のそりゃあもう惨めなラストとか。





 袁家。
 とどのつまりは漢における昔からの臣下の一族であり、かなり有力な一族なのだそうだ。孫策の率いる一族も傘下に置いているいわゆる名門という奴で、広い領地と豊富な財力を持ち、国その物に政治的にも多大な影響力を持つ侮れない一族なのだという。
 遠い未来の日本からやって来た俺にはいまいち共感できない価値観だが、いわゆる高貴な血筋の一族と言う奴だそうだ。たまに“新宿”でも似たような事を言う奴に出会うが、大抵は“区民”の誰かに叩きのめされて土に還るのがセオリーになっているので、俺はいまいち重みを感じない。
 代々途方もない技術や力を伝えている恐ろしい連中も世の中にはいるんだが……彼らは違うようだ。悪感情を抱いているらしい孫策の話なので鵜呑みには出来ないが、血筋ばかりで鼻持ちならない能なし、であるらしい。
 特徴として上がっているのが代々受け継いできた土地と金、それにコネだけなので信憑性がある。別段、魔界都市で聞くような恐ろしくも怪しげな妖気漂うような噂も、煙を漂わせる為の火の存在もなかった。
 これは逆に珍しい。
 俺がこれまで話に聞いたり、あるいは実際に出会ったりした先祖代々の名門と言う奴は大体が黒くおぞましい噂が付きものだった。それも、人間同士の欲得沙汰や怨念のこもった話だけじゃない。
 人間の枠を超えた何かと人間の醜く浅ましい欲望が最悪の比率でブレンドされた、どうしようもない妖気が漂うような噂と、噂を大きく上回る実情ばかりに出会ったり、話に聞いたりした物である。
 例えば、九州にある一族は鬼を使役して国に繁栄をもたらし、一族もまた栄華を掴んだが、鬼との約束を破った為に一族全てが呪われる羽目となった。昼間から妖しい光が空を飛び回り、夜ともなれば怪しげな影が家の周りをうろつく。
一族の者はいつしか鬼に心臓を奪われて入れ替えられてしまった。そのまま放置しておけば彼らのかけた術は解かれて、かつて使役されていた鬼は心赴くままに人の肉を食い散らかしこの夜に覇を唱えただろう。
退魔の針を使う者達がどうにか事前に事を収めたが結果として、生き残った一族は次女一人だけだとか言う話だ。
 あるいは、とある企業の創始者一族の御曹司には“おかしな物”を作り上げる性癖があると噂されていたが、その家の周りでは犬猫の異常な死骸が大量に発見され、調べてみれば喰われているという。それだけでも全国クラスの新聞沙汰になるのは当然だが、何故だか誰も記事にはしないという事件が起こった。
そうこうしているうちに、しまいには幼い子供が両親を殺して喰っただのと言う猟奇的という枠さえ超えかねないおぞましい事件が起こっている。
蓋を開けてみれば異界の神、あるいは眷属に取り憑かれた連中がこちら側に侵略を始めようと蠢動していたと言うから、話が大きく膨らみすぎだと思った物だ。
 何しろ、こちら側から手に入れた向こう側の技術を使って侵略を開始しようと考えている連中もいたのだという話だから世も末だ。先に述べた鬼の事件でも、星条旗が欲の皮を突っ張らかして茶々を入れてきたと言うから、世界の危機になるような話が多すぎる。
 俺にとって、名家とはそう言うもの。
 つまり、取引をした一族、あるいは第三者の血と魂を代償として貪りながら異能の力を持って繁栄を約束した怪物と、させた怪人の集まりであり、怪人達の元にタールのように粘り着いた欲望の権化がおこぼれどころか何もかも一切合切奪い取ろうと薄汚い手を伸ばしている。
 それが俺の抱いているイメージだ。
 近付かない事に越した事はない伏魔殿、と言えばわかりやすいだろう。金持ちは悪党、代々それが続いているような名家は外道と化け物の巣でしかない。美辞麗句の厚化粧でそろそろ仮面になりそうな位になっている下の素顔は、これ以上無いほどに醜くおぞましい。
 そのくせ、金に飽かせて近隣の美女、あるいは美男を根こそぎかっさらって愛人にしたり、あるいは生け贄にしたりするのが概ねのパターンなので、締まりの無い豚のようなとんでもない醜男醜女か、逆に月も陰るような美男美女の集まりなのが、腹が立つと言えば言える。
 外見で殊更に恵まれているわけでもない人間のちっぽけな嫉妬がむき出しになってしまったが、兎にも角にも袁家とやらはいまいち名家というものらしさがない。
 つい、先日までは。
 それが覆ったのは二つに分かれている袁家の内、孫家が仕えている(と言ったら即座に否定された)方の袁家に見た事の無い奇妙な男が現われてからだという。
「それだけ聞けば、またぞろ我こそは天の御遣いでございと抜かす輩が出てきたみたいだな」
「そう言えば、あの日に何があったのかは聞いていないわね。あなたが天の御遣いに喧嘩を売ったとか聞いたけど。まあ、そんな事はどうでもいいわ」
 袁家は、現在二頭体制で内部抗争に耽っているらしい。
なんでも、一族の指導者的な立場にいるのが袁紹と袁術と言う二人だそうで、この二人は姉妹、あるいは従姉妹であるらしいが一族の跡目争いのようなもので潜在的な敵同士なんだそうだ。
 どうせまた女なんだろうと少し諦観に近い気持ちになるが、それは置いておこう。重要なのは、突如現われた奇妙な男の方だ。
 彼らはそれぞれに広い土地を治めている両名だが、どちらも名家という生まれを鼻にかけているだけの能なしだそうで、特に袁術の方はそれに加えて何とまだ幼い子供であり、彼女が治めている土地は滅茶苦茶な統治に荒れ果てて民が困窮にあえぎ、治安も相当に悪いのだという。
 それを鵜呑みにするとしても、子供に国、街を治めるという振る舞いが出来るとは思えないので、周りの大人がろくでもないと言う事なのだとは思う。大方、バカ殿とそれを腹で笑いながら己は私腹を肥やすという典型的な小悪党だろう。
 俺がそう言うと、孫策はおろか痴女もとい周瑜も頷いた。まあ、この二人は袁家に対してかなり深く悪感情を抱いているようなので若干以上に補正がかかっているだろう。 しかし董卓達も何も言わないので、それが少し気にかかった。仮にも漢に仕える同僚みたいなものだろうに、フォローがないのは同胞意識がない相手だからか、酷評を否定できない相手だからか。
 まあ、同じ国に仕えていようとも仲間意識なんて芽生えるはずもないか。
 目の前にいる孫策なんぞ、むしろ下克上を企んでいるんじゃないのかって言うくらいに露骨な敵意を見せている。たぶん、いつかは取って代わってやろうと本気で考えていたんじゃなかろうか。 
 それが覆されたのは、問題の暗君こと袁術の右腕……実質的に袁術の行っている悪政の全責任を負っていると言える女、張勲が一ヶ月以上表に姿を現さなかった事件から端を発する。
 やはり女だったらしい張勲は、話を聞いている限りではかなりの破綻者であり、一口に言えば迷惑極まる親バカを絵に描いて額縁付きで飾った挙げ句にスポットライトを当てたような、そんな女であるらしい。
 暴政を行い、土地を枯らし、人を殺し、立場を盾にとり嵩にかかって孫策にもあれこれ無理強いと忍従を強いたという話だが、その根底にあるのが袁術という子供のわがままを叶えようと言うだけなのだと聞いた日には、俺は聞き違いと言い間違いのどちらだろうとしか思わなかった。
 件の袁術は病的な蜂蜜狂いであり、それが講じて民に重税をかけたとか聞いたが、一体どれだけべたついた人生を送っているんだ、その小娘は。頭の天辺まで蜂蜜風呂にでも浸かっているのか? いくらこの時代において、蜂蜜が俺の想像を絶するほどに高価なものであったとしても、有り得ないだろう。
 義憤に駆られるよりも阿呆らしさに二の句が告げられなくなるような話だが、周囲の女どもが真面目くさっているとからかわれているのか本気なのか判別が出来なくなる。
 そんなイカレた主従の従でも、一か月もいなくなれば問題ではある。放り出した政務は滞り、汚職という悪事が行われなくとも混乱による停滞は更なる荒廃を招きつつあった。袁術がお飾りに過ぎないと本人以外は誰もが分かっている事だったのだが、張勲は悪人であっても無能ではなかったらしいという皮肉な証明だろう。
 もちろん、彼女がそれまで尻を下ろしていた席に座ろうとしているハイエナも雲霞のごとく現われはした。孫策の率直な意見に寄れば、苦楽の苦は他人、楽だけは自分という彼女らのポストは非常に魅力的に見えたらしい。
 ただ、袁術がそれだけは頑固に張勲以外を認めようとせずに固辞し続けた為、どさくさに甘い蜜を吸えた者はいなかったそうだ。そういう事だけはきっちりとしつけがされていたと言う事だな。
 ただ、それも所詮は子供の抵抗。
 いずれ時間の問題よと考えていた孫策は、董卓の前では明言こそしなかったが、この機に張勲どころか袁術にとって変わろうとしたらしい。子供の袁術を言いくるめ、味方を増やして人質同然に袁術の元にいる家族も少しずつ取り返していった。
 彼女が主張するには、袁術が現在治めている土地は元々孫策の母親が治めていた土地であり、その先代が急死した事で混乱する隙に袁術が成り代わったと言う事だそうだ。
 その話を聞いた時に、つまりお前の力不足で治められそうにないから派遣されてきたってだけじゃないのか? と言いそうになったのは一応の秘密だ。沈黙を守らなければややこしい事になるだろう。
 ともかく、孫策は俺の想像通りに袁術サイドの混乱に付け込んで勢力の拡大、独立蜂起を目指していたそうなのだが、そろそろ準備が整うかと言う矢先にひょっこりと当人が帰ってきたそうだ。
 もちろん事態は急展開し、それ以上に一体何処に行っていたのかと言う追求の的にもなった。それを黙らせたのは、子供といえどトップに立つ袁術が雲隠れの件に何のかんのと文句を言いつつ結局は支持をしたからだ。
 だが、それだけで黙るほど行儀のいい……あるいは弱気な人間ばかりではない。張勲とやらの見せた隙に対して、孫策のように付け込もうとする人間は後を絶たなかったらしい。
 しかし、未だに彼女は袁術の身近に侍って行方不明となる前と変わらずに、思うままの振る舞いをしているという。
 この話を聞いた時点で、眼鏡娘があきれかえった内心を隠そうともしなかった。俺も普段なら同じように考えただろう。組織が破綻しているにも程がある……普通ならば、そうなるだろう。
「帰ってきた張勲とやらは、いなくなる前とどんな風に変わったんだ?」
 俺がそう言うと、それまで子供のように不機嫌さを出して語っていた孫策はどこか恐れに類する感情を隠しきれない様子で青ざめる。その姿に、呂布以外の董卓一派……特に華雄が驚きを顕わにする。
 一体どういう因縁、思い入れがあるかは知らないが、華雄のそんな目など気にする余裕もないとばかりに孫策は視線を全て無視した。
「……それまでの張勲は、腹立たしい女だったけど人間だった。それは間違いないわ。袁家の重臣という立場を笠に着て、にこにこしながら嫌らしく人に無理難題を突きつける本当に腹のたつ女だけどね」
 話半分に聞いても、近付きたくはないような女がまた一人。
「でも、今は……あれは、人間じゃないわ」
「人間じゃない? 随分な表現ね」
 そう言った彼女の説明を遮って口を挟んだのは、俺ではなく子供の方の眼鏡だった。殊更に大仰な言葉を使う孫策を笑っている。挑発紛いの上から目線は、彼女に対して有利になりたいが為とは俺でも分かる。手口が“新宿”のヤクザと変わらんな。
 それにしても今の孫策の顔を見て、何を意味するのか理解しながらもそんな温い事を言えるのは、理解してもし切れていない証拠だろう。
「表現じゃないわよ」
 孫策は、笑った。
 理解の低い子供を笑うようでもあり、自分を笑っているようでもあった。
「あの女は、本当に人間じゃなくなったわ。ねえ、工藤。あの時、貴方をあそこで離すべきじゃなかったわね。どこへ連れ去られたのか知らないけれど、無理やりにでも引き留めておくべきだったわ。それか、必死になって捜すべきだった。他の何よりも優先してね」
 彼女の目は、小娘などには一切向けられはしない。
 ただ、俺にだけ向けられて突き刺すかのように離れない。その態度は噴飯物であるようだが、孫策の口から出てくる言葉を止めないために周囲は黙り続けて彼女を見守る。
「実は、いない間に目撃例は何度か出ていたのよ。袁家の邸内で、使用人たちがそれらしい人影を何度も見た……でも、表だって中を確かめた者はいなかった。袁術がそれを許さなかった事もあるし、いないならいないでかまわないとも考えられた。病気だと当初は思っていたのよ。表に出られないくらいに身を崩しているなら、ちょうどいいと誰もが思ったわ」
「嫌われてるな、その女」
 それが行方知れずとなされていたのは、当初袁術が張勲の不在を叫んで探し回らせたからだという。町中を捜しても行方の知れなかった女が邸内で見かけられたなど、どんな欺瞞か冗談かと言われたらしい。
 だが、その証言を元に臣下が所在を袁術に確認しても、答えは否。
 しかし、探索の手は出さずとも良いと言う新たな命令が発せられたおかげで人々はそれぞれが状況を予想し、概ねの脳裏には“病で倒れたが、それを隠している。つまり、現役に復帰できないと判断されうる相当の重病なのだ”と言う絵図が描かれた。
 その予想に従って、先ほど言っていたように臣下一同が甘い汁を吸う為に水面下で政争という奴を始めた。孫策も形は違えど似たような方針で活動をしていたのだが、彼女は……と言うよりも周瑜は裏付けをとろうとはした。
「けれども、私達に仕える細作は内部に侵入してはみても芳しい成果はなかったわ」
 送りつけたのはちょうど十人。
 回数においては三度。
 彼女らの元に返ってきた細作は三度目に潜入した内のたった一人である。
「明……周泰はうちでも一番の腕利きよ。彼女が忍び込めないところも、帰ってこれないところもないと言いたくなるくらいに」 
 そのたった一人は、確かに帰ってきたのだ。その彼女に、何も見付からなかったわけがない。
「彼女が見たものは、痩せこけた張勲だったわ。それこそ、病に蝕まれているとしても不思議ではない……それも瀕死の重病人の姿、ね」
 女の姿は、ひどく痩せこけていたと言う。
 孫策はそれだけしか言わなかった為に、董卓達はそんなものだろうという顔をしたが俺の脳裏には皮を張り付けた髑髏となった女の姿が思い浮かんだ。
 きっと、その張勲という女の皮膚は蝋のように白かっただろう。
 きっと、その張勲という女の口元からは牙のように長い犬歯がのぞいていた事だろう。
 きっと、その張勲という女の喉には二つの傷が焼き付いている事だろう。
 烙印のように。いや、烙印その物として。
「首筋に、牙の跡はあったか?」
 俺の言葉に、孫策は静かに頷いた。
「実際に確認できないのが歯がゆいな……」
 劉貴の仕業だろうとは思うが、断定は早計だ。
 劉貴本人ではなく、その想い人……つまり、間にワンクッション置いている可能性も高い。あるいは、秀蘭か妖姫本人……可能性ならば幾らでもあるのだ。それを取捨選択する知能が無い以上、情報を増やす他はない。
「牙? 何の話かしら」 
 嘴を挟んできたのは眼鏡娘だった。眼鏡女と比較すると色々と足りないところが多いが、主導権を握りたいという欲求だけは俺にもわかりやすいくらいに多かった。
「その周泰さんとやらはどうしている? 出来れば本人に話を聞きたい」
 しかし、そんなものにつき合うつもりはない。
「周泰は……今はいない。連れて行った部下は全滅し、彼女だけは我々の元に帰ってはきたものの、そこで力を使い果たしたのか辿り着くなり倒れ、今は眠りについている。外傷はないのに、理屈は分からないが氷のように冷たく、衰弱しきっている。息がなければ死人と思うほどだ。どうにか水だけは与えているが、既に十日……いつ死んでもおかしくはない」
 生きている時点でも大したものだ。
 倒れた際の状態を聞いただけでも誰の手によるものなのかははっきりと分かる。
「すぐに会わせろ。できる限りの事はする」
 十日も経っているとなると、はっきり言って自信が無い。むしろ、十日の断食だけでも死んで当然だ。驚異的な生命力ではあるが、これは一刻を争う事態か。
「出来るのか!?」
「無理だ」
 真顔で返す。もちろん、ふざけているわけではない。
「状態を聞いただけでも大体の察しはつく。容疑者にも心当たりはある。その上で言うが、生きているのは賞賛に値する。ましてや、ろくな治療もされないまま生き続けているとなると、驚いちまうくらいだ。だが、それでもぎりぎりもいいところじゃないか? 俺に出来る事は、せいぜい応急の手当てくらいだ。時間は稼ぐから、ドクトル・ファウスタスを探してこい」
 時間稼ぎなら慣れている。伊達に“新宿”でいつもいつも前座倒れをしているわけじゃない。
「あの御仁の事なら我々も探していた。最後に会ったのは、工藤殿と別れた時以来の事だ。そちらの方が詳しくご存じではないか?」
「あの直後に、この街で別れたきりだ。彼らは騏鬼翁……件の吸血鬼一行の一人を追っている。ひょっとすれば袁術のいる街に隠れているかもな」
 口にすると、一瞬悔しそうに唇を歪めるがすぐに胸を張る。前向きなのだろう。
「では、この街と袁家を中心に探ってみよう」
「俺は周泰さんとやらに今すぐ会わせてもらおう。できる限りに事をするが、俺の想像通りの敵で、思った通りの攻撃をされたのなら余裕はないと言いきれる」 
 敢えて酷な言い方をしたのは、それだけ迅速な対応が欲しかったからだ。だが、口にしていてどこか苦い気分になるのは仕方が無い。
「ちょっと……そちらだけで盛り上がらないでくれないかしら」
 眼鏡娘が低くなった声で嘴を挟んでくるが、俺は見向きもしなかった。元々気にくわん娘だからだが、同時に俺自身の気が急いているせいもある。
 いや、一度しっかりと深呼吸をした。
 落ち着かなけりゃならない。
 連中の中で実際に動いているのはまず劉貴だと考えるべきだろう。相手が女だからだ。
 基本、姫は男も女も関係なく弄ぶが、それでもやはり男を優先する。秀蘭は秀蘭で、劉貴の命じられた任においそれと出しゃばりはするまい。“新宿”であれこれ暗躍したのは、それだけあの街が……ひいては黒白のコンビが異常だったからと言う例外だ。
 騏鬼翁にはそもそも牙がない。
 まあ、この国は漢と言う国号の割には男に欠けているので姫が女に手を出してもおかしくはないのだが、やはり劉貴が第一の容疑者と考えるのが妥当だ。
「どこへ行くつもり!?」
「被害者は一人だけなのか?」
 声に背を向けて歩き出しての問いだが、もう手遅れだろうと確信していた。俺を案内するつもりだろう隣を歩く彼女の返答は性格に似合わない回りくどい言葉だった。
「……張勲は、戻ってきてから変わったわ。以前はただ慇懃無礼さが目立つ口先だけの腹黒女だったのが……得体の知れない何かが加わった。夜の間しか顔を見せないのに、行方不明になって挙げ句、その際に何があったのか説明もしていないというのに誰も彼女を側近の座から引きずり落とせないのは、それが理由」 
「訳の分からない、けれども恐ろしいとだけは分かる相手に近付きたくない」 
 俺の言葉に孫策はゆっくりと噛みしめるように頷いた。つまらないちっぽけな欲よりも、生存の本能こそが優先されているんだろう。それを超える浅ましさを欲は持っている物だが、オカルティックな恐怖には不慣れであるが迷信深さは強いからこそ反応は過剰になっている。
「私達の見たところ、例外はいなかった。けれど彼女だって深山に棲む仙人でもない。彼女に関わる様々な……宮女や衛兵などを中心にどんどんと張勲の異常さはまるで病のように拡がり、屋敷を中心に訳の分からない不気味さを纏う面々は増えていったわ。全員でないのは……昼間動ける人間がいなくなるのはまずいからでしょう」 
「やがて、ぽつりぽつりと高官からもおかしくなる者が現れ始めた……その筆頭が、主君である袁術だ」 
 背後で立ち止まったままの周瑜が途中から引き継いだ。
「袁術……まだガキだったな」
 張君という信頼していた女が行方知れずになり、得体の知れない何かになって帰ってきた。母親に置いていかれた子供のような袁術が、張勲に牙を突き立てられている姿が、二人の顔も知らないのに脳裏に影絵のように浮かんで消えていく。
「子供でも太守だ。そして彼女がそうなってしまえば頭をとられたも同然。瞬く間に怪物達は城を占領してしまった。魔窟だよ、あそこは」 
 周瑜の言葉は正論だろう。
 袁術とやらは変わり果てる前にも既に悪政の暗君だったらしい。そんな奴が子供だろうと化け物の餌食になったところで、気にかけるのは優しさでも寛容でもなく甘さだ。
 袁術の悪政に泣いた子供がどれだけいるのか、統計など取れずとも数え切れないのは察しがつく。
 気にくわない話なのは確かだが、少なくとも悪政者の手下をやっていた口の孫策らはともかく、民衆の前でそんな事は言うまい。
「やがて、家臣達の半分以上が変わり果てた頃から一人の男が夜な夜な見かけられるようになった」
 語る周瑜の言葉は、出入り口にさしかかった俺の足を止めるに値する威力を持っていた。 
「私も一度だけ、見た事がある。やはり夜、それも遠目にだけだが……今までに見た事のないような男だった」
 周瑜の声には、不思議な色があった。
 言葉では上手く言い表せる事が出来ないような色だが、何とはなしに俺は彼女が劉貴を見て何を感じたのか分かったような気がした。
「鉄のように力強かったか」
 俺の言葉に、周瑜が顔色を変えた。褐色の肌が魅力的な顔は、紅潮しているように見えた。牝としての色が濃い顔だった。
「父のように頼もしく、兄のように力強い。このガキとオカマしかいないような軟弱な国では今までに出会うどころか噂に聞いたことさえ無いような、本物の男であるように見えた」
 おかま? と誰かが不思議そうに口を開いたが気にしなかった。この国にはそう言った言葉はないらしい。
「それはどういう意味だ」
「手強そうだったろう?」
 怒り出しそうな言い方をしたのはわざとだ。かつて、劉貴に惹かれた人妻が招いた家で我が子を殺されたと聞いたことがある。
「この国に、そんな男は一人しかいない。あんたらの部下を殺したのはおそらく、その男……劉貴大将軍だろう」
 俺がそう言うと、そこかしこから訝しむような声で劉貴の名前が呼ばれる。そんな名前の将軍など、漢にはいないのだろう。
「残りの話をしている時間は無い。事は、その周泰さんとやらを助けてからだ」
 助ける自信はない。
 だが、それでもそう言い切らなければならない。
「ちょっと待ちなさい! そっちだけで話を進めてもらっては困るわ。こちらに協力を要請した以上、きちんとした説明を要求するわよ。それに、孫家に洛陽で好き勝手にさせるわけにもいかないわ」
 眼鏡娘が立ち上がってこちらにくってかかったが、俺の知ったことでは無い。俺にとって重大なのは今この瞬間に死んでしまっているかも知れない孫策の部下を助けることであり、他は二の次だ。
 と言うよりも、そもそも俺は部外者なのだからどうでもいいだろう。ここに孫策が連れてきたこと自体がそもそも場違いじゃないのか? むしろいなくなった方が、部外者がいると出来ないような話をする為にもやりやすいに決まっている。
「孫策、周泰……さんは何処にいる? なんだか知らんがそっちはそっちで話があるんだろう? 案内しろとは言わんから、他の手下に道案内させて欲しいとこだ」
 俺の要求に、孫策は一瞬以上の時間を使って笑ってから俺を追い越して扉を開いた。
「部下の命を救ってもらうのだから、私が行くわよ……と言いたいところだけど、さすがにこっちを冥琳だけに押しつけるわけにもいかないのよねぇ」 
 猫のように笑っているが、俺のような風来坊はともかく彼女の立場だとあまりよろしくない発言じゃないのか? 実際に、たぶん冥琳だろう周瑜がため息をあからさまについている。
「だから、祭にお任せするわ」
「黄蓋も来ているのか」
 俺の言葉に、孫策よりはハスキーな声が被った。
「祭で良いと言っておろうに。本当につれない男じゃ」
 そこにいたのは、以前別れた時よりも多少疲れが見える黄蓋だった。
「つれない男……我ながら全く似合わんな」
 だが、口ではそう言いながらもちょっと気持ちが弾んだりする。
 たまには女にそう呼ばれるのもいい気分になれるものだ。つまらない男と呼ばれるよりはいくらかマシだ。
「さっきから、扉の前にいたのか?」 
「気づいていたくせにそういう事を聞くかの。儂は今の状況ではそこまでしか同道を許されんのだ」
 儂を覚えている娘もいることだしの、と言った彼女の目が示したのは華雄。何とも言えない顔をして彼女らを睨み付けている。今にも闘犬のように唸り出しそうだ。目線は孫策と黄蓋の間を行ったりきたりだ。周瑜だけほったらかしになっている。
 一体どんな状況なのか、どんな因縁があるのかは知らないが、口に出して聞けば彼女を刺激することになりそうだ。まあ、偉いサンの事情とかは俺にとってはどこまでもどうでもいい事である。まして、それが女同士とあっては首を突っ込むなど嫌で嫌で仕方が無い。
「まあ、世間話は後回しだな。大事なことは他にある」
「世間話と言うには少し違うような気もするが、まあそんなようなものか」
 行こうか、と表に出た俺を引き留めようとする声が董卓側から幾つか聞こえたが、もちろんスルーだ。あんな風にかけられた声で立ち止まっても、面倒ごとが待っている以外に何がある。
「同感じゃな」 
「俺ほど身軽な立場じゃないだろうに、いいのか?」
「いいんじゃよ」
 あくまでも軽く口にして、彼女は肩をすくめた。
 黄蓋の案内で洛陽の町を歩く最中に聞いた話では、華雄は昔、今はもう亡くなっている孫策の母親と戦い……こっぴどく負けたんだそうだ。孫策は実の娘、黄蓋は当時の戦争に参加した当事者として、目をつけられているのだとか。
「ふうん」
「さらりと流すのぉ」
 口ではそう言う物の、彼女自身あまり興味は無いようだ。
「あの女は自分の武に相当の思い入れがあるようでな。自身こそ天下最強の武人と広言してはばからんらしい。それを負かしたとあっては。今は亡き堅殿はおろか、娘の策殿まで恨まれるのも分からない話ではない」
 自分は枠の中に入っていないのか。
「自称しているご大層な飾りなんざぁ、それこそ、我こそは張りぼてでございと言っているような物じゃないのか」
 俺にしてみれば、馬鹿馬鹿しいにも程がある話だ。あくまでも黄蓋から聞いた話だが、だまし討ちだの人質などはせずに真っ当に戦争をやって、それで負けたのだそうだから根に持つなどおかしな話だ。生きているだけ儲けものだろう。
 ましてや、本人じゃなくて娘にまであんな今にも斬りかかりそうな顔をするだなんて器が小さいとしか思えない。
 自分を負かした相手を嫌うのは分かる。次は勝つと闘志を燃やすにも、畜生あの野郎と恨みを持つのも当然の話ではある。だがそれにしても……どうにもこうにも、小物臭さが鼻について仕方が無いのはなんなんだろうか。
 感情があんまり露骨すぎるからなのか、負けた事実があるくせに天下無敵だか最強だかを自称しているからなのか。
 上手く考えをまとめられないが、潔さに欠ける、と思った。
「まぁ、その辺の話はそっちで勝手にやってくれればいいさ。むしろ、赤の他人の俺が首を突っ込む話じゃ無いとは思うんだが、話してよかったのかよ」
「他人でなくなるのはどうじゃ?」
「あ?」 
 実は俺達は、黄蓋の馬に二人乗りしている。
 先を急ぐ話であり、俺が馬にはろくに乗れないのでそうなったんだが、おかげで舌を噛みそうになった。突拍子の無い事を言いやがって。
「なんだよ、この前の話か? そんな事を言う余裕があるなら急いだ方が仲間の為だ」
「ふ、そう言う意味じゃない。男と女の話だ。まあ、確かにこのような時にする話ではない、飛ばすぞ!」
 前を向いているせいで、顔は見えない。だが、絶対に俺をからかう為に唇の両端は上を示していると確信する。
 ふざけている場合かと言いたくなったが、それでペースが落ちてしまえばこんなみっともない体勢でいる時間がそれだけ長くなる。
 俺は何も言わずに、ちょうど目の前をなびく黄蓋の髪を見つめながら時間が過ぎるのに任せた。これだから、年上の女って奴はよ。



 辿り着いたのは、洛陽の外だった。
 それも結構離れている、体感では……恐らく五キロかね。それだけ長く馬に乗っていたので、当然尻が痛い。
「随分と遠くに陣を敷いたもんだな」
「そうかの? やらかしたことを考えれば、うちの軍師が健闘したおかげで随分と洛陽の近くにとどまれたと思うんじゃが」 
 この辺りのスケールの違いは、生まれ育った国土の差が出ているんだろう。未来でも、中国は……あるいは大陸その物が島国に過ぎない日本とは距離感の物差しが大分違うと聞いたことがある。
 六畳のアパートで満足している俺とは、土地のスケールが違いすぎるってものだ。
 肩をすくめている間に、陣の中を進んでいくとやたら視線が集まる。何かおかしな所でもあるのかと改めて自分を見下ろすが、その内に重鎮である黄蓋の後ろにいるからだとわかった。物見高い視線が集まるのは落ち着かなくって仕方が無い。
「周泰さんとやらの所にはまだか」
「おう、もう少しじゃ」
 気が付いていないわけでもないのに気にした様子もないのは、日頃から男の視線を集めるに足る容姿をしているからだろう。俺も、視線を集めているのでなければ彼女の尻でも見つめて気を紛らわせたいところだ。
「ここよ。医師でもないお主に期待するのは筋違いと分かってはいるが……どうか頼む」
「できる限りはするが、あんたはドクトル・ファウスタスを探してきてくれ。元々神出鬼没な上に、別れてから結構日が経っているからどこにいるかは見当もつかないけど、それ以外に本当に助かる道はない」
 せめて行く先を聞いておくべきだった。
 騏鬼翁を追うとは分かっていたし、彼らの力を当てにする卑しい自分がいるようで敢えて聞かなかったのがこんな所で裏目に出るとは考えもしなかったな。
 何の意味も無いと理解しつつも過去を悔やみながら黄蓋の後に続いて小さなテントをくぐる。目に飛び込んできたのは、せいぜい中学生程度の少女が蝋のような顔色をして眠りについている姿だった。
「彼女が?」
 敢えて確認する。頷いた黄蓋に許可を得て枕元に腰を下ろすと、げっそりとこけた頬が否応なしに目立っていることに気が付いた。
「間違いないな。劉貴だ」
「それが件の男の名前か?」
 これが魔気功に討たれた結果だというのはすぐにわかる。不思議なのは、どうして彼女が存命なのかだ。口に出すのはさすがに不謹慎すぎるが、劉貴の魔気功を無防備に受ければ、俺だって即死は必至だ。ましてや、それから一体どれだけの時間を生き延びたって言う話だよ。
 生命力がゴキブリ並だと言っても通らない。妖物の血でも引いているのか?
 不思議で仕方が無いが、素人ながらも同じ目に遭った経験者として判断するに、いつまでも考察している時間もなさそうだ。
 黄蓋に許可を得てから、とりあえず服を脱がす。腹部に、目には見えない気の歪みが存在した。そこから根を張るように全身に広がっている様は病原菌その物のように見える。 
 ただ、よくよく見ている内に、目に見えない戦傷が奇妙なくらい浅いことに気が付いた。
「どこでこうなったのかは既に聞いておるのだったな? 明命……いや、周泰は部下と共に袁術、そして張勲の元に忍び込んだが帰ってきたのは彼女一人。彼女は部下諸共に、袁術の元に最近現われたと言う怪しい男の手にかかったと言っていた。ただ、一体何をされたかはわからない。ともかく部下と諸共に見えない何かに吹き飛ばされた、と最後の力で残した言葉がそれよ」
「……それなら生きている可能性もなくはないか」
 恐らくだが、劉貴の魔気功の大半はその帰ってこなかった部下が受けたのだろう。俺と戦った際の超雲みたいなものだ。
 それでも、普通の人間ならそんな報告をするどころか苦痛と悪寒に悶えて、のたうち回るどころかそれさえも出来ずに衰弱死するだろう。
 おそらくだが、彼女も劉備や曹操などと同じように三国の武将の名前を冠する、この国における異質であり主役でもある一人ではないだろうか。
「とりあえず、やれるだけやってみる。だが……三日は保たんと思うぞ。それまでに本命を探し出せ」
 それだけ口にすると、俺は瞳を閉じて自身の裏側に意識を集中する。念と気、その双方を最大限に使いこなさなければこの状態での生存は不可能。完全に無防備になってしまうが仕方が無い。
 気や念によって騏鬼翁辺りに居場所がばれる可能性はあるが、向こうがドクトル・ファウスタスに狙われている以上は俺に構っている余裕はないと期待する。
 それを言ってしまえば、逆説的にこちらにとっての希望の星も抑えられていると言えるのが目下最大の難点でもある。ゼムリアに期待したいが、向こうにこそ隠し球は多いだろう。
 ……ここで考えても不毛だ。俺はただ、目の前の事を一つ一つ全力でこなしていくしかない。それが、全体を見回して予測するなどという頭を使った事が出来ない不器用者のするべき事だろう。
 意を決し、精神を集中すると間もなく黄蓋の感嘆の声が耳に届いたが、俺はそれをどこか違う世界の事のように流した。精神を極限集中すると、肉体が硝子の器のように透明になってしまうことがあるが、今正にそれが起きているのだろう。
 幾度か義兄に起きた現象を見た事はあるが、自分のそれを赤の他人に見られるのは初めてだ。ちなみに、いつぞやの義勇軍共のように化け物扱いされていないようで幸いだと思ったのは事が済んだ後であり、恥ずかしながらその時は思いつきもしなかった。
 ただただ、全身全霊をもって目の前の死に瀕している娘を助けようと力を振り絞る。他の全ては雑念であり、今この瞬間はあえてドクトル達の事も意識の外に置く。
 誰かに助けてもらえばいいなどと言う甘い考えは、常に成功の敵でしかない。そのつもりであったとしても、いざ始めたならば自分で解決してみせるという気概がなければ前座さえも勤まりはしないのだ。
 彼女を俺が治してみせると言う意思の元で練り上げられた気と念が体内で制御を失っていく。当然と言えば当然か。どちらも目には見えないエネルギーではあるが実際には全く違う代物だ。
 それらを同時進行で扱うのは右手と左手で別々に計算をするような物だ。おまけに計算の問題は高等数学である。とどめに要求されるのはより未熟で不慣れな気の方だときたもんだ。
 俺にとっては極まった難問に全身汗みどろになりつつも、どうにか念でもって精神と肉体を癒しつつ自分の気で干渉し、相手の気の動きを調整する。俺に高度な気の技量があれば、双方に手を出すような必要は無かったのだと無意味な事を考えたくなる。
 状況は厳しい。
 だが、一つだけ好材料があるとすればやはり甦ってから手に入れた念の増量だ。もしも魔界都市にいたままだったならば俺の念はとっくの昔に尽きている。 
 しかしそれでも……三日間どころか一日保つかどうかさえ実のところ自信が無い。
 何しろ、これから行うのは言ってみれば全力疾走の無限マラソンだ。俺自身の体力、精神力、集中力、それらがどこまで保つか。だが、弱音を吐く事は許されない。ひたすらに駆け続ける時間をどれだけ引き延ばせるかが彼女の寿命に直結するのだから。
 ……やれるだけやるしかねぇよな。
 今一度腹を据え、俺は劉貴の事もドクトル・ファウスタスの事も忘れてひたすらに忘我の域に達した。



 それから、果たしてどのくらい時間が経ったのか。
 日頃は分単位での正確さを誇る体内時計も狂い、どれだけ時間が経ったのかは分からない。一瞬であったのかも知れないが、半日くらいは経ったのかも知れない。
 意識を失っているわけではないが、周りの事は何一つ認識できていないおかげで自分がどうなっているのかさえ分からなかった。理解できているのは、目の前の女の状態だけだ。
 瀕死としか言いようのない状況に悪化している。
 俺が意識を取り戻したのは、そのせいだ。治療の甲斐無く、俺の前で一人の女の命が取りこぼされようとしている。
「ち……」
 どうする。どうすればいい。
 答えは出ない。既に出来る事はやっている、これ以上出来る事が思い浮びやしない。くそったれめ。
 かすんだ目が、倒れている少女を二人に増やした。それはさながらトリックアートのように二重に重なっている不可思議なシルエットだ。
 だが、両者は全く同じには見えない。同じどころか、もう一人は彼女よりも年上に見える。彼女よりもずっと背が高く、肉感的で、髪は比較すれば短かった。
 それは少女ではなく歴とした女だった。少女に重なって、何もかもが全く違う女を見た。
 少女は俺の手で服をはだけていたが、着ている服の色は黒だった。女は真っ白い病衣を着ているが、きっちりと前を閉じている。だが、それでも隠しきれない豊かな身体のラインはかすかに彼女が身じろぎするだけで空気を甘く蕩けさせるほどの淫蕩さを見せつける。
 男であれば、誰もが服をはだけている少女よりも鎧のように飾り気のない病衣を着込む女を選び、涎を浅ましく垂れるだろう。
 媚態とも呼べないそれだけで、目にした男の全てがゆりかごから墓場まで強姦魔になりかねないような女だったが、俺はそんな気分には全くならなかった。
 自制心の問題じゃない。
 ただ、目の前の女を知っているからだ。
 少女は棒のように横たわり、瞳を閉じたままだったが……重なっている女は目を開いて俺を見上げた。
 一目見ただけで、この世全ての男が強姦魔になって理性を消失させかねない女の、そんな浅ましい劣情を一瞬で蒸発させる怒りと恨みの籠もった目だった。
 彼女の目は口ほどに物を言い、俺を打ちのめす。
 また繰り返すのか、この役立たず。
 そう言っていた。
 ……俺の全身は、いつの間にやら血塗れだ。
 毛穴という毛穴から血が汗のようにしみ出ているのだ、無理の上に無理を重ねると出てくる症状だ。意識は朦朧とし、気が付かない内に全身は力を失い、指一本持ち上げるだけでも重労働と言えるほどになってしまっている。
 身体の何もかもが命を支える何かが足りないと主張して、そのくせ腹の底から命を支える何かがあふれ出してこみ上げそうになっている。それをしてしまえば死んでしまうとは直感による判断だ。
 これ以上、何かをすればきっと俺は死ぬだろう。
 だったら、ここは引くのが得策だ。考えるまでもない当たり前の話だ。大体、目の前の少女は元々死にかけどころか瀕死だ。そんな相手を助ける為に、俺が死んでどうするんだ?
 ここで踏みとどまれば、俺は助かる。それは間違いが無い。
 
 ……で、それがどうした。

「……どうせ、二回目の反則人生だ」
 一回こっきりの命の方が、そりゃあ、大事だよな。
 びくびくと、手が震える。やめておけと頭の中で大きな声が聞こえる。
 俺は出来るかぎりの事はやった、誰も責めやしない、死んだとしても仕方が無い、これ以上俺が何をやっても死体が二つになるだけで無意味どころか有害だ。
 そんな声を、俺はやせ我慢でねじ伏せた。
 ぐだぐだと考える時間は無い。
 あと一歩で死ぬかも知れないという所で、あえてその一歩を踏み出す以外にはない。
あるのかも知れないが、俺の足りない脳みそでは他の延命手段は見付からなかった。
 頭の回転が速い奴ならここで何か一発逆転の手を思いついたりするのかもしれないが、俺にはそんな真似は出来なかった。
 やめておけ、死ぬ。そんな声がした。手が少女から離れそうになった。
 誰も責めやしない、こんなにボロボロになるまでやったんだぞ。そんな声がした。ろくに動かないはずの膝が浮いて、席を立ちそうになる。
 口を利いた事もない小娘の為に捨てる命があるかよ。そんな声もした。腹の底で湧き出てくるはずの念が滞る。
「あーっ! ああああぁぁっ!」
 自分の弱気から目を背け、駆け出す為の悲鳴のような気合が口から出てきた。叫ぶ力があるくらいなら他の所に回せよ、根性なしの俺め。
 ああ、もう。
 畜生だ。
 死にたくなんてねぇよ、何回死にかけたって悟れるもんかい。帰れるかも知れねぇんだ、あの人達の所に。
 畜生、畜生、畜生。
 こんなガキに魔気功なんて使いやがって畜生。
 俺の目の前で、死にかけやがって畜生! いっそひと思いに死んでしまえば、こんな事にはならなかったのになぁっ!
 くそったれでろくでなしの俺自身を殴り飛ばすようなつもりで、最後の力を振り絞り、そして声を上げる事も出来ずに俺の意識は闇に落ちようとして……
「っとぉ」
 誰かに支えられた。
 それが誰であるのかは、一瞬耳に捉えた声があっても分からない。ただ、何か暖かな物が背中から全身に波紋のように広がっていくのだけは、はっきりと認識できている。
もう大丈夫だ。
 根拠などない確信を抱き、それを受け入れた俺は速やかに意識を失った。
どこか、幼い頃に出会った誰か達がすぐ側にいるかのような安心感に笑みさえも浮かべながら。



「よお、思ったよりも早い目覚めだな」
 目を覚ました俺に、こちらが瞼を上げるよりも先に声をかけたのは飄々とした若さに溢れる声だった。
「彼女は助かったのか」
 ふう、と全身の力を抜いた俺に、別れた時と全く変わらないゼムリアが不思議そうな顔をした。
「どうしてそう思う?」
「ドクトル・ファウスタスがいれば、当然だろう」
 答えは、にやりという笑みだった。同じように笑い返すと、俺は自分の体内に意識を向けた。調子は上々である。
「三日か」
「ああ、きっちり三日間だ。お前さんが彼女を治療していた時間も含めてな」
 狂い続けていた体内時計は、優秀な事に意識を失っている間に正確な時を刻み直している。いや、優秀なのは俺ではなくて直した職人の方か。
「ゼムリア、あの時俺を支えてくれたのは……それから、念法を使ってくれたのは貴方だろう? 何度も助けてもらってかたじけない。それから、もう一人にもお礼を言いたいんだが、ドクトル・ファウスタスはどこに?」
 あの時、俺の身体はガタガタだった。
 その理由の一端に、酷使されすぎたチャクラを含む霊的器官の損傷がある。それを治療してくれたのはもちろんドクトル・ファウスタスだが、座礼を行う俺の前で照れくさそうな顔をする好青年も大いに力を貸してくれたのは想像するまでもない。
「あんたはどうにも大げさだよ。ドクトル・ファウスタスだってきっちり治療費は取るさ。そこまでかしこまらなくてもいい」
「それでは済まないだけの物を頂いたと考えております」
「何もあげた覚えはないさ」
 それ以上は何も言えないような顔をするゼムリアに、心の中でだけ敬意を払い続ける事を誓いながら話を変える事にする。
「間に合ったのは嬉しいが、洛陽にいたのか?」
「いや、そこら中を歩き回っていた。あの爺さんを追い掛けているのもあるし、この国が俺達にとっては物珍しいのもある」
「なら、どうして?」
「あれだけ延々と天まで届くような念を発している奴がいれば、見に来たくもなるさ。ましてや、心当たりがあれば尚更だ」
 少し呆れたような口調に、気恥ずかしくなるのを自覚する。狙い通りにいったはずなのにおかしな気分になった。
「お? 何か騒いでいるな」
 尻の据わりが悪くなったところで、タイミングよく聞こえてきたのは何かの喧騒だ。あからさまは百も承知、誤魔化すつもりで首をひねる。視界の端を掠めたニヤニヤ笑いは観なかった事にするよりない。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
 感無量という言葉その物と言うべき声がする。生命の力に満ち溢れた、うら若い少女の声その物だ。
 立ち上がると、改めて身体の好調さを実感する。こっそりとテントの入り口から顔をのぞかせると、少し離れたところにあの少女を中心とする人だかりが見えた。
 彼女は小柄な身体一杯に活力を漲らせ、二本の足でしっかりと立ちながら血色のいい頬を喜びの涙で濡らしてドクトル・ファウスタスの手を握り、繰り返しの感謝を単純すぎる言葉で伝えている。
 その語彙の無さが深い感謝を逆に知らせている。思わず口元が綻びかねん光景だ。彼女の周囲にも口々にドクトル・ファウスタスに感謝し、彼を賞賛する声ばかりが花束のように溢れかえっている。
「俺の身体も、ゼムリアだけじゃなくドクトルのお世話になったんだろう? 一段落したら礼をしにいくよ」
 俺としては今すぐ頭を下げに行きたいところだが、どうも割って入るにはやり辛すぎる空気が漂っている。
「は? それ、本気で言っているのか」
「早く礼を言うに越した事はないけれど、さすがに空気を読んだ方がいいだろ」
 若干、恩知らずあるいは礼儀知らずと言われているような気がして早口で言い返すが、ゼムリアは俺にどこか拍子抜けしたような顔さえする。何だって言うんだ。
「あいつの患者を助けたんだろう。むしろ、向こうが礼を言うべきじゃないか」
 今度は俺が口を開ける時間になる。
「は? いやいや、ドクトルにはあの……名前なんて言ったっけな……ああ、周泰を助けてもらったんだ。それ以上に俺を助けてもらったんだ。礼を言うのはもちろんこっちだろう」
 むしろ、なんで俺が礼を言われる側になるのか。
「彼女が身内ならともかく、あんたまるっきり赤の他人じゃないか。それで命を賭けてまで助けたんだから、医者としては礼を言う側じゃないのか」
 納得がいかないという顔をするゼムリアだが、それはこっちの方こそだ。だが、妙にムキになりそうな予感がしたのでやめておく。そこまでする必要性があるわけでもなし、そもそもこんな事でこの男と言い争いになるだなんて冗談ではない。
「俺にとっては感謝したい事なんだ。一言でいい、礼くらい言わせてくれ」
「損な男だなぁ」
 ゼムリアは腕組みをして不満そうに言うが、むしろ褒められたような気分になった。
「そいつは最高だ」
 上手く立ち回れるような賢い男である事は、少なくとも俺にとっては喜ばしい事ではない。損な事でも、敢えて逃げずにやれるような男でありたいのだ。
 そんな自分を格好いいと思いたいだけの俺は、つくづくガキである。
「こりゃあ、素直に申し出ても上手くいかないか?」
「? 何が……」
 俺を子供でも見るような目で見てくるゼムリアが何やらおかしな事を言っているが、いまいち察しがつかない。なんの話だろう。
「なあ、あんた。俺に感謝しているって言ったよな」
「? ああ」 
 悪戯坊主のような顔をした青年が、突然突拍子の無い事を言った。
「なら、俺と一丁勝負してもらえないか?」
「……勝負?」 
 にんまりと笑うゼムリアに、俺は不思議そうな表情をしながらオウム返しに返した。しかし、我ながらどこか嘘くさいとも思っていた。
 突拍子のない話ではあるが、俺は話を聞いた瞬間、あっさりと乗り気になっていたのだ。いや、今初めてそう考えたわけじゃない。
 むしろ、かつてゼムリアを見たその瞬間からこの数ヶ月間、俺の方こそずっとそうなる事を望んでいたのだ。この男の剣を見てみたい、と。
 俺を明らかに上回る、騏鬼翁の袖を切り裂いた一閃を見たその時から、俺の剣士として培ってきた本能がそれを叫び続けていた。
「乗り気のようだな」 
「見透かされちゃあしょうがない。確かに俺はあんたの剣が知りたかった。だけど、どうしてだい。あんたがそんな事を言ってくれるとは理由がないだろう」
「あんたの技は、あの鬼を倒した時に見た。素手の技が大層面白かったので、剣の技も知りたいとは当然だろう」
 そっちが専門だろうからな。そう言って笑う顔には、男だからこそ笑い返さずにはいられない爽やかさがあった。詩的な表現が似合う男に育った覚えもないが、まるでよく晴れた夏の草原のような男だ。
「そうかな?」 
 俺はごく自然に、相手が格上であると感じている。それが、俺の剣に興味があるって言うのか。逆ならともかく、悪い冗談のようにしか思えなかった。
「そうだよ」
「なら、こちらこそよろしく」
 結局は受けた。それもあっさりと。
 ほとんど関わりらしい関わりの無い相手ではあっても、それでも俺に対して……いいや、誰に対しても罠や卑怯な企みをするような男にはどうしても見えなかったからだ。
 それが、あるいは有り得ない知識故の思い込みに過ぎないのかはこれからの時間が証明してくれるだろう。
 残念な結果になると思えない俺は、毒されているのだろうか。たぶんそうじゃないんだろう。何となくだが、俺はこの男がどうしてこんな事を言い出したのかが分かってきた。
「いろいろ、教えて頂く」
「なんの事だろうな」
 我が意を得たり、と言う風に笑う男は何もかも分かっている風に笑った。つまり、そういう事なんだろう。見た目で言えば、一度人生……あるいは人間をやり直した俺の方が長く生きていると思う。
 だが、それでもまるで弟を見守るような顔をして見られている事に違和感も恥ずかしさも感じなかった。そうあるのが普通のように見える。
 こう言うのを、器が違うとでも言うのか。ああ、その言葉がいやにすんなりと胸の奥に収まる。
「じゃあ、始めようか」
 そう言って笑う男の横顔は常々誰かと被る。それに面はゆい思いをしながら、俺は彼に続いて誰にも捕まらないように、人目を避けてテントを飛び出した。周泰さんの話を聞かなければとは思う物の、それでもこの機会を逃せば一生後悔すると断言できた。
 


 それから、俺達は人目につかない場所を探して立ち合う事となった。
 互いに、適当な距離に立って得物を抜く。
ゼムリアは木刀を肩に担ぐようにして構え、俺は仁王をいつも通りの正眼。俺達の間に殺気ではなく気迫が立ちこめる事がどうにも嬉しくてしようが無かった。武術ではない、武道をしている。そんな実感が身体の内側からも外側からも感じ取れる事がどうしようもなく心地いい。
 だが、笑みが浮かぶような心地よさではなく腹が据わるような心地よさだ。昔から、工藤の家に引き取られて木刀を握った時から感じているそれと同じ空気だ。
 たまらない。
 懐かしく、心地よい古巣に帰ってきたような気分だ。
 どうしようもないほどに、叫びだしたくなる程に心が沸き立つ。いや、こらえるなど勿体ない事はしない。何を憚る事無く、俺は腹の底から声を上げた。
「ぉぉぉぉぉ……」
「お?」
「ぉぉぉおおおおおおおおぉっ!」
 最初は小さく、やがて大きく。最後は喉も破れんばかりに声を出す。俺自身は全身から声を出したと錯覚してしまうほどに心地よい叫びを出す事が出来た。
「気合が入っているじゃないか」
 ゼムリアの軽口に、何も返さずに一気呵成に踏み込んだ一刀が真正面からゼムリアの脳天に襲い掛かり、間に挟まれたもう一本の木刀に阻まれる。
 乾いた音が響いた。
 それが心地よく、手に伝わる感触もまた、心地よい。
 向こうはどう思っているだろうかと見てみると、ゼムリアの目も笑っている。瞳の中にある闘志は、好戦的でありながらも清々しい。それを受け止めながら、磁石のように弾けて距離を空けた。
 もう一度、間髪入れずに斬りかかる俺の姿は、一方的に攻めかかりながらも押しているようには見えなかった事だろう。まるで稽古をつけてもらっている子供のようだ。
 袈裟懸け、切り上げ、胴薙ぎ、太刀筋を隠そうという考えは全く思いつかない。ただ全力を真っ向からぶつけたいと思う、そんな剣を握り始めの頃のような気持ちに全身が沸きたった。
「いいいぃいいやああっ!」 
 実戦を知って以来、全く意味が無いと悟った気合の声が絶え間なく迸る。どうしてこんな奇声を上げているのか自分でもさっぱり分からないが、自然とそうなるのだ。
 全身に無駄に力が籠もっているのは自覚しているが、それを止める気にならない。今の俺はただ全力疾走したいだけの子供のようだ。
 固くて遅い太刀は簡単にかわされ、ゼムリアは反撃の様子もない。それをどれだけ繰り返したろうか、全身が汗にまみれて心地よい熱気が体内を満たす。
「ふっ!」
「お」
 力が抜け、鋭さを取り戻した一撃がゼムリアの腕を目掛けて奔り、木刀がそれを抑えた。
「身体が温まったみたいだな」
「久しぶりに、なにも考えずにがむしゃらに剣を振り回したくなったんだ。つき合ってくれてありがとう」
「たまにはあるよな、そういう時」
 ふざけているのかと怒る事もなく長々とつき合ってくれたゼムリアには感謝をして、もう一度距離をとる。全身にほてりはあるが、気が済んだおかげで余計な力は抜けた。
「じゃあ、そろそろ本番いくかい」
「おうさ」
 どうしようもなく楽しい。
 勝ち負けもなく、ただ剣を振るう事が楽しくて楽しくて仕方が無い。今までにも、こんな機会は山ほどあったがどうして今日だけこんなにも心が浮き立つのか。
 相手がゼムリアだからか。念法使いだからなのか。
 こんな事は、今までにどれだけあっただろうか。ああ、こんな事に頭を使っている時間その物が勿体ない。
 呼吸一つ一つでさえ無駄にはせずに、全霊をもってこの時間を使い切れ。
 自分自身に言い聞かせて振るった会心の一太刀がゼムリアの肩口の辺りで木刀に受け止められ、乾いた心地よい音が風の戦ぐ音を圧倒した。


 どれだけ時間が経った事だろうか。
 その感覚さえもなくなるほどに剣を振っている。いい加減に腕の力がなくなっているが、それでも不思議と仁王を手放す事だけはなかった。いつもの事だ。
 腕どころか全身の力が抜けているし、喉は焼けるようだ。冷たい麦茶の一杯をやってから大地に寝転べば、これ以上無いほど安らかな気分になるだろう。正に至上の贅沢だが、それでも引き替えにならないほど今の時間は充実している。
 一度切り結ぶごとに、俺の中から不要な物は岩をツルハシで掘り崩すように消えていき、鉱脈から宝が見つけられるように新しい自分が見付かっていく。
 俺は今、成長していた。
「面白いな」 
「ああ、ありがたい」
「礼を言わなくてもいいさ。あんたは確かに成長しているが、俺も確かに学んでいる、あんたの剣は、なんというのだろうな。肌に合う」
「それは、俺の学んできた剣を育んできた剣士達にこそ言うべき言葉だ。きっと、ゼムリアは日本、侍の刀とウマが合うんだろうさ」 
 力が入らないのに身体は思うままに動き、時としてそれ以上の速さで刀は振るわれ、重たく鋭い一撃を見舞い、俺の想定以上の理で隙を突く。
 だが、それでもゼムリアの身体には一撃も当たらず俺の身体には寸止めの一撃が既に十以上は打ち込まれていた。
 圧倒的な差だが、腐ることは無く遊んでいるかのように気分が弾む。俺は一体いつからこんなに剣術バカになったのか。
 一番“最初”の頃は、剣を握るどころか走ることさえも嫌がるような人間で、許されるなら幾らでもぐうたらしていたような怠け者だったはずだ。一体、いつからこんな体育会系の人間に変わったのやら。
 だが、悪くない。むしろいい変化だろう。俺のような根性なしでも変われるとは、きっと人間関係に恵まれたからに違いない。
 ああ、そうか。
 俺が変われているのは、成長できているのは剣を交わしている相手がゼムリアだからなのか。今も、言葉を交わしながら思考を巡らせながらも一振り一振りに成長の実感をはっきりと握りしめることができるのは、相手に恵まれたからであるのか。
 俺は大きく間合いを空けると、型稽古のように足を開いた。基本の一つである、上段の構えを取り、大きく深呼吸する。
 その間、ゼムリアは静かに待っている、
 余裕が有るからではなく、純粋に俺がこれから何をするかが楽しみなのだろう。これは真剣勝負ではないのだから、そういうのもありだ。
 そして、感謝の気持ちを技にこめて、とっておきを披露するのもまた、ありだ。
 だから、俺はこの立ち会いで初めて念法を使うことにする。それまでの純粋な剣技の勝負ではなく、何もかもをひっくるめての一太刀を見せる為だ。
 ゼムリアの顔からも、俺の念に呼応して笑みが消えて重たくも鋭い気配がにじみ出てくる。
「すごいな」
 そんな言葉が、意識するよりも先に口から出てくる。
「そっちこそ」
 その言葉を合図に、俺は仁王を風も世界も置き去りにしながら振り下ろした。





「本当に凄いじゃないか」 
「意識して出せたのは初めてだよ。ずっとずっと、たまに偶然出せるだけだったんだ」
 力を使い果たして大の字に倒れている俺を見下ろしながら賞賛するゼムリアには、結局かすり傷一つもついちゃいなかった。
 悔しくもあり、憧れもする。
「やっぱり、差は大きいな」
「そうか?」
「傷一つつかないで、よく言うよ。大体、手に持っているのはなんなんだ」
 ずっと気になっていたのだが、何故だかゼムリアは木刀を使っている。彼がこれまで持っていたのは、少なくとも騏鬼翁と争っている時までは木刀ではなく単なる木の棒でしかない。
 しかも、見るからに真新しい。
「ああ、これな。ちょっとあんたの真似をしてみたんだ。上手く出来ているだろ」 
 確かに見た目はよく似ているが、不思議なことに長さやバランスなどもよく似ている。仁王を見本にしたと言うよりも、再現したと言ってもいいくらいだ。
「なんでまた」
「格好良く見えてな」
「…………」
 コメントに困る答えに思わず無言になる。まさか口で言ったそのままでもなかろうが、見当もつかない。まあ、黙っていられても支障はない話だろう。彼が俺、ひいては世間様に迷惑をかけるような真似はするまい。
「工藤ー? そっちのお兄さんもこんな所で何をしているのよー」
 そんな俺達に、どこか呑気な声がかけられた。言わずもがな、孫策だった。彼女は俺達が揃っているのを見て何を思いついたのか面白そうな顔をしていたが、ゼムリアの足下を見て今度は素っ頓狂な声を上げる。
「ちょ……ちょっと、何よこれ!?」
 その時の顔は、いっそ写真にでも残しておきたいような彼女らしからぬ表情をしていた。いつでも飄々として人を食ったような態度を崩さない女が、人目も憚らずに驚きを表に出しているのは面白い。
「なんだって、何がだよ」
「人が悪いな」
 分かっているのに、あえてそんなセリフを口にする俺を、ゼムリアが笑った。彼の目は、自分の足下に注がれて孫策と同じ物を見ている。
「山みたいな大岩が真っ二つになってりゃあ、それもこんな鏡みたいな奇麗な断面を見せていれば驚くのは不思議じゃないだろ」
「あいにくと、この程度で驚くような可愛い連中は、俺の周りには一人もいなかったさ」
 まあ、さすがに言い過ぎなことを言うと、真に受けたゼムリアが目を丸くする。
「とんでもない話だな」
 口ではそう言いながら、目の奥には燃えたぎるような火が垣間見えるようだ。俺の一言が、彼の中にある剣士としての闘志に火をつけたらしい。
 ……彼が魔界都市に来たら一体どうなるのか。それを見てみたいと思ってしまうのは不謹慎ながらも本心だ。
「どうにも、神も悪魔も裸足で逃げ出すような連中がちらほらいる上に、そういう相手と顔を会わせる機会が多かったのさ。良くも悪くも、縁がある」
 良縁もあるが、悪縁も多い。妖姫一行との出会いは劉貴がいようとも悪縁に違いなく、ゼムリアとの出会いは間違いなく良縁だ。
「って、私を放りだして男だけで話さないでよね。こんなにいい女を放りっぱなしなんて、男として甲斐性が無いんじゃないかしら」
 上下のパーツに対して細すぎる腰に手を当てながら、憤然と言いつのる孫策が歩み寄ってくる。
「その通りだな」
 言われるままに、俺は尻を叩いて立ち上がる。疲労困憊だが、話している間に少しは回復した。
「じゃあ、甲斐性なしは退散する。後は若い二人に任せた」
 こう言う面倒くさいのは、三十七計目を決めるに限るのだ。
「そこでいなくなるのは、甲斐性がないにも程があるんじゃないかしら」
「あっちの方がいい男だろう」
 怒るどころか呆れている孫策とすれ違う時にニヤリ、と笑ったのは我ながら上手かったと思う。
「はいはい……それにしても、これをやったのはどっちなのかしら。何をどうしたらこうなるのか、まさか剣で山を斬ったわけでもないでしょうに」
「さあね」
 そんな会話が後ろから聞こえてきたが、意に介さずに足を進める。彼女の来た方には、劉貴の存在を証明する少女がいる。彼女から情報を聞きだして、それを元に劉貴の元へと確実に辿り着き……そして、今度こそ倒す。
 かつては全く届く予感がなかった。
 だが、ゼムリアに学んだ今の俺なら劉貴の喉元に切っ先を突きつけることが出来る。ただの錯覚に過ぎないのかも知れないが、この高揚感が俺にそう思わせてくれる。
 理屈も糞もなく、研ぎ直した今の俺を劉貴に見せたい。思うがままに全身全霊をもって、彼にぶつかりたい。そう、思った。



「まったく、人がせっかくお礼を言おうと思って探していたのに、そこで本当にいなくなる? 甲斐性なしと言うよりも、礼儀知らずよ」
「知るかい。まったく」
 あれから、感謝の意をこめて設けられた宴席において、孫策がぶちぶちと俺に文句を言ってくるが聞き流す。
 これだから女は、と言うセリフを飲み込むのには苦労した。
 あのまま颯爽といなくなるのが格好いいというのに、男のロマンを邪魔するとはなんて女だ。文句を言いたいのはこちらの方だと思いつつ、箸を口に運ぶ。
 豪勢な食事は、今の状況で彼女らが用意できる最上級の物だろう。こめられた敬意が想像できて尻が落ち着かないが、これはドクトル・ファウスタスに送られた物であり、俺はおまけであると考えて気分を落ち着ける。
 俺、ドクトル・ファウスタスとゼムリア、孫策、周瑜、黄蓋、そして周泰の七名が席を囲む一同であり、孫策の隣にドクトル・ファウスタスとゼムリアが、逆隣に俺が座っている。
 席順を決める際に、主君の隣に客が座る物なのかどうか聞いてみたのだが孫策は適当に話をしたいのだからいいのよ、と言い切った。
 周瑜がため息をついたので、おそらくは全くよくはないのだろう。怪しい自覚がある俺達だから、これは孫策だけの特殊なパターンと考えて置いた方が無難だ。まあ、そうそう偉いサンと飯を食う機会など有るはずもないので、特別気にかけることでもない。
 俺は、そこらの安食堂でがつがつ食う飯こそが肌に合う男である。
 間違っても、宴席で女を侍らせながら酌を受けるような男ではない。
「ほれ、もう一杯飲むがいい」
「……酒は得意じゃないんだよ」
「なんと」
 主に、俺の酌をしているのは黄蓋。彼女は主に俺やゼムリアの間を行き来しつつもたまにドクトル・ファウスタスの所に通って甲斐甲斐しく酌をしている。いや、俺達に勧める三倍以上飲んでいるので甲斐甲斐しいというのは語弊がありそうだ。
「三人分の三倍飲んで、酔う酔わない以前にどこに入っていやがる」
「無粋じゃの」  
 引き締まった蜂のようなウエストを見ると、一行に膨らんでいる気配もない。つまみも加えれば相当な量が入っているはずだが……以前出会った、車を飲み込むストリートパフォーマーを思い出す。
 味を聞いたら憮然としていた彼でも腹は膨らんでいた、車一台分も。
「はい、ぜむりあさんもどうぞ!」
「おう、ありがとう」
 いまいち舌に馴染んでいない発音で名前を呼びながらゼムリアに酌をしているのは、中学生程度にしか見えない溌剌とした少女、周泰。
 今回の患者その人だが、随分と元気になっている。瀕死の状態を数日間彷徨い続けた危篤状態とは到底思えないのだが、俺が眠っている間に随分と回復したらしい。
 いや、そう言えば俺も似たような物だったか。その俺がここまで回復しているのだから、彼女も同様に回復しているのは不思議ではあっても当たり前だ。
 そんな彼女に対して、少しでも多くの劉貴の情報を提供してもらいたいと勇んでここまで来たのだが、実はドクトル・ファウスタスに止められてしまった。
 さすがに、昨日の今日で自分を殺しかけた相手について根掘り葉掘り聞くのは認められない、と至極もっともな事を言われてしまい、相手が相手な事もあって少し時間を置くことになってしまったのである。
 じらされている気分だが、彼女が微妙に俺を避けているのは気が付いているので仕方が無いと諦めている。どうも、孫策か周瑜辺りが俺の目的を事前に話していたらしい。
 彼女にしてみれば、俺は辛い記憶をほじくり返す馬の骨なのだろう。仮にもスパイのようなことをしていた彼女がそこまで過敏に反応するのはいまいち納得がいかないが、若い女など俺にとっては理解不能の生き物なので、軟弱とは思う物の、そう言う物なのだとしておく。
 ドクトル・ファウスタスに酒を勧めているのは周瑜だ。先ほど、黄蓋が戦地でなければ自分たちではなく専門の女性が酌をするところだと言っていたが、なるほど彼女のような立場の人間が身内同士の飲み会でもあるまいに、酌婦の真似事というのはおかしな話だ。
 彼女らは見た目なら最上級の上に娼婦顔負けに露出が多いので、よく似合ってはいるんだが、そう言えばこれでも武将なのである。
 これでもっと栄えている武家なら、彼女らが手ずから酌婦をやる事もなかったんだろう。
 まあ、ともあれ黄蓋も周瑜も、そして言わずもがな孫策もこの快気祝いの宴はとかく楽しんでいるようなので問題は無いだろう。周瑜などは、以前にドクトル・ファウスタスに命を救われたこともあるが、彼の卓抜とした医術に関心が高いようで進んで会話を行いながら、自分達の元に留まってもらえないかと誘いをかけている。
 孫策と黄蓋は、主に俺やゼムリアに武芸関係の話を振ってくる。俺としても彼女ら、特にゼムリアの話は興味が尽きることはないので積極的に会話に混ざっている。彼らの話は参考になり面白くもあるが、向こうも俺の話は面白いらしく何くれと質問が尽きない。
 もちろん武芸に生きる者として限度はあるが、少し口が軽くなっていたのは否定できないほどだった。
 さて、ゼムリアが俺の話にふんふんとうなずき、孫策と黄蓋が目を丸くしたり眉唾だと顔をしかめたりして随分と時間が経った頃……わずかな空白の時間を縫って、俺は座り直しながら口を開いた。
「そろそろ……宴席には相応しくもない話があるんだが、いいか」
 発言者の俺ではなく、びくり、と肩を上げた周泰が一同の目を集めたが、彼女は怯える事無く毅然として頷いた。腰が引けているように見えたが、それは言わないのが情けだろう。
「……命のご恩です。私に分かることがあれば、幾らでもお話しします。雪蓮様からの許可も出ております」
「ありがとう」
 まあ、そう言ったところで本当に一から十まで話してくれるとは思ってはいないし、そもそも彼女の知識では何が何だか分からなかった、で済まされてしまうところも多々あるんだろう。
 何を聞くべきかは考えていたが、やはり重点的には劉貴を発見した場所とそこの間取りや潜入方法などを聞いた方が無難だろう。
「まあ、うちにしても得体の知れない男の事を詳しく聞けるに越したことはないしね」
「俺達も聞いて構わないのかい?」
 ゼムリアが聞いてきたが、もちろん是だ。彼らとて騏鬼翁と戦っているのだから、仲間である劉貴の情報は持っていても損にはならないだろう。
結局、騏鬼翁とはあれからどうなったのかは聞けていないしな、こっちとしてもいい機会だ。
「まず、そもそも君が相手取ったのはどこの何者であるのか。名前なんかは聞けたのなら話は早いんだが……あと、どういう技術を持っていたのか、言動なんかも知りたい」
 しばし時間をおき、恐らくは何を俺に話していい物かどうかと取捨選択をした後に彼女が言うには、これまでに見たことも無いような男だったそうだ。
「黒くて、金糸銀糸を使って贅を凝らした服を纏っておりました。一見すると典雅とさえ言える顔でしたが……雰囲気がいかにも武人然としており、線が細いと言う印象はありませんでした。むしろ、石か鉄で出来ているような、そんな印象を受けました」
「……名前は?」
「申し訳ありませんが、そこまでは。ただ、張勲には“主様”と呼ばれていました」
 最初に吸血鬼となったと思しき張勲にご主人様、か……なるほどね。まず間違いは無いだろう。よく生きて帰れたもんだとつくづく感心する。
 俺は、劉貴の容貌を褒めた周泰をからかおうとする孫策を制してから続きを質問する。
「君が見た中で、どのくらいの人間が張勲と同じになっていた?」
「私が見た中では既に五十人を超えていました」
「……多いな」
 詳しく聞いたところによると、吸血鬼になったわけではなく“なりかけ”が多いようだが、彼女が最後に調査した時から時間は随分と経っている。既に多くが吸血鬼と成り果てて、更に犠牲者を増やしていることだろう。
「最悪、街一つ全てが吸血鬼となっていると仮定しておいた方が無難か……」
 俺がそう結論を出すと、女性陣の動きが一瞬硬直した。
「なんだ?」
 口には質問を出したものの、なけなしの想像力で察しはついていた。
「工藤……聞きたいのだけれど、あなたこれからどうするの」
 孫策が、全く似合わない神妙な顔をして直接的な返答以外のことを口にする。質問に質問で返すなとか、雰囲気が似合っていないなどとは言えない顔だ。
「袁術とかいう奴の所に忍び込んで、劉貴と戦う」
 結局は、これに尽きる。この国の事情などに関わるつもりは毛頭無く、やるべき事は一つきりなのだ。まあ、やれることがそれだけだという話もあるんだが……
 だが、そんな俺の答えを耳にした周瑜が、笑いたいが笑えないという顔をした。
「それはなんというか……随分とわかりやすいというか、誰もが思いついて、しかしやらない選択だな、それは」
 女と角を突き合わせないコツは、聞き流し方の巧さだと思う。
「馬鹿にされている事だけは理解できた」
「いや、そういうつもりはないんだが」
 愛想笑いではなく、まるで利かん気の子供でも相手にしているかのような笑みを浮かべているとしか見えないのは、俺のひがみだろうか。
「工藤、それは生憎とかなり難しいわよ。たぶん、もう無理」
 酒ではなく肉で、マナーなど知るかと言わんばかりに噛みついて憂さ晴らしをする俺に孫策が突然そんな事を言う。どういう意味だ。
「董卓殿はやり過ぎた、って言うところね」
「らしくもない、もってまわった言い方をする」
「もってまわってないわよ。あなたがそんだけ性急なの、焦ってるんじゃない?」
 俺はいつもこんなもんだ。だから、交渉ごとが下手だのと言われる。
「……今までよくやってこられたわね」
「話が逸れている」
 これ見よがしに頭痛がするというようなポーズをとる孫策だが、彼女に冷たい視線を向けている周瑜に気が付いていないのだろうか。日頃の行いが知れる。
「檄文が今、漢の諸侯に届いているらしいわ」
 げきぶん、と言う言葉が頭の中で漢字にならない。知らない言葉だった。
「なんだ、それ」
 見栄を張っても何もでない場面だと思い、俺は率直に言葉を口にする。孫策はため息をついたが、それは俺に対してではないようだ。彼女は、俺が単語の意味さえ理解できなかったとは気が付かなかったようだ。
 無教養さが飛び抜けていると、口で言われるよりもはっきり突きつけられたようで恥ずかしくなったが、黙っておく。他の頭の良さそうな連中には気が付かれている気がして落ち着かない。
「帝を傀儡にして、天下をほしいままにする董卓を我らの力を結集して討つべし、一言でなら大体そんな内容かしら。袁家の一門において筆頭である、袁紹から有力諸侯に送られた檄文よ。なんでも、董卓は我欲のままに帝をないがしろにし、洛陽の民に理不尽な暴虐を振る舞い魔王さながらの悪事を働いて漢を食いつぶす非道の輩だとかなんとか」
「へえ」
 げきぶん、がなんなのかをようやく察した俺が軽く聞き流すと、黄蓋は意外そうな視線で俺の横顔を突き刺した。
「おぬし、洛陽の様子は我ら以上に知っておるじゃろ? なんでそんなに平気なんじゃ?」
「なにがだ」
 平然と返して今度は魚らしい料理をつまむ俺を、黄蓋は怒っているような、悲しんでいるような、語彙の足りない俺には表現しづらい顔で見てくる。こいつは一体何を言いたいんだ。
「董卓殿とは知らぬ仲でもないのであろう。その相手がよってたかって殺されそうになっている。それも、濡れ衣の醜聞をでっち上げられて、だ。思うところはないというのか!?」
 演説気味に言われても、俺は頭をかく事しか出来ん。
「知らぬ仲でもないって、どっから出てきたデマだ」
 一回会っただけ、しかも結構険悪な関係だと教えるが彼女らは信じようとはしなかった。
「あの張遼という武将、お主を大層買っているようにしか見えなかったぞ。褒める事は多々あってもけなす事は一言とてなかった。それほど言ってくれる女を、そのように言うのか」
 失望した、と顔に書いてくれているが知ったこっちゃあない。そんな物はせいぜいただの世辞だろう、と言うのがこれまでの事を思い返しての本音だ。
 それにしても、随分と追求が激しい。これじゃあまるで糾弾だ。
 おかしいと思い、改めて彼女を見直すが……たぶんだが、彼女がこれだけ感情を篭めているのは状況が悪いせいもあるだろう。
 なにしろ、董卓は漢のやり玉に挙がっているのだ。もしかして彼女の目には、俺は苦難の相手から距離をとる腰抜けにでも見え始めているかもしれない。
「薄っぺらい世辞に浮かれる純情さは元々少ない上に、すっかり擦り切れたんでな」
 元々、自覚が持てるくらいに素直に褒め言葉も受け入れられないと言う捻くれた難儀な性格である。そんな俺が今の話を聞いても心を動かされるわけがない。
 大体、陰口ならともかくこっそり褒められていましたと言われても……そんなあっさりと鵜呑みに出来るか?
「お主」
 ふん、と悪ぶった俺は黄蓋への印象を相当に悪くしてしまった自覚がある。しかし、そこであれこれ言いつのって取り繕うのがどうしようもなく嫌なのだ。
 見損なったと思えば思え。
 まあ、こんな強気な態度を取れるのも……実のところ黄蓋達が相手だからだ。顔と名前が一致しているだけの赤の他人に見損なわれたところで何ほどの事もない。
 これが身内相手だったら、結構みっともなく言い訳でもしているかも知れない。いや、きっとしている。
 ふう、とため息をついた黄蓋はそれきり黙った。が、口の中でもごもごと何かを言っている。
「張遼にはもう一度話を聞いてみる必要がありそうだの……」
 こだわる事か?
 しつこい酔っ払いだと眉を顰めている俺に、周瑜から声がかかる。
「多少回り道をしたが、私から続きを話そう」
 冷たい口調は碁盤のように四角四角をして、いかにも事務的だ。その方がよっぽどやりやすい。
「先の檄文に、紆余曲折はあれど諸侯は応えた。それを発した袁紹の勢力が大きく、董卓を潰して彼女らが独占している権勢をそっくり頂く……あるいは、それ以上の利を得る可能性が現実味を帯びているからだ」
 まあ、中には檄文の内容を鵜呑みにしていたりする間抜けもいるという噂も聞くが……などと周瑜が抜かすが、仮にも人の上に立っているのにそんな間抜けがいるものかね。
「上の言う事を素直に聞くのが仕事の末端じゃあるまいに、その上に立つ人間でそんなのがいるのか? もしも本当だったら、そんな道化の下にいる兵にとっては不幸どころじゃないな」
「噂は噂さ」 
 噂のままで放っておくとは思えないような女は斜に構えた笑みで俺の言葉に返すと、改めて話を続ける。
「そして、その反董卓連合の中には当然ながら袁術も入っている。袁紹にだけ美味しいところを持っていかれてたまるかという話だろうな」
「相手には、自分たちの所を飛び出した私達孫家がいるんだからなおの事でしょうね」
 不良の足抜けリンチと変わらんな。いや、潰す事以上に他の目的も色々あるだろうから悪質さはもっとかもしれん。
「つまり、その中に劉貴もいるって言いたいのか?」
「仮にも武人であるのだろう? 座して斬首を待つわけでもない董卓殿達との大戦が始まるのに、参戦しないわけがあると思うか」
「……まあ、確かに」
 戦場が待っているにも関わらず、劉貴が引く理由はないだろう。例外は妖姫が何かの意図で命令した時くらいだが、フリーハンドなはずの今は止まるまい。
「無理って言うのはそう言う事よ。あなた一人で行軍中の袁術軍に忍び込めるかしら? そもそも、異国人の貴方に連日大移動中の軍を見つけられるの?」
「そりゃあ、山ほどの面子が行軍していりゃあ」 
「甘いわね」
 孫策にすっぱりと斬られた。
「仮にも軍よ? 確かに数万の兵は目立つ。しかし、漢の大地はそれ以上に広い。私達の間諜から隠れ潜む為に行軍していると言うのに、貴方一人に見つけられるとは思えないわ。しかも、袁術軍以外にもあっちこっちから諸侯が兵を率いてくるのよ? もし運良く見つけられたとしても、そこから袁術軍の中に潜む劉貴とやらを首尾よく探し出して討ち取る……できるかしら? 周りも既に悪鬼の巣窟になっているんでしょう?」
「……子連れで劉備の軍を見つけた事はある」
「素人の軍隊ごっこと一緒にしていたら痛い目を見るわよ。ましてや、今は得体の知れない妖ばかりの百鬼夜行でしょう」 
「むう」 
 言われてみればそんな気がしなくもないが、どうしてこいつがこれだけ言葉を尽くすんだ。
「何で俺を引き留めるような事を言う」
 ひょっとしたら純粋な善意かも知れん。今さら俺の使い道なんて、彼女らにはもう大してないだろう。
「頼みがあるのよ」
 まあ、そんなもんだろう。
「頼み? ああ、そう言えば最初から助けてと言っていたな……彼女の事じゃなかったのか」
「ふえ!?」
 俺の視線を受けた周泰がびくりと跳ねる。仮にも武将が、そんな事でいいのだろうか。飛び上がる彼女を見た瞬間に、周泰が醜態、などと馬鹿馬鹿しいフレーズが思い浮んだ事は一生の秘密としておこう。
「袁術の下に、誰か逃げ遅れた仲間がいるのか?」 
「ほう」
「……よく分かったわね」 
 思いついたままに口から出てきた言葉は、偶然にも正解だったらしい。周瑜が若干見直したように声を上げ、孫策は口だけは笑いながらもどこか悔しそうだ。
「俺に出来る事なんて、たかが知れている。その中で、お前さんの手勢に出来なさそうな事と言ったら、妖物退治ぐらいだろ」
 退治する理由を考えれば、真っ先に思いついたのは急な脱出で逃げ遅れた誰かが向こうにいる。そのくらいだった。要するに、本命が普通に当たっただけである。感心される事ではない。
「まあ、最初から全部腹を割って話すつもりだったから話が早いに越した事はないのよね」
 孫策は居住まいを正して、表情も改まった物に変えると俺をじっと見つめた。これまでに戦場でも見た事の無い、真剣と言うよりも深刻な顔だった。
「工藤殿、我が妹……名を孫権、彼女を袁術の元より救い出して頂きたい」
「妹……?」
 既に化け物の巣窟となった袁術の元に、妹が捕まっているというのか。
「そもそも我が孫家は母の急死により、恥ずかしながら私の代で勢力が大きく衰えた。その際に朝廷より任じられた後釜となったのが袁家なの」
 詳しい経緯などは、法などの問題もあるので俺にはさっぱりだったが……とにかく結論としては、孫策は母の後を受け継ぐ事は出来ないと朝廷より判断されて袁術が後任としてやってきた。
 孫策が当時幾つだったのか、周囲の評判などはわからないが、今現在でこそ子供、加えて暗君として名を馳せている以上、当時は更に輪をかけていたのは自明の理だろう。
 率直に言って、名家の力とやらでねじ込まれただけなのは嫉み僻みの色眼鏡を差し引いたとしても明白。
 元々自分、ないしは妹達が受け継ぐはずだった領地にそのような人事を行われて恨まないはずはない。言葉の端々から分かるほどに故人を尊敬していたらしい孫策にとっては尚更の話と察せられる。
 袁家もそれを分かっていたのか、孫家を取り込む方針をとり、忌々しくもそれをはね除けるだけの力は彼女たちにはなかった。
 最終的には、先代の頃の家臣達は袁家の命によりちりぢりとなり、孫家は明確に袁家の下に付く事になる。頭領である孫策の妹は二名いるが、彼女たちはそれぞれわずかな護衛の家臣と一緒に人質として軟禁同然の暮らしを強いられているという。
 徳川、いや松平と今川みたいな物か。確か、後の家康も織田だの今川だのの間を猫の子よろしく行き来させられていたと言うから、そんなイメージで間違いはないかな。
「で、その妹様が袁術の所から脱走する際に逃げ遅れたかなんかで未だに囚われの身、か……」 
 囚われのお姫様、と言う口にするのも恥ずかしいフレーズが頭の中でダンスを踊ったが、この孫策の妹がそんなタマだと考えるのはいくらなんでも無理があるだろう。
「あんたの妹だって言うんなら、敵兵の悉くをなますにして自力で逃げ出している気がするな」
「それが出来ていれば越した事はないけどね。護衛についている娘も結構腕が立つ方だし」
 護衛のいる人質か。わりとよく聞く話だけど、なんだかおかしなフレーズだ。
「妖物を相手取れる程の腕前じゃないって事か?」
「腕云々は、妖物とやらがどれほどの物かは分からない以上何とも言えないわ。まあ、おいそれと後れをとるような腕だとは思っていないけどね。裏切るような子でも、怯えるような子でもないし、信用はできる」
「ふうん……連絡は取れているのか?」
 首を横に振る。まあ、深刻な顔をしている時点でそうだろうとは思っていた。
「ええ……下の方はね」
 下の妹はまだまだ子供という年齢であり、三女でもある事で監視も緩く逃げ出す事には成功したらしい。長幼の序という奴か。
 しかし、次女は万が一の場合にすぐ孫策の後継となる立場であり、相当に厳重な監視の下での生活を余儀なくさせられていたとか。
 末娘の方は現在、周瑜の指示の元でどこぞに秘密裏に匿われているそうだから随分と境遇に差が出来た物だ。
「本当だったら、洛陽で董卓殿を通じて朝廷から働きかけてもらうつもりだったんだけど……よもや全面戦争になるとはね。全く予想していないわけじゃなかったけれども、動きが早すぎたわ。最初からそうなるように仕組まれていたみたい」
「袁術の異常を訴え、軍をもって攻める。妹君のみならず全て取り返す。その算段だったのだが……よもや、袁紹がこれほど拙速に行動するとはな。考えていた策を先にやられてしまったよ」
 周瑜が何とも情けなさそうな顔をする。噂を聞いた限りでは袁家の頭領はどっちもろくでなしだと聞くから、出し抜かれる形になったのが悔しいのだろう。その辺りの算段は俺にはさっぱり分からん。最初から考慮するつもりもない。
「……それで、引き受けてもらえるかしら」
「ああ、わかった。すぐに行く」
 さっきまで寝ていた事だし、飯も食った。旅に必要な物と予想される監禁場所とそこまでの道筋を教えてもらったら、すぐに出立しよう。
 こういう時に、ジェット・チャリでもあればと無い物ねだりをしている俺に、孫策が少し間抜けな声をかけてきた。
「ええっと……こう言うのもなんだけど……随分とあっさり引き受けてくれたわね」
「そうか? それよりも、食糧に着替えと……囚われているだろう場所に、そこまでの地図。後は……ああ、そうだ。妹さんに俺が信用されるような証明書類? みたいのでもくれ。そんくらいは頼っていいだろ」
 言いながら、俺は腰を浮かした。
 立ち上がってから拙速だな、と自覚したが座り直す気にはなれない。吸血鬼の巣窟に若い女が囚われているのだ、既に最悪の事態になっているとは容易に察しがつくがそれでも早いに越した事はない。大体、ここで座り直したらなんだか格好悪い。
「いや、それはもちろん準備するが……報酬などの話がまだだろう」
「なにさ、それ」 
 周瑜がおかしな事を言うのでぽろりとこぼすと、今度はおかしな事を言うだけじゃなくておかしな顔をする。それも、女達が全員。
 ゼムリアはニヤニヤとして、ドクトル・ファウスタスはすまし顔で盃を傾けている。ちなみに、孫策と黄蓋の両方を合わせたよりも多い。いつの間にこんなに呑んだんだ。
「なにさ、それ……と言われても」
「…………」 
 お互いにかみ合わない話に、妙な顔を突き合わせていると、ゼムリアが間に入ってきた。その時にはもう、俺はそれぞれの食い違いを理解しているのだが、周瑜は本当に分かっていないらしいのでありがたい。
「なあ、周瑜さん。工藤は孫策さんの“頼み”をきいたんだぜ? 仕事を受けたんじゃないのに報酬が出るのはおかしいだろう」
 まあ、そういう事だ。
「いや、そう言うのって……あり?」
「知るか」 
 納得がいっていない顔をされるが、俺にとってはそれが当たり前だ。妙な事を言っていると自覚はあるが、この件に関しては報酬などもらえない。 
 俺の脳裏には今、黄巾の砦でのワンシーンがこびりついたように離れないのだ。劉貴によって血を吸われた三人の女、人あらざる者へと変質した哀れな三人が消えない。
 もう一度同じ事が起こる。
 一度失敗した、手の届かなかった間抜けにとっちゃ見逃せる話じゃない。
 結局、俺は孫策の頼みという形に乗っかっただけでしかない。この話に乗り気なのはあくまでも俺自身の意地だ。
 どの面下げて、謝礼なんぞもらえるかい。
「こだわりだ、個人的な」
 不信の眼差しに話がややこしくなりそうだと感じた俺は、不承不承口を開く。
「別に大した理由があるわけじゃない。あくまでも、俺なりに思うところがあるって言うだけだ。この件には、関わらなけりゃならない理由がある。これで報酬をもらうのは、少し違うだろう」
「理由とはなんじゃ」 
 黄蓋まで首を突っ込んでくる。まあ、彼女にしてみれば主君の妹の命が係っているんだから当たり前か。
 本当は言いたくないが、事情が事情。嫌々を露骨に表に出しながら肩をすくめる。
「あんた達二人は知っているだろう。この前、俺は救えなかった」
 いや、救えた事があったか。自分の中から出てくる嘲りはよくない物だと分かっていても、それについつい浸ってしまうような……どうしようもない負け犬の魅力に満ちている。この手の物に取り憑かれると悪霊相手並にまずい。
「だから……今度こそ、助けるんだ」
 代償とは言わない。
 そんなゲスな事を考えてはならない。ただ、失敗を繰り返さないと言うだけだ。そう言いながら、一体何人が擦り抜けていっただろうかとやくたいもない事をもう一度考えてしまう。まったく、情けない事だ。
「とにかく、どうでもいいだろうが俺の内心なんて。裏切るつもりも放り出す気もないんだ、心配だったら見張りでもつけてろ」

 



 本当につけやがった、糞女。
「わ、私がいた方が効率的だからですよ」
「まあ、道案内にしろ件の妹さん達への証明にせよ、これ以上はないよな。少なくとも物や竹簡なんかに頼るよりはずっといい」
 袁術の本拠地であると言う南陽を近くにある小高い丘から見下ろし、不機嫌さむき出しの俺を宥める為に口々に言ったのは、ゼムリアと周泰だった。彼女らは、俺の同行者である。周泰は俺の事を信用できない呉の面々がつけた首輪のような物だが、ゼムリアは俺ともう少し剣の稽古をしたいからと言う理由でくっついてきた。
 そんな滅茶苦茶な理由でと俺とドクトル・ファウスタス以外の全員が珍妙な顔をしたが、本人は涼しげに笑っているだけだった。
 ドクトル・ファウスタスはどうするんだと返しても、勝手にしているだろと言われて終わりだった。
「ここに来るまでの修練は、俺の方がよっぽど鍛えられたよ。まったく、頭が上がらないにも程がある」
「なんの事だよ」
「あんたを戦わせるつもりはないぞ」
 俺がそう言うと、道中俺と彼の技量差を見ていた周泰は慌てたがゼムリアはすまし顔だ。仮に俺がやられそうになったら、即座に前に出るに違いない。そして、そうなるまでは後ろで黙ってみているのだろう。まるで父か兄だな。
「幾つになったら一人前になれるんだか」
 保護者付きのような今の自分に情けなさばかりを感じる。
 もしも劉貴と相対した時に彼が前に出てくれるようなら、それこそ男の恥だ。
「しかし、南陽って言うのは随分と静かな土地だな。袁術とか言うのが相当な悪政をしているって話にしても、これはいかにもおかしくないか」
 あまりにも情けない未来予想図をどうにかはね除ける為に、思いついた事を適当に口走るが言った事は我ながら的外れというわけではない。俺達は今、袁術本人がいるとされる南陽の街を見下ろしているのだが……一つ、おかしな所がある。
 現在は俺の基準で言うところの午後1時。昼飯を食って、さあ午後の労働を頑張るかと天下の勤め人が腰を上げる頃合いであるが……
 街の通り、あまつさえ軒下にさえも人がいないのだ。
 その様は、さながら西部劇に出てくるゴーストタウンと言ったところか。今にもよく分からない枯れ草の固まりのような物が風に吹かれて転がってきそうである。
「さすがにこれは、あり得ません……確かに袁術の悪政により、本来なら豊かな土地であったはずの南陽は失われましたが、それでも昼日中に街の住人が通りから消えてなくなるだなんて……少なくとも、私が知っている限りはここまで荒廃はしていないです。いいえ、これは荒廃なんて物じゃありません」 
 周泰が言う事は確かにうなずける。
 何よりもおかしいのは、見下ろす街に“荒れたところがない”事だ。仮に何らかの理由で街の住人が消えてしまったとしても、それでは街の様子が奇麗すぎる。疫病、戦災、他にも理由は数多にあるのだろうが、街が壊滅したと言うならば建造物のどこを見ても傷一つないというのは有り得ない。
 ここに来るまで、周泰は事前に部下を通じてある程度の情報は入手していたが、その中にここまで完全に人気が無くなっているという報告はなかったらしい。その辺は部外者である俺らが触れるのは好ましくないとはぶられていたのだが、こんな事なら聞かせてもらうんだった。
 俺は、こんな状況をどこかで見た事がある。
「この街……まるで、夜だな」
 俺の考えと同じ物を、ゼムリアが声に出した。
 人っ子一人いない、風の音さえうるさく聞こえる静寂の街。それでありながらも、消して荒れ果てているわけではない街。
 昼夜が逆転していれば、別段おかしくはない光景だ。街の住人は“ただ眠っているだけ”なのだから。
「街が寝ているんだろうさ」
「街が……眠っている?」
 この、太陽が燦々と照り光る白昼にあってそうなっている街を俺は他にもう一つ知っている。
 戸山住宅。
 魔界都市に存在する、特定の種族のみが暮らす街だ。
 あの青白い空気に染め上げられる街ならば、中には昼間も活動しているものもいるが、それを奇特と称してもおかしくはないほどに、昼日中は静寂に包まれた街として湖中のような静寂の中で遠くに他の街の喧騒を聞く事になる。
 観光客なんかは足を踏み入れると違和感のある光景に驚くらしいが、今の俺も同じような心境なんだろう。まあ、それでも敵地であるかないかというのは大きな違いだろうが。
「詩的な表現だな」 
「下にいる連中の大本が、俺なんかとは比較にならない典雅な吸血鬼なんでね。」
 俺のセリフにゼムリアは笑って肩をすくめ、周泰は顔を青ざめさせた。
「ちょっと待ってください!まさか、街の住人全てが……」
「だろうな」
 この静寂が、はっきりとした証拠だ。
「夜に行くのは自殺行為も甚だしいな。人質さんも早く連れ出すに越した事はないし、今のうちに事を済ませよう」
 下に降りようとする俺に、周泰は狼狽を隠さずに食ってかかる。
「そんな、あり得ません! いくら悪政が敷かれていたとは言っても、あの街にどれだけの住人がいたと思っているのですか!?」
「知らないし、意味もない。吸血鬼は一人いればどこまでもねずみ算的に増えていくんだ。住人全部……そして、兵士全部が人ではなくなっていても別に不思議じゃない」
「そんな……」 
 ここにくるまで吸血鬼についてはきっちり教えておいたはずだが、今さらのように戦かれてもこっちが困る。実感がなかったのだろうか。
「そんなもこんなもないもんだ。もう全部何を今さらだろう? 相手は目の前にいるんだから。さっさと降りようぜ」
 引こうと引くまいとどうでもいい。そんな気持ちのままで、俺は彼女から離れていく。だが、後ろから足音は二つ聞こえてきた。
 無言のまま、街へは真っ正面から入った。顔も知られていない俺達が咎められる謂われはないからだが、それ以前に止めようとする兵の一人もいない。
「ゴーストタウンその物だな」
「ごーすと……?」
「幽霊の街」
 俺の説明に縁起でもない事を言わないでくださいと金切り声が飛んできたが、それ以上に性質の悪い街に足を踏み入れたという自覚はないようだ。吸血鬼と幽霊だったら、後者の方がマシだと思うのは俺が念法使いだからだけでもない。
「なんでしょう……寒気がします。や、やっぱりこんな人気のない街は昼間でも不気味ですからね。ちょっと腰が引けちゃっているのかな。こ、こんな事じゃ祭様にでも怒られちゃいそうです。黙っててくださいね」  
 静かすぎる街の中で、彼女の高い声はよく響く。
辺りに反響さえする自分の声に周泰は引きつった顔を隠せずにいるが、彼女の名誉の為に一言だけ言っておこう。
「別に腰が引けているわけじゃない。街に妖気が立ちこめているだけだ」
「へ? よ、妖気?」
 俺のセリフにゼムリアが少しばかり眉をひそめるが、敢えて何も言わない。不安がっている周泰が忍びないが、この場で不安に身を竦めていいような甘えの許された人間は誰もいない、というところだろうか。
「こっちを秘かに遠巻きにしている連中も、あるいは石のように眠っている連中も、誰も彼もが人間じゃない。最悪の事態という奴だが、街全体が完全に吸血鬼の巣となっているのは間違いない」
 ひい、と呼吸音のまがい物のような悲鳴が聞こえる。彼女の中では、ひょっとすれば片鱗の力だけで自分を打ち倒した劉貴が山ほどいる街になっているのかも知れない。
 さすがにそれは遠慮したいな、と肌が青ざめていくのを自覚する。
「吸血鬼に限らず、真っ当な生命の環から外れた生き物は妖気を発する。それは様々な怪奇現象を起こすが、一番わかりやすいのは人間の身体に不調を起こす事だな。中には決して悪いだけじゃない場合もあるが基本的には有害だ」
「様々な怪奇現象ってなんなんですか、一体どんな物があるんですかぁ!?」
 咄嗟に大きな声を上げてしまうのは、彼女の職業適性を大いに疑わせたが、当人もまずいと感じる理性はあったようで口を押さえて身体を丸めた。そんな事をしても、空気さえも妖気を帯びた静寂に乾いている街に響いた声が消えるわけでもないのだが、彼女はしばらく足を止めていた。
「あうう……私のお馬鹿……」
「どうでもいいからさっさと行くぞ」
 小芝居につき合う余裕もつもりもない。
 どっちみち、俺達は普通に都市に入ってきたのだから、当たり前に侵入はばれているだろう。
「それって、工藤殿がこっちが止めるのもきかずにひょいひょい行っちゃったからですよね!? 何を他人事みたいに言ってますかぁ!」
 どうでもいいけど、声がまたしてもでかいのはいいのだろうか。
「巧遅よりも拙速を尊ぶってな。今は昼間だ。そのアドバンテージは失いがたい。一度は潜入したお前さんがいるから、とにかく先んじて進むに越した事はなかろう」
 潜入がばれる可能性は、元々高いと踏んでいた。
 妖物に素人の周泰と、潜入はそこそこ程度の俺、ゼムリアもおそらくそんな程度だろう。だから、ばれる事を前提でとにかく相手の戦力が少ない内に事を済ませたいのだ。
 妖物相手にカメレオンスーツが効くとは思えないし、石になろうとも劉貴には見破られるのはわかりきっているからだ。何しろ、魔界都市で既に実証済みだから間違いない。二千年前なら通じるんじゃないかと悪あがきをするつもりは今さらないのだ。
「まあ、もう今さらなんだ。とにかく君の知っているお姫様の居場所に行った方がよくないか」
 ゼムリアが宥めてくれる。なんだろうか、引率教師のような印象が否めない。俺のせいか。
「…………仕方がありません」 
 周泰は一度俺を厳しくにらみ据えると、率先して走りだした。走る速さはやはり尋常の物では無く、人と言うよりも猫のように駆け抜ける。おまけに木の上にまで飛び上がり、屋根の上を伝って縦横無尽に駆ける姿は、本当に猫科の猛獣を思わせる。孫策や黄蓋が虎であるなら彼女は山猫のようだ。
 ここで山猫と例えたのは、彼女が小柄だというのも理由だが、それ以上に脳裏に精悍その物の横顔がよぎったせいでもある。
「……豹に例えたらどっかの誰かになんぞ言われそうだしな」
 俺達、と言うよりも俺の事を置いていかんばかりの走りを見せる彼女のすぐ後ろでぼそり、とつぶやいた声が聞こえないわけもなかったろうが、二人とも無駄口に興味はなかったらしく流された。
 しかし、いかんな。
 こんな状況でぺらぺらと無駄口を叩いたり、そもそもこんな安直な潜入、いや突入を相談抜きで独断専行してしまう辺り、俺こそが一番ここの空気に当てられているらしい。
「なんだか、妙に楽しそうですね」
 そんな俺の内心を見抜いたらしく、周泰が冷めた眼差しを向けてきた。
「楽しくはないな」
 嘘をつく気はないが、角を立てるつもりもない。だから、そんな言い方をしたのだがそれで追求を抑えた女を俺は今まで見た事が無い。今回も例外ではないようだったが、それでも上手い言い訳が口から出てこない俺は、やっぱり不器用だ。
「じゃあ、今はどんな気分なのですか? 落ち着きがないようにしか見えないです」
 棘のある口調と一緒に、若干の子供らしさを感じさせた周泰の言葉に俺はやっぱり馬鹿正直に応える事しか出来ない。
「まあ、古巣に帰ってきた気分だな」
「……古巣?」
 走りながらの会話だというのに、お互いよどみなく話せるのは大した物かも知れない。
「古巣っても、ここに住んでいたわけじゃないだろう?」
「それはもちろん」
 やっぱり平気で走っているゼムリアに、同じく呼吸も乱さずに応える。こういう昔はひっくり返っても出来ないような事が当たり前に出来ている時、ふと過去の自分を思い出して妙に寂しくなったり、あるいは達成感を感じたりする事がある。
「住んでいた街に似ているのさ。街並みは全く違うけれども、雰囲気……いいや、漂う空気がだ」
 あの街に比べれば、まるっきり薄い上に軽い空気だが……それでも妖気漂う空気は肌に馴染んでしまう。これ以上に馴染むと言ったら、大雪の雄大なる自然が育んだ清涼な風か、養父達に念法を仕込んでもらったあの道場の悽愴且つ清爽な空気以外にはない。
 今思ったが、我ながら両極端にも程があるな。
「……こんな薄気味悪い街に馴染んでいるなんて……一体どんな所に住んでいたんですか」
 俺の事を阿呆のように見つめられるのは不本意だが納得がいく。
「“新宿”さ」
 訊いた事がないですね、とそれで話は終わったのだが、おそらく後々裏はとるだろう。きっとどこを探しても見付からなくて、困り果てるか出鱈目と判断するかに違いない。
 まあ、どっちでもいいんだが、魔界都市の名前を出せば“区外”では大抵怯えられたりするか逆に珍獣扱いされるので新鮮であり、同時に本当に異世界に来ているんだよなと今さらの感慨に耽るきっかけにもなった。
「そろそろです」
が、もちろん敵地でのんびりと感慨に耽るような余裕などないし、あったとしても願い下げである。
 周泰の後ろをついていく形で駆け回り続けた俺達は、なかなか立派な屋敷の裏手で立ち止まった。ここまで三十分ほど走り回ったが、誰一人汗をかかず息も乱していないのは自画自賛も含まされているが、さすがと言える。
「さすがはとらわれのお姫様、いいところに住んでいる」
「食いっぱぐれたりはしちゃあいなさそうだな。これなら逃げる体力ぐらい残っていそうだ」
 とこれから始まる逃亡生活に思いを馳せるゼムリアだが、それよりもまず考えるべきは彼女がまだ人間であるのかどうかだろう。白状すれば、街の状況からすれば既に餌食となっているのは確定していると考えている。
 むしろ、まだ見ぬ孫策の妹とやらこそが数多の“仲間”を増やした一人であると考えても不思議じゃない。いや、そうじゃない方が不思議だ。率先して噛まれている立場だろうからな。
 そんな妹を見るのは、姉として無念が極まるだろう。あるいは、ここに止めておくか……いや、俺達の手でトドメを刺すべきかも知れない。もしも孫策の妹が吸血鬼として劉貴の下僕に成り果てていれば、それは大きすぎる火種となる事は間違いない。あるいは、生かしておいた事で何万もの人命が失われる原因となるかも知れないとさえ思う。
 ちら、と緊張している周泰を見た。
 彼女は顔色こそ悪いが、それはあくまでも妖気に当てられているだけのように見える。この街の状況を知り、孫権とやらが巻き込まれている可能性を考慮した上で動揺がないほど覚悟しているのか、それとも可能性を思い至らないのか。
 場合によっては自分が手を汚すべきだろう、と考えて自分の小ささに自嘲する。
 “助ける”んだろう。
 例え何があっても、孫策の妹は助ける。その護衛もだ。リスクがあっても、それを受け止めてやろう。
 その上で切り抜けてこそ、本当に助けると言えるんだ。万が一の時は……責任をとって、死んでも生かしてみせる。事、この件に関しては誰も犠牲にはしない。
「肝が据わったみたいだな」
「あんまりお見通しだと、居心地が悪い」
 頭の中で今後の具体的なプランを並べている俺の横顔を見つめてから、徐ろにニヤ、と悪戯を仕掛けるような顔でゼムリアが笑うので、頭をかいて誤魔化す。
「出来そうかい?」
「出来ない事だとは言わないよ。厳しい事だとは分かっているが、無理じゃない。つまらない失敗を重ねなければ何とかなるさ」
 孫権を助ける動機は、これまで様々なところで失敗を重ねた事に端を発するつまらない男の意地でしかない。である以上、失敗するわけにはいかない。ましてや他人様を失敗に巻き込む事など言語道断なのだ。
「で、どこから入るんだ?」 
 俺達の会話を横目で見ながら聞いていたが、周泰は敢えて何も言わない事にしたらしい。黙って邸内に足を進める。
 それぞれ猫のように飛び上がって屋内に入り込むと、土地その物が広いからだろうが日本では虜の身で望むべくもない広い広い庭が目に入る。
「? おかしい。むしろ妖気が薄いな……でかいからか?」
 格差社会許すまじ、と自分の家とも言えない部屋を思い浮かべて嫉妬に身を焦がす俺も含めて、全員が足音もなく庭を突っ切る。気配を消していけば周泰からも認識が出来なくなるので、この場に至っても隠形の類は普通の物しか使えないのがどうにも不安を感じさせるが今さら言ってもしようがない。
「さっきから、誰もいないな。気配もしない」
「ゴミの一つもない、生活感が何もない。これだけ広い屋敷に、新築でもあるまいに……邸内は前から、人はこの程度しかいないのか」
 多少広めの死角で三人揃って一息ついた時に、ゼムリアがごくごく小さいながらも俺達の耳にははっきり聞こえる声を届ける。言われるまでもなく気になっていた俺も同様に返す。
 奇妙に明確に耳に届く声に訝しがっていた周泰だったが、気を取り直すと首を横に振った。まあ、当たり前だな。
「決して人が多いわけでもありませんでしたが、これは異常です。監視も兼ねた使用人と、純粋な監視役、人目につかないように配置された影も含めて常時二十人以上は控えておりました」
 たった一人、護衛も含めて二人だけの小娘にそこまでやるとはな。そんだけ大物なのか、それとも猜疑心が強いのか。あるいはただ単に金が余っているだけとでも言うのか。意外と、嫌がらせがしたいだけという話もあったりしてな。
「それがもういない、か……これで、孫策離反の前だったら人手が足りないなんて楽観論も言えるんだが」
 妖気をほとんど感じないのでもしや、と期待してしまったのだが、完全に取り込まれたと考えるのが無難か……さて……成り立てなんぞ、今のうちに確保するのは簡単だろうがそこから先はどうしようか。ドクター・メフィストがいればどうとでもしてもらえるんだが……あるいは、ガレーン……
「最悪、妹に頼むしかないか……能力はともかく色々な意味で性格の信用がおけないんだが……はあ……」
 お目付役もいないという事実が、ため息をつかせる。
 あのでぶは性根もひん曲がっていて意地汚い阿漕という欠点が目立つが、欠点はそれだけではない。前述のそれらに隠れて、何かにつけてポカをやらかすと言うか主に性格に端を発する隙が多いらしいのだ。
 腕前がいい事に目が眩むと、いきなり足下をすくわれてしまう可能性もある。例えば、孫権を閉じ込めておくように頼んでも、当の孫権に買収されたり、あるいは封印の術のどこかにつまらない欠陥があったりとしょうもない結果が待っている可能性も棄てがたいような気がするのだ。
「ん? あんた、妹がこの国にいるのか?」
「……俺のじゃない、知人の妹……こないだ、あんたに迫っていたあの丸い叔母さんだよ」
 冗談じゃねぇと叫ばなかったのは、ひとえに修行で培った自制心のたまものだと思う。こっちにきてから、初めて精神修行の効果を実感したのがこれとは泣けてくるな。
 うげ、と酸っぱい物を無理やり口に詰め込まれたような顔をするゼムリアに溜飲を下げながら、遺憾ながらもドクトル・ファウスタスに迷惑をかけるかトンブ叔母さんに渡りをつけるかとの選択に頭を悩ませる。
 まあ、精一杯報酬を用意してドクトル・ファウスタスに頼もう。
 そもそも、トンブが何処にいるか分からないしな。言った通りに劉備の陣営に潜り込めたかどうかは定かじゃないし。潜り込めていたとしても、それはそれで接触のしようがない。個人的に嫌われているだろうからな。
「部屋はそろそろか?」
「後、ほんの少しです。気を抜かないでお願いします」
 釘を刺されてしまい、生意気な小娘めと内に篭もっていた事を棚上げしてむっとする。が、顔に出す前に反省する程度の分別は持っているので少し勝手が過ぎると反省して静かに周泰の後をつけた。
 多少、他よりも豪奢な雰囲気をした部屋の前で足を止めた。燦々と日が差している中で奇妙に影がさして見えるのは、俺の気持ちの問題だろう。
「誰だ!?」 
 鋭く澄んだ女の声が、即座に飛んできた。
 声の主が俺達の気配に気が付いたのではなく、周泰が自分の気配に気が付かせたのだ。
 声におびき寄せられるかのように、スプリントダッシュの勢いで部屋から飛び出してきたのは、異様な装束の女だった。
 その女は周泰と目が合うと細く鋭い眼を一瞬丸くして、残った男勢が目に入ると今度はいぶかしげに物問いたげな視線を紅一点へと向ける。たぶん、知人なのだろうと判断して話は彼女に任せて静かにしていた俺達だが、実は現われた女に度肝を抜かれて二の句が告げられなかっただけだった。
「…………」 
「…………痴女か。またしても痴女か。孫家には痴女しかいないのか」
「誰が痴女だ、貴様!」
「今、私の事も見ていませんでしたか!?」
 思いっきり面食らった様子のゼムリアに変わったわけでもないが、俺は思わず本音を口から飛ばしていた。
本音である。
 ぽろりと口走ってしまったのは不覚であるが、間違いであるとは露とも思っていない。それだけ、目の前に立つ二人の女の格好はふしだらだった。
 我ながらすげぇな……ふしだらなんて言葉、今まで普通に使った事がねぇよ。
「その格好で、今さら何を? 遊女だの妓女だの方がなんぼか慎みがあるぞ」
 嘘をつくのも気が済まず、別段本音をばらしても困るような関係じゃねぇなぁと思えば、言葉はスムーズに口から出てくる。
「どこを見ている!」 
「足」
 まじまじと見つめてしまうのは、二人の足である。
 と言っても、スケベ心からではない。どちらかというと、おかしな物を見てしまったという心境が近い。
 何しろこの二人の格好だが、一口に言ってしまえば“ズボンもスカートも履いていない”と言うのが一番だからだ。
 それぞれ上半身に限っては、別段おかしな所はない。まあ、周泰はどことなく中華風と言うよりも何となく忍者チックだが、目を瞑れる範囲だ。
 しかし、下半身は凄い。何が凄いって、二人とも何も履いていないんだから。
 足どころか、白い下着までほとんど丸見えである。これが痴女でなくてなんなのか。
「周泰に関しては今さらだが……もの凄い格好だよな。しっかし、そういう格好で普通に過ごしている辺り、鼻の下が伸びる以前の問題だな……」
 俺とて聖人君子などほど遠い凡人だ。
 スケベ心なんぞ幾らでもあるのは否定しない。むしろ、なくなったら雄として終わっていそうで嫌だ。
 しかし、それでも目の前の二人に鼻の下を伸ばすかと言えば、有り得ないと断言できる。
 誤解のないよう言っておくと、二人ともタイプの違いこそあれ結構な美人ではあるのだ。
 甘寧は、刃を思わせる鋭い面差しが特徴の、俺と年の変わらない程度の美女である。団子にまとめた髪の下にある褐色の肌は張りがあり、孫策や黄蓋、周瑜などのこれまで出会った呉の面々が豊満であれば彼女は華奢であり、しかして生命力に溢れた魅力的な肢体は世の男より賞賛を集めてならないだろう。
 彼女よりも更に小柄で華奢な周泰もまた、真っ直ぐに腰まで伸びる黒髪、猫を思わせる愛嬌のある面差しは歳からして美少女と呼ぶのに充分な魅力を秘めている。
 そんな二人が魅力的な素足を剥き出しにしていれば、普通は鼻の下も伸びるだろう。それがいまいちとなってしまうのは、偏に場違いだからである。
 ここはどこだ?
 ごく普通の屋敷の廊下だ。
 そんな所に下着がちらちらと見える女が、それが当たり前という顔で立っていたら、劣情を催すよりも先に引いてしまうのが男心だ。恥ずかしがって隠れるくらいの可愛げがあれば、まだしも平然と……いやむしろきりりと音がしそうな引き締まった顔をされてしまえば、困る以外に出来る事はない。
 彼女達よりも過激な格好の女に出会った事はないどころか見慣れている俺だが、それは概ね夜の歌舞伎町での話である。真っ昼間の住宅でこんなのに出会った俺はどうすればいいのか。サマービーチにスキーウェアでいるような場違い感に、他人事ながらいたたまれなささえ感じる。
「明命! この失礼な男は何者だ!?」
 もはや潜入したという空気はどっちらけになってしまったが、気を取り直して奇妙な風体の女を観察する。
 一見しただけだが、およそ目に見える範囲に牙の跡はなく、妖気なども感じない。こういう時に露出が激しいとありがたいとは思うが、肝心の首筋が隠れているのが気になってしようが無い。
 しかし妖気を感じる事はなく、何よりも彼女は陽光の下に平然と姿をさらしている。
「どう思う?」 
「違うな」
 ゼムリアは疑いを棄てきれない俺とは異なり、迷い無く断定してみせる。勘なのか、俺の見つけられないポイントでもあるのか。
「え、ええい。貴様ら何をじろじろと人を見ている!」
 顔を林檎のように赤くして、今さらながらに裾と呼ぶのもおこがましいそれを無理やりに引っ張っている様を見るに誤解を招いたようだが、この際どうでもいい。これっぽっちも動かない裾が空々しさを感じさせるばかりである。
「今さら恥ずかしがるなら、そんな格好をするなよ」
 今にもつかみかかってきそうになった女を止めたのは、新しい声だった。
「思春? どうしたの、誰か来ているのかしら」
 高い声であり、若い声だった。
 どこか警戒と不安、かすかな期待のような者が篭められている声のように思えるそれの主は、こちらにのこのこ近づいてくるほど阿呆ではないようで姿は全く見えない。どこの誰かは知らないが、当たり前の警戒心を持っているようであり、それを持たざるを得ない状況に言えるという事でもあるだろう。
 つまり、吸血鬼ではない可能性が出てきた。周囲を警戒しているのは、危険を感じる必然があるからだ。今、声をあげたのはこちらが話し込んで長いからだろう。
 周泰が、その声を聞いて目の色を変えた。
「蓮華様!」 
 喜色満面、と声に表われている。真名で呼んだようだが、声だけの女がどこの誰かはこれで知れた。救出目標である事は間違いないだろう。だから俺は、周泰の前に出た。
「貴様、なんのつもりだ」
 こちらに警戒を通り越した敵意を向けてくるもう一人も視界から外さずに、いつでも動けるように身構えておく。
「その声は、もしや明命!? 無事だったのね!」
 こちらもまた、わかりやすい喜びをこめた声を上げながら部屋の奥から現われたのは孫策とよく似て一目で姉妹と分かる、若干年下の女だった。
 少女と言い切るには難しく、女性と言うには少々若い。これがいわゆる難しい年頃という物だろうか。彼女はどこか緊張……ないしは怯えているようにも見えたが、周泰を見つけるやいなや表情はよい方向に変わる。
 共にいる俺とゼムリアを訝かしむような顔をしたが、周泰と一緒にいるので味方と思ったのだろう。特にこれと言って警戒し、誰何してくる事はなかった。
 少なくとも“ししゅん”と呼ばれた女よりは冷静であるらしい。ぱっと見て孫策と顔立ちは似ているが、飄々としていながらもどこか好戦的な雰囲気を隠し切れていない彼女と違い、周瑜とはまた若干異なる方向だが理性的で思慮深く見える雰囲気を漂わせている。
 ただし、首から上だけ。
 首から下は、姉に及ばずとも世間一般の女性がうらやむべき結構なスタイルを露出の激しい意匠でどうにか隠している。腹の布地は抉れ、足は付け根までスリットが入っている彼女を慎み深いと表してしまえば大嘘つきとしか言われまい。三人共に、街を歩けば驚かれるレベルだ。
「……人間のままだな」
 妖気は感じず、見えるところにないだけかも知れないが、牙の跡もない。だが、既に吸血鬼として成立して牙跡が消えてしまった可能性もあるので安心は出来ない。 
 そして日差しを浴びても、何一つとして変化がない。
 成り立て、あるいはなりかけの吸血鬼にしてみると有り得ない話だ。しかし、念のために俺は懐から今回の為に用意しておいた品を取り出した。
「お二人さん、差し入れだ」
 桃である。
 吸血鬼と一口に言っても数は限りなく多い。ヨーロッパ産の中にさえ日光を物ともしない輩もいるのだ。ましてや、この奇妙な世界における東洋系の吸血鬼が相手では日光が平気だとしても信用など出来ない。
 相手が西洋から来たのであれば、根源的な聖のシンボルとされている十字架を用意するところだが今回は劉貴の下僕。東洋系にとっての十字架である桃を使う事にした。
「え? ええ、ありがとう……?」
「蓮華様、このような怪しくも失礼な男からの品を易々と口に入れてはなりません。召し上がるのはまた後にして頂きたい」
 果たして、二人の女はいたって平然と桃を受け取った。悲鳴を上げる事はなく、手が焼け焦げる事もない。
「合格だ」 
 これが劉貴当人ならばともかく、どう考えても成り立ての吸血鬼の域を出ないだろう彼女らが手に持てたのであれば、心配はいらない。
「合格? なんの話かしら」
「随分と偉そうではないか」
 自覚はしているが、そっちもそっちで結構偉そうだ。まあ、馬の骨よりは確実に偉い立場だろうな。
「この街の、他の連中みたいになっていないかどうかだ」
「貴様、一体何を知っている!?」
 俺の口が閉じるかどうかというタイミングで護衛から光りものが突きつけられた。血の気が多いにも程があるだろう。
「ぐあっ!?」
 だが、どうやら彼女達も街の現状を理解しているらしいから不安だったのだろう。俺は温厚にも腕をとって極めるだけで見逃した。本当だったら得物をへし折って、腕もへし折っているところである。
我ながら甘い事だ。せつらなんぞは突きつけられた時には糸で縛り上げて身動き取れなくした上で、神経をも締め上げるに決まっている。凍らせ屋や魔界医師など、下手をすればひと思いに殺してくれない可能性だってある。それもおおいに。
「仮にも味方と一緒に現われた男を相手に、安易に光りものを突きつけるなよ。何を考えていやがる」
 まあ、周囲の状況を朧気ながらも理解して気を張っているのだろう、今の彼女は子供を守ろうとする野生動物みたいな物だ。それも肉食獣である事は疑いようもない。
「ぐっ……貴様のような怪しげな男が偉そうに……っ!」
 気が強いというか、なんというか。痛みに脂汗まで流し始めているのにこちらを睨む目には奇妙に力がある。気が強いと言うよりも、単純に恐れを知らないようにしか見えないのは、剣を突きつけられた不快感がなせる不当な評価だろう。
「やめなさいっ!」
 俺達の争いを裂くように、孫策の妹が大声をあげる。目が俺への怒りと非難に満ちているが、少しは部下の事も反省して欲しい。まあ、それはさておきこれ以上場をこじらせても仕方が無いので手を離す。
 毛を逆立てた猫のように飛び退いてこちらを睨み付ける護衛を一瞬白い目で見詰め、孫策の妹に目を向ける。
「見た目からしてそうだとは思うが……あんたが孫策の妹……孫権か」
「ええ。それで、あなたは?」
「こ、こちらは雪蓮様より紹介され、今回の脱出に力を貸して頂ける事になった工藤殿とぜむりあ殿です!」 
 割り込むように周泰が俺達の紹介をするが、慌てているのは彼女もこれ以上自体をこじらせたくないからだろう。できれば最初からそうして欲しかった。いや、俺のせいか。
「脱出!? お姉様の……?」
 非常に怪しんでいるのが見え見え……と言うよりも隠そうともしていないが、怪しいのは納得がいくので気にしない。
「こんな男などが、力になるのか」
「さっき、いきなり切りつけた癖にあっさりと腕をひねりあげられた奴がよくも言えたもんだな」
「なにぃ!?」
 こういう女とは相性が悪い。
 売り言葉に買い言葉を地でいくやり取りをしながら思ったことだが、よく考えたら相性のいい女が全く思い浮ばなかった。
「よしなさい、思春。姉様の……孫家の頭領の命とあれば従うのが私達の責務よ。ましてや、袁術の下から出られるのなら否やはないわ」
「は……」
 孫権の言葉に殊勝な態度で頷く護衛だが、感情が納得していないようだとは一目で分かる。これだから女は、と使い古された文句が脳裏をよぎったが、すぐにしばらく会っていない女の横顔に押し流されるように消えた。人食い人種の末裔である女は、どんな男よりも、もちろん俺よりも戦士としての心得を身につけていたのを思い出したのだ。
 あの鉄のように引き締まっていながらも、どんな蜜よりも甘い色気が背筋を奔る横顔を思い出しちゃあ、さっきのフレーズは使えない。
 思い返せば、あっちには“新宿”警察の恩人を筆頭にして、女だてらになんて言葉を真っ向から叩きつぶした上で鼻の下がメートル単位で伸びるような色っぽい女傑が幾らでもいた。
「明命、それで手はずはどうなっているのかしら? 今、この街は、そして孫家はどうなっているのかしら。私達には全く情報が入ってこないのよ」 
「現在、この街の住人は全てが張勲と同様の状態になっていると思われます。雪蓮様は、この街にこれ以上留まる事は危険と判断し、集めた兵を連れて冥琳様、祭様、穏殿と既に洛陽に脱出されました。今は都の外に陣を張って、かつて孫家を支えていた諸臣を呼び寄せているところです」
「そこまで状況は動いていたの!?」
「なんと……」
 周泰の言葉に、二人の女の顔色が大きく変わる。正に寝耳に水という風だ。この二人、どうやら完全に置いてけぼりだったらしい。
「申し訳ありません。細作を束ねる私があの男によって倒されていなければ、今頃はお二人も洛陽にて此度の陣立てに参加されていたでしょう」
「いいえ、あなたのせいではないわ。あの時、劉貴殿の不可思議な術によって吹き飛ばされた貴方が、もう一度ここまで来てくれただけで、いいえ顔を見る事が出来ただけでも私は嬉しい。他の者達はその場で討たれ、貴方とも二度と会えないと覚悟さえしていたのだから」
「蓮華様……」
 忠義の心、あるいは主従を超えた友情を確かめ合っていたらしい二人だが、俺は孫権の言葉の中におかしな物を感じとった。
 ……今……劉貴殿、って言わなかったか?
 シチュエーションは分からないが、おそらく自分の家臣を、それも人質に取られている自分を助けようとしてくれた部下を目の前で多数殺害した相手のはずだ。
 言ってみれば、仇だ。
 それをなんで、そんな敬意を払うような呼び方をするんだ。
 何とも言い難い、嫌な予感という奴がした。
「…………」
 考えてみれば、ここまで上手くいきすぎていたと言ってもいい。
 街一つが吸血鬼化して、その懐に飛び込んだというのにここまでろくな妨害もなく、救出する対象は、絶対に吸血鬼になっているべき状況だというのに何故だか普通の人間のままだ。そんな上手い話が続くほど、俺の運はよくない。
 むしろ運が悪い方である俺は、これまでの経験則からして上手く言っている時には必ず帳尻を合わせるように何かトラブルが起こるはずだ、と内心では覚悟していた。
 それも劉貴や騏鬼翁の策、あるいは“姫”の気まぐれなどと言うのではなく、純粋に不運なトラブルが俺達を襲うはずだ、と思っていた。くだらないジンクスだが、それが笑えない街で生きてきたんだから、そこら辺の子供の妄想とは一緒にできない。
 護衛ともめそうになった時は内心、この程度のトラブルで済んでくれれば御の字だと少し歓迎していたほどだ。
 だが、それですまない程度のとんでもない厄介ごとの臭いが孫権からするのはどういうわけだろうか。おもむろに孫権を観察してみるが、特にこれといっておかしな所はない。俺が妙に少女趣味な心配をしただけだろうか。
 そうだな、落ち着いて考えれば俺の想像など適当な思いつきに過ぎない。言ってみれば邪推でしかないだろう。まったく、これっぽっちの事で過敏に反応するなんて俺は一体全体、いつから脳みそが砂糖漬けになったんだ。
 大体、元々色恋沙汰には縁の無い男が何を妄想しているのか。実に馬鹿馬鹿しい事を考えたと自嘲しながら、一つかまをかけてみる。
「俺はその劉貴と因縁があってね。奴さんを斬る為にここに来たんだ。孫権さん、あんたはあの男の居場所に心当たりはあるのかい?」
「なんですって!?」
 バネ仕掛けのように勢いよく振り返って俺を睨む顔には驚愕と、明らかに怒りがあった。
 怒る、という感情にも種類がある、火のように激しい感情が、何を燃料にしているかという話だ。
 俺が今、孫権の顔から感じとっている怒りはその中でも最も甘ったるくて粘ついた燃料を燃やす、性質が悪い物であるように見えた。西新宿の老舗せんべい屋ではちょくちょく見るような種類だ。
「……何を驚くんだ? それどころか怒っているようにしか見ないぜ」
 繰り返し見直す内に深まっていく一方の確信を抱きながら、敢えて訊いてみる。自分でも意地が悪いと思わざるを得ない質問に案の定、孫権は黙り込んだ。
「……」
「……今回の事件を起こしたのは劉貴だと思うんだが、実は劉貴の後ろには三人の仲間がいてな。いや、二人の仲間と一人の主なんだが」
「……何が言いたいのかしら」
「その主というのが世界最悪の女でな。この世で一番淫蕩で残虐、元々、これを最期と死ぬつもりで赴いた戦場で、頼まれもしないのに劉貴の命を助け、その貸しで主人面しているらしい」
「な、い、淫蕩!? そんな女が劉貴殿の主君!?」
 反応している箇所が、どうしようもない。
「まあ、その侍女もまた劉貴を一途に、深く想っているらしいが……」
 そう言った時の孫権の顔は、もう誤魔化しが効かないと彼女以外の誰もが悟らせてるんじゃないかと思わせるくらいにどうしようもない物だった。
 もしやまさかと思ったが、俺の邪推は邪推ではないか。勘弁してくれよ。こんな話、一体どうしろって言うんだ。
「まあ、それについてはどうでもいい事だ。とにかく街を出よう。昼の間に少しでも距離を稼ぎたいからな」
 逃げる事にした。今後、無事に帰れたら孫家とは早急に距離をとる必要があるだろう。劉貴を慕う孫家の女なんぞ、厄ネタもいいところだ。
 だが、今言った事は決して只の口実ではなく本音だ。いざとなればテレポートもあるが、成功率はまだまだと言う程度だ。大人数ではなるべく避けたい。
「夜になると、何かあるのか?」
 一瞬だけ何とも言いがたい顔をしたが、それを無表情の仮面の下に隠した護衛がまるで孫権に口を開かせない為であるかのように、剣呑な関係であった俺に問いかけてくる。
「この街の住人全てが敵に回る。いや、正確に言えば、俺達を餌だとしか見ない生き物が襲ってくる」
「! ……正気か、と言いたいところだが……私も、街がおかしくなっているのは虜囚の身だが感じている……」
 そいつは結構、説得の手間が省けた。
 まあ、周泰が街に足を踏み入れた時点で感じた妖気を、住んでいる彼女らが気付かないとしたらどうかしている。そう言えば、妖気がこの屋敷で発生していないと言っても周囲には立ちこめているのだ。彼女らの心身に何らかの影響を与えている可能性は高いな。
「ドクトル・ファウスタスに後々見てもらった方が無難だな」
 その旨を彼女らに伝えるが、しっくりこない顔しかされない。この辺りは“区外”の住人だなと頷く。
「しっかし、わからんな」
 周泰を先頭にして俺とゼムリアが前を歩く形になったが、これは俺らを信用していないからだ。背中を見せたくないと言う事だな。
「何がだ?」
「ん……ああ、二人とも妖気について胡散臭そうな顔をしているだろ」
「ああ」
 さすがにゼムリアは理解がある。そう言えば、彼は一体何処から来たのだろう。そこは俺の知る魔界都市に通じる場所だろうか。
「この手の話を迷信と切って捨てるのはまあ、わかる。素人さんなら、むしろ健全かも知れない。でもほら、実際に目の前で立ちこめている妖気よりも信憑性に欠ける胡散臭さの天の御遣いとやらがいるじゃん」
「ああ……」
「あれだけ胡散臭いのが受け入れられているのはどういうわけなんだか。あっちが特別受け入れられているのか、こっちが特別受け入れられないのか。一体どっちなんだろうか、それはどうしてなのかなと思って」
 毎度毎度、あれこれ説明した挙げ句に不信の眼差しを向けられるのは大概疲れる。
「……やっぱり、そういう風に作られた世界だからなのか、ねぇ」
 やるせなき気持ちをこめた俺のコメントに、ゼムリアは最もありがたい返しをくれた。
 沈黙したのだ。



 屋敷を出ても日は高く、街を出てもまだ陽光の守護は俺達をあまねく照らし続けた。狙ったとは言っても、雨天でなくてありがたい。これが西洋産ならば逆に雨の中での潜入を試みたのだが、向こうは純然たる東洋物。水を渡れないとは限らんのだ。
「……来ないな」 
「吸血鬼が来られなくとも、最低でも妖物の襲撃はあると踏んでいたんだが……」
 それぞれ馬に乗り、人類最古の騎乗生物の力が続く限りに走らせながら不思議がっている俺達は一行の最後尾にいた。
 別に、殿を守っているわけじゃない。乗馬の腕で、ごく自然とそうなってしまうのだ。女二人はそれぞれ差があるが結構な騎乗ぶりで、意外なほど様になっている。対して、それまで馬に乗った事のない俺は、馬に乗っていると言うよりもただ跨がっているだけ、あるいは捕まっているだけという方が正しく、乗っている馬が自発的に仲間の後ろをついていっているのでなければ誰かの後ろに乗せてもらうしかなかっただろう。そんなのは二度とゴメンである。
 ゼムリアも決して上手いとは言えないが、それでも俺よりは随分マシである。きっと、どこかで経験があるのだろう。率直に言って、俺一人が足手まといギリギリである。
 そんな情けない状態の俺だが、彼女らは文句を言わなかった。この時代……まあ、未来もそうだが馬に乗れると言うのは特殊技能であり、おいそれと習得できる物では無いのである。むしろ、俺とゼムリアがそこそこついていけるのに驚かれていたくらいだから情けなくもホッとしたものだ。
「妖物、ですかー?」
 そんな俺達を相手に見張りのように併走している周泰が、若干低い位置から声をかけてきた。 
「その状態で喋って疲れないのか?」
「別に疲れませんよ-?」
「元気だねぇ」 
 この娘、呆れた事に二本の足で走っているのである。さっきも言ったように馬と併走しているのだから、人間業ではないだろう。俺達が跨がっている四足動物は歩いているのではなく、きっちりと走っているのだから。
 俺も出来なくはないのだが、この娘は既に十㎞以上の距離をこうしている。さすがに汗をかいて息は荒いものの、確かにまだ余裕がありそうだ。
「なんというか、一人だけ足で走らせているのはいかにも居心地がよくないな」
「馬が足りなかったのだから、しょうがないですよ」
 しょうがないの一言ですませては、軍馬も立場があるまい。そして何よりも、俺の立場がない。
「休憩一回ごとに替わるぞ」
「え?」
「女……いや、子供一人を走らせっぱなしじゃ男が廃る」
「結構です!」
 何故か突っぱねてきた周泰としばらく言い合いをしていたおかげで、お互い不必要に体力が削られた。馬鹿か、まったく。
 だが瓢箪から駒とでも言うべきか、それとも不幸中の幸いと言うべきか、そんな間抜けなやり取りに気を抜かれたのか孫権達の態度が若干柔らかくなった。
 おかげで、そろそろ日が陰ってくる小休止の際にはどうにか落ち着いて情報のやり取りが出来た。
「では、今の孫家は董卓軍と組んで洛陽に布陣しているのね」
「はい。現在は袁術よりの離反を正式に表明し、朝廷の名の元、かつての家臣に呼びかけている所です」
「袁術との戦に備えて、董卓と結んだと考えていいのかしら」
「いえ、私が出立した際にはそこまで話は進んでおりませんでした。双方の話し合いは、あまり実りのある物とは言えない物も多いような状況で……」
 孫権と周泰のやり取りに、まだ名前を知らない護衛娘が憤然と加わった。
「馬鹿な! このような、街一つが怪物に占領されてしまうような事態でそんな悠長な事を言えるはずもないだろう!」
 彼女の言っている事は至極もっとも、当たり前である。
 屋敷に閉じこめられていた二人だが、一歩表に出て街を見回せば、そこで異常を悟るのは簡単な事である。ここに来た俺達の焼き増しのようなやり取りの後、周泰がどこからか調達してきた軍馬に乗って街を出てきた際には、女勢は一斉に息をついたものだ。
 そこで気を抜くのは、正直早いと思ったが。
「何か証拠となる……例えば、あの街の住人の一人でも連れて行く事が出来れば話は違うでしょうが、やはり人が妖になったと言ってもおいそれと信じてもらえる話ではありません。ましてや、袁術を討つ大軍を動かすとなると、生半可な事では聞いてももらないでしょう。特に、董卓殿の元にいる賈駆殿は狷介な所の目立つ方です」
 あの眼鏡、賈駆って言うのか。
 言われてみれば、ぴったりの名前だ。そこら中に角を立てそうな所は名が体を表す、を地でいっている。狷介の一言で人物が特定できるところが正にそのものだ。
「それなら、今からでも引き返して……っ!」
「よせ」
 さすがに聞き捨てならない言葉が飛び出してくれば、俺も口を挟まざるを得ない。
「素人と一緒に、捕まえた吸血鬼と同道の旅だって? 相手が成り立てだって冗談じゃない」
 悲鳴を上げたくなるようなシチュエーションだ。どんな報酬を詰まれたって御免被る。
「貴様などに指図される謂われはない!」
「明命、結局この男達は何者なの? 姉様の紹介という話だったけれども、それだけでは足りないわ」
 それぞれの目に敵意があるが、理由が違うように見えた。護衛の目は俺とゼムリアに均等に向けられているが、孫権の目は七三で俺にだけ向けられている。
「ええと、この方は以前雪蓮様が街で会った方でして、今回は袁家の異変に対し原因と思われる人物に心当たりがあると言う事で、雪蓮様より請われて同道して頂きました」
「姉様から請われて………?」
 露骨に驚かれる。目線からうさんくさく思っているのが露骨であり、爽快と言うよりもむしろ癪だ。
「それで、この騒動の原因とはどこの誰だと言うのだ。貴様とは一体どういう因縁があると言う」
 こう言う物言いでぺらぺら口を滑らせる相手がいると思っているのだろうか。護衛女にひどく冷めた目で視線をくれると、そのまま寝っ転がった。もう一度動くまで、このまま体力の回復をしている方が有意義だ。いい加減に尻が痛い。
「貴様!」
「尋問なんぞされてぺらぺら喋るような義理はねぇんだよ」
 け、と言った最後に背中を向ける。俺も含めてチームワークの欠片もない状況だが、考えてみれば劉貴と出会わなかったのだ、これ以上ここにいる必要があるだろうか。
 今からでも引き返して、劉貴を探した方がよくないか?
「二人とも落ち着いてください! 今はそんな事をしている場合ではありません。今や洛陽には諸侯がこぞって董卓殿を討つ為に集まっているのですよ!」
「!?」
 顔色が変わるのは、琥珀色の肌でもよく分かるくらいに明確だった。まあ、無理もないか。俺でもよくわかる、とどのつまりは袋叩きの巻き添えって事だろう?
 狙いは董卓なんだからな。孫家は完全にただの巻き添えでいいだろう。
「劉貴が余計な事をしなければ、孫家も討伐側に加わっていたのにな。侵略する側からされる側の一員になったのか」 
「貴様っ!」
「余計な事を言わないでください!」
 事の次第を詳しく説明している周泰を横目で見ながら思わずこぼした独り言は、静まりかえっていた空気に思いの外響いた。
「見くびるな、下郎! 我ら孫家が中傷を元に私欲のまま洛陽を攻め滅ぼすとでも思ったか!」
 ……やるんじゃないかなぁ。
 ごく普通にそう思ってしまったのだが、確かに言いがかりだ。すまない、と素直に頭を下げるが、孫策の妹は姉とは正反対の生真面目そうな顔に怒りの仮面を被って外す様子はない。護衛女もスタートダッシュを待つサラブレッドよろしく鼻息荒くして剣に手をかけている。
 一触即発。
 俺が悪いが、黙って斬られるつもりは毛頭無い。身体を起こそうとする俺の動きにとうとう鯉口をきった護衛だが、それを柔らかく抑えたたくましい手があった。
「そこまでにしとこうや」
 ゼムリアが穏やかな声で緊張を解かした。
「今のは確かに冬弥が悪かったけれど、剣を抜くほどの事じゃないだろう? 頭は下げたんだ。それに、今の俺達は少しでも早く街から離れて、お姉さんの所に帰らなければならない。争っているような暇はないはずだ」 
 仮に俺とゼムリアの立場が逆でも、これほど力を持った言葉は出せないだろう。ゼムリアの声は俺達の間に満ちた剣呑な空気に染み渡り、刺々しいそれを穏やかな物へと変えた。
「ご!」 
 ごす、と俺の脳天に拳がめり込み、俺は既に何処にもいない生意気盛りのようにみっともなく呻いた。天罰覿面と言ってところか、分かっていて避けなかったとは言っても、やはり響く。
 大の男のみっともない姿に溜飲が下がったんだろう、彼女らは揃って腰を下ろし周泰はゼムリアに感謝の目を向け俺には怒りの眼差しを向けた。
「申し訳ない」
「全くだ。言葉は選べよ」
「返す言葉がない」 
 反省すると、それで話は終わった。さっぱりしているところは男の見本だ。俺は正直ねちっこいのでこうはいかない。
「話を変えましょう、いいえ、戻しましょうか」
 奇妙に爽やかな空気を入れ換えるように、孫権が咳払いをすると嫋やかな手で自分の胸を示した。姉ほどではないが、充分に豊かな膨らみは孫家の例に漏れず男の劣情を煽る衣装に包まれているが、言動に色気が欠けており、性的な欲求を刺激される事は少なかった。
「まず、正式に自己紹介さえしていなかったわ。私は孫権、孫仲謀。孫伯符の妹であり、孫文台の娘よ」 
 手はそのまま護衛娘へと向ける。向けられた方は即座に姿勢を正したが、生憎と剣呑な目の色は何一つとして変わらなかった。
「彼女は甘寧。私の護衛、これまでふがいない囚われの身をずっと守ってきてくれた忠義の臣よ」 
 囚われている主君を娘の身で守るのは難儀な話だろう。同じ事を男の俺がやるよりも難儀な話である事は察しがつく。ましてやそれに終わりが見えないとなれば、その内投げ出したくなっても仕方が無い。
 そんな投げやりさが全く欠片も見当らないのは、彼女が確かに忠臣だからだろう。感心するべきなんだろうが、現代日本人の俺には忠義という概念がさっぱり理解できない。
「ゼムリアだ。短い間かも知れないが、よろしく」
「工藤冬弥、右に同じだ。まあよろしく」
 よろしくしたくはないだろうな、俺だってさっさと別れたい。
 関係改善なんかの努力は面倒である。こういう時のやる気に滅多なこっちゃ火がつかないのは俺の欠点と言える。
「それで、この先はどうするんだ? さすがに街に戻って吸血鬼を捕らえる、なんて言うのには俺も反対だ」
 吸血鬼がどういった物かはここまでの道中で大ざっぱに説明している。そう言った化け物がいるという事実を認められないが、確かに異常な事態がこれまでの自分達の日々を大いに侵食している事は実感として理解できているので何も言えない、という風だった。
「……確かに、諸侯がこぞって洛陽を目指しているのであれば意味は無いわ。私達は邸に軟禁されていたからわからないけれども、袁術もその中にいるのではなくて?」
 視線が集中した周泰は、一度ぐるりと見回した後でおもむろに頷く。見た目のせいで子供のように見えるのがどこかユーモラスだ。
「諸侯に檄文が渡り、董卓討つべしと天下に号令をかけたのは袁紹です。袁術との関係は相当に不仲ではありますが、だからこそ袁術もまたこの戦に参加する事は間違いない物と冥琳様は仰っておられます」
 仲が悪いって言うのなら、そっぽを向けばいいものを。無視できない間柄って言う事か?
「ここに来るまで、準備不足だったので袁術が出立したのかそうではないのか分かりませんが」
「明命にしては、雑な仕事だな」
 甘寧が嘴を挟んだが、周泰は黙って頭を下げただけだ。目線が一度、原因である俺の方を向いていたが。後で詫びておこう。
「兵の一人も見る事の無かった街の状況から察するに恐らく、既に袁術は出立。目指すは洛陽」
 でなければ、孫権を連れて行く事は敵わなかったかも知れない。孫策が完全に敵対した以上は、せめて人質として連れて行かれなかっただけマシという話か? ん? なんだかおかしいぞ。
「張勲とか言う奴は、それに参加しているのか?」
「参軍しているのは間違いありません」
「……そうか」
 なんだかおかしいな、と思った。
 噂に聞く張勲は、相当にろくでもない性格だと聞く。今の状況なら、人質の孫権を喜々として使いそうなものだ。具体的には、孫策に秘かに脅迫状を送るか、あるいは公衆の面前で孫権を殺害するとか。
 ほったらかしたりするだろうか。完全に夜の一族にはなっているようだし、大きな力を手に入れた人間はそれに溺れて大ざっぱになりがちだが……同時に、残虐さや酷薄さも増大する傾向にある。
 しかし、孫権にも甘寧にも細工がしてある様子はなく本当に閉じ込められていただけのようだ。俺の気が付かないところに異常があるのか、それとも……
「張勲がどうしたというのだ」
「人質を放っておく理由がわからん」
 考えに没頭して黙り込んだ俺に甘寧が問いかけてくるが、彼女も答えを持たないらしく黙り込む。
「その女の性格を噂にしか知らないが、孫家と明確に敵対したんだから人質をどうするにせよ放っておくという選択肢だけはないんじゃないか? それがわからん」
 俺の中には、たぶんこうだろうという仮説こそあるが、それを適当に信じ込むわけにもいくまい。当事者の意見は重要だ。
「悪巧みは得意だけど、袁術にも逆らわない女でもあるわ。そして、袁術は気まぐれな子供そのままでもあるの。彼女の適当な思いつきで私を使うのを止めたのかも知れない」
 俺の言葉に真面目に考える必要があると判断した孫権は、少しの沈黙の後に答えを返す。聞いていると、子供の気まぐれで命を長らえたかのようなやるせない話だ。
「心当たりはないと?」
「ええ……」
「思春様は?」
「私もない」
 同僚の質問にも端的に答える姿は、何ともらしさを感じさせる。
 だが、そうなるとやはり俺の考えた仮説が今のところ唯一の推測となる。俺には全く察しのつかない政治上の都合とか、この国ならではの嗜好、思想による判断でないとするなら一番分かりやすい話だろうと思っているんだが……率直に言えば、孫権の事を考えると実に言いづらい。
 ここは一つ、分からないと言う事にして流しておくのが吉だろう。
「劉貴とか言うのが止めさせたんじゃないのか? 吸血鬼だとしても高潔な武人だと工藤が言っていただろう」
「ゼムリア、そこは黙っていて欲しかった」
 とどのつまりはそうなんだろう。劉貴は吸血衝動と“姫”の命令さえなければ純然たる男の中の男。戦術、戦略ならばともかく人質などと言う姑息な策は使うまい。だからこそ根本的に下劣な騏鬼翁とは仲が悪いのだ。
「劉貴殿が……」 
 明らかに無意識に呟いているだろう孫権の頬は桃色に染まり、彼女の中限定で仮説が事実に変化しているのがよくわかった。そして、彼女の心の中で今、どんな恋物語が写されているのか。
 きっと、彼女にとって最も美しい物語が彼女と劉貴を主演男優と女優にして繰り広げられているのだろう。そう確信させる頬であり、瞳だった。
「れ、蓮華様?」
 甘寧がわかりやすく動揺する。きっと、俺と同じ桃色のそれを孫権から読み取ったんだろう。俺の危惧が、この場の全員の共通認識に変化した瞬間である。むしろ、一緒に暮らしていて今まで気が付かなかったのか。
「一体、二人の間にはどんな関係があったって言うんだ」 
 ため息をつきたくてしようが無い状況だが、それをこらえるのは男の意地だ。
「か、関係って! おかしな事を言わないでちょうだい!」
「今頃、姉妹を含めたお仲間に危機が迫っているかも知れない状況で何を盛っているかね」 
「さ、さ、盛……」
 ため息をつくところだったが、どうにか頭をかいて誤魔化すとそのまま立ち上がる。肉体的な疲労は精神的な倦怠感と交換されるように消えていた。これ上頭の悪い会話を続ける気力は無いと、俺は努めて迅速に身支度を調える。
「お喋りをしている時間はないんだ。さっさと出立しよう」
「その通りだな」 
「そうしよう」
「急ぐに越した事はないな」
 示し合わせたつもりはないのだが一斉に立ち上がる俺達を狼狽えたように見回すと、孫権は俺の基準で言うところの女子校生かひょっとすれば中学生のような顔をして叫んだ。
「な、何よ、皆揃って口裏を合わせたように! 思春に明命まで!」
 もしかして、少なくとも色事方面では本当にその程度なのかも知れない。
 恐ろしい可能性に、俺はいつの間にか赤く大地を染め上げはじめた太陽の恩恵を浴びながら秘かに肌を青ざめさせた。
 ガキの色恋沙汰なんて、理屈も筋も通じない独りよがりではた迷惑の代名詞じゃねぇか。






「絶景かな、絶景かな」
 近辺で最も高い岩壁の上に立ち、芝居がかったセリフを吐く。
石川五右衛門の引用を理解できる人間は周りに一人もいないだろうが、歌舞伎の歌の字程度しか知らないはずの俺の口から、こんな馬鹿馬鹿しいセリフは思わずといった風にぽろりと出てくるとは我ながら思っていなかった。
 いっその事笑うしかない。そんなふざけた光景が目の前に拡がっていたおかげだ。
「何をふざけた事を言っている!」
 非難の声を高らかに上げる甘寧だが、俺は大して悪びれる気にはなれなかった。
「洛陽前の……ええと汜水関、だったか……門の前に、人の海が出来ているんだぜ? ふざけなけりゃ呆れるしかねぇよ」
 石と鉄で出来た巨大な門は、正に漢民族の力の凄さを見せつけているかのような異様を示し、俺もまた圧倒される一人となった。だが、その護国の門を攻めるのが漢の禄を食んでいた数多くの官であると言うのは皮肉というよりも滑稽だ。
「……確かに、工藤じゃないけれど心が折れかねない光景ね……」 
 ここに来るまで色ぼけを部下に心配されていた孫権が戦いたように語るが、俺とは少し違うところに衝撃を受けているように思える。
「董卓が悪政をどうのこうの……事実かどうかは調べりゃすぐに分かる。面白いだろう? ここに集まっているのは、とどのつまり分かっていて攻めてきた屑か、調べてもいないのに軍を動かした間抜けかのどっちかだ。黄巾の乱の時にはあれこれ金看板を掲げて戦争をやる連中が随分いたが……お里が知れるって言うのはこう言う話なんだな」
「後世へのいい教訓話だ」
 ゼムリアが皮肉をたっぷりとスパイスした俺に、同じように苦みを効かせた言葉で応える。意外なほどに、その顔は辛辣だった。
「教訓にするには、董卓達が勝たなけりゃな。あいつらが勝ってしまえば、未来には嘘しか伝わらない。自分に都合の悪い歴史は書き換えておくのは当然だろう」
 後世の歴史書どころか、自分の頭の中さえも書き換えているかも知れないな。ああ言う連中は、基本的には開き直りが足りないから悪党の癖に自分ではヒーローぶっている事も多い。
 “区外”の連中で国家などに属している者ほどその傾向が強く、尊い犠牲という言葉が大好きないつも自分達だけは奇麗な格好をしているような連中にはしょっちゅう会った。
 本当に自分のやっている事が正しいと思っている狂信者はもっとたくさん会ったけどな。いかがわしい新興宗教の摘発だってシャーリーにくっついていったら、そこら辺の団地で井戸端会議しているノリで主婦が若い男の臓物を祭壇に捧げているんだもんなぁ。
 若さを保つ為に行う事は全部正しいと本気で言い切られた当時の俺が二の句も告げられずにいたのを忘れていない。
 もっと忘れられないのは、若さがあってもその面じゃ意味なんざ無いだろとシャーリーの顔を指差しながら言ってやった時の山姥みたいな顔だったが。
「それで、孫呉の兵はここにいるのか?」 
「旗が見えたぞ」
 ここに来るまで、象牙で飾っているのは牙門旗という将の存在を示す特別な旗であると聞いた。竿の先に象牙がついていると聞いたが、それらしいのが見えない。いや、それよりもこの時代に象がいたのか?
 ……まあ、どうでもいいか。
「孫の旗はある、孫策がどこかにいるんだろうな」
 旗のすぐ側にいるかどうかは知らんが、砦、それとも門と呼ぶべきかも知れないが、それの中にいるだろう。 
「董卓としてみれば、ここで孫家を使わないという選択肢はあるまい」 
 あるいは、賈駆の性格からして自軍以外の誰かを戦場に立たせる事を狭隘さから嫌うかもしれんという可能性も考えたが、どうやらそれはなかったようだ。
「あの性格で、引っ込んでいるとは思えないからな」 
 あれは喧嘩好きだ。
 戦闘狂だの、戦争好きなどではなく、喧嘩好きだ。どこか、祭りの熱狂に酔うように血を見るのを楽しんでいる節がある。だからこそ陰惨な印象は受けないが、同時に戦争を、殺し合いを舐めているような不謹慎な空気も漂わせている。
 まあ、武将という者は誰も彼もが戦場をステージかフィールドのように考えている節があるように見えるから、よくある話程度なのかも知れない。名乗りあげをしているところは、芝居がかっていて見るに耐えんが。
「どうかしたのか? 急に顔をしかめて」 
「ああ、黄巾の乱の時に超雲とか関羽なんかの名乗りあげを見たんだがな、何というか……大げさすぎる自称に聞いている俺の方が恥ずかしくなってな……あいつら、今回も似たような事をやるのかと思うと……顔見知り程度とは言っても、恥ずかしくなる」 
 遠目に見ても、恥ずかしかった。なんであんなに仰々しいんだ。
「ぶ、武人の名乗りを何と心得るか!」
「恥ずかしい」
 一刀両断は剣士の理想である。
「たわけ! 武人の名乗りとは戦の華であり、己と部下への鼓舞であり……」
「戦場に奇麗な物を求めてどうすんだ」
 呆れながら、頭のどこかで女らしい事だと思った。男であるのなら、あの武人であるのなら黙って戦う姿勢でこそ語っただろう。
 その男は、劉貴は一体どこにいるのだろうか。
 眼下に見下ろす巨大な石門、汜水関。
 洛陽という餌に食いつく為に群がる蝗のような、賊軍。
 見たところ、未だに一度の交戦も行われてはいないようだが……あの男が戦場にいないはずがない。この、馬鹿馬鹿しいほどに壮大で、いい加減なほど簡単に蹂躙して、される場所にあの男がいないわけはない。
 懐から小型の双眼鏡を取り出して覗き込んだが、人が多すぎて探し出すのも楽じゃない。軍用で大きさのわりには遠くまで見通せる品ではあるが、見えようと見えまいと、樹の中から特定の葉を探すのは困難だ。
「袁家の旗が、やたらとあるな」 
 袁の字を旗に掲げるのは袁紹と袁術の二人だ。
 劉貴がいるのは袁術の下なのだろうが、袁の旗が多すぎる。確か袁紹が今回の戦の発起人であったと言うが、面子もあるのだろう殊更に多くの兵を率いている。おかげで普通でも困難な探索がますます難しくなってしまった。
「参ったな……」 
 もちろん袁だけではなく他にも様々な旗が乱立して、その中を常に多くの兵が忙しなく動き回っている。断言する、俺には無理だ。
「ああ、周泰。こいつを覗いてくれんか」
「? 何ですか、これ」
 さっきから、俺の背中にいぶかしげな視線が向けられているのは気が付いていた。その内の一つを手招きして双眼鏡を貸すと、素っ頓狂な声を上げて落としそうになる。勘弁してくれ、頑丈さに定評のある軍用でもそうそう地べたに落とされてたまるか。
「一体何事?」
「す、凄いですよ、蓮華様! これ、遠くの物が大きく見えます!」
 分かりやすい性能の為か、今までで一番驚いている。どれどれと物見高く寄ってきた連中の誰も彼もが同じように仰天している。それはいいのだが、ゼムリアが俺の知る剣技のどれを披露した時よりも驚いているのが正直癪に障った。
「いつまでも騒いでいないで、向こうを調べてくれんか。劉貴は何処にいる?」
「へ? あ、はい!」
 眼下の軍勢を調査する周泰の背中を見ている面々が、ちょっと羨ましそうなのが情けない気分にさせてくれた。
「うわあ。本当によく見えますね。旗はもちろんですが、下にいる一人一人の判別まで出来ますよ。これ、いいなぁ。どこで手に入れたんです?」
「地元じゃ、ちょっと値が張るけど普通に売っているよ」
「天の御遣いじゃないかって孫策様が言っていたの、本当だったんですか……?」
 そんなのと一緒にするな、と若干慌てて訂正しておいた。既に孫権と甘寧の視線が痛いのだからたまったものじゃない。
「冥琳様も欲しがりそうですね。敵の位置が丸見えですよ。ううん……袁は当然として、曹、公、馬まであります!」
「馬ですって? まさか西涼の馬家が出てきたというの」
「おそらく。となると、噂の錦馬超が出てくると考えられますね」 
 貸した目的が無視されているような気がするが、必要経費のような物を割り切っておく。
「あ! 劉っていう旗もありますよ!」
「!」 
 来たか、と思った瞬間に神経を伝達する電流の速度が変質したのを実感した。もちろん錯覚だが、面白いほど意識がはっきりと変化した。
 自分の脳裏に一本の刀が写り、誰かの手がかすかな音をたてて鯉口を切ったのがわかる。
 奮い立つというのは、正にこんな気持ちなんだろう。
 俺は今、確かに喜んでいる。ゼムリアと剣を交わした成果を試したいと、不謹慎ながら正直な気持ちが胸の奥に輝いている。
「ああ、あれは劉備の軍ですね。噂の天の御遣いがいるって言う」
「……」
 紛らわしいから潰してやろうか、あの連中。
「え? ええっ!」 
 一体何事か、突如周泰が弾かれるように双眼鏡から目を離す。何事かとこちらが問う前に彼女は目を見開いて報告した。
「目、目が合いました! 劉備のところにいるやたらに太った中年の女性と!」
「何ですって!?  この距離で……まさか、その相手も同じ道具を持っているの?」
 ああ、本当に潜り込んでいやがったのか。
「偶然ではないのか?」
「間違いありません、明らかにこちらに向けて合図までしています。ほら、片目だけぱちぱちと」
 誰に向かってウィンクしているのかは、こそこそと影に隠れようとしている誰かが言外に語っている。気の毒な話ではある。
「確か天の御遣いに手を出す云々言ってなかったか」
 さすがに無理だったのかねぇ。
「おい、まさか知り合いなのか」
「ん? 同郷……は違うな。知り合いの身内、か」
「なんだ、それは」
 曖昧な答えに相応しい返しに、それこそ返す言葉もなくて肩をすくめた。答えようがなかったのだ。ああ、いや……そう言えば、一つだけいい答えがあった。
「ゼムリアに言い寄っているオバサンだ」
 三人の女は視線を一斉に俺以外の男性に向ける。彼は余計な事を言いやがってと歯をむいた後、さっさと背中を向ける。
「見る物を見たら、さっさと向こうと合流しようじゃないか。ここで見物しているつもりじゃないだろう」
 そそくさと茂みに消えていく背中に吹き出してから、徐ろに後を追い掛ける。
「そりゃあ、もちろんだ」
 俺の目の先には、劉貴がいるだろう大軍が海のように広がっている。その中からたった一人の男を探り出すなど至難の業だろうが……俺はそれを困難とも思わずにむしろ奮い立った。
「あんたも、俺を探してくれているよな……劉貴大将軍」
 ごく自然と笑顔が浮かぶ。だがそれは、側にいた三人の女達がこぞって顔色を変えてしまうような、剣呑さの固まりのような物だった。



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