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No.37734の一覧
[0] 〈習作〉よりにもよって、魔界都市  恋姫編追加![北国](2015/05/16 22:20)
[1] 魔界都市から恋姫に……って何さ、それ[北国](2014/10/02 15:43)
[2] 嗤う妖姫[北国](2014/12/30 00:38)
[3] 劉貴大将軍(加筆修正)[北国](2014/09/01 13:29)
[4] 黄巾の終わり[北国](2014/03/04 15:24)
[5] でぶとおかま[北国](2014/03/06 16:03)
[6] 暗闇の猟犬[北国](2014/05/12 07:01)
[7] 呉の姫[北国](2014/07/10 09:15)
[8] 果たし状[北国](2014/12/06 22:37)
[9] 念法二閃[北国](2015/06/17 09:26)
[10] 末世、そして新生[北国](2015/07/03 06:53)
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[37734] 末世、そして新生
Name: 北国◆9fd8ea18 ID:bf0d04fb 前を表示する
Date: 2015/07/03 06:53
 長らくお待たせしました。これで最終回です。

 工藤冬弥の物語もここで一区切りです。エピローグもかねたので最長になりましたが、さて中身はどれだけのものか。

 決着は菊地作品らしさを考えて書いてみましたが、皆様に受け入れられるかはちょっと不安。

 そして、作品内で恋姫キャラがひどい目に遭います。そりゃあもう、自重なしで。これはそろそろヘイトだなってくらいですので、読まれる方はご理解の程をよろしくお願いいたします。
 








 兵は数万に及んでいるのだろうか。

 袁術という将の元には数だけを揃えた質の悪い雑兵がいると雪蓮から聞いてはいたが、全てが劉貴……いや妖姫を頂点とした吸血鬼であるなら彼らだけで漢を滅ぼす事も問題ないだろう。

 人ではこいつらには敵わない。

 それは吸血鬼が強いからじゃない。恐いからだ。人の血を餌とする吸血鬼は、正しく人間の為の天敵だ。

 人よりも強く、人をこそ喰う化け物は恐い。

 ただ力が強く、頭がよく、獰猛で五感が優れて人を食うのであれば別に熊でも虎でも同じ事だろう。だが、吸血鬼は人だけを食うのだ。

 犬猫の血で喉を潤す吸血鬼など、まず聞かない。人と同じ姿をして、人よりも圧倒的に優れ、そして絶対的な支配をつけて人を変質させるからこそ恐いのだ。

 お前は俺達の餌だと突きつけて来る吸血鬼達の恐怖に、漢の人間など一人として勝てるまい。自分達が被捕食対象だと理解できていないならまだ蛮勇を奮えるだろうが、吸血鬼を理解してしまえば震えて逃げるだけに成り下がる。それは英雄ともて囃される武将達だろうが、そこらの卑屈な乞食だろうと変わりはするまい。

 鹿が虎と出会えば食われるか逃げ出すかの選択肢しかないように、吸血鬼と人が出会えば同様の選択肢しかない。しかし、人は鹿と違い逃げるための進化は遂げていないのだ。

「と言っても、鹿だって生まれたての虎児に負けるわけにはいかんがな」

 ましてや、こちとら虎にケンカを売るつもりの鹿なのだ。

「お目当てのご主人様の仇はここだぜぇ!」

 景気よく叫び、懐から銃を取り出す。青い光は、闇夜を派手に切り裂いて飛んだ。目に残るのは残像だけだが、それはいつまでもしつこく残る。

 適当に狙っためくら撃ちなので当たらなかったようだが、それでもわけのわからない異質な攻撃は彼らの度肝を抜いたらしく、どよめきと共に先頭集団の動きが止まる。

 驚いたのは、俺も同じである。

 吸血鬼がレーザーで、しかも拳銃のちっぽけなレーザーに怯むとは思わなかったが、そういえばあの連中の精神と肉体は吸血鬼でも、知識はこの時代相応なのだ。つまり、今の景気づけは訳の分からない危険な行為、って事になるらしい。

「あ、当たってる」

 ついでに、攻撃であることはもんどりうって転げ落ちた三人が証明した。そろって腕だの肩だのを撃ち抜かれている。

「まあ、あれだけ数がいればそりゃ、誰かには当たるか」

 腕がいい悪いじゃなくて、単純に的が多いだけである。シャーリィ・クロスにちょっと笑われた腕が上達したわけじゃない。

「できれば、これで怖気づいてほしいもんだがな」

 こうやってうまくいくと、欲が出る。
 
 体はいまだに本調子ではない。それでもやらなければならない状況だし、やせ我慢をしない男に価値などないが回復できればそれに越したことはない。吸血鬼の異能はなりかけの俺にも作用し、宵の口の今腹にあいた穴も鉛の服を着ているような疲労も少しずつ回復してきているのだ。

 距離が開いている間に少しでも体内の気を安定させて、心身の回復を果たしたいところである。魔気功の傷もまだまだ重たく俺を苛み続けるのだ。

 それにしても、こうやって実際に我が身に異常が起こると嫌でも思い知らされる事がある。

 秀蘭に噛まれて影響下にある為傷が癒えていくのはわかるが、ちょっと効果が大きすぎないか?

 せつらが秀蘭に噛まれた時には、こんな回復力は望めなかった。“新宿”で過ごして、魔界医師とも顔見知りとなったおかげで勘違いしがちだが怪我ってヤツはそんな簡単に治ったりはしないものだ。

 開け方に気を使ったとは言っても、腹に二つも大穴が空いて戦おうとしているとか我ながらおかしいだろう。普通は命の危機だ。それが実際に戦えるレベルになり、更に回復しつつある。ジルガや念法を駆使しても無理だ。

 それが吸血鬼化の恩寵であるのは間違いないが、なんでここまでの回復力が一回噛まれただけの俺にある。相手が秀蘭だからって、さすがにおかしいだろ。

 脳裏に否応なく居座るのは、ドクトル・ファウスタスから告げられたひどく不吉な診断結果である。

 君の身体には、女が取り憑いている。

 大体そんな内容だったと思う。俺はそれを秀蘭だと思うのだが、考えてみると少しおかしい。秀蘭は俺の血を吸ったのだ。取り憑いた訳じゃない。影響下に置かれているのは確かだが、俺の中に秀蘭自身が潜り込んでいるような言い方は少し違うだろう。

 右往左往している敵と睨み合い向こうの出方を待ちながら、抱いた疑問を見逃さないように慎重に思考を進めるが、どうにもろくでもない不愉快な結論ばかりが出てきそうだ。

 つまり、俺は秀蘭以外の誰かに取り憑かれている。

 それも、女。

 ……どこの誰だ?

 真っ先に思いつくのは妖姫だが、憑かれるような接触がない。俺達が至近距離で接触したのはたった一度だけ、魅了されかけた際のあの邂逅だけだったが……取り憑かれていないという確信はある。

 技量的には俺に気が付かれない内に何かを仕込んでおく事は、妖姫なら幾らでも可能だろう。だが、彼女がそこまでの労力を費やすほど俺に興味を持っていたかと考えると、結果はあっさり否と出る。

 伝説における破滅の美女にとって、俺は取るに足らない小物に過ぎないのだ。

 となると、騏鬼翁の可能性もある。

 あいつなら、俺の知らない間に女の形をした妖物を取り憑かせる術も持っているはずだ。しかし、ドクトル・ファウスタスにターゲットされている身でそんな余裕があるのか?

 これも却下とすると、最後に残ったのはトンブである。

 なるほど、あのでぶの魔道士が俺を無事に“新宿”に帰す為に何らかの仕込みをしておく。これはあり得る。現在の所そう不利な目にはあっていないのだから、敵と決めつけるのも早計かも知れない。

 しかし、トンブが俺にとって特になる術をかけた際にふっかけてこないわけがない。ついでに、トンブに取り憑かれたら分かると言うよりも思い知らされる気がする。主に重量で。

 そういえば、どっかのでぶの名前を付けられた憑依霊がいたよな、とせつらが潰されかけたのを思い出しながら前を見る。

 どこに行けばいいのだろうかな、と考えると選択肢は幾つもあった。

 目的は秀蘭を滅ぼす事。そして秀蘭の目的は俺を殺す事、それもなるたけ惨たらしくが付くだろう。俺が何処にいるのかはもちろん把握しているだろうから、すぐに出会う事にはなるはずだ。

 問題なのは、あいつの性格である。怒り狂った秀蘭が、ただ俺の命を取るだけで済ますだろうか。もっとえげつない報復を、俺を絶望に落とす為だけにやらかしても不思議じゃない。

 根性悪は、何も妖姫の専売特許という訳じゃない。長年側にいただろう秀蘭が、影響を受けていないと言う事がありうるだろうか。

「ありえねぇな」

 となると、おかしな真似をされる前に捕まえた方がいいのは間違いない。問題なのは、居場所が定かじゃない事だ。連合軍の陣内に向かっているのは、あくまでもたぶん程度の話で眼前に迫る吸血鬼軍を抑える為という意味合いの方が大きい。

 秀蘭がさっさと来てくれないかなと期待するが、それを察して俺から敢えて逃げ回るという手段もとりかねない。だがまあ、劉貴を封じた俺を悠長にじらすとも思えない。

 ほとんど何も知らない相手なので、次の行動が予想しづらいな。

 とりあえず、目の前の有象無象をどうにか鎮圧する事から始めようか。できれば犠牲者に過ぎない彼らを滅ぼす事はしたくないが、きっと彼らも飢えを満たす為に犠牲者は出している事だろう。

 これだけの数の吸血鬼を養うだけの餌食が、彼らの足下には積み重なっている。人工血液も戸山町における鉄の掟も、ここにはないのだ。

 一体、こいつらの総数は何人だ。千じゃきかないだろ? 犠牲が犠牲をどんどんと生み出している、吸血鬼の厄介さのわかりやすい証明を見せつける最悪の例だ。

 ……ドクトル・ファウスタスかトンブに話をするべきだったな。

 劉貴を滅ぼせないとなれば、彼らを滅ぼす他はない。でなければ犠牲者は際限なく増え続け、漢の外にまで広がるだろう。

 どうするべきなのか、正直迷っている。

 殺すのか、殺さないのか。できるできないを度外視しても、決断は難しい。

 既に犠牲者は出ている、しかし彼らの意思であるとは言い難く人間に戻る可能性も皆無じゃない。

 既に生み出されこれからも増え続けていく犠牲者と、強制的に加害者となった元被害者を天秤にかけて、一体どちらを選ぶべきなのかを決断しなければならない。

 このまま止まっていてくれ。

 あるいはドクトル・ファウスタスよ、早く劉貴を滅ぼしてくれ、と勝手な期待に逃げ出している自分が情けない。

 これだけの数をさばくなんて俺には出来ない。だから諦めて滅ぼすか逃げ出すかをしようと囀る自分の弱さが情けない。

 これが自分の意思で人を食っていると分かるのであれば滅ぼすのに否やはないが、吸血鬼化して変質した衝動の命じるままに襲っているだけでは怒りというものを湧かせる事が困難だ。

 もちろん見ていないどこかで大勢の被害者を出している事は理解できているが、それで殺意を抱くのは難しい。それでも、やらなければならない事は分かっていた。

 引き金が、やたらと重くなったのを感じる。こんな物じゃ吸血鬼は倒せない。せいぜいこけおどしの道具にすぎないのだ。それを理解してしまい、一呼吸を置いてから両手を振ると二振りの得物が腕の中には生まれる。

 それがずっしりと重かった。

 たまにこんな事がある。最後に感じたのは、通りすがりのヤクザを食い殺して生まれたての我が子の栄養にしようとした、半死半生の双頭犬を討った時だ。あるいは、一人の妖科学者の手によって生体兵器に改造されて全身から一呼吸で死をもたらす致死毒をまき散らし我が子を殺してしまった挙句、暴走してそこら中に毒を振りまく殺人狂になってしまった主婦を殺した時だったかもしれない。

 今すぐ頭を抱えて喚き散らしたい衝動に駆られながらも、目の前に群れを成している吸血鬼をまとめて薙ぎ払う為に仁王ともう一本を振りかぶる。二振りの木刀を構えた俺の頭頂は再び輝きを放ち、今なら次元の刃でなで斬りにできる自信があった。

 と、どこかから新しい馬蹄の音が聞こえてきた。いや、それだけじゃない。これは、馬車かなんかの轍の音だ。

 向こう側でも気が付いた何人かが動きを止め、それが少しずつ普及していく。まるで吸血鬼を引き付けているかのようで、軍は音の主を迎えるかのように動きを止めている。

 一陣の風が吹いた。

 ひどく優雅な香りと、どうしようもないほどの艶を含んだ風だった。

 目を庇った俺がもう一度前を見た時、音は二頭の黒馬に牽かれた一台の馬車へと姿を変えていた。

 馬車というよりも戦車のようにも見える二輪のそれだが、典雅さを感じさせるつくりの帷が車体の上にのっかっていかにも女性的だ。ひょっとすれば戦車どころか古代、あるいはこの漢において貴人の女性が乗るものであるのかもしれない。

 ただし、色は血で染め上げられているかのように赤黒く、生臭さ、鉄臭さを感じそうなほどのそれは乗っている人間の精神の均衡を疑わせる。

 いや、ひょっとしなくとも“ように”はいらないのかもしれない。それでいながら、細工その物は名工の手によるものだと素人目でも一目瞭然なのだ。帷の表面には黄金で竜虎が描かれているが、その巧みさは今にも襲い掛かってきそうだと先だって本当に虎と殺し合った俺でも錯覚してしまう程だ。

 だからこそ実におぞましい代物であり、そこにあるだけで恐れ戦く衆目を一身に浴びずにはいられないような代物だ。

 だが、今は違う。

 衆目を浴びるべきは、たかだかできのいい絵柄でも血で染め上げられたとしか思えない車体でもない。

 御者台に座り、手綱と鞭を持って颯爽と風に当たる白い衣を纏った女からこそ、天地万物の注視を一身に浴びるべきだった。

 夜の闇は深く、光源は星と月、そして俺のチャクラしか無いにも関わらず女の顔は自ら輝いて誰の目にもはっきりと見える。それは、美しいからだ。
只単純に美しいというだけで、女は内側から太陽など必要ないと言わんばかりの傲岸な輝きを発している。

 星をはね除け、月は霞ませ、太陽は貶めて女は己こそが輝く闇であると何も言わずとも納得させている。異論を持てる者は誰もいない。

 妖姫だ。

 真似る事も語る事も許さない、この世にたった一人の女がこれぞ傾国の美ぞ、と天下にまざまざ見せつけている傲慢な姿が俺と吸血鬼達の間に現われた。

「……妖姫」 

 俺の声はかすれているにも関わらず、驚く程大きく空気を振るわせた。それは、突如現われた乱入者に対して数多の吸血鬼達が、声を荒げるどころか息をする事さえも憚られると言わんばかりの沈黙を通したからだ。

 気持ちはよく分かる。

 俺もまた、唾を飲み込む事にさえ躊躇を感じるほどに萎縮しているからだ。先だっての邂逅よりも強くプレッシャーを感じているのは、秀蘭の牙を受けたからに間違いはないのだろうが、それを言ってしまえば劉貴に端を発する吸血地獄のまっただ中にいる数千数万の吸血鬼達にとて、妖姫は一体どれほどの相手であるのか。

 万物を圧倒する美しさに加えて、自分達の大本の更に大本。正に格上の存在。はっきりそう認識はしていなくとも、彼女が何者であるのか察しが付かないような間抜けもおいそれとはいるまい。

 妖姫は、チャクラ輝く俺に一瞥だけくれると笑った。心臓が跳ね上がるどころかこの距離で止まりかけた。股ぐらがいきりたっていないのが自分でも不思議なほどの、これ以上ない蠱惑的な笑みだった。

 くそったれ、と臍をかむ。

 頭頂のチャクラが回転したとしても、妖姫にとってはまだ笑える程度でしかないのかよ。

 彼女は俺に背中を見せ、悠々とした動作で御者台の上に立ち上がる。それだけで数多の吸血鬼がその場で地べたに膝を突き、あるいは平伏した。馬上の兵士は無様に頭から転げ落ちる者が続出したが、それを痛がる者も笑う者もいなかった。

 彼らの悉くは妖姫の足下に平伏しながら、首だけは上を見て彼女を見つめ続けている。その目は恍惚としており、見ているのでは無く目を離せないのだと語っている。

 事実、造りその物は簡素な純白の衣裳に包まれた肢体が背中を向けて翻されても、俺は目を離す事が出来ずにいる。どうにか力をこめて気を取り直したが、魅了の力など何も行使していないにも関わらずこれだけ振り回されている力の差にはため息も出てこない。

 風が通り抜ける事を惜しむようにたなびいている黒髪も。

 何一つとして飾りのない純白のチャイナドレスに包まれた、これ以上はないと言う絶妙な黄金比の更に上を行き男のみならず女をも肉欲の奴隷としてしまう艶やかな肢体も。

 そして雪よりも白い肌に紅の唇と夜空のように星を含んでいるような瞳も。

 形容する言葉が陳腐にもならないような美しいという言葉を当てはめる事さえ躊躇ってしまい、それでもなお他の言葉が見付からずに美しいとしか言いようのない貌も、何もかもがただ美しいと言うだけで人も鬼も支配している。

 この国にも傾城と呼ばれる美女はが幾人もいるだろう。しかし誰一人として届かない。

 豪奢で奇抜な衣裳を身に纏い、色取り取りの髪を様々な型に整え、宝石のように色彩豊かな瞳を輝かせていても、どれだけ肌を露出させて豊満かつ引き締まった身体がもっとも艶めかしくなるよう計算された衣裳を着ていても、誰も届かない。

 装飾品一つつけず、当たり前のチャイナドレスは只の純白。髪は黒髪を結い上げもせずに只流しているだけ。

 それでも、妖姫は三千世界でもっとも美しく艶やかで、何よりも恐ろしい女だった。

 いったい何をするつもりなのか、それが俺と無関係ということはあるまい。歯牙にもかけなかった雑魚が己の下僕を滅ぼしたのだ。どういう形であろうとも、彼女は俺を蹂躙するだろう。

 当初の約束? 守るわけない。

 いったいどう出るつもりだ、何をするつもりだと恐々としながら目を離すことができない背中を見つめ続けると、遥か彼方から新たな馬蹄が聞こえてきた。

 今度は一騎だけじゃない。数千、あるいはそれ以上……つまり、軍が動いたと言う事だ。それは吸血鬼達の背後から聞こえてくる、つまり連合軍の誰かが動いたと言う事だ。

 一体何がどうなったのかは分からないが、とにかく状況が劇的に動いたらしい。これに呼応して、あるいは汜水関でも動きがあるか? 

 素人の俺には何が理由か知らないが、とにかく戦争が再開されようとしている。せめて、背後の連中は自重して籠城を選んで欲しいものだ。

 背後を気にしている間にも、前は迫ってくる。一騎一騎は大したことがなくとも、これだけ揃えば怒濤のような轟音だ。それが吸血鬼軍をどう見ているのかは分からないが、接触の際の化学反応が穏やかな結果を生まないのだけは確かだろう。そもそも出陣の際にトラブルがなかったとは思えない。

「ふふ」

 妖姫が、笑った。

 空気どころか大地を振るわせる爆音の中で、不思議と耳に届いた。普通なら例え深夜の静寂の中でも聞き逃してしまいそうなそれがはっきり聞き取れたのは、声を発したのが妖姫だからとしか思えない。

 その笑みを見ていた不幸な下僕達が、恍惚の笑みを浮かべる。そして、そのまま妖姫の周りの十五人が一斉に首から上を失った。

「あ」

「お?」

 最初は、誰も何もわからなかったようだ。事実を認識したのは、更に三十名ばかりが同様の目に遭ってからだ。

 それは、妖姫の振るったたかだか二振りの鞭が起こした惨劇。手が左右に振られただけで、五十に近い吸血鬼が首を失い大地に真っ赤な血の花を捧げた。事が起こった後でようやく気が付いた俺が行動を起こすよりも前に、惨劇は始められた。

 次の妖姫の鞭は馬の尻に向けられた。当然大きくいなないて走りだした二頭の黒馬は、姫を乗せた馬車をまるでただの小箱のように軽々と引いて吸血鬼の群れへと突っ込んでいく。

 操る姫が姫なら馬も馬、馬車も馬車か。

 吸血鬼の群れなど馬蹄の下の虫けら同様と、ためらいなく人外の群れを踏み潰して阿鼻叫喚の合掌を作りだしていく。

「ぎゃああっ!」

「何を、何をなさいます!?」

「主様、貴方は我らの主様なのでしょう!?」

「血迷われましたか!?」

 驚愕の叫びが遅まきながら四方八方からぶつけられるが、それを気にもとめないどころかそれこそが楽しくてたまらないと妖姫は哄笑を上げる。

「おうよ、私こそが劉貴の主であり、即ちお前達の主よ。故に命ず。もっと血を流し、悲鳴を上げよ。私を楽しませよ。それがこのつまらぬ国を作ったお前達のせめてもの償いよ」

 一人の兵士は車輪の下で胴を両断され、一人の兵士は馬の蹄に頭蓋を砕かれた。あるいは姫の鞭に顔面を砕かれてのたうち回り、あるいは喉を打ち据えられて骨が砕かれた。

 一瞬ごとに十人二十人の犠牲者が生まれ、各々血しぶきを上げて悲鳴を上げている姿は正しく地獄絵図。そのまっただ中で、姫は楽しくてたまらないと大声で華やかに笑い続けた。

 伝説の中に存在する、出来れば後世の空想であって欲しいと願われる古代の暴君が今正に目の前にいる。絶叫、血しぶき、それらを天高くまで届かせる事が面白くてたまらない。

 もっともっとと虫の羽を千切る子供の遊びのように楽しそうにして、彼女は縦横無尽に駆け回り鞭を振るった。

 兵士達は逃げようにも逃げられない。顔は恐怖に塊、声を上げて慈悲を請うて翻意を願うが足が動かない。

 それは下僕のそのまた下僕という立場の為か、妖姫の美貌に囚われたか、木偶人形のように次々と車輪の下で挽肉になっていく。何と無惨な光景か。

 しかし、これでもまだ終わらない。

 彼らは吸血鬼だ。砕かれようとも千切られようとも、それでは死ねない。死なないのではなく死ねない身として、砕かれ引きずられてもなお滅びる事なく呻き声を上げ続けている。いっそ殺してくれと、人外の力に酔いしれていた口で哀願している。

 これこそ、正に地上に現われた地獄と言えるだろう。死ぬ事を許されない亡者が途切れる事なく繰り返し苛まれるように、彼らは繰り返し轢殺されていく。

 異常者の天才画家がいれば歓喜の喚声を上げるような地獄絵図の中で、妖姫は誰もが見とれずにはいられない輝かしい笑顔を浮かべて殺戮に酔いしれていた。

 何と美しく、何と神々しい姿だろう。無差別の大殺戮を行い、血と嘆きと蹂躙に酔いしれる姿は、だからこそ美しく輝いている。

 見よ、轢殺されてなお、その美しさに恍惚となっている犠牲者達の無惨な姿を。

 これが、妖姫だ。

 これが、古代中国を幾度となく滅ぼしてきた伝説の妖女だ。

「やめろ」

 声が震えた。歯をかみしめろ。

「やめろ」

 腕が震えた。力を籠めろ。

「やめろ」

 目がかすみ、視界がぶれた。腹を据えろ。

「いい加減に、しろーっ!」

 両の刀が風を切り、そして次元を断つ。

 左の太刀が見事に妖姫の乗る馬車を車輪から両断したが、右の剣風は次元ごと無造作に鞭によって跳ね飛ばされた。

 次元刀をも児戯だと笑う妖姫の怪異な実力だったが、それよりも敵を庇って妖姫の注意を引いた愚行の方がよっぽど重大だ。頭の中を“やっちゃったよ”と言う後悔の一文が支配する。

 そして同時に、どうせだったらもっと早くにやらねぇか、と自分をののしる自責の声もする。うるせぇ。おっかなかったんだよ、畜生が。

「そんな目で見るんじゃねぇよ」

 足下にいつの間にか転がっていた首が、七つは恨めしげに俺を見上げている。声も出せないのは喉が無いからだろうが、目で口ほどに恨み言を言ってくる。つまり、もっと早く動け。

「散々に血を呑んできたんだろう。その程度は自業自得だ。滅んでいないだけマシと思え」

 後ろめたさを堪えて嘯きながら、前を見る。そこには、見たくもない者が俺を見ていた。

「よくぞ私の馬車を斬ったな」

 恨み言では無く、怒りも無い。よく出来たと褒めてさえいた。

「そりゃどうも」

 彼女の目はただ黒いだけだ。おかげで魅了されないが、美しさだけでも目眩がしてくる。こらえられるのは黒白の魔界都市の化身に見慣れているおかげだ。

「ところで、なんでこいつらを踏み潰したんだ? 褒めてくれるんなら、褒美代わりにちょっと舌を滑らかにして欲しいもんだ」

 さりげなく仁王を前に出すが、妖姫は気が付いていながら笑っている。舐め切っているが、それが余裕だと言えるほどの差は頭頂のチャクラを持ってしても……まだまだ大きい。

 弱気になるなよ。

 これ以上は無い助力じゃ無いか。元々、こんな助太刀が無くても戦うつもりでいたんだ。びびるな。

「さて、この国でしばらく無為に過ごしていたからの。船には幾らでもよく香る血は蓄えてあるが、そろそろ新しいものも欲しくなった。それだけよ」

「それで自分の下僕を踏み潰したのか? いくらでもできるだろうに、わざわざ滅ぼさないあたりは慈悲深いご主人様だぜ」

 もちろん皮肉だが、妖姫の回答は俺の陳腐な皮肉の上を行った。

「ほう、お前もそう思うか。元々劉貴が勝手に増やしただけの下僕。どのように扱うかは私の勝手じゃが、このような者どもにも私を愉しませる仕事をさせてやるのは我ながら驚く程の深情けよ。誰ぞ、口の聞ける者はおるか!」

 実に楽しそうに笑って、妖姫は声を張り上げた。その命令に従い、胴の当たりで両断された兵士が血にまみれた喉を酷使した。

「こ……ここに……」

 妖姫は、その無惨極まる犠牲者に一言命じた。

「来やれ」

 主の命は絶対。それは吸血鬼の真実だ。しかし、己の手で両断した犠牲者に対して恥じる様子も無くむしろ楽しくて仕方が無いと言う声色で、来いと命じるか。

 そして、それに応えるか。

 両断された兵士は辛うじて無事な腕を使い、健気に妖姫へと這いずっていく。無惨な下僕の姿に妖姫は笑い、無惨な同胞の姿に、そして同様に蹂躙された己の姿を思い、吸血鬼達は怨嗟のうめきを堪えきれない。

 それを妖姫は咎めずに、むしろ万雷の拍手を受けるように胸を張っている。

 その足下にようやく兵士が辿り着いた時、彼女はその白い足を使って一歩下がった。兵士は無言で上を見上げ、何も言わない妖姫の意図を悟ったのか絶望的な表情になった。

 それを見返す妖姫の表情は、まるで花の香りを愉しむ清純な少女のようで、彼女はそのままもう一度這いずってくる兵士を待ち受けてから、もう一歩下がる。

 兵士は何も言わずに、無表情にまた這いずり始めた。その無表情が酷使された精神の限界に達した為か、それとも肉体に表情を作る余力さえ無くなったからなのかはわからない。

 そして、彼はもう一度辿り着いた。しかし、妖姫はもう下がらなかった。

 既に力は何も残っていないだろう兵士は上を見上げた。それが成し遂げた達成感も、妖姫の慈悲を受けた希望も感じさせないのは自分の運命を悟ったからだろうか。

 兵士の目が妖姫の顔を捉える寸前、主の死は兵士を踏みつけて地べたに叩きつけ、おもむろに踏み砕いた。

 トマトのようにあっさりと頭を砕かれた兵士は、吸血鬼であるにも関わらずそれ以上は動かなかった。彼は滅びたのだ。

「ほほ」

 美しく頤を逸らして、小さく笑った。それだけが兵士の命と献身の価値だった。一息の笑いの為に、命は消えた。

 俺には何も出来なかった。

 何をしようと、妖姫よりも側にいる兵士を痛めつけるからだ。それ以上に、雰囲気に呑み込まれて身動きがとれなかった。

「……あああああぁあっ!」

「ほう」 

 叫ぶ俺に、妖姫が目を向けた。だが、もう恐れなかった。

「私を前にしても動けるか。誇るがよい、それが出来る剛の者は二千年の生でもそうそう会えはしなかったぞ。夏でも、殷でも、周でも」

 呪縛じゃない。ただ、妖姫に呑まれていたのだ。筋肉は強張り、皮膚が総毛だっている。

 思考をも停止させて俺をあっさりと縛り上げた束縛の鎖だが、目の前で妖姫の繰り広げた遊びによって巻き起こった憤怒に砕け散る。その反動のままに、一気に妖姫に襲い掛かった。

 我ながら、よくもここまでと一挙に燃え上がった憤りを燃料にした疾走だが、一歩、また一歩と踏み込む度に大きくなる妖姫はただ笑って見ているだけだ。

「あの時の三流剣士がここまで化けるとはな。助けを借りてとはいえその輝き。ほんの百年ほど前に始めて見たが、同じものをこれ程早くに見られるとは思っていなかった。褒めてやろう」

 屍同然でのたうっている吸血鬼たちを躱し、一気に喉元に迫る。目前に迫り、ますます輝く美貌だがそれに囚われる事はなかった。

「いぃあっ!」

 仁王で喉を薙ぎ払い、ゼムリアの太刀で心臓を突く。妖姫はそれぞれの切っ先が肉体に紙一枚まで近づいても身動きはしなかった。だが、背後より何かが迫る。

「ぬがぁっ!?」 

 両肩に熱を感じ、何かに切られたと悟る。その拍子に切っ先はそれて妖姫には掠りもせずに空を切る。

「外れたのう」

 ぎ、と目の前で俺を笑う顔に歯噛みするが、もちろん相手は何一つとして通用は感じない。今一度と今度は近すぎる間合いに柄で一撃をと踏み込んだが、それは妖姫の背後より突如現れた獣によって遮られる。

 妖姫の全身をすっぽり覆うような影が、闇をさらに色濃くした。いったい何がと考えるよりも先に正体が目の前に現れたのだが、それはなんと一頭の大虎である。

 しかし、虎は空から降ってきたりはしない。さては騏鬼翁の作りだした妖獣かと身構えた俺の耳に、素っ頓狂の癖に妙に艶のある女の悲鳴が聞こえた。

「あ、あの時の化け物じゃあ!?」

 どこかで見たような女だった。波打った銀色の髪が豊かで、肉体は豊満そのものである。鋭い切れ長の瞳をした妖姫を除けば一番艶めいた美女だった。傍には、なんと袁紹とお付きらしい武将格二人がついている。

 思い出した、何進だ。

 どうやら、袁術の軍を追い掛けてきたらしい。そう言えば、袁紹と袁術の間にはあまりよくないものらしいな。これ幸いと付け込もうとしたのか。何進は巻き込まれたようなものか?

 それがあんな顔をする羽目になったのだから、不幸だな。
 盛大に引きつった何進の目線の先には、先ほど俺に一撃を食らわせた妖物がいる。彼女の言うように、一目で分かる程に真っ当では無い生き物だった。

 顔は虎、しかして身体は恐らく獅子。足はトカゲか鰐で、尾の代わりに蛇が生えているときたものだ。実にわかりやすい異形であり、袁紹達と率いる兵士達の注目を浴びてうっとうしく思ったのか威嚇の声で怯えさせている。

「混合獣か」

 いわゆるキメラだ。もちろん、何進の知っているそれとは別物なのだが区別が付いていないようだ。

 見た目でいえば恐ろしそうなだけ、鈍重なでくの坊としか言えない程度だが内側に秘めた力は恐ろしいものだろう。生物としてのバランスがめちゃくちゃなくせにどうして高空から無事に着地できるのか不思議だが、問題なのは魔獣の感情が激発しているのにあわせて音をたてている電撃だ。

 体の周りに可視の小さな稲光が不規則に瞬いている。電気ウナギは鰐でも感電死させるというが、鰐らしい足を持っているこいつはそれ以上の電撃を扱いそうだ。

 ち、と厄介な敵の登場に舌打ちする。さっきから俺の肩がじくじくと痛むが、これはどうやったのかさっぱりわからない。正体不明のそれを警戒している俺だったが、そんな間抜けを置いてけぼりにして事態は動いた。

「目障りじゃ」

 妖姫の腕が動き、無造作に蛇の鎌首を引き抜いたのである。

「ひぃいっ!?」

 悲鳴を上げたのが誰かは知らないが、誰もが妖姫の暴挙に目を見開いて細腕で大蛇を引き裂いた異様に気が付かなかった。そして、気が付かせないままに妖獣は苦痛とそれを上回る絶大な怒りをこめた咆哮を上げて妖姫を睨み付ける。

 騏鬼翁からは妖姫に対する服従はもちろん言い含められているのだろうが、それを良しとするには暴挙が過ぎた。全身から発する獣の殺意を至近で浴び、しかして妖姫は嘲るように笑うだけだ。

「獣風情が私の上に影を置き、耳を下劣な叫びで汚した。くびり殺されるのも当然とは思わぬか?」

 誰に語っているのか。俺にか、それとも獣を通して騏鬼翁にか。いずれにしても、獣自身は歯牙にもかけていない。それを理解したのか妖物は全身が闇の中では目が痛くなるほどのまばゆく輝いて電撃を纏う。

 全身から発したそれは、避ける様子の無い妖姫を襲い誰よりも白くきめ細やかな肌を貫いた。しかし、その輝きの中でも妖姫は嫋やかなまま笑っている。

 虚仮威しで無いのは、巻き込まれた兵士達を見れば一目瞭然だ。苦鳴を上げる事も出来ずに黒焦げになり、あるいはのたうち回っている。妖姫はそんな無惨な姿を見下ろして実にサディスティックな笑みを浮かべた。それだけでマゾは昇天しそうだ。

 彼女は笑みをそのまま、まるで愛猫を撫でるように繊手を差し伸べる。次の瞬間、俺の目には見えないような早業で妖獣の首は一回転していた。

「ほほ……騏鬼翁の作りだしたまがい物でも血の色は変わらぬと見える。しかし、卑しい獣の屍など側に置いておくのも不快よの」

 己の部下が差し向けた恐らくは彼女を守り俺を殺す為の獣を殺しておいて、ぬけぬけとそんな事を言う。つくづく、なんでこいつに騏鬼翁は仕えているのか。ああ、色気に迷ったのか。

「秀蘭よ、始末せい」

「はい」

 声は俺の背後からだった。俺の肩を切り裂いたのは、こいつだったのか。

 劉貴に仕置きをされたとは思えない健在ぶりの吸血鬼は、しずしずと言う感じで俺の横を通り過ぎる。手は出されなかったが、すれ違う瞬間にくれた一瞥には気が付かなかった未熟者への嘲りと想い人を手にかけた怨敵への憎悪の二つが、底なし沼のように深く深く篭められていた。

「さて、剣士よ。どうやら首尾よく劉貴を討ったらしいの」 

「賭けには勝ったぞ」

 間髪入れずに返したが、妖姫は笑うだけだ。それだけで周囲を囲んでいる袁紹配下の兵士達はもちろん、殺してくれと哀願しそうな目に遭っている吸血鬼達さえ陶然としていた。

「俺が劉貴を討てば、漢から手を引く。忘れちゃいるまいな」

「さぁて」

 嬲るようなかおをして笑っている。元々約束を果たすなんて思っていなかったから落胆はしないが、どうする。

「貴様風情に劉貴殿が討てるか。あの方が、お前を殺す機会が幾度あったと思っている。その度に見逃された三下がほざくな」 

 首尾よく妖獣の屍を消した秀蘭が俺に噛みつく。何をどうやったのか知らないが、兵士達が戦いていた。

「勝ちは勝ちだ。万に一つの偶然かも知れないが、卑怯な手段をとった訳でもない。差し出がましい真似をした女風情に咎められる謂われがあるか。ひっこんでろ!」

 吐き捨ててやる。巫山戯た真似をしたこの女に対して腹に据えかねているのは当然だ。血を吸われている事もあるし、この場でこいつこそ滅ぼしてやると愛刀達を握り直す。

 俺に痛烈に面罵された秀蘭だて、これじゃあ引っ込みがつく訳も無い。俺のものらしい血を滴らせた櫛を取り出し、互いに一触即発となったが、その空気を妖姫がかき回した。

「待て、秀蘭」

 憎悪も怒りも呑み込んで秀蘭が止まる。鉄の主従がそこにはいた。

「こやつが劉貴を討ったのは事実。賭けには勝ったのだからそれをまず果たさねばならんのぉ」 

「……なに?」

 信じがたい一言に、目が点になる。こいつ、本当に妖姫か? 騏鬼翁当たりが作ったダミーじゃなかろうな。

「姫」

 秀蘭が鉄にわずかな罅を入れる。しかし、それを妖姫は咎めない。寛大なのではなく尊大なのだ。

「こやつ、己に迫る櫛を悟りながらも私を斬る事に徹しおった。それで出来ず仕舞いは間が抜けておるが、そこそこの執念よな。それで劉貴を討ったとは健気よの」

 虚仮にされているとしか思えないし、実際そうだろう。

「それに、こんな国は元々私には何一つとして値打ちのない国よ。それを騏鬼翁が執着しておった故に好きにさせていたが、手を引く理由が出来た。このような国に関わるのも飽きた事だし、より私を愉しませる国を探すか、しばしの眠りに興じるとしようぞ」

 あれの無念を肴にして、と笑う。あのくそじじいの無念は俺も笑ってやりたいが、素直に頷くには相手の人間性が一つも信用できない。

「しかして、貴様は秀蘭に噛まれていたな」

 その顔を見た時に、俺はむしろ“そらきた”としか思わなかった。

「今は思念の力で誤魔化しているが、消えた訳ではない。それどころか、妙に深い。秀蘭、噛んだのは一度きりだな」

「はい」

「それにしては深い。既に三度は噛まれたようじゃ。何かがお前を我らの道に引きずり込もうとしているようだの……いや、何かが我らの血を求めているのか」

 その何か、はさすがに見ただけでは分からないようだが俺よりも詳しくこちらの状態を述べてくる。それは決して間違えてはいないだろう。求めている……やっぱり吸血鬼がらみなのは間違いないのか。

「秀蘭よ、噛んだそなたに心当たりはあるのか?」

「いいえ」 

 秀蘭の答えは短い。それは彼女の不満が面に発露したものだが、それを妖姫は咎めずにいた。気にとめないからだ。

「そういえばお前は以前にあった時、初対面からおかしな香りがしたのう。何故、私の匂いがするのか。最初は部屋の移り香かと思ったが、未だに香る。しかして他の誰も気が付くまい。私だからこそ気が付く。それはお前の内側から香る匂いよ」

「……何?」

 言われてみれば、そんな事を言われていたような気もする。もう随分前なのですっかり忘れていたが、確かにそれらしい事は言われていた。

 ……俺の中から香る妖姫の匂い。

 俺は女に取り憑かれている。

 ……まさか。

 まさか、まさか。

「冗談にしても、性質が悪すぎるぜ」

 鳥肌がたっている。

 我知らず総毛立った身体を抱き締めたくなった。自重するのに結構な気力が必要なくらいだ。

「心当たりがありそうじゃな、奇妙な男よ」 

 妖姫が面白そうにこちらを見てくる。俺の存在が彼女の好奇心をかき回しているのだ。どう考えても悪い結論しか出てこない。女の好奇心が男にとってろくでもない事を運んでくるのは世の常だが、この稀代の毒婦が相手では俺の手に余るのは正に自明の理だ。

「このつまらぬ国において、明らかにおかしい二人の男……その内の一人はどこから見てもつまらぬただの小僧でしかなかった。あれではそこらにただ放り投げておくだけで程なく儚い最期を遂げるだろう。だが、貴様は少しでも私を愉しませるだけの座興を興じてみせる事が出来るか?」

 私を愉しませろ。敵にそう言われて俄然、ファイトが湧いてきた。一寸の虫にも五分の魂という言葉がこの時代に既にあったかは知らないが、舐めるなと思うのは当たり前だろ。

「宴会芸は苦手でな。いつも壁の花がせいぜいさ」

 だいたい金髪美女が見かねて手を引いてくれるんで、それが楽しみでわざとそうしているんだがね。向こうも皆わかっているときた。

 帰りたい場所を思い出して、音もなく仁王を突きつける。秀蘭が一歩こちらに近付いてきたが、妖姫はそれを手一本で止めて笑った。

「秀蘭よ、ここは退け」 

「はい」

 驚いたのは俺だが、劉貴の為の怒りに身を焦がしていたはずの秀蘭は、鉄を再び焼き直して罅を消したのだろう低頭して言葉のままにする。

「そして騏鬼翁に命じよ。私につまらぬ獣を見せた罰として、この国の女どもを悉くここに連れてこい、とな。ほほ、劉貴を討たれたにも関わらず未だに現われぬ。さて、あの大猩々はどこで何を企んでいるのやら」

 恐らくだが、劉貴の所に行ったんだろう。秀蘭もいる事だし俺の相手は獣で充分と踏んだんだろうが、それがよりにもよって主の手で台無しにされるとはさすがに思うまい。いまけに、劉貴の所にはゼムリアと騏鬼翁への怒りに燃えるドクトル・ファウスタスがいるはずだ。

 今頃、盛大に吠え面かいているのかも知れないな。その上人さらいの命令までされた日には泣きっ面に蜂か。助平爺なだけにある意味褒美になるかも知れないが、それをさせない二人に期待しよう。

「なんでわざわざ女を集めたがる」

「なに、余興じゃ。お前が芸のないと広言するから私が余興の演目を考えてやったのよ。それよりも、秀蘭が逃げるぞ?」

「ちっ」

 俺が一番困るのが、秀蘭に手が届かなくなる事だ。逃げ回られるのが一番始末に悪い。それを見抜いて、こちらを八つ裂きにしたがっている秀蘭に逃亡させる。俺の焦慮と秀蘭の無念を両方愉しんでいやがる。

「おーっほほほほっ! そこのあなた方、どこの誰かは知りませんがそこの見苦しい化け物を退治した事は褒めてさしあげますわ! しかし、いい加減に目障りですの。この袁本初の行軍を邪魔するというのならば即刻排除する所ですが、今は先を急いでいますの。大人しく退くというのなら、命だけは助けてあげますわよ」

「ちょ、姫! あいつらどう考えてもやばいって!」

「そうですよ~……男の人はなんか光っているし、あの女の人なんか化け物を素手でくびり殺しちゃったじゃないですか~……関わらない方がいいですってぇ……」

 珍妙な三重奏が場の空気を粉みじんにした。さっきからこっちを見ていた袁紹とお付きが、間抜けなやり取りをしている。本物のズッコケトリオというやつを目の当たりに出来た俺は幸運なのかも知れない。

「小娘共」

 妖姫の声もまた穏やかだった。王朝を数多滅ぼしてきた女が怒るには、相手があまりに卑小すぎるのだ。

「その滑稽な姿に免じて見逃す。疾く、失せるがよい」

 彼女の声は穏やかではあるが、それは路傍の石にムキにならないのと同様の事でしかない。何かの拍子に砕け散るほど強く蹴り飛ばされてもおかしくはないという事だ。

 その“何かの拍子”を簡単に招きそうな妖姫の言葉だったが、振り返りながら口にしたのが功を奏したのか三人……正確に言えば袁紹も殊更に反発はしなかった。

 振り返った際に妖姫の顔を直視したのだろう、呆けるどころか能面さながらの無表情で凍りついている。外部から強い刺激でもなければ、そのまま死ぬまで固まっているかも知れない。

 同じ現象は兵士達や何進にも現われて、無数の軍勢はただ面を顕わにするだけで無意味な彫像の群れと化した。魔眼も静夜も使わない、ただ純粋な美貌の魔力、恐るべしと言ったところだろう。

「いけ、秀蘭」

 自分に見惚れて生ける石と化した数万人をつまらなそうに一瞥し、既に興味は失せたと妖姫は視線を返す。従者は俺への怒りに身を焦がし、俺を弄ぶ喜悦を瞳に浮かべながら一礼する。

「人に一撃くれて、そのままいなくなるのはつれなくないか? 返杯くらいは受けていけよ」

 彼女らに銃は通じない。

 脅しの道具にもならないだろう。素手か、仁王かを選択しながら滑るように秀蘭へと挑みかかる。

「ちい」

 舌打ちを隠せない。

 吸血鬼の娘は闇の向こうに影のように溶け込んで、そのままいずれかに去っていった。得物を叩きつけるどころか、追いつく事さえ出来なかった。

「ほほ。追い掛けぬのか、武芸者よ。劉貴を討った男も女を追うのは下手と見える」

「棒振りばかりにかまけてきた人生なんで」

 す、と切っ先は妖姫に向かう。

 今、従者はおらず妖姫は一人だけ。それでも無謀は無謀だが、なお挑まなければならない好機だった。

「そのような男も数多く相手にしてきた。己を高みへと導く為、他者をひれ伏させる力を得る為、討ち滅ぼす敵の為。武に生きがいを見つけて魂まで賭けても惜しくはないと嘯く男達はこれまでに幾百幾千と出会ってきた。何も知らぬ行きずりの男も、私の心臓に杭を打ち込む為に挑んできた男もいた」

 彼女の歩んできた道のりには、数えるのが馬鹿馬鹿しくなる屍が目をそむけずにはいられない惨たらしさで並んでいる。それを楽しげにあざけりながら、彼女は笑うのだ。

「そして、全てが私にひれ伏した。木石に手足が生えたような朴念仁も、私を悪鬼と罵り心臓を貫いてくれると大言壮語を吐いた豪傑も、私に跪いてこの身体に溺れぬ者は一人としていなかった」

 お前も同じだ、と目で告げてくる。確かにそれは事実だろうが、心底胸くそ悪い。

「そんなに女を自慢するなら、口説き上手の世慣れた男と遊べばいいだろう」

「女をとろかす為に生きるような男などつまらぬ。世の全てを知り尽くしたと豪語する知恵者、天地の理を己の物にしたと名乗る道士、そして克己の塊のような修行者を跪かせなければ何も面白くない」

 確かに、歯の浮くセリフを口にして女の股座を嘗め回すのが本懐という男を侍らせるよりも、そっちの方がよほど似合う。他人の生きがいや矜持を踏みにじってこその妖姫。生粋のサドなのだ。

「だから、この国の男は悉くつまらぬ。どれもこれも牙を抜かれた犬のような物、女の下風に立つ事が当たり前、媚びを売る事さえ躊躇いない。おまけに老犬ならば速やかに土に還る物を、いつまでもダラダラと生き続ける。醜態も極まっておるわ」

「腑抜けに生きる資格はないか」

「当たり前ではないか」

 まあ、そう言うのが生きながらえるのは相当豊かで発展した国の庇護下であってこそだろう。

「おおむね同感なんだが……誰より長く生きているあんたが言えたセリフじゃねぇよ」

 一歩踏み出す。切っ先の向こうで妖姫がにんまりと微笑んだ。

「では、お前が止めてみせるか? 未熟な武芸者よ」

「さあな。ただ、秀蘭を滅ぼすにはあんたを超えていかなきゃまずいって事だろう」

 のんびり話をしている時間はない。馬蹄の音もあちこちから聞こえてくる。既に秀蘭は戦場を荒らし回っているのだろう、仕事の早い事だ。

 だから……

「しいぃっ!」

 気勢を上げて仁王を振ると、風を巻いて白い喉元に迫るだが、目の前に真っ白い衣が広がり彼女の姿を隠した。

「ちいぃ!」

 その向こうから嘲る笑い声が聞こえてくる。声その物をたたき切るつもりで、第二の返し太刀を振るうがそれは布きれ一枚に防がれた。一体どういう仕組みか小鳥の羽よりも軽く手応えがない癖に、宙を舞う落ち葉を貫ける俺の突きを受け止めて撓りもしない。

 埒があかないと後ろに飛んで回り込もうとするが、その前に純白は消えてこの世で最も淫らで美しい舞台女優のように妖姫が現われる。

「私の衣を斬れた者は今だ三人しかおらぬ。そなたには不可能なようじゃの」

「ち……」

 言われて、かつてせつらに四千年で四人目だと言っていたのを思い出す。同時に結論を出さなかった可能性も思い出した。妖姫が未来の“新宿”に現われたのなら、俺は絶対に妖姫をここで滅ぼす事は出来ない?

「どうでもいいさ」

 妖姫と自分自身に応える。

 勝てようが勝てなかろうが、退くという選択肢がない以上挑む以外に何もない。

「ほう、よく言った。ならば、我が目を見てもそれがほざけるか試してみようぞ」

 どうやら、怒らせる事は出来たらしい。歯牙にもかけられなかった今までに比べれば随分な成長だが、危険性は跳ね上がった。次の瞬間に死んでいなければおかしいレベルだ。

 だが、彼女はわざわざ宣言してくれた。

 俺を引っかける事はあっても裏をかく事はあるまい。ある意味彼女を信用して、俺は赤く光る猫眼に備えた。

「……ほう」

 姫が笑った。こざかしい、と眼で言っている。

「見えぬな。木刀の向こうにお前が見えぬ」

 正眼を極めると、こうなるのだ。切っ先を正確に相手の目線に合わせる事で視界を埋め付くすこの業、眼を使う相手には殊の外よく効く。目と目を合わせなければならないのが大抵の術のセオリーだが、見えなければ合わせられない。

 ただ伝説のメデューサのように見られただけで、あるいは見ただけで石になると言うような相手には分が悪い事もあるのだが、妖姫の目には幸い通じたようだ。相手が規格外の塊なだけに不安だったのだがなんとかなった。

「なるほど、大した業だが得物の影に隠れるとは劉貴大将軍を討った男としては存外滑稽な腑抜けぶりぞ」

「……んだと」

「ほう? 怒ったか。意外と度量も小さいと見える」 

 挑発のつもりはないだろう。ただ人を虚仮にする事が楽しいのだ。

「その名前を出されて引っこんでいられるほど腑抜けのつもりはねぇよ」

「それでよい。このような詰まらぬ遊戯など暇つぶしにもならぬ。ただ退屈が増すばかりよ」 

 挑発を受けて、体内のチャクラがさらに勢いを増して回転する。全身を満たしている聖念が天空まで届かんとするほど輝き、地上に降臨した太陽さながらに天地を照らした。

「ぬうっ!?」

 その瞬間に俺は一気に姫へと斬りかかる。ずっと考えていた妖姫対策の一つ、この時代では出来ないとも思っていたが思わぬ所で実現の目処が付いた策の一つ。

 優れた五感を持っているからこそ耐えられない、聖念の輝きだ。当初はスタングレネードを想定していたが、ただの光よりも眼を灼くだろう!? 視神経を通して、脳髄まで焼け焦げやがれ!

「これで私が怯むと思うたか? 随分と甘く見られたものよ。その浅薄、高くつくぞ」

 白い袖が輝きの中心に伸びた。ぎしい、と嫌な音をたてて木刀を捉えたそれは妖姫のそれに他ならない。このまま俺を引きずるつもりなのか、ぐいとこめられた力はトン単位にしてどこまでいくのだろうか見当も付かないが、二千年先の未来で戦車を気軽に弾き飛ばした姿を俺は未だに忘れられない。

「何!?」

 初めて妖姫が驚いた。

 まさか、その木刀が自分の元に飛んでくるとは想像もしていなかったか? いいや、そんな愚鈍であるはずがない。引っ張られれば手を離すのが一つの定石だ。

 だが、突きさながらに一直線に飛びかかってくるとは考えていなかったか。勢いは紫電さながらで、念を纏った一刀は姫の豊かな双丘の狭間を突き刺した。喝采を上げていいなら、喉が張り裂けるほど叫んだ事だろう。

「これは糸か!?」

 妖姫は自分に突き刺さった木刀に苦悶の声さえ上げずに、むしろ平然とした態度で俺の仕掛けに注視していた。わかっちゃいたが、つくづく反則だな!

 心の中だけで悪態をつき、気合の声さえ惜しみながら手元に残った愛刀を腰だめに構えて妖姫を、彼女自身の足下にしゃがみ込んで見上げる。木刀が飛ぶほんの一瞬前、最善と考えたタイミングで豹のような低姿勢で駆け抜け、授けられたばかりの切り札を囮として辿り着いた位置だ。

 その一瞬を手に入れるために、木刀を宙に支えたのは妖姫が言ったようにかつて黒衣の魔人から酷評されていた糸だ。使えば死ぬ大道芸と揶揄されながらも懲りずにいてよかった。

 ほんの三ミクロン程度の妖糸擬きを支えとして木刀を囮にし、囚われてからは発条としてミサイルよろしく打ち出す。散々長話をしていたんだ、その程度の仕掛けはどうにかできる。

 光に紛れて行う策ともいえない杜撰な策だったが、相手の意識の隙を突くギリギリのタイミングを駆け抜ける綱渡りで、どうにかもくろみ通りの流れは作れた。

 歯を食いしばり、全身の念を仁王の切っ先に籠めてありったけの力で繰り出す。斜め下から蛇が鎌首を上げるような突きが妖姫の心臓をえぐった。間違いなく、白い布の奥の奥にある心臓目がけて仁王は一直線に進んでいったのだ。

 肉の感触、骨の感触、そして内臓の感触を通り過ぎて乾いた音をたてたのはゼムリアの木刀。木と木のぶつかる乾いた音が腕を通して体内に伝わる、慣れ親しんだそれが何よりの福音に聞こえてならない。

 まぎれもなく、妖姫の心臓を貫いた。

 会心の一刀だと胸を張って言える結果に興奮を隠せないまま、切っ先を初めて目で見ると、間違いなく妖姫の心臓を斜め下から貫いている。こんな事が俺にできるのか、できたのか。

 カズィクル・ベイに始まって、劉輝大将軍、そして妖姫。

 この三人相手に大金星、出来すぎどころか妄想か術をかけられているとしか思えないが、それで手を緩める程に呑気じゃない。このまま一気に念を込めて、心臓を劉貴のように封印してやる。

 その考えその物が呑気だと教えたのは、静かに仁王に添えられた白い腕だった。

「な……」

 驚いたせいで、一呼吸遅れた。気づけば頬に白い繊手は蛇の舌のようににじり寄って、俺の耳たぶを弄んでいる。

「光が消えたのう……さては、得物が揃っておらんと出来ないと見える」

 背筋が凍った。心臓を貫かれているはずの妖姫は、それを全く感じさせない平然とした声色で俺の耳を弄っている。

 心臓を木で貫かれていても問題ないってのか!? これで滅ぼせるとは思っちゃいないが、ダメージさえ感じさせないだと!? ふざけるな!

「いい顔になったのぅ」

 頭上から声が振ってくる。引きずられるように見上げた俺は、すぐ目の前で嘲笑を浮かべる古今東西で最も美しい女を見てしまった。

「るぅああああっ!」

 無意識レベルの条件反射で聖念を心臓に送り込むが、それでも妖姫の顔色さえ変える事は出来ない。それどころか、俺の醜態がおかしくてたまらないと高笑いまでしやがる。高らかに響く声に曇りが一点もない事が、彼女には全く何一つとて痛手がない事を突きつけてくる。

「ほほほ、健気な事じゃがそろそろ飽きたぞ、修行者よ。次の芸はないのか? なければそろそろお終いぞ」

 俺は“知識”の中で、戸山住宅の吸血鬼達が妖姫に杭を打ち込んだ事を知っていた。構築した螺旋の力を込めた杭が心臓に突き刺さり、それは確かに妖姫を苦悶させている。あるいはそのまま行けば妖姫を倒せたかもしれないが、のたうつ妖姫の官能的な肉体に獣欲を抑えきれなかった一人が螺旋を崩したが為に敗れたのだ。

 だからこそ、俺は仁王を妖姫に突き立てる事に勝機を抱いたのだが……重要なのは螺旋だったのか、それとも最初から無意味だったのか!?
いや、そんな風に考えていること自体が無意味だ。今、正に俺の命は妖姫の手に握られている。

「どうやら奇跡も品切れのよう。ならば、そろそろお前の中から感じる私の香り、何が理由か確かめさせてもらおうではないか」

 頬をいらう妖姫。このシチュエーションは、世の老若男女誰から見ても垂涎の的に違いない。だが、俺にしてみれば毒蛇に舌なめずりをされているよりも万倍性質が悪い事態だ。

 万事休す、という言葉が脳裏をかすめてやけになりそうになる。それを押しとどめて打開策を探ろうにも、この状況下で何をやっても妖姫の方が一歩どころか百歩は早い。いっその事、見境なく暴れてやろうか。

 破れかぶれの考えに衝動的に従い、ぎ、と歯を食いしばる。だが、それを許さないと言うように妖姫の瞳が赤く輝いた。催眠の力を持つ吸血鬼の猫眼だ。

 頭頂のチャクラ輝かぬ俺には、それを防ぐ手段がない。精神が一瞬で呪縛されるのをどこか夢見心地で自覚した。

「ぬ……? なんじゃ、何かが私の力を引きずっている」

 目の前で、妖姫がそう言っているのが分かる。だが、それがなんなのか分からない。聞こえているが脳に染みこまない。まるで理解でいない高等な理論を聴かされているようでもあり、俺自身が寝ぼけているだけにも思える。
ぼんやりとした脳みそで、どこかおかしいなと考える。てっきり妖姫の虜にでもされるのかと思ったのだ、夜香のように。だが、彼女に対する愛欲など全く湧いてこない。身動きできない、思考は鈍る、だがそれだけだ。

 吸血鬼の若大将が抗い切れなかった魅了に逆らえるとは思えない。単純に俺を縛っているだけが正解か。

「私の力をはね除けているでもない、逃げているのでもない、受け入れている……いや、貪っている? まるで砂が水を吸うよう……いいや、むしろ餓鬼が肉を貪るようじゃ。私の力を喰らうだと? 巫山戯た輩がこやつの中には巣くっているようだの」

 それにしても、どのくらい時間が経ったのだろう。この程度の思考でも、随分と時間を費やしたんじゃないだろうか。それくらいに今の俺は鈍い。ニューロンの間を通っている電気が思考ギリギリのラインにあるんだろうな。

「これが何か、こやつは知っているのかいないのか……恐らくは否。理解してはおるまい。一体どれほど長きにわたって住み着いていたかは知らぬが、どうやら隠れきってはいたよう……面白いが、これでは埒があかぬな」

 何を言っているのか、何をやっているのかが分からず、何よりも自分自身が何をしていいのか何をしたいのかもわからない。時間がどれだけ経過しているのかもわからない。

 ただ、これではいけないというのが分かる。

 今の状況は、よくない。はっきりとそう思ったわけでもないが、なんとなくそれらしい事を感じた。

 だが、それだけだった、

 意識がゴムでできた檻に閉じ込められているような、そんな何とも言えないもどかしさに精神は暴れ回り、しかして体は指一本だて動かせやしない。感覚は狂い、いったい自分がどんな格好をしているのか、どれだけこうしているのかもわからない。外界の情報はすべて欠ける事無く入ってくるが、それを脳みそが意味として受け止める事が出来ない。

「騏鬼翁を待つのも定石、しかしあの大猩々は性根の悪辣さに加えて意外と小心者。こやつの異常さを教えてやれば、喜々として切り刻んでしまうか。それは構わぬが、危険と称してひと思いに殺しかねん」

 それではつまらぬ、ああ、つまらぬ。

 ただの言葉が、何故かローレライの唄のように蠱惑的だ。 

「ならばどうしてくれるのが一番良いのか、いいや、一番楽しいのかのう」

 にい、と妖姫は笑う。この世で最も美しい人食い猫のようだ、とその時は思った。

「劉備とかいう小娘がいたの。あれは確か、気狂いの類。“みんなが幸福になるために”と叫んで兵を挙げたという。建前ならば聞くのも飽きたが、どうやら本音ではある。だが、気が付いておらぬのか。今攻め込んでいる董卓の元には、善政に口元を綻ばす者ばかり。即ち、劉備自身こそが世を乱す暴虐の化身。例え知らずにいたとしても、人を救う為に人を殺す矛盾をどう飲み込んでいるのやら。目をそらす卑怯者か? 気が付きもしない愚か者か? それとも、私の知らぬ答えを持っているのか。それを問うのも面白い」

 妖姫は、指を一本立てた。

「曹操という小娘もいる。大陸と民の為には己が国の頂点に立つ事が天命、覇道と称して憚らずに知と力で国を奪って見せると放言していると言う。己を差し置いて宮廷の中心に立った董某を認められずに、袁紹という小娘の挙兵に乗じて足を引いて成り代わろうと企んでいる。その様で民の為とは、何という恥知らず。その様で覇道とは、何という柔弱。だが、それでも己の道を信じる滑稽さは一見の価値くらいはあろう」

 妖姫は立てた指を更に増やした。

「そして、その董卓。世の為人の為と善政を敷きながら、魔王と囃し立てられる哀れな道化者。国家安寧を確かに行っていながらも、欲に溺れた愚か者にこぞって集られる姿は蟻と砂糖のようじゃ。餌として食いつかれ、あるいは魔王は正にこれから生まれるやも知れぬ。ほほ、あれが私の気を引くだけの男ぶりがあれば、抱いてやってもよかったが……あのような小娘ではその気にもならぬ。しかし、魔王への背中を押すだけならばやぶさかでもない。国を血の鍋に放り込んだ魔王、善政を行った能吏を悪鬼非道の魔王に貶めたのは、仁の道を叫び、民の為の覇道を叫ぶ小娘共。漢が滅んだ後、そう伝えられるのも一興ぞ」

 最後に三本目の指を立て、妖姫は俺の髪を漉いた。

「しかし、それは時間がかかる。私にとって、この程度の娯楽は時間をかけてまで愉しみたくはない。このような国には長居もしたくはない。わかるか、修行者よ。私はもっと栄えて、もっと平和で、もっと幸福な国に行きたいのよ。正に繁栄の絶頂にある王朝を滅ぼしたいのじゃ。最も惨めに、最も残酷に、そして何より最も滑稽に滅ぼしてしまいたいのじゃ。元より滅び、益荒男の一人もおらぬこの国に、長居するほどの魅力は感じぬ」

 この上なく美しい。だがそれ以上に恐ろしくおぞましい。呆けた頭で理解出来る、そんな笑顔が視界を被う。

「故に、今宵の内に全て滅ぼそう。この漢という王朝に、ここでトドメを刺そうではないか。元も滑稽で、最も無様に、この詰まらぬ国にせいぜい愉快な末路を辿ってもらおう。これから始まる、新たな旅を行く私の無聊を少しでも慰める為に」

 謡うような声が、耳を素通りしていく。それが幸いなのだと言う事さえ、この時の俺には全く分からなかったのだ。





 渡水複渡水

 
 看花還看花


 春風江上路


 不覚到君家




 何かが聞こえてくる。それがなんなのかはわからないが、どうしようもなく嫌な気分になった。

 何かが目の前に迫っている。あるいは、何かが背後で牙をむいている。明文化はできなかったが、そんな危機感を覚えた。

 これはなんだろうか。心地よさをくれるはずの波のようなものが震えているのに、どういうわけでだかここにいたくない、このままではいられないと走り出したくなる。

 何も考えられないわけではなく、しかし考えをまとめる事が出来ない。

 状況に加えて、そのせいで駆けまわったり叫びだしたり、とにかく何かをしたくてたまらない。だけれど、何をしていいのかが分からず何もする事が出来ない。

「これは……姫、座興が過ぎませぬかな。御身にそのような傷をつけたまま放置するなど」 

「遅かったの、騏鬼翁。そのくせ、この私に繰り言か?」

「申し訳ございませぬ。手間取りはしませんでしたが、なにぶんあちこちに散らばっておりましてな」

 どこからか、新しい声がした。呆けた顔のままそちらを見ると、白い髭が胸に付くほどに長く見える杖をついた老人がいた。皺と眉に埋もれそうな瞳の奥は明晰な知性の光が瞬いており、絵に描いたような仙人に見える。

 誰だったろうか、ひどく剣呑で不愉快な印象を受ける。だが、それだけで話は終わりだった。そいつが俺の顔を覗き込んで、どんな笑顔を向けようとも心が動かない。

「所詮はたかだか一介の武芸者気取りか。存外簡単に地を舐めたようで」

「そうだの。お前や秀蘭の背に土をつけた男とは思えなかった。随分とあっさり落ちたもの」

 ほほほ、と軽やかに笑う妖姫が誰を笑っているのかはわからないが、侮蔑も顕わに俺を見ていた爺さんが、凄まじい光を篭めた瞳を俺に向ける。最も、俺には何ら痛痒を感じさせることはなかった。

「それよりも騏鬼翁、私をこれ以上待たせるつもりか? 早く獲物を持ってくるがよい」

「仰せのままに」 

 恭しく、元々ひん曲がっている背骨をさらに尺取り虫さながらにへし曲げた老人が、手に持った杖で無造作に大地を叩くや、その場から何かがこんこんとわき出した。まるで昔話の泉を湧かせた仙人のようであり、成る程容姿とピタリではある。

 だが、俺の鼻腔は生臭い鉄の匂いを受け止めた。

 元よりそこら中に乱立している血の臭いだったが、それが急に臭気を増したのだ。理由は言うまでもない。老人のついた杖の先から湧き出たのは、渇きにあえぐ旅人の喉を潤した水ではない。

 吸血鬼の甘露、即ち人血だ。

 人血の泉は瞬く間に俺の目前にまで迫ってくる。濃厚な血の香りが鼻腔を直撃した。不快だった。元々そこら中に散乱していたバラバラ死体まがいの吸血鬼たちが即席の血の池に沈み込み、実にわかりやすい地獄絵図を描いている。

「ほう、秀蘭に噛まれていても血は好まぬか」

 女はにんまりと厭らしく笑った。

「時に騏鬼翁よ、こやつの中に何かいるのが分かるか」

「ほう」

 老人が俺を見詰める。眼差しに先ほどまでの侮蔑も憤怒もない。興味深げな、しかしまだ醒めた眼差しが注がれる。

「言われてみれば、確かに。しかし、別に珍しい話でもありますまい」

「知恵は回るが鼻は鈍いか、騏鬼翁」

 白い指が、俺を指し示す。

「この男……いや、この男の中に住まう何かは私の力を喰ったぞ」

「何ですと!?」

 それは、この怪異な老人にして驚嘆の事実のようだ。

「私の力をはね返すのも躱すのも等しく至難。だが、受け止めたものはおらず取り込んだものなど皆無。さて、こいつの中にいるのは何者だ? ふふ、つまらない国で初めて見つけた娯楽かもしれぬ。せいぜい楽しませてもらおうではないか」

 笑っている。本当に楽しそうだ。

「さて、それでは私の獲物は見せてやった。お前の獲物はどこにいる?」

「こちらに」

 もう一つ女の声が増えた。

 それが誰なのかを確認する間もなく、目の前に広がる血の池地獄が幾つもの瘤が間欠泉のように盛りあがった。それが何であるのかを鈍った脳みそで認識するよりも早く、正体は判明した。

 どさり、と盛り上がった血塊の分だけ柔らかい肉の潰れる音がした。

 悉く、何処かで見たような気がする女達だった。ただ、どこの誰だったのかまでは思い出せない。頭の中で繋がらない。数だけはやけに多いが、どうやら深い繋がりのある相手じゃなさそうだ、と漠然とした感想を胸に抱いた。

 全員意識を失っているようで、身動き一つしていない。まるで適当に放り出された売り物にならない魚のようだ。

「ふむ、数はまあまあといったところか」

「質までは保証しかねますがの。曹操、とか言いましたか。こやつらはどうも女同士でまぐわい乳繰りあう輩が多いらしく、純潔とは言い難い。血まで濁っておらねばよいのですが」

 騏鬼翁が笑ったのは、金色でぐるぐる回った髪をした殊更に小さい娘を中心とした一団だった。

「その時は、そこらに転がっている有象無象の餌にでもしてやればよかろう。確かに見るからに貧相で量も少なそうな輩、適当に大地に吸わせてもよい」

 それきり目もくれず、他の一団に目をやる。

「どれもこれも、若さに支えられた命だけは豊か。しかし、それだけの有象無象。味を愉しむよりも起こして遊ぶか」

 つまらなそうに、一人の女の髪を掴んで持ち上げた。う、と声を上げたので生きているのだろう。

 その女は、先に妖姫たちが名前を挙げた曹操とは何もかもが対照的だった。冗談のようにひん曲がった螺旋型の髪とは対照的な真っ直ぐな髪。

 貧しいボディラインとは対照的に豊満な肢体、共通しているのは気が強そうだという点だけだが、それも傲慢か傲然かと若干方向性が違う。


 そういえば、俺に真名を預けたかどうかも違うか。

「さて、それでも喉しめしはいる。下賤の血よりましとは言っても、どれもこれもよき糧、よき味とは思えぬのが残念なところよ」

 真っ白い喉が顕わになっていた。何をしようとしているのだろう。でも、なんだかまずい事が起こりそうだと思う。

 と、妖姫が動きを止めた。

「さすがに邪魔よの」

 その手が、胸元を刺し貫いたままの木刀にかかる。彼女は痛みを感じている様子も見せずに無造作に引き抜いて、ぽい、と転がした。

 乾いた音をたてて、それは目の前に転がってくる。

「剣士よ、出来るならば得物をつかみ取り今一度挑んでくるとよい。そのつもりがあるのなら、その気概があるのであれば、の」

「姫の目に縛られては到底叶いますまい」

 嘲笑をよそに、俺の目は転がってきた木刀に向けられていた。ころん、ころんと軽い音をたてるそれに妖魔悪鬼を打ち倒す力が秘められているとは、持ち主である俺でさえ信じられないような話だ。

「寝たままでは、面白くもない。そろそろ目を覚ますがよいわ」

 俺から興味を無くした妖姫が、意識をなくしている孫策に命じる。それだけで、彼女はまるで最初から起きていたようにぱちりと瞼を挙げて大きな瞳を覗かせた。

「え……?」

 目の前の妖姫に焦点があった途端に顔が赤くなる。情欲に染まった赤色だった。息は荒げ、手はいつの間にか豊かすぎる胸元を揉みしだいている。今が何処で、相手が誰だか分からずとも発情しているのは明白だった。妖姫の美貌は芸術品のそれとは違う。男は元より、女でさえも淫らがましい肉欲をかき立てられずにはいられないのだ。

「ふふ、まず何よりも私に劣情を抱くか? 浅ましい、何とも浅ましい雌よ」

「真に。この女でそれならば、向こうの小娘共は畜生のごとき姿を憚らずに天下に曝すでしょう」

 それこそ下劣な笑い声で空気を振わせる騏鬼翁、その背をぼんやりと見ながら俺は木刀を握った。

 それは何かを考えての行動ではない。

 猫の子が目の前で振られる紐に飛びかかるような、反射的な振る舞いに過ぎない。だが、その効果は絶大だった。

 妖姫という邪悪の極みとも言える大吸血鬼の心臓に突き刺さりながらもなお穢される事ない清浄なる聖念は、改めて俺を高みへと引き上げてその呪縛を見事に消し飛ばしてくれたのだ。

「何?」

「馬鹿な!?」

 ささやかなケアレスミスを見つけた学生程度に眉をひそめた妖姫と、驚きに皺だらけの顔を強ばらせた騏鬼翁がいやに対象的だったが、構わずに飛び出して左右の太刀を振り回す。

 散々訳の分からないおつむにしてくれやがって!

 羞恥心と怒りが胸にたぎる。頭が働いているんだかいないんだかよく分からない状態だったが、それは全て記憶に残っていたのだ。

「喝っ!」

 それぞれをそれぞれの敵手に振るい、あっさりと躱される。だがそれでも隙を作って雪蓮の襟を口で噛んで、猫の子のように救出する事には成功した。かなりみっともない声がしたが、まあこの際棚上げだろう。

 そのまま二転三転して、孫家一同が積み重なっている場所までどうにかこうにか後退する。俺自身も、そして今は足の間で恨みがましく睨んでくる雪蓮も全身が血に塗れた凄絶な姿だが……そんな事を今さら気にする余裕はない。何よりも、真っ赤で粘ついた液体は悉くがあっと言う間に消え去った。  

 身に纏わり付くそれが内在する力こそが仇となり、聖念は陽光を前にする霜のように血を消し去る。同時に、聖念に刺激されたのかあるいは血が消えたおかげなのか、次々と女達は呻き声を上げて立ち上がる。

「え……」

「どこよ、ここ。なんで洛陽の宮殿にいた私達が表にいるのよ!?」

 孫家の側にいた董卓、賈駆、華雄、呂布、陳宮、張遼がゆっくりと起き上がる。それぞれふらついていたが問題はなさそうだ。ただ、攫われた事で状況の把握が出来ずに混乱している。

「く……」 
「なんと、もしやここは汜水関か?」

 公孫賛と趙雲がふらふらしながら立ち上がる。確か撤退したはずだが、騏鬼翁か秀蘭か、こいつらの手は長い上に早いと来ている。

「これが雪蓮の言っていた怪異か……見ると聞くとは大違いだな。あっさりと捕まってしまうとは情けない」

「武官の儂らに対する皮肉か? まあ、二度も引っ掛かった策殿ほどではあるまいな」

 冥琳、祭、孫堅、甘寧、周泰、孫家の面々がそれぞれのたのたと起き上がる。

「華琳様!?  ご無事ですか! ええい、あの訳のわからん汚らわしい腕がもう一度現われるとは!?」

「う……何が起こったのかしら」

 曹操の配下もそれぞれに立ち上がり始める。曹操当人に夏候惇、夏候淵だったか? それに倒れたまんまの猫耳。他にも知らないのが随分いる。ざっと見て、子供じみたのが一人にトリオみたいなのが頭を抑えている。あれは、先ほど俺を睨み付けていた連中じゃないか?

「た、たたた! 何だよ、この頭痛!」

「わかんないよ、姉様。と言うか、静かにしてよ~……たんぽぽも頭痛い」

 二日酔いのおっさんじみた呑気で場違いなセリフを言っているのは、トンブ越しの映像のみで知っている馬超とよく似たもう少し幼い妹らしい少女だ。

「ぐ、く……動けん……」

「あ、頭が痛いのだ~」

 関羽、張飛、劉備、そして天の御遣いと子供が二人。彼らは揃いも揃って立ち上がれないでいる。どうやら武将二人は俺の与えたダメージのせいで、残りは純粋なひ弱さのおかげで立つ事もできないらしい。

 ったく、なんでこんなにいるんだよ。他はともかく孫家の面々が何でここにいる。ゼムリアやドクトルの守りを抜けてきたってのか?

「ひいぃっ!?」

「わっ!? は、離せよ、こんにゃろ!」

 悲鳴が聞こえてきた。

 見れば、輪から外れる形になっている袁紹達の背後から何者かが襲い掛かっている。後ろ手に取り押さえられて、あっさりと捕縛されていた。四人もいて何をやっているんだと言いたいが、特に情けなく見えるのは袁紹だ。

 彼女をそのまま小さくしたような子供に、馬上で力任せに取り押さえられているのである。どっかの張飛のような例もあるのでうかつな事は言えないのかも知れないが、正直絵面はみっともないものだった。

「え? み、美羽さん!?  あ、あなたはここに来て初めて顔を見せたかと思えば一体どういう言うつもりなんですの!?  ええい、お話しなさい!」

「そっちは汝南の腰巾着じゃないか! んなろ、いい度胸だ!」

 黒い髪の腰巾着と呼ばれたどこか胡散臭い雰囲気を漂わせた女は、両手で一人ずつ袁紹の側近を押さえ込んでいた。見るからに気の短そうな大きな剣を持っている方の女が力任せにそれをふりほどこうとしているが、びくともしない事に面食らっている。

「は? そ、そんな馬鹿な……あたしが力でこんな奴に」

「すこぉし、黙っていましょうね~……私は今、あなた達なんかに構っている暇はないんです。何よりも潰さなけりゃならない相手はそこにいるんで」

 視線が何処を向いているのかは言うまでもない。なるほど、あれが雪蓮の言う張勲とか言う最初の餌食か。こっちを殺したくてたまらないという顔で睨んでいやがる。

 吸血鬼が元に戻ったら、その時の記憶と想いがどうなるのか……そう言えば、知らなかったな。後々首をつりたくなるような事をしていなければいいけどな。

「見逃してやるから引っこんでろ」

 適当に言って放っておく。油断と言えばそれまでだが、目の前の格上を相手に余所に気を割いている余裕はない。ここで隙を突かれたら、その時はその時としか言えない。

「馬鹿にして……っ!」

「黙れ」

 そう言ったのは、俺ではなかった。

 満座の注目を集めたのは言わずもがな、妖姫である。彼女は周囲をただ見回した。つまらなさそうに、石か虫けらでも見るような目で辺りを見回して、そう言った。

 それだけで、世界が変わった。

 空気が変わり、風が変わり、そして女達と天の御遣いは悉くが妖姫に平伏した。例も形式も糞もなく、それぞれがその場で平伏したのだ。

 傲慢で尊大な曹操も、意識が明確ではないはずの劉備も、それぞれに仕える将達も、皆がまとめて妖姫の命に従い口を閉ざし、そして平伏した。馬も硬直し、その背中にいた面々は転げるように下馬している。

 妖姫が何かを意図したとは思えない、ただそこらでざわめく騒々しい女達が耳障りな声でがなるから、それを黙れと言っただけだろう。だが、誰もが石となった。それは元より仕える存在である騏鬼翁、そして吸血鬼達は元より武将達も誰一人として例外ではない。
決して美貌の力ではない。彼女らは妖姫をまだ見ていなかった。

 それでも何処の誰だか知らない一人の女が発した命令に、彼女達は従った。条件反射ではなく、ただそうなるべくしてなった、そう見えた。

 誰かが歯を食いしばる。曹操だ。跪いたところで意識が完全に戻ったのだろう、屈辱に身を焼いている般若のご面相だ。いったい何をどうやって育てばここまで、と言いたくなるような傲慢さを隠しもせずに表に出している小娘だ。今の心境は想像力が雀の涙ほどあれば察しはつく。

「修行者よ、随分と悪運が強いな」

「あんたらに出会っているんだ。むしろ稀に見る不幸だろ」

「ぬかしよる」

 自分に軽口をきく者がいるのが面白い、そんな顔だ。一見すると器が大きそうだが、ただの気まぐれでいつでも高慢さは顔を出すだろう。猫よりも、山の天気よりも気まぐれだ。

 さておき、言っている事は間違いじゃない。完全にただの偶然で正気を取り戻しただけだが、別にそれを恥じるつもりはない。偶然死ぬのも偶然生き残るのも、ありふれた話だ。

「っ!」

 誰かが息を呑む音が聞こえた。

 続いて、人数分から俺と騏鬼翁、雪蓮を除いた数だけ同じ音が聞こえてきた。見れば、誰も彼もが顔を上げて妖姫のかんばせを目にして硬直している。

 誰もが呆けて目を見開き、ある者は頬を桃色に染め上げて瞳は欲情に濁りきり、またある者は開きっぱなしの口から涎を垂れ流して浅ましく胸や股ぐらを弄くっている。醜い、浅ましい、無様。

 そんな言葉の見本市になっているが、姫本人はよくある事なのだろう気にもとめていない。呪いと呼ぶ事さえ烏滸がましい自分の官能的な魅力を充分に理解して、それを利用する事が楽しくて仕方がないのだ。

 聞いた話では曹操の下にいるのは本人を筆頭にして同性愛者が多いそうだが、そうでなくとも妖姫に欲情の眼差しを向けている。宗旨替えなど意識するまでも無いと言った風情だ。

 その場にいるだけで、空気に色がつき粘りが生じるような女だ、それもまた宜なるかな。影響が一番顕著だったのが、曹操とその一派、特に猫耳だ。口に出すのも恥ずかしいような無様で淫猥な振る舞いを、その幼い肢体で行っている。幼児の自慰狂いを見ているようで、いい加減に存在自体が人類の汚点に見える。

 確かあの猫耳、男の事を色の事しか考えていないだとかいう方向性で散々ののしっていたと思うが、もしかしなくても全部自分の事なのか? 少なくとも今現在、盛大にブーメランしている事は間違いないな。

 もう一人は天の御使いだった。

 彼は無様に股座をおったてて、発情期の獣そのものの顔で息を荒げ、涎を垂れ流して彼女を食い入るように見上げていた。狂犬病の犬を思い出すと一番わかりやすいだろうな。

 これは俺の勝手な想像、つまりは当てずっぽうだが、あいつは最近……こっちに来てから女を知ったんじゃないだろうか。劉備か、関羽か、それとも……まさか、張飛や孔明はないと思いたいところだが、ひょとしたら複数と言う事もありうるだろう。

 ともかく、そういう女を知ったばかりの盛り具合を連想させるのだ。そう言えば、きっちり天の御使いを名乗ったりと悪い方向だが一応一皮むけてはいるし、もしかしてそういうきっかけがあったのかもしれん。

 なんにせよ、俺にしてもそう昔の話じゃないので見ていて居た堪れない気分にさせてくれる上に、明らかに俺よりも盛り具合が上だ。

 武道に生きて、精神統一まできっちりと学んでいるからという違いだとはいまいち思えない。むしろ、あの野郎が女にかしずかれるような感じでご主人様呼ばわりされながらベタベタして、性交へのはまり具合がみっともない程に上だからだろう。

 言わずもがな、根拠など全くない僻みだ。初体験からこっち、相手との間に恋愛感情などないと言い切れる身の僻みである。

 それにしても、総じて見苦しいと言い切れるほどに無様だ。日ごろの大言壮語、あるいは綺麗ごとが声高すぎただけに受ける印象が顕著である。これが“歌舞伎町”のストリップショーで前列かぶりつきになっている学生だったらここまでの嫌悪を感じないだろう。

 と言うか、天の御使いを筆頭にこいつら誘惑に弱すぎないか? 克己って言葉をどこにやったのか、それこそ“新宿”の裏通りにたむろしているチンピラ並みだ。人目もはばからずに女を前にして下半身をあいさつ代わりでむき出しにするような連中と似た者同士とは、これで天下国家を豪語し救世を叫び、武人の誇り、識者の知恵を謳った連中かよ。

「つまらぬの」

 同じような事を俺以外にも感じた奴がいた。

 他でもない、妖姫だ。

 彼女は、よき王を暴君にする事を楽しむ。だが、ここに克己を持つ者は一人もいない。誰も彼もが風にあおられた蓑虫よりもあっさりと性の奈落に落ちている。遊び甲斐もないという彼女の傲慢な不満にうなずけなくもなかった。

「よもや、私が何をするまでもなくこうまであっさりと堕落の道を辿るとはさすがに想像もしなかった。まさか私がこれほど見事に出し抜かれるとはのう」

 凍るように冷たい眼差しは物理的な冷気さえも発して、視線を向けられた連中の吐息は白く濁りどれほど興奮して息を荒げているのかを如実に示す。 

 肌も青ざめてさえいるのに、彼らの興奮は消えず一種異様な雰囲気を醸し出している。それこそ幽鬼のようだ。

「時に騏鬼翁、秀蘭はどうしている?」

「既に姫の命は成し遂げましたので、今は劉貴を取り戻す為にかの剣士と魔道士に挑んでおります。なかなかに奮戦しておりますようで」

 なるほど、それでこうなったのか。あの二人を相手に一人で食い下がるとは凄いとは思うが、恋の力と素直に言うには甘さがきつすぎて腐臭となっていると感じる。

「そちらの方が見応えがありそうだ。そなたも加わり、盛り上げてくるがよい。確か二人とは因縁があったろう。随分と逃げ回っていた姿は面白かったぞ」

「姫、それは」

 屈辱に灼かれた騏鬼翁の顔が殊更に見たくも無いような恐ろしげなそれに変わる。

 咄嗟に伏しているが、もちろんそれで誤魔化せる相手ではない。ただ、それを愉しまれている事はあの爺ももちろんわかっているだろう。

「へえ、姑息な裏方が洛陽で虎をよこしてからこっち、なんだって手を出してこないのかと思ったが……あの二人に追っかけ回されて泣きながら逃げ回っていたって事か。夏の大妖科学者も形無しだな」

 ざまぁみろ、と自分で出来るかぎりにくったらしそうな顔を意識して作ると、騏鬼翁が伏せていた顔を勢いよく上げて、主にぶつけたい分までの憎しみを目一杯篭めて睨み付けてくる。いい気味だ、ついでにその勢いのせいで骨がおかしくなればもっといい気味だったのにな。

「図に乗るな、小僧! 借り物の力で粋がりよって、確かに凄まじき力だが、それがお前ごときで辿り着いた領域とは口が裂けても言わせんぞ」

「そんなこた、俺が一番承知しているさ。それよりも、今の俺は少なくともあんたにとっては脅威なんだな、性悪の大猩々」

「小僧がほざきよるわ」 
 老人が手にしている杖から奇妙な力を感じた。劉貴大将軍の秘技、魔気功の師匠は騏鬼翁だという。油断はできないが、その劉輝大将軍に、俺は確かに勝ったのだ。何を恐れる事があろうか。油断ではない、胸を張るべき時と自負が生まれる。
 姫にこそ通じなかったが、この頭頂のチャクラによる浄化された念の力で俺は無力ではなくなったのだから。

 一歩も退かないと決意を胸に静かに立ち上がる俺と騏鬼翁、二人の間に割り込んだのはそれが許されるたった一人だった。

「騏鬼翁よ、私は命じたぞ」

 姫の声は静かだが、騏鬼翁はその場に平伏した。俺の事など忘れ去ったようだが、当たり前と言えば当たり前だろう。彼女は主なのだから。

「行け、疾く早く」

「ははあっ!」

 そのまま言い訳の一つも許されず命に従うだけかと思われたが、思い直したように姫は更に命令を追加した。

「待て、その前に一つ付け加える」

「なんなりと」

 この隙に切りつけてやりたかったが、それを許されるような隙がなかった。ち、と舌打ちをしながらもやりとりに厭な予感という奴を感じた俺は、孫家と董家の連中を念で覆い隠すように囲んだ。ついでに、公孫賛と趙雲も近くにいたので枠に入れると、中の連中に聖念を使って喝を入れる。

「大概に色ぼけ頭を冷やしやがれ、てめぇら!」

 背中越しに、敢えて見ないように叫ぶと一同がようやく正気に戻る。後ろで何をしているのかまでは知らないし、殊更に知ろうとも思わないがかなり無様におたついている事だけは漏れ聞こえる悲鳴じみた怒声で察せられる。

 どうやら、正気を失って脳みそを蜜に漬け込まれていた時に事はそれなりに覚えているらしい。まあ、女として最悪の醜態だわな。もっとも、そんな事をいちいち気にしていられるような悠長な場合でもないし、こいつら普段から露出が激しすぎるんだから世間一般のまっとうな女性よりもよっぽどダメージは少ないだろう。

「騒いでいる暇があったらしゃんとしろ! どこにいるのか分かっているのか!」

 じれったさに声を荒げて前を見る。複数の様々な感情を込めた視線を向けてこられるが、ことごとくがマイナス方面だと言っておく。けっ。
 ちなみに、周囲の連中は俺の念壁の向こう側でいまだに盛っている。どうにか身形を整えた一同は冷えた頭でそこらを見回して顔を赤くする。自分自身の醜態を客観的に見ているのだから当然かもしれないが少しは時と場合をわきまえてほしいものだ。

 いらだちを腹の中で押しつぶしていると、面白そうに俺達を見ていた妖姫が改めて騏鬼翁に命じていた。彼女は意味ありげな視線を俺に一瞬だけくれると、特にどうと言う事も無い様子で命令を下した。

「こやつらの痴態を、全ての兵士に知らしめよ」

「はっ」

 騏鬼翁は破廉恥な命令にあっさりと頷いた。術士としての矜持がどれほどあるのか知らないが、こんなみっともない命令を即座に飲み込める当たり、姫への忠義は強いらしい。

「空にでも、大きく映してやるとよいわ。この浅ましく滑稽な有様を、こやつらを頭に頂く愚民共に拝ませてやるがよかろう。美しく、雄々しく大言壮語を繰り返していた口から劣情の喘ぎがこぼれ落ちる姿を兵士達の前に見せつけてやるがよかろう。こやつらの為に命を賭けている兵士にとっては、随分とささやかな報酬だがのぉ」

「真に、左様かと」

 どうしようもなくくだらない真似だが、同時にこいつらにとっては確かに致命的だろう。女としても公人としても、醜聞の極みだ。ついでに音声も入っていれば、これ以上はないお終いだ。さっきから、男の俺でも口にするのも憚られるような淫らがましいセリフを途絶える事なく口にしているからな。特に腐っているのが猫耳筆頭に曹操軍の連中だ。

「しからば」

 ぶん、と杖を振るう。それだけで事は済んだのか、騏鬼翁は自分の影の中に足下からずぶずぶと底なし沼に沈み込むように消えていく。

「いいいあっ!」

 その隙を狙い、行きがけの駄賃とばかりに一太刀真っ向唐竹割りをお見舞いするが一手遅かった。  

「ち……」

 舌打ちをすると同時に、遙か彼方からどよめきが聞こえてくる。

「あれ……私達が、空にいる?」

「あは……映っているの? お空に私達が映っているの?」

「あは、あははは、見られているんだ。見てるんだ、皆。皆、皆見られているんだ、うふふふふふ。皆が私達を見ているんだ。こんな事をしているの、見られているんだ」

 騏鬼翁は姫の命を完璧にこなした。

 天空をスクリーンにしてポルノ映像が大盤振る舞いされている。声のおまけもついて、実況生中継だ。映像は嫌になるほど鮮明で、一人一人の顔が夜空であるにも関わらず見分けがつくほどにハッキリとしている。あそこで光っているのは俺か、こうやって客観的に自分を見るのはどうにも落ち着かないが、男なんぞ背景にもならない。気にされていないならいいだろう。

 ああ、その中で妖姫が映っていないのは幸いか。映す対象が武将たちだから、彼女らとは距離がある妖姫は微妙にフレームからはみ出ているのだ。もしも妖姫が移っていれば、それだけで人事不省が兵数分だけ出来上がる事だろう。

「あははは、あははは。映っているんだ。私の浅ましい姿が、こんな姿が全土に知れ渡っているのかしら? あははは、あはははは!」

 曹操が涎を垂れ流して、淫売と言うよりも狂人の風体でけたたましい声を上げる。醜態をさらし、それでもなお己を慰める手を止められないどころかむしろ興奮の材料にしている。それは猫耳、夏候淵や劉備、関羽、袁紹達も同じだった。

「こんなのじゃ、覇道なんて無理、無理、無理。治世の能臣、乱世の奸雄? どっちも外れよ。今の私はただの淫売よ!」

「ふふ、うふふふ。曹操さんでもそうなるんですかぁ? じゃあ、私も同じになってもしょうがないですよね。ああ、そうだ。皆でこうなれば、きっと幸せで平和ですねぇ、あははは、これが理想の世界なんだぁ」 

 どこかから、絶望の声が聞こえた。

 どこかから、怒りの声がした。どちらも兵士達の声だった。彼ら彼女らに理想と希望を見出していた連中が失望と嘆きを燃料に精一杯叫んでいるのか。

 だが、聞こえているにも関わらずこいつらは怨嗟の声を興奮材料にしていやがる。

 どいつもこいつも、同じような事を口にして自分の目標も尊厳も地べたに叩きつけて泥塗れにする事に快楽を見出している。だが、根底にあるのは妖姫に対する欲情だ。その証拠に、片時たりとも妖姫から目を離していない。離せないのか、離す気が持てないのか。

 情けないと吐き捨てた。いかに相手が文字通りの傾国と言っても、彼女は何もせずにただ突っ立っているだけだ。吸血鬼の猫眼どころか媚態の一つも見せてはいない。なのに、この様か。本当に、何もせずに立っているだけの相手にこの様なのか。

「これでよくもあれだけ大きな事を言えたものだ」

 元々彼女らの主義主張に思い入れがあった訳でもないのでささやかな軽蔑で済んだ俺は、彼方で聞こえる怨嗟の声を発している諸々の兵士達に比べれば幸福だろう。

 彼らの怒り、裏切られた痛みは頂点に達しようとしている。ピークが来たときに起こるのが何なのかは想像力がない者でも分かりきっている話だ。そんなものに巻き込まれる前に、決着をつけなければならない。

 その意思を篭めて妖姫を見据えると、彼女もまた俺を見ていた。

 周囲に浅ましい欲に身を任せてやまない女達を控えさせていながらも、彼女の美しさは霞む事はない。それどころか、周囲の醜い連中さえも自分の美しさを更に際立たせる材料にして輝いている。

 それを前にして、俺はあくまでも平静を貫いていた。精神は凪のように静かだ。

「ふふ」

 彼女はいらうように笑い、おもむろに指を一本立てて胸元から一気に服を切り裂いた。理想的な裁断がなされたかのようで、まるで最初からそういう造りであったかのように彼女の衣裳は大胆に左右に分かれる。下から現われたのは、これ以上にないと断言するしかないこの世でもあの世でも比類ない、今後も決して現れる事がないと言い切れる最も美しい裸体だった。

 この世で最も素晴らしい出来のパーツが最上の黄金比で組み合わさって、それぞれを高めあっているとでも言えば、その素晴らしさの百万分の一でも表現できるかもしれない。彼女よりも細い女はみすぼらしいだけであり、彼女よりも肉付きのいい女はしまりがないだけである。全てにおいて最良の値を示しているのが妖姫だった。だというのに、芸術品に例えるつもりには決してなれない、他の何物にも例えがたい生々しい肉感があった。

 その上で肌は白蛇の鱗のように白く、髪は最も深い闇を切り取ったようであり、唇はそれこそ血のように赤い。

 なまめかしく秘所と乳房を隠す手足のなまめかしさは、もはや筆舌に尽くしがたい。周囲で盛っている猿どもは発情するどころかオーバーフローに凍りつき、肉片の有様になっている吸血鬼でさえ、怨嗟を止めて固まっている。 

 見よ、大地に転がる引きちぎれた顔面を。目玉一つになろうとも、その眼には劣情の色が表われ、口だけになろうとも恍惚の笑みを浮かべている。この世の知性ある存在の持つ劣情を全てさらけ出させる女がそこにいた。

「見えるか、剣士。私の肉体が。これが三つの王朝を滅ぼしつくした女ぞ。繁栄の限りを極めた王国を支配する王が悉く私の足元に縋り付き、抱いてくれと血涙を流した」

「…………」

 何も言えない。沈黙を選ぶしかない。

 俺の背後にいる全員の視界を二刀で遮り、彼女らを守りながら思念を精一杯に高める。チャクラは俺の要求に応えて宇宙よりエネルギーを取り込み、昇華させて全身に巡らせてくれる。

 だがそうやって高次に、神の領域にまで達しているかも知れない精神をもってしても耐えるだけが精一杯であった。能面のように無表情な自分が立っているのが空の上に見えるのがどこか滑稽に思える。

 そんな俺を見詰め、ふわりと羽のような動きで飛び上がった彼女は自分が滅ぼしたミュータントの屍の上に座り込む。飛び上がる姿は躍動感とは無縁であり、優雅さのみが感じられた。

 膝を組むその姿は一個の絵画のようでありつつも、芸術には決して出せない官能の風を嵐のように吹き上げてそこら中を見境なしに巻き込んでいく。

 いつからだろうか、怨嗟の叫びも嘆きの涙もすべて止まり、静寂が周囲を支配していた。妖姫の言葉を遮ってはならぬと世界が傅いたかのようだったし、俺はそうなんだろうと訳もなく確信を抱いた。

 全てが頭を垂れる。夏が頭を垂れて、猛暑が秋冬に変わったあの日の魔界都市のように。

 どくん、と心臓が鳴った。

「心臓が跳ねたの。だが、跳ね方が少し違う。お前の心は石のように固いままだ。私の力を吸いたがっている何かが、お前の中で動き始めたようだの」

 俺達の距離は、優に十メートル。それでも気が付くのか。吸血鬼だからか、妖姫だからか。いずれにしても心理状態を簡単に読まれている。

「ふふ、その克己は大した物だ。私の肌を見ても心が動いておらぬのはかつての王達と比べても見事。この小娘達など比較にもならぬ。内側でざわめいているものも既に身を隠そうとはしておらぬ、内外より板挟みにされてもなお耐えるのは褒めてつかわそう。しかし、決して感じておらぬ訳ではないな。今のお前はいわば、心を凍らせているようなもの。あえて“眼”を使わずに飴玉を転がすように魂を蕩かせてもよいが、時間が掛かりすぎては飽きるのも目に見えておる」

 そう言って、姫は目を閉じた。

 瞼が上がれば、即座に赤く輝いた瞳が俺を夜香のごとく捕らえるだろう。それに逆らうすべはない。このままここにいれば、俺は破滅だ。即座に振り返り後ろに並ぶ女達を惨殺するのか、あるいは姫の足元に縋り付いて無様に抱いてくれと哀願するのか。

 万事休す。

 使い古されたフレーズが、いつかどこかでそうしてきたように俺の足をつかむ。引きずられていく先は底なし沼か。

 駄目だ。

 それに引きずられてはならない。

 妖姫に対抗するように瞳を閉じて、チャクラに意識を集中する。目の前に敵がいようとも構わずに瞳を閉じる。チャクラが廻る自己の体内を、その流れに沿うように意識を駆け廻らせていく。

 最も下のチャクラから、最も上のチャクラまでが回転し、連動して力を発揮していく姿を、自分の腹の中だって言うのに客観的に見ているような気分だ。もう一人の小さな自分がいて、体内を旅している。そんな不可思議な気分になる。

 その小さな俺は、自分の肉と骨に向かって叫ぶのだ。

 まわれ、もっともっと強く、たくましく回れ。

 背骨の周りに蔦のように張り巡らされた気道、そこに咲く花のようなチャクラ。5つのそれに向かって妖姫に立ち向かえ、負けない力を絞り出せと叫んでいるのだ。

 それを支えるように、両手から力が伝わってくる。二本の木刀が俺のチャクラを全力で助けてくれているのだ。

 だから、応えろ。

「ああぁああぁあぁあああっ!」

 背骨の末端から天頂まで力が駆け抜ける。それに引きずられて声が出る。自分の口から出てきたとは思えないような、透明感のある叫びだった。

 俺の頭頂は輝きを増して周囲を照らし出す。

 俺の足に子供のように座り込んでいた雪蓮が、俺の顔を見て息を呑んだのが見えた。彼女の目には、俺はどう見えているのだろうか。正体不明の怪人だろうか、それとも仏のような救世の御手だろうか。

 彼女は俺の聖念の影響を最も側で受け、心身に影響が強く出ている。それは妖姫の支配からの脱却という形で現われた。彼女のみならず、孫家と董家のそれぞれは俺の生み出す思念の光を浴びて妖姫の魅了を受けずにいる。
 それでも妖姫は絶対の自信を持ってこちらを笑っている。彼女が信じているのは何だろうか。自分の力か、自分の美か。何も信じておらず、ただ奔放に振る舞っているだけなのかも知れない。その方が、それらしいような気がした。

「む……」

 妖姫が不快さに顔をしかめる。それが何故なのかは俺にも分かっていた。同じものに気が付いたからだ。

 突如ごう、と風が吹いた。

 突風は俺達の上を通り過ぎたようだったが、それだけでは済まなかった。

 妖姫がすっぽりと影に被われる。大岩が彼女を襲ったのだ。崖などない以上は人災でしかない。投石、とはどこの時代でも定法として戦場で活用されていたが、こんな大岩をぶん投げるような攻撃は近代ではすっかり無意味になり廃れている。ある意味新鮮なそれは、連合側から放たれてきた。

 狙いは妖姫ではなく曹操か劉備達だろう。彼女たちに対する失望がこういう形になったのか。妖姫はただ巻き込まれただけか。

「無粋な」

 その一言で、まるで虫でも払うように振られた腕が大岩を受け止める。技量なのか、それとも純粋に力なのかはわからないが人一人分もある岩は子供用の鞠のようにあっさりと受け止められる。妖姫は目を開けるのも惜しいと言わんばかりに煩わしそうだが、高速で落下してきた岩の秘めた運動エネルギーはt単位でも追いつくまい。それをいとも容易く受け止めるのはさすが吸血鬼の最上位と言うべきだろう。

 正気を保っていた面々が一斉に息を呑んだのが分かった。術だのなんだのよりもわかりやすかったらしく今更に畏怖している。

 妖姫はそんな周囲の目など歯牙にもかけずに大岩を放り出す。わざわざ俺を狙って投げるどころかあえて外して投げるあたり、どうしようもない根性の悪さは消えないらしい。

「ほう」 

 音より速く動いて岩を砕き、また戻る。岩が砕けて砂になる音は俺が雪蓮達の前に戻ってから聞こえてきた。幸いな事に、妖姫は今の隙に彼女らに手を出そうとしなかった。

 それにしても何がほう、なのか。別に驚くような動きでも速さでもないだろう。

「人のいい剣士よ。今しがた下敷きになろうとした者達は確かお前とは些少ながらも因縁のあった相手ではなかったか?」

「やっぱり狙ったのかよ。俺が見逃せばそれを笑うつもりだったのか? 二千年は生きている大吸血鬼がつまらない楽しみを見つけるじゃないか」

 こいつめ、わざとらしく劉備一行に目線をくれてから岩を投げやがった。息をするより簡単に嫌がらせを思いつきやがる、根性悪と散々せつらが悪態をついていたのも納得だよ。

「では、面白い楽しみを披露してもらおうか」

 悪罵に耳を貸さないどころかむしろ楽しそうに受け止めてから、彼女はそう言った。

 ゆっくりと、わざわざ見せつけるように開いた瞳の赤は俺がとっさに閉じた瞼の奥にある瞳を貫き、脳髄にまで達する。

 木刀で視界を遮る事はできなかった。それをやれば後ろにいる連中が餌食になる。あるはそれこそ正しい手段なのかもしれないが、俺はそれができなかった。

 見捨てるなんて、格好わりぃ。

 それだけを理由に俺は選択を失敗した。これがせつらだったら、あっさりと盾にしただろう。これが八頭だったら冷徹に足手まといを放置しただろうか。以前出会った毒蜘蛛の化身だったら、顔で泣きつつ腹の中で笑いながら切り捨てていただろう。

 ああ、駄目だな。あんな最低外道になりたかねぇや。これは、正しかろうが間違っていようが俺らしいのはこっちだと胸を張って言える選択だ。 

「さあ、さらけ出せ」

 どくん、と心臓……いいや、魂が跳ねた。

 秀蘭という吸血鬼に汚染された魂が、新たに注ぎ込まれた別種の毒に悶えたのだ。精一杯高めた思念が抵抗しているが、まるで猛火に曝されている際に被ったバケツ一杯の水のように頼りない。

 これが本気か。

 辛うじて正気を保ちながら、そんな言葉が脳みその中を浮かんでは消えていく。

 凄まじい力だった。見ただけで対象の魂を蹂躙する最悪の力。かつて吸血鬼の若頭領として君臨していた夜香を記憶も力もそのままに下僕とした力は、ひょっとしたらこれなのか。

 あるいはせつら最大の僥倖は、自身の魅力を持って彼を堕落させると、この力を封じると妖姫本人に選択させた事かも知れない。

 赤い瞳だけが意識の中に存在し、どんどんと縛られていく事がわかる。このまま俺は、姫の寵愛を求めて傅く屑と成り果てるのか。ツキヨノスイレンを誰かに恵んでもらえる万に一つの奇跡にすがって生きていくのか。

 それをどれほど疎んでも、覆す力が俺にはない。

 だが、俺になくても覆す力を持っている誰かはいる。

 それも、すぐ側に。

「おお!?」

 それはこの時代に来て初めて聞いた、妖姫の驚愕の叫びだった。

 呪縛は断ち切られ、俺を絡め取る寸前でいずこかへと溶けた霜のように消えていく。膝をついて大きく安堵の息をついた俺に、頼もしい声がかけられた。

「大丈夫か」

 憎いところで颯爽と現われる、ヒーローがそこにいた。







 その場で意識を失ってしまいたいというのが俺の本音だ。

 なにしろ、どうしようもなかったこの状況下で颯爽とゼムリアが参上してくれたのだ。そりゃあ、何もかも任せてぶっ倒れたいとくらいは思う。だが、これは俺の勝負だ。やるだけやったから、後は放り出しておしまいとはいかない。

「向こうは、今どうなっている」

 横に並んだ俺を見る目が、やせ我慢めと笑っていた。

「ドクトル・ファウスタスが気張っているよ、あの秀蘭だったか? 吸血鬼が取り返しに来た後で騏鬼翁の爺さんも追加できたけどな、むしろ爺さんのせいで張り切っちゃってな。秀蘭ってのは俺が追い返したけど、後はこっちに行けとさ」

「そりゃあ怖い」

 言っていて気が付いた。肩の力が抜けている。この男が現われた事で、力みすぎている自分にようやっと気が付いた。

「ほう、秀蘭を追い返したのか? 新たな剣士よ」

 目が黒真珠に戻った妖姫が感心しきりと言う顔をした。視線が一瞬だけゼムリア愛用の棒に注がれて戻る。それに対して、さすがはゼムリア。飄々とした態度を崩しはしない。

「女の子を虐めたなんてひどい奴と怒るかな」

「ほほ、秀蘭を童のように扱うか。お主の十倍も百倍も生きている秀蘭を、の」

 笑う妖姫に対して、ゼムリアはにやりと笑い返した。すると今度は眼を細める。楽しい訳ではなく、俺の頭頂に燦然としている思念の輝きが眩しい訳でもない。ただ、己の嘲笑を受けて笑い返したゼムリアが不快だったのだろう。

 証拠に、空気が変わった。

 それに呼応してゼムリアのチャクラも念を生み出す。その質は頭頂の更に上にまで到達しているのではないかとさえ思わせ、量は天空高くまで広がり確実に成層圏まで達している。

「さすが……」 

 感嘆の声しか出てこない。

 おまけに、彼の聖念は俺のそれと同調、共鳴して互いに強化し合い高めあっている。例えて言えば、お互いが一つのチャクラのようだ。

 ふと、思った。

 人体に備わったチャクラと同数、五人の念法者がこうなれば一体どれほどなんだろうと。

 少なくとも、二人揃えばどうなるかはここではっきりとした。

「面白い」

 妖姫が襲い掛かってくる。彼女の目が真っ赤に染まり、黒真珠から血玉に変わり俺達を見据えたが、その影響は聖念によって完璧に防がれた。

 妖姫の発散する妖気を鑑みれば、様子見ではなく確かに本気だと分かる。それをはじき返したのは正に快挙だ。

 これは、いけるか。 

 妖姫の力の中で特に厄介なのは、やはり美貌を筆頭とした魅了の力だ。昨日の味方があっさり敵になるどころか、自分自身さえも信じられなくなる。
長い生の間に手に入れた知識、技術、経験、そして吸血鬼としての圧倒的な再生能力と最新鋭の違法サイボーグでさえも歯牙にかけない身体能力。

 通常の敵なら何よりも恐ろしいはずのそう言った能力が二番手以降に落ちてしまう程に彼女の魅了は凄まじい効力を発揮する。相手が集団であればあるほど効力は加速度的に増していく、正に国を貶めて破壊する為に生まれてきたような女だとつくづく思う。

 だからこそ、最悪の力をきっちりと受け止める事が出来たのは大きい。できれば長老の孫にも見せて思いっきり自慢してやりたい。

 問題なのは、飛び道具のない俺に、この念の壁を越えて奴を攻撃する手段がない事、何よりも妖姫に通じる決定的な攻撃手段がない事だ。ここでうかつな事は出来ない、ここからは正に刹那の一瞬で勝負が決まる。

 しかし、俺には姫を殺す手段がない。

 降って湧いたこの巨大なチャンスだからこそ、俺は躊躇した。ここを逃せば先はないのに、どうしてもこの奔放な大吸血鬼を滅ぼす手段が見付からない。

 かつて“新宿”で妖姫達の来訪を予測した時から彼女らを滅ぼす為の手段を記憶と知識の中から探ってみたが、かんばしい結果は得られなかった。

 本人曰く、古のやり方でしか滅ぼせないと言っているが……所詮は自己申告で鵜呑みにするのは馬鹿の芸だ。

 他には、妖姫は死にたくなれば死ねるが、誰よりも生を謳歌している為に決して死なないとも聞いている。

 それを聞いた人形娘の言っていたらしい“死にたくても死ねない人で溢れかえっているのに、死にたければいつでも死ねるとは、あの姫が恨まれ疎まれるのも当然です”とは全くの正しい意見だ。

 そして実際に杭を打ち込まれようが真っ二つにされようがまるっきり死なない。眷属の劉貴でさえ杭も水も火も、そして妖糸や放射能さえものともしなかったのだから彼女自身の不死も推して知るべし。 

 せつらが未来において滅ぼした方法は、“戸山の長老”が刻み込んだ傷をドクターが直す振りをして最悪のタイミングで復活させて、最も痛烈な毒となるこれまたドクター・メフィスト謹製の吸血鬼化治療薬を飲ませた上で、妖糸を用いて首を落としたのだ。

 最大の肝は、半面が再度焼けただれた傷を露呈した際にせつらが告げた一言だった。

「二目と見られないね」

 せつらは決して手に入らない。愛した男のはっきりとした拒絶にそれを思い知らされた彼女は、初めて死にたいと願った。つまり三つの王朝を破滅させ、それぞれの王を始めとする数多の人々の慕情を弄んできた稀代の妖女は自らの恋に負けたのだ。

 で、俺にどうしろってんだ。

 一体どうやれば、彼女を絶望させられる。

「くっそ」

 決め手がない。かつて“新宿”で何度も味わった苛立ちが悪態となって出てくる。それを聞いた妖姫が笑った。

「私の眼を防いでいるのは褒めてやろう。だが、お前達には私を滅ぼす手がない。それはお前達が誰よりも理解しているようだな。未熟な剣士よ、お前が私を見る目に宿る畏れと苛立ち、実に心地よいぞ」

 未熟な剣士、とわざわざ俺だけに目をくれてやがる。どこまでも腹立たしい女だ。

「しかし、このまま見合っていてもどうにもなるまい? 私は千年先までもお前達を見つめ続けるが、その壁はどこまで保つ? それを試してやろうか」

 妖姫の分析は正しい。

 彼女と俺達は一件均衡しているが、実際には持久力が違いすぎる。全力疾走してようやく張り合っている俺らと鼻歌交じりのお散歩気分の妖姫だ。力を防いでいるのは確かだがパワーダウンしてしまえば壁を妖姫の力が貫くのは目に見えている。

 おまけに、こっちは常に壁を張り続けていなけりゃならないのだ。時間との勝負になれば負けは見えている。この上に制限時間付きとは泣けてくるぜ。

「……」

 このままじりじりと削り取られるよりは、斬りかかって活路を見出した方がいいか。そんな、普段だったら止めておけと呆れてしまうような選択肢が脳裏に浮かんだ時……妖姫の背後で、誰かが動いた。

 のっそりと、まるで肢体が無理やりに動き出したような動きで妖姫を囲んでいた内の誰かが立ち上がったのだ。

「! 俺達の念の影響か」

 姫の魅了と、俺達の聖念。鬩ぎ合う力は周囲の曹操達にも例外なく降り注いだ。双方に精神をそれぞれの方向性で刺激された結果、妖姫の美貌に刺激され劣情の塊となり身動きさえもとれないほど精神を打ち据えられた彼女らの中で、立ち上がる力を取り戻した誰かがいたらしい。 

 それは白い人影だった。

 男だ。

 となると一人しかいない、天の御使いだろう。

 まさか、あの男が妖姫の呪縛を振り切ったのか? 当てずっぽうだが、ただの“区外”の高校生男子にすぎないような奴が!? そんな事があり得るのかと仰天しつつも、ここで気概を見せるとは大した物だと感心したのだが……

 立ち上がった姿は、全くもって見るも無惨なものだった。

 まず、目が異常なほど血走り、鼻の孔は劣情で開きつつ涎も垂れ流す。息は荒く、発情期の猿でもこうまで浅ましくはなるまいと言い切れるほどの無様さであり、元々はそれなりに女受けしそうな面構えであったが今となっては逆に仇となったと言わんばかりに醜さが強調されている。

 全身が、地べたをはい回ったせいか俺がかつて地べたに転がした時よりも土まみれになっており、彼の名声の象徴である学生服がまた無残な事になっているが、本当に無残なのは下半身の方である。

 男の象徴がズボン越しに存在を主張しており、さらには股間を中心にべっとりと濡れている。匂いから察するに失禁したのではなく別の理由でそうなっているようだ。今もあ、だのう、だのと言いながらびくびくと震えている姿が実に見苦しい。これはぶん殴っても普通に警察から感謝状を贈られるだろう。

「ひ、ひひひいっ」

 天の御使いというよりも、頭の中身がお空に昇ってしまった輩に成り果てた男が、泡を吹きながら奇声を上げる。目が妖姫しか見えていない。ここまで欲情の虜になった輩は“新宿”で猛威を振るっていた時でさえも見た事は無いが、“区外”の餓鬼は皆こんなものなのだろうか。

「うひぃあぁっ!」

 何をしようかというのが考えなくても分かるような眼で妖姫を見ていた北郷が、彼をゴミよりも百倍はつまらない物を見る目で見返す妖姫に飛びかかろうとした。が、それに待ったをかける手が彼の肩を掴んだ。

 ぐしゃり、と腕を捻り上げて顔面から地べたに叩きつけられる北郷だったが、彼はそれでも動じずに……と言うよりも、全く気がついてさえもいないようで壊れたおもちゃのように妖姫に向かって這い寄ろうとして、空しく畳水練をやっている。

 彼を砂を噛ませたのは、関羽だった。

 彼女もまた、妖姫しか見えていない。

 服は彼女自身によって乱されて女としての部位を露出させているが、それを気にかけた様子もなく妖姫に熱い欲情の眼差しを向けている。涎を唇の端から垂れ流している姿は、本来凜々しい美女と言ってもいいはずの彼女が一欠片も存在せず、かと言って今の彼女が扇情的だとも言えない。

 少なくとも、俺にはとてもそうは見えなかった。むしろ、汚い、醜いと言う印象しか持てない。

 彼女にとって北郷がどういう相手なのか明確には分からないが、忠義の対象であり、ひょっとすれば恋慕の対象でもあったのかも知れない。それをたたき伏せて欲情に瞳を濁らせる彼女は、武人としても女としても最悪だった。

「愛紗、北郷殿……っ!」

 見れる程度に身なりをどうにか整えた趙雲が、悲痛な声を上げて彼女らを見ていた。隣では、公孫賛が劉備に声をかけて必死に目を覚ませと言っていたが、彼女の声は最初から届いてはいなかった。

 旧知の二人が見ている前で、関羽は妖姫に北郷の焼き増しのように飛びかかろうとしたが、両足に子供のような二人がしがみついた挙げ句、後ろからしがみついた劉備がのし掛かる。彼女がそれを全て振り払おうとした時、横を擦り抜けながら張飛が甲高い奇声を上げる。その足を掴んだのは北郷だったが、張飛の蹴りが顔面を捕らえて前歯を砕かれていた。

 その反対側では、曹操達も醜く争い始めていた。北郷が皮切りとなり、俺らが背後に庇っている孫家と董卓達を除いて一気に妖姫に向かって劣情をぶつけようと肉に飢えた狂犬のように走りだしたのだ。

 だが、犬は餌を求めて走る事はあっても群れの仲間内で足の引っ張り合いなどはしない。その点で、彼女らは明らかに犬以下だろう。

 関羽と同時に立ち上がったのは曹操だったが、彼女は猫耳に飛びかかられてあっさりと地べたを舐める羽目になる。その彼女らをまとめて踏みつけて走りだしたのは夏候惇だったが、肩に音をたてて突き刺さった矢が、足を強制的に止めさせた。

 弓を持っているのは、片目を髪で隠した女だった。確か夏侯淵と言ったかな? 二人は何か血縁だったような気がしたが、血走った目でにらみ合っている姿にはそれらしさが全く感じられない。 

 その彼女らの横では、傷だらけの女が水着にしか見えない格好の時と場をわきまえない女、メガネをかけた妙なところから垂れているおさげ髪の女とつかみ合っている。こいつらは、さっき劉貴との勝負を見物していた中にいた。てっきり秀蘭の子飼いかと思ったら、曹操の部下だったのか?

 それにしても彼女らは誰もが身内同士、仲間同士で殺し合っているように見えるが、お互いを見ている表情、実際に争いあっている姿も手加減も躊躇いも全く感じられない。こいつらの繋がりがどういった物で、どれだけの強さがあったのかは知らないが、全く無意味かつ無価値に貶められている。

 彼ら彼女らの求める物は妖姫の寵愛だけであり、友情なり愛情なりで結ばれた関係であったはずのお互いは、殺してしまいたいほどに邪魔な競争相手に変わっている。共に目標に向かっていた相手は、その夢だの友情だのという口にするには恥ずかしくも胸には秘めていたい物と一緒に肉欲の波に浚われて消えてしまった。

 それぞれがそれぞれに胸に期する様々な物を持って戦場に立ったのではないのかと思うが、彼女らはそれが美女の裸体一つに劣る物だとはっきり証明してしまった。

 そんな彼女らは妖姫を中心に円を描くように陣形を作って争っているが、誰一人も妖姫の元にはたどり着けてはいない。傾国の美女を中心として半径三メートルは、まるで結界でも張られているかのように歪な円を作って血の一滴さえも彼女には届いていない。

「まるで、こいつら自身の縮図だな」

「……どういう意味よ」

 混乱に巻き込まれて手も足も出ない。自分を巡る争いを優雅に眺めている妖姫に歯がみしている俺の漏らした独り言に、雪蓮が反応した。

「あさましく餌に集り、しかし目の前にある餌には互いに足を引っ張り合っているから誰もたどり着けない。そこに美女じゃなくて董卓と皇帝でも置けば、そのままだろう。あれこれとご大層な大義名分の看板を掲げても、仁君だの天の御遣いだのと盛大に自画自賛をしても、本当の所はこんな物なんだろうな」

 こいつら、結局最終的にはお互いに出し抜き合おうとして自滅したんじゃないのか?

 そういうIFも口にすると、雪蓮だけではなく冥琳含めて大体の人間が柳眉を顰める。そんな上手い話があったら苦労はしない、と端的にそれだけ言われた。

 そうは言うが、妖姫が少しばかり興が乗ったような顔をして見下ろしている連中には、所詮その程度としか見られない。

 とうとう光り物を取り出した関羽が馬超と得物を突きつけ合い、丁々発止とやり合っている。張飛は曹操の所の子供染みた二人と互いに足の引っ張り合いをして転がり、地面に指の跡をつけながら顔面を蹴り合って鼻血を流している。

 そんな彼女らの足下では、二人の最年少者が散々に踏みつけられ、蹴り上げられ、それでも爛々とした目を妖姫に向けて離さない。

 劉備と北郷は互いにつかみ合い押しのけ合い、とうとう掌を昆虫標本のように剣で地面に固定された北郷が残った腕で劉備の足を捕まえ、噛みついて行かせるまいとしている。

 袁紹と何進、その部下の二名も互いに争っているようだが、彼女らはまとめて曹操の配下達の争いに吹っ飛ばされた。

 その曹操の部下達はもはや殺し合いの域にまで達しており、彼女らの足の下では個人的な戦闘力では劣っているのだろう猫耳が巻き込まれた形で蹴られ、踏まれ、ピンボールのような有様を見せている。それは先ほどの劉備軍の子供達が受けた仕打ちの正確な再現だったが、彼女の目は一際異様な輝きをもって妖姫に固定されている。どれだけ蹴られようと踏まれようと一瞬も目を離そうとしない執念深さは、妖姫の虜となっている面々の中でも一際だろう。彼女と同じような目にあっている曹操など、もはや見向きもしていない。

 彼女達のこの有様は彼女達自身がそうであったからなのか、それとも妖姫がそうなるように仕向けたのか。俺には分からないし、正直勝手にやっていろと言う程度だった。

 見苦しくはあるが、心を痛めるほどのつながりはない。一部はむしろざまあ見ろと言ってやりたいくらいだ。

 だが、こんな光景を見ていて良しとはできない。

 あれこれと理屈をどう並べようとも関係がないくらいに、目の前に広がる光景が嫌だった。主君と仰いだはずの相手を踏みつけて濁った眼で傾国の美女に群がろうとしている彼女らの姿が嫌だった。

 それはむしろ、汚物に向ける嫌悪感に似ていた。俺にとって彼女らは、そこまで落ちたのだ。

「ゼムリア、後を頼む」

 限度を超えた俺は、とうとう一歩を踏み出した。姫がそんな俺を見て笑った。子供が壊れても構わないおもちゃを弄ぶ時の顔に似ていた。背筋に奔るのは何処か甘く冷たい戦慄だった。

「あの女はどうにか出来るのか?」

 彼が俺に向ける眼差しに篭められているのは、純粋な疑問だった。この稀代の念法者は妖姫の不死身ぶりを知らないはずだが、その恐ろしさを感じとったのだろうか。

「あの女は正真正銘の不死身だ。苦手な物、嫌いな物は数多いかも知れないが弱点って物は一つもない。たった一つ、本人が死にたくなったらいつでも死ねるらしい」 

「そりゃ、確かに弱点とは言えないな。反則なのは見た目だけじゃないって事か」

「随分と詳しいの、そなた何者じゃ」

 俺達の会話を聞いて、妖姫が割り込んでくる。

「思えば、最初からお前はどこか私を知っている風だった。そして、随分と訳知り顔に私の事を語る。あるいは、騏鬼翁も、劉貴、秀蘭の誰をも見知っているのか」

 とうとう踏み込んできた。

「あるいは、この国に来る前に私を遠目に見たのか。そうではないな。この不浄の大地に足を踏み入れる前に出会っている、それは確かのようだがそれだけではないだろう。詳しすぎる。まるで我らと幾度となく争っているかのよう。しかし、私はもちろん他の誰もそなたの事を知らない。これはおかしいの」

 無言で一対の得物を構えた。彼女の推理にかまけている暇はない、その隙に念を少しでも練っておく。壁を作って消耗した分を回復させなければならない。

 妖姫もまた、俺にはお構いなしに語り続ける。互いに互いを相手にしながらも無視するというおかしなシチュエーションが出来上がった。

「……お前は未来から来たのだな」

 断定する。可能性ではなく、彼女は自分の導き出した結論が間違えていると考えてもいないかのように答えを出した。俺の背中に一斉に女達の視線が突き刺さるが、そんな事はどうでもいい。

 突拍子のないはずの正解に辿り着いた彼女の頭脳を褒め称える代わりに、否定も肯定もなく大上段に斬りつけた。

「答えを返さぬとは無粋な事よ」

 俺は剣士だ。

 あるいは、武術家とでも言えるかも知れない。

 呼び方は何であれ、つまりは剣を振ったり拳を握ったりする事に心血注いできたような男だと言う事だ。

 だが、拷問のような鍛錬を経た俺の歪な手が繰り出した一太刀は、白魚のようなと言う程度の表現では追いつかない美しすぎる繊手にあっさりと受け止められた。

「吻っ!」

 もちろん、その程度で今さら驚きはしない。むしろこいつを喰らった方が驚いただろう。相手は妖姫なのだから、俺は動じずに次の太刀を繰り出す。

「先ほどと同じよの。私の肉体を貫かせるのは一度でたくさん。さて、そろそろ応えてみよ」

 こちらも同様に受け止められた。至極あっさりと、まるで落ち葉を受け止めるかのようにだ。しかし、相手の両手は封じた。このまま一瞬でも時間があれば、俺は蹴りの一つも出せただろう。如来活殺とジルガを混合させた自己流の蹴りは“新宿”の妖物も滅ぼせる。

 だが、通じる通じないどころか蹴りを出すよりも先に、俺は妖姫に吹き飛ばされていた。左右の手に捕まえた木刀ごと、ぐるりと無造作にひねられてミキサーに放り込まれたようにぐるぐると何十回転も回されて地べたに落ちる。
 足下に人形のように転がり、平衡感覚なんぞあっさりとかき回されてゲロを吐く事も出来ねぇ。これは技なのか力なのかさえもわからない。木刀を放さないのは失敗なんだろうが、放せばチャクラが動きを止める。

 ここで頭頂のチャクラにこだわるのは馬鹿だろうか。そうかもしれないし、そうでないかも知れない。どちらにしても今さらの話でしかない。

「ぐ……」

 内臓がかき回されたような不快感に怖気が奔る。全身の感覚が滅茶苦茶になっているのは、そこに脳も加わっているせいか。おかげで自分が地面に触れているざりざりとした感触しか分からなかったが、そこにもう一つ加わった。

 後頭部に重みを感じる。

 同時に柔らかさも感じた。

 妖姫が俺を踏んでいるのだと直感した。

「無礼な事、私の問いに答えられぬか」

「そういうのは、下僕にやれよ」

 こんな真似をされて立たずにいられるはずがない。

 ぎり、と歯を食いしばって立ち上がる。恥ずかしい程に拙く、とても武術を学んだとは言えないようなどうしようもない不格好さで立ち上がり、鼻で笑ってやる。すると、妖姫の目が冷夏の涼しさを見せ始めた。

 “新宿”での頃から、俺と彼女は相性の悪さを証明するかのように会話の度に険悪になる。せつらの方がよっぽど舐めた言動をしているというのに、何故だ。

 顔か。

 深く納得した俺は、せいぜい小憎らしく見えるように振る舞ってやろうと胸を張る。女に好かれないキャラクターなのはこっちに来てからも常々思い知っているので、要するに普通にやってれば妖姫への嫌がらせにはなるだろう。

「もっとも、下僕なんざ願い下げだがな。こちとら大の男なんだ、人の頭を踏んで喜ぶようなろくでもない女にへいこらするのはゴメンだね」

「よく言った」

 冷夏から真冬へと一瞬で変化する。機嫌というのは誰でも簡単に急直下するが、急上昇は稀だ。この心身全てが稀な女でも同様らしい。

 視界が急に暗くなり、顔面に凄まじい圧力がかけられた。

「この私に罵声を浴びせた者は星の数ほどおる。だが、生きている者は一人もおらぬ。何故かは分かっていよう?」

「自己批判のない女が、堪え性もないからだろう」

 念と身につけた武術の秘技で必死に頭蓋骨を強化するが、ミシミシと今にも割れてしまいそうな音をたてている。これが、嫋やかな手弱女の極地にしか見えない女の繊手によって捕まれているからだとは俺自身が信じられん。

「私は好きな場所で、好きなように生きる。堪えるなど、今まで歩んできた二千年の間に考えた事も無い話。好きに歌い、好きに交わり、好きに眠り、好きに吸う」

 正に歌うような語り口調で、女は笑った。ぐい、と大の男を持ち上げて自分の前に引き寄せる。誰よりも美しい女の顔が目の前に現われた。

 その典雅な面には、己の容貌に対する絶対の自負が当たり前として輝いていた。

「そして、好きに殺す」

 俺を捕まえているのは左手だった。

 そして今、右手が振りかぶられるのが指の隙間から見える。ゆっくりと、見せつける為だろうか殊更に遅く繊手は掲げられた。

「お前はこの国で出会った最初の男。女とそれ以外しかいないこの国で、我らが初めて出会った男。故に生かしておいたが、そこに新たな一人が現れた。お前よりもずっと強く、もっと面白い男」

 赤い瞳がゼムリアを見る。

「ぬうっ!?」

 それを受け、ゼムリアが苦痛の声をあげた。彼に何が起こったのかは見えなくてもわかる。俺も同じ目に合っているからだ。俺の全身は既に真っ赤に染まっていた。余波だけでこれでは、直撃を受けたゼムリアの痛苦はどれほどなのか。

 しかして、背後に女を背負う男はその場からは一歩も動かず。耐える彼を見た吸血鬼の赤い瞳の中に、強く雄々しい男を嬲るサディストの快楽が光りだした。

「見事。私の目で見つめられて血に染まりながらも、膝さえつかず揺るがなかった男はおらぬ。実に面白い。私に命をつかまれているこの男は、この国では非凡なれど夏でも殷でも周でも、少し珍しい程度。だが、お前はどこの国でも、いいやこの二千年の間で見たこともないような男。比肩しうるはおそらく劉貴以外にはいるまい」

「そいつはあの吸血鬼を倒したぞ」

「お前の力を借りてな。貸した者と借りた者、どちらが大きな力を持っているかは一目瞭然よ。お前はその身にどれだけの宝を隠している?」

 妖姫はゼムリアに淫靡その物の笑みをぶつけて、彼を誘う。

「それに、風聞でしか知らぬもう一人がいたな。聞けば大層美しい男だとも聞く。そして騏鬼翁に劣らぬ妖の術理を操るそうではないか。なかなかに面白そうで心が騒ぐぞ」

 目を細めるかんばせに毅然とした眼差しを崩さない稀代の念法使いは、おもむろに身構える。彼は確かに俺に“待っていろ”と告げた。

 冗談、尻ぬぐいなんてさせるかよ。

 ふがいない我が身に感じた憤りがチャクラに力を与える。聖念が更に輝きを増して周囲を照らし出しているのが分かる。

「いつまでもだらだらとあがくか。他に無聊を慰める何もなければ藻掻く有様を見て笑ってもよいが、今は目の前にもっと楽しめる遊びがある」

 当然、妖姫にもそれは伝わっているが構いやしない。他に出来る事は何もないんだからな。

 至近で聖念を浴びようとも眉一つ動かさない怪物に、何を出来るというのか。何が通じるというのか。わかるか、そんなもん。

 ただ、何もしないでいられやしねぇだけだ。

「ルアアアッ!」

 殊更に無意味な大声を上げて、逆手に持った二刀を目の前の妖姫に向けて突く。首を落とす、それしか思いつきやしなかった。いや、思いついてもいない。

 ただ、衝動の命じるままに得物をぶん回したに過ぎない。

 それでも、俺の最後の力を振り絞りありったけの念を篭めた一閃ではあった。二本の木刀はそれ自体が内側から輝いて、いかなる妖物とて滅ぼさずにおくものかと聖念が唸っている。

 だが、それは妖姫の眼差し一つに敗北した。

 無言のままで赤く輝いた魔の瞳は、一睨みで俺を失血死寸前にまで追い詰めた。全身を被っているはずの聖念は、その力を間違いなく発揮していてもなお追いつけない。

「身の丈に合わぬ力を授けられ、それに酔った愚か者の末路よ。魔天の園で泣き叫んで後悔するがよい」

 つまらなそうに伸ばされた腕は、俺の心臓を真っ直ぐに狙っていた。ゆっくりと、それが俺の心臓をえぐり出そうとした寸前……俺の中から何かが抜けていった。

 痛烈な痛みを伴った。失血のあまり失いかけた意識には強烈な活となったが、もちろん感謝する気にはなれない。例えて言えば、虫歯を引っこ抜かれたような気分だ。麻酔なしでな。

「ぐああああっ!?」

 苦痛は声となって喉から溢れた。

 それを先駆けとして何かが俺の中から現われようとしている。

 腹の底から、まるで急流を上る鯉のように俺の中を駆け上がってくる。それはさながら登竜門か。だが、苦痛を先がけにして登ってくるような奴がどんな竜になるというのか。

 そして、俺には分かる。

 先ほど俺の中から抜けていったもの。それは体内から抜けていったのではなく、もっと違う深いところから食いちぎられたのだ。

 さっきからこいつが喰い漁っていたもの。

 妖姫の力を喰い、俺の魂から引きちぎって餌としたもの。それは間違いなく秀蘭から牙を通して送り込まれた吸血鬼の呪いに他ならない。何故なら、涙に滲んだ視界の隅に見える俺の手首からは、うじゃけた二つの傷が消えている! ならば、このどんな拷問よりもおぞましく強烈な痛みを感じさせるこれは魂を傷つけられた痛みか。

 これから生まれ変わる鯉が、悪竜以外の何になると言うのだ。

「ぎいいっ!?」

 悲鳴を上げている俺の後ろで、もう一人の俺は周囲の気温が一斉に下がったのを感じた。まるで、冬のようだ。これと同じ事がどこかであった気がした。

 今もなお一瞬も止まる事なく登り続ける鯉は、俺の心身に残る吸血鬼のありとあらゆる力を貪欲に喰い漁りながら登り続ける。

 その道すがらにチャクラから生まれる聖念を次々と打ち破っていく。あおりを受けて傷つくチャクラに、このままでは頭頂のチャクラどころか念法その物を二度と使えなくなると危機感を感じたが急に鯉は違う流れに乗った。
このまま俺の頭頂を目指すと思っていたが、急に行き先を直角に変えて横に動き出す。どんどんと大きくなっていくそれは俺に体内を蹂躙される苦痛を与え、妖姫の腕に捕まっていなければ身も世もなくのたうち回るほどだった。

 そんな俺を見て、吸血鬼は笑う。

 生まれ出ようとしている何かに対する期待し、そして痛みと苦しみに悶える俺の姿を愉しんでいた。 

 歯を折れんばかりに食いしばり、今にも腹を食い破って現れようとしている何かを必死に押しとどめようとするが、お構いなしに怪物は現われようとしている。唐突に、往年の名作SFホラーを思い出した。

 敵性外宇宙生物の代名詞ともなったあれは、確か人に寄生して腹を食い破ったのではなかったか。現実に同じ事が起ころうとしている。よりにもよって俺にだ。

「くそ、ったれがぁ」

 体内を蹂躙しているそれがなんなのか、既に当たりをつけていた。

 最悪の事態が目の前に迫っていると否応なしに突きつけてくる。それをどうしても防がなければと藻掻くが為す術はない。そんな俺をあざ笑い、妖姫は拘束を緩めた。“何か”が生まれる前に、苗床となった俺に死なれてはつまらない、そんな考えだろう。

 その何かが俺の腹より、今現われようとしている。一体どれほどおぞましい怪物が現われるかと妖姫は期待に目を輝かせていた。

「な、に?」

 その期待は叶えられた。

 現われたのは、紛れもなく古今東西の歴史全てを紐解いても五本の指に入るのは間違いないと断言できるどうしようもない程に邪悪な怪物だった。

 しかし、いかなる怪物だとてこの妖姫を仰天させる事など適うだろうか。例え神話において世界を崩壊させた怪物が現れたとしても、彼女は傲岸不遜な態度を崩すまい。なら、今現れたのはいったい何者だ。

「私…だと?」

 怪物は美しかった。

 あまりにも美しい化け物だった。

 俺の腹から染み出るように現れたそれは、黒く長い髪を風に流して白皙の美貌は世に比肩する何者もいないと誰もが断言するほどのもの。

 そして、今しも驚きに満ちている妖姫とは鏡映しのように瓜二つの者。

 即ち、今一人の妖姫である。

 それはどこか陽炎のように薄く、かすかに体の向こう側が透けて見えるが間違いなく妖姫であった。

 それが、俺の腹からゆっくりと煙のように這い出ながら己と瓜二つの妖姫をどこか挑発するように見上げている。

 その眼を受けて、妖姫から驚きは消えて同質量の怒りがわいて出る。それは苦痛に焼かれる俺でさえも凍りつきかねない恐ろしいものだった。

「よもやこのようなものが湧いて出るとはな。初めて出会った際に感じられた匂い、これの物であったか」

 何の話をしているのか、俺はもう覚えていないが妖姫は彼女にとっての初対面の折には既に何らかの兆候を感じていたらしい。

 それにしても、なんていう構図だろうか。

 全く同じ絶世の美女が二人、一人は硝子作りのように透けて血塗れで苦しんでいる男の腹から生えている。まともな感性ではとても拝めない。見ているだけで気が狂うだろう。

 現われた幻の妖姫は、じわじわとにじみ出るように俺の腹から姿を現している。本性が透けて見えるような嫌らしい現われ方だった。

 そして、妖姫はそれをただ待ち続けている。手を出すような真似は、矜持に賭けて許せないと言うところか。赤い瞳は内面の業火を見せつけるようにして燃やしているが、手は出さない。感情に呼応して発している妖気だけで死にそうになるが、ぎりぎり致命傷寸前の所で生きていられるのは、俺の腹からぬめりを感じさせる動きでじわじわと実体化している妖姫が発散されている姫の気を喰っているからだ。

「あさましい事よ」

 侮蔑を篭めつつも、苛立ちは消えない。そんな彼女の前で、とうとう今一人の大吸血鬼は全てを顕わにした。

 軽い音をたてて、優雅に今一人の妖姫は大地に降りた。正座のような姿勢で妖姫の前に座る姿は主と臣下のようだったが、その臣下はすぐに立ち上がり目線を主と同じ高さに持っていくという非礼を行った。

 俺はうめき声をあげながら、どうにか両者から距離をとる。幸いと言うのかなんというのか、腹部に穴の開いたような痕跡はない。やはり、彼女は実体を持たない霊的な存在なのだろう。

「おお……」

 誰かが、いや誰もがそんな意味もなせない呻き声を上げていた。

 俺という壁が避けた事で目に入る二人の妖姫は、彼らのただでさえ蕩けた脳に刺激が強すぎたのだろう。再び彼女らは石のように固まり、滑稽な彫像となる。

 だが、決して静かにはならなかった。

 遙か彼方から、俺達を挟み込むように人の足音と馬蹄の響きが迫っているのだ。

「まさか……」

「軍が動いたのだろう。彼女らの無様さを、裏切りを許せない兵士達が攻めてきている。それに呼応した我らの兵も殺到してくるはずだ。ここは中心となる、我々ではひとたまりもないぞ」

 俺が予想していたスタンピードはやはり起こったらしい。この集団ヒステリーは名前の売れている奴を特に狙って蹂躙するだろうが、同時に俺のような全く関係なくとも八つ当たり、あるいは見境なしに襲い掛かってくるんだろうな。

 いずれにしても、数の暴力にはひとたまりもないと言う冥琳の意見には賛成だ。しかし、同時に杞憂になるとも思った。

 例え兵士達が億人いようとも、そこにいるだけで無意味に出来る次元違いが目の前にいるからだ。俺には彼らが、いやもはや誰もが二人の妖姫の対面を見守る観客にしか見えなかった。

 相対する傾城は互いに表情はなく氷のようである。しかし、幻の妖姫ならばともかくもう一人は内面には溶岩のように煮えたぎるものをハッキリと映し出している。その迫力たるや、虎どころか大妖物さえも腹を見せて従順になるに違いない。

 それをさらりと受け流すのもまた、己の娯楽の為に三つの王朝を滅ぼした大吸血鬼。凄愴なる鬼気を受けても眉一筋とて動きはしない。五つのチャクラが稼働している俺でさえ、至近では骨まで凍りつくのをどうにか堪えるだけのとてつもない力の応酬だ。先ほどまでは舞台で演じる側だったのに、あっと言う間に観客席に落とされてしまった。

「おい、大丈夫か」

 声をかけてきたのは、額に汗をかいたゼムリアだった。距離をとった際にいつの間にか彼らの側にまで来ていたのか。それさえ気が付かない身を恥じる他ない。

「さすがのあんたも、冷や汗を禁じ得ないか」

「そっちは血塗れだろうが。足も声も震えてんぞ。いや、それよりも何がどうなった。なんで同じ女が二人いる」

 やせ我慢は事実を前にコテンパンにされるが、幸いにも誤魔化す為のネタはあったので飛びつく。

「あれは俺に取り憑いていた妖姫の腕だ。巣くっていた、寄生していた? 正確なところはどうだか知らんが、大体の意味は分かったろ」

「……それが育ったってのか?」

「強力すぎる再生機能が暴走したのかも知れんがな」

 仮定仮定ですまないが、俺には勝手に想像するしか出来ない。

 あれはおそらく、俺を“殺した”妖姫の腕だ。俺の腹を貫き、せつらに切り落とされたそれがどうなったのかと思っていたが、滅びもせずに体内に残っていたらしい。それを核に、俺を汚染した秀蘭や妖姫の力を喰って幻の肉体を更生するまでになったのが、あれじゃないのか。 

 妖姫と、そしてドクトル・ファウスタスの言葉を思い返しながら自分なりに噛み砕いた結果導き出した結論だが、正解かどうかは自信がない。

「それがどうして睨み合っている」

「自分が目の前に現われたんだ。大抵は殺したくなるものじゃないか?」

 俺の言葉に、ゼムリアがよくわからないと顔に書く。彼のような好漢は兎も角、自分が目の前に現われて受け入れられるような人格は少ないと思う。

 ましてや、心が広いとは到底思えないような女じゃこうなるのは自明の理だろう。しかし、あの幻の妖姫は果たして何を考えているのか。いや、そもそも考える事ができるのだろうか。

 俺の推測が当たっていれば、腕を核にしている以上脳は存在しないはずだ。あるいは、あの無表情は心がないからと言うだけかも知れない。れば、はず、かもばかりで情けないが、あの妖姫は何らかの刺激がなければ千年先まで彫像のように立ち尽くすだけではないのか。

 だが、一糸まとわぬ裸体だからこそ全く見分けがつかないこの二人が出会えばさっきから繰り返しているように衝突は必至だ。そこで何が起こるのかなど想像もつかないが、ただ事でない事は確かだ。

 いったいどうなる。

 二千年先の妖姫と言えど、元は右腕一本。それが完全なる妖姫とどこまでやりあえる。あるいは、食い尽くされて妖姫に新たな力を与えるのではないのかと言う危惧も生まれた。

 二千年先の妖姫を一部とはいえ取り込む……悪夢だな。

 ぞっとしない未来、だが為す術はない。これは俺の出る幕じゃないと対峙する両者がはっきりと主張していた。決闘に横から手を出すような真似は男の振る舞いじゃなかった。

 降り注ぐ月の光そのもののような静寂の中で、両者はさながら鏡写しのように手を上げた。それは右腕だった。

 あの時、俺を貫いていたのは右だったろうか、左だったろうか。右のような気もするし、左だったような気もする。よく覚えてはいなかったが、振り上げた腕が右であるのならやはり右腕なのだろうか。

 双方は無表情を貫きながら、全く同じ動作で無造作に腕を突き出した。動作も、速さも、タイミングも、狙った箇所も全て同じ。

 向かい合った二人の妖姫は、互いの心臓をえぐり取ろうとした。

 奇妙な芸術のようだった。

 周囲にあるのは先ほどまで淫欲に耽り、次いで暴力によって仲間同士身内同士の血みどろの争いを繰り返してきた女達の血と泥に塗れた姿。

 そして足下にはまるで敷き詰めているかのように広がる、バラバラにされた吸血鬼達の無惨な姿。

 その中心に汚れ一つない白い裸体を惜しげも無く天下に見せつける、全く同じ顔と身体をした二人の傾国。

 醜く、あさましく、恐ろしい円の中心に向かい合う至高の美女が二人。全てが彼女達の為の引き立て役と化している。世界が醜いが故に彼女達の美しさが際だっていた。

 この倒錯的な芸術を目の当たりにして、俺は美に打たれた。一瞬以上、意識が空白になっていたと後になってから気が付いたほどだ。

 そして俺は、二人が腕を振りかぶってから思い出していた。

 俺は実際に見ていない劉貴大将軍の最後。

 それは、正に四千年を仕えてきた姫その人に心臓を貫かれたからではなかったか。

 彼女は嘯いていた事がなかったか。

 自分の腕は、不死者を滅ぼす杭と同じ効力を発揮すると。

 妖姫が、妖姫を滅ぼす。

 そこには、一体何が起こる!?

 結局、俺は身動きがとれなかった。それは何も出来なかったからなのかもしれないが、そうするべきだと思っていただけなのかも知れない。

 妖姫を倒すとか滅ぼすという理由ではなく、時を超えて邂逅した同じ存在が殺しあう……その結末を見たかったのかも知れない。

 そして、二人は全く同じ瞬間に相手の心臓を貫き、己の心臓を貫かれた。

「同じ、か」

 妖姫は笑った。

 豊満な乳房を抉られながらも、それに痛痒を感じているようには見えない。目の前の今一人の自分を、そして天下万物の全てを嘲り笑っていた。

「どこから拾ってきたのか知らぬがこの紛い物と私を同じに見るか、剣士よ。やはり凡愚は目が見えていても、実のところは何も見えておらぬ」

 俺の心が読めていたとしても不思議じゃない女は、どこまでも悠然としている。胸を貫かれていようとも、それは変わらない。対して、今一人の幻の妖姫はどうか。

 幻の胸にも同じように繊手は突きこまれている。しかし、相手は幻。実際にどういった存在であるのかは不明だが、およそ実体がないという事だけは察しがつく。

 影に単純な物理攻撃を与えても意味はない。水面に石を投げるようにとは使い古された言葉だろう。それは百も承知か、実体を持たない女は無表情ながらもうっすらと優越感を感じさせた。

 彼女の胸は波紋のようなものを波立たせて、今一人の自分の腕を呑み込んでいた。突き刺さっているのではなく、受け入れているのだ。それでいながら、自分の腕は相手にきっちりと突き刺さっている。何という理不尽か。

 かたや、胸を刺されようとも平然としている女。

 かたや、己には刺さらず相手を刺せる女。

 どちらも理不尽であり、どちらも魔人であった。

「なんて……美しい……」 

 誰かがそう言った。

 年若い少女の声だった。誰のものかは分からないしどうでもよかったが、その言葉にはうなずけた。

 確かに美しい。ここに神も悪魔も……誰にも描く事の出来ない、見る者を狂わせ破滅させる狂気の芸術が一つ完成したと思った。

「!」

 完成したのであれば、後は壊れるだけだ。

 その瞬間を、自分がどうして感じとったのかはさっぱりわからない。しかし、幻の妖姫の身には確かに滅びが訪れていた。

 一見は静かなままだった。

 前兆も変化もなかった、しかしそれでも何故だか俺には幻の妖姫が滅びに足をつかまれていると感じた。俺だけではないらしく、思わず振り向いた先にある面々の幾人かは俺と同じ顔色をしていた。

 ただ、何故だろうか。

 その滅びがもっと大きな“何か”にまで広まったような気もした。

「滅べ、紛い物よ。私の腕よりただ幻というだけで逃れる事などできぬ。影に変わる術者も、夢に変わる剣士も、今までに私の心臓に杭を打ち込みに来なかったと思うたか?」

 かつて、影斬護士と言う怪物の話を聞いた。

 念法と同じ夜狩省の狩り人であり、斬鬼護士という不死身の殺戮者でも手が出せなかった影の妖魔を滅ぼす為に生み出された怪人だという。それを生み出した秘術は中国より伝えられたものだった。

 ならば、妖姫が知っていたとしても不思議ではないか。

 あるいは、戦った事があったとしても。そして、彼らでも適わなかったからこそ吸血鬼は生を謳歌し続けている。

「さて、剣士よ」

 妖姫が、心臓に腕を突き刺したまま俺を見た。

「お前の隠していたものはこれで終わった。座興に過ぎぬが、それなりに愉しませてくれた事は褒めておこう。そして、演目の終わった芸人は演台より消え去るが習いじゃ」

 彼女の興味は俺からは完全に消え去り、ゼムリアとドクトル・ファウスタスに移行した。羽虫を潰すように俺を殺し、彼らを弄ぼうと動き出す。

「御代は見てのお帰り、って知っているか? 芸を愉しんだのなら対価をもらおうか」

 させるか、この糞女。

「俺が欲しいのはあんたの滅びだ」

 今しかない。

 もう一人の自分を滅ぼした影響がどう出るのかは知らないが、現時点で全く痛痒を感じていない理不尽な有様を鑑みれば俺にとって喜ばしい結果はもう出ないだろう。

 むしろ、積み重ねた二千年の時が彼女の腹に呑み込まれるのではないのかとさえ思えてならない。元々詰んでいる盤面、今を逃せば奇跡さえ起こらない。いや、起きても無意味にされる。こと魔性との勝負に関しては……いいや、この女に対して人間は常に最悪の展開を迎える事を覚悟しなければならないのだ。

 こいつらは常にこちらのちっぽけな想像力の上をいって、人間に苦い味を提供し続けるのだから。

「ほほほ、叶わぬ願いに藻掻き続ける有様はそれなりに面白いものだが……お前はもう飽きた」

 傾国の美女は、ひとしきり笑うとその典雅な風貌に似合わない豪快な振る舞いをした。俺に向かってもう一人の自分を投げつけようとしたのだ。

 だが、それに幻の姫は逆らった。

「ここにも引き際を弁えぬ愚か者がおったか」

 玩具に飽きれば壊すのは子供の特権ではない。同じように権利を行使するべく姫は千腕に力を篭めた。縦に引き裂くのか、消し飛ばすのか、いずれにしても幻は幻らしく消えていく未来以外にない。

 そのはずだった。

 その隙を狙い、全ての念を叩き込もうと神風特攻を敢行しようとしていた俺の前で、そして同じように棒を振りかぶり乾坤一擲を試みているゼムリアの前で、妖姫が微笑んだ。

 幻の姫が。

「なに?」 

 信じがたいと実体ある妖姫の顔に書かれるのを見た時、俺は場を弁えずに爽快感を抱く。だが一体何が起こっているんだ?

「ふふ」

 笑い声がした。妖姫の声だがひどくおかしな声だった。マイク越しに歪んで聞こえてくるようなそれは幻の姫が初めて空気を振るわせたものだ。

 笑うだけの知性を持つ事にどうしようもなく厭な予感がした。どういう存在にしろあれは妖姫なのだ。知性があればどうしようも無い事をしでかすに決まっている。

 ぞっとする俺を余所に、相対する女同士は前置きなく距離を詰めた。少しは待ってくれと形振り構わず喚きたくなるほどに無造作だったが、何も出来ない。俺はまるっきり無策だ。

 だが、無力じゃない。

「ぬぅうううっ!」

 精一杯に高めた思念で姫達をまとめて切り裂こうと踏み込む。だが、その俺を妖姫の目が金縛りにかけた。邪魔だ、場違いな役者は引っこめと言わんばかりの苛烈な怒りが叩きつけられて有無を言わさずに硬直する。

 骨まで凍りそうな冷気と全身を燃やし尽くして灰に返る熱気が、比喩抜きに俺を内外から痛めつけてくれるおかげで思念の力はその防御に回さざるを得ない。

 捨て身にならないと言う、帰ってみせるという意思が弱みになった。いや、それだけは認められない。だからこそ踏み込もうとした俺のまさに目の前で、事は起こった。

 両者の距離が零になる。

 片や実体、片や幻。妖姫達は重なり合い、互いの顔と顔がまるで口づけを行うかのように一つとなる。

 最初、二人の姫の姿はインドの交合仏像ミトゥナのように荘厳さと淫らさを感じさせる奇怪な曼荼羅となる。俺も含めて、見ていた誰もが熱い息を吐いた。それは淫欲と感動という本来重なるはずのない衝動が二つブレンドされた奇妙な混合物だった。

 だが、もう半歩通り過ぎるとどちらも白い背中に隠れて互いに前面が見えなくなり、さながら奇妙な像のようになった。

 そして更に半歩進み、互いに背中を預け合うような姿で二人は動きを止める。しかし二人の背中は溶け合うかのようであり、前半面から真っ二つにして合わせているようにも見える。

 何だろうか、この姿は。三面六臂ならぬ二面四臂、阿修羅像のようだがまた違う姿は一体何と言えばいいのだろうか。

「……両面宿儺」

 ふと、古代日本の神話を思い浮かべる。古代の怪人が一番しっくりとくる例えだった。そう言えば、古代と言っても正に今俺がいるのはほとんど同時代だった。あるいはこの光景が日本に伝来したのかと場違いに考えてしまう。

 その間抜けは致命的な隙となった。

 俺の声が空気に溶けて震わせた瞬間、重なり合った二人は青白く不吉に輝いたのだ。

「っ!」

「何だ!?」

 青白い光、真っ先に思いつくのは日本人としてチェレンコフ光だがここは水中じゃねぇ。いったい何が起こっているのかなどさっぱりだが、見るからに危険すぎる現象に坐している事などできない。見ている事さえ忌避したくなる光に、真剣に失明の危機感を覚えるほどだ。

 背筋をぞくぞくと奔る悪寒に苛まれながら振り回した左右の太刀だが、二人の妖姫は見向きもしなかった。目の前で動かない女を斬りつけるなど外道の振る舞いだが、躊躇をしているような余裕は一切ない。

「くそったらぁっ!?」

 だが、振り切る事は出来なかった。太刀が当たるまでの0.05秒よりも速く、二人の姫が俺のチャクラの輝きを圧倒する凄まじい光量で輝いたのだ。それはまさに光の爆発だった。熱も音もない輝きに目は痛みさえ覚えながら眩む。

 だが、俺の腕はその痛みに眩む事はなかった。スタングレネードなど“新宿”どころか“区外”でも警察やヤクザ、下手をすればそこらの学生でさえ持っている程度の極ありふれたものだ。今さらそれで怯むなら俺はとっくに死んでいるだろう。むしろ、そこにあるだけで人心を惑わす妖姫の美貌が消えただけやりやすいというものだ。

 それでも罵声を上げたのは、やはりただの光ではなかったからだ。そもそもただの光なら、俺の聖念を突破してくるなど有り得ない。さっきから、視神経を焼き尽くすほどの痛みが絶え間なく俺を襲ってきやがる。本気で失明していてもおかしかない。何度目の失明だろうか、ここにドクターはいないというのに。

 恨みを篭めて二刀を振るが、しかし剣は目の前の相手にかすりもしない。真っ白な何も見えない視界の中で、ぎりと歯を噛みしめる。

 当たっても効かないんだから素直に当たれと滅茶苦茶な言い分が出てくるが、もちろん口には出せない。

 闇雲に斬ってもしようがないと、悲鳴を上げて見境なしにぶん回したくなるのを必死に堪えて目以外の全ての感覚を総動員するが何も感じない。ただ、何か恐ろしい静かさだけを感じる。

 周囲には雪蓮や冥琳達を始めとしてミンチの吸血鬼共さえも健在だというのに、彼らの息づかいさえろくに聞こえない。彼女らも俺と同じように生物としての本能を刺激されているのだろうか。それこそ止めているのも同然と言うほどに必至になって、息を潜めている。

 これは俺が姫の影に怯えているだけなのだと自分自身に言い聞かせるが、結局は誤魔化しようもなく、嵐の前の静けさなのだとしか思えない。

 突如、大地が揺れた。

「きゃあッ!?」

「なんじゃ、これは!」

「大地が……揺れている!? そんな馬鹿な!」

 それほどの大きさでもない、せいぜい震度三程度の地震など俺にとって慣れている程度だが、彼女らにとっては驚天動地の正に天変地異であるようだ。確かに天変地異だが騒ぎすぎかと思ってしまうのは、やっぱりお国柄というものだろう。

 だが、なんだ。

 この揺れ、何かおぞましくも懐かしい……慣れ親しんだそれを、感じる?

「……嘘だろ?」

 魔界都市の住人であれば、誰もがそれを知っていた。俺もまた、当事者でこそなかったが知っている。

「何かが大地の底に、いるのか?」

 ゼムリアの言葉が奇妙に耳に残った。それに応じて意識を遥か下に向けると、ようやく見つける。視覚が封じられているからこそ鮮烈に理解できる何かがあった。大きさはむしろ小さいと言えるが、その内包されている何かが世界そのものを腐らせるようなおぞましい臭気を発している。

「……この揺れは“魔震”だと!? 馬鹿な!」

 最も恐ろしい怪物を目の当たりにした子供のように悲鳴を上げるのをこらえた俺の脳裏に、一つの忘れ去られた逸話がよみがえる。

 伝説があった。

 大地の底の底には、箱があった。その箱は地霊の巨大な腕に守られて、遥か太古から存在し続けていた。その箱の中には人類創世の機に一度だけ解放された“とてつもない物”があったと言う。

 その箱から解放された“何か”が、どうしてもう一度箱の中に封じられたのかはわからないが、それから幾度も“何か”の開放を求めて箱の蓋は開けられそうになりながらも時の人に目論見は悉く妨げられたという。

 俺の知る最新の記録は、この時代よりも二千年先……場所は日本の新宿で二回解放の儀式は行われ、ことごとく失敗した。最初の儀式の失敗は地震を巻き起こして新宿と東京を完全に分断し、亀裂に隔離された街は魔界都市と呼ばれる悪徳と背徳が煮詰まり、神秘と最新科学が交じり合った異教を生み出したと語られている。

 すなわち、魔界都市“新宿”。

 それを生み出した災害の名前を、人々は誰からともなく“魔震”と名付けた。後々まで恐怖の記憶と余震という形で“区民”の心胆を揺らし続けるそれを、曲がりなりにも“新宿”で生まれ育った俺が間違えるはずがない。

 ごく小さな規模でこそあるが、これは確かに“魔震”だ。

「ふざけるな! いったい何の冗談で“魔震”なんぞが起こりやがる!」

 “魔震”発生のメカニズムは、今もって解明されてはいない。何故、どうして起こるのか。起こったのか。“魔震”が起こればその後には常に魔界が生まれるのか。

 何もかもが未だに調査中の一言で片付けられてしまう。公式記録が“新宿”誕生の一度だけという理由もあるが、何よりも本気で調査を行う酔狂が少ない。祟りを恐れるように、人々は目の前に魔界都市“新宿”を作り上げた“魔震”を畏れたのだ。本気で“魔震”を調べているのは国に命じられた被害者と一部のイカレだけだ。

 だからといって、どうして今ここで何の脈絡もなく起こるんだよ!

「それはお前が連れてきた者のせいじゃ」

 軽やかな嘲りが飛び込んできた。

 視力は未だに回復せず、世界は真っ白で脳みその真ん中あたりに鈍痛を感じるままだが、妖姫だけがその中にハッキリと見えた。

「なるほど、やはりお前は未来から現われたものか。お前の連れてきた私を通じて、それがはっきりと伝わってくるぞ」

 真正面から相対する彼女の後ろには、もう一対の腕が見える。どうやら未だに両者は重なり合っているままらしい。いや、もしや融合の類なのか。

「何が言いたい」

「地の底の底にいる何かが、今の私を求めているのよ。おお、大層な大きさよ。この大地全てよりも大きい。この宙を覆い隠さんばかりに大きい。この揺らぎは、それが身を起こした寝返りのようなもの」

 とろけるような声で、史上最も美しいかも知れない異形は謳う。その間に最初の揺れは収まっていく。

 次の瞬間、先ほどの比ではない巨大な揺れが大地を子供の玩具のように揺らす。それは未曾有の大地震であったかも知れない。少なくとも、この漢の
大地にとってはそうだったろう。

「ほう、ここを中心に円を描いて三十里までしか揺れておらぬ。見事、それより一寸先は針も動きはしておらぬ」

 都市部や山岳部でなかったのは不幸中の幸いか、もしもここが洛陽だったら崩れた建造物や巻き起こった火事、山林だったら土砂崩れに山火事でとんでもない二次災害が起こったところだ。

 しかし、やはり“魔震”。妖姫の言葉を信じるなら、かつての“新宿”と同じような現象を起こしているようだ。

「ぐっ!」

 縦揺れなのか横揺れなのかも分からない強烈な震動に、俺はたまらず膝をついた。仮にも念法使いである俺がただの揺れで膝をつくはずもない。島国生まれのおかげで船上での戦い方だって学んでいるのだから、大きいだけの揺れに足を取られるはずがないのだ。

 ましてや、頭頂のチャクラが稼働している今の俺が為す術なしとは恐るべし。俺がこの様じゃあ他の皆は一体どうしているのか気になるが、声は聞こえず気配さえ感じない。まるで、俺と妖姫だけ違う世界に隔離されているかのようだ。

「これは足音。一段一段、地獄の階段を上っているのだ。さて、どうやら表に出るまで後十歩」

 彼女は心底楽しそうだった。それが何者であるのか見当がついているのかいないのかは知らないが、それがしでかす何かを楽しみにしているんだろう。阿鼻叫喚の地獄を想像して愉悦に浸っていやがる姿は実にこの女らしい。

「そして残りは九歩」

 今再び、世界が揺れる。漢の大地でも汜水関の大地でもなく、本当に世界その物が揺れたと思い込みそうな震動が足下から俺を揺らす。その揺らぎが消えるよりも先に新たな“魔震”が俺を襲った。

 本当に歩みのようだ。一体何が歩いてきていると言うんだ。この歩みは、噂に聞いた地霊のものか? それとも、違う何かか?

 たぶん地霊じゃない。

 地霊は“箱”の守り手なんだ。どういう意味合いにしろ、守る物があるのにわざわざそれを持って人前に顔を出す訳がない。

 だったら何だ。“箱”か? それも違う気がする。“箱”あるいはその中身は封じられているんだ、妖姫を求めて守り手を操る力があるとは思えない。

「あと五歩。おお、大地が割れておる。天が戦いておる。お前には見えぬか、感じぬか? 私の輝きに負けて、何も感じられぬか」

 一体何が起きている。天変地異か、世界の終わりか。

 くそ、根性悪が俺を嘲る為のハッタリだ。俺が失ったのは視覚だけで他の感覚は失っていない。焦るな、落ち着け。

 そう言い聞かせているのに、一歩下がってしまった。それが絶望的な失敗に思える。一歩下がってしまえば、後は幾らでも下がれてしまう根性なしの自分を俺は誰よりもよく分かっている。

 逃げ出したいという気持ちが一気に湧いてくる。手に持つ仁王の重さに振り回されるように更に下がった。

「そう、その顔よ。私の前に立つ者は悉く意気も意気地も砕かれたそういう顔をしなければならぬ。しかし、弱い者が浮かべても詰まらぬ。強者が泣き出す童のような顔をしなければ」

 言葉に押されるように、更に下がる。と、足が何かに触れた。靴越しでも分かる柔らかい肉の感触だった。それがなにか、俺の脳裏にイメージが湧いた。俺の方へ、戦いの場へと少しでも近付こうとしている女の手だ。

「!」

 完全に踏みそうになるのを、必死に堪える。“魔震”に揺らされている中でよくも堪えられたものだが、何も不思議ではない。踏んではならない者の為なら出来るのは当然だ。

「雪蓮」

 名前を口にすると、不思議と筋肉の中を占めていた強張りが消えていく。
 呼吸は出来る、太刀は握っているし足も着く。だから、唯々思念を研ぎ澄ませろ。他のなにも考えるな!

「ほう、持ち直したか」

 足をしっかと踏みしめて、真っ直ぐに立つ。呼吸を整えて精神を集中し、チャクラに更なる力を求める。自分が仏像のような無表情で構えているのがはっきりと分かった。

「三歩……さて、その仮面のような落ち着きが何処で割れるか」

 相変わらず揺れ続ける大地に振り回されるが、どうにか踏みしめて立ち続ける事は出来た。どうにもならない相手、どうにもならない災害が俺と俺の周囲を襲っている。それでもただ剣を振れ。

 通じるから剣を振れ。通じなくても剣を振れ。

 唸り輝け、俺のチャクラ。例え勝てずとも負けられない戦いを切り抜ける為に。

「力を貸せ」

 歯を食いしばり、握る手に力をこめろ。魂の全てを目の前の女を斬りつける為の刃として研ぎ澄ませ。

「力を貸せ!」

 それは世界、そして自分自身に対する要求だった。

 俺にではなく、戦おうとしている女の為に力を貸せ。この手は雪蓮のものでは無いのかも知れない。彼女の手だとしても、戦おうとしているのではないのかも知れない。戦おうとしていても、その理由はどうしようもなく利己的なものであるのかも知れない。

 全ては俺の勝手な思い込みに過ぎない。

 雪蓮が、共にいる冥琳や祭という友人や孫権という妹を守ろうとしているのだと思うのはただの決めつけだ。

 それがなんだ。

「後、一歩よ」

 これが最後。

 凄まじい揺れは、まるで古代中国創世の巨人盤古が大地を踏みしめているようでもあり、あるいは地獄に囚われた数多の巨人族が我を解放せよと鎖を引きちぎる為に暴れているようでもあった。

「なけなしでも根性見せろよ、俺ぇえっ!」

 振り回した二刀が、空を切る。それは文字通り空を、いいや世界を切った。

 何か名状しがたい一瞬の手応えは背筋に怖気を奔らせて、得物を手放さないのが精一杯である。しかしその甲斐はあった。

 巨大な口が息を吸い込むような音をたてて、真っ白い視界が俺の切り裂いたどこぞへと吸い込まれていく。後に残るのは、正に震災の真っ最中の無惨な光景。阿鼻叫喚に泣きわめく人々と己の楽しみに横槍を挟んだ不遜な俺を睨み付ける妖姫がいる。

 彼女の周りには妖姫の魅力から逃れただろう曹操や劉備とその配下達が、互いにそれまでの言動を取り上げて醜い言い争いをするか目前に迫る生存の危機に悲鳴を上げて頭を抱えているかのどちらかだったが、その全てが妖姫の一言で凍りつく。

「黙れ」

 強制的に従えられる言葉だった。その一言は消して大きくもないが地鳴りも喧騒も貫いて全員を金縛りにする。誰もが恐怖に顔を強ばらせていた。標的は俺だけだというのに、余波だけで失禁している輩もいやがる。

「招かれものが、動きを止めたぞ。私の輝きを目印に登ってきていたモノが、篝火を見失った」

 そこまで考えた訳じゃなかった。しかし、偶然ながら俺のがむしゃらな一太刀は結構な成果を上げたらしい。あの発光は地の底の何かを呼び寄せる灯台代わりだったのか。こいつはいい。

「この一幕に、つまらぬ振る舞いを見せてくれるものよ。興が冷めたぞ」

 地面が揺れているのが、妖姫の怒りによるものであるかのように錯覚する。テレビに没頭している子供が途中でチャンネルを変えられた時のような怒りだ。古代より子供と老人、そして暴君は他者には理解できない唐突な怒りを真理のように絶対的な自信を持って看板のように掲げるものだ。自分で暗君と暴君を生み出すとびきりの暴君である妖姫のそれは、特にとびきり理不尽だろう。

「冷めた場の空気をぬくめる為じゃ、お前の心の臓より血をよこせ。下賤の中でもせいぜい紅い部分をな」

 すう、と目を細める妖姫の全身から立ち込める圧倒的な妖気はそれだけで心臓を止めてしまいそうだ。ゼムリアが守っていなければ周囲はあっと言う間に雪原にでも姿を変えているだろう。

 今の俺のように、だ。

「ぐ……」

 物理の領域にまで達した怪奇現象が、皮膚を凍りつかせる。体温を奪うどころか一挙に命を奪われかねない。騏鬼翁のように術を使うのではなく、ただ不快に思っただけで命を握られるのかよ、とことん理不尽だな。

「これが、どうした」 

「……何?」 

 だからこそ、俺は敢えて笑った。

 訝かしんでから怒りに燃えた妖姫の目は、それが俺をどれほど苛んでもいっそ心地よかった。ざまあみろ、は実に気分をよくしてくれる。

「皮を白くしてそれで満足しているのか? 随分と謙虚じゃないか、らしくもない。何もかもを貪り尽くすのが流儀だと思っていたぞ」

「……」

 聖念は尽きた。得物を手放してはいないが、俺の頭頂のチャクラはいつの間にか回転を止めて輝きも消え失せている。それどころか回復力だけは人並み外れていたはずなのに、通常の念さえ回復の兆しがない。本来なら思念の壁で耐えるはずの骨まで凍るような冷気に、抵抗する術はない。声が震えていないのは単なる意地だ。

 ゼムリアの助力も、あの世から還ってきた恩恵も消え失せたのか。それどころか、全ての念を使い果たしてしまった今の俺は強大なる妖魔に立ち向かう術を身につけた念法家ではなくなった。

「さっさとその手で心臓を抉って見せろ。こっちも趣味の悪いお前らを切り離してやる!」

 いいじゃないか。

 ああ、確かに思念の輝きを無くしたが俺は本当に無力か? そうじゃないだろう。いや、そもそも無力になっても立ち向かうべき時であり相手なんだ。だったら胸を張って進むべきだ。

 なにしろ、そうしたいからな。

 俺が畏れず怯えず堂々としてれば、それだけこの女には不愉快だろう。だったらやってやる。高慢ちきで鼻持ちならない女に嫌がらせをするのは、実に気分がいい。

 こういう女は、安い挑発に乗ってくると相場が決まっている。自分を一段高いところに置いているような女が堪えるなんて言葉を知っているわけがない。ましてや、相手は史上で最も高慢ちきだ。

 どんな些細な事でも認められなければ叩き潰し蔑まなければ気が済まない女だ。例外的に、迂遠に手をまわしてもてあそぶ場合こそあるが秋せつらはともかくとして、俺を相手にそこまで手をかけるつもりはあるまい。

 その想像通りに、彼女は真っ直ぐに俺に近づいてくる。ためらいも停滞もなく、一定のペースを維持してただ歩いているだけなのに舞い踊るようなステップで近づいてくる。ただし、その踊りは貴婦人のダンスでも巫女の奉納の舞でもない。生贄の祭壇を前に踊る呪術師のそれを連想させる。

 俺よりも明らかに目線は低いってぇのに、巨大な妖気に見上げる巨人にしか見えない姫が腕を振り上げる。その動きまでが舞踊の振り付けのようであったが、威圧感が途方もない。インドの鬼神、カーリーとはこれの事だろうか。

「魔天の住人に誇るがよい。己はこの世で最も恐ろしい怒りを買った当代一の愚か者であるとな」

 まるで裁きのような物言いに、力の差も何もかもを吹っ飛ばしてむかっ腹がたつのは男として当然だろう。

「抜かしやがれ、あばずれが」

 ばりばりに固まった腕を無理やり振り上げる。そのままへし折れて地べたに落ちそうにさえ思えるが、だからどうした? 

 吠え面かかさなけりゃ、男が廃る。

「わかっちゃいたが、根性悪いな」

 わざとゆっくり、手を伸ばしてくる。この女はわざわざ俺に合わせているのだ。どう考えても人にあわせるような事なんてしない気性の癖に、いちいちろくでもねぇ。

 速い遅い以前に振る事さえできるのかと言うようなポンコツを、悠長に待ってから手を振り上げている。どうしようもなくいやらしい真似を、ためらいもなく面白がってやれるようなえげつない所がこの女の強みなんだろう。

 猫が鼠をいたぶるよりも百倍陰湿なこの女に、なんとしても一杯くわせてやる。

 苔の一念とも言えないちっぽけな意地で愛刀を振り上げる。振り下ろそうにも、情けない事に子供のように木刀の重さに振り回された。

 それを見て、妖姫が笑う。

 無様にあがく俺の滑稽さに、堪えきれないと笑う。ああ、畜生。

 みっともない事は分かっている。それでも、これしか出来ない。まるでグロッキー状態のボクサーみたいじゃないか。スポーツじゃないんだ、頑張ったじゃすまないんだからシャッキリしなきゃはじまらねぇだろ。

 どうすればいいか。

 そうだな、両手で持てばいいだろう。

 そんな風に自問自答して、両手で二本の木刀を束ねて振りかぶる。不思議だ、二本の木刀を二本の腕で持っているのに、一本の木刀を一本の腕で持っている時よりも安定する。ああ、これがいいな。

「健気さは褒めてやるぞ、剣士よ」

 け、と吐き捨てるように笑う。いや、笑おうとしたが強ばって何も出てこなかった。

 四方八方から、妖姫以外の視線も感じる。なんだか、ひどく情けない目で俺を見ている奴ばっかりだ。

 そう言えばこいつら皆、格好良く戦ったり勝ちたかったりする奴ばっかりみたいだな。じゃあ、俺は今よっぽどみっともなく見えているんだろう。

 ゼムリアは後ろにいるけど、あんたはそんな目で見ないでくれるかな。俺はこう言う鈍くさい事しか出来ねんだわ。

「ぁぁぁぁぁあああああああっ!」

 しばれた喉を無理やり震わせると、最初は小さかったが少しずつ声が大きくなった。気合の声なんて、まるで鍛錬みたいな真似をしているな。

 そんな俺は殊更に滑稽なんだろう、妖姫はますます嘲笑を鮮やかに唇に乗せながら俺の一振りを敢えて待っている。とことん人を馬鹿にしている女に、せめてもの一太刀をと振り下ろそうとしている俺は、確かに妖姫の言う通りに滑稽で健気であったかも知れない。

 その妖姫が、振り下ろされる俺の太刀から一挙に遠ざかった。 

 実にらしいな、こういう時に空振りなんて最高に格好悪いじゃないか。さっきからこれを狙っていたのかよ。

 そう思った俺だったが、翳む目で見た妖姫の顔は驚きに彩られていた。なんだ? 一体どうして……

 そこで俺はようやく気が付いた。

 足下には大きな地割れが広がり、俺と彼女の間に黒々とした大きな線を引いている。それは現在進行形でどんどんと広がって、彼我の距離を大きくしているのだ。

「“亀裂”!?」

 いつの間にか再開している“魔震”が開いたそれが、俺には魔界都市と“区外”を分ける分水領のそれと同じにしか見えなかった。何故なら“亀裂”の底には明らかに人知の及ばない圧倒的な何かが蹲っていたからだ。

 それは、大きく伸びをするように立ち上がった。

「ああ……」

 それが何だったのかは分からない。分からないのだが、俺はそれを……こいつを知っている。それは立ち上がり、俺を見下ろした。 

 そうだ、そいつは他の誰でもない俺を見下ろしている。

 お前を知っているように、俺を知っているんだな? “―――”よ。

 自分が誰を思い浮かべたのか、それは水に溶ける薄紙のように消えてしまいもう思い出せない。ただ、間違っていないと思う。

 それは圧倒的な、空を埋め尽くし足の下に漢の大地全てを踏みつぶすような巨躯だった。

 髪と裾をたなびかせ、虫けらに向けるような目で俺達を見ている。

 この俺どころか、ゼムリアどころか、妖姫さえも虫けらのように見下ろしている。ああ、よく分かるぞ。お前が一体何なのかがとてもよく分かるぞ。

 その顔を知っている。その顔を、忘れる事なんて出来ない。お前達もそうだろう、妖姫よ、ゼムリアよ、ここにはいないドクトル・ファウスタスよ、騏鬼翁よ、秀蘭よ。そして劉貴よ、お前も見ているのか。全ての将が、全ての兵が、全ての民が見ているのか、この神を。




 違う。




 そんなイメージが直接脳に叩き込まれた。精神感応って奴だ。

 どす黒く強烈な怒りと共に、そんな言葉が意味だけを持って叩き込まれた。それだけで、気死しなかった自分を褒めたくなった。




 ここは、違うぞ。




 それの怒りは、妖姫に叩きつけられた。

 そうだ、こいつは妖姫に招かれたんだ。妖姫の存在を灯火にして、漢の大地に……この世界に招かれた。何が違うのかはわからないが、要するに漢の大地はこいつが降臨するには不適切な間違えた大地であるらしい。

 招かれものが違う場所に招かれれば、結末は破滅だ。それも、招いたものだけに収まらない何もかもを巻き添えにして打ち砕く破滅だ。




 ここは、違うぞ。




 世界にヒビが入った。

 比喩でもなんでもない。本当に、世界にガラス窓よろしくヒビが入ったのだ。

 大地に“亀裂”が縦横無尽に奔り、そして何もない空にも空間そのものが割れたかのようにヒビが入ったのだ。

 立ち上がった大いなるものを中心に、世界が壊れ始めている。砕け散った空はその奥に赤黒い空間を覗かせる。あれが何もない虚空であるのか、それともそういう色をした何かが詰まっているのかもさっぱりわからない。

 怒りそのものが世界を壊しているかのような天変地異は、まさに世界の黄昏だ。世界の終わり、その言葉をいったい何度耳にした事だろうか。

 魔界都市では珍しくもない程度の話だ。

 あちらこちらに世界崩壊の引き金を引く呪物が転がり、そこかしこで地軸を傾ける数式だの邪神を降臨させる呪文が新発見されては消えていく。本当に、その程度と言えばその程度なのだ。俺だって端役に過ぎないが、何度かその手の事件に首を突っ込んだことはある。

 だが、本当に世界が崩壊する姿を目の当たりにするのはさすがに初めてだ。
 



 消えろ、偽りの大地。偽物の空。




 終われ、嘘ばかりの歴史。




 世界は既にモザイク模様に壊れてしまった。

 破壊神の怒りに呼応して揺れ続ける大地も天空も、区別なくひび割れて砕け散った皿のようになっている。既に雪蓮達どころかゼムリアでさえ言葉もないような状況だ。俺はむしろ言葉が出せないが、声を出せても意味のない奇声しか発せられないだろう。
 
 


 滅びろ、招きし女。




 その怒りは、強烈な悪意となってとうとう妖姫へと向けられた。

 凄まじい事この上ないとはこの事だろう、余波を感じているだけの俺でもいっそ塩の柱にでもなってしまいたいと痛切に願ったほどだった。

 ましてや、直接それを向けられた妖姫は一体どうなった事か。

「ふ、ふふ」

 俺は、あるいは初めてこの女の恐怖に引きつった身も世もない顔を見られるかも知れないと陰湿な期待を抱いた。

 だが、女はどこまでいっても妖姫だった。

 彼女は笑っていたのだ。

 強がりでもない、楽しくて楽しくてしようがないと言う顔で笑っていやがったのだ。

「ふふ、ほほほほほ」

 どこまでも我を失わない、いっそ感動的なまでの我の強さで女は大笑を世界に、破壊の神に響かせてみせた。

「面白い、なんと面白い! このような事はさすがの私もはじめてじゃ! 世界が終わる、この私のせいで。これ程面白い事があろうか。この下らぬ国で、詰まらぬ大地で、これ程楽しい事が待っていようとは想像もしていなかったぞ!」

 世界の崩壊さえも、彼女にとっては娯楽にすぎないのか。本当に、心底楽しそうにためらいなく笑う女に、いっそ拍手を贈りたくなるほどだが、傲然と立つ破壊者にとっては妖姫でさえもただの塵芥のようなものでしかない。


 
 
 打ち砕かれよ、招きし女。




 圧倒的な悪意と共に、暗黒が妖姫を包んだ。

 姿を完全に隠されてしまう一瞬前に、異形とかしていた妖姫の姿が元に戻ったのを見た。何となくだが、俺はそれが幻の妖姫が打ち砕かれたように思えた。

「手に入れる、手に入れてみせるぞ。この力、その存在! 何もかもを私の足下に跪かせよう。神であろうと魔王であろうとも、その全てを地に貶めて笑ってやろう」

 暗黒の中から全く曇る事のない美しい声で、妖姫の叫びは響き渡る。

「千年先になろうとも、二千年先になろうとも、私はお前を手に入れてみせるぞ……お前の街へ、辿り着こうぞ!」



 
 その記憶、その心、時を超えた魂、全て砕けろ。




「おう、砕いてみせよ、今一人の私の腕を! だが忘れるな、腕一本砕いたところで私を砕く事は貴様にも出来ぬ! この二千年を生きた女の、後二千年を超えて歩み続ける女の想い、砕けるはずもない」

 全てが暗黒に呑み込まれてもなお、吸血妖女の高笑いは俺の魂に鳴り響き続けている。

 お前の街。

 そうか、そうだったのか。

 だからやってきたのか、妖姫よ。あの街に、“新宿”に。例え暗黒に呑み込まれて記憶諸共に砕け散ろうとも、お前はやって来たのか……あの街に。

 秋せつらに、出会う為に。
 



 砕けよ、偽物の世界。




 そして妖姫がどこか人知の及ばない彼方に放逐された瞬間、まるで彼女こそがこの世界をこの世界たらしめていた中核であるかのように、世界は壊れた。

 何の躊躇いも慈悲もなく、ただ清掃員が路地裏のゴミを袋に回収するようにあっさりと、この世界は壊された。

 どこかで、騏鬼翁が闇に呑み込まれた。

 どこかで、秀蘭が闇に呑み込まれた。

 どこかで、劉貴が闇に呑み込まれた。

 もう、彼らは俺の事を思い出さないだろうと奇妙なほど強い確信が心臓の下に飛び込んで、嫌な感触を残して消える。

 どこかで、ご主人様とか叫ぶ薄気味の悪い男の泣き声が聞こえた気がした。



 渡水複渡水

 看花還看花

 春風江上路

 不覚到君家

 

 その唄は、最後に奇妙なほどはっきりと聞こえてきた。



「おはよう、気分はどうかね」

「……最高」

 覚醒した瞬間に出会ったのは、ドクトル・ファウスタスではなく白い医師だった。

 ゆっくりと身体を起こしながら状況を確認するが、既に何度か経験した事なので察しはついていた。

 還ってきたらしい。

 夢でも幻でも、どこぞの魔道士かヤクザの騙しではない。白い医師の騙りなど有り得ないという信頼が、自分の帰郷を素直に信じさせた。

「やっぱり、メフィスト病院のベッドは俺のせんべい布団よりも寝心地いいな。疲れが全く無いですよ。おまけに頼りになる主治医の見守りと来た」

 俺の軽口にドクターはにこりともしなかったが、居心地はよかった。俺は患者であり、ドクターは医師の鑑だからだ。

「それでは問診といこう。構わないかね?」

「はい」

 立ち上がりながら、自分でもチェックをする。幸い、チャクラは問題なく稼働しているし、凍傷もない。嬉しい事に、上がった力量はそのままのようだ。無茶したおかげで念法家廃業も覚悟していたので、正直ホッとしている。

「俺は何処でどうしたおかげでここにいるんでしょうか。なんだかおかしな所に飛ばされたところまでは、ドクターもご存じのようですが」

 すっかり忘れていたが、そう言えばトンブはこの人と姉の手によりあそこに来たはずである。そう言えば、あいつどーなった? まあ、地球が死んでも生きていそうな女の心配はするだけ馬鹿を見るだろう。

「後の問診でそのあたりの事情も聞かせてもらおう。君はそのおかしな所から、二日前に“新宿”へと現われた。登場した場所が、最危険地域でせつらと争っていた妖物の頭の上だったのは偶然にしても不運なことだ」

「…………」

 意識がない時にそんな場所にいる妖物と対面なんて、背筋が凍りそうな話だ。

「もしかしなくともとびきり危険な奴ですか?」

「せつらも手こずったらしいが、君が落下してきたおかげで隙が出来たらしい。おかげで捜索対象の猫が助かったと言っていた」

 ……偶然ではなく意図的に落とされたと考えるのは、陰謀論が過ぎるだろうか。いいけどね、別に。

「見舞いのせんべいが届いている。厚焼きだったが、最近は少し焼きが甘くなっているようだ」

 食べたらしい。

「……だった?」

「君のご家族の胃腸は健康だ」 

 ぴた、と足が止まった。

「……来てるんで?」

「勢揃いだ」

 愛されていて我ながら結構な事である。

 俺はため息をついて、頭をかきながら足を動かした。少し足取りが重くなっているくらいは見逃して欲しい。

「前向きになったらしく、結構な事だ」

「心配かけましたからね。男らしく根性出して肚も決めますよ」

「男らしさを説くなら、最初からそうするべきだった」

「うぎ」 

 厳しい一言である。でも正しい。

 俺はばりばりと頭をかいたが、寝ている間に誰か洗ってくれたのか抜け毛もフケも落ちてはこなかった。

「ごめんなさいじゃ、済まないだろうなぁ」

 きっと今の俺の顔は、失敗した子供と大差ないだろう。それが何とも気恥ずかしくてたまらなかった。






 さて、あれからどうなったのか、これからどうなるのかをまとめようと思う。

 間違いなく魔界都市に帰ってこられた俺は、あの後すぐに来院した身内四人、そして南風さんに再会して全てを白状した。自分に前世の記憶があること、その中でこの世界を知った事、皆を知った事、その上でどうしようかと考えてどう行動したのかを何もかも全部である。

 できれば女性陣には酷な話はうやむやにしたかったのだが、それを許してくれなかったおかげでもう少し話し方を考えろと拳骨を2発もらったりもしたが、おおむねの予想通りみっちり叱られてきっちり詫びを入れ、ちゃんと許してはもらった。

 だが、拳骨は大いに理不尽だと思う。

 さらに、リマが某GGGとの縁切りを提案されて困ったりもした。つまり、そっち方面もばれたんだが記録みたいなものと現実をごっちゃにするな、今を見ろと言うような感じのお叱りを受けた。

 泣かれないだけましだよな、と自分をごまかすがリマが泣く所は正直想像できない。泣く暇があったら行動しろ、と尻を叩くのが俺の知っている野生の美女である。

 泣きそうになっていたのは義姉の方で、俺が行動しなければ自分がどういう目に合っていたのかを知ってしまい、おかげで俺に迷惑をかけたと泣かれてしまった。当時の俺は心身共に結構追いつめられていたから、直に見ていた彼女としては申し訳ないと思うのも当然なんだろう。

 それでも我が身の心配は二の次であるのは、本当にいい人だと思う。この人が無残な死を迎える事がなかったのは、我ながら最高の大手柄だ。

 そう言ったら、もっと叱られた。何故だ。

 それから、南風さんとも面会した。

 相変わらず色気の塊のような美女でその点は漢で出会った女武将なんぞ足元にも及ばなかったが、野獣も凍りつく妖気を発したりはしておらず、ただの女でしかなかった。

 心底ほっとした。

 それは彼女も同じで、五体満足の俺にいくつか質問をして問題がないと納得すると同時に安堵のため息をつかれてしまったものである。

 その後は謝罪を一度だけされて、さっぱりと終わった。万感の思いを籠められた一言があれば、だらだらとした謝罪など全く無意味であるという好例だと思う。

「ひょっとしたら、あなたの知識にある工藤さんとの旅のように一緒に全国を回る可能性もあったかもしれない。それが少し惜しかったわ。酷い事ばかり言ったくせにこんな事を言うものじゃないかもしれないけど、あなたと一緒に旅をするのも悪い人生じゃないと思うから」

 そう言って、艶のある流し目を贈られた。冗談交じりの本気に見えるのはうぬぼれかもしれないが、俺はごめんだ。

「苦しんでいる女が隣にいる旅なんて嫌だよ。友達同士の気楽な観光くらいなら付き合うさ」 

「ありがと」

 笑った顔は、初めて幼さを感じさせた。

 と、まあこれだけ上手くいってそのままならよかった。都合がよすぎて夢かと思うくらいだったが八方丸く収まり、俺はまた“新宿”で賞金稼ぎをやる毎日に戻れたのだから、何の文句もない。

 それが崩れたのは、名字が工藤に変わった女性がとんでもないことを言い出したからである。

「それじゃ、冬弥君も学校に通ってみないかしら?」

「……」

 何がどうしてそうなるのか。

「だって、もう賞金稼ぎをする必要はなくなったんでしょう?」

「…………」

 それはそうである。しかし、今さら他の生き方なんて出来るとは思っていない。

「その幅を広げる為に、せめて高校ぐらいは出ておかないと。今ならどうにか三年生に入り込めるかも知れないし」

「……い、いやしかしその、勉強についていけるとは思えないし、後は学費とか」

「そのくらいの蓄えはあるし、お前なんだかんだ言ってもそこそこの教養はあるだろう。とっちゃん坊やでも甘えておけよ」

 やかましいぞ、そこの義兄! そのぐらいの蓄えくらい自分だってあるわぁ! と言ったのが運の尽きである。

 ……“新宿”は“区外”と比較して知性と体力で上位にある場合が多い。“魔震”の生み出す妖気のせいだとも言われているが、原因は不明である。さらに、俺は元々仕事の関係上、結構な知識を“新宿”流のやり方で脳みそに叩き込んだりしているのである。その中には、結構編入だの受験だのに応用できるモノも数多い。

 ええ、学生じゃないので問題にはなりませんでしたよ。

 かくして、俺は編入の為の勉強って奴までしなければならなくなった。なんてこったと頭を抱えても後の祭りだ。仕事で出来た義理を盾に断ろうにも、どこから聞きつけたのかわざわざシャーリー・クロスが出てきて警察に就職するにも中卒は駄目よ、勉強しなさいと言ってきやがった。そんな予定は更々ねぇ。

 向こう側から帰ってきて以来の再会になるトンブでさえも、にたつきながらつまらない事を言う始末。そんな事より漢の連中がどうなったのかわからないか、と聞いてもさっぱりだと切り捨ててしまう。会いに来た意味がないじゃないか、この。

 せめて、編入先になりそうな学校がなければとごねてやった。もちろん俺は探す気はない。何、この話にはタイムリミットがあるんだ。どうにかなるさと気楽に構えていたんだが……見つけてきやがった。

 聖フランチェスカとか言う、いかにも敷地内に教会が在りそうな名前の学校のパンフレットをにやにやしながら持ってきた義兄の顔にワンパン入れたくなった俺は悪くない。

 何しろ、そこは男女比が40:1という極端な元女子校だそうで、共学化後も男子生徒が不足している為に俺でも問題なく編入できるとの事。

 とどめに、“区外”。

 悪夢だな。

「吐いた唾はのむなよ?」

「畜生……」 

 げっそりとしながら学校見学とやらにのそのそ出かけた俺だったが、そこで面白いものを見かけた。

 個人経営の本屋である。

 事あるごとに事件が起こり、リスクを恐れて大資本が入りづらい“新宿”ならともかく“区外”でこういう店は珍しい。

 絶版本でも安売りしていないかなと期待して足を踏み入れたら、そこに顔見知りを見つけた。

 南風ひとみである。

 実はメフィスト病院で別れたきり、一度も連絡を取っていなかったので久方ぶりの再会である。俺は彼女にとっては苦い過去を思い起こさせる相手なのだから、連絡などもっての外だと思っていた。向こうから連絡は来なかったので、やっぱりそういう事だろうと少し寂しく感じているのを認めつつ納得していたのだ。

 それがこんな所で再会とは、一体どう言う巡り合わせなのやら。

 お互いにぽかんとした顔を見合わせて、店主におかしな顔をされてしまったのは笑い話だ。

 その後、ぎこちないながらも挨拶を交わして話を聞くと、彼女はここの店主である男と婚約中だという。めでたいと思い祝福しながらも少し居心地悪く感じたのは、今のシチュエーションでは、まるで自分が追い掛けてきた不幸な過去の使者のように思えてきたからだ。妖気と硝煙を漂わせた男など、これから幸福になる男女の前に立つには不似合いすぎる。俺は当たり障りなく退散すると決めて、その後は彼女と未来の旦那と少し話をした。

 なんでも恋人は、彼女よりも随分と年上な元ルポライターらしい。

 ちなみに元、がつくのは廃業したからで理由は向いていないからだとか。文を書くのは好きだが、えげつない記事は書くに書けない性格で犯罪被害者や加害者の家族にインタビューしようにも突っ込んだことはなかなか聞けず、下手すりゃその場でもらい泣きさえしてしまうほどだとか。他にも仕事はあるようだが、やっぱりこの手の仕事で一番需要のある分野をこなせないのはまずかったらしい。

 鳴かず飛ばずで前々から廃業を考えていたが、かと言って他の特技も思い浮かばず先立つものもない。だらだらと毎日を過ごしていたところ、短い間だが仕事で組んだ南風さんと再会したそうだ。

 彼女は妖魔によってもたらされた異界の妖艶さからこそ解放されたとはいえ、そもそも生まれ持った色香がある。年齢、国籍、職業を問わずに男を色狂いにしてしまうそれは彼女の経験した酷薄な日々により、より退廃的な魅力として体に刻み込まれてしまった。

 例え心機一転して新しい人生を探そうとも、そんな彼女が屑どもに絡まれてしまうのはまさに必然である。

 妖魔の力が消えうせた彼女は無力である。少なくとも、そこらのやくざ相手の暴力にも抗する力はない。今の彼女はかつてのような怖いもの知らずではなく、おいそれと危険な場所に近づくような真似はしなかったが……屑と言うのは埃か黴のようにどこにでも現れるらしい。

 三人の屑ヤクザに絡まれてしまった彼女だったが、そこに割って入ったのが件の店主様だったそうだ。腕っ節には自信がなかったが、それでも露骨に剣呑な空気にさらされた女性を見捨てるほど男を止めちゃいないと一念発起し、殴られながらどうにか彼女を逃がしてみせたのはなまじ腕っ節に自信のある男の武勇伝よりも、よっぽど立派な振る舞いである。

 それを切っ掛けに二人は付き合いだしたのは、あるいは必然であるのかも知れない。少なくとも、そこでさようならと言う恩知らずな女ばかりの世の中ではないようだ。

 彼女の勧めで本屋を開いたと言うが、小さな一軒の本屋を開いた事に喜びと充実を感じているのがはっきりとわかる。ちょっと羨ましかった。

 それにしても正直、野心家というか上昇志向の見える南風さんには小さな本屋の従業員も、店主のような性格の男性も合わないんじゃないかと思うのだが、今の彼女は心から店主に惚れ込んでいるように見える。

 彼女には悪いが驚いた。見てくれはともかくとして、エネルギッシュでがつがつとした男を望むと思ったのだ。事実、俺達の出会った事件の中で死んだ彼女の恋人はそういう男だった。

 しかし、彼女は二十も上の温厚そうだが他人を蹴落としてでも上に行くような真似は死んでも出来なさそうな男を選んだ。嘘にも気の迷いにも見えない。

 恩ではこうなるまい。

 例え、かつての事件によって人生観が大きく変わったのだとしてもそれだけでこうなる訳がない。

 彼女に惚れ込まれるだけの心根がこの男にはあるのだと、当人ではなく彼を慕う女が教えてくれる。それはとても凄い事であり、そして素晴らしい事なのではないだろうか。

 安心した。

 嬉しかった。

 南風ひとみが幸福になるのだと素直に信じられる事が、心底嬉しかった。ようやく、肩の荷が下りたと思ったのだ。

「しかし……」

 南風ひとみが南風ひとみである以上、いずれ糞共に集られるのは避けられない事態ではなかろうか。

 フランチェスカとやらに入ったとして、およそ一年弱……それだけあれば、街を綺麗にする事ぐらいは出来そうだ。

 少しやる気の出てきた俺だったが、見学の初見でいきなり心が折れかけた。

 登校中に見つけた胸像が見るもおぞましい造形をしている時点で往路を帰路に変えたくなったが、顔を合わせた担当任教師がいつだったか虎だの兵士だのに囲まれているところを助けた相手だったので更に気が滅入った。

 とどめに、ちらちらと見かけるクラスの連中の内、半分くらいがどっかで見たような……潔く明言すると漢の大地で出会った女共ばかりだったというのは神を呪うに値する事実だろう。

 一人二人なら兎も角、これだけの数は他人のそら似で済みはしない。かと言って別段探る必要もないので、ここは縁がなかったですませておくのが吉だろう。

 途中で見かけた金髪ドリルのちび助や猫耳付きとは目が合ったが、俺を見てあ、だのう、だの奇声を上げた後で首を傾げていた。

 無関係ではないようでますます縁切りの必要性を感じるが、同時にどういう関係なのかもよく分からない。そもそもどういう学校だ、ここは。

 生まれ変わりだとでも言うのか。

 そんな馬鹿なと言ってしまえば、それこそ天に唾を吐く行為だ。

 その辺の話を聞くには、校長だか学園長だかに話を聞くのもありかも知れないが、正直言ってあの怪人に出会ってまで解決する必要性のある疑問でもないのだ。

 適当にお茶を濁して逃げよう。

 心からそう思った俺は、人気のなさそうな図書館の見学を希望した。生憎と、そこには十八才未満厳禁の本を隠している真っ最中のガキンチョが二人ばかりいて、とても静かではなかったが、非生産的な趣味丸出しの本を学校図書館に隠している頭も悪ければろくでもない二人組は、ふわわだのあわわだの奇声を上げつつ教師に連行されていったので、少しは静かな時間を過ごせた。

 そこで、おかしな本を見つけた。

 薄っぺらくて粗末なつくりの本だった。100頁もない一冊の本と言うよりも小冊子と言う方が適切かもしれない程度の本。

 タイトルもない。

 何とはなしに目についたので、そのまま立ち読みをすると中にはタイトルが書かれていた。曰く《三国外史の外史》。

 この学校図書館に置いてある妙に俺の意識を引く本のタイトルとしては、少々ならず狙っているように思えるのは俺の勝手な解釈だろうか。

 隣にもう一冊同じようなタイトル不明の本が置かれているが、こっちは分厚くてごちゃごちゃと豪勢かつ品のない悪趣味な装飾がされている。箔をつけようとして失敗している様が成金じみていて、作った奴が間抜けに思えた。こっちも中にはタイトルが書かれており、《北郷紀 偉大なるご主人様》などと正気を疑う他ない金箔の文字が、堂々ど真ん中に鎮座している。

 何となく、どこかで誰かが太い声で得意げに笑っているような気がした。

 その中身を見てみると、やはりあの天の御使いについての記録……と言うよりも多分に性的な表現も含まれる下品かつ悪趣味な賛辞がぐだぐだと並び、いい加減気色が悪くて一ページも読めやしなかった。

 口直しになるか、それとも輪をかけて気持ち悪くなるか、ギャンブルな気分でもう一冊のしょぼい本を見てみると、そこにはおおよそ想像していた通りの話が淡々と綴られていた。

 俺が存在した漢。その歴史を書き残した歴史書、戦記、手記。それらをごちゃまぜにしたような小説紛いの一冊だった。

 どちらかと言えば機械的に淡々と書かれているおかげで、逆に読みやすい。こう言ってはなんだが、この二冊を書いたのは別人か、そうでなければ文才が根本的に無いんだろう。やる気があるほど失敗するとか何事か。

 まあなんだか随分と説教は長引いているようなので、生徒とは言え客をほったらかすとは何事だと思うが暇つぶしに読ませてもらおう。




 ……中華の大地に漢という国家が旗を翻した時代があった。

 劉という姓が皇帝となり、儒を推奨し、栄華を数百年に渡って誇り続けた国家である。一度は滅び、後世においては後漢と称される復興の後も更にもう一度亡国の危機を迎えたが見事に持ちなおし、更に二百年の命数を保ったと言われる。

 それを成した人物の名を、董卓。相国と言う皇帝に次ぐ地位に立ち、皇帝その人からの信頼も厚く、それでありながら公正無私であり天下国家と人民の為に身を粉にして生涯を報国で貫いたという。

 この時代の特色として文武の境無く女性がとかく名を残した時代であったが、それ以外にも真名と言うものがあり、男性的な名前の裏に女性としての本当の名前を持っているのが常である。そして、董卓もその名と地位にはふさわしからぬ可憐な女性であったと伝えられる。 

 しかして彼女の活躍した時代も決して治世ばかりではなく、特に歴史に名を記し始めた当初は彼女こそが戦乱の中心になってしまっていた。

 皇帝の信任を一身に受ける彼女はそれ故に地位を狙われて、地位をかさに着て私欲の限りに暴虐を尽くしていると流言飛語を流されて、最終的には諸侯の集う連合に首都目指して攻め込まれる事になった。

 これが董卓の生涯において最初にして最大の危機となる。

 その連合には発起人である袁紹をはじめとして、先の大将軍何進、袁術、馬超、曹操、公孫賛、劉備などの黄巾の乱において武功を上げた諸将のほとんどが参加していた。

 董卓は黄巾の乱の際には外部の異民族に睨みを利かせており、また彼女の統治下は善政の結果、黄巾賊が大挙してこなかった事もあり武功を上げたとは言い難かった。

 彼女が功を上げたのは、黄巾の乱直後に起こった何進大将軍と十常侍の政争による混乱において皇帝を保護した事による。

 後漢において、十常侍とは銅臭漂う悪政によって国土を蹂躙した官非の代表とされている。その彼らが目障りな政争相手である何進大将軍の暗殺を実行した混乱に乗じて、時の皇帝は代を変わり少帝劉弁より献帝劉協に移行した。

 董卓はこの献帝を政争の混乱より救出した功により立身出世を成し遂げたが、同時期に同じく首都洛陽において、袁紹もまた何進大将軍の部下として十常侍を討伐していた。袁紹から見れば、功を横取りされたも同然である。

 袁紹により辛くも暗殺より守られた何進は、少帝の血族と言う事で大将軍の地位に抜擢された身でしかなく代替わりにより失脚し、袁紹もまた功を上げたが報われる事はなかった。

 暗殺の場である宮中において実際に手を血に染めたが報われなかった袁紹が、偶然皇帝を保護しただけで功一等となった董卓に反発するにも無理はなかったと、後に董卓自身が述懐した記録が残っている。

 しかし、同時にその尻馬に乗った形で連合を形成し大義名分を笠に着て己の立身出世を目論んだ輩はまさに禽獣のあさましさと言うより他にはないとも書き残している。

 後者の文については後の創作だろうとも言われているが、とまれ連合そのものには負い目は一切なかったようだ。

 また、たとえ理由が何であれ国家に反旗を翻して治に乱を起こそうとした袁家及び反董卓を旗印にした連合に容赦も譲歩も有り得ない。いや、正確にはあってはならないと言うところだろう。

 徹底抗戦の構えをとる董卓は孤立無援であるかと思われたが、そこに手を差し伸べたのが孫家である。

 元々は袁術の客将をしていた孫策率いる一族であったが、この度の戦における大義名分に疑問を抱いて董卓についたと言われている。もっとも、既にその時代帝室の権威は悉く失墜しており、皇帝は宦官の傀儡に過ぎず、そしてそれは周知だった。

 袁家の大義名分を信じている者など皆無。一般の民草ならいざ知らず、諸将にとってはよほどの世間知らず以外には正に適当なお題目以外の何物でも無かった。

 彼ら彼女らの悉くが洛陽への門となる汜水関に集結し、決戦を行った。

 しかして、連合の兵力は正に圧倒的であり董卓に孫家の力が加わっても差は歴然以外の何物でもなく、敗北は避けられない。そして、王朝の守護者である董卓が負ければ、後に残るのは群狼達が欲のままに漢という国を貪り尽くすのみ。

 中華はこのまま諸侯が抱く天下への欲望のままに蹂躙され、荒廃の一途を辿るより他はない。

 識者は悉くそれを予測して、尽きた王朝の命運に涙したという。

 天命は漢を見放した。人々はそう涙した。

 それに拍車をかけた者達がいた。連合側に加わった劉備玄徳とその配下である。漢の高祖の血を引いていると称する劉備はこの時代の例に漏れず女性であり、付き従う将も義姉妹二人に当時まだ幼い軍師が二人であったが、その首脳陣におかしな者が一人いた。 

 天の御遣い、と称する若い男である。

 この反董卓連合の乱が起こる少し前、黄巾の乱の渦中において、管轄という予言者が奇妙な予言をあちこちで吹聴して回っていた。

 曰く、流星と共に乱れた地に平穏をもたらす天の御遣いが現われる。

 我こそが件の天の御遣いその人である、と広言憚らずに兵を集めて義勇軍を組織し、黄巾の乱において一躍雄飛して名を売ったのが劉備とその一党である。

 それまでは揃って無名の在野に過ぎなかった彼女らであるが、果たして天の御遣いと言う名前に人々は何を見たのか、義勇軍は稀に見る規模にまで膨れあがった。学友であった公孫賛の助力もあったとはいえ驚異的だ。

 同時期に黄巾党と呼ばれる類似した組織による一大武装蜂起が起こったにも関わらず、同じような、あるいは最初から武装を前提としたより攻撃的な私設軍の設立が黙認された。そもそも成立した事態はそれだけ国家の求心力が落ちていたからだと言う説がある。ましてや、それが功績を挙げたとは言え国家の運営における一翼を担う事になるとは有り得ない事態だと言い切れる程の話だ。

 当時の中華においては天の御遣いとは皇帝の事であるからだ。正確には天子と呼ばれるが、天の御遣いとは皇帝の代理人を詐称する、あるいは我こそ皇帝その人だと宣言しているに等しい。

 その天の御遣いを名乗る男を中核とした軍勢が功績をどれほど挙げたとしても、危険視されるのが当たり前であり、何故咎められるどころか小なりとはいえ一つの街を納めるポストに立てたのか、後々まで結論の出ない議論の的になっている。最有力の候補は当時の銅臭政治に習い劉備が宦官に多額の献金をしたからだと言われているが、その資金元も献金先も未だに納得のいく答えは提示されていない。

 ともかく、天の御遣いと言う特殊な存在を旗印にした劉備は連合の中でも勢力こそ小さいが有名だった。その彼らが皇帝救出を大義名分に上げているとは言え、公然と首都に攻め上がってくる事実に、劉備が劉姓にして高祖の末裔を称している点もあり帝位を狙っていた可能性を示唆する学者も多い。

 いずれにしても単純な兵力差に始まり董卓、つまり官軍の不利は明白。時流は連合へと傾き、董卓および孫家はもはやまな板の上の鯉も同然であった。

 しかし、ここで時流を覆す人物が現われる。

 今一人の天の御遣いである。

 正確には、天の御遣いと呼ばれる男である。彼は生涯に渡って自らを天の御遣いと名乗る事はなく、むしろそれを忌避していた。彼をそう呼んでいたのは、あくまでも周囲でしかない。

 このもう一人の天の御遣いこそが、後々まで続く董卓による漢の繁栄を導いた戦勝の立役者である。

 彼は忽然と戦の渦中に現われ、あっと言う間に戦況を覆して董卓および孫家を勝利に導いて見せた。その神がかった力に、人々は彼こそ本当の天の御遣いよと讃え、崇めた。現在の中国では天の御遣いと言えば彼の事である。

 しかしこの男は多大な功績を挙げているというのに前歴どころか名前さえも記録には残されておらず、実在を危ぶまれている謎の人物として後世に謎を投げかけている。
 


「…………」

 何だろうか、果てしなく厭な予感がした俺は一度ページをめくる手を止めた。

 この先を読んではならないと本能が警告するが、同時に本能は知らずにおけるかと要求してくる。

 しばらくの逡巡の後、俺は意を決してページをめくった。



 二人の天の御遣いは、共に唐突に時代の渦中に現われた。

 彼らは同時期に姿を現しているが、それぞれの立場は敵対していた連合の乱に見るように非常に対照的であり、それぞれの行動、及び能力もまた示し合わせたように対照的で歴史学者にとっては非常に興味深い研究テーマを提供し、講談や京劇、映画などでも多く取り上げられるが謎は多く、人物像も基本はあれど多くのバリエーションが見られ、後世の人々を楽しませている。

 まずは劉備軍の天の御遣いだが、こちらは周囲に存在を喧伝した事もあり、ある程度詳細な記録が残されている。

 名前は北郷一刀といい、当時の漢と後の中国の歴史上では実に珍しいどころか他に類を見ない奇妙な名前を名乗るたいそう凛々しい面差しの青年だったようだ。光を受けて輝く特殊な造りの衣装を身にまとい、その衣装を用いて自分は天の御使いであると周囲にアピールして劉備軍成立の助けをして歴史に登場している。

 残念ながらその衣装は現存しておらず、図解も存在せず何で作られていたのかどういう形状であったのかも不明となっているが、当時の劉備一行において内政を取り仕切っていた諸葛亮の残した記録では、前述のように純白で光を浴びるとそれを受けて輝く服であったらしい。また、記録されている形状が当時の漢における民族衣装と言うよりも二十世紀の洋服のようであり、類似した衣服を使用している人物は誰も確認されず、どこの誰が考案したのか未だに謎となっている。

 名前の形式も独特どころか全く符合しておらず、当時の重要な慣習である真名を持たず、まるで後世の日本人のようだ。

 おかげでSFマニアからはしばしばタイムスリップしてきた日本人として扱われているが、それ以外にも当時の漢においては他の誰もしなかった堂々と天の御使いを名乗る点に代表する内面の非常識さも、彼が異邦人と言われる一因となっている。

 彼の劉備軍におけるポジションであるが、義勇軍の頃から一貫して戦時及び平時に公式な役職を持って奉公していた記録はない。

 にも拘らず、要職にある名家の某かに出会った際にもまるで対等、あるいは自分が上であるかのような言動をとり続けていたらしく、人によってはさすが天の御使いよと褒めたたえ、人によっては非常識な小僧と蔑んでいた。

 さて、そんな彼だが公職に身を置いていないとなると日ごろ一体何をしていたのか、何ができたのか、それについては一切の記録がない。文武に優れていたという記録は存在せず、ただ容貌と衣装のみが取り上げられており、おそらくは本当に宗教的な象徴、神輿だったのだと考えられている。同様に、決して配下たちより文武に優れていたとは言えない劉備玄徳も彼らの象徴のようなものだったと考えられている。

 劉備は義勇軍を結成する際より一貫して掲げていたスローガンに“万民の幸福の為に”と掲げており、それはまさに宗教である。

 幸福の為に何をするのか明確にされてはいなかったが、それもまた宗教らしい。

 人によっては彼女を思想家と呼ぶが、彼女は決して思想家ではない。天の御使いと言う偶像を掲げた点もそうだが、そう呼べない程に彼女の掲げる言葉は曖昧で大雑把だからだ。しかし、あまりにも大雑把だからこそ彼女の言葉を聞いた聴衆は、言葉の隙間に自分にとって都合のいい展開を期待して劉備を支持した。

 事実、彼女の人気は非常に高かったらしく黄巾党打倒から反董卓連合までの間には仁君として一地方に限られてはいるが高く評価されている。

 それまでただの一般人でしかない劉備とその一行が、あっという間に人々に支持されるだけの内政における手腕を見せるというのも驚いた話だが、これは彼女たちの有能さと同時に前任者の無能ならぬ有害さを示している。

 当時に限らない話だが漢においても役人とは不正と賄賂の温床であり、役人が立場を笠に着て私腹を肥やすのはもはや当たり前と言えた。しかし、劉備たちは決してそれをしなかった。当たり前の事を当たり前にする事が驚かれるほどに、当時の漢は腐っていたのである。

 誤解を招きそうな書き方になってしまったが、彼女らは不正に奔らないだけではなく実際に有能だった事も明記しておく。街を運営するには逆境に等しい当時の状況で、生き残りの黄巾や無関係の山賊を退治して安全を確保し、流通を整備して人々に生活をできる環境を提供したのは素人ができる話ではない。そこには並ならない苦労があったのだろうが、助けになったのは劉備の人徳と、何よりも天の御使いの名前だった。

 北郷が容貌と衣装で、劉備は姓と人徳で人を集め勢力を確保していったのだが、特に北郷の存在は、言い方は悪いが民衆を取り込むには実に有効だった。

 天の御遣いと言う悪く言えば正体不明で得体が知れない、よく言えば神がかった超常の存在に民衆は一斉にすがった。

 一種の“苦しい時の神頼み”と言えるかも知れないが、これは同時に漢に対する民衆の失望を逆説的に記していたと言える。

 こう考えると、北郷の能力について記録が残されていないのも意図的だと考えられる。彼はあくまでも超常なる天の御遣いであり、人ではいけなかった。文武に能力を示してしまえば、人になってしまうのは避けられない。おそらく、北郷に文武の才はなかったのだろう。少なくとも、例え噂だけでも他を隔絶する人の領域を超えたと喧伝できる程に秀でた人物はなかったはずだ。

 そして同様に、信仰の象徴が持っていなければならない何らかの神秘的な奇跡を起こす事も、もちろんできなかった。例えばキリスト教におけるイエスのように、罪人の為に自らが罪を被るような振る舞いも、その後復活を遂げるような奇跡を起こす事もなかった。

 彼にとっての奇跡とは、どこかの誰かが触れ回った予言に乗っかる事と不可思議な衣裳、それだけでしか無かった。その予言者管轄と北郷は同一人物であったと言う説も、昔から根強く語られている。

 北郷には前歴が全く存在せず、出身も血族も不明である。おそらくは、何者かが騙った存在しない人間と言うのが今の定説となっており、その何者かが管轄自身だとしてもおかしくはない。

 他にも彼の正体には奇説珍説は数多く、劉備達を騙した詐欺師である、また逆に劉備達に御輿に担ぎ上げられた名も無き哀れな民だとも言われている。最も下世話なものは、彼が劉備達をたらし込んだ男妾であると言う物で、劉備とその義妹は天の御使いの名前を騙った北郷と共に色欲の限りを尽くしていたと言うが、それはせいぜい彼らが男一人に残りが女性という極端な男女比であった為に出てきた誹謗中傷だろう。
 
 他陣営の将兵が見ている前でも気にかける様子もなく、まるで逢い引きの最中のような言動をとっていたと曹操の配下随一の知恵袋と言われている荀彧が、極めて攻撃的な文章で書き残しているが、彼女は他に類を見ない性差別主義者として有名で、天の御遣い北郷に対しても相当な色眼鏡がついているのだろうと考えられている。

 それ以外では、劉備軍の幾人かが残した記録ではその悉くが、何もしていない、あるいは出来ないのかも知れない北郷こと天の御遣いを容貌や心根ばかり極端に取り上げて褒め称えているのがおかしい。

 または褒め方がどうも臣が主君を持ち上げていると言うよりも、女が男を褒めているようにしか見えないと言う後世の分析もあるが、前者はともかく後者は誹謗中傷の域を出るものではなく、結局彼は現在のところどんな資料を探っても、歴史の闇に埋もれた正体不明の宗教的な偶像でしかない。

 対して、もう一人の名も知れない男の方はどうか。

 名前も知られていない正体不明の男。存在自体が怪しまれている男だが、彼の記録は当時の高名な人物が残した様々な資料に明記されており、実在は間違いないようだ。

 彼は北郷のように過剰に容姿や内面を掘り下げて描かれても褒められてもおらず、極めて端的に一本の木剣を携えた奇妙な格好の若者と、資料には記されている。どのように奇妙であったのかは董卓の残した資料には書かれていない。

 彼が歴史に登場したのは北郷と同じ黄巾の乱であり、旅人として各地を回りつつ出くわした黄巾党を捕縛したらしい。

 たった一人で、しかも殺さずに千人強を捕らえてと言うから冗談のような話だが捕らえた黄巾党を突き出した記録が残っており、事実なのは間違いない。旅をしていた目的は定かではなく、恐らくは黄巾党に故郷を焼かれるなどで流民となったのではないかと考えられている。

 しかし、何よりも不思議なのは捕縛であり討伐では無いと言うところだ。

 討伐でも十分に信じがたい働きだが、いったいどうして捕縛なのか。明らかに難易な選択肢を選べる技量もすさまじいが、その必要が一体どこにあったのか。黄巾党を討伐することは決して違法ではない為に、それが法に則った行動と言うわけでもないのだ。

 いったい彼が何に拘ったのかは不明であるが、それ以上に不可思議な話もあり、この時に捕らえられた黄巾の男たちは悉くが幻に悩まされていたのだと伝えられている。

 彼らはこれまでに殺してきた人々と同じように殺される幻に終始悩まされ続けていたと言うのだ。それはさながら祟りのようでもあり、あるいは天罰のようでもある。

 この奇妙な現象から彼の存在は人知れず噂の端に乗るようになったが、彼自身が特に自分の存在をアピールするような事はなく、噂どまりでしかなかった。

 彼が明確に人々の前に姿を現したのは、黄巾の乱終結の一大決戦の際である。彼はその戦いの中で後に勇名悪名、様々に名を馳せる多くの英傑と顔をあわせている。

 反董卓連合に参加するも、途中で脱けて生き延びた公孫賛とその配下、趙雲。

 反董卓連合の中核であり、敗退により失墜した曹操とその配下。

 董卓についた江東の小覇王孫策とその両腕、黄蓋と周瑜。

 そして、天の御遣いと劉備の二頭体制が独特な劉備陣営の面々との出会いがあったらしいが概ね諍いの方が多く、北郷が大体の陣営に友好的に出会っていたのとは対照的に友好的と言えるのは後に江東を中心とした広大な領地を手に入れる孫策達ぐらいだったらしい。

 それを理由に、彼は異性受けしない容貌だったのではないかと言う説もある。何かと対照的な北郷が特に容貌を褒め称えられているおかげで、今では半ば定説ともなっている。




「とりあえず、北郷殺すか?」

 諸々の八つ当たりを含めて、七対三の本気で呟いた。まあ、どこにいるかもわからないのだから自重はしておく。

 一息をついて落ち着いてから、奇妙な事に気が付いた。

「なんだかおかしな記述だな。まるでオカルティックな技術や話が架空の代物みたいじゃないか」

 “区外”でも浸透はしているよな。ああ、“魔震”以前に書かれたのか?



 この時の彼の行動については、周瑜の残した記録に残されている。

 周瑜と言えば後漢でも特に名の知られた知恵者であり、比肩しうるのは董卓の懐刀と呼ばれた賈駆のみである。極めて聡明であり同時に冷徹とも謳われる女性だったが、ここで彼女が残した記録は実に突拍子のない手記であり、今もって疑惑のタネとして論争の的となっている。

 曰く、吸血鬼。

 黄巾の砦に挑む決戦前日の夜、彼と諸将は顔を合わせた。前述の内、劉備達を除く面々が一堂に会したのは、行軍中に紛れ込んだ奇妙な若者を見つけて噂の木剣を持った男を連想したからだ。

 その時、彼はおかしな事を言い残して消えたと言う。

 かつて妲己と呼ばれた女が吸血鬼となって潜伏している。

 質の悪い冗談のような話を残して消えたと複数の証言が残されているが、消え方もまたおかしく“突如発生した血の池から生まれた腕に地の底に引きずり込まれた”と言うのだ。 

 他にも、荀彧の暴言に怒り目にも止まらない速さで脳天を一撃した。その痛みは彼が消すまで絶え間なく続いた。

 奇妙な光の矢を天高くまで届かせた。

 そんな正しくおとぎ話のような逸話が残されている。これらの荒唐無稽なエピソードばかりが目立ち、彼の人間性や容貌の記述は少ない。これが残された大体の記録に共通しているので、研究者の悩みの種ともなっている。

 繰り返すが、これらは後に対峙する複数の陣営がそれぞれ残した記録である。また、この記録には当然ながら各陣営ごとに違いが出てくるが、公孫賛の残した記録には、趙雲が光の矢で鋼鉄の門を破壊したのを目撃した。その際に手も触れずに趙雲を羽のように宙に飛ばしたと言うエピソードや、孫家には曹操が黄巾の残党を自陣に引き込む為に替え玉を用意して味方を騙してまで張角兄弟を生かして捕らえたが、彼らは吸血鬼となって陣を荒らし回り、件の“もう一人の天の御遣い”によって倒されたと記されている。

 また、公孫賛の残した記録の中には彼女の戒めとした述懐が書き記しされており、その中で彼は義勇軍の兵士が起こした子供を被害者とした殺人事件で天の御遣いや劉備達と対立している。

 その際にも、劉備の義妹である武将、関羽と張飛をあっと言う間に取り押さえたというのはともかくとして、剣で切られても血も流さなかった、一踏みで地震を起こしたと随分なエピソードまで書かれている。

 それこそ記録と言うよりも神話や伝説の類に思えるが、書いたのは要職にある公孫賛や、知性をもって鳴る周瑜だ。それがこんな文章を残すなどと言う事があるだろうか。示し合わせてふざけたにしても、彼女らはそう言った関係にはない。むしろ後々には敵対していたほどだ。

 これ以外にも、彼と董卓の最初の縁もまた奇妙な事件の中で結ばれている。

 黄巾の乱の直後、洛陽において奇妙な犬による獣害事件が起こったのだが、それが風より速く走る虎より大きな不死身の犬だというのだ。

 それこそコナン・ドイルの推理小説に出てくるバスカヴィル家の魔犬のようだが、なんと後々天下無双の武人として知られる呂布や、当時最高の名将とも呼ばれる張遼、そして呂布の側近である陳宮までもがこの奇怪な事件の被害者として名前を挙げられているのは有名な話だ。

 そもそも事の始まりは、呂布の飼い犬や飼い猫が行方不明となった事に始まる。動物好きとして多くの犬猫を飼っている事で知られる呂布は自ら愛犬愛猫を探し回ったが、どこにも見当らない。方々をあてどなく探している内に、彼女が見つけたのは自分の犬猫を食い殺してしまった巨大な犬だった。

 もちろん悪犬に誅罰を加えようとしたのは当然な話の流れだが、まさか彼女の方が吹き飛ばされるなどとは想像もつかなかったに違いない。それでも彼女まで犠牲にはならずにやり返したのは面目躍如と言ってもいいだろうか。いずれにしても、個人の武であれば押しも押されもしない誰もが認める当代随一の武将に痛撃を浴びせて逃げおおせるというのはどう考えても尋常ではない。

 この犬の正体は、話を盛り上げるために大げさに記録されているだけ。あるいはそもそも全くの架空の話であるとも言われており、実際に記録を残したのが董卓でなければただの面白い漫談で終わっただろう。

 ともかく、その野犬退治に参加したのが件の青年である。一体どこで話を耳にしたのかはかは知らないが、彼は野犬退治を決めた呂布と張遼、そして陳宮に参加を提案したのだが一蹴され、諦めきれずに後をつけて行ったとなかなか情けないエピソードが伝えられている。

 それは義侠心からなのか、それとも士官や報酬目当てなのかは後世、彼の事を取り上げた様々な書籍によって大きく分かれているところだが、恐らくお節介なのだろうと結論は出されている。

 彼は見事狂犬を退治した後、特に士官をせず、かと言って報酬も受け取らずに消えているからだ。これには一説に、呂布や陳宮、張遼たちと折り合いが悪かったからだとも言われている。

 その後、彼は洛陽に来訪した孫策からの依頼により、彼女の妹である孫権の救出に同行する。孫権は、母親の戦死により失墜した孫家の後釜に座った袁術の元で体のいい人質としての日々を余儀なくされていたのだ。

 風来坊と言って差し支えのない男に随分と重要な役割を頼んだものだが、元々彼らは知り合いだったらしい。孫策はよく市井で遊び歩くらしく、その際に決闘騒ぎを起こした。たまたま相手に選ばれたのが件の木剣男であったらしい。その勝負は孫策の敗北で、それ以来自分を負かした男を孫家に引き入れるべく探していたのだと言う。

 だが、それだけではなく文を好まなかったらしい孫策自筆の回顧録のようなものに当時の袁家の状態を書き記されているのが発見されているのだが、そこでは袁家が吸血鬼に乗っ取られたと明記されているのだ。

 袁術の元に当時は珍しい男の武将が仕官したのだが、この男が吸血鬼であり袁家を乗っ取ったのだと確かに記されている。

 名を劉貴。

 目を見張る精悍な益荒男であり、公孫賛の部下、趙雲や孫家の周泰を手も触れずに吹き飛ばして瀕死に追い込み、曹操らの不興を買った際に首を衆目の前で刎ねられてすぐにくっつき平然としている怪人だったという。

 このように、もう一人の天の御遣いの逸話は、悉くが眉唾ものの怪奇小説のようなエピソードばかりであり質の悪い冗談だと言いたいが、残している筆者が当時の著名人ばかりで一人としてほら話を吹聴するような人物では無い。乱心したとは思えないほど明晰な文章で書かれ、彼女らは生涯にわたって怪異や神秘に傾倒したという記録はない。むしろ全員、天の御遣いのせいでそのような類は敏感に否定していた。

 否定したくてもしきれない堅実な歴史家は、北郷の場合以上に眉をひそめて敬遠するのが常である。

 逆に娯楽としての需要は高く、市井では西遊記などの知らない方がおかしい有名どころには一歩劣るが、昔から親しまれている冒険活劇の一つともなっている。

 さて、その袁家からの孫権救出は首尾よく済ませたらしいが、その際に孫権と、そして護衛として側にいた甘寧からも彼は嫌われていたらしい。そもそものきっかけが彼の立場があまりにも信用できないからだったそうだが、どうも彼は出会う女性の悉くから嫌悪感を持たれているような記述が多く、当人の性格にも問題は多々あったのだろうと推測されている。

 天の御遣い北郷は言うに及ばず異性からの人気は高く、件の袁家の武将でさえ孫権との悲恋物語が語り継がれているというのに、彼だけは好感を持たれるよりも剣呑な関係になっている記録が目立つからだ。

 ただ、孫権と甘寧を除いた江東の女性と董卓側の張遼とはそれなりに懇意にしていたらしく好意的な評価が残されている。

 董卓や彼女の臣下が書き残した資料には彼の人間性を記述したものはほぼ皆無であり、他の陣営はむしろ否定的なものが目立つが、孫家の残した資料の中には我が身を省みず人を助ける。その際には報酬も感謝さえも求めないと好意的な記録が目立つ。ただし面倒な人物であるとも書かれており、人助けに命を賭けたりする一方で他者との関係を良好にする努力を怠りがちでもあるとも書かれている。

 彼はあくまでも旅人として自分を位置付けており、人間関係がどうなろうとも気にしていないようだと書かれている。自分の立場をそのように固定しているから、言いにくい事も必要があればはっきりと言ってしまい、それでこじれた関係を修復する努力はしない。

 また人の好意を受け取る事を避けるきらいがあり、助けられた恩に報いる為に真名を預けられた際にそれを断り、恩で真名を預けられるわけにはいかないと返している。

 これは非常に問題のある行動であり、争いになっても仕方が無い礼儀と常識に欠ける行為であった。また、当時の階級社会において非常識な言動を繰り返しており、それらは天の御遣い北郷と同様である。

 北郷が自分を天の御遣いとして社会の常識や権威の通用しない存在として認識している、あるいはそもそも礼節に欠けている節が見られるのに対し、彼の場合は自分を社会から外れた風来坊であるからと、わかっていて無視しているようだと周瑜が書き残している。

 宗教家とアウトローのような違いと言うところだろうか。いずれにしても、当時の社会においてはかなりのトラブルメーカーだった事は想像に難くない。

 そんな彼だったが敬意を払う相手はいたらしく、たまたま出会った同じ旅人の二人組には強く敬意を表し下には置かない扱いだったと賈駆が愚痴混じりに残している。

 彼らの内一人は剣士であり、もう一人は医師として旅暮らしをしていたそうだが、名前は是無理亜と匍禹巣他巣と書かれており、どう考えても当て字である。恐らく、当時は少し珍しい西洋人だったと思われるが、医師は当時の水準で特に高度な文化を誇った漢でも匙を投げられた周瑜の難病をいともあっさりと治して見せたらしく、その後の汜水関で行った兵士達への治療も神がかっていた為に医療の神として江東を中心に崇められている。

 周瑜の病気は症状からして恐らくは結核の類と思われ、これは近代まで不治の難病の代名詞だった。彼はそれを一晩で治療したと書かれている。さすがに誇張だろうが、治療がなされたのは間違いないようだ。

 彼もまた旅人であり、その医療が広められたわけではないのは後々まで広く惜しまれた。

 通常、これ程の医療技術を持っている人間を簡単に市井に放つような為政者はいないだろう。それが目の前で身内を相手に結果を出したのならばなおのことだ。

 しかし彼らは揃って、汜水関の戦い以降姿を眩ませてしまったのだ。何処に行ったのかはまるでわからない。

 これは、中国史上最も謎に満ちていると言われる汜水関防衛戦の秘密その物に深く関わっている。

 汜水関防衛戦と言えば、おおよそ一般常識として中国のみならず世界中でも知られている一大戦争である。その理由はやはり、開戦から終戦までが謎に満ちているからだ。正確に言うと、記録がしっかりと残されている当時の戦争とは全く異なった、まるで殷周革命のような神話か伝説さながらの記録しか残されなかったからである。

 そして、その中心にいるのが件のもう一人の天の御遣いこと木剣を携えた旅人だった。

 この戦争の中で、彼は正に物語の主人公のように戦場を好き勝手にかき回した。手に持った木刀で騎兵の放った矢を天空に張り付けただの、大地を真っ二つに切り裂いただの、前述した袁術の将である劉貴に果たし状を出して、双方の軍を止めた上で観衆に決闘したりと正にやりたい放題である。おまけに、この決闘を各陣営の主要人物も身の危険を顧みずに、残らず見物に行ったと言うから訳が分からない。

 あるいは、この戦いの結果如何が戦局を左右する約定でも結んだのではないのかとも考えられるが、実はこの時、袁術の将はともかく彼個人は董卓にも孫策にも仕えるどころか雇われてもいないのだ。

 終いには彼から後光が差し、夜にも関わらず昼のように戦場を照らしながら決闘に勝利したなどと言うのだから、もはや聖人か何かのようだ。

 この現象もまた諸侯を始めとして数多くの兵士達が目の当たりにして語り継ぎ、彼こそが本当の天の御遣いだと言われる由来になったのである。

 北郷は自らを天の御遣いと名乗ったが何か実力を披露したわけではなかった。対して、彼は天の御遣いと呼ばれると嫌悪を顕わにしたようだがそれ以外の何者でも無いと言われる力か現象を衆目に見せつけたのである。

 つくづく対照的な二人だったが、ここで明暗が分かれた。この決闘の後、反董卓連合の兵士たちのうち劉備軍と曹操軍が自分たちの上にいる諸侯に反旗を翻し、他の軍の兵士も士気がガタ落ちで無気力とさえ言える状態となり沈黙を守った。

 反董卓連合は、自滅と言う形で終結を迎えたのである。例外は、決闘前に兵を引いて自領へと引き返した公孫賛のみ。だが、一体なぜ兵士たちは将に反旗を翻したのかはハッキリとしていない。

 通説では“本当の天の御使い”の光を目撃して目が覚めた、などと言われているがそれでは天の御使いに導かれて参戦した劉備軍の兵士たちはともかく、曹操軍の兵士達まで暴走するには弱く、これもまた謎となっている。とにもかくにも、謎ばかりの戦争なのだ。

 さて、この戦争自体が、繰り返し書いたように袁紹を始めとする諸侯が皇帝の寵臣となって飛躍した董卓を嫉み、自らが取って代わろうとした、あるいは皇帝を廃嫡しようとさえした不忠の極みを発端としている。

 黄巾の乱を乗り越えて董卓の手腕により平和を取り戻しつつあった民にとっては正に迷惑千万と言ったところだったろうが、実際に勝機が大きかったのはどちらかと言えば、やはり諸侯の方だった。

 まず兵力その物が段違いであり、統率する将も数が違う。皇帝に弓引く大義名分を手に入れ、曹操などは残された手記などから将来的な簒奪を狙っていた事も分かっており、例え皇帝その人が戦場に出ていたとしても彼らは止まらなかっただろう。

 既に漢王朝の権威は地に落ち、地方では国などない方がマシと言うほどの衰退ぶりを示していた。仮に連合が勝利したのであれば、例え皇帝を弑逆し国を滅ぼしたとしても民衆は最終的に受け入れたに違いない。

 董卓の優位は汜水関に代表される地形の有利、それだけしかなかった彼女らに敗北はむしろ必至と言えた。

 それを覆したのが名将でも名君でもない、どこの誰とも知れないたった一人の旅人だなどとは冗談のような話としか言えない。

 おまけに、決戦の終わりがひどく曖昧で当事者もよくわからない状態になっているような記述であり、兵士たちの暴徒化以降はいったい何がどうなったのか誰にもわからなくなっているのだ。おそらくは全員が我を忘れたほどの泥沼の状態だったのだろうと推察できるのだが、更にわからないのは賈駆と董卓さえもがその場にいたらしいのだ。

 彼女らも元々武将であり軍師でもある。戦場にいてもおかしくはないが、少なくともこの時彼女らは洛陽で日常の政務と後方支援に勤しんでにいたのはハッキリしている。つまり、この二人は長く見ても数時間程度で洛陽から汜水関まで移動した事になるのだ。

 ついでに、公孫賛と趙雲も何故だか同じように戦場に戻ってきたらしい。寝返りと言うわけでもなく、当人は妖術使いに拐かされてしまったと悔しそうな述懐を残している。

 先ほど通説と書いたが、そもそもこれらのような滅茶苦茶な展開を書き残している記録など信用できるはずもなく、今でも隠された真実を追い求めている学者も多い。

 ともあれ、訳が分からない展開は汜水関の戦いが董卓の勝利に終わったと同時に終結する。それは当時の人々のみならず、後世の知識人にとっても幸いであった事が間違いない。

 さて、件の天の御遣いは名乗った北郷も名乗らなかった木剣の男もこの終戦をもって歴史から名を消す。

 北郷はこの時、暴徒と化した兵士達の手で殺されたとも何らかの理由で恐慌状態になった関羽や張飛の手で殺されたとも言われているが、いずれにしてもこの戦争を乗り越えられなかった事は確かである。また、この恐慌状態というのが原因こそ不明だが、後々まで終戦時の記録が残っていない理由と同じだと言われている。

 もしもこれが真相なら、終戦のみならず一連の戦いを通して正確な記録が残っていない理由は彼女らが“恐慌状態になった理由”をよほど思い出したくもなかったからに違いない。この隠された真相こそ戦争の謎を明かす最大のポイントなのは明々白々であり、同時にどうしても理由の分からない最大の謎ともなっている。

 さて、汜水関防衛戦後の彼らはその後、董卓と孫家は栄華を極め、反董卓連合に属した面々はほとんどが没落の憂き目を見る事になる。

 董卓はその後も位人臣を極めた相国の地位を安泰とし、漢の発展に尽くして生涯を過ごした。立場上質素とは言えなかったが、地位から見れば驚くほど小さな屋敷で華美とは無縁の生活を送っていた。

 しかし当時大きな勢力であった清流派の代表孔融は、そんな董卓を地位に固執して権にも執すると声高に批判する。この声に反董卓連合を思い出した董卓は漢が分裂するのを恐れて、職を辞する。

 しかしそれによって生まれた混乱は大きく、しかも孔融を始めとして董卓を離職に追いやった清流派は全く責任をとらず逆にそれもまた董卓の責任、不徳と罵る始末だった。

 業を煮やした賈駆の手により孔融の処刑が決行されるのだが、孔子の子孫である孔融の名声は高く、董卓を呼び戻すどころか賈駆もまた失墜して職を辞する事になる。

 国家を運営できる能吏の要が消えた混乱は大きく、その後漢は再び権威を失うかと思われたが、後に司馬仲達が参内し辣腕を振るって国家の立て直しに成功する。だが董卓を欠いた事による国政の失速は明らかであり、そこを激しく糾弾して清流派の跳梁を掣肘した。
 
 その後、董卓の復職を願ったが彼女はそれを拒み、長年の友である賈駆と故郷の土に還る道を選択して残った生涯を穏やかに過ごしていく。

 賈駆もまた、一時は董卓を再び躍進の道に立たせようと言葉を尽くしたそうだが董卓の意思は固く諦めて彼女と共に故郷に骨を埋める事となる。

 董卓の武官として有名な呂布と張遼は、連合の残党を族滅してからは長らく異民族を相手取る涼州近郊の最前線に腰を据えた。

 かつては武門の誉れ高い馬家が納めていたのだが、嫡子である馬超が連合に参加したおかげで処罰を免れなかった為にこの重要地を任せるに値せずと判断され、領地替え。当主である馬騰は永蟄居となり、衰退した家は馬超の従姉妹、馬岱が継いだ。

 馬家に替われる武将として請われたのだが、当人達も洛陽暮らしよりも前線の方が性に合っていたと見えて滅多な事では前線を離れる事は無かった。それは汜水関防衛戦で出番のなかった華雄も同様であり、彼女はかの大戦で武功のなかった鬱憤を晴らすかのように常に先陣で暴れ回り、異民族には鬼と同義で扱われる事になる。

 陳宮も生涯を呂布と共に過ごし、離れる事は決して無かった。

 孫家は袁術の治めていた江東をそっくり受け継ぎ、見事孫堅の代から失った全てを取り戻す。だが孫策は連合の残党を掃討すると、さっさと跡目を孫権に譲って早すぎる隠居生活に入ってしまう。

 乱は自分に、治は孫権にと言い残して気楽な風来坊生活を送りつつたまに小遣いをせびるような日々を送っていたそうだ。周瑜は孫権を補佐しつつも後進を育成し、後を任せられると判断してからは親友と行動を共にした。しかし彼女の後釜は誰も一人ではこなしきれず、最低でも五人は必要とされたと逸話が残されており後々まで復職の要請は途絶える事がなかったという。

 そんな彼女達の放蕩ぶりに対して割を食ったのが黄蓋で、彼女は最後まで孫家を支え続けた。そんな彼女にとっての最大の楽しみはたまに帰ってくる孫策や周瑜と酒を酌み交わす事であり、最高に腹立たしいのは人が働いているのを横目に昼間から大酒を食らっている孫策の姿だった。
 
 孫権と腹心である甘寧、周泰を始めとする次代の孫家を担う若手は順調に成長して家を盛りたてていく。しかし、孫権はかつて想いを寄せた敵将をいつまでも忘れる事が出来ず、最終的に孫家は末妹の孫尚香の子が継いでいく事になった。

 そんな彼女の一途な悲恋は物語としての人気が高く、後世の女性達の心を離さない根強い人気を誇っている。 
 
 反董卓連合に参加した面々は、当然のことながら悉くが処刑される事になる。袁紹、袁術を始めとして何進、曹操、劉備、馬超などの代表格は元より彼女らの部下も含めて一大粛正劇となった。

 彼女達は多くが有能な武官文官であり、有為な人材を失う事を惜しむ声も上がったが賈駆の“いかに有能なれど謀反人を生かすに値する能など無い”との強い要請により首を落とされる事になる。

 賈駆の要請のみならず、当の彼女らが敗戦により廃人と言っても差し支えないほどに極めて無気力な状態となっており惜しむ声も力を失ったのだが、ここで周瑜が目を引く言葉を残している。

 曰く“欲に溺れて信頼と忠誠に結ばれていた主従がこの上なく醜い骨肉の争いを見せた。彼女らの繋がりは断金であったかも知れないが、自らそれを砕いた。もはや彼女達には何よりも自分自身が信じられぬであろう。自分に自信を持って生きていた者ほど心がへし折れている。生かしておいても何も成し遂げられぬ”と記している。

 彼女の言う通り、黄巾の乱において特に高い実力と強い繋がりを見せたはずの劉備と曹操の主従は処刑場で顔を合わせてもまるで互いを恐れるように目も合わせられず、無抵抗で落とされた首には安堵の笑みさえ浮かんでいたと言われる。

 対して、袁家の主従は董卓に呪いを残して死んでいった。しかし、名門に相応しく毒酒を前にした際には潔く杯を呷ったという。

 何進は当時無位無冠であり、戦争中もただ従軍しただけである。その為恩赦の声も上がったが、当の何進本人が天下に身の置き所なしと辞退し袁紹と同じ盃で毒酒を呷って人生に幕を下ろした。かつて自分を助けた部下、袁紹との間に生まれた友誼故と人々が何進の潔さを褒め称えたのは皮肉だろうか。

 さて、こうしてほとんどが首を落とされ、没収された私財が漢を立て直す財源となった反董卓連合であるが、全員がここで人生を終えたわけではない。例外として途中で離脱した公孫賛は生き延びている。

 彼女は皇帝の前で安易な出兵をした不明と不忠を謝罪し、降格や領地没収を始めとする様々な処罰を受けたものの後年は逆境にもめげない地道で堅実な忠勤ぶりが評価され、幽州に元の鞘で返り咲いている。

 彼女の部下として趙雲もまた公私に渡り公孫賛を支え続けたが、復興に向けて治世に重きを置くようになった漢に一度反旗を翻した彼女は自慢の槍働きの披露をする場所もなく、日々鬱屈を溜めていたらしい。稀に市中に現われてやくざ者を相手に大暴れをする怪人、あるいは変人は彼女の変装だと言い伝えられている。

 さて、最後に天の御遣いの二人だが、汜水関の戦いを最後に二人とも行方不明となっている。北郷は汜水関で戦死したというのが公式の記録となっているが、死体は見付かっていない。極めて特殊な服を着ているのだから見つかりそうなものだが、暴走した兵士達に襲われたというので見る影もなくなったのだろうと言われている。

 木剣の御遣いは、いつの間にか消えてしまったと到って煮え切らない最後になっているのだが、当時まことしやかに囁かれていた噂話があった。

 涼州に戦後の混乱期にどこからともなく流れてきた奇妙な剣を使う男がおり、それが汜水関防衛戦において暴れ回った木剣の男だと言う噂だ。

 彼は近所の少年達に剣術を教えつつ、賊の類がでれば瞬く間に取り押さえて賞金を稼ぐという日々を送ったらしいが、そんな彼の元にはよく張遼や華雄、そして呂布までもが通い詰めて剣を交わしていたらしい。

 また、孫策や周瑜も隠居後はかなりの頻度で顔を出しており、半ば居候を決め込んでいたとも言われている。後々、彼女らは子供を産んだのだが相手はその風来坊であり、そして彼は一時期漢を騒がせていた後光がさす木剣の男と同一人物だと言われている。

 しかし、実は彼女らの誰一人として子供を産んだという記録は公式には残っておらず、恐らくは奇妙な噂を面白がった民衆の流した無責任な都市伝説の類だと思われる。




「当たり前だ」 

 思わず叫びたくなり、それだけは自重したが声に出すのは止められなかった。巫山戯ているにも程がある文章に思わず本を引き裂きそうになったが、物には罪がないので自重する。しかし、作者に出会った際には自重できる自信はないし、そのつもりも全く無いと胸を張って宣言できてしまうほどに俺は怒りに震えていた。

「色々言いたい事ばかりの話だが……特に何だ、最後のは」 

 みっともなくも不気味に独り言を呟くのも無理はない。ひたすら嫌われていた俺がどうして複数の女との間に子供を作れるのか。そもそも、そんなに無責任かつ無節操に腰を振りまくるような屑じゃねぇ。これを書いた奴は、北郷にもだが俺にも多大な悪意を持っているんだろう。

「それは、あの外史が続いたらどうなっていたかをシミュレーションした物よぉん。ちなみにご主人様の方は実際に起きた事の記録」

 気が付いた時には、巫山戯た本越しに渾身の右拳が突如背後に現われた男の顔面に突き刺さっていた。我ながら、理想的な腰の入り方をしたいい上段突きだった。

「ぼげべぇッ!?」 

 素っ頓狂と言うにも当てはまらないような耳触りな悲鳴を上げて倒れたのは、どこか見覚えがある……と言うよりも、忘れられないようなインパクトの固まりである一人の大男だった。

「なぁにをさらすんじゃ、こらあああっっ!」

「いきなりピンクのブーメランパンツ一丁の大男がしなを作って背後に立つ。殴る以外の選択肢には斬るか撃つしか無いだろう。嫌なら普通に顔を見せろ」

 バネ仕掛け人形のように勢いよく立ち上がる相手に、すっ飛んできた本と鼻血を避けつつ至って冷静に当然の事を言う俺だったが、相手は不満そうに唸った。

「まあ、その自業自得はこの際どうでもいいとして」

「よかないわぁ!」

「生きていたんだな、貂蝉。まあ、よかった」 

 かつて、トンブと組んで俺の美意識に多大なダメージを与えた男が、相変わらずの格好で堂々と立っていた。図書館という知性を育む為の公共施設に喧嘩を売っているとしか思えないような見苦しい姿だったが、彼は何一つ恥じる事がないと言わんばかりに胸を張っている。仮にも学舎で何を考えて肌色過剰の格好をしているのか。猥褻物陳列罪は確実に当てはまるだろう。

 そもそも、なんでここにいるんだ?

「それは学園長だからよ!」

「そういえば、不気味な胸像を見かけた気がするな」

 自分の像を堂々衆目にさらす神経は、こいつの見てくれの問題がなくなったとしても理解できん話だ。

「だぁれが二目と見られない悍ましい化け物ですってぇ!?」

「で、あんたが学園長だって事とどっかで見たような面子、それにこの不愉快な本にはどんな関連があるんだ? あと、俺を案内していた何進みたいな教師はどうした」

 俺が疑問を提示すると、瞬間湯沸かし沸騰器はあっさりと収まった。

「あの子は本当に何進大将軍よ。こっちに生まれ変わったの。今は私が代わるって言って、職員室でお説教の真っ最中」

「代役は選んで欲しいところだが……生まれ変わった、ねぇ」

 成る程、そういう事もあるだろう。我が身を持って知っているのだからよくわかる。問題なのは、それが集められている事だ。

「別に狙ったわけじゃ無いわ。そういう縁を持って皆生まれてきたのよ。外史にいた頃とほぼ同じ関係、立場を築いているわ」

「ふうん」

 それがこいつの仕業なら、とんでもない能力だな。どっかで拝まれていても不思議じゃない。

「偶然よ。私は巧い事立場を作って紛れ込んだだけだから」

「鵜呑みにはしないよ」

 不満そうな顔をしているが、元々付き合いのないこいつの本音など見抜けるはずもない。何事も疑ってかかるに越した事はないのだ。

「ところで、あいつら記憶とか冗談じみた馬力とかは持っているのか?」

「どっちもないわ。ただ、あそこまでじゃなくても普通に天才アスリートが出来るだけの力はあるし、記憶は無くても印象らしい物は残っているみたい、なんて言うの、三つ子の魂百まで?」

「あっているのか間違っているのか」

 おかげで曹操と袁紹は仲が悪いらしい。生まれる前からの筋金入りだそうだ。

「あと、性格や嗜好はそのまんま」

「嬉しくねぇな」

 どっかの面倒な猫耳や眼鏡娘を思い出す。下手すりゃ絡まれそうな気がするが、まあ適当に流せばいいだろう。そもそも関わるわけねぇし。

「全員いるのか?」

「今のところ、欠けている人はいないわね。ああ、でも年齢のせいで卒業した子もいるから。雪蓮とか」

「それ、真名だろ」 

「インパクトある名前を出したつもりなのに冷たいわね。こっちじゃ真名は本名よ」

 まあ、神聖だなんだと言ってもかなりいい加減な扱いだったからな。

「で、本命だが」

 す、と目を細めると貂蝉は一歩下がった。

「この不愉快な本はなんなんだ」

「え? そっちではずいぶん持ち上げられていたと思うけど」

 本気でわからないという顔をしている不気味生物に、仁王を突き付けたくなったのは理不尽な話だとは思わない。だから我慢などしない。

「こんな羞恥心を抉られるような本を書かれて、いつまでも大人しくしているほど俺に寛容さはねぇ」 

 チャクラがそれこそ実戦レベルで回転しているのを察知したのか、顔色が変わる。

「わ、わかったわよ! ちゃんと説明するから!」

 それが無難だろう。俺は無茶をした仕置きを受け、家族総出でコネまで総動員でしごかれまくった分、以前よりも強くなったという自覚があるのだ。

「それは封印なの」

「封印? 何を封じている。つうか、力は感じないんだが」

 魔法街などに行くと、たまに魔道書などを見る事もあるのだが悉くがおぞましい力を発散していた。酷いのになると、置いてあるだけでそこらの土が腐食していたものまである。比較すると、ただの本としか思えない。擬態しているようなたちの悪い本って事か?

「そんな、見ただけでわかるような強い力の本なんてそうそうあるわけないでしょ。封じてあるのは彼女たちの前世の記憶よ」 

「あ?」 

「封じてあると言うと正確じゃないわね」

 不穏当な発言に、時と場合によっては突きつけたままの得物をふるう事を考えていた俺だったが、一応は大人しく聞く事にする。

 つまり、彼女らに複数の前世がある事とその記憶が現代日本で生きるには問題がありすぎるから彼女ら自身が忌避したらしい。

「つまり、北郷が原因って事か?」

「あなたも五分の一くらいは責任あるわよ」

 北郷と言う人間を中心に、彼の選択次第で広がっていった可能性の世界。その全ての記憶が彼女らの中には存在し、すり合わせができていないのだ。

 例えば、Aと言う世界では自分達の中心にいた北郷がBでは敵対している。

 更に、Bでは恋人だった北郷がCでは他の女とよろしくやっている。

 そんな可能性世界の記憶が彼女らの中で混在して、何が何だか分からなくなっている。多重人格障害のようなものだろうか? 

「加えて、殺人や性行為なんかの人によっては大いに忌避する類の記憶もあるか」 

「こっちと向こうじゃ常識も価値観も違うものねぇ」

 平和な“区外”の住人として生まれた彼女らにとって、過去の自分達は素直に受け入れるには問題が多かったと言う事か。

「そうやって皆、折り合いをつけられない外史の自分を切り捨てたの。これはその依り代。結晶みたいなものかしら」

「呪いの本みたいだな」

「その呪いの切っ掛けになったのは、あなた達でしょうが」

 憤慨と言うよりもフンガーな貂蝉曰く、折り合いがつけられなくなったのは俺……と言うよりも妖姫一行が混入した外史の記憶が彼女らにとって耐えがたい物だったからだそうだ。ほとんど読んでいない恥ずかしい荘重の本に書かれているのは、北郷が全武将を孕ませるハーレムを築いている最後で終わるらしく、彼女らはそれを良しとして受け入れるらしい。

「ハーレムって……それを維持できる甲斐性があったとは思えんが。つうか、あいつが養われているだろ? あいつら皆、ヒモの下半身だけで何もかも良しとしたのか?」

 二股三つ股。目の前にいれば苛ついたりするかもしれないが、余所の話だったらどうでもいいと思う。だが、それは男の側に魅力以前の女達を守り養っていく甲斐性がある事が最低限の前提だ。守られ養われている側の北郷がハーレムなんぞ作った日には、過程を知らないから偏見なのを承知で言わせてもらうが屑と股が緩くて安い女共にしか見えん。

 まあ、モテている男に対する嫉妬があるのは自覚している。

 とまあ、この時点で俺はどん引きしたが、俺らの関わった外史ではそんな物は影も形も無い。いや、劉備一行はそんな感じかもしれないが。

 ともかく、あっちでは彼女らは妖姫の魅力に当てられてこれ以上無いあさましい痴態を曝しながら蝗よろしく殺到した。蝗以下なのは、お互いをつぶし合ったところだろう。あげくに、その醜態に失望した兵士達の怒りに呑み込まれた。それが彼女らにはトラウマになったらしい。

「だから、その事実を放り出したかったのね。結論がこれ。でも全部を綺麗に忘れるなんて出来ないから、過去の事が今の彼女らにも少しずつ影響を残しているわ。例えばご主人様に簡単に好意を抱いたり、逆に貴方にもの凄く嫌悪を抱いたり」

「なるほどね」

 すれ違った際に妙な顔をした二人組は、そういう事か。

「意外と平気な顔をしているわね。結構理不尽な話をしたと思うんだけど……」

「そんな事だろうとは思っていたし、好かれようと嫌われようとどうでもいいのが本音だ」

 好いた惚れたの相手とそんな事になったら、さすがに落ち着いてはいられない。しかし、そこまでの思い入れを持った相手がいなけりゃどうでもいい話だ。

「ちょっと! 婿に来いとか言っていた雪蓮ちゃんは!?」

「ちゃん付けに凄まじい違和感を感じるし、なんでお前がそのこと知っているんだとか聞きたいところだが……あいつ元々同性愛者じゃん」

 それなら祭の方がまだ気にかかるという物だ。それに、話を聞いたところによるとあいつらも北郷相手に皆まとめて子供を作ったとか言うくらいだし、そうなるといまいち連中の婚姻ってものは重みを感じないんだよな。繰り返すが、自分という女を安売りしているように思えてならない。

 ひがんでいるな、我ながら。

 自分でも分からないのは北郷がモテているのが気にくわないのか、それとも彼女達にとって婚姻や親になると言う事が軽いように思えてならないのが申し込まれて悩んだ男として気にくわないのか、判別がつかない。

 どちらにせよ、身勝手な事だと自覚はしている。それに、申し出をハッキリと断った俺には何かを言う権利はないだろう。

「嫌がらせなんかを積極的にされたら、話は変わるけどな」

 そうなったらどつきまわすくらいはするだろうと言うと、何故だか貂蝉は当てが外れたと露骨に悔しがった。

「なんて事……せっかくお返しが出来るいい機会だと思ったのに」

「……どういう意味だ」

 聞き捨てならないセリフだったが、貂蝉はとぼける事もなくむしろ声を大にして食って掛かってくる。

「だって、あの外史は結局壊れちゃったのよ! トンブちゃんもぜんぜん頼りにならないくせに依頼料だけガッポリもっていくし。ここに来るまでどれだけ苦労した事か……ちょっとくらい意趣返ししたっていいじゃない!」

 結局こいつは何をした。

「そんなに凄い事はしていないわよ。ただ、ご主人様のポイントが上がるような場面だけ残して、あなたのポイントが下がるような部分だけ残しただけ。おかげでご主人様はモテモテよぉ!」

「死んでこい」

 どか、と柄で喉を突いた俺は非道だろうか。先端で突き破らなかっただけ慈悲深いと思う。だが、人の心を弄ぶろくでなしはそう思わなかったらしい。

「ぐえほ、ぐぐぇほ! なんて事をするのよぉ! 私の美声が野蛮人みたく低くなったらどうしてくれるの!?」

 体格にはよく似合っている。服装と言葉遣いを改めろ。

「ぐぬぬ……いいわよいいわよ! こうなったら貴方の転入はウチに決定よ。せいぜい針の筵に乗っかり続ける青春を送らせるんだからね!」

「はあ?」

 何を言っているのやら、間抜けな事を言う。俺が断れば済む話じゃないかと思ったのだが、後日こいつはとんでもない奸策を仕掛けてきた事が判明した。試験免除に学費免除である。試験はともかく、学費はでかい。かくして俺は泣く泣く針の筵に座る事になった。

 おまけにあの腐れオカマ、人の事を漢の連中が雁首揃えているクラスに放り込みやがった。男は俺が一人だけ、隣のクラスに北郷がいるとか既にそれだけで針の筵だっての。

 さらに何処で聞きつけたのか、転入時の挨拶で言うまでもなく俺の前歴は知れ渡っていたようで、魔界都市の名前に教師も含めてやたら過剰に反応された。どうも思春期らしく歌舞伎町情報が行き渡っていたようで、俺のイメージにバイオレンス二割、エロス八割が乗っかった。おかげで下手すりゃ白い目どころか涙目で見られる事がある。

 そんな嫌われ者どころか怖がられ者な毎日を送っていた俺だったが、ぶっちゃけへこたれはしなかった。元々そんな程度でへこたれる程柔じゃ無い上に、家に帰れば俺を下には置かないリマがいる。

 彼女は俺の扱いを聞いてクラスメートと教師、そして貂蝉を殺そうとしたがそこは“区外”と言う事で止めてもらった。しかしそれだけで終わる彼女では無い。代わりにあれこれ手を変え品を変えて、そりゃあもう甲斐甲斐しくサービスし始めた。俺が羞恥心のあまり嫌がるラインを把握して絶妙なところを通っていく腕前に、これはいかんと背筋を伸ばして歩かにゃならなくなるほどの尽くしっぷりだ。些細な嫌がらせなんぞ歯牙にかける値打ちも無い。

 そもそも、俺には未来の式根夫婦を見守る仕事もある。彼女に目をつけたろくでなしは、一か月で十人を超えた。やくざがそれほど多くもない地方都市で、これはちょっと見逃せない数字だ。それこそ気を張らなければならん今、些事を悩んでいる暇なんぞない。

 彼女らの店が目に入る安アパートに引っ越したんだが、リマに護衛をかねてアルバイト店員をやってもらったのはぶっちゃけ失敗だった。元々異常に妖艶な美女がいるだけでも衆目を集めるというのに、そこに他に類を見ない野性的な美女が加わると来たもんだ。

 盛った連中が群れをなしてくるのは予想していたが、古典文学などに出てくるような微笑ましい少年の恋路などはまるきりないというのは世も末だ。古書店に不似合いな、日頃活字拒否症になっているとしか思えないような見てくれの連中が、本棚の前をいつまでも占領して、リマの胸や南風さんの尻を目で追っている。

 おかげで女性客が来ないかと思いきや、どっかで見たようなくるくる金髪チビやら猫耳フードやらが居座りやがる。

 貢ぐつもりなのか売り上げその物は好調だとリマから聞いたが、露骨に読む気のない連中が女性陣がレジ打ちの時だけ本を買いに来るというので店主は寂しそうだという。なんぞ手を打たなけりゃならん。

 学校でも噂になっている。

 式根という樽のような男が店主の小さな本屋にえらい美人が二人もいる。

今時個人経営の本屋なんて簡単に潰れそうだが、どうやら結構順調らしい。しかし、店主はやり手どころか見るからに涙もろいお人好し。繁盛している理由はさっぱりだが、その理由に四十すぎた店主と一緒になった妖艶極まる美女と店員らしい南米風の美女にあると言うのが専らの評判である。
 
 看板娘というにもでき過ぎだ。その内ストーカーやレイプ魔が寄ってくるかも知れんと真剣に危機感を覚え、そっちに頭を悩ます毎日である。もっとも、女性二人は強かに売り上げを稼ぎ、それぞれにボディタッチをしてきた痴漢は腕を捻り上げられて警察行き、イケメン気取りでナンパしてきた大学生や高校生は恥をかかさない程度に断られたりしている。中には逆上して実力行使に出てくる屑もいるようだが、リマに叩きのめされ御用になるのが関の山。
 
 店主もその内慣れてしまい、いつか大変な事にならないうちにと頭を悩ませているのは、いつの間にか俺だけになってしまった。心労が溜まるよりはいいのだけど、なんだかやるせない。

 ついでに、悩んでいるのは俺だけでは無いらしく意外と貂蝉も悩んでいた。と言うのも、頭が冷えるとさすがに俺にやらかした仕打ちを反省したらしい。しかし、ここで謝罪の上撤回するような潔さも無いようで。

 悩んだ末に、前々から予定していたトンブ襲撃を決行したらしい。阿呆かと笑って人形娘に通報したが、本当に笑ったのはその先で、そもそもトンブの家までたどり着けずに妖物に追っかけ回されていたらしい。

 何故だか回ってきた俺へのエマージェンシーに馬鹿馬鹿しくなりながらも救援にいった俺は、お人好しの間抜けと屍刑事に呆れられた。行かなければきっとドラムが唸っただろうに、理不尽な話だ。

 その後、相変わらずの格好をした貂蝉と一緒に歩くなどゴメンだったのだが尻に双頭犬に噛まれた傷を残したオカマに涙付きでしがみつかれ、悲鳴と共に同行を承知してしまった。そこからタクシーが捕まるまでの三十分は、いっそ殺してくれと言いたくなるような苦行だった。

 その後、ご主人の妹君を狙う輩を懲らしめるべくスタンバっていたのに肩すかしを食った人形娘が学校に乗り込んできたのだが、そこで彼女は封印の本を二冊ともぶっ壊して記憶を開放してしまった。

 彼女曰く。

「殺された方々の事を、殺した者が心を平穏にする為に忘却するなど許されない事です。例えいかなる理由があろうとも、そんな物は殺された被害者にとっては全く意味がありません。それが己の欲の為であっても、それが他者の夢や希望の為であっても何も変わりません。そして、死者は忘れない。当たり前の事ですわ」

 返す言葉もなく、被害者の事を忘れていた自分を恥じる事頻りであった。阿鼻叫喚の悲鳴の中で一際大きな野太い悲鳴を耳にして、ようやく納得した人形娘は鴉をお供にとことこと去っていった。

 女達は一週間ぐらいかけていろいろと折り合いをつけた出来たらしく、どこか落ち着きに欠ける顔をしていたが欠員を出さずに登校してきた。事後処理に追われる貂蝉は、これ以降“新宿”に関わる事を一切合切拒否するようになりトンブとの因縁は彼から見て泣き寝入りに終わる。

 その後、俺の人間関係は大した変化はなかった。まあ、当然だな。元々仲の悪い相手がほとんどだから、記憶が解放されようがどうしようが何も変わらん。

 変わったの北郷で、あいつは周囲の人間関係が荒れ始めた。それも当然と言えば当然の話らしい。

 彼には俺が関わったのも含めて四つの世界を生きた記憶があるが、それぞれの世界で立ち位置が大きく変化している。そして、それは人間関係に関しても同じ事だった。
A世界とB世界とC世界でそれぞれ別々の集団に属し、所属している集団以外に明確に敵対して、更に所属していた集団の女達を悉く孕ませたりしている。なるほど、修羅場になるのは当然だ。つまり、貂蝉の危惧していた通りって事だな。

 今の彼は片方では蝙蝠扱いされ、もう片方ではやたらベタベタとされている。ベタベタしてくる方に集中していればいいのだが、どうも他の女達にも未練があるらしく火に油を注ぐ騒ぎを起こしているのだ。

 まあ、どうせ最後は全員モノにして終わるだろう。全員まとめて喰っちまった記憶もあるという話だから、たぶんそういう形に纏まるだろうな。

 どこからどう見ても最低の所行にしか見えないのだが、当人同士が納得して俺を巻き込まないなら、どうでもいい。

 それよりも、俺には切羽詰まった現実的な問題があるのだ。結末の見えた陳腐な話に付き合う余裕は無い。

 何しろ学生なんぞをやっているおかげで収入源が激減し、懐が寂しい手元不如意だからな。学費が免除されたからと言って、日々の生活があるんだよ。間違ってもリマのバイト収入なんぞに手をつけられん。

「だから俺は今忙しいんだ。油売ってないで、とっとと北郷を口説くなり押し倒すなりしてこい」

「冷たいやっちゃな。知らん仲でもないやろ」

「そうよねぇ、子供まで作った仲なのに」

と、学校図書館のインターネットを使って手頃な賞金首を探している俺だったが、最近はおかしなのに絡まれているようになった。

 張遼改め霞、孫策改め雪蓮。

「あいにくと、そこまで北郷一刀に執着はしない。私は蜀の面々や蓮華殿達ほど彼に強い気持ちを抱いていたのかと言われると疑問だし、正直に言えば立場が違えば仕方がないとは言ってもあれだけ言う事やる事が変わってしまったら幻滅くらいはするものだ」

「それに儂は魏に参陣したアレのせいで討ち死にしておるしの。戦国の世の習いとして恨みはしないが、さすがに今さら情を通じようとは思わん。まあ、子供は惜しいがこれから先にも産む為のチャンスはある。何しろ、お主との間でも結局あの子は生まれたのだからそれで良しじゃ」

「雪蓮もそうだが、あのゲテモノが勝手にやったいい加減なシミュレーションの結果なんぞ鵜呑みにするな!」


 周瑜改め、冥琳。黄蓋改めて祭である。

 他には董卓改め月と賈駆改め詠。陳宮改め音々音と付き添いの呂布改め恋、名前が変わらない華雄までいる。

 こいつら、最近は帰宅するまで図書館で捜し物をしている俺の側になんだかんだで現われるようになったのだ。理由は詠曰く、あんたの側にいると面倒ごとが減るのよとの事。俺は魔除けか避雷針かどっちだ。

 北郷争奪戦で脱落した組らしいが、それでもたまにちょっかい出してくる北郷との関係は良好なようなので、最後はなんだかんだで纏まると思う。だから最初からあっちに行け。
「ご挨拶ねぇ。こんな美女がくっついているのに」

 雪蓮が肩に肘を置いてくる。こいつらが左右の席を占有している事もあり、周囲の視線が痛くてたまらない。

「図書館は本を探したり読んだりする場所で、べたつく場所じゃない」

 時と場合って言葉を知らんのか。そもそもお前、卒業生なのになんでここにいる。

「あー、それ聞く」

「今の雪蓮はいわゆるニートだから暇人なのだ」

「せめてバイトしろ」 

 後ろで本を読んでいた冥琳が嘴を挟んでくる。ちなみに、読んでいる本は三国志。すっげぇシュールだ。

「だからここにいるんじゃない」

「あ? おい」

 目の前で年を食った猫みたいな顔をしているこいつじゃないが、嫌な予感がした。

「行ってみたいなぁって、魔界都市♪」

「観光なら相応の会社に行ってこい。“新宿”にもツアーガイドは一山幾らでいるが、玉石混淆で大体が石だ。世間知らずの小娘なんぞあっと言う間に歌舞伎町に売り出されるか妖物の餌が関の山だから、きっちり吟味しろ。相談になら乗る」

 鬱な予感を押しつぶすのに早口でまくしたてたが、この馬鹿がそれで止まるはずが無い。

「違うわよぉ。私もデビューしたいなぁって思って」

 いかにもかるぅく考えていそうな脳天気の見本がそこにいた。むしろ、底にいた。

「賞金稼ぎの」

「お! 面白そうやン!」

 馬鹿が一人増えた。

「霞、本気?」

「むしろ、正気かどうかを疑うのですぞ!」

「止めた方がいいですよ、おっかない話しか聞かないです」

 心配ではなく呆れを前面に出した二人に、心配そうな常識人が一人。どうでも良さそうに黙々と動物図鑑に見入っている一人。

「せやかて面白そうや。妖物とか幽霊とか、超能力者とか魔法使いとか一杯おるんやろ? しかも、そういうのにも恐れられるような武術の達人とかもいるっていう話や」

「む、それは確かに面白そうだな」

「馬鹿が一人増えたわね」

「誰が馬鹿だ!」

 毎度雪蓮と喧嘩をしては俺や恋に取り押さえられている馬鹿も興味を示してしまう。

「それにほら、あっちには余所には無い本とかも一杯あるって聞いたわよ。科学の本だけじゃなくて魔法の本とかも多いそうじゃない」

「……確かに、ありとあらゆる知識の最先端とは言われているな」

 釣られるなよ、そこの保護者兼恋人。お前が止めずに誰が止める!?

「……そう言えば、まだ呑んだ事が無かったの。“新宿”焼酎」

「妖物含有率がドンだけあると思っていやがる!」

 諫めるどころか馬鹿を言っている最年長者に、そろそろ手を出しても構わないだろうかと自分自身に相談してしまう始末だ。

「ちょっと待ちなさい」

 事の発端が、偉そうに盛り上がる全員に向けて手を上げた。

「いつの間に観光話みたいになっているのよ! 違うでしょ。これは私が賞金稼ぎとしてデビューする為にはどうするべきかっていう話なんだから!」

「全く、雪蓮は怖い物知らずの上にでたとこ任せだからな。一体いつ思いついたんだ」

「昨日」

 別段普通の事というしれっとした顔の女に二の句が告げられなくなった俺だが、女共は慣れた様子で騒いでいる。

「全く、正真正銘の思いつきでは無いか」

「よくそれで世の中渡っていけるわね」

「渡っていけていないからニートなのです!」

 豊満な胸に何かが突き刺さる音がしたが、最もなので気にしない。

「まあ、面白そうではあるがな。魔界都市とやらに私の武を披露してやるのも」

「危ないよぉ」

「大丈夫やって、やってみれば意外と何とかなるモンや」

「そうそう、物は試しって言うし」

 かしましいのも通り越した喧騒に、俺は自分の底で何かが切れる音を聞いた。ここが図書館だという意識が最後のブレーキだったが、それを吹っ飛ばす最後の一言に背中を押された。

 無言で立ち上がると、精一杯に杯に息を吸い込んだ。

「ざぁけんな、クソガキどもがぁあっ!」

 出入り禁止になってもおかしくない罵声に、無関係で迷惑そうな顔をこっちに向けていた男女が全員のけぞっていた。

 それから一か月後。

 俺は何故だか漢に関係する連中を残さず乗っけた観光バスに不機嫌の見本な顔を晒していた。

 馬鹿共の馬鹿話を大馬鹿が聞きつけてしまい、しかもそいつは大金持ちだった。そういう事だ。金に物を言わせて魔界都市観光ツアーなんて物を企画した馬鹿の顔面に全力でアイアンクローを噛ましただけで済ませた事を、今は後悔している。つうかてめぇら、トラウマは何処に行った!?

「仕事の口を紹介してくれた事は感謝しているが、その死にそうな顔は何とかならないのか」

 外道棒八は一見すると七三分けのサラリーマン風な男だが実は“新宿”でも数少ないガイドA級ライセンス保持者だ。“最危険地帯”を案内する許可まで持っている男はおいそれとはいないが、同時に名が性格を表す見本でもある。名前の読み方は“とみち”なんだが、そう呼ぶ奴はまずいない。外道で忘八が本名だと付き合いの長い相手ほど本気で信じているといえば、頭蓋骨の中身がドンだけよどんでいるかが自ずと知れるだろう。

「そっちこそ、胃痛で死にそうな青年に向かって嬉しそうな顔をするのは止めやがれ。今日の俺は客だぞ、この外道」

「“新宿”にどっぷり浸かった観光客か。それよりも“げどう”と呼ぶな。俺の名前は“とみち”だ」

「日頃の行いが物を言うんだよ、こんなコースを作りやがって」

 この馬鹿、コース内に俺の知り合いの家ばっかり組み込んでいやがる。秋せんべい店や魔法街はともかく、メフィスト病院も“新宿”警察も観光地じゃねぇぞ。こんな所で土産を買えってのか。

「おまけに“危険地帯”まで観光する気かよ。世の中舐めまくっている頭のおかしい小娘共がそんなところにいったらどうなるか、察しがつかないほど惚けているわけじゃないだろが」

「スポンサー様の希望だ。これでも“最高危険地帯”は何とか避けたんだ。こっちこそ胃が痛いんでな、お前さんには期待している」

「ふざけんな! 前はもうちょっと客に対する誠意って物があったぞ。フリーになった途端にろくでもなさを仕事でも発揮しやがって」

 罵声は目の前の無責任なプロと、遠くで高笑いをしている大馬鹿に向けた物だった。

「いきりたっておりますなぁ」

 飄々とした雰囲気をつくった星がメンマの瓶を片手に近付いてきた。

「それほど心配されるような事もありますまい。これでもかつては腕に覚えのある者ばかりですぞ」

 自信満々の様子だが、そこには一体どういう根拠があるのか俺には見当がつかない。外道も一見愛想よさげだが内心は困っているのが分かる。何しろ、相手は安全を確保しなけりゃならないお客様だからな。

「星! そんな奴と話してないでこっちに来いよ!」

「おや、相変わらず北郷殿は工藤殿を気に入らないと見える」

「ヒモがうざったいから、とっとと向こうに行ってくれ」

 向こうで爽やかな顔をしつつ、器用に目だけが俺を睨んでいるハンサムが星を呼んでいる。彼との関係は、概ね悪化の一途を辿っており、あいつにとって俺は邪魔者で雪蓮を筆頭に自分の仲間と書いて愛人と読む女を誑かしている悪人なのだ。俺にしても下手に出る理由も仲良くしてやる謂れもない。一度難癖をつけてきたのを叩きのめして以来、お互い思いきり疎遠になったんで問題ないけどな。問題があったのは、あいつに熱を上げている女共の強襲だ。返り討ちにするも面倒くさくて嫌になる。

 それにしても、こいつらの脳天気さ加減には頭が痛くなる。一応戦国時代を生きた連中だろうに、外道が事前に渡したグッズの中で最も注目しなければならない《危険地帯において、ガイドの指示から少しでも外れた場合の生命には責任を負えません》と言う文句を流していやがる。さすがはこの世で最も怖い物知らずな生き物だ。

「何人生きて帰ってこられるやら」

 妖姫の事さえ綺麗さっぱり忘れ去ってしまっているようにしか見えない脳天気共に向けた俺の言葉は、ニヤリと笑う外道以外の耳には届かなかった。 

 そして一週間後。

「予想通り、最終日まで持たなかったな」

 俺は人がごっそり減った教室で、死屍累々の面々を眺めてため息をついていた。

 結論を言うと、全員生きてはいるが無傷は一人もいない。多かれ少なかれ相応に肉体に傷を負い人生に傷を背負うようにもなった。

 具体的には、無思慮かつ無秩序に行動した結果妖物の餌食となりメフィスト病院に担ぎ込まれた者が全部で六名。 

 同じく考えなしな行動でヤクザに攫われてヤク漬けにされてしまい、メフィスト病院に担ぎ込まれた者が六名。

 “歌舞伎町”に入り込み、三十分で客をとらされそうになったりした馬鹿が三名。娼婦の振りをした妖物に吸精で殺されかけた奴が一名。“新宿”焼酎を始めとした酒を呑んだおかげで不定形生物になりかけて、メフィスト病院に放り込まれたのが四名。

 魔道士に攫われて人体実験や生け贄に使われ、ガレーン・ヌーレンブルクの元に担ぎ込まれた者が二名。そのヌーレンブルク邸で魔道書を勝手に読もうとして心神喪失した挙げ句消滅しかけた者、それに巻き込まれた者が七名。

 流砂や迷路、地下遺跡などで行方不明になりかけた者、三名。

 菓子に釣られて誘拐された大馬鹿が二名。奪還しようと勝手な真似をしてミイラ取りがミイラになる、を地でいった恥ずかしい奴が二名。

 “新宿”警察で問答無用に射殺された犯罪者を間近で見てしまい、失神した奴が三名。

 付き添いで行った病院で見かけた白い医師に発情した挙げ句、この上なくバッサリと切られて衝動的に自殺を図った者、五名。秋せんべい店で、店長の気を引く為に店の商品を買い占めようとして他のお客にリンチされた阿呆が一名。黒い魔人を相手に恋煩いに落ちた者、残り全員。 
 
 誰が誰かは想像にお任せだ。

「まとまってりゃ最初の一人で済んだものを、どいつもこいつも好き勝手に分散しやがって……おかげで全滅コンプリートしたじゃねぇか」

 今ここにいるのは、せつらの顔を思い返してはうっとりとする連中がほとんどだ。皆そうなれば楽だったのに、来訪をツアーの中日に合わせられていたので人が減る減る。やたら風通しのいい教室で、何とか全員の命と最低限の尊厳だけは守り切って疲れ果てた俺は机の天板にクラゲのように突っ伏す。

 外道の奴もくたくたになっていたが、俺が張り切ってくれたおかげで少しは楽だったと笑っていやがった。だったらバイト料をよこしやがれ。

 そこのせつら、お前も大もうけなんてぬけぬけ言うな。堅焼きの値段がいつの間にか十倍になっていたのは見たんだぞ。口止め料よこせ。

「帰ってくるまで静かなのが、せめてもの救いだな」

 代わりに、帰って来てからが面倒だ。お前に助けられるくらいなら死んだ方がマシだと喚いていた幾人かを思い出し、なんであんなのを命がけで助けなけりゃならないんだと巡り合わせの不幸を呪った。

 精神的に老け込んだ気分になっていたが、いつまでも落ち込んじゃいられねぇと身体を起こすと鞄から数枚のカラープリントを取り出す。十日ほど前、雪蓮が阿呆な事を言った際にプリントアウトしておいたとある賞金首のデータだ。

「衛宮、遠坂、間桐ね……ふうん、どこかで聴いた事があるような無いような」

 その中に幾つか記憶を刺激するような名前があったが、ハッキリとは思い出せなかった。さて、一体何処でだったろうか。

「魔術師……ここはガレーンさんの所に話を伺ってくるか」

 馬鹿騒ぎのおかげで精神的にくたびれてはいるが、学生生活で鈍った心身にいい鞭が入った事は確かだ。ここで逃さずに、生活費稼ぎに行ってこようかね。

「冬木、海沿いの街か……リマと一緒に、行ってみるか」

 海で生まれ育った彼女に、大海原と再会する機会を捨てさせるわけにはいかない。いい機会だし、旅行もかねて気楽に行ってみるか。

「それとも、こっちの悪魔崇拝者、アーカム? こりゃまた、絵に描いたような悪人面……アメリカか。そう言えば、ニューヨークにリマを留学させようかと思っていたっけ。これもいい機会だな」

 そんな安っぽい気持ちでいた俺は、漢での劉貴との勝負を経てかなり自惚れていたんだろう。どうせ学究肌しかいない“区外”の魔道士なんぞ大した事は無いとたかをくくっていた。

 だが、そのツケは払う事になる。

 人の形をした兵器としか見えない英霊という奴らや、神話から身を乗り出してきた悪魔共によって絶え間なく潜らされる死線に悲鳴を上げる事になるとは、思ってもみなかった。

「はあ……それにしても疲れた。どっかで骨休めしたいものだな」

 どこかで鳴いているトンビの声が、クラスに漂う間抜けな空気を笑っているように思えて、ため息が出てくるのを堪えきれなかった。










 皆様、この遅筆に長らく付き合ってくださり、真にありがとうございます。完結は初めてなので、感無量。

 これにて、この物語は完結です。今後、冬弥君がどうなるのかは私にも分かりません。

 雪蓮や冥琳、祭達と一緒に賞金稼ぎの会社でもやるかも知れない。

 あるいは“新宿”警察で新米魔界刑事となるかも知れません。

 それは未だに分からない未来です。
 
 とりあえず、次も苦労するのは間違いないでしょう。型月は下手に書くととことん叩かれまくるので、正直書ける自信も無いんですが、一番しっくりくる出先が冬木でした。
 
 四次でも五次でもそこそこ活躍して、一杯苦労するんでしょう。他の候補地は、せいぜい悪魔も泣き出す男やスタイリッシュ痴女が悪魔や天使をJACKPOT! な世界。
 
 しばらくはなろうでオリジナルを書こうかなと思っているので彼に会う機会はないのですが、どこかで出会ったらまたよろしくしてやってください。

 最後にもう一度、皆様ありがとうございました!


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